石世界東海道中記・ルート決定「尾根ルート!!」
「沿岸ルート!!」
クロムと龍水が激しく睨み合うのを、残りの者がじっと見守っていた。
現在、石油探索に向けた会議中である。気球探索チームの千空と龍水とコハク、地上探索チームのクロムと羽京、お便利な会議進行役のゲン、という面子だ。
議題は、相良油田に向かうルート選択である。食料などの資源を求めて、多少の寄り道はするだろうが、やはり主な測量は地上探索チームのルート上になる。今、卓上にある簡易な地図は、千空の記憶に基づくもので、三千七百年前の海岸線の他には、村と富士山と相良油田の三点が雑に示されている。ここに何が書き込まれていくかは、これからの成果次第だ。
ここで、石神村に生まれた探索のプロであるクロム、気球パイロットにして生粋のキャプテンである龍水、エキスパートの意見が真っ二つに分かれてしまい、会議は混迷していた。
クロムの主張は、山の稜線を伝って進む、尾根ルートだ。
「尾根伝いに歩いた方が断然早えーんだよ。相良油田までは、結構距離あんだろ? 気球チームが居たって、地上でも目的地が見えなきゃ始まらねえんだ。見晴らしの良いルートを選んで歩く方が、合理的ってやつだろ!」
対して龍水は、駿河湾を縁取る沿岸ルートを推した。
「今後のことを考えれば、駿河湾を利用しない手は無い。多くの川による汽水域、深海から得られる栄養は、多くの海産物をもたらす。湾内は波が穏やかで、小舟での漁に最適だ。相良油田から石油を搬出するにも、海運が役に立つだろう。海岸線の測量は重要だ!」
「どっちもそれぞれに利点があるっぽいね~。他の皆は、どう思う?」
どちらかが正しくもう一方が間違い、という類の言い争いではない。異なる視点のぶつかり合い、そこにプライドの問題もほんの少し。このままでは永遠に平行線を辿る可能性がある。
そこで、ゲンが一旦、二人の間に入り、クールダウンの時間を設ける。このためのゲンである。
「村の言い伝えでは、『谷よりも尾根を歩け』と言われているな。その方が安全で、歩きやすいらしい」
「そうだな。村の周辺と、相良油田の近くには、海運の拠点を作りてーところだが、中間地点の沿岸には用が無え。元々地図があるんなら、臨機応変にルートを組めるんだがな。とりあえず地図作りのために尾根ルート、か?」
気球探索チームのコハクと千空は、尾根ルートの確実さに惹かれている。一方、地上探索チームの羽京は、中立寄りの沿岸ルート派だ。
「遭難したときは沢に下るな、山を登れって言うから、尾根ルートが安全なのは確かだろうね。でも、龍水の言う駿河湾の利点もよく分かるな。村から東に出る相模灘より、ずっと安全な海だよ。僕らの時代の船は、嵐のときには駿河湾に避難しに行くこともあったんだ」
「嵐を避けられる海、だと?」
コハクの目が煌めく。嵐の日の海といえば、絶対に近付いてはいけない怪物のようなものだ。嵐の日にも安全な海など、まるでおとぎ話だった。あまりの期待の高さに、羽京は慌てて手を振る。
「いや、外海よりはね。風も波も、湾の中はぐっと穏やかになるから、船を守るのに丁度良いんだ。危険には危険だから、わざわざ海に行ったらいけないよ?」
「気球としてはどうなんだ、海上に流させると戻れないとか言ってなかったか?」
千空も興味を惹かれたらしい。
「ああ、沿岸の真上を飛ぶわけにはいかんな。気球は内陸から、海岸線を横に眺めながら進むことになるだろう。難しい飛行になるぜ」
だがなんとかなる、と、龍水は熱量を下げない。
「堅実な尾根ルートなら、地上探索チームのみでも測量できる。気球からの航空支援があればこそ、困難な沿岸ルートを進めるのだ。二チーム制の今行くべきは、沿岸ルート! 違うか?!」
結局、龍水のこの一言が決め手となって、石油探索は沿岸ルートを行くことに決まった。
・函南ヒビの跡が残る龍水の右手が、簡易な地図の上を滑る。石神村が在るのが、伊豆半島の中ほどの東岸。そこから山の稜線を伝って、ほぼ真北へ。
「伊豆半島の西海岸は、起伏が激しかった。三千七百年後の今も、さほど変わらんだろう、海運の拠点には向かん。例の大瀑布あたりまでは、既存のルートから外れる利点は無いな」
「じゃ、そこまではマッピングしながら尾根ルートだな」
「大瀑布を超えるまでは、地上探索チームも日帰り出来るだろう。そこから先は野営続きになる、覚悟しておけ」
クロムと羽京は肉体的な苦労を強いられるだろう。龍水は口調に激励を込めたが、受け取る側は平気な顔をしている。
「まさに探検隊って感じだね」
「そんなの慣れたもんよ、俺に任せとけ!」
これにより、未開の地の冒険は、伊豆半島を抜けてから――となる、筈だった。
・三島富士の裾野を目前にして、大きく崩落した地面。どうどうと流れ落ちていく、大量の水。村の北北西、ここより西への道を断つ大瀑布が、目前に在る。空の特等席から絶景を見渡す気球チームは、その迫力に息を飲んだ。
「これは……想像以上だぜ」
「落差どんくらいだ? ナイアガラの滝と同等なら五十六メートル……いや、そんな数字も意味無えか。下から三角測量すりゃいいだけだ」
「地上から見下ろした時も感動を覚えたが、空から見るとまた格別だな!」
とりあえず、空のコハクと地上のクロム・羽京が、滝の下に降りるルートを探す。が。
「千空、これは厳しいのではないか?」
「もうちっと手前から、沿岸に出るルートを探すべきだな」
気球チームは、南に延びる伊豆を振り返る。
「ふむ、となると三津……内浦湾あたりが狙い目か?」
半島の尾根と石神村のある湖、いくつかの凸凹を経て岬に至る海岸線、その中の一点を指して、龍水は迷いなく地名を口にした。
「テメー詳しそうだな」
「伊豆には別荘があったからな。主要な観光地は把握している。駿河湾でヨットを乗り回したものだ」
「ククク、流石の七海財閥御曹司様だ。頼りにしてるぜ」
・沼津大瀑布から稜線を伝って、南に少し戻る。気球チームの指示に従って山を下り、大きな川を渡って、西へ一山越えると、海に出た。
「クロム、これが駿河湾だよ」
「確かに、波が小せえな。これが、湾、ってやつなのか」
目の前の海は、小さかった。左右は岬が張り出し、左側には小島さえある。波は踝の高さに跳ね、飛沫を散らす風も無い。遠く霞んでいるが向こう岸が見える。何も知らなければ、湖と勘違いしたかもしれない。ただ、鼻に抜ける臭いは、確かに潮風のものだ。
「ここは、駿河湾の中の、更に小さな入り江だね。だからここまで波が無いんだ」
「そうか、だよな。作戦会議のときの地図はもっとでかかったもんな」
クロムは、自分の記憶が間違っていないことに安堵した。
電話が鳴り、千空からの指示が飛ぶ。
「テメーらの居る所が、内浦湾と江浦湾の境目だ。そこから北上して、沿岸を進め」
砂が細かくて歩きやすい。地上探索チームは、伊豆半島を横断してきた疲れも見せず、余裕だな、と頷き合った。
海岸沿いを測量しながら、ひたすら数キロ。巨大な河口に行き当たる。先ほど渡った川がチンケに思えるほどの規模だ。川幅は目測で一キロに及ぶ。もはや川ではなく大河だった。あの大瀑布が、海に流れ込んでいる場所なのだ。
「これは……渡し舟が必要だね」
「おう、筏でも作ろうぜ」
羽京の途方に暮れた呟きに、クロムがあっさり応じる。大自然を受け止める、器の大きさの違いに、三千七百年前の人間は立ち尽くした。現在に生まれ育つ人間は、当たり前のように上流へ向かい、ややあって、連れを置いてけぼりにしていることに気づいた。
「何やってんだよ。上流から船出さねーと、流されて海に出ちまうぜ」
「あ、うん、そうだね。さすがだな……」
羽京は帽子を被り直して、姿勢を改める。まだまだこの世界に向き合いきれていないことを、自覚しなければならない。
その日は、筏の作成に時間を取られてしまい、大河を渡る頃には日が暮れていた。ここに帰ってくるのがいつになるか、そのときに同じルートを使うか不明なため、筏を分解して、ロープ等を回収する。
・愛鷹山大河の向こう岸には、砂浜は殆ど無かった。海に向かって下がる松林の斜面を、横切って進む。
「沼津って、もっと広い平地だったと思うんだけどな」
そぼろ状の赤土を踏みしめながら、羽京は首をかしげる。もちろん河口付近には、いかにも三角州らしい平地もあるにはあったが、内陸の山々との距離の近さから、あれ、こんなものだっけ、と違和感を覚えるのだ。
「このへん、知ってるトコなのか?」
「一回、来たことがあるだけだけどね。深海魚の博物館があったから」
クロムには、深海魚とは何か、というところから説明が必要だった。二人には、先の長い旅程の良い気分転換になった。
煮ても焼いても食えないシーラカンスを冷凍保存する意義について盛り上がったとき――クロムは石化と復活ができれば、いつでも生態観察ができると気が付いた――電話が鳴った。
「なんか沿岸部に、生えてるとか言ってんぞ」
「何が……??」
少し先を行く気球チームが示す場所へ駆けつけると、そこには金色に輝く草が群生していた。その穂の形は、植物に詳しくない羽京にも見覚えがあった。
野生化した小麦だ。
気球チームは、すぐ西の氾濫原をポイントに定めて降下。地上探索チームが着陸ポイントに先行し、安全を確かめて、気球の着陸を支援する。
千空の見立てでは、小麦は収穫期を迎えていると判断された。全員で小麦を刈り取る。
・田子の浦パン作りには紆余曲折あったものの、フランソワの復活で無事に目途がつき、相良油田を目指す旅が再開された。今度は、カメラという便利な科学道具も仲間入りだ。
とりあえず、最前線の地まで進んで、地上探索チームと気球チームが合流。清書したここまでの地図と、実際の地形を照らし合わせながらの作戦会議である。
「随分、平地が少なくなっている気がする。あまり詳しくはないんだけど」
千空が、羽京の違和感を肯定する。
「あ゛あ゛、恐らく、あの大瀑布からこっちが、広範囲に地盤沈下してやがる。低地の何割かは海の底だ」
「なるほど、道理でな。上から見たが、田子の浦が無かった」
その地名に、記憶の片隅が引っかかって、復活者二人は顔を見合わせる。
「田子の浦に……うち出でてみれば、白妙の――」
「富士の高嶺に雪は降りつつ」
羽京が自信無さげに尻すぼんだ後を千空が引き継ぎ、その田子の浦か、と龍水に確かめる。
「その田子の浦、だ。面影も無い」
「おう、なんだそれ。科学用語か?」
クロムが期待の目で見つめるので、千空はのけぞって視線を避けた。
「科学じゃねー。文学だ。短歌っつって……大雑把に言や、物語の仲間だな」
「千空の時代の物語だと! 続きは?」
今度はコハクが食いついた。
「ねえよ。こんだけだ」
今度は龍水が、田子の浦の歌を諳んじる。クロムとコハクは口をぽかんと開けて、珍しく、もう一回、と頼んだ。科学の話なら一度聞けばたちまち記憶するクロムさえも、である。気に入ったのか、と龍水が気を良くしたところに、苦悶の声が冷水を浴びせる。
「「何言ってるのか、全然分からない……!」」
「ああ、古文……。そうだよね。僕らの時代も、勉強しなきゃ何が何だか分からなかったよ」
「ちょっとだけ、ちょっとだけは分かるぞ。田子の浦という場所と富士という場所があって、雪が降っているのだろう」
縋るようにコハクが顔を上げる。
「合ってんぞ」
「で、それからどうしたのかが分かんねぇ」
クロムは頭を掻きむしっていた。
「だから、そんだけだ」
「「そんだけ……?」」
コハクとクロムは途方に暮れた。
「そういうもんなんだよ。短さがウリだ」
科学の話でないために、千空はドライだ。大半が恋愛脳で出来ている短歌の世界。諳んじることは出来ても、好きな科目ではなかったのだ。
「石神村の百物語とは違って、知識や教訓を伝えるようなものではないんだよ。ごく短い詩なんだ」
「シ?」
「そこからだよね……」
羽京の助け舟も、上手くいかない。そこに、バッシィン、とフィンガースナップが響いた。
「クロム、コハク。千空と気球を撮った写真は見たな?」
「ああ」
「見たぜ。舌出してるやつな」
「短歌とは、言葉で作る写真だ。風景や、自分の内面の一瞬の形を、後世に残す方法の一つだ」
科学使いがすぐさま反論した。
「風景なら、写真に残せば良いんじゃねえの?」
「この世に写真機が出来る前の時代のやり方だからな。それに、写真では写せない、風や光、自分が得た感動をも一緒に纏めておける。文学もまた、人類の発明だぜ。俺達の時代にも、短歌の愛好者が居た」
「上手いこと言うじゃねーか、龍水」
「ハッハー、貴様らも説明に困ったときは使っても良いぞ」
「ありがとう。いただくよ」
クロムとコハクがすとんと腑に落ちた顔をするので、羽京は本気で「いただこう」と思った。千空も、問題の解決に満足する。
「写真機が出来る前、か。とてつもない大昔なのだな?」
「ああ。ざっと五千年前だ」
「スッゲー大昔じゃねーか!」
龍水は遥か水平線を望んだ。残りの四人もそれに倣う。歌に詠まれて以来、人類石化直前までの千三百年を在り続けて、石化後から現在までの三千七百年で失われた、見たことも無い田子の浦を胸に描く。復活者である千空と羽京には、一抹の寂しさが込み上げた。百人一首など興味も無いのに、不思議なものだ。
「ブツが無くても、写真があれば、博物館に飾れる。だろ?」
クロムがキッパリと語る。日が傾き始めていた。浅い角度で水面に反射した陽光が、目を刺す。
「短歌を飾ればいいんだ。そのためのもんだろ。すげー綺麗な雪だったんだなって、俺にも分かるぜ」
「ククク、その通りだ。村の識字教育も必要だがな」
良い雰囲気で話が終わりかけたそのとき、ブフゥ、と、失礼な笑い声が響いた。音の出所は龍水だ。
「いや、すまん、新しい田子の浦を名付ければいいだけだ」
発見した土地に好きな名前を付ける。冒険家の言である。羽京は情緒がガラガラと崩れ去る音を聞いた。
「ご、強引な」
「そうでもない。実を言うと、厳密には山部赤人が詠んだ田子の浦は、三千七百年前にも既に無かった。後世の人間が、少し離れた場所に同じ名前をつけて、親しんでいただけだ。よって、俺達にも、新しい田子の浦を命名する権利がある」
「情報の伝達は正確にしろ。いらねーことで騙すんじゃねえ」
文学館にかなり乗り気になっていた千空は、半眼になって龍水を睨んだ。しかし相手は意に介さず、胸を反らす。
「見るからに、百人一首に興味の無い面子だからな。一生忘れられないようにプレゼンしてやったまでだ」
「小細工はメンタリストだけで十分だっつの……」
「あはは。悔しいけど、覚えたよ……」
「俺はけっこー、覚える気満々だったぜ?」
「私も、もっと色々聞いてみたいぞ」
「ハッハー、俺のお気に入りの一首だ。出来る限り強烈に、多くの人間に残したい」
龍水はお気に入りの船長帽を脱ぎ、胸に押し当てる。それは、五千年前への敬礼だった。
船出して、港を振り返れば、その向こうで山に雪が降っている。言葉にできる思いはただそれだけ。それだけで十分の、短い詩。
「船上から見る陸は、特別だ。普段とはまるで違う輝きを放つ。俺は海に出るたびに、この歌を思い出すんだ」
・富士千空は、眼下を流れる川の幅を目測していた。
「富士山を通り過ぎて、富士川っぽい川も見える。ここらが富士市だと思うんだが……富士川ってあんなでかかったか……?」
「さすがに分からん」
しゃーねえ、と気を取り直して、千空は携帯電話の呼び出し音を鳴らす。
「おい地上探索チーム、また楽しい川越えだ。富士川の水量が予想より多い、筏が必要になるかもしれねー。こっちでも材料の目星つけとくが、そっちも心の準備しとけよ」
クロムの元気いっぱいな返事を待って、携帯電話の送話機を置く。気球の下にぶら下がって、視力担当に勤しむコハクが、「『富士』とは沢山あるものなのだな」と声を上げる。
「あの短歌に出てくる『富士』とは、どの富士のことだ?」
「単に『富士』といえば、富士山のことを指しているぞ。富士川も富士市も、『富士山の近くにある』という意味での『富士』だ」
「やはり、あのめっぽう目立つ山は、五千年前でも特別だったのだな」
「コハク達が思うよりも、更に上をいく特別さだぜ。短歌の他にも、様々な物語の舞台に……」
ジリリ、と電話の呼び出し音が、龍水の解説を途切れさせる。
「どうした、クロム?」
『おう、今、短歌の話してただろ?! 俺にも聞かせろ!』
選りすぐりの短歌を百首集めた「百人一首」というものがあるのだ、と教えたことが、百物語を崇拝する石神村魂を震わせたらしく、コハクもクロムも『短歌』なるエンタメに興味津々となっていた。
写真撮影の手を止める羽目になった千空は、早口で「電池の無駄だ今度にしろ集中しろ」とまくし立て、通話を切った。
「何故分かった……探索屋のカン、か?」
「羽京に聞こえたのか……? この高さで?」
「ハッ、聞こえるのなら、羽京がクロムに伝言してやれば良いではないか」
再び、電話の呼び出し音。千空はドン引きしながら応答した。
「……おう」
『風向きによっては、少し、だってよ』
「探索に集中しろ。怪我すんぞ」
『もう電話しねーって。悪かったよ』
クロムはやや名残惜しそうだったが、興味の優先順位としては、依然、探索の方が上らしい。素直に電話を切った。
コハクは悠々と片頬で笑う。
「フッもう邪魔は入らないというわけだな。龍水、続きを頼む」
「ハッハー、こうも熱烈に求められるとはな。欲しがられるのも悪くない!」
「お前らも、ほどほどにしとけよ……」
・薩多峠地上探索チームはいま、図らずも尾根を歩いていた。海岸が切り立った崖になっていて、その上を歩かざるを得ないのだ。波が岩肌に打ち付けられては砕ける音が、始終響いてくる。頭上では、気球が風に流されては戻りを繰り返しつつ、空の視点から地上探索チームのルート取りを助けている。
クロムと羽京は、互いの腰をロープで繋いで、滑落対策を取りながら、慎重に進んだ。足の下で小石が転げ落ちる音がするのが、これまでの道行きより頻繁だった。クロムの経験と羽京の耳が、「ここは危険だ」と意見を共にした。クロムは、羽京とロープで繋がっているとデジャブに襲われるのだが、ここは集中すべき、と意識から追い出している。
携帯電話のベルが鳴る。「ながら通話は危険」と注意されているので、クロムはしっかり足を止める。繋がっている羽京も止まる。露払いを務めている羽京は振り返って、クロムと千空の通話に耳を澄ませる、つもりだった。
危険な峠道から、東側を振り返ったその目には、懐かしい景色が見えた。ほぼ垂直の岩肌を額縁に、荒々しい波打ち際と、狙い澄ませたかのように鎮座する、富士山。三千七百年前には、高速道路が組紐のように下を這って、アクセントを添えていた。
一度来たことがある、どころではない。羽京は何度もこの景色を見た。否、訪れたことなど一度も無いのに、見知っている。季節のニュースで、天気予報で、カレンダーで、浮世絵で、その他諸々、多用されていた絶景。思わず、一歩、来た道を戻る。
「ああ、でも、富士山が違う」
噴火のためにシルエットが変わり、重心が横にズレている。お定まりの構図の中の、確かな違和感。この景色もまた、生々しい三千七百年後の世界だった。
「羽京? 伝言か?」
クロムに気遣われて、羽京は首を横に振る。手元にカメラがあれば、絶対に皆に見せたい光景だった。変わってしまったこの景色。その中に映り込む、石化を免れた人類の生き残り。言葉では何も伝えられない。少なくとも羽京は短歌を詠めない。この場所の地名はなんと言ったか、それすらも知らない。
「富士山が、綺麗だなって思っただけだよ」
クロムは上体を捻って、後ろを振り向いた。よく見えるな、へえ、と、感想を漏らして、姿勢を戻す。羽京と目が合って、その顔が笑っていないことに気づいた。クロムがそこに浮かぶ表情を理解する前に、帽子の鍔をいじる右手に隠される。
「千空は、なんて?」
羽京が何でもないように振舞うので、クロムは何となく引っ掛かりを覚えながらも、聞かれたことに答えるしかない。
「もうちょい内側を通った方が良さそうだってさ」
「了解。ここを測量してから行こう」
クロムは、何の必要もないだろうこの地点を記録に残す羽京に、微かな引っかかりを覚えたが、結局何も言わずに手伝った。
危険な峠を越えると、小さな入り江に出た。龍水は、ここに港があった覚えはないという。新しくできた地形、ということだろう。
谷を越えるのは面倒だったが、足場は先ほどよりしっかりしている。羽京はクロムに問いかけた。
「クロムは、富士山が真っ赤に塗られたら、どう思う?」
「あん? 山を塗る?」
ヤベー科学の話か、と確かめると、地道な作業で塗るだけだよ、と返される。
「赤く塗るって、ナニで? どうして?」
「どうしてだろうね。そこも含めて、ある日突然、真っ赤になったら?」
「なぞなぞ?」
「あはは、ただの質問だよ。引っ掛けは無しだ」
質問を重ねても、羽京はフラットに笑うだけだ。クロムはううん、と唸る。
「とりあえず、不思議に思って、調べに行く。塗ってあるもんを採取して、千空に見せる。千空にも分かんなかったら、皆で調べる……かな」
「それは、嬉しい気持ち? 悲しい気持ち?」
「新しい発見なんだから、嬉しい、んじゃねーかな」
「元に戻したいと思う?」
「ヤベーヤツなのか?」
「赤いだけだよ」
「じゃあ別にいいんじゃね? なんだか知らねーけど、せっかく綺麗に塗ったんなら……」
なあこれ何なんだよ、とクロムが再び確かめる。ゲンの操るようなメンタリズムかと思えば、羽京はただ「与太話だよ」と答えた。
「僕が生まれるずっと前に終わった、戦争の話だよ。そういう計画があったけど実行されなかった、っていう、ただの噂話」
「結局、どうして赤く塗ろうとしたんだよ」
「富士山を見た人が、悲しくなるように」
「赤いと悲しい、か……? 俺には分かんねーな」
「ふふ」
羽京はこもった声で笑った。クロムの前を歩いているので、羽京が帽子に手を掛けなくとも、クロムには表情が読めなかった。
「石神村のクロム、なんだねぇ」
「おうよ、それがどうかしたか」
「三千七百年前まで、ここには日本という国があって、沢山の日本人と、少数のそうでない人達が住んでいて。僕も千空達も日本人で。日本は、日本ではない沢山の国と、色々な関わり方をしていたんだけど……。クロムは、そのどれでもない、でも、どれでもある、ストーンワールドの石神村の人なんだね」
「急になんだよ。……富士山が赤くても悲しくねーから、か?」
クロムは、なんとなく、面白くない話だと思った。まるで、羽京や千空達と石神村の人々は同じじゃない、と断じているようで。
「ごめんごめん、不愉快にさせるつもりじゃ無かったんだ。むしろ羨ましいんだよ。僕らの時代の人間が、どんなに望んだって、学んだって、働いたって、なれるものではなかったから」
勝手に羨ましがられても、クロムは困る。クロムと羽京は対等な仲のはずだ。
「つーか、今は科学王国の科学使いクロム様だぜ。羽京だって、もう科学王国の仲間だろ。羨ましがらなくたって、もうおんなじじゃねえか」
「そうだね、それで十分だ」
羽京は、独りで勝手に納得していた。望むどころか、こんなこと考えもしなかったよ、と、空に浮かぶ気球を仰ぐ。そこには、科学王国のシンボルが描かれていた。
・三保「見ろよ、あの島! 砂が黒いぜ」
クロムが指差したのは、およそ一キロ沖に浮かぶ島だった。此岸からの大雑把な測量で、島の長さは二キロに及ぶ。奥行きは上陸してみなければ分からない。ただ、その海抜はひどく低く、高く見積もっても十メートルも無いだろうと思われた。
「砂鉄かあれ?!」
「さあ……。あの島だけ特に黒いのは気になるけれど、黒い砂浜自体は、そんなに珍しいものじゃないよ」
気球チームの目測と照らし合わせて、一キロ沖、長さ二キロはほぼ確定した。奥行きは最も太いところで一キロ半だという。松林以外は特に見るものなし、上陸せずスルー、というのが千空の指示だった。
「あの黒い砂は?! 砂鉄かもしれねーだろ?」
『龍水が言うには、ただの砂だと。ありゃ三保の松原だ。詳しくは羽京に聞け。以上』
「だってよ、羽京!」
ご指名に預かった羽京は、僕は詳しくないんだけど、と頬を掻く。
「世界遺産、っていう、素晴らしい景色や建物が認定される、肩書き、みたいなものがあったんだ。あの島――当時は確か、こちらと地続きだったと思うけど、あそこから見る富士山が一番綺麗だって言われていたんだ」
「富士山が綺麗な所は、昨日も通っただろ。あそこよりもか」
「まあ、好みにもよるね。三保の松原は、絵やおとぎ話の題材にもなっていて、凄く有名だったんだよ」
「百物語も、俺が面白れーと思う話と、ルリや千空が重要だって思う話とは、違うもんな。でもよ、そしたら、その世界遺産って肩書きはなんなんだろうな。意味無えじゃねえか」
「面白さよりも、重要さで選ばれていたと思うよ」
「羽京は?」
「え?」
「羽京も、あの峠より三保の松原の方が重要だって思うなら、ちょっと見に行くくらい良いんじゃね? 携帯電話置いて、泳いでこーぜ」
富士山のこと無茶苦茶気にしてただろ、行ってみようぜ、ほらほら、と、クロムは目を輝かせる。黒い砂が気になるんだな、と、羽京は言葉の裏を読んだ。
「残念だったね、クロム。もう富士山のことは、気が済んだよ。気球チームの指示に従って、先を急ごう」
ちぇ。クロムは口を尖らせる。
「ルールはルール、か。金狼みたいなこと言うなよな」
・静岡平野が広がっていた。空から見ると、大きな川と数本の小さな川が並行して走り、一つの巨大な三角州を形成しているのが分かる。地上探索チームから、妙に石像の数が少ない、と困惑の声が届く。流されたのか、埋まったのか。一見、穏やかな地形だが、ここにも三千七百年の間に変動があったのだろう。
「内陸の方は、湿地帯か?」
「ハッハー、ここは沿岸ルートで正解だったな。着陸ポイントには困らなそうだ、一度合流するか?」
「その前に、一旦、高度を上げた方が良さそうだぞ。鳥の群れが来る」
バードストライクを回避しなければならない。コハクの警告に従って、龍水は炉に炭をくべる。やがて、ゴンドラの下を白い鳥の群れが埋め尽くした。両翼を広げた姿は、スイカの背丈以上もある。
「大きい……! これは食べ応えのありそうな鳥だな!」
「フゥン、サギか何かか?」
「真上からじゃ分かんねーな」
鳥の群れは、外敵にでも襲われていたのか、暫し空をさ迷ったあと、河口の汽水域に降りていった。龍水が気球の高度を戻していると、地上探索チームから電話がかかる。
『さっきの鳥の群れ、羽京が一羽仕留めたぜ。でも、俺らじゃ何の鳥か分かんねーんだよ。千空、見てくれよー』
「おお、じゃあ、でかい川渡る前に合流しとくか」
鑑定よろしく、と差し出された獲物は、既に首を搔き切ってあった。グラグラするその頭を、おおむね元の位置に戻してやって、千空はじっと観察する。
まず特徴的なのは、三日月形の嘴。水鳥らしい、長い首と細い脚。全身真っ白な羽毛。冠毛は無し。
「本来、日本に居る鳥じゃねーな。動物園から逃げ出したクチだ。それ以上は分からねえ」
「動物園にいる鳥といえば……エミュー?」
「オニオオハシ」
「ハシビロコウ――なわけあるかよ?!」
復活組は勝手気ままに「好きな鳥」を挙げて、千空はついノリ突っ込みした。
「いや、でも、見たことある気はすんだよな……。他に何かあるか?」
羽京と龍水が記憶を手繰っている間、千空は手がかりを探して、鳥の躯をひっくり返す。翼を持ったとき、その内側にきりっとした黒い線が見えた。
「「「フラミンゴ」」」
答えが出たのは同時だった。
「え、でも色が違いすぎるよ」
「アルビノか? あんなに群れで?」
「いやこれで通常だ。フラミンゴの色は餌由来だからな」
「おうおう、俺達にも分かるように話せよな」
「この鳥がフラミンゴだとして、三千七百年前とはどう姿が違うのだ?」
石上村組から待ったがかかり、千空先生の生物学教室が始まる。
「まず、フラミンゴっつーのは、本来、ここから遠く離れた場所に生息する鳥だ。そこでの野生の姿は、鮮やかなピンク色をしている。そこが人間に気に入られて、日本でも飼育展示されてたってわけだ。だが、このピンク色は、餌に含まれるβ-カロテンなんかの色素による発色だから、違う土地に連れてきて適当なもん食わせてると、こうやって白い鳥になる。動物園での飼育は、きちんと色が出るように餌を配合するんだが、人類石化して以降はテキトーなもん食ってるから、群れ丸ごとが真っ白ってわけだ」
「食うもので色が変わるのかよヤベーな! 人間もそうなることってあるか?」
「ねーよ。こういうのは、ごく一部の動物だけだ。鮭とかな」
「鮭……。そんな不思議を持っていたのだな……」
羽京と龍水も、クロムやコハクと殆ど同じ目線で、「へえ、そうなんだ」と感想を漏らした。
「じゃあよお、捕まえて赤い餌を食わせたら、そのピンクのフラミンゴも見られようになるのか?」
「あ゛あ、見られる。餌が用意できればな」
「フゥン、七海動物園か、欲しいな。いずれ作ろう」
クロム達がまた新しいエンタメの復活に目を輝かせる一方、羽京は遠い目で呟く。
「”100万羽のフラミンゴが一斉に飛び発つ時、暗くなる空”、とうとう見ちゃったんだなぁ」
「百万羽もいねーよ。落ち着け」
他の面子はきょとんとしたが、千空には何の話か分かった。
「地球の裏側を目指すんだ、南十字星も見るぞ。良かったな」
「うーん、複雑、かな」
「今度は何の話なのだ?」
コハクに突かれて、ごめんごめん、と羽京が苦笑する。
「昔流行った歌のことだよ。外国の僻地へ仕事に行って、日本の彼女に振られる歌……。千空、意外と渋いね。君の親世代より、更にちょっと昔だと思うんだけど」
「てめーもな。……百夜がよく風呂で歌ってた。俺が百夜を振りまくってたからな」
本格的に宇宙飛行士を目指し始めて以降、百夜はあらゆるイベントに参加できなくなった。入学式や夏祭りなどの定番から、自作ロケットの試験打ち上げまで、後になってから「唆るものを見逃した」ことを知らされ、風呂で泣きながら歌うのだった。
千空にとって、この歌は、愉快でうっとおしい父親のテーマソングだ。潜水艦乗りの羽京にとっては、ストレートに、他人事とは思えない失恋ソングであるようだが。そこは触れさせずに「いい関係だね」と微笑まれるから、千空は、「近所迷惑なんだよ。へったくそで」と冷たく返した。
「俺はその歌は知らんな。歌ってくれ」
「無理無理。難しい歌だよ」
メロディーラインが複雑なのである。更に、間奏が長く、全体を通してドラマティック。羽京は歌に自信のあるほうだが、伴奏も無しに、あの歌の良さを伝えられる自信は無い。
「歌詞の暗唱ならしてやるよ……。それで勘弁しろ」
歌詞だけでも聴き応えのある歌だ。千空の暗唱が終わると、龍水は目を閉じたまま「良い手紙だ。ぜひメロディーもつけて欲しい」と言った。
「歌える奴、早く起こしてーな!」
「うむ。きっと素晴らしいのだろう」
コハクとクロムは、それぞれの胸の内に、メロディーを思い描く。リリアンの歌とは大きく趣の異なるこの曲のことを、二人はまだ知らない。
「あ゛ー、ワンチャン、作詞作曲歌唱のご本人様が無事かもしれねー」
「目標が増えたね。楽しみだ」
・大崩海岸広大な三角州が終わり、再び、海が山際に迫る地形に行き当たる。今回は、波打ち際に荒い石の浜が続いていたので、崖下を歩くことができた。今は干潮だが、箇所によっては、浜の幅が人が通るのにギリギリであるとコハクが言う。潮の満ち引きの確認を怠れば、崖に打ち付ける満ち潮に阻まれて、入江とも呼べないごく小さな崖の隙間に閉じ込められることだろう。幸いにして、海に詳しい龍水と秒数を正確にカウントし続ける千空が、完璧に地上探索チームをフォローしている。クロムと羽京は、指示に従ってせっせと歩を進めた。
暫くして、先頭を行く羽京は警告を発する。
「落石。……逸れたね。だいぶ先に落ちた」
「ここも崩れやすいのか。上行っても下行っても厄介だよなー」
「そうだね。ちょっと待って、まただ」
ゴツン、とクロムの耳にも重々しい音が響いた。人の頭ほどもある石が、二十メートル横を転がり落ちていく。その石は、先に転がっていた石に躓いて、人の胸ほどの高さにまでバウンドし、砕け散った破片を浜に撒き散らした。足元をよく見れば、波に洗われて丸くなった砂利に、角の鋭利な小石が多数交じっている。
二人は、一目散に来た道を戻った。並び順はそのままに反転して、クロムが先頭で羽京が後ろ。羽京はクロムに帽子を被せて、自分は背中の荷物を頭上に担いで身を守る。気休めだが、しないよりマシだ。
携帯電話を背負ったクロムは全力疾走できないが、羽京はクロムを追い抜かして隊列を乱すようなことはしない。着実に、歩いてきたルートを辿り、平地に出ても、十分に距離を取るまで止まらなかった。
石が転がるのを見てから、足を止めるまで、二人とも、一言も口を利かなかった。合図も何も必要なかった。安全な場所まで戻って、ようやく「怪我してねーな」「してない」とだけ確かめ合う。もうすっかり、息の合った相棒になっていた。
「ヤベー! この崖ヤベーぞ! 崩れまくってて近づけねえ! 尾根ルートに切り替える!」
『了解。ルートの航空支援に入る』
・大井川再び、広大な平地の端で砂浜をなぞる。気球チームから『さっきまでの三角州なんか目じゃねえ広さだ』と情報が入るが、地上探索チームの視線から見ても、砂浜の遠大さがよく分かった。
落石多発地帯の迂回で時間を消費したため、地上探索チームは、三角州を中ほどまで横断した地点で野営することとなる。寝床の準備を始めようというところで、帰路に着いた気球チームから連絡は入る。
「どうしたよ?」
『龍水先生のお天気予報だ。上空から西の空を見たところ、明日の降水確率は四十パーセント、だそうだ。通り雨じゃ済まなさそうだから、明日は高確率でフライト無しだとよ。数日、降り続くかもしれねーから、そっちも気をつけろよ」
クロムには、天気の予想をパーセントで表現するという習慣は異質だった。クロムにとっての天気とは、雲がある、風が吹く、毎年の経験、そういうもので予想を組むのであって、降る・降らない・五分五分、の三択くらいのものであった。ところが龍水は、風の速さや空気の湿り気を数字で言い表し、パーセントを使って「予報」を出す。
「それって、明日だけ四十パーセントで、数日降り続くのはどのくらいの確立か分かんねーんだよな。降り続くつもりで野営の準備すっから、ちょっと場所移動するわ」
『それが合理的だな。そっちは頼んだぜ、クロム』
「任せろ。携帯電話はぜってー濡らさねえぜ!」
大小の川が網目のように張り巡る三角州で、何日も雨に振り込められるなど、ぞっとしない。今夜の野営地は、来た道を戻って、山の麓に設営となった。
一晩が経ち、夜明け前。満点の星々が、今夜最後の輝きを放っている。若木を折って作った即席の小屋の中で、ジリ、と携帯電話が鳴る。気球チームの、フライトの最終判断を知らせる定時連絡だった。日の出直後の、風の穏やかな時間を逃さないために、夜明け一時間前の連絡と決まっている。
「おはよう」
毎朝の電話応対は、寝起きが良い羽京の担当になっていた。目覚ましの一音目で行動開始出来るのは、厳しい訓練の賜物である。気球チームでは、パイロットである龍水が直接、フライトの可否を伝えることになっていた。
『おはよう。残念だが、今日のフライトは無しだ。そちらはもう降っているか?』
「まだだよ。ああ、でも、雨の匂いがしているな」
『計器が何もないから、どの程度の雨量になるか分からん。正午に安否確認の電話をかける。そちらも何かあれば、すぐに連絡して来い』
「了解」
電話を切ると、寝ぼけ眼のクロムが「今日ナシだって?」と尋ねた。目覚まし時計に叩き起こされる習慣の無いクロムは、電話に起こされると立ち上がりが遅い。
「ナシだよ。二度寝でもしようか、とりあえず」
長ければ数日に渡る足止め。出ずっぱりの探索を始めて一週間が経つ。骨休めには丁度良い頃合いだ。
二度寝から覚めて、クロムと羽京は朝食を摂る。昨晩のうちに採集し調理しておいた、野蒜と干し肉のスープだ。広葉樹の枝葉を重ねた屋根に、サアサアと雨の当たる音がする。
「石神村では、長雨のときはどう過ごすの?」
「湖で漁くらいはするけど、大体は、家の中でも出来る仕事だな。縄をなったり裁縫したり、最近は携帯電話を作ったり。あと、百物語を聞く。三千七百年前はどうだったんだ?」
「科学の道具が沢山あったから、建物の中でそれを使っていたよ。そういう道具を使う職業は多かったから、仕事の内容はあまり変わらないね」
つまりどちらの過ごし方も、この足止めの間は通用しないということだ。仕事に使う道具も材料も、手元には無い。電話をかければルリの話を聞くことは出来るが、非常時に備えて、電池を温存したい。百物語は一話ずつが長いのだ。
「じゃあ、羽京がなんか話してくれよ。三千七百年前の世界のこと。科学とか!」
「僕は千空みたいに詳しくはないよ……。科学の道具を使うだけの人間だからね。僕が話すより、クロムの話を聞きたいな」
「俺の?」
クロムは訝しむ。クロムが話したいようなこと、例えば炎色反応なんかは、復活者にとってひどく拙いことらしかった。司帝国に捕まった折、他でもない、羽京にも失笑されたことは記憶に新しい。そんなものを聞いてどうするのか。物笑いの種にでもするというのか。
「クロムは、千空から、三千七百年前のことを色々聞いているんでしょ。でも僕は、石神村が過ごしてきた三千七百年間のことは、何も知らないんだ。だから今は、僕が教えてもらう番、じゃないかな」
言っていることは一理ある。何よりクロムには「教えて」という言葉は威力がある。ちょろい男なのだ。
「おう、話してやってもいいけどよ。おかしなところがあっても、笑うんじゃねーぞ」
クロムの張った予防線は、もちろんだよ、と肯定される。それを信じて、クロムは初撃からぶち込んだ。
「俺は、妖術使い、だったんだ。そもそも科学って言葉は、千空から聞いたんだぜ――」
羽京は笑わなかった。クロムが披露する「妖術」のレパートリー、自分の身体で試した薬草の数々、植物の根だと思っていた銀の塊、コレクションの中で一番硬いコランダム。そういった話を、「なるほど、すごいね」と好意的な相槌を挟みながら、真正面から聞き入っている。
そういえば、羽京は失笑したことはあっても、嘲笑ったことは無かったのだと、クロムは気付く。探索の相棒が羽京で良かった。密室で膝を突き合わせていても、喧嘩になる気配が全く無い。もしこれが陽のような奴を相手にしていたら、この半日で何度争うことになったやら。
妖術使いが科学使いに至るまでの冒険譚を、羽京は心底楽しんだ。話は少しずつ、クロム個人のことから、村のことに移り変わる。カセキが作った吊り橋、巫女の結婚相手を選ぶ御前試合、村長がいかに尊敬されるか、百物語がどうやって受け継がれてきたか。少しずつ、少しずつ、その場の勢いも借りて、「クロムが笑われたくない話」から、「絶対に笑われてはいけない話」へ。年下の少年から向けられる信頼が、羽京の身に温かく沁みた。
不意に電話が鳴る。雨雲が立ち込めるので太陽の高さは分からないが、千空のカウントによる正午の安否確認だろう。伸ばした手は羽京の方が早かった。クロムもだいぶ慣れてはいるが、電話の呼び出し音への瞬発力は、復活者かつ社会経験のある羽京に軍配が上がった。
「もしもし?」
『こちらコハク。そちらの様子はどうだ?』
「今のところ問題無しだよ、よく降っているけどね」
「村の方はどうだ?」
羽京の横から、クロムが口を出す。
『こちらもまだ降っている。科学の作業がよく捗っているぞ』
「やることあんの、ちょっと羨ましいぜ。こっちは狭い所に二人っきりだぜ?」
『ゆっくり休めば良かろう?』
「それはもうやった! ほんとに何にもねーから、羽京に石神村の話をしてやってるんだ」
「僕は凄く楽しんでいるよ」
ふむ、とコハクの思慮深い声が聞こえた。
『ルリ姉のことは話したのか?』
「おうよ! 巫女の仕事のこととか、サルファ剤のこととかな」
『羽京』
深刻そうに名を呼ばれて、羽京は思わず姿勢を改める。
「何かな」
『ルリ姉がいかに魅力的な人か、クロムから散々聞かされただろう』
コハクがあんまりしみじみと言うので、羽京は、二人の姉妹愛も相当なのだろう、と微笑んだ。
「凄い人だってことが、よく分かったよ。巫女の仕事は大変そうだね」
『うむ。村人全員にとって、ルリ姉は尊ぶべき存在だ。クロムは幼馴染でもあるから、特に尊く思ってる』
「僕も尊敬するよ」
コハクは次の発言までに、若干の間を開けた。電話の相手から、鈍ちんのオーラを感じている。
『御前試合のくだりは聞いたか?』
「千空が村長になってバツイチになった話のこと?」
「バッチリ話したぜ!」
「凄い武勇伝だったよ。科学王国の語り草になりそうだね」
コハクは結論を出した。ここに脈は無い。羽京に、ルリとクロムの恋路を邪魔するつもりが無いなら、結構なことだ。
『……よろしい。そろそろ切るぞ。電池を無駄遣いするなと、千空先生に釘を刺されたのでな。日没頃にまた安否確認する』
「うーん、あとなんか、面白い話あったかな?」
「百物語を聞いてみたいな。ダメかな?」
「百物語は巫女様から聞くもんだぜ。素人が話して、内容が変わっちゃマズいからな。俺から話すのは無理だ」
クロムは厳かに断った。石神村人として崇拝するものであるのはもちろん、ルリが命懸けで守り続けるものは、個人的にも大切にしたい。退屈に厭かせて弄することは出来ない。
羽京も、そうだね、ごめん、とすぐに引き下がる。
「そろそろ、羽京の話もしてくれよ。もしなんか話すこと思い出したら、また村の話、してやるからさ」
「いいけど……クロムみたいに面白く話せる自信は無いなあ」
「別に良いぜ、暇だもんよ。そうだ、とりあえず聞きたいことが一個あったんだ」
「なんだろう?」
「センスイカンのソナーマンってどんなのだ?」
「ああ……そうだね、まず、潜水艦っていう乗り物のことから、話そうかな」
羽京は、暗い海中を行く船のことを、ゆっくりと語りだした。陸上とは違い、ほんの二百メートルの高低差で世界が変わる、海底のこと。鉄の箱を水に潜らせて、推進力を得るのに必要なこと。
「スゲー! ヤベー! 見てみてえ! 羽京は、その潜水艦を動かしてたんだな?!」
「違うよ」
羽京はクロムの興奮をやんわりと押し退ける。
「ソナーマンは、潜水艦を動かすのには必要ないんだ」
「しんかい」などの探査船には、ソナーマンは乗らない。潜水艦にソナーマンが乗る、その理由はだた一つ、軍事行動を取る故だ。三千七百年前の兵器の在り様をどう説明すべきか、若き科学使いにどこからどこまでを話すべきか。羽京は帽子の鍔を押し上げて、至近距離から、彼の好奇心と向き合わなければならなかった。
「七十億人を復活させるなら、守秘義務も活きている。話せない事は多いし、質問にもあまり答えられないよ」
話せないことがあるのはお互い様だな、と、クロムが事も無げに頷くので、羽京はただフラットに笑った。
再び携帯電話が鳴る。今度も、電話に出るのは羽京だ。くそ! とクロムが盛大に悔しがる。二人の間では、負けられない戦いになりつつあった。
『どうした? 何かあったか?』
電話の相手は千空だった。クロムの悪態を聞いて、すわ問題発生かと尋ねる声に、羽京は苦笑する。
「何でもないよ。どちらが先に電話を取るか、競争しているだけだから、気にしないで」
『テメーら暇かよ』
「あはは、そりゃね」
軽く答えて、羽京はクロムに送話器を譲ってやる。こういう気晴らしはきちんと交代で楽しむのが、密室での生活のコツだ。
「暇に決まってんだろ。俺の話も羽京の話も、大体出尽くしちまったぜ」
『ほーん、そりゃ大変だ。で、そっちの天気はどうだよ』
「相変わらずザーザー降りだぜ。明日はどうなりそうなんだ?」
『パイロット様は、引き続き様子見、だとよ。明日も飛べるか分からねー。問題は特に起きて無いんだな?』
「退屈以外は問題無し。……だよな?」
「食料は数日分あるし、雨水で補給できるから水も大丈夫。土砂災害の兆候も聞こえない。何も問題無いよ」
『おし、じゃあ引き続き待機な』
千空はさっさと電話を切ってしまった。つれねーの、科学の話でも聞かせろよ、とクロムが口を尖らせる。
「寝る前に体を動かそうか? この広さでも、腕立て伏せと腹筋なら出来るでしょ」
「なんだそれ?」
羽京が自衛隊式の筋トレを教えてやると、クロムは意外にもこなして見せた。そもそも基礎的な筋肉がついてなければ難しい動作なのだが、原始的採集生活に生きる探索屋の身体は侮れない。
翌朝。目覚まし代わりの電話が鳴る。電話のベルと同時に、雨音が羽京の耳に飛び込んだ。
「おはよう」
『おはよう。こちらは、今朝は小降りだ。とりあえず今朝のフライトは無し。そちらはどうだ?』
クロムが頭をもたげて、残念そうに唸った。
「昨日と変わらず、よく降っているよ。風が無いから助かってる」
『雨が上がったら知らせてくれ。夕方に、補給に行くくらいは出来るかも知れん』
「ありがとう」
『今日も正午に安否確認する。ではな』
「龍水も大概、つれねーのな」
「向こうは忙しいんだろうね。仕方ないよ」
クロムは電話の短さに不満気だ。起きて半畳寝て一畳を地で行く密室生活、二日目ともなればストレスが表面化してくるだろう。潜水艦乗りだった羽京はまだまだ余裕だが、その手の訓練を積んでいないクロムが堪えられなくなってもおかしくない。何か手を打った方が良いかな、と思案しつつ、羽京はとりあえずの提案を示す。
「二度寝、する?」
「する」
日が高くなったであろう時刻、クロムと羽京は枝を編んだ『玄関』をそっと開けて、空模様を伺う。相変わらずどんよりと雲が垂れ込め、大粒の雨が降っている。地面を打つ水滴が跳ね散り、座った姿勢の二人の頬を濡らした。これでは、どんなに合羽を着込んでも、下からの跳ね返りでずぶ濡れだ。床下浸水を避けるために、小屋の周りに掘った排水用の溝は、満々と泥水をたたえている。川の様子など推して知るべし。
採集にも出ていないので、朝食のメニューは干し魚一択である。ストレス解消の効果は期待できない。
「今日は、なるべく昨日と違うことをしよう」
「違うことって?」
「例えば……午前中は、『一人になる時間』にするのはどうかな? お喋りは休みにして、考え事をしたり、ぼんやりしたり、一人でないとできないことをするんだ。結構、スッキリするんだよ」
孤独はストレス源だが、同じ顔を突き合わせ続けるのもまたストレスになるものだ。雨で足止めになる前から、二人っきりの作業を続けている現状、「二人で居過ぎる」リスクがある。未踏の地を行く石油探索で、仲違いは命の危険に直結する。クロムが羽京に反発心を抱く、という最悪の状況を回避するために、クールダウンの時間を設ける必要があった。
羽京の計算に頓着せず、クロムはとりあえずやってみよう、と同意する。
「じゃあ、電話が来るまでは、お互い一人きりだ。また後でね、クロム」
羽京の言い方は子供じみたごっこ遊びのようで、クロムは思わず笑い声を上げた。
「ははっ! またな、羽京!」
正午の電話はクロムが出た。羽京は腕立て伏せをしている最中だったので、待ち構えていたクロムとは、スタートダッシュに圧倒的な差がついた。
「こちらクロムだぜ!!」
『こちらはルリです。そちらはお変わりありませんか?』
「おう! 問題無しだ!」
クロムの声がワントーン高いのを、羽京はほっこりと聞いている。幼馴染からの通信は、羽京が考えた小細工の数百倍、リフレッシュ効果があるようだ。
「村の方は小雨だって、今朝聞いたぜ。今はどうだ?」
『晴れ間が覗いていますよ。そちらも、早く晴れると良いのですけど』
「ホントだぜ。まあ、まだ二日目だし! 全然平気だけどな!」
拳を握り締めて、クロムは「全然平気」を強調する。ルリからの電話で、もう三日は頑張れる気がした。
『川の近くで野営していると聞きました。様子はどうですか?』
「だいぶ距離を取ったから、分かんねーや。でもおかげで、川が暴れたって安全だぜ」
『さすが、クロムです。私が心配することありませんでしたね』
「そんなことねーよ。ありがとな、ルリ!」
銀狼が聞けば「イチャイチャ」と言い換えるような、他愛もない会話を重ね、クロムは満足げに電話を切った。ルリの声が途切れて初めて、羽京が一言も喋っていないことに気付く。悪いことしたかな、とクロムが表情を伺えば、羽京は苦笑しながら「幼馴染って良いものだね」と呑気な感想を述べた。
午後は、またも羽京の発案で、「マンカラ」という遊びをすることになった。
小屋の地べたに、なんとか手の平四つ分ほどの場所を開けて、駒にする小石を集める。左右の端に大きな枠を一つずつ、その間を上下に分けて、各段に六つの小枠を描く。小枠に三つずつ石を置き、大枠は空にしてある。このゲーム盤スペースを確保するために、クロムと羽京は首を傾けて、頭が屋根を突き破らないように気遣わなければならなかった。
「自分から見て右の大枠が、自分の倉庫。手前側の小枠が、自分の探索できる場所。好きな小枠から石を出して、左から右に一つずつ落としていく。自分の倉庫には置くけれど、相手の倉庫には置かない。でも、相手の探索エリアには落としてしまう――」
羽京が石を動かしてみせるのを、クロムは真剣に見つめた。小さな小さな素材集め勝負という訳だ。これは負けられない。電話勝負以上に。
長く「石拾い」を続ける方法、相手の小枠から石を奪う方法などを一通り聞かせて、羽京は「とりあえず一回、練習してみようか」と、余裕ぶったことを言う。
おう、利用してやんよその余裕。クロムは静かに闘志を滾らせる。最初の一回は、きっと負けてしまうだろう。羽京は、人に教えられるくらいにコレが得意なのだ。だがその後のことは覚悟しろ。
「速さを競うゲームじゃないから、じっくり考えて良いよ」
こういう遊びに付き合って貰えるの嬉しいな、などと言う羽京は、心底良い奴、の顔をしている。だがこれは勝負だ。クロムは全力で食らいつく。
羽京に不満を抱いているのなら喧嘩をする前にゲームで留飲を下げて欲しい、という羽京の配慮は、そもそも不満を抱いていないクロムには通用しなかった。
クロムの連敗から始まったマンカラ勝負は、回を重ねる毎にそれぞれの長考が多くなった。やがてクロムの連勝で状勢が安定する頃、夕方を前に雨が上がる。
村に報告の電話をするべきか、クロムと羽京の意見はピタリと合った。
「どうせ、もうすぐ定時連絡が来るんだから、そのときで良いよな」
「すぐに補給が欲しい訳じゃないしね。ちょっと時間あるし、川の様子を見ておきたいかな」
「おう、木にでも登れば、なんとか見えるんじゃねえか?」
雨降りの間は風が無かったので、木の幹は殆ど濡れていなかった。それぞれに手頃な木を選んで、梢までよじ登る。
「「うわあ」」
眼下に広がる平野では、大小の茶色い線がうねっていた。数日前の川筋とは、少し違う。立派な杉の木が根こそぎ流されていくのを見て、クロムはうんざりとため息を吐く。
「ちくしょー、これじゃ渡れねえ。もう一日か二日だな……」
「明日は天気が良いなら、狩りでもしようかな」
「じゃあ俺、探索な」
あの辺は日当たりが良くて山菜が採れそう、あっちの木はずいぶん弱っているからキノコが生えてる。クロムは目ぼしい所を指差してみせる。この一帯だけ、地図が詳しくなるね、と羽京が応じた。
夕方の電話取り勝負は、羽京が勝った。マンカラでは半日の内に羽京の実力を超したクロムだが、これはどうも才能が無い。或いは、運動神経の差か。
「もしもし」
『しもしも~。そっちはどう?』
今度の電話はゲンからだった。
「雨は上がったよ。でも、川が増水していて渡れそうにない。あと一日か二日は先に進めないよ」
『あちゃー。了解、龍水ちゃんに伝えとくよ。ところでさぁ、二人とも、今時間良い?』
「おう」
「どうしたの?」
電話の相手の都合を気にする、その定型文は、ストーンワールドでは珍しい。
『賽の河原の石積み作業が、終わんなくてさ~。俺が作業してる間、ちょっとお話に付き合ってよ~。それか、聞いてくれるだけでもいいよ。ジーマーでゴイスーラジオ、どう?』
「俺らは別に良いけどよ。携帯の電池は有限なんだぜ」
「ありがたいけど、千空に怒られるんじゃないの?」
『許可は取りました~♪ 雨が上がったなら、補給は出来るわけだしさ~。いいよね? じゃ、ちょっと失礼、よいしょっと』
ゲンの声が少し遠くなる。作業のために姿勢を変えたのだろう。
『ホントさー「楽し」くないのよこれ。何の部品になるんだか、俺にはサッパリ。そっちはどう? つっても、「楽しい」わけないよね~』
時々は送話器の方を向いているようで、声が鮮明になったり遠のいたりと忙しい。とはいえ、特別耳が良くはないクロムにも問題無く聞き取れる。
「暇だけど、結構楽しくやってんぜ。さっきまでマンカラやってたし」
『マンカラ?』
「ゲンは知らないと思うよ。ボードゲームなんだけど、駒が一種類しかなくても出来る遊びなんだ。クロムは凄く強いよ、僕はもう勝てないもの」
「ゲンにも教えてやろうぜ。自分の倉庫に石を集めるんだけどよ、探索エリアに一個ずつ石を落とさなきゃなんねーんだ」
『あー待って待って、聞いたことある気がする。マンカラカラハ? sowingするやつ?』
ゲンがルールの用語を知っているので、羽京は目を輝かせる。
「よく知ってるね」
「そいんぐ?」
『マジックの武者修行で海外行ったときに、ちらっと触ったな~。石を落とす動作を、英語でそう言ったのよ。種蒔きって意味ね』
「タネマキ?」
農耕未経験のクロムには、その言葉がピンとこない。刈り取った小麦は全部食べてしまわずに、種にして関東平野で育てる、とか言っていたのを思い出すが、原野の静岡に出ずっぱりな探索チームのクロムと関東平野の農耕チームは別働隊だ。いまだ経験していない世界である。
「クロムは種蒔きをしたことが無いだろうから……どうしても興味を持って貰いたくて、ちょっと言い方を変えたんだ。ルールは正しく伝えたから、ゲンとも遊べるよ」
「おう、そういうことかよ。まんまと乗せられちまったぜ」
『羽京ちゃん、クロムちゃんと「仲良く」なりたくて必死~! 策士じゃん』
「そんなつもりじゃなかったんだけど……ごめんね?」
「別にいーぜ。楽しかったし」
『クロムちゃん、はまっちゃった? こっちでも作ろっかな。「簡単」そうだし、龍水ちゃんに売れそう』
「流行るといいね」
『大会開いて……マンカラ賭博……うふふ、「面白い」ことになりそう』
クロムは受話器から顔を逸らして、羽京に囁く。
「おう、分かんぜ。今すげー悪い顔してるぞ、ゲンの奴」
「あはは、目に浮かぶよ」
『クロムちゃんが強いってこと、当分は俺達だけの秘密ね? 「仲良く」儲けちゃおうよ♪』
「薄ら寒みい」
「触れ回るつもりもないけど、それは遠慮したいかな」
『ドイヒー! ……はあ、作業終わらせてマンカラ作ろ。「目標できた」よ、ありがとね。あんまり長話し過ぎると千空ちゃんが怖いから、ここらでお開きにしよっか』
「おう、ゲンも頑張れよ」
「おやすみ」
『ありがと~。頑張る~。じゃあまた明日、連絡するね』
電話が切れる。外では、とっぷりと夜のしじまが下りていた。数日ぶりの星空である。
「ちっとも分からん」
「どのへんがメンタリズムだったんだよ」
ゲンの後ろで、龍水と千空が賽の河原の石積みを同じくしていた。作業を手伝うことを条件に、メンタリストの仕事見学を特別に許していたのだ。無論これもゲンの口八丁の成果である。
「楽しい気持ちを強調して植え付けただけよ~。電話一本で出来ることなんて、これぐらいでしょ。派手なイリュージョンとかリームー、リームー」
「その割にウケて無かったぞ」
「愚痴に始まって愚痴に終わったな」
「話の内容なんてどうでもいいの。クロムちゃんと羽京ちゃんに共通のスベらない話、なんて、ジーマーで激ムズだもん。俺、漫才師じゃないし。話の中でね、『楽しい』『仲良し』『簡単』なんかの、ポジティブな単語を印象付けるの。マーキングっていう手法ね」
ほう、それでそれで、と、ネタ晴らしを期待する観客達に、これ以上は企業秘密でーす、とゲンの牽制が入る。
「それにしても珍しいよね。千空ちゃんがヒトの精神状態を心配するとか」
千空はそっぽを向いて耳をほじり、龍水は堂々と指を弾く。
「たりめーだろ。補給線が途切れて徒歩数日の距離に孤立じゃ、遭難と大差ねーんだぞ。誰にでも耐えられるもんじゃねえ。宇宙飛行士の精神訓練だって、もうちょいマシなとこから始めるわ」
「現場の福利厚生は監督者の義務だ。当然だな!」
今朝まで、ゲンは関東平野で畑仕事に従事していた。それをわざわざ呼びつけられて、地上探索チームのカウンセリングを頼まれていた。そして当然のようにドイヒー作業も付いてきた。
「で、どう見るよ、メンタリスト」
電話越しで気分転換を提供することに加えて、クロムと羽京の様子を探るのが、ゲンのミッションだった。携帯電話の電池を食い過ぎない、という制約付きである。
なんてことない仕事だった。
「いやー全然大丈夫でしょ、もう晴れたんだし心配要らないよ。まあ分かっちゃいたけど、あの二人って相当タフよね」
「うむ、船乗りのカンもそう言っている。こんな程度では揺るがない、安定したチームだ」
「あ゛あ、なら良い。引き続き、こき使ってやる」
・吉田三角州を過ぎると、そこから先は、右手に台地を捉えながら、地上探索チームには進みやすい砂浜が続く。気球チームは、台地の奥から斜めに見下ろして、地上チームを支援する。
「海路のために、御前崎の先端まで測量したいところだが、気球をそこまで飛ばすのは危険だな」
「地上探索チームだけで行って頂くか。まあここらの地形は安定してるから、大丈夫だろ。こっちは内陸の航空写真に精を出すぞ」
「相良油田はもう目前なのだろう? 私もしっかり目を凝らすとしよう!」
「相良には断層があるはずだ。上から目視できる形になってるか、分かんねーが……。もし崖があったら要チェックだぞ」
「任せろ!」
気球は、駿河湾の西端を形作る岬の、根元部分を横断する進路を取った。大井川以西の丘陵地。このどこかに、相良油田が隠れているはずだ。
「『遠江』は見られるだろうか。まだ先か?」
滋賀県の「近江」に対する、静岡県の「遠江」、つまり浜名湖は、この先の海岸沿いにあるはずだった。石油探索の合間に、龍水先生の短歌講座は百人一首の枠を飛び越えており、コハクはこの機会に「遠い方の湖」とやらを見たいものだと言った。
「遠過ぎるわ。そこまで西には行かねーよ」
「燃料をつぎ込んで、見えるまで高度を上げれば可能だが……」
「もったいねえ。却下」
龍水から提案が上がるが、千空はにべもない。今はそんな余裕は無え、短歌(しゃしん)でも見てろ、と言い捨てる。
「むう。残念だ」
コハクは名残惜しく、地表よりも遥か遠くまで見通す地平線に視線を送った。文明が復興して長距離移動が容易になるまで、五千年前の歌枕探訪はお預けだ。
・御前崎地上探索チームは、龍水の要請を受けて、岬の先端へ向かった。地上探索チームを支援できない代わりに、地上からの気球支援も受けられないということで、気球チームは村へ帰っていった。
「名前はよく聞いたけど、来るのは初めてだよ」
「有名だったのか?」
「駿河湾の西端の御前崎と、東端の石廊崎は、台風の時によく話題になったね」
「ああ、嵐のときに船が避難するってやつ」
「というよりは……ここから先は、よく荒れるから。波浪注意報とかね」
羽京が測量する間、クロムは海を眺める。この岬も、伊豆半島と同じように、山が海に突き出ている地形だが、より鋭利に張り出している。その先端に立っている今、視界の百八十度以上を、弓なりの水平線が占めた。真右を向いても水平線、正面を向いても水平線、真左を向いても水平線だ。ここにも、丸い地球が在った。
「伊豆がよく見えるね」
羽京は、東に青く霞む、駿河湾の対岸を指差した。あそこから来たんだねえ、と感慨深い呟きが漏れた。
「測量しながらだし、足止めも食らったし、だいぶ時間かかっちまったよな」
「凄く遠くに来た気分だよ」
「三千七百年前の科学だと、ここまで来るのにどのくらいかかるんだ?」
羽京は少し笑う。どのくらい、という程のものではなかった。飛行機を使うまでもなく、新幹線の「のぞみ」は停まらない。
「一番早い乗り物だと、一度も足を止めないくらい」
「やっぱスゲー!!」
クロムの興奮が冷めてから、千空へ、岬の先端に到達したことを知らせる。気球チームはまだ空の上だろうか、もう石神村に着陸した後だろうか。どちらにせよ、千空の調子は変わらない。
『おーご苦労さん。東に戻ったところに、小せえ川あったろ、あれを目印にして明日まで待機な』
「待機? 何でだよ」
『テメーらにはもう一仕事ある。明日までに地図を用意すっから、帰りは指定のルートで帰って来い』
クロムと羽京は、話の続きを察した。千空のゲスい顔を幻視する。おめでとうクロム嬉しいよね、おうあんま嬉しくねーわ、と、視線を交わす。
『陸路も確立させときてーからな。クロム様ご所望の尾根ルート、しっかり測量して来いよ!』
探索の旅は、当分、終わらない。