作り物の気持ち いつもいつも視線を感じていた。
別に不快なものではない。なぜ見られているのかはずっと気になっていたが、特になにも言われないので放っておいた。
「ま~た、主さんソハヤさんのこと見てるよ。全く、モテモテだね~」
ニヤニヤとした乱の顔と言葉にいまいち理解が追いつかない。今日は粟田口によるおやつの作法の会である。みんなで楽しく、正しく、おやつを食べようとのことで、秋田が誘ってくれた。新刃には必ず一度は声をかけるそうだ。今日は一期がいないが、鳴狐が参加しており、時々目が合う。戦闘時とは違う、にこやかな視線がくすぐったかった。
「モテモテってどういう意味だ? 顕現したばっかで様子を見てるんじゃないのか?」
「えー! そんな風に思ってたの? いくらなんでも鈍すぎじゃない!?」
「これは大将も苦労しそうだなぁ」
乱と信濃にやんややんやと責められて、困っていたところに薬研が助け船を出してくれた。
「これはなかなか楽しみ甲斐があるってもんだろ」
違う、これは伏兵だ。
こういうことを言われるのは初めてではない。
初日から主の視線を感じて、だが審神者の力で顕現しているのでそこはかとなく嬉しさを感じたり、照れくささが勝るくらいだ。こっちから声をかけようとしても主はすぐに執務室に引っ込んでしまう。
事務作業が色々あるらしいが、それを手伝えるのは主が誇る初期刀・加州清光だけだという。そしてその傍には影のように静かに小夜左文字が寄り添っているのが常だった。向こうからこちらを見ることは出来るのに、こちらからは視線が届かない。それはなんとも奇妙で、少しばかり、固いものが身体の芯にあるような気分にさせた。
「今日も麗しの姫君が君を見ているぞ」
「からかうなよ、主が聞いたら怒るぞ」
「ははは、聞こえやしないさ」
そういってカラカラと笑うのは鶴丸国永だ。顕現当初、主に「人間」の身を通して様々な経験をしてほしい、と言われたのでなにをしようかと思っていたところソハヤに声を真っ先にかけたのが鶴丸だった。やることが思いつかないなら俺と一緒に来い、というから素直についていけば、いろんな仕掛けを作らされたり、いたずらを張ったり、畑当番を手伝わされたり、馬の乗り方を教えてもらった。もちろん手合わせだっていっぱいやったし、漫画の読み方や風呂の入り方、雲の動きから読む明日の天気まで、ソハヤが毎日を楽しく過ごせたのは鶴丸のおかげと言っていい。
ここで最初に顕現した太刀だという鶴丸は主を孫のようにかわいがっていた。
「あんな視線で誰かを見るような娘に育てた覚えはないんだがなぁ」
「あんな視線ってなんだよ。大体主を育てたのはアンタじゃないだろ」
どんな視線かよくわからず、釣りをしながらオセロをしていたが、次第に集中力は低下していく。あまりにもいい天気で気持ち良すぎて寝てしまいそうだった。
鶴丸は時々遠い視線をしては、ソハヤの知らない顔で笑う。その表情は「人間」そのものだ。
「おいおい、真面目にやれって。これも戦の練習だぞ」
「どこがだよ。こんな散漫な気持ちで戦が出来るか。まあ、でもオセロは面白いな。もっと駒が多いのはないのか?」
「盤上遊戯は厚が強いぞ。まあ、生半可じゃない。それでも良ければ黒田の刀に鍛えてもらえ」
そしてさっさと全く釣れない川から戻ると厚を二人で探し回った。後で聞いたら普通に出陣でいなかったらしい。後藤に「なんでいない厚探してんのかなって思ってた。ちょっと怖かった」と言われて少し落ち込んだ。教えてくれよと突っ込むとへらりと笑った。
「なんだ、そういうことか。だったら俺に任せてくれよ!」
そういって厚は意気揚々とドン! と本をいくつか積み上げる。
「なんだ、コレ?」
「まずはルールを徹底的に叩き込む。共通ルールがあるからそれを仕込んでそれから戦略だ。実践はそれから。とにかく大事なのは基礎だぞ、ソハヤ!」
これは、やっちまったかもしれねえ……。
そしてなにより鶴丸がソハヤだけを置いていったのは、絶対にコレが理由だ。
当初は将棋の駒を持て余しながら粟田口の一角を借りて本を読んでいたが、次第にのめり込むと早かった。次から次へと本を借り、連日厚と詰め将棋の練習をし、初歩から級を上げていく。
「あそこで飛車落ちか~」
「俺なら違う動かし方をしたな」
「駄目だ。それだと残りが五手で詰まる」
「いや、六手までは耐える。その間にこっちの桂馬を動かして……」
「ん~、悪くはないが、まだ甘いな」
「あ!」
厚とばかり遊んでいたら、厚に構ってもらえない他の短刀たちから不平不満を訴えられ、短刀たちの鬼ごっこやかくれんぼにまでソハヤも参加することが多くなった。
手が足りないと言われればかつてのように畑に顔を出し、厨の前を通りかかれば足りないものはないかと声をかけるといいところに来たと連行される。
あちこちで自分の顔を見て名前を呼ばれ、ああ、自分は「ソハヤノツルキ」と言うのか、と実感を高めていった。
「毎日楽しそうだね」
久しぶりに主と話した。
畑に、川に、山へ山菜を取りに、ついでに山伏と一緒に狩りをしたり、古備前の紅葉狩りに連行されたり、脇差たちに肝試し大会と称して裏山を追いかけまわされたりした挙句に暗くて見えないところで足を滑らせて大会唯一手入れ部屋の世話になったり、顕現してからあっという間だった。それらの毎日のことを言っているのなら、まあ、楽しい。
「まあな、楽しいぜ!」
だが、ここに「兄弟」がいたらきっともっと楽しかったかもしれない、とはうっすら思っていた気持ちだった。
なぜか、この時、急にそれを思い出したのだった。
楽しいのに、どこか寂しい。ようやくソハヤは「寂しい」という人間の感情の一端を掴んだのだった。
珍しくみんなと一緒に畑仕事をしていた主は、その両頬にいくつも擦り付けた泥ハネを付けて子どものように笑う。屈託のない表情は勝手に想像していた年齢よりも幼い。
主の真っ黒い髪に夕陽が映えて綺麗なオレンジ色に染まった。ああ、兄弟にも見せてやりてえなぁ。
「綺麗な髪だ」
そう呟くと、彼女は夕陽とは違う赤みに両耳を染めたと思ったら、自分の髪の毛をその泥まみれの両手で触って大きな悲鳴を上げた。そこにソハヤの笑い声が被る。
ああ、ここは、いいところだ。心からそう思った。
「兄弟かあ」
完全に師匠と化している厚と二日に一度「手合わせ」という名目で一局打つ。黒田の連中とも将棋で仲良くなった。長谷部の打ち方は捨てるところと戻し方が上手く決断の速さが対局するには最も苦手だった。日本号はわかりやすく見せかけてその実本心が見えにくい。厚は機動部隊の扱いが上手い。やいのやいのと四人で打つことも多く、時々小夜がお茶を淹れてくれる。ここの小夜は歌仙に仕込まれたお茶くみで右に出る者はいない。なにより審神者が小夜の茶を好んでいるからだ。
「ん? 小夜、茶葉変えたか?」
「うん。よくわかるね」
香りが違うだろう、と回りを見れば、全員自分を見ている。
「へえ、さすが徳川の刀。舌が肥えてんじゃねえか」
「いやいやいや、お前ら人間何年目よ」
「火薬の匂いとかなら結構判別得意なんだけどな」
「厚が最近ますます危ない方面に強くなってる気がするんだが、これいつか一期から怒られないか?」
「平気だろ。粟田口は軍隊だぞ」
で? と話題をもどすのはいつも厚の役目だった。大体日本号は適当に話題を逸らすし、小夜は本題に入ってこない。長谷部は軌道修正を面倒くさがる。織田の連中といると軌道修正してばかりいるので黒田でいる時は全部舵取りは厚任せにしているらしい。博多は将棋には興味がないのでこの時間には一緒にいない。盤上遊戯でさえなければどちらかというと博多のムードメーカーっぷりのほうが強いので、話題が移るとどこからかやってきてそそくさと日本号の膝を乗っ取るのだった。そしてその博多を時々奪うのが長谷部の楽しみだった。
「兄弟がどうしたって」
「兄弟って、どんなもんなのかなぁって」
「お前が落ちた時の連隊戦で拾えなかった兄弟分か。確か天下五剣だろ?」
「ああ」
天下五剣。
その名高い刀の兄弟とは。それだけで別に距離を取るような連中ではない。
「前田家にいたんだよな。前回大典太が落ちなかったって、前田と信濃が落ち込んで落ち込んで」
「知ってるよ、愛染もわざわざ後で俺にまで挨拶に来たぜ。次は絶対連れて来ような! ってなぜか俺と指きりしたよ」
「愛染はいい刀だろう」
「そうだけど。なんでお前がドヤ顔なんだよ」
愛想が良くないくせに、短刀たちからのウケがいい長谷部がなぜかニヤリと笑った。足が速いので鬼ごっこ要員の一人だが、安定、陸奥守と合わせて三人、全力で相手をしてくれるというので人気があるのだ。
「兄弟は、あんまり明るくはないんだよな。大丈夫かな、あいつ」
「まだ顕現もしてねえ兄弟の心配か。笑っちまうな」
「わかるよ。いち兄なんて大阪城の予定が出る度に布団を一式買うようになったもんな」
「それ、まわりまわってなぜか小夜の布団が新品になったんだろ?」
「うん、僕の布団が一番古いからって」
なんだかよくわからない流れに笑った。
「そういう時って、どうやって兄弟を待つんだ?」
「ううん、別になにをしているわけじゃないけど……」
「それなら簡単だろ」
「そうだな」
そこで名前が挙がったのが堀川だった。
*
「ああ、兄弟ですか?」
洗濯当番をメインで引き受けている堀川と話すには当然だが、洗濯を手伝えばいい。
程よく手伝っているつもりだったが、そういえば堀川とはあまり話したことがなかった。ここの初脇差は鯰尾で主との距離も近い。堀川は初期に顕現しているものの、まさに脇差の見本のように影に日向に縁の下の力持ちを地でいく刀だった。鯰尾があまり隠れる気がないのもあったが。
「まあ、どちらかというと僕は兼さんのほうが話題に上りがちですけどね」
そう言いながらも突然なんにも言わずに現れた山姥切国広は堀川になにも言わずに洗濯物をゴソッと持っていった。
「あ、それ、まだ棚に入れないでね。歌仙さんが厨用にほしいって言ってたから綺麗なやつ取り分けといて」
「わかった」
簡潔な返事だけするとすぐに出ていってしまった。隣の仕分け室らしい。
「いつもアイツは手伝ってるのか?」
「手伝ってるっていうか、当番だからね」
「あ、そうなの?」
それから毎日のように堀川のところに通って、『兼さん』の話を聞いた。その『兼さん』が洗濯当番を手伝いに来たことは本当に当番に割り当てられた日以外無かったが、山姥切国広と山伏国広は必ずどちらかが堀川のところに顔を出した。当番でも、当番でなくてもそこに理由はなくて、ただ「堀川」がいるから来ているというのが人情のなにもかもに疎いソハヤにもわかるくらいには。
指示出しも不要なくらい三人の間には言葉もなく、突然のイレギュラーだけを伝えるだけでいい。不要な言葉など交わす必要もない。
そのかわりに、堀川から和泉守兼定への言葉は山のようだった。「ねえ、兼さん」「あ、兼さん」「もう! 兼さん!」「待ってよ、兼さん」「だから言ったでしょ、兼さん」「やったね、兼さん!」、毎日何回言ってるのだろうか。ついには呆れたようなため息をソハヤがつくと堀川はいつも困ったように笑う。
「だって明日にはもう会えないかもしれないんですよ?」
そうか。
兄弟には、そういう縁がある。ここでしか出会えなかった縁であっても、繋がりがある。
互いを相棒と呼ぶ、元主を同じとした刀同士の絆のあり方は、ソハヤには理解がしきれなかった。その日はよく眠れなかった。
*
「意外と繊細なんですねぇ、ソハヤさんって」
「お前、ほんっと、失礼だな……」
物吉と一緒にジャガイモの皮を剥き続けて一時間ほどになるだろうか。なんの気無しに最近の話をしていると、脇差仲間だからか「なんで堀川さんのところに入り浸ってたんですか?」と屈託なく聞かれた。むしろ煽られてるのかと思った。昔からの顔馴染みということでか、やけに態度が周囲と違う。別にいいのだが、それならとこちらも遠慮はしない間柄になっていた。
「兄弟ってどんな感じなんだろうなって話してたら堀川がそんなこと言うからさぁ。俺たちもそれぞれ別のところで長いこと仕舞われてた刀だし、そんな上手いこと馬が合うようになるもんかねぇ」
「大丈夫ですよ」
「えらい簡単に言うな」
「うちだってバラバラボロボロ、苦労して揃った仲ですけど、別に普段は一緒にいませんよ?」
「言ってることが大層矛盾している気がするのは俺の気のせいか?」
あははは、と朗らかに笑う物吉を半眼で睨みながら、確かにここの兄弟は三者三様であると思いを馳せる。本刃の言うとおり、仲が悪いわけではない。それはよくわかる。
「でも、別にそれでいいんじゃないですか?」
「ふーん」
「粟田口の皆さんだって、向きはなんとなく一期さんが揃えているけど、実際にはアクの強い個性の塊でしょう。ただ、繋がりは微弱でもあるのなら、それは大切にしたほうがいいですよ。
いつ、どうなるかわからないんですから。僕たちは」
いろんなことを経験してみたが、みんなに言われるソレにだけは、結局実感を持てないままだった。
「いいのかい? 俺は坂上宝剣そのものじゃないんだぜ?」
「いいですよ」
思わず主の顔を二度見した。そんな俺の顔をみて、今度は主が笑いだす。
「私は坂上宝剣ではなく、ソハヤノツルキを手に入れたので」
「はは、そりゃ一本取られたな」
面映ゆい気持ちは、これまでになかったものだ。
口癖のようなものだった。毎回呼ばれるたびに言ってしまう。それに自身の「写し」という部分をちゃんと知ってもらいたい。どんな理由かわからないにしろ、あんなに熱心見られて勝手に多大な期待を背負わされても困るのだ。ソハヤは天下五剣じゃない。まあ、天下五剣の兄弟だって、むやみにでかい期待は御免被るだろうが。
「そうですね」
時々困ったような表情を浮かべる。
いつもこちらを見ている時とは違う熱のない瞳。ソハヤと話す時以外、他の刀たちとは楽しく談笑するのに、ソハヤの前では借りてきた猫のようになる審神者。この違いはなんだろうか。
俺が、写しだから。
なんでもそこに原因を求めれば気持ちは簡単に楽になる。だが、それが違うこともわかる。よくわかっていないけれど、わかっている。だが、心の底から思う。「写し」であるから、そして「写し」でなければ。
他の刀たちと同じように接してもらえたのだろうか?
「まあ、適当にがんばって帰ってきてください。
私は待っていますから」
「待ってる? 俺を?」
「ええ。当たり前でしょう。あなたは私の刀なんですよ。
どうか、ご無事で。写しであるというあなたではなく、ここに、私の刀としてやってきてくれた「ソハヤノツルキ」という刀の「あなた」を、あなたの無事を、待っています。
どうか、御武運を。いつでも、祈っています」
待たれる、とはどういうことか。
待つ側であった、自分を「待っている」という主。
今、兄弟を待っている自分とは別に、自分もまた、「待たれ」「祈られ」る側であるという。
衝撃だった。
この主は、俺を待ち、祈るのか。
なあ、兄弟。
話したいことがいっぱいあるんだ。ようやく理解した。
兄弟! なあ、兄弟! 早く、そう呼びたい! お前をそう呼んでそのモシャモシャの頭をグシャグシャにして笑い合いたい!
兄弟とは、どういう存在か。いや、本当にそうかなんてわかってなんていないけど、それでも、走り出したい衝撃がソハヤを突き動かした。そして本当に走り出した。
厚のように様々な視点から考えてなにかを支えてやれる力、鶴丸のように多くの経験を促してやれる余裕や経験値、物吉のように相手を慮るために様々な態度や表情をしてやれる度量、堀川のように明日に向かって出来ることを毎日着実に行っていく忍耐と信頼。
知らないことばかりだ。
知っていくことばかりだ。
お前に教えてやりたい、俺の知らない俺を。お前の知らないお前を、一緒に知りたい。
俺は、霊刀としての、守り刀としての価値しか分かっていなかった。
肉体を与えられ、誰かに待たれ、待って、祈って、祈られる。これが、人間なのか!
祈られる側ではあったけど、その御利益が本当に自分のものだったかは知らない。でも、ここにいると、全部自分の力で成さなければならない。
そんなすごいことってあるか? その全ての主体は「自分」なんだってさ!
これが、「生きる」ことなのかと、ようやくソハヤは本丸の裏山まで一気に駆け抜けて、てっぺんの通称「禿げいちょう」の木の根元にどっかりともう走れんと寝っ転がって空を見て、息が切れたことに笑いだして、一人で過呼吸になった。ぜえはあ、と長いこと息をついて、初めて意識して「呼吸」をした。まるで人間みたいにこの身を得てから当たり前のようにしていたのに、今日は知らないことばかりで、やっぱり「人間」は面白いと、肉体の不思議を思った。
それからのソハヤはいろんな刀といろんなことをして、兄弟の話をいっぱいした。いつか兄弟が来たときに、辛い思いや悲しい思いをさせないために、自分が出来ることをいろいろ考えた。
前田や信濃たちとも仲良くなったし、愛染とは仲良くなりすぎて明石にしょっちゅう睨まれるようになった。何回も「うちの子やで、あげまへん」とチクチク言われる。蛍丸はそんな明石を見つける度に「そういうこと言うから国俊が呆れるんでしょ」と正論を言った。
もうソハヤの錬度も最高位に達するという頃、大典太はやってきた。
自分の役目は、終わったのだとソハヤが確信した瞬間だった。
*
大典太が来てから、もちろん兄弟一緒の部屋にされたし、一緒に手合わせもすれば風呂も入るし飯も食う。大典太がソハヤの後を大型犬のようについてくるから一緒に過ごすことは多かったが、ソハヤの蒔いた種はちゃんと育っていた。
前田は大典太を慕う一振りで、ソハヤ以上にここでの暮らしは長い。いつのまにか大典太はソハヤよりも箸の扱いが上手くなっていたし、気がつくと布団を畳むのも、敷布を引くのも、ソハヤよりも綺麗に丁寧にできるようになっていた。教育がいい。
自分が知らないところで、どんどん変化していく。
いつか、ソハヤが受けた「人間」とはどんなものかという衝撃の洗礼を大典太も受けるだろう。
その時傍にいるのが自分ならいいとうっすら思いながらも、兄弟の周りにいる短刀たちの姿を思うと、そこに自分はいなくていいと思う。ただ「兄弟」だからという理由だけでそんな他人の決定打に同席する幸運を授かっていいものか。毎日のように大典太を呼びに来てくれる彼らにも悪い。ソハヤも一緒に行こうと声をかけられるが、三回に二回は断ってしまう。別に兄弟が来る前は自分が親しくしていた仲だ。小さい彼らはかわいいと思うが、修行を終えているものもいる上みんなここでの先輩である。まずは兄弟が確実な根っこをこの本丸に張ることが先決だ。大典太はそんなソハヤを見て、何かを言いたそうにしつつ、将棋は一緒にやってくれなかった。いっぱい誘ったのに。
以前と変わりなく厚と三日に一度対局しつつ、物吉と馬の世話や厨の下準備をして、時々包丁と一緒に甘味を食べに行く。そんな生活に不満はなかった。
その頃、審神者の言動が変わった。
別段全く話せないわけではないものの、仕事にかまけて普段あまり積極的に外に出ることのなかった彼女が、本丸の中をウロウロするようになった。いろんな刀に声をかけ、いろんなことをみんなと一緒にする。年に一回の収穫祭や、年末年始のように総動員で掃除をしたり準備をしたりするような時以外にそうやってコミュニケーションを取る姿を見るのは、ソハヤは初めてだった。
知らなかった表情を、自分ではない相手と話すときに見る。
あんなに自分ばかりを見ていたはずなのに、それだけでは当然なかった。当たり前だ。彼女はここの「主」なのだから。なにも自分だけが特別なわけじゃない。
まあ、結局俺は「写し」だから。
*
「俺が言うのもなんだが、主のアレは、それだけではないと思うのだが……」
二、三週間に一度、山姥切国広と一緒に酒盛りをする。酒盛りと言っても、静かな雨の夜に二人で徳利二本を分けあうだけなので、すぐに飲み終わってしまう。つまみは夕飯の残りか三池の部屋に常備してある乾き物。時々、気を利かせた堀川が簡単なつまみを作ってくれる。さすがに申し訳なくて酒はソハヤが用意するようになった。
いつから始まったか覚えてないが、いつだったか、一人で飲んでいる山姥切国広に声をかけたのがきっかけだった気がする。勝手に「写しの会」と呼び出したのは山姥切国広のほうだ。写しを気にしている割には雑な呼び方を自分からするのかと大笑いしたのがつい最近のようだ。この頃は自分のほうが「写し」を気にしている気配すらある。
「アレってなんだよ、アレって」
「アレは、その、主の視線のことだ」
「俺を見てるって? たまたまだろ」
なんとなく、今朝からずっと胸がわさわさしている。気候が崩れると体調が悪くなることがあるらしいと聞いたりもしたので、薬研に相談したが、そういう症例はないらしい。
兄弟にも話を聞いてみたが、特になにも感じていないという。
なにが原因なのかわからず軽く塞いでいたが、気にかけてくれていたのか山姥切国広に声をかけられ、酒が入ると珍しくも管を撒いた。
「アンタは聡いように見えて、案外腑抜けだ」
「お前が言うか」
「俺は写しだが、自分の立ち位置くらいわかる。
アンタだって、自分の霊力くらい信じたらどうなんだ。アンタの霊力は、江戸を守った霊力だろう」
思わず言葉に詰まった。もう酒もつまみもない。手持無沙汰に手に持った空の猪口を無意味に舐める。
「手入れ部屋で治るものでもなさそうだし、諦めて主に相談するんだな」
そういうと、一度気持ちが決まると行動が早い山姥切国広は俺の手から猪口を奪うと、さっさとお開きにしてしまった。
さすがにこの気持ち悪いままでは眠れない。
酒を飲んでた身で主に会いに行くのもバツが悪くて、ひとっ風呂浴びてから主のいる離れに向かった。幸いまだ主は寝ていないようだった。彼女の部屋に近づくに連れ、どんどん鼓動が大きくなる。わからない。心臓がわしづかみにされているような、だが、不快ではない。そうだ。忘れていた。不快ではないのだ。だが、何かが「わさわさ」していて落ち着かない。こんな気持ちは初めてだった。
「主」
部屋の外から声をかける。どうでもいいとあしらわれてしまうだろうか。こんな夜に女性一人の部屋に行くなんて、礼儀知らずだったか? 部屋を出る時兄弟には「幸運を祈る」と言われた。なんの幸運なのだろうか。
「っひゃい!」
「……入ってもいいかい?」
らしくない裏返った声に、思わず笑いが吹き出そうになったのを必死に耐えて問う。
「……どうぞ」
さすがに笑っていたのがばれていて、じとりと見上げてくる主は、少し照れくさそうにしていた。
*
知らなかった。人間の身体は、時に自分の思うように全く動かないことを。
主にこの気持ちを説明しようとしたが、口は勝手に明日の編成変更を頼んでいた。
主は俺の様子を観察しながらすこし考える素振りをしている。なにか思い当たることでもあるのだろうか。俺の瞳を見て、しばらく動きの止まった主を見て、不安を募らせた。こちらのはったりなど、お見通しだとでも言うように。だが、一度ついた嘘は、最後まで貫きとおさねばならない。
「これでも、主の守り刀なんでな」
ほんの少しの真実を混ぜるのが、ポイントだと、俺に教えてくれたのは鶴丸だった。
よくわからないこの気持ちを抱えたまま、部屋に戻る。
兄弟はすでに寝ていた。嘘か真か。鬼が出るが、蛇が出るか。
この「わさわさ」は、解決するのだろうか。
*
大当たりだった。
兄弟が中傷で帰って来た時には、帰城前の段階で気配の揺れが心臓に伝わって、何事かと思ったが、命に関わるようなものではないことはわかっていた。
それでも本丸内は久しぶりの検非違使による被害に、緊急で会議が開かれ、審神者もまた加州清光や小夜左文字たちと一緒に執務室に引きこもった。
ソハヤは、手入れ札を使われなにもかも元通りになった兄弟と一緒に部屋に戻る。
「なにかおかしいところはないか? 昨日からのあれはやっぱりお前の身になにか起こることの前兆だったのかなぁ」
「そんなわけないだろう」
「ったく、結構すげないよな、兄弟は」
部屋に戻るなり、兄弟は疲れたと言わんばかりにゴロリと部屋に寝転がる。もう戦装束の装備は外しているが、ソハヤたち三池の装束は現代服の「スーツ」に準ずるものらしいので、その恰好のままで寝るのはやめてほしい。シワだなんだとうるさいやつらがこの本丸にはいっぱいいるのだ。
「おい、布団引いてやるから、先に着替えろよ」
「なあ」
「ん? ほら、ジャケット脱げって」
「ん」
「かあ~。そんな図体で甘えられてもかわいくねえ。着替えろ! お前がでかくて邪魔で布団引けねーだろ!」
「っち」
さすがに自分で立ち上がりジャージに着替え始めたので、こっちはこっちで布団を引く。決して狭くない部屋だが、規定よりでかい野郎が二人もいると少し手狭に感じる。まあ、それというのも厚と一緒に色々買い集めた参考資料がかさばり始めたせいでもあるのだが。
「どうだった、近侍」
「はあ?」
「加州清光の『写し』をやっていたんだろう?」
からかうような口調。本当に仲が良くないとこのような言い方はしない。普段は兄弟のよしみで笑ってやるところだが、今日はなんとなく口がむずむずした。
「まあ、初めてのことだらけで、うまくできたかは知らねーけど」
「お前なら、大丈夫だ」
「見てもないのに、よく言うぜ」
「それでも大丈夫だ」
「はいはい」
「ソハヤ」
「お前なら、大丈夫だ」
なにが、大丈夫だと言うんだ。
それでも、兄弟があの下手くそな笑い顔を浮かべたので、めちゃくちゃに笑ってしまった。お前の笑顔のほうが大丈夫じゃねーよ。
その後、兄弟が風呂に行ってしまうとまるでそこを狙ってきたかのように主が来た。かなり落ち込んでいる様子だった。先ほどの兄弟のように伝わるかはわからない。
それでも、言わずにおれなかった。
「兄弟は気にしてないぜ。あれくらいなら大したケガでもない。そんなに気に病むな」
つむじの見える小さな頭に手の平をおく。脇差より少し小さいくらいの主。こんな小さな肩と手で、俺たちを生み、刀を動かし、戦争をする。それでも、多分平気だ。アンタは、きっと、大丈夫。
「大丈夫だって。霊力くらい、じゃんじゃん出して、力になってやるよ。俺も、兄弟も」
そうだ。あんなに頑張っているアンタのためになら、写しの身くらい、粉にして働いてやろう。
彼女に触れた瞬間、あのわさわさは感じなくなっていた。
*
それからなんだかよくわからないが、近侍の真似事を任されるようになった。
加州清光がなにかと色々頼んでくる。別に急ぐ用も、やらなければならないこともないし、彼女の傍にいると「わさわさ」は軽減する。さすがに近侍の時は視線がよく合う。
あの、どこか遠くを見て、なにかを探している視線を見なくて済むのは気が楽だった。目を見て、名前を呼ばれる。写しであっても「必要」とされているような、そんな気持ちになる。
「身体起こせるか? 痛み止めは?」
「もう飲みました……」
顔色はあまり良くないが、あんまり無理をさせてもダメだし、かといって本人の言う通りにやらせてもよくないという。とりあえず「じゃあ、薬が効くまで横になってろ」という折衷案を出したら、素直に頷いた。
詳しくはよく知らなかったが、女性というのは俺たち男士とはそもそも身体の中身が違うという。突然小夜と前田と平野に呼び出されて女性特有の体質について説明を受けた。
「いいですか? 決して、無理強いをさせてはいけませんからね」
「わかってるよ」
「主君は大体のことは大丈夫とおっしゃいますが、顔色が悪ければ横になってもらってください。そういう時は身体を温めて安静にするのが一番いいと伺っています」
「ふーん」
「まあ、最終的にはあの人が自分で決めるから。ちゃんと、話を聞いてあげて」
「はい」
そんな短刀たちからの指導は確かに役に立っている。
今日の仕事の配分を考える。この後加州が遠征から帰ってくるからそしたら少し相談をしよう。昨日主が作っていた資料はあと少しのはずだが、こちらで後を引き継げばいい。明日の編成と内番は中の連中で適当に回そう。畑当番以外は別段適当でも文句は言われないからだ。いつまでこの不調が続くかよくわからないが、長くて最長二週間、短いというか調子がいいと丸々二ヵ月近くはなにもない。まあ、辛そうな様子は当然見ていても面白くないので、早く良くなってほしいと願う。こういう時、兄弟の加護のほうが効くのではないだろうか? とつい思ってしまう。
そんなことを考えながら、なにか飲み物でも飲むかと聞くと飲むという。しおしおの状態なのに「ありがとう」と掠れた声で言うから、その声に一瞬ぞわりとしたなにかを感じた。それがなにかわからないまま反射で「どういたしまして」と答えたら、小さく笑われる。
「どうした?」
「いえ、『どういたしまして』っていつもちゃんと言うの、かわいいなぁって」
「え、かわ……?」
かわいい?
それは、いつも彼女が短刀たちと、そして加州清光にだけ言う言葉ではないのだろうか?
俺が? どこが? 彼女は、目が悪いのか?
じわじわと、耳が熱くなってきた気配が自分でもわかった。
「あー、もしもーし。イチャイチャしてるところ悪いけど、報告いいですかー」
加州が帰ってきてくれて助かった。
あれから容体は更に悪化した。別段月の物だし、死ぬわけではないので、痛ましくは思うが本丸全体も慣れている。結局仕事は適当に加州と手伝ったが、彼女の世話についてはお役御免で初期刀・初鍛刀とおそらく気兼ねしないのだろう平野に代わった。
まあ、野郎がいても出来ることなどたかが知れている。
こちらが気を使って色々なことをしても、彼女は適当に顔を赤くはするが、それで終わりだ。女性らしく扱えば照れくさそうに笑うし、ぞんざいに扱うと「もー!」と言って怒り出す。それがかわいいと感じるようになったのはいつからか。様々な反応が見たくて、そしてあの自分ではないものを見る視線を見たくなくて、自分にだけ視線が来るように、彼女の手を取ったり、仕事を一生懸命覚えてみたりした。
好きな将棋も一週間に一度がっつり厚とやり合うくらいになった。その頃には対局は一回で数時間食うようになってしまったので、あんなに毎日のように出来なくなってしまったのもある。覚えることがいっぱいあって手が回らないんだとぼやくと、厚は「守り刀の本分じゃねえか」と笑った。
そんなソハヤを見て加州清光はニヤニヤしたり、不機嫌になったり、親切だったり「自分で考えろ」と突き放されたりした。別に悪いことだとは思わない。そもそも加州の考えがわからない。
おそらく彼は主のことが「大好き」だ。その感情をソハヤは理解していないが、今ソハヤが感じている「見られたい」というのは加州が主に「かわいい?」と聞くのと似たり寄ったりだろうと察している。どうして主の傍を譲ってくれているのか、風呂に入ってもそんなことばかり考えて、少しのぼせた。
わからないことばかりだ。かつて、「わかった!」と理解して本丸の裏山を全力で走り抜けた時のような感情の動きは、あれから経験していない。
あの興奮は、喜びは、にわかだったのだろうか。次第に忘れかけてきた「わかった」という感動が紛い物のようにすら思えてくる。「本物」ではない、自分のように。
「体調は?」
少し湯冷めさせてから部屋に戻ろうとしたら、ちょうど主も風呂上りのようだった。つい、声をかける。
「ああ、もうほとんど大丈夫です。山場は越えたので……」
まるで大病のように言う。うっかり兄弟を枕元に置いておけと言いそうになったのを押しとどめる。
昨日会った時よりも顔色はよくなっている。仕事は詰まっていないだろうか。加州がいるから大丈夫か。なら俺がいる意味とは? 加州の代わりなら、俺はいらないだろう。病を治すことも出来ないし、ただ溢れる霊力を垂れ流しにしているだけの写しとは、なんのためにいるのだろうか。
モヤモヤした気持ちがまた胸の内に沸く。主と一緒の時にはそうなることは少なかったのに。ふと、その手になにか小瓶のようなものを持っていた。
「ドリンクです。鉄分を摂るための」
燭台切が用意してくれるんですよ、なんて笑いながら彼女は自身顔のあたりで小瓶をかざした。
小さな小瓶はなんだかマズそうな色をしている。小さな主の手の平くらいのサイズなのに、一口飲んだようで口は空いているが中身はまだ残っているようだった。へえとか、ふうん、とかなにか言った気がする。
簡単に奪いとれたそれはやっぱり軽くてこんなの一口じゃねーかと思ったら、そのまま飲み下してしまった。
「……なんか変な味だな」
気持ちがすさんでいたとは思う。風呂上りが原因ではない真っ赤になった顔に最近よく聞こえるようになった不思議な鳴き声みたいな「ひえ」という呻き声に、見せつけるようにして唇についた液体を舐めとった。
「早く寝ろよ。また明日行くから」
「ひゃい……」
俺を傍においてくれよ、とは言えないまま。
「……やっちまった」
「そうか」
「うわ~、やっちまった」
部屋に戻ったら、冷静さを取り戻していた。熱に浮かれていたのはどっちだ。風呂上りで逆上せた頭のまま、なにをしているというんだ。加州に見つかったら御法度どころではないのでは? それこそ近侍なんてもうやらせてもらえないかもしれない。ありうる。多いにありうる。
「兄弟」
「なんだよ……」
気持ちがどんどん萎えていく。兄弟がひいていてくれた布団に突っ伏してると、耳元ですごい音と熱風が来た。
「あっち!」
「髪を乾かせ。またひどい跳ね方をするぞ」
「お、おう……」
いつもやれといってもやらない奴に言われても……、と思うが、俺が毎朝髪型に四苦八苦しているのを知っているからそういうのだろう。長い溜息をついて、ドライヤーを受け取ろうとした。だが、なぜか兄弟は渡さない。
不思議に思って手を伸ばすと、そのまま俺の後ろに来て髪を乾かし始めた。兄弟が俺の髪を乾かすのは初めてだ。俺はしょっちゅう乾かしてやっているのに、そういえばやってもらうのは初めてだと気付いた。顕現初日、陸奥守が使い方を教えてくれた時に乾かしてくれた時以来だと思う。
「……俺は」
「……ん? なんか言ったか?」
ドライヤーで聞こえにくいのに、兄弟の唇が動いている。普段ならどんな声も大体聞こえるけど、さすがに今は聞き取りづらい。わしゃわしゃと髪をかき混ぜられて、後ろが向けない。
「お前は、もっと、自分を大事にするべきだ」
「なんだって?」
「お前は知るべきだ。
人が、俺たちが、ただ霊力によって、ここに存在しているわけではないことを」
カチリとドライヤーが止まっても、後ろを振り向けなかった。
ああ、もう、きっとコイツは知っている。「生きる」ということの衝撃を。その尊さを。
そして、きっともう、その先にいる。
「ソハヤノツルキ」
「……おう」
「お前は、お前を、そのまま、信じるべきだ」
「俺を?」
「写しとか、写しじゃないとか、霊力とか、関係ない。ただ、そのままのお前自身を、あの主は見てくれていたのではないのか?」
「俺自身を?」
そんなもの、どこにある。
俺だって、知らないのに。それを、誰がわかるというんだ?
「いつも冷静なお前が、そうやって自身を失うのは、いつも主が関わってる。
お前が軽率な行動をするのも、将棋よりも時間を取っているのも、考え込むのも、自分の身支度一つやろうとしないなんて、以前のお前にはなかっただろう。俺の世話までしていたのに」
「それは、そうかもしれないが……」
「そんなお前は、後退したのか?
そんなお前は、劣ったか?
前のお前より、悪化しているか?」
わからない。
この胸の、わさわさした感じが、なにかに繋がっている。それはなんとなくわかる。
主といればわかるかもしれないと思ったのに、なにもかもがハッキリしない。靄のかかったような気持が、霊力でも振り払えない。
「俺は、主をみてもわさわさしない。
お前が言いたいことはわかる。兄弟になにかあった時、霊力の震えを感じるし、俺になにかが起きてもお前も俺のことに気がつく。そうやって、俺たちは霊力で確かに「兄弟」として繋がっている。
でも、心は違うだろう。
俺は前田たちと過ごして穏やかな毎日の幸福を感じている。
お前は多くの男士たちの中で生の歓びを感じたんだろう。関わり方が違う。どちらも正解だ。間違ってないはずだ。
だって、そうでなければ、お前はこんなに悩まない。
お前は、今、生きて、考えて、全力で、霊力を震わせているじゃないか。戦でもないのに」
呆然としていたら、兄弟に軽くトンと肩を押された。足元は胡坐を組んだまま、ぼすんと後ろに倒れる。見慣れた天井がいやにぼやけて見える。
「俺は、今、生きてるのか」
「俺には、そう見える。俺なんかよりも、よっぽどな」
こんなに苦しいのに、俺を「生きてる」という兄弟の足を引っ張って、すっころばせる。その片手が顔面に落ちてきそうになって咄嗟に避けた。
「あっぶな!」
「兄弟が引っ張ったからだろう」
すんでのところでぶつからずに済んだ。二人で布団に転がって、笑ってんのか、泣いてんのか、よくわからなくなってきた。兄弟が俺の顔に枕を押し付ける。これで拭けということか。雑すぎてウケる。
生きるとは、ただ、喜びだけではないことを、ようやく思い知ったのだった。
*
それから、少し落ち着いた俺は、主の近侍を勤め続けた。
気持ちの整理がつくのはいつなのか。
主は俺を見てよく不審な言動をとるけど、その原因は依然として理解出来ない。俺に経験値が足りず、人間の感情を察せられない。それでも毎日一緒にいると喜んでくれることも、楽しそうに笑うことも、悲しそうな顔もわかるようになってきた。判別がつく。少し前の俺よりは成長している。そう思えるくらいには。
そんなある日、陸奥守に声をかけられた。
「ソハヤ、あいたの夜空いてないか?」
「明日の20時からだ」
補足のように肥前が続きを言う。なんでも、万事屋で手に入れた飲み放題の券があるらしい。土佐の三人と、適当に声をかけて同行するのは同田貫。最近一緒に飲んでないな、と話題になったらしく声をかけてくれたらしい。
「近侍の仕事の話も、いろいろききたいしのう!」
「ああ? そんなに面白いことなんてないぞ?」
「行けんのか? 予約がいるらしいから頭数だけは揃えてーんだが」
さすが脇差。甲斐甲斐しい。
「ああ、仕事は夕方には終わりだしな。同行させてもらうぜ!」
兄弟が人混みがあまり得意でなし、酒には別に弱くはないが、うわばみというほどでもない。この様子だと下戸の南海太郎朝尊も行くのだろう。それならひどい有様にはならなそうだ。
翌日、同田貫と洗面所で会った。「おう」と互いに挨拶して一緒に飲むの久しぶりだなー、なんて言いながら食堂に行く。
「お前、行って平気なのか?」
「ん? なにが? 兄弟には言ってあるから大丈夫だと思うが」
「んん、いや、そっちじゃなくて……」
不可解な表情をした同田貫の意味がわからなくて、首を傾げた。一瞬、視線を感じて、そちらを見ると、主と乱がいる。顔面を抑えている主の代わりに、乱がぶんぶんとこちらに手を振っている。
「なんだありゃ?」
「さあな。知ったこっちゃねーわ、もう……」
呆れたような声に、再度首を捻ると、ボキリと鳴った。
「で、え、なにそれ、もしかして、その子、それじゃずっとこのお兄さんと一緒にいるのお?」
かしましい女性の声が響く。隣に座った同田貫と肥前はずっと黙々と喰い続けている。そうなると彼女たちの相手は残されたソハヤ、陸奥守、南海で対応せざるを得ない。ありがたいことに南海は知らない者と話すのが好きらしくグイグイ来る女性たちの話をそれなりに上手く捌いている。一方で、想定外だったのは陸奥守がさっさと酔いつぶれてしまったことだ。機嫌良さそうに笑ってはいるが、会話の呂律は上手いこと回っていない。
「そうなちや、主が健気でいい子なちや~」
「おい、陸奥守、いったん水飲め、水」
さすがに肥前が助け船を出す。ぐらぐらと揺れる頭でヘラヘラと笑って、水を煽る。
「今日どうしたんだよ、陸奥守。普段ここまで弱くないだろ」
「今日は遠征周りっぱなしのところに、和泉守と前哨戦してきたらしいぞ」
「アホ……」
普段あまりこういう女性のいるような店に来ないので、どうすればいいのかわからない。酒を飲む手も止まっているし、飯を食う手もいまいち進まない。
彼女は、こんな化粧の匂いがしない。
さっぱりとした身だしなみ程度の化粧をしているのはわかるが、加州が時々言っている「アイメイク、いつもと違うじゃん!」とか「新しいリップ? へ~、いいな~」という会話はいつもさっぱりだ。
服装が違えばわかるが、それもあまり判別がついているとは言えないだろう。
唯一わかるのは、彼女の霊力が揺れた瞬間だけ。
最近気付いた。彼女は、ソハヤといると、心が動いている。ようやく、なにかの切れ端を掴んだような気持になった。
「で、ソハヤくんは、主とどこまでいったんだい?」
そう南海が言うと、肥前と同田貫が思いっきり噴き出した。
「きったね!」
「先生!」
「おい!」
「君たちだって気になってただろう? さっき陸奥守くんが言っていたとおり、主があまりにも健気でねぇ」
「はあ……」
女たちのニヤニヤが増した。
「お兄さん、ご自分の審神者様、どう思ってはるん?」
「どう? 主は主だろ?」
それ以外のなにがあるというんだ。両脇の不愛想二人からため息が出るとは思わなくて、さすがにそれには唖然とした。
「え、なんだよ、なんだってんだよ……!」
「いや、さすがに主が不憫になってきた」
「俺もだ」
「お兄さん、好きってわかってはります?」
「お、失礼だな! それくらいわかってるよ!」
「なら、好きの上は?」
「上?」
南海がニヤリと笑う。
「僕と同じくらいの情緒なのではないか? ソハヤくんはかなり情感豊かと聞いていたけれど、個体差は大きいんだねえ」
「個体差って話か、コレ?」
「好きの上って、なんだよ」
「お前は知ってると思うぜ。なんたって、この江戸の守り刀だったんだもんな」
「同田貫くんはさすがだね」
「愛、でっしゃろ」
「あい?」
突然がばっと起き上がると、がっはっはっは! と陸奥守の笑い声が響いた。
「おんしは、しょうまっこと、知らんがか?
わしたちが、人間からもろーた一番多くの感情をやが?」
じとりと見る陸奥守の瞳は、熱い。
ふと気づくと、みんな俺を見ていた。
そうだ、ここの女たちだって、元はなにかの付喪神だ。人間に守られ、生きながらえたものたちなのだろう。
あの肥前だって、俺を見てため息をつく。
「別に、無理して知る必要なんてねえと俺は思うんだが」
「まあ、主のために自覚を促してやってもいいとは一瞬でも思っちまったから俺たちゃあみんな同罪だ。諦めろ、肥前」
「ソハヤノツルキくん。
主が見ているものはなんだと思う」
「主が見ているもの?」
「いっつも、なにかを探しているだろう? 君はあれをなんだと思ってる?」
「……さあ、俺が知りてえよ」
っく、と思わず出てしまったという感じの肥前の笑い声がさざ波みたいに広がって、女たちもクスクスとそれに便乗した。
「そりゃあ、恋した女が、していることですわ。
ずっと、同じ、なにかを追いかけている。そんな一途な女の元に顕現して、みなさん、幸せものですねえ」
こい。
鯉ではなく。
流れからして違う。恋? は? 恋?
「主が? 恋!? 誰に!?!」
「うわー! お前が言うか!?」
「嘘だろ!? は??」
一気に責めたてられた。
*
結局、主の恋の相手が誰なのか、誰も教えてくれなかった。
それは本人に聞け、ということらしい。一晩中、自棄酒して、ようやく気付く。
あ、これは、おかしい。なぜ、自分が、自棄酒する必要があるんだ。俺は、なにを、どうして?
散々、肥前と同田貫に説教され、南海に爆笑され、女たちには女心を解かれた。最後結局飲み潰れた陸奥守は同田貫が背負ってくれている。俺も一人で歩ける状況ではなかったからだ。肥前も同田貫も酒は飲むが、無茶な飲み方をしないのが上手い。
頭痛がする中、明け方に本丸に戻ってきた。あんまりしない朝帰りにすこしソワソワした。ふと、視線を中庭に向けると、主がいた。
「主だ」
おい、と止めようとする肥前の声を無視して近づいた。主は、まだソハヤに気付かない。
「こんなところで何やってんだ。眠れなかったのか?」
「うん、ちょっとね」
「……そうか」
頭に手を乗せると、明らかな否定と拒否。
同時にすっと視線が避けられた。初めてのことだった。急激に、意識が覚醒した。
愛とは、恋とはなんなのか。
みんなは知っていたのに、俺だけ知らなかったのはなぜなのか。
愛を、知りすぎていたのだ。
深入りをこれ以上したいと思わないくらいに。
愛があるから写されて、その町を、時代を思って、霊刀として仕舞われた。
墓まで持っていく、というその言葉のとおり。
だが、恋とは。
俺は、今、もしかして、ずっと、「わさわさ」していたのは、これは。
「今帰り?」
「……ああ」
ソハヤの後ろを通っているだろう陸奥守たちに手を振っている。先ほどまでの落ち込んだ様子というよりも、気丈な振りをしている。
そんなやつれた肌だったか? 真っ黒い髪に、しっとりとした濡れ艶が朝もやけでかかっている。いつか、綺麗だと思ったのは、その髪だ。あれは、夕陽が綺麗なのだと思った。違った。きっと違う。今ならわかる。
その唇が、名を呼ぶのは。
その瞳が、見つめるのは。
その笑顔が、向けられたのは、一体誰だったんだ?
「なあ、アンタは」
「なに?」
「ままならない思いをしたことはあるか?」
俺は、一体、何を口走っているというんだ。
少し逡巡した後、主は口を開いた。
「あるよ」
「そうか」
「なあ、アンタは……恋をしたことは?」
「は?」
「恋って、どういうものなんだ?」
縋るような思いだった。嘘だと言ってくれ。今恋をしているなんて、そんな怖いことを言わないでくれ。
こんなにたくさんの刀がいる本丸で、もう俺みたいな写しを写さなくなるかもしれない。
あんたの傍にいれないのなら、俺に「生きてる」価値なんて、ない。
いや、あんたに恋をする俺なんて、きっと傍にいたら、いけないのかもしれない。
「恋って、うれしくて、たのしくて、ワクワクして、ソワソワして……」
泣きそうな顔で、なに一つうれしくも楽しくなそうに言う。
「うん」
「でも、時々怖くて、しんどくて、もう嫌だって思って、泣きたいことがいっぱいあって、ひどく傷つけられることもある」
傷つくのは、それだけ相手が好きだからか?
その先に、アンタの「幸福」はあるのだろうか。
なにを言えばいいのかわからず、黙り込む。
「……」
「あなたは? あなたは恋を知らなかった? そして、ままならない思いをしたことは?」
ああ、やめてくれ。
今だ。今知った。今思っている。
「恋なんて、知らなかったよ。
ままならない思いは、今している」
そのあと、どうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。
気付いたら、陸奥守たちと朝飯を食って、風呂に入って、兄弟に部屋で髪を乾かされていた。そして、思いっきり兄弟にため息をつかれた。
*
「おいソハヤ! 髪は長いのと短いのとどっちが好きだ!?」
「はあ? 藪から棒になんだってんだよ」
今日は昼から加州と交代での近侍だった。だからこそ昨夜飲みに行ったのだが。そういう日に朝飯を食って風呂に入ってから寝るなんて、本来なら最高の贅沢のはずだった。だが、今は胸のわさわさどころか、二日酔いで気分は悪いし、現実を直視できない。
今まで自分が無意識にやっていたことを思い返しては折れたいと思って、布団にますます潜り込む。
さっきまで兄弟と前田がお茶に誘ってくれたが、二日酔いだからと追い返した。
包丁が菓子を持って遊びに来たが、確実にばれてるのに寝ている振りをした。
おそらくその包丁が呼びにいったのだろう厚が、入口にも入らないで、じっとこっちを見ている。厚のお気に入りの碁盤を持って。
なんにもする気にならねえ。
俺は、なにをしているんだ。なにをしていたんだろう。
人間の感情とは、こんなにも、ままならないものなのか。
そんなソハヤを一切の躊躇なくたたき起こしたのは加州だった。
「どうしたんだよ、加州……」
「あ、午後、交代の予定だった今日の近侍はねーからな。主、体調悪いから今日部屋行くなよ」
「え、マジで。明け方会ったんだが、なんか様子がおかしかったんだよな……」
二日酔いだという体を全身に押し出すと、おそらくなんらかの事情を察しているのだろう加州が舌打ちを耐えた。
とにかく、よく理由はわからないが、主が突然髪を切ると騒いでいて、加州はそれを引き留めたいらしい。
あの黒髪が、なくなってしまうのは惜しいと思った。
だけど、その理由がわからない。
誰かに言われて? 誰かの好みに合わせるため? あの、ずっと見つめていた相手のために?
だったら、どれでもいい。
「どっちでもいいよ」
はあ? と思いっきり作っていないガラの悪い声が聞こえた。いつも主の前ではかわいこぶっている加州の、本気の声だった。ああ、もしかしたら、いや、コイツなら、主を任せられるのに。
「主の話なんだろ? ならどちらでもいい。
だって、見目であの人の霊力が変わるわけじゃあ、ないからな」
だって、それでも俺は、やはり霊力でしか、あの人を判別できない。
それこそが、ソハヤノツルキだからだ。
*
結局加州には「長いほうが好き」と言わされたのに、次の日、主は髪を切っていた。
出会った時には肩につくくらいだったが、気付いたら肩甲骨の下くらいまであったと思う。本丸にいると人間の周期のようなものは多少影響を受けるというが、彼女は多分少し人より髪が伸びるのが早かったのだろう。
それが、出会った頃よりも、短くなっていた。
真っ白い首筋が見えて、噛みつきたくなった。ぐっと口元を抑えて、「どうして」と叫び出しそうなのを堪えた。
俺にはなにも言う権利はない。
いろんな刀に事情を説明しながら同時に話が流れてきて近侍を外されたのを知った。そろそろ次の近侍を育てようと思う、ということで宗三の名前が挙がっている。小夜の兄貴分なので、信頼も厚い。主との意思疎通もスムーズだろう。
納得がいかなかった。
どうにか、もう一度、せめて、近侍を変えた理由を知りたい。
どうか、あの声で、本人から直接。
主の部屋に行く廊下で、加州が、立っていた。見目を気にする男が、泣きはらした目をしている。
「主のところには、行かせねーけど」
「頼む。そこをどいてくれ」
「ふざけんなよ。誰のせいでこんなことになってると思ってんだ」
「誰だ」
「お前だよ!」
間髪入れずに発されたのは、腹の底から怒気をはらんだ声だった。
「俺?」
「ああ、そうだよ、顕現してからずっと、主はお前ばっかみて、もちろん、俺たちのこともみんな大事にしてくれてるけど、それだけじゃない。
お前だけだ。
お前にだけ、あの人は、ずっと、ずっと!」
ずっと、なんだってんだよ。
あの視線は、いや、でも、髪は? なにがなんだかわからない。いや、主の気持ちは、本人に聞かなくてはいけない。そして今は、俺の想いを、まずはハッキリさせないといけない。主が本当は誰を好きだとしても。
「俺は、主が好きだ」
言った瞬間、とんでもない殺意が向けられた。
「と、思う……」
「それじゃ困るんですけど」
すっごい圧で、さらに殺意が増している。だが、お互い錬度上限だ。遠慮はいらない。本気でいけ。引くな、ソハヤノツルキ。お前は写しといえど、江戸を守った霊刀だ。
ここで引いたら、もう、二度と彼女と一緒にいられなくなる気がした。
「本当だ」
「ははっ、今更」
「それでも」
「だったらなんだよ! それで、お前だけが愛されて、あの人の愛は、今までずっと流されてきたあの人の気持ちは、全然報われないんだよ! 終わったことじゃない! 今だって、ずっとそうなんだ!
あの人の、大切なもの、みんな失ってから、お前が気付くなんて、おかしいだろ! ずるいだろ!!」
ああ、そうだな。お前の言う通りだ。
だが、それでも、そうだとしても。
「それでも、俺は、あの人の傍にいたい。
失わせてしまったものを、それなら一緒にまた取り戻していく。
いまだに感情がわかってないから、苦労をかけると思う。
お前がふさわしくないと言う気持ち自体はわかる。
でも、今は、やっぱり、いや、ずっと、ずっと、言葉にならなかっただけで、ずっと俺も、霊力の異変だって勘違いしていただけだったんだ。きっと。
あの人じゃなきゃ、ダメだ。
彼女がいいんだ。
頼む。
話をさせてくれ。
主と」
赤い瞳どうしがぶつかり合う。
先に目を閉じたのは加州で、長い、長いため息をついた。
「どうして、お前なんだろうな……。おんなじような目してんのに。俺にしときゃよかったんだよ、主も」
「はは」
「お前が笑うなよ」
ギロリと睨まれた。でももう怯まない。
「お前は、違うだろ。
お前は、主を愛しているが、恋はしてない」
ポカンとした表情を一瞬出して、一気に顔が歪む。
ほんっと、生意気。くそムカつく。塩なんか贈らなきゃよかった。愚痴愚痴とそんな恨みつらみが聞こえてくる。
再びぐすっと言い出した加州を抱きしめた。どすん! と一発、腹に拳が入る。気合いで耐えてやった。
「行け。まだ間に合うかもしれない。
それを判断するのは、俺じゃなくて、主だから」
「おう」
腹を殴った手が、今度は思いっきり背中を押した。
*
部屋に入っても、主は顔を上げなかった。
俺が入ったことにそもそも気付いていない。悲痛な呻き声が聞こえて、鼻をすする音が彼女が立てる音以外なにもないので余計に響く。
そんな顔が見たかったわけじゃないんだ。いつもよりも、余計に小さく見える。髪の毛の分だけ、容量が減ったように。
「無理すんなよ」
そういって、手を頭に載せると、すごい勢いで払いのけられた。
本当に、驚愕しているという顔で、涙の跡がくっきりと見える。ぱたり、と雫が畳に落ちた。
座り込んだ彼女の顔が、もっとよく見えるように、目の前に、同じように座り込む。真っ直ぐに、今度こそ、目を離さない。もう逃げない。彼女の、視線から。
「な、なに、び、っくりした……」
「悪い」
驚かせたことは素直に謝罪する。だが、問題はそこじゃない。襟足を摘まんだ。聞きたいんだ。あんたの声で。爪の間にすら入ってしまうような短い髪の毛を撫ぜる。
「なあ、短い髪って、誰かの好みなのか?」
「は?」
「俺は加州に言ったんだ。どっちでもいいって。アンタがアンタなら、長かろうと、短かろうと、どっちでもいいって」
「はあ……」
「でも、切っちまったんだな」
「あ、はい」
キョトンとしている顔は、次第に困惑の表情を浮かべた。
「一応、追加したんだ。加州がどっちだってうるさいから。
俺は、「長いほう」って答えた」
「へえ……」
あの野郎、言わなかったな。
「なあ、アンタは、『誰』を思って、髪を切ったんだ?」
本題だ。
教えてくれ。主。あんたの気持ちを。どうして、その髪を、切ってしまったのか。
あんたが見ていたものは、「俺」ではないのか。
あんたの瞳から逃げ続けた俺と、今俺の瞳から逃げようとするあんたで、ようやく視線を合わせる時だ。
俺が、そう決めた。
だが、主は答えない。俺の紅い目を、ただ、じっと見つめている。なにを言えばいいのか、判断しかねるような、俺の気持ちを推し量るような、そんな顔で。
そりゃあ、そうだ。全て人間の感情を正しく理解していなかった俺の自業自得だ。馬鹿馬鹿しさに自嘲する。
「ままならないなぁ。
ああ、ままならない。『恋』を知った時には、アンタにはもう『恋』があった。俺は恋をしているアンタを見ていたんだろうなぁ。
自覚が遅いっていうのは、いわゆる無知の罪と同じだな。みっともねぇ」
目を見開いた主の顔が、朱に染まった。だが、その顔は、言われた意味を明らかにとらえ切れていない。
「な、なに言ってんの?」
震えた声で、俺を遠ざけようとするから、しっかりと、主の顔を掴む。
くっきり見える首筋が、目に毒だ。片手でも、力を入れたら掴んで絞められそうな細さだ。
「他のどこの誰だか知らないが、アンタが恋する相手は、俺は知りたくない。そんな奴、叩っ斬ってしまいそうだ。
アンタは言ったな。
「写し」でない、ここにいる「ソハヤノツルキ」という存在の帰りの無事を、待っている、祈っていると。
言ったよな」
「言いました」
俺が、人間としての生を、初めて受け入れた日。
なんで気付かなかったんだろう。あの時から、きっとずっと、俺は主に救われていたんだろうに。
主の視線が、やたらと動く。
顎を掴んで、視線をしっかりと合わせる。どうせ加州や小夜、他の男のことを考えているんだろう。
それすらも、今は許しがたかった。
「余計なことを考えるのをやめろ」
「あ、はい」
そうして閉じられた口を、今度は無理矢理にこじ開けたい。
大切にしたいという想いと、噛みついて全部中身を引っ張りだしてやりたいという想いが拮抗する。こんな身勝手な男に好かれて、本当に可哀想に。もう手遅れだ。
「ずっとずっと、アンタには加州清光がいると思ってた。
アンタが思う相手が誰か、俺にはわからなかった。
だが、無自覚なりに加州がくれたチャンスを物にしようとして、色々しても、アンタはいつも通りだし、変な返事ばかりで、しまいには「かわいい」なんて言い出す始末だった。
でも、ようやくわかったんだ。
アンタのことが、ずっと好きだったんだって。
アンタの答えを聞いて、余計にハッキリと」
ダメだ。もう、口が、感情が、霊力が溢れてくる。
止めるものがなにもない。
言ってやりたかったことと、言わなくていいと思っていたことと、なにもかもがごちゃごちゃだ。
目元が熱くなる。目の前が、彼女の顔が滲んでくる。喉が震えて、こんなのさっきの彼女とまったくおんなじじゃないか。
主。アンタのことを思うと、こんなにも苦しくて、つらくて、ああ、愛おしい。
そうだ、この気持ちは、止まらない想いは、恋で、それだけじゃなくて、愛おしい。涙が出るほど、アンタを、想ってる。嘘じゃない。頼む。
信じてほしい。
「うれしくて、たのしくて、ワクワクして、わさわさした。アンタといると胸がぞわぞわする。
あれは、そういうわさわさだったんだって、ようやく気付いた。アンタの霊力が不安定だと俺まで落ち着かない。
アンタの言っていた通りだよ。怖くて、辛くて、もう嫌だって、アンタが他の男と一緒にいるのを見てモヤモヤしたり、イライラしたり、みっともないくらいに不安になって、なのにアンタに頼られると弱いんだ。嬉しくてたまらなくなる。
なのに、アンタに頼られなくなったら、俺はどうすればいい? 傍に置いてもらえなくなったら?
写しでもいいって言ってくれたアンタが、写しの俺をいらなくなったら?
なあ、他の男のことなんて、知らない。俺は、アンタしか知らない。
俺にはアンタしかいないのに、アンタには、俺以外の何かがいっぱいいる。
こんな不公平、あっていいのかよ。
こんなままならない気持ちを持つことが、『人間』になることなのか?
教えてくれ、主」
こらえきれずに流れた俺の涙を、主は、呆然と見ている。
歪に歪んだ俺の顔に、その細い指が伸びてきた。
涙をつうと、掬いあげると、勢いよく、主の口が俺の鼻に噛みついた。
俺もまた、目を見開いてポカンと口を開けた。涙が止まった。
噛まれたところがじわじわと熱を持つ。
もう、主の涙は、いつからか、止まっていた。
「バカね」
だけど、また一筋だけ、綺麗な、清水のような涙が、落ちた。
そして、見たこともないような美しい笑顔を浮かべる。綺麗だ、と見惚れた。その瞳には俺しか映っていない。俺に噛みついたその唇の描く半円は美しい。
「恋は、一人じゃ、出来ないのよ」
「は、」
だから、それは、一体、
「貴方としか、恋してないもの」
そういって飛びついてきた主を、全身で受け止めた。
無くなってしまった、今は少年みたいに短くなった頭をしっかりと抱きしめる。
どこにだって噛みついていい。
傷をつけてくれていい。
それで、あんたが、俺を、あんたのものだと言ってくれるなら。
「俺も、アンタに、恋してるんだ」
「今、知った」