『オリジナリティ欠乏症』大学1回生前期、週も半ばの4コマ目。講義終わりのチャイムが鳴り、中学から掛けていた眼鏡を外した。手元30㎝より先はぼやける視界の中で、他の受講生達がてんでに席を立っていく。
「ナオ、あのさ、ちょっと相談なんだけど」
隣で、板書の隅の落書きを仕上げている学友に、声を掛ける。彼はすぐに顔を上げたけど、話題より先に僕の眼鏡を気にした。
「ん? あれ、眼鏡は? 今日最初から裸眼だっけ?」
「今外した、ちょっと歪んじゃって」
嘘だ。真隣に座る友人の表情を見ないために、わざと眼鏡を外したのだ。
「いや、それよりさ。実はこれから、文化祭の音コンのエントリー審査に出るんだけど」
「へー。バンドやってたの」
「や、一人で。そんでさ、一応……これでいけるかなって、意見聞きたくて。Youtubeに上げてるやつ、一曲聴いてくれる?」
うちの大学の文化祭は、5月半ばにある。入学から40日とちょっと。早い。あまりに早すぎる。だがそれでこその利点がある。
僕は高校生の頃から、作詞作曲を趣味としている。作曲ソフトを購入し、コードを勉強し、滑舌を訓練し、英詩のために英会話教室に通い、流行りの音楽を研究し、プロの道への憧れもある。かなり真剣に打ち込んできた。
けれど、そのことを他人に明かしたことは無かった。家族だって、発声練習と英会話教室のことくらいしか把握していないだろう。ただYoutubeでこっそりと発表するだけ。僕はボーカロイドを使わずに自分で歌うから、検索にもろくに引っかからず、動画再生数は3桁に届かない、そんな3年間だった。
そんなスタンスを、変えたい。大学では、さらりと「夢はプロになること」と公言できる、そんなシンガーソングライターでありたい。
文化祭の音コンはその第一歩、ナオに聴いてもらうのは背水の陣を敷くため。1か月ほど遅い大学デビューだ。
正直ちょっと照れくさい。いや、いいじゃないか、大学生は誰しも、大学デビューを果たして良いんだ。この1か月の交流で、ナオは良い奴だと分かっている。聴いてもらう曲は最近では一番の自信作。恐れることは何もない。
「いいけど、俺、詳しくないよ」
「全然、それは全然大丈夫」
「俺も知ってるような曲?」
「や、自分で作った。オリジナルのやつ」
ナオはボドゲ同好会所属で、初音ミクよりもゆっくりの方が馴染みがある、というタイプだ。さっきの落書きだっておまんじゅうだ。だから今回声を掛けた、という部分もある。
ナオにイヤフォンを渡して、スマホの画面に出しておいたYoutube、その再生ボタンをタップする。眼鏡を外してぼやけた視界、それでもまだ安心できなくて、一曲2分46秒の間、ぎゅっと目を瞑って過ごした。
「いんじゃない? 頑張ってこいよ」
あっさりとした、そんな感想が降ってきた。
目を開けると、ナオがイヤフォンを差し出していた。その表情は、ぼんやりと微笑んでいるように見える。
「俺、音楽わかんないから、何にも言えないけど。審査通るといいな」
「サンキュ」
本当に良い奴だ。文化祭に参加することをシンプルに応援してくれている、ただそれだけの、音楽への興味の無さ。それでも一曲聴いてくれる人の好さ。ナオに頼んで良かった。今度何か奢ろう。
1コマ分の空き時間を挟んで、エントリー審査の開始時刻。体育館には、10組もの参加者が集っていた。本番さながらにスタイルを決め込んできたロッカー、全員で着ぐるみを着込んできたブラスバンド、ドラムスティックを回す軽音楽バンド。どこもキャラが濃い。僕はノートパソコンを抱きしめて震えあがった。転ばないために、眼鏡を掛け直したことを後悔した。
音コンは、文化祭当日のパフォーマンスを、来場者が審査する、音楽ジャンル無制限のコンテストだ。当日に審査することこそがメインのイベントなので、このエントリー審査はさほど厳しくない、はずだ。その証拠に、審査する文化祭実行委員の5名は、誰も気だるげな雰囲気を纏っている。
だけど――ああ! 体育館を占拠された運動部員が何人か、隅の方からこちらを見ている。ただの野次馬根性か、あるいは体育館が空くのをじっと待っているのか。
「では名簿順に、演奏を始めて貰います」
エレキギターを構えた二人組が呼び出された。アンプをつま先で操作する仕草がセクシーだった。運動部員が囃し立てる。下品な陽キャめ、と思う反面、好意的なオーディエンスは有難いものだと思う。僕の出番のときも好意的でいてくれるだろうか。
軽音楽バンドが呼び出された。ドラムスティックのパフォーマンスに余念がない。運動部員も僕も、面白く見物した。
着ぐるみを着込んだブラスバンドには、文化祭実行委員が大喜びだった。ステージの上から手を振られて、審査用のバインダーを持ったまま手を振り返している。
ロッカーは、QEENの映画を真似てスタンドパフォーマンスを披露した。あるバンドは運動部員から手拍子を引き出し、あるユニットは命知らずにも、観衆に投げキッスを送った。
どの組も、演奏技術としては、まあまあ、だ。大学の文化祭ってこういう感じだろうな、という、まさにそのレベル。というよりむしろ、お祭りの出し物として特化している。エントリー審査なのに、もう既に楽しい。
僕の番が来た。カラオケ以外では初めての、人前での歌唱。大暴走する心臓を抱えて壇上に立ち、ノートパソコンとスピーカーをケーブルで繋ぎ、オフ・ボーカルのファイルを開く。曲が始まる前の無音の時間を多めに取った、今回のための音源だ。マイクを取って姿勢を正し、眼鏡を外してポケットに入れる。これで観衆の表情は見えなくなった。
ここまで、オリジナル曲を演奏する組は無かった、僕が楽器ではなくノートパソコンを抱えて壇に上がったので、運動部員達は興味津々だ。
歌い始めて――観衆の集中力が切れたのを、感じた。裸眼の視界で表情はぼやけていても、シルエットくらいは分かる。文化祭実行委員は審査用紙に書き物を始め、運動部員はスマホを見た。
楽器を演奏しないから華が無いんだろうか。いいや、そんなことが悪いんじゃない。ステージにぽつんと立って歌うスタイルのシンガーソングライターはいくらでも居て、彼らのパフォーマンスはとても魅力的だ。そんなことが原因じゃない。
ただ僕が、つまらないんだ。
突然、О脚気味の自分が、恥ずかしくなった。胸が詰まって、歌が途切れた。文化祭実行委員は、訝しみもせず、書き物のついでにその空白を聞いている。
ノートパソコンが再生する伴奏だけが、空しく響いている。いいや、本来なら歌が入るということを、誰も知らない。僕しか知らない。だってこれは僕のオリジナル曲なのだから。
僕が歌わなきゃ、誰にも届きっこないのに。
エントリー審査通過のメールが、週末に届いた。すぐさま大学近くのアパレルショップに出掛けた。
ロックのように服装がアイコンとなる音楽ジャンルじゃない。着ぐるみを着る度胸は無い。それでも、観衆の目を楽しませる努力はしようと思った。
学生御用達の店だから、たいてい何を選んでも、年齢に合ったオシャレさは保証されるだろう。泣き腫らした目元によく似合う、赤いカラコンを買った。服選びに悩みに悩んで、それはもう迷走して、最終的に、季節を先取りしたノースリーブを選んだ。ウィッグも試してみたが、着け方が難しくて諦めた。
大きな紙袋を提げて帰る途中、Youtubeのハンドルネームと同じ名前を呼ぶ声が、聞こえた。
一瞬、足が止まって、何も聞こえなかった振りをしようと決意した。だけどナオの姿が見えて、結局、振り返る。
僕をハンドルネームで呼び止めたのは、ナオの所属するボドゲ同好会の先輩だった。以前に挨拶だけ交わしたことがある。ナオと二人、パンパンに膨らんだエコバックを提げたやじろべえになっていて、その薄っぺらい袋には色とりどりのスナック菓子が透けて見えた。
先輩は、ちょっとアルコールの臭いがする口で言った。
「お前、お前だろ、あの曲作ったの?」
僕はナオを見た。ナオは両手を合わせて拝んでいた。
「お前の曲で『狩歌』やったら最高だったぞー! 西野カナより早かった。RTA出来そう」
「かりうた……?」
「歌詞かるた、だよ、かるた! お前も一緒にやるか?」
『かりうた』の漢字変換の仕方は分からないけれど、酔っ払いの誘いが禄でもないことは分かる。
「ちょっと……予定があって」
「先輩、早く戻らないと、セッションの途中っすから」
ナオが先輩の背中を押した。心底申し訳なさそうに、買い出しの途中だから、先輩がごめん、とささやいて、去っていく。
僕は立ちすくんだまま、スマホで『かりうた』を検索し、その足でホビーショップへ向かった。
『狩歌』は、音楽を流してその歌詞を札読み代わりとする、歌詞で取るかるた、という遊びだった。J-POPの歌詞によくあるフレーズが集められ、100枚もの取り札に収まっている。
「君」「僕」「きっと」「愛してる」「運命」そういった単語が聞こえてくるたび、その取り札をサッと取る。そんな他愛ないゲームだった。
買ってきた中古の『狩歌』をベッドの上にぶちまけて、自分が書いた歌詞を見つけては破り捨てる。あっと言う間に8割が消えた。「きっと」「ずっと」は12枚ずつ足りない。
ありきたりな歌詞の何が悪い? それはつまり王道、皆が大好きってことだ。王道を堂々となぞる、それも素晴らしいことだ。けれど、僕は猛烈に、僕が、恥ずかしくて、悔しかった。
流しっぱなしのYoutube再生リスト。そのどれもが、再生数は3桁に届かない。
多くの人の心を捉えることは出来ていない、僕の曲。歌詞かるたを瞬殺するフレーズと、流行歌を研究し尽くしたメロディ。少数派に好まれるような個性すら無いのなら、一体何の魅力があるっていうんだ?
嗚咽が漏れた。スマホのボイスメモを起動した。涙で揺らぐメロディを、どうしたって僕の語彙力を超えない歌詞を、記録した。
例え僕だけの音楽はどこにも無くとも、僕はそれを曲にするしかない。それを僕の声で歌うことを、僕は愛してしまったのだから。
音コンで演奏する曲を、今から変更することはできるだろうか。しょせん大学の文化祭、あまり厳しくないと良いのだけれど。
ボイスメモの録音停止ボタンを、タップする。ディスプレイに静電気で張り付いた紙屑を払い、起動しっぱなしのパソコンに、作曲ソフトの立ち上げを命じる。
新規ファイルの名称は、迷わなかった。そこにこそ僕の音楽が表れると願って。
『オリジナリティ欠乏症』