金銀砂子にまさる願い事ふたつ「永浦さん、どうしたんです、そんなところで」
外の所用から登米夢想に戻った菅波が見かけたのは、診療所の入り口に佇む百音だった。
「あ、先生、お帰りなさい。あの、先生と中村先生の紹介読んでました」
「なぜまた今更そんなものを」
「ちゃんと読んだことなかったなぁと思って」
言いながら、百音が二人の紹介に書かれている文言を指さして聞く。
「先生、この『呼吸器外科専門医』っていうのと『外科専門医』って、これなんですか?」
あぁ…、となぜか少ししかめっ面になりながら菅波が答える。
「中村先生の『呼吸器外科専門医』というのは、『外科専門医』という、まぁ要するに外科のスペシャリストですよと認定された医者の中で、さらに呼吸器外科のスペシャリストと認定されている、ということです。『外科専門医』を取った後、さらに専門が細分化されていくんです」
へぇ~、と百音がなんとなく分かった気になりつつ、菅波の紹介を指す。
「じゃあ、先生は、これからその『呼吸器外科専門医』を目指すんですか?」
「いえ、僕はまず『外科専門医』を取らないと」
「でもここに『外科専門医』って」
「これ、書き間違いなんですよ。まだ僕は『外科専攻医』でしかありません。修正してくれってずっとお願いしているんですが」
虚偽の掲示でどこからか咎められるかと思うと…とぼやく菅波に、百音がくすりと笑う。
「ひっぺがしちゃえばいいのに」
「そんな乱暴なこともできないでしょう。まぁ、僕の同期には、勤務している病院の医師紹介で名字も名前も出身大学も間違われてたやつもいましたが。とはいえ、資格の記載ミスはまたちょっとレベルが違う」
「私からもサヤカさんにお願いしときます」
百音の言葉に、困り果てた顔をしていた菅波が素直に頭を下げた。
「ぜひお願いします」
で、と百音が改めて誤記された資格名を指さす。
「先生はこの『外科専門医』?っていうの目指してるんですか?」
「目下勉強中です。一定数の手術件数も求められるので、ある程度時間はかかります。ここに通ったりもしてるから、最短であと3年ぐらいでしょうか」
ほわぁ、年単位、と百音が嘆息する。
「お医者さんになっても勉強は続くんですね」
「どんな仕事だってそうでしょ。ましてや資格職は経験を積むとともに常に知識のアップデートが求められます。永浦さんが目指す気象予報士だって、同じではないですか」
「確かに…」
「合格するまでの我慢、って勉強の仕方では、仕事にはつながらないですからね」
「…ハイ」
そうですよねぇ~、と何やら納得しながらうんうん、と頷く百音を見る菅波の目は、本人が思っている以上にやさしい。
「ま、とにもかくにも、永浦さんは合格しないと。今日の時間はいつも通りでよいですか?」
「あ!午後、森林パトロールに出るんでした。ちょっと遅くなります」
「分かりました。まぁ、最近は日も長くなりましたし、多少遅く始めても同じぐらいの時間は取れるでしょう」
「じゃあ、今日もよろしくお願いします。あ!そういえば、課長が、今日中庭に笹立てるって言ってました。七夕の。先生も短冊書いてくださいね!」
ぱたぱたと去っていく百音の後姿を見送って、菅波も診療所の準備室に戻る。七夕の短冊なんて、最後に書いたのは小学生のころかな、など思いながら。
その会話を交わした翌日に帰京した菅波が、七夕前日に来登する頃には、登米夢想の中庭の大きな笹には色とりどりの短冊がたくさん下げられ、夏の風に吹かれてさわさわと気持ちの良い音を奏でていた。
昼食をとりにカフェに来た菅波が中庭の笹に目を留めていると、日替わりランチの『七夕そうめん』を運んできた菊地がその様子に目を細めた。
「林間学習の子供たちもたくさん短冊書いていってくれたんですよ」
「そうですか。にぎやかですね」
「先生もお願い事、書いてくださいね」
「いや、僕は特に…」
「ふふっ、そうおっしゃると思ってました」
そんなに短冊は書かないといけないのものなのか?そして僕は書かなさそうとか思われてるのか?と心中に疑問を抱きつつ、菅波はそうめんをすする。
その日の勉強会に、菅波が椎の実に足を運ぶと百音の手許には2枚の黄色と青の紙があった。特に菅波も百音もそれに触れず、その日の予定範囲を2時間弱で終えるが、菅波が帰り支度を始めたところで百音がそれを菅波に差し出した。
「先生、明日七夕なので、短冊なにか書いてください!」
「特に書くことないんですが…」
「じゃあ『世界平和』でいいですから」
「それ、僕が書かなくてもよくないですか」
「まあまあ、季節の行事じゃないですか」
はい、とペンと短冊を渡されて、菅波が改めて着座し、受け取った短冊の一枚を百音に渡す。青い短冊を受け取った百音は、私はもう書きましたよ?と言うが、1枚ずつでいいでしょ、と言われ、まぁ、何枚書いてもいいものですよね!と何やら納得した様子で、自席で書くことを考え始めた。
その様子を視界の端に収めつつ、菅波も何を書いたものか…と思いながら、ふと手元の予報士試験の参考書が目に入る。まぁ、今この場で書くならこれか、とペンを走らせ、さっさと笹に吊るそう、と立ち上がって中庭にでる。何やら書き終えた百音も後に続いた。
手の届きやすいところには、すでに短冊がたくさん下がっていることもあり、菅波は自分の目線よりすこし上の方に自分が書いた黄色の短冊をひっかけた。そよ、と吹く夜風が菅波の願いを揺らす。
笹を挟んで反対側に立った百音も、手をのばして頭の上あたりに青色の短冊をひっかける。一層笹の葉が茂ったあたりに提げられたそれは、ふわりと抱き留めるられたように笹の葉の間に紛れた。
二人で椎の実に戻りながら、百音が菅波に問う。
「先生はなんて書いたんですか?」
「『世界平和』です。そういう永浦さんは?」
「『世界平和』です!」
「そうですか」
いつも通りの帰り支度を終え、百音が諸施設を施錠して、登米夢想に静かな夜のとばりが降りる。
東京ではこれは見れない、と菅波が帰り路に時々こぼす満天の星が、中庭の笹をそっと照らしている。
『永浦さんの予報士試験の勉強がつつがなく進みますように S』
『先生の専門医のお勉強がうまくいきますように ももね』
<おしまい>