"その日”のイコさんその日その時、中学生の生駒達人は京都市の武道センターに居た。午後の練習会に向けて、剣道場の掃除と自主練を済ませておく、日曜の午前中の常である。弁当持ちで武道センターに来るのは、生駒を含めて二人だけ。剣道場の隅では、その相棒が胡坐をかいて携帯ゲームに勤しんでいる。同門の中で唯一の小学生、3年生の流星だ。商売をしている両親に、学童代わりに放り込まれて、ここに居る。本人にやる気がある訳ではないので、道着こそ着ているものの、自主練するかどうかは気分次第だ。それでも掃除だけは一緒にやるし、師範が来る午後にはしゃんとするので、生駒も放っておいてやることにしている。
二つの携帯が、ほぼ同時に鳴った。生駒は素振りが良いところだったので、鳴るに任せておいた。流星はすぐにポケモンバトルの手を休めて、己のキッズケータイに応じる。
「もしもし……え、居るよ、武道センターに。何で?」
生駒のスマホが一度切れて、一拍後、再び呼び出す。弁当箱と一緒に手提げに突っ込んであるので、マナーモードの振動がプラスチックと擦れ合い、けたたましい音が鳴っている。このまま無視しては鬼電が続く予感がして、生駒もようやく、素振りを中断した。着信画面には「自宅」とある。
「何やの?」
『すぐ出え!!!』
怒鳴りつける声は母親のものだった。
「素振りがええとこやったん」
『ええとこやってもあかん。今すぐ帰って来ぃ』
母は妙に緊迫した声で、そう命じた。テストの点数がバレた時とも、親戚の危篤の知らせを聞いた時とも違う。息子が未だ聞いたことがない類の声色だ。
「何で?」
生駒はちらりと振り向いて流星を見た。流星も、耳からキッズケータイを外して、こちらを見ていた。
『ええから。鍵返して帰って来ぃ。大変なんよ。あ、待って、今他に誰かおる?』
「流星がおるけど」
『後輩なん?』
「小学生やで」
母の声が、少し色を変える。これもまた聞いたことのない、低く沈んだ、しかし怒りや悲しみより、どこか厳かな。
『分かった。その子、送ってやり。送ったら真っ直ぐ帰るんやで』
生駒はなぜだか、疑問すら口にできなくて、ただ素直に従った。
「おん……。そうするわ」
通話を切って、改めて流星に向き直る。流星は半端にキッズケータイを構えたままで、どうやら生駒が通話を終えるのを待っていたようだった。
「イコさん、オカンが、今すぐ送って貰えんか頼めって」
流星の家も、何かあったらしい。いや、何か起こっているのだ。少なくとも、生駒家だけに留まらない事態が。
「ええよ。今うちのオカンに、送ってやりぃ言われたとこやで」
流星はキッズケータイを耳に押し当て、「ええって~」と呑気な報告した。すぐに通話を切る。
「家どこやったっけ?」
「家やなくて、御陵の祖父ちゃんちに行けって」
「そこんち、今誰かおるん?」
生駒は念のために確かめる。この小学生は、独りの留守番を避けるために武道センターに居るのだ。
「祖母ちゃんがおるて」
「ほうか」
剣道場を水拭きしてから、素足に靴下とスニーカーを突っかけて、上着を着込み、袋に包んだ木刀を肩に、武道センターの事務所に向かう。二人とも家から道着で来たので、着替えは無い。
「すんません、今日は一旦帰ります」
窓口越しに、馴染みの事務員に剣道場の鍵を返す。自身は運動を好まない、中年太りの好人物だ。普段なら「どしたん、補習か?」などと話を転がすはずの彼は、しかし、真面目な顔で頷いたのだった。
「それがええかもな。今日はもう、誰も来られんかも知れん」
何かがあって電車が止まってしまっても、生駒の祖父くらいは来られるはずなのだ。遠くから通う門弟や、老齢の師範はともかく。来られるはずなのに、それを選ばないで、一緒に家に居るだろう母からは、生駒を引き上げさせるという判断が下された。
鍵を受け渡す一拍の静寂。事務所の奥にあるテレビが、陰鬱なアナウンサーの声を微かに届けた。
「……何があったんですか」
もやもやしたものを内に秘めて生駒が問えば、事務員は一瞬、ひどく情けない顔をした。
「分からん。家でテレビ見い。立ち話しとったらだめだよ」
天災ならそう言うだろう。犯罪なら「気いつけや」くらい言ってくれるだろう。”分からん”とは何なのか。生来顔に出ない性質の生駒は、まるで無関心な風に「ほな失礼します」と別れた。
神宮丸太町駅から電車に乗る。御所にほど近いこの駅は、日曜となれば多くの観光客が行き交う。加えて、いつもより子供の姿が多いように感じる。生駒と流星は、木刀が邪魔にならないように気を付けながら、電車のドア際に立った。
「流星ちのオカン、何か言うとった?」
「分からん。何なんやろな」
乗客の頭の隙間から、反対側のドア上の電光掲示板を見上げる。駅を発してしばらくは、次の停車駅を知らせていたものが、ミニニュースに変わる。瓦礫の写真が写る。不自然に細長い写真だ。テロップは「三門市自衛隊派遣要請」とだけあった。
「サンモン市ってどこや」
「知らん」
身長の低さで電光掲示板が見えない流星は、素っ気ない態度だ。飛行機飛ばなかったらどうしよう、明日仕事なのに、と、誰かの囁く声が聞こえた。
何にしろ、市外での事件なら、すぐにどうかなる訳でもないだろう。それなら安心――いや、ならば何故、家に呼び戻されるのか。生駒はもう中学3年生だし、いつも一人で武道センターに来る流星を、祖父宅まで送ってやらねばならない理由も分からない。
電車はすぐに三条駅に着く。ここで地下鉄に乗り換える。降車の客は多い。
「流星、流星、イコさんと手繋ご」
「キショいわ嫌や」
「何や心配になってきた。繋いでくれ」
「嫌や」
「じゃあここで繋ご」
生駒は流星の肩からにょっきり突き出す木刀を掴んだ。離してえ、と相手はぼやく。
改札を抜けて、駅のコンコースを歩きながら、生駒は幼い旋毛を見下ろした。どこで何が起こっているにせよ、この子供を、無事に保護者の下へ送り届けなければならない。それが己の”使命”なのだと自覚した。可愛げのない、生意気盛りの、ありふれた小学生。そしてそれこそ、守るべき、守りたい、大事な後輩なのだった。
「御陵の祖父ちゃんち、嫌いやねん。ゲームできひんもん」
状況を把握していない流星は、そんなことを言う。それでもゴネるわけではないから、ある程度、非常事態ということは分かっているのだろう。
「せやからいっつも剣道場で我慢してるのに、あーあ! つまらん!」
「じゃあ、この間居眠りしてたら溺れかけた話、する?」
「なんて?」
「授業中、机に突っ伏して気持ち良く寝ててん。そしたら突然、口ん中水浸しになって、飛び起きてもうて、先生にめっちゃ叱られた」
「なんで水浸しになったん?」
「涎がえっらい水溜りになってたんや。それが口ん中に逆流や」
「なんだ、そんなこと、俺もなったことあるし。窒息して人工呼吸されたわ」
「えっ嘘やん、おおごとやん、人工呼吸誰にしてもろた? 女の人?」
「知らんわ嘘やもん」
「なんやびっくりしたわ」
「びっくりした顔せんくせに」
「しとるて」
「後ろやから見えんーどうせしてないー」
洛外へ向かう地下鉄は、空いていた。座席に並んで座り、口を噤む。車内でピーチク喋るのはマナー違反なので、しない。大阪のオバハンとは違うのだ。
車内の電光掲示板のミニニュースには、「三門市、自衛隊に災害派遣要請か」と出た。数文字分、情報が増えたが、三門市がどこにあるのか相変わらず分からない。
「サンモン市ってあれのこと? 続き、なんて書いてあるん」
流星が指差す。小学3年生には少し難しいらしい。
「じえいたいにさいがいはけんようせい」
「それってどういうこと?」
「何やえらいこと、やと思う。熊本の地震みたいな」
「城崩れたん?」
「分からん」
ふと、向かいの席で、老夫婦がスマホを見せ合っているのに気が付いた。腕を突っ張ってできるだけ画面を遠くに置きながら、「ニュース出とるわ」と呟く。スマホの通信量を制限されている生駒には、ネットでニュースを調べるという発想は無かった。友達とのやり取りとゲームでカツカツなのである。その手があったなぁ、と、目から鱗の気持ちで、左手の木刀を足の間に挟んで保持した。慣れない地名をスマホに打ち込むには、両手持ちに限る。
件のニュースはポータルサイトのトップに出ていた。三門はミカドと読むのだと、ここで知る。関西から遠く離れた地であるのを、しっかりと確かめた。
”大規模な建物の倒壊 詳細不明 死者30人”
記事の内容を要約すると、そういうことらしい。同じような内容の記事が、詳細不明なまま細部を変えて、大量に掲載されている。
流星はゲームの続きを始めていた。
御陵駅まではほんの3駅。改札前で、流星の祖母は待っていた。誰かの帰りを待っているらしい人が、他にも何人か、居た。
「ありがとうね。あんたも早よ帰り」
流星だけが改札を出て、生駒はすぐさまホームに戻される。ほんまにえらいことなんや、と、相変わらずそれだけしか分からない。
母は自宅の玄関で待っていた。流石に駅まで迎えに来られるほど子供ではない、そのことは生駒の自尊心を救った。
「ただいま」
「お帰り。外、なんも無かったね?」
「なんもやで。何があったん?」
テレビのニュースの声が聞こえていた。居間に入れば、祖父がそれに見入っている。
「流星、送ってやったんか」
「おん」
生駒は生返事を返した。座るのも忘れてニュースキャスターの伝えることを聞く。
『災害派遣要請、とお伝えしておりましたが、総理大臣命令による出撃、出撃、と訂正いたします』
『死者数は数百名を超えるものと見られます』
『現在、分かっている被害地域は、三門市のみですが、範囲が広がらないとも限りません。今後の情報に注意して下さい』
現場の状況として、一枚の静止画が表示される。テレビだというのに全く動かない画面が10秒ばかり続く。倒壊するビル、地面に張り付けられたモザイク加工、そして、前脚を振りかぶる巨大な何か。虫のようで、機械のようでもある、見慣れない、何かとしか言いようがない、何か。
「あれ何なん」
「分からん」
「あれこっち来るん」
「分からん」
「俺どうすればええの?」
「分からん。分かるまで家におれ」
一定のトーンを保ったまま、テンポよく返される祖父の声。何が起こっているかは分からない。だが、祖父と母がすぐ傍に居ることだけは、確かな事実だった。京都市より外の世界がどうであれ、自分は今、安全な我が家の中に居る。この瞬間は生命の安全が担保され、質問への応答があり、当面はどうしたら良いのかを教えてくれる。
小学生の後輩を、送って行って良かった。送って行けと指示してくれるオカンが居て良かった。難しい漢字を読んでやって、「分からん」と答えて、独りぼっちにしなかったことは、きっととても、良かった。
生駒は木刀をテーブルに立て掛け、祖父の隣に座った。母は知り合いに電話を掛けていて、道着を着替えろと叱るどころではないようだ。
「オトンは?」
「今日は仕事や」
「帰って来んの」
「仕事やでな」
大人は大変だ、と生駒は天を仰ぐ。大人が家に帰らないでいてくれるから、電車も動くしテレビが見れるのだ、ということに思い至るほど賢い中学生ではない。
祖父と共にテレビにかじりつく。母はひっきりなしに、知り合いに電話を掛けている。ニュースの内容は15分で一周し、また同じ内容が繰り返される。アナウンサーは繰り返しの台詞を真剣に読み上げ、ニュースキャスターはずっとしかめ面だ。
やがて母は受話器を置いた。
「そうそう、お風呂にお水を貯めてるで、シャワー浴びるんやったら汚さんようにしてよ」
「浸かったらあかんの?」
「お湯じゃなくてお水やって。災害の時はこうするんよ」
母の手によって3人分のコーヒーが淹れられ、テレビ画面の凄惨な映像の合間に、香ばしい匂いが漂った。現場の様子を伝える静止画には、人間の姿は全く無かった。それが不自然であるのだということすらひた隠しにされる。
ニュースの3周目、その途中で生駒は飽きた。三門市以外からの被害報告は無いようだ。その集中力の無さに『他人事』という名前が付くのを自覚しないまま、生駒は口を開く。
「桂川の橋でダッシュババア見た話、してもええ?」
数年後に、あの”大きな何か”と戦う組織に入隊する未来を、生駒はまだ知らない。