サメの腹巻き僕が東京に出て来ての百音さんとの逢瀬の帰り際、百音さんが東京駅まで来てくれることも多いけれど、時間によっては汐見湯に彼女を送り届けることもある。今日は出かけた先からのアクセスと時間との相談で、汐見湯まで一緒に来たところ、思っていたより早く着いてしまった。まだ先生がよければちょっと寄っていきませんか?という百音さんのお誘いがうれしい。ぜひ、と申し出を受けて汐見湯の暖簾をくぐると、1階の奥からにぎやかな笑い声が聞こえてきた。どうやら、井上さんのご近所さんが集まっているようだ。
百音さんが少し考える顔をして、狭くて申し訳ないですけど私の部屋でもよいですか?と言う。滅多にお邪魔する機会はないけど、もちろん文句はない。むしろ、最もプライベートな場所に入ることを許されていることがうれしい。どうします?裏口からはいりますか?と気遣ってくれるけど、百音さんとの関係にやましいことはひとつもないので、構いませんよ、と靴を脱いで框に上がった。
ご近所さんの横を通り抜けて、百音さんの部屋まで。百音さんはご近所さんとも親しい様子で挨拶していて、そのあたりの社交性がすごいなぁといつも思う。僕も会釈ぐらいはできるようになったけども。部屋でクラシカルな座布団を出して僕を座らせた百音さんは、お茶持ってきますね、と一度下に降りて行った。正直、お茶よりも一緒いたいが勝るけど、おとなしく待つことにする。待っている間、失礼にならない程度に部屋の中を見渡すと、机の上に気象予報士試験のテキストと中学理科の教科書が見えて、それを大切にしてくれていることに心が温かくなる。
ふと、机の横にいるサメのぬいぐるみと目が合った。あのBRTで乗り合わせた時にシャークタウンから連れ帰っていたサメだ。僕が東京を離れるときに、せめてなにかよすがを、と百音さんに預けたサメがたくさんの時間を過ごしているであろう机の横に陣取っていることが、なんだかうれしい。が、どうも最後に見た時とサメの様子が違う気がして、思わず立ち上がって手に取ってみると、サメが腹巻きをしている。毛糸で筒状に編まれていて体の半分以上を覆っているので服っぽくもあるが、なんというか形状的には腹巻きだ。
ちゃんと胸ビレと背ビレのところには穴が開いて出せるようになっていて、きっちりこのサメに誂えたようになっている。なぜお前は腹巻きを巻いているのだ?とサメと向き合っていると、お盆にコップを二つ載せた百音さんがちょうど戻ってきた。
「先生、お待たせしました。…あ!」
「あ、ごめんなさい。勝手に触ってしまいました」
「いえ、それは全然構わないです。もともとサメタロウは先生のサメですし」
「え、こいつサメタロウっていうんですか?」
「はい」
僕からサメタロウを受け取りながら百音さんが笑顔でうなずく。
「ちなみに、そのタロウのロウの字は…?」
「もちろん、朗らかの朗です!光太朗さんのサメなので!」
つまりサメ太朗ということか。
サメ太朗を隣に置いて百音さんがお盆の傍らに座るので、サメ太朗を挟んで僕も座る。いただきます、とお茶に口をつけて、気になったことを聞いてみた。
「そのサメ太朗が腹巻きをつけてますが、それは?」
「机でこの子抱っこして仕事してて、そのままもたれてウトウトしちゃったりする時があるんです。大事な子なので汚れないようにと思って、祖父に昔習った編み物思い出して、カバー変わりに編んでみたの。夏には暑苦しいけど、これから寒くなるからいいかな、って」
サメ用腹巻きなんて編み図もないから手探りで、編み方も思い出しながらだったんですよ、と百音さんが笑う。百音さんの話を聞いて、思わずサメ太朗を手に取って、こいつの顔を覗き込んでしまった。
「いいなぁ、お前は。いつも百音さんのそばにいて、百音さんにお手製の腹巻きもらって。うらやましい」
サメ太朗を恨みがましく見ていると、なんだか隣の百音さんの顔が赤い。
え、あれ、今、自分の心の声出てた?!
百音さんがまた、僕の手からそっとサメ太朗を取って、ぎゅっと抱っこして見せる。
「だって、サメ太朗は先生との思い出の子だし…」
だから、その抱っこがうらやまし…とは心の声がもれなくてセーフ!
そうやってサメ太朗を大切にしてくれてるのはとてもうれしいけども。
サメ太朗をだっこしていた百音さんが、ちょっとためらったような様子のあと、意を決したように僕の方を見る。
「あの、先生」
「はい」
「重いなって思わないでもらえると嬉しいんですが…」
と言いながら、サメ太朗を僕の膝に置いて、机のそばのチェストにいざって何かを取り出した。
「ラッピングできてなくて、次会った時にと思ってたんです…」
百音さんが耳まで真っ赤になって、ずいっと僕に差し出したのはきれいに畳まれたマフラー。受け取ると、白と青が混ざったサメ太朗とお揃いの毛糸。
「え、これ百音さんが?僕に?」
こくこくと頷く百音さんがとにかくかわいい。
自分たちを何がしかのジェンダー規範に当てはめるつもりはさらさら無いけど、忙しい百音さんが僕のために時間と労力を割いてくれた手編みというのは、やはり何物にも代えがたい嬉しさがある。言葉に詰まっていると、百音さんが勘違いをしたのか、あの、手編みとか好きじゃなかったらごめんなさい、無理して受け取らなくていいです、とか手を出してくるので、その手を押しとどめる。
「うれしいです。ものすごく。大切にします」
心からそういうと、分かってくれたのか、ふわっと笑ってくれる。マフラーを首にひと巻きしてみると、肌触りも心地よい。似合いますか?と聞くと、似合ってます!と嬉しそう。
「登米に移って最初の冬が来るので、そろそろちゃんとしたものを、と思っていたのでとてもうれしいです」
室内でマフラーを巻いたままは暑いので外してきちんと畳んで膝の上のサメ太朗の上に置く。同じ毛糸のサメ太朗の腹巻きと、僕のマフラーが一塊に見えた。
「こいつとお揃い、というのも、百音さんの近くにいられるようでうれしいですよ」
そういうと、百音さんはまたはにかんで、もう一つチェストから同じ毛糸の何かを取り出して、それをかぶってみせた。
「同じ毛糸が余ったので、自分用にニット帽編んでみたんです」
登米に行く時にはかぶっていきますね!とニコニコしているのがまたかわいいくて、思わず口許を手で覆ってしまう。
「私と先生とサメ太朗と。お揃いです」
なんだかそうなるとサメ太朗が余計だな、とも思わなくもないけど、こいつだって百音さんのそばで役目を果たしているのだからのけ者はよくない、うん。
ニット帽を脱いだ百音さんの髪が静電気で跳ねているのを、手を伸ばして撫でると、気持ちよさそうにしている。いい?と目顔で聞くと、そっと目を閉じてくれる。下宿の部屋の中でちょうどの慎ましさのキスを交わしながら、僕は膝の上のサメ太朗には載せたマフラーをずらして目隠しをするのだった。
<おわり>