NOを言い続けるということ「おつかれ」
という軽やかなねぎらいと共に、高村が差し出したコーヒーを受け取ったのは、先だっての会議で提出した企画が箸にも棒にも掛からずに休憩室で項垂れる沢渡だった。
「あざす」
短い礼と共に受け取ったそれに早速口をつければ、あっつぅ、と湯気に鼻先を曇らせる。
「いやぁ、マジきついすわ。手を変え、品を変えしてんすけどね。壁がぶあついっす」
高村が自分のコーヒーを手にその場を去らない空気を読んで、沢渡が軽く愚痴をこぼす。肩をすくめてみせる高村をちらりと見て、へらっと自嘲を漏らした。
「今回はかなり下ネゴもしたつもりだったんで凹んでます」
妙に素直に弱音を吐く沢渡に、高村の眉が上がる。
「諦めるの?」
さらりと飛んでくる挑発に、そっすねぇ、と天井を仰ぐ。
「ここでどこまで頑張るかなってのはありますけど、まぁ、まだ諦めないっすかね」
てか、と沢渡がおもむろに高村に向き直る。
「高村さんはなんでずっとここでやってけるんすか」
ほほぅ、そうくるか、という顔で高村が沢渡の言葉を受け止める。
「俺なんかよりよっぽどいろいろあったし、あるでしょ。辞めてやる、とか、ならないんすか」
少しいじけたような沢渡の顔を見下ろしながら高村はさらりと答えた。
「そりゃ、なるわよ」
さらりと答えが返ってきたことに、沢渡の愁眉がわずかに開く。
「あ、なるんすね」
こくりと頷く高村に、沢渡が問いを重ねる。
「なんで投げないんすか」
んー、と考えるそぶりをみせつつ、高村の答えは簡潔である。
「たまたま、辞めないで済んで、投げないで済んでるから。ある意味、運」
たまたま。運。
このタイミングで聞くと思っていなかった単語に、沢渡は高村に向き直る。
「運、ですか。あれだけ働いて、あれだけ戦ってきたのに?」
「それが運よ。私は働き続けることができたし、抗ったり、誰かを守ったりすることができた。でも、それができずに折れた人、去った人もいる」
沢渡が高村と働いたのはまだ10年に満たないが、それでも脳裏に数人の顔がよぎる。多分同じ顔が、そしてさらに多くの顔がよぎっているであろう高村が淡々と言葉を続ける。
「私はたまたま、折れたり、去る決断を必要とするほどの目には合わなかっただけ。そこで、『私は自分の努力とスキルでキャリアを積んできました』ってのうのうと言うのは生存者バイアスでしかないわ」
ふむ、と頷きながら、沢渡は適温になったコーヒーを飲む。
「そうっすね。ここにとどまらないという決断をしたくてしたわけじゃない人もたくさんいたと思います」
「ハラスメントなんて言葉じゃ足りない横暴に、自分が巻き込まれたり、巻き込まれているのを見ながら何もできなかったり。でも、私はたまたまそこまでは追い込まれなかった。なら、続く人たちを同じ目に合わせないように居続ける、っていうのが性に合ってたのね」
「っても、このカイシャ、このギョーカイ、古臭いとこ多いじゃないっすか」
明らかに通らない理屈を、だが決定権のある立場を嵩に着たともとれるやり方で押しとおされた沢渡が思わず愚痴る。
「そうね。アップデートが足りない人間や慣習が多すぎる。そこで、そうじゃない環境に転身するのも選択肢だし、そうすることで抗議にもなる。同時に、誰かが諦めないで少しずつでもアップデートしていくことも選択肢でしょ。自己犠牲じゃないわよ。それじゃあ持続性がないもの。それでも、そうやって、色んな角度から、それぞれの人が、できるやり方で、少しずつ変えるしかない。何か劇的な解決策なんて、世の中に一つもないし、あるという人がいたら詐欺師でしょ」
今日は妙に話してくれるな。そう思いつつ、そうか、この俺がさっきと今戦ってる悔しさを、この人も通って来ていて、それを思い出してるんだ、と沢渡はカップに口をつけつつ、高村の話にじっと聞き入った。
「ま、ちょっと語りすぎたか。でも、私は何回だっていうわよ。誰かの昏い独善的な愉悦や根拠のないプライドのために他の人の仕事や尊厳を踏みにじることには、組織の中からでもNOを言い続ける、って」
カツンと小気味よいヒールの音を鳴らして、自分が飲み終えた紙コップを高村がゴミ箱に捨てる。沢渡もハイテーブルに持たせかけていた上体を起こして、手元の空の紙コップをくしゃりと握りつぶした。
「っすね。凹み終わったら、もっかい動きまっす」
沢渡が少し元気に言ったところで、高村が口角をあげて口を開いた。
「さっきの会議で、経済部二課の脇坂課長が結構熱心に資料読んでたわよ。最近の経済弱者に関するトピックで気象災害・防災関連も話題に上がってるみたい。ちょっと話聞きに行ってみたら」
これまたさらりともたらされた情報に、まだもうちょっと凹むつもりだった沢渡の目に光が戻る。
「あざす」
最初にコーヒーを受け取った時と同じ三文字が、今は少し力強い。
休憩エリアを去っていく沢渡を見送り、ふっとほほ笑んだ高村の視線の先には先月度のギャラクシー賞の月間賞のプレスリリースが掲示されている。仙台に行った神野マリアンナ莉子が取材した、登米と気仙沼の震災復興における山と海の協業のドキュメンタリー番組名が筆頭に挙げられている。自分も一枚噛んでるのに、自分の企画にこういう実績を引っ張って見せないところが、沢渡君の意地っ張りよねぇ、と高村が言わなかったのは武士の情けか。
歴代あさキラッのポスターが並ぶ中、神野と永浦がいた頃を高村はふと思い出す。とりわけ年若い二人だったが、それぞれにしっかりと羽ばたいていった。神野は仙台で、永浦はパートナーと共に気仙沼・登米・北欧とめいめいの場所で確実に活躍している。
さて、と高村は軽く伸びをする。
今日は産休を取っていた内田が来月からの気象キャスター復帰するための段取りの打ち合わせがこの後に控えている。彼の二度目の育休復職はどんなになるかな、と高村は久しぶりに会う内田がどう変わったか、変わっていないか、楽しみな気分で会議室に向かうのだった。