王維の詩ロケットエンジンLV1の試験運転を終えた、アラシャでの夜のこと。
ゲンが寝る前の用便を済ませ、寝床に向かおうとしたとき、羽京がふらりと現れて、横に並んで歩き始めた。まるで待ち合わせしたかのような自然さだが、そんな約束は一切無かったし、毎晩の習慣でこの場に居た訳でもない。それだのに羽京が待ち構えていたのは、彼の耳による容赦ない足音の特定に他ならない。
用が済んだところを狙っているということは、用を足している瞬間も把握しているということだ。知りたくない事実に勘付いてしまったゲンは、常夏のアマゾンに在るにも関わらず、体温を一度下げる。
だがメンタリストの名に懸けて、付け込まれるような恥じらいは見せたくない。例え相手が数年来の仲間だとしても。
「お疲~、羽京ちゃん。わざわざ何の用?」
挨拶に若干の棘が含まれてしまうのは、ご愛敬だ。
「夜遅くにごめん。少し、話がしたくって。君達が船出する前に」
ゲンは千空達と共に、世界を巡る旅に出ることが決まっている。高性能エンジンを積んだ船を使うとはいえ、暫くは会うことも無いだろう。何か繊細な話をするならば、確かに、今がベストタイミングだった。
月明かりの下、羽京は、左手を後ろに回して、何かを隠し持っている。凶器を握り締めているようでもあるし、贈り物を弄んでいるようでもある。その仕草がゲンの気に障った。
マジシャンに向かって、そーいうことする?
「おっけ~。お散歩でもする?」
「ヘビが出るような道は避けたいね。……石化復活装置でも見に行こうか」
ぶらりと方向転換。羽京は隠した左側を守り通し、ゲンもそれを暴こうとはしない。武士の情けならぬ、マジシャンの情けである。
「……結局、使うことになるなんて、ね」
羽京がこぼす。石化復活装置のことだ。
「まあ、当初の予定通り、てことになるんじゃない? 最初はアラシャの皆で自爆特攻するつもりで建てて、……スイカちゃんやルーナちゃん達を、復活役、ってことで遠くに逃がしたりもしたけど。地球全部を石化光線で包むことになっちゃったけど。まあ、当初の予定通り、じゃない?」
ペラペラ喋りながら、なるほど、羽京はこの件を清算したいのか、と納得する。最後の最後に、WHYマンの通信を使って地球の直径を指定することを、千空にけしかけたのは自分だ。
左手から凶器が飛び出すならこのタイミングか、と思ったが、羽京は「そうだね、そういうことになるのかな」と曖昧な相槌を打つだけだった。
その代わりに、突飛な話題転換が飛び出た。
「ゲンは僕を信用してくれる?」
「え、何、突然……というか、今更?」
「僕は千空達とは違うから、こういうのが必要なんだよ」
左手に何かを隠したまま、羽京は苦笑する。
「これから、別行動になるだろ。ゲンは世界中を旅して、僕はコーンシティの担当だ。……一度、リーダーを裏切ったことがある人間を、管理下から外すのは嫌じゃない?」
「司ちゃんを裏切ったことを、俺が何か言うのはナイでしょ~。流石に。それを言うならニッキーちゃんと氷月ちゃんもそうだし」
「そうだね。コーンシティに、裏切り者が三人集まるわけだ」
「こだわるね。俺が羽京ちゃんを信用するかどうかの言質、そんなに重要?」
「千空と龍水は、どうせ信じるでしょ」
「あ~、そうね。クロムちゃんはチョロいしね」
ゲンは今一度、考える。全ての根幹とも言える燃料、バイオエタノールを羽京達が握る。そういえば、龍水には油田の権利を主張されたのだった。
「悪いけど、コーンをかたに通貨を発行する羽京ちゃんは、想像できない」
「あはは」
石化復活装置の根元に着いた。今は、様々な設計図がベタベタと張り付けられている。敵対していたDr.ゼノの尽力が、目に見える形で、ここに在る。
左手を隠したままの羽京に、ゲンは顎を反らして見せた。仮にナイフが飛び出たとして、それが喉に突き立てられることなど無いことを、ゲンは知っている。
「裏切れないよ、羽京ちゃんは」
「そうかな」
ゲンは、促されて、石垣の上に腰を下ろす。羽京も左側を隠したまま、隣に座る。
「ていうか、WHYマンをどうにかするまでは、誰も裏切れないでしょ。ゼノちゃんですらね。ましてや羽京ちゃんなんか、リームー、リームー!」
「じゃあ、その後は?」
羽京は問いを重ねる。
「…………どうしても言わせたいの?」
蝙蝠男の「信用」なんて、そんな、言ったそばから嘘になりそうなもの。
「プライド高いなあ」
羽京は呆れて、空を仰ぐ。そのまま、慎重に予防線を張り始めた。
「まあいいよ。ただ、これだけ、怒らないで聞いて欲しいんだけど。僕がゲンにこれを言うのは、一生に一度、これが最後だから」
「何よ」
「一緒に、呑んでくれない?」
見上げていた顔をゲンに向けて、羽京は左手のものを明かした。それは土器で作った容器だった。石上村で徳利に使っていたのと同じ形の。フランソワがそれで酒を提供していたのを、ゲンも見ている。
「え、えー……」
それは贈り物であり、下戸のゲンにとっては凶器でもあった。
何が『まあいいよ』だ。どうしても形のあるやり取りを求めるらしい。こんなことならペロッと言ってしまえば良かった。
羽京にしては斜め上に険のある手段、これを読めなかったゲンの負けだった。
「舐めるだけで良い?」
これは取引だ。盃を交わし、お互いの信用をベットする。仲間としての甘えを加えて訊ねれば、快諾が返って来る。
羽京は懐から平皿を二枚取り出し、片方をゲンに渡す。ゲンが礼儀に則ってそれを差し向ければ、羽京はかなりの角度で徳利を傾けた。
「ちょっと――」
ゲンは慌てたが、盃代わりの平皿から酒が溢れることは無かった。徳利の中身は、酸素と二酸化炭素と少しの窒素――千空に言わせればもうちょっとあるかもしれない――、それだけだった。
ああ、やられた。小憎らしい演出だ。
羽京が手酌で自らの盃を満たそうとするので、ゲンは徳利をひったくり、返盃をする。注ぎ方の上手さには自信があった。
盃を、互いの瞳に掲げる。さほど明るくはない月明りではあったが、ゲンの視界には、柔和に笑うエメラルド色の輝きが見えていたし、羽京には、ゲンが堪え損ねた笑い声が届いているのを、知っている。
「「乾杯」」
固い絆を託して、空の盃を、煽る。