いつか面影になる漁船ひとつ通らない海に背を向けて、白い砂浜に、棒切れで刻む物語。『百物語その十八』という仮題。時々、カニを追い払う。海藻を運ぶ子供達が、ちょろちょろと手元を覗き込んでは、チラッと目配せして去っていく。こまっしゃくれた顔をしていても、この島に文字が読める子供は居ない。ネタバレを心配する苦労は、ない。
「百夜、またやってる」
「ねえ、完成したら、一番に私に教えてね」
「一番に教えるてやるのは、太陽さ。そのあと、皆に話して聞かせるからな」
軽くあしらうと、少女が百夜の膝に絡みついた。
「えー、つまんない」
「きっと面白いさ。期待してろよ!」
「そういう意味で言ったんじゃなーぁい!」
「あっはっはは、分かってる、分かってる」
それ以上、聞き分けの無いことを言うでもなく、するりと幼い腕が解かれる。
今日や明日を生きるために、子供達が海草を運んで往復する。海水から塩を取るのに使うのだ。良い歳の大人である百夜は、何十年後を生き残るために、砂浜に物語を書きつける。子供達と、その子孫のために。
血の繋がらない息子を、男手一つで十五歳まで育て上げた実績のある百夜には、どんなに世代を経て血が薄くなったとしても、もちろん、血の繋がりが無かろうとも、もう皆等しく「俺の子供」だと言えた。
皆を愛している。それぞれ大切に思っている。それでもふと手を止める瞬間に思いを馳せるのは、いま耳を掠める笑い声のことではなく、生き別れてしまった、石になってしまっただろう、彼のこと。
”宇宙に行く。ソッコーで行く”
ロケットを自作するところから夢を始めた、宇宙の好きな、科学の好きな、ラーメンの好きな、石神千空という名の、息子のこと。
あの若き傑物と、共有した時間は少ない。目を輝かせて論文に噛り付く夢追い人に、構いたい父親の都合を押し付けて、邪魔するようなことはできない。それは百夜の誇りであった。
道具は揃えた。必要なだけ不干渉を貫いた。夢を追う背中を見せた。旨いラーメンを一緒に食べた。千空が構いに来てくれたなら、怪しい水泳訓練装置だって身に着けた。何度だって愛を伝えた。
そうしてつかず離れずのまま、歳を重ねていく未来があると、無邪気に信じていた。
人類が石になって、生き別れた。
悲しみはある。寂しさはある。悔いはある。辛さはある。過ちも、きっとある。
それでも、父に瑕疵があろうとも、千空の、千空自身の十五年は、あれで正しかったのだと、胸を張って言える。今でも――今だからこそ。
砂浜に照り付ける南国の日差し。日本本土ではとっくに秋でも、この島ではまだまだ暑い盛りだ。上からの直射日光と、下からの輻射熱が、じりじりと肌を焦がす。
頬を肩で拭う。汗の臭いが鼻を衝く。思い出すのは、二人で汗まみれになった、あの夏の夜。
あれはまだ、千空が小学一年生だった頃。
レンタカーで山奥に分け入り、公園の駐車場に自前の天体望遠鏡を据えた。真夏は天体観測に最適とは言えない季節だが、子供の小さな体が凍える心配だけは無い。クーラーボックスにぎっしり詰めた飲み物が無くなるまでは、何時間でも空を見上げていられる。夜が更けるほどに空気が冷え、星が澄んで見えるだろう。
日付を合わせた星座早見表、天体観測の指南書、望遠鏡の取扱説明書までしっかり揃えて、準備万端で挑んだが、お天気の方はそうもいかず、雲の塊が星空に虫食いを作っていた。
働いている百夜と、実験に忙しい千空が、明朝、一緒に寝過ごせる、貴重な夜。降水確率二十%程度では、勿体なくて中止になんかできなかった。
まあそのうち晴れるさ、なんて、口に出すまでもなく、雲が風に流れるのを待った。保冷剤代わりに持ってきたアイスを、早々に分け合って、しゃぶる。
「料理していて、塩と砂糖、どっちがどっちだか分からなくなっちまったとき、科学でどうやって見分ける?」
暇潰しに、そんな問題を提供すれば、千空は人差し指を額に当てる。目を閉じて脳の回路に集中する、その静かな表情は、心底楽しんでいる証拠だ。
「顕微鏡で結晶の形を見る……いや、たぶんもっと道具の要らねえ方法があんな。熱してその反応を見る、黒く焦げりゃ砂糖だ」
「一番簡単な方法を忘れてるぜ、千空」
父親の威厳をチラつかせて、少し、溜める。
「舐めてみりゃ一発だ!」
「科学じゃねえ」
鋭く飛んでくる突っ込み。想定内だった。
「舌の味覚細胞、味蕾が味を感知するメカニズムは、科学だぜ、千空。まだまだカタいな」
逆立ったクセ毛をかき回してやれば、千空は貫禄のある舌打ちを鳴らした。
「そもそも、塩と砂糖が見分けられなくなる事態はやべーな。いくらなんでも管理が甘すぎる。薬品で同じミスをしたら、下手すりゃ死ぬぞ」
「そうだな! 一番大事なとこに目をつけるとは、さっすが千空だ」
「俺は絶対、そうはならねえ」
「信用してるぜ?」
「任せろ」
今ここに暮らす子供達に、同じ問いはできない。海草と一緒に焼いて作る塩は灰色で、砂糖なんか一つまみも手に入らない。見分けがつかないほど白く輝く二つの調味料のことは、もう一生、話すこともないだろう。
あの夜は結局、何時まで粘ったんだったか。尻を直につけて座った、アスファルトはどんなだったか。見えるはずだった星座のいくつかは、山陰に沈んでしまったように記憶している。
それから、そう、なかなか雲が晴れないものだから、ブラックホールが雲まで吸い込んでくれたらいい、なんて与太話もした。あの当時、「ブラックホールは物質を圧縮し続けている」というのが通説だったのだ。
そのとき、まだ教科書に載ることが全てだった千空に、「通説」「俗説」「科学的に証明済みの事」の違いを説明したと思うが、どうだったか。別の機会だったかもしれない。
「通説」も「俗説」も、テレビや書籍では――特に子供向けの簡単なものには――まるで真実であるかのように堂々と記されることがあるが、実のところ仮説でしかない。「科学的に証明済みの事」との区別をつけることは少ない。
何が本当かは自分で探すんだ、と言ってやったとき、見下ろした生意気な笑顔。なぜか脳裏に蘇るのは、十五歳の姿だ。
千空との思い出は、ほんの一秒の煌めきだって覚えていたいのに、脳の海馬は呆気なく、些事をふるい落としてしまう。
千空なら、あの驚異的な記憶力なら、全て覚えているだろうか。親子の時間を、覚えてくれているだろうか。
これ以上古びさせてなるものか。凡人の記憶で構わない。百物語の最後には、きっと千空のことを語ろう。
口伝えて、いつか日本本土に辿り着いて、彼のことが伝説になって、やがて必ずや、彼自身がそれを耳にして。そのときには、百夜自身がもう居ないことを知るだろう。
せめて、息子と話した、素のままの言葉を継がせよう。きっと継いでいってくれるだろう。百夜自身が、積み重ねた歴史になって、伝説になった千空に会いに行こう。レコードよりも一足先に、親子水入らずの時間を持とう。
そのために、まずは、『百物語その十八』を仕上げなければ。
風が、細かな粒子を運んで、書きかけの物語を薄く覆う。軽く息を吐いて、丁寧に文字を刻みなおした。