くちづけのあともくちづけのあとも
敬語を続ければ
あなたの森で
迷わずに済む
木下/龍也
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「ねぇ、モネってさ、菅波先生とまだ敬語なの?」
汐見湯の共同リビングで、すーちゃんと菜津さんといただきもののケーキを食べてたら、すーちゃんが急に聞いてきた。
「うん」
え、全然気にしたことなかったけど…。
すーちゃんはなんだか不思議そうな、興味深そうな顔でこっちを見てる。
「お付き合い、はじまって、もう二か月?だよね?」
「うん」
「もうチューした、よね?」
「う…うん」
「そっから先のことはまぁ今は聞かないとして、二か月ってさ、今がとっても楽しくって、チューもして、ってお付き合いがただただ楽しい時期じゃない?」
「そうなの?」
「そうなの!」
ことこう言うことに関しては、すーちゃんとどこまでもちょっこし噛み合わない会話を、菜津さんがニコニコと見守ってる。菜津さん、いざとなったら助け舟、お願いします!!
「だけど敬語なの?」
「うーん、先生とはずっとおんなじに話してたし…」
「だけど、ずっとお付き合いはしてなくて、今はカレとカノジョなんじゃん?」
「うん、まぁ…」
「不思議~!」
そこで、絶対タメ口にしなよ!って強要はしてこないすーちゃんがやさしいなって思う。
うーん、別に先生とタメ口で話したくないってわけじゃない。でも、急に切り替えるっていうのも、なんだか違う感じもする。先生と私の関係に新しい名前はついたけど、だからって先生は先生で、何かが変わったわけじゃないし。
「先生も先生で、モネに変わらず敬語じゃん」
「うん、ずっとそうだったし…」
「距離ある~、とか思わないのかなぁ。カレシ感出したい、とかさ」
すーちゃんの質問と感想に答えきれなくて、首をひねりながらケーキを食べる。
「素敵よね」
菜津さんの言葉で、すーちゃんも私もケーキから目をあげる。
「だって、お付き合いを始めたからって何かを急に変えなくても、二人の仲は変わらないってことでしょう。それって、無理がなくて、とっても素敵だと思う」
あ、そっか。新しい名前が付いた関係だからって、何もかも新しくする必要はない、っていうのが気になってたのかも。先生との距離はいまぐっと変わってて、それに私は戸惑ってばっかりだけど、それも先生は私のペースで、って急いだりしないし、だからって待ってもくれなくて。でも、一番大事な話し方は今まで通りでやさしくて。
「うん、私、先生といままで通りにお話しできるのが好きだし、先生が今まで通りに私と話をしてくれるのが好き…なんだと思う」
言ってから、なんだか急に恥ずかしくなってミルクティーのカップで半分顔を隠したら、すーちゃんがキラキラの笑顔でこっちを見てる。
「モネにはモネの恋があるんだね」
「恋…なのかな、そうなのかな」
「モネェ…。それが恋じゃなかったら、先生がかわいそすぎるよ」
あーもー、とやっぱりじたばたするすーちゃんと、そーかな?って首をかしげてる私を、やっぱり菜津さんがニコニコ見守ってくれてる。汐見湯の共同リビングは、いつだって私と先生のことをふわりと受け止めてくれる場所。
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「菅波先生!永浦さんとは順調ですか!」
「えぇ、まぁ。はい」
いや、もう放っておいてくれ、と思いながらも、放っておいてくれないのが中村先生という人物で。
基本的に大学病院では出くわさずに済むお互いの勤務形態なのに、たまにこうしてタイミングが合う。
ましてや、もう少ししたら僕が登米に専従しようという今ならなおさら。
さっき、カンファレンスの前に電話してたのを多分見られたんだ。
まぁ、あんなところで電話してたから見られてても当然なんだけど、お互いの仕事の都合をすり合わせたら仕方ないわけで。だからって
え、でなんで職員食堂のほうについてくるんですか。14時間ぶりにさくっと腹になにか入れたいんですけど。
とにかく出てくるのが早いと定評のあるA定食を受け取ってテーブルに着いて早々に食べ始めていると、真向かいに低糖質高たんぱく定食(開発させたのが中村先生だという噂)を手にした中村先生が座ってくる。
あの窓際とか、場所あいてますよ、とは聞く耳持たないんだろうな。
「いやぁ、姫からも、菅波先生と永浦さんのことはよろしく頼むって言われてましてね」
ふわっとした頼まれごとなんだから、ふわっと放置しときゃいいでしょうが。
あー、もう、話題変えてやる。
「中村先生、さっきのカンファレンスの2例目の件なんですが」
「お、うん、あれが?」
これでさっとモードが変わるところはさすがなんだけど、これで最後までしのげるかどうか。とはいえ、話し始めれば実際気になっていたことで、僕の思考もそれでいっぱいになる。
話の区切りもついて、お互い、仕事中は習い性になった早飯を終えてトレイを持って立ち上がれば、もうすぐに次の予定が迫る時間。
「にしても、菅波先生はまだ永浦さんに敬語なんですねぇ」
って、話題振り戻すし。会話の力技も強すぎだろ、この人。
「人の電話を立ち聞かないでくださいよ」
「聞こえそうな場所で電話しないでくださいよ、そんな大切な人との電話を」
「まぁそれは面目なく…。いや、でもですね」
トレイを返却して抗弁しようとすると、肩をばんばんとたたかれる。
「姫も、『あの二人の距離感の変わり方と変わらなさがねぇ』って笑って言ってましたけど。菅波先生が、菅波先生らしく永浦さんといてくれると、僕もうれしいですよ」
この人はまた、臆面もなくこういうことを言ってくる。実際、森林組合の人たちにも同じことを言われるけども。だからって、何かを急に変えなきゃいけないことはないと思うんだ。
あの森の土地で出会った、特別な間柄になった海の人。関係が新しくなっても、やっぱり自分の足で自分の行きたいところに進むあの人は本当に眩しくて。僕は僕でちゃんとしてなきゃ、あの人の隣に立てないと思うし、それに溺れちゃいけないんだと思う。あの人のためにも、僕のためにも。
ふっと和らいでしまった表情を中村先生に見られてしまって、慌てて顔をこする。
ニヤリと笑う中村先生から、森林組合の顔ぶれが透けて見える。これもきっと筒抜けになるんだろう。
そんなもんだ、と割り切るようになった自分がいて、でも永浦さんとのことは僕だけのことにしたい自分もいて。変わっていくのは環境か、自分か。
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くちづけのあとも
敬語を続ければ
あなたの森で
迷わずに済む
木下/龍也