百音と先生のある日、永浦家の台所にてある日の午後、百音と菅波が亀島の永浦家の居間で過ごしていると、外出していた亜哉子がトロ箱をどさりと縁側に置いた。
「お母さん、それどうしたの?」
百音が立ち上がってトロ箱を覗き込むと、中にはイワシ、サバ、アジ、アイナメ、ワラサなど雑多かつ大きさもまばらな魚が無造作に氷の中に入っている。
「そこで高橋さんに会ったら、よかったら持って行って、って。釣り船で案内したお客さんが持って帰れなかった分なんだって。今日は釣果が良すぎた、って笑ってたわ」
亜哉子が笑いながら言いつつ、百音にすまなそうに言う。
「先生とゆっくりしてるところで悪いんだけど、ざっと冷蔵庫に入れといてくれない?お母さん、佐藤のおばあさんのところ行かなきゃいけなくて。置くだけ置きに帰ってきたの」
百音が快諾を返すと、ちょっとしたら戻ってくるから、と言い残して亜哉子はまた出ていった。それを見送った百音がトロ箱を持ち上げようとすると、話を聞いていた菅波が隣にやってきてひょいとトロ箱を持った。
「こうやってお裾分けがくることもあるんですねぇ。台所に持って行けば良い?」
「ありがとうございます。うん、まずは台所で」
台所の作業台に菅波がトロ箱を置き、百音が改めて中を見る。
「下処理しといたほうが仕舞うのも楽だし…。先生、ちょっとお待たせしちゃうけど、私、これやっちゃってていいです?もうちょっとしたら、悠人君たち来るから、その時に食べられればいいと思うし」
「手伝えることある?何かやれることがあれば、やりますよ」
菅波の申し出に、百音がうーん、と考えて聞く。
「先生、三枚おろしってできます?」
「名前は知ってるけど、やったことないなぁ。せっかくだから教えてくれる?これからもこうして永浦のお家に来た時にすることがあるだろうし」
「ですね。じゃあ、やってみましょっか」
百音が、最初はやりやすい魚からで、と一つひとつ手順を説明しながらアジを三枚におろして見せると、菅波がナルホド、と見よう見まねでやってみる。百音に手解きを受けながら、1匹おろして、基本はわかったと思います、と言う。
「まずはアジをおろしてったらいい?」
「うん、じゃあアジからお願いします。私はイワシやっちゃいますね」
百音は大きいバットにキッチンペーパーを敷いたものと、小さいバットに新聞紙を敷いたものを用意し、おろした本体を大きいほう、内臓などは小さい方に入れてください、と菅波に言う。さすがの準備の手際ですねぇ、と菅波が感心してみせると、先生と魚仕事するの嬉しい、と百音がニコニコするのに、菅波はその愛らしさに口許を覆うのだった。
菅波が包丁片手にアジを取り上げると、百音が素手でイワシを取り上げる。
「あれ?百音さん、包丁は?」
「イワシは手でも開けるから。ほら」
と手早くイワシを手開きしてみせ、本体と外した頭や内臓や骨を所定のバットにそれぞれ入れてみせる。
ね?と得意げな百音に、やっぱりさすが、と菅波が楽しそうに言う。
亜哉子が佐藤のおばあさんのところから戻ってくると、台所から二人の楽しそうな話し声が聞こえた。そっと覗いてみると、百音と菅波が揃って魚の下処理をしている。二人の前には手開きされたイワシと三枚におろされたアジがずらりと並んでいた。
「あら、百音も先生も、やってくれてたの。おいといてくれたらよかったのに」
「やっといたらいいかなと思って。先生もはじめてなのに三枚おろしすごく上手になったの」
「いえ、百音さんの手際に比べたら。あ、そうだ、お義母さん、砥石ありますか?アジ終わったのでもう少し大きい魚もと思うんですが、その前に包丁研ぎたくて」
そこまでしてもらわなくても、と言いかけた亜哉子を百音が“やらせてあげて“と目顔で止める。やりたくてやってくれているのだ、と腹落ちして、確かこのあたりに、と砥石を取り出すと、菅波が礼を言って受取り、砥石を水に漬ける。そして、少しだけでも水を浸ませる間にイワシ手伝うからこれもやり方教えて?と百音に言う。うれしそうにイワシを取り上げる百音と菅波を見て、亜哉子はそっと台所を離れた。
二人が魚仕事やってくれるならその間に洗濯物でも畳もう、と居間で過ごす亜哉子の視界の端で、菅波が包丁を砥ぐのに百音が見入り、菅波の納得いく研ぎ具合になった包丁でアイナメのおろし方を百音がレクチャーしている。菅波の集中している様子も好ましく、また、百音が相手への信頼全開で初めての作業を説明していることもうれしい。それにしても本当に仲良しさんだこと、と亜哉子は口許を緩めるのだった。
菅波が一番大きなワラサに取り掛かり始めたところで、悠人と三生がやってきた。こんにちは〜、と入ってきて、台所で百音が見守りながら菅波が魚を捌いているのを見て、二人は顔を見合わせる。百音が二人の到着に気づいていらっしゃい、と声をかけつつ、すぐに意識は菅波の方に戻る。菅波も会釈をしてすぐに意識を百音と魚に戻し、これでいい?と作業を続行する。なんだか立ち入れない二人の世界に、悠人が亜哉子に聞く。
「あれ、どうしたんですか?」
「高橋さんとこの船でお客さんが持って帰らなかった分もらったら、二人がやってくれてるの」
「なんか、すごい二人の世界なんですけど」
「ねぇ、魚おろしてるだけなのにねぇ」
ふふっと笑う亜哉子に、悠人と三生も笑うしかない。そっと三人が見守る中、そうとも気づいていない百音と菅波は、そうそう、そこの引っかかりに気をつけて…など二人で何かをする楽しさに没頭しているのであった。
トロ箱の中の雑多な魚の下処理をすべて終え、いくつか調理しちゃいましょっか、と百音が菅波を誘う。さすがに手が多い方がいいかな、と亜哉子が立ち上がり、メニューどうしようか、と二人に声をかけながら台所に向かう。亜哉子と百音の指示に従って、菅波がおろした魚の身をさらに切り分けたり、切り身に粉をはたいたりする様子を悠人と三生がすげえなぁ、と見る。菅波が砥いだ包丁を百音が使い、すごいよく切れる!使いやすい!と歓声を上げる様子に相好を崩す菅波の横顔に年上の余裕のようなものが二人には感じられる。
程なく、イワシの蒲焼やサバのから揚げ、ワラサの刺身が居間に並び、同時刻に亮と未知も到着した。
「おねえちゃん、ひさしぶりー!」
「みーちゃーん!」
きゃー、と姉妹がハグを、亮と菅波がご無沙汰してます、と挨拶を交わす。
「え、これ、先生が?」
着座した亮がワラサの刺身と薬味の大根の千切りを指して声をあげた。
「めっちゃきれいじゃないですか」
「そうなの!先生、魚捌くの初めてだったのに、ちょっとの説明でコツ掴んで、どんどんやってくれたの!」
百音が嬉しそうに言い、悠人と三生はまーた見せつけられてるよ、と顔を見合わせる。
「いやぁ、百音さんの教え方が上手だったので」
ほらー、先生もナチュラルに惚気てきたよ、と全員が顔を合わせたところに、菅波が言葉を続ける。
「それに、普段は人しか切ってないので、脊椎動物丸ごと切るのは新鮮で面白かったですよ」
あはは、先生、確かに!と百音が楽しそうに笑うのに、菅波もその様子に口許を緩めているなか、幼なじみたちは顔を見合わせる。外科医やべえな、と悠人と三生、亮が目くばせをかわし、未知が、先生はほんとに根っからのお医者さんなんだねぇ、としみじみ頷く。
そうして見守られていることにいまいち気が付いていない百音と菅波は、魚種ごとの骨格の共通点と相違点についてイワシとサバとワラサを指さしながら話を続けているのだった。
<おしまい>