司帝国風紀委員会全人類が「石化」という災害に見舞われて、およそ三千七百年。人類は、原始的なサバイバル生活を営み、儚げに復活しつつある。
石化から復活した人々のリーダー、元格闘家の司が呼んでいると言付けを受けて、羽京は、彼の居場所である、玉座を据えた洞窟に向かった。
今後の暮らしの相談だろうか、はたまた、何か事件でも起きたのだろうか。ある程度の気構えで踏み入れたそこには、意外にも副将の氷月の姿が無く、代わりに、元新聞記者の南が、司の傍に控えていた。周囲も含めて完全に人払いされており、羽京を含めて三人きりの密談だ。
「……僕に何か、用かな?」
羽京はこのコミュニティの”TOP3”に数えられている。司に呼び出されることは数多くあれど、これは初めての面子である。普段の会議とは違う路線の話だろう。が、悲しいかな、司と話していて楽しい話題になったことはない。お互い真面目な話に終始してしまう。社交性の高い元新聞記者が間に入っても変わりはないだろう。
いや違うか、と羽京は即座に認識を改める。恐らくこの場は、南のための会談だ。間に入るのは司の方だろう。でなければこんな面子にならない。こんな状況で南から羽京に話があるとすれば、やはり、楽しい話ではないだろう。
「どんな仕事かな」
問い直せば、司は「うん」と、いつもの口癖を殊更言い難そうに挟む。
「羽京、君には、内外の見張りを頼んでいるわけだけれど、最近の皆の様子は、どうかな」
「小さな喧嘩はあるけれど、僕の仲裁でどうにかなっているよ。それ以上のことは、ごめん、把握できていない」
何か、知らないうちにトラブルが起きていたのだろうか。密談に呼び出されるほどのことが。背筋が冷える。だが、司は羽京を責める様子は無く、ゆっくりと言葉を選んでいる。
「いや、まだ何も起こっていないはずだよ。ただ……、南が報告してくれたんだけれど、女の子達が、不安になっているそうなんだ」
「不安?」
南の顔を見る。野生動物の脅威、天候の心配、最近確認された、人類の生き残りの村。不安要素を探せばきりがないだろう。しかし復活者の多くはスポーツ選手で、闘うにしろ逃げるにしろ、身体能力に自信のある者ばかりの筈だ。
進行を司に任せていた南は、つっけんどんに答えた。
「猛獣とか、原始人の村が、とかいうんじゃないわよ」
胸の前で組んだ腕、きつい眼差しが、「言わせるんじゃない」と凄む。外敵に対するものではなく、女性陣だけが感じる不安。その意味するところを察して、羽京は顔が強張った。
「うん……。仲間の人数が八十を超えた。そういう問題が起こる頃に、なったらしい。俺の……俺達の不徳の致すところだ」
復活の早かった者は、既に半年以上をこの非日常に生きている。溜まるものもあるだろう。羽京がかつて身を置いていた、長期間を隔絶された空間で過ごす船乗りの世界でも、「陸」というメリハリがあったからやり過ごせたのだ。羽京は基本的に、持ち前の忍耐力で解決しているが、これが全員に、特に思春期を脱していない若者に通じるとは思っていない。司の規格外な精神に引っ張られて、今まで保ってこられた部分もあるだろう。
いま、この世界には碌な治安機関が無い。司のカリスマ性と武力によって、平穏が維持されている。司は仲間を傷つける真似を許さない。だが、その光が届かない暗がりが出来始めたのだ。羽京の耳に囚われぬよう、沈黙のまま、それは影を伸ばしている。
コミュニティのリーダーである司と、女性陣最年長の南が、最初に声を掛けたのが自分だとするなら、それは光栄なことだ。
「羽京君が気付かないのも仕方ないわ。なかなか口には出せないし、羽京君は男だし。でもそれじゃ困るのよね」
「助けて、くれるかい」
いつものなよやかさを捨てた南とは相反して、司の言い方はどこか気弱だった。まるで羽京に断られる可能性があるかのようだ。それは無い。人として。
「力を尽くすよ」
途方に暮れた十代の少年をしっかりと見据えて、弓に触れる手に、力を込める。司は、安心したように肩の力を抜いた。
司さんも忙しいんだから、外で話しましょ、と南に誘われて、司帝国の外周を目指す。
「この話、氷月や陽には……」
「無理」
仲間は多い方が良いのでは、と提案する前から、一言で片づけられた。
「妥協に妥協を重ねて、羽京君って人選なの。本当は司さんにも報告したくなかったわよ。でも、ちゃんと筋を通さないと、司さんを信用していないことになっちゃうじゃない。最低、本当に最低、彼まだ十代よ? こんな話、聞かせたくなかった」
「僕もさっき改めて、気付いたよ。……ごめんね」
「謝らないで。謝らなくちゃならないような状況を作らないで」
「はい」
「よろしい」
さて、話を仕切り直そう。
「僕、男所帯しか知らなくて……正直、自分に何が出来るのか分からない。やるべき事と、やってはいけない事を、指導してほしい」
繊細な問題である。三千七百年前の世相を思い出し、セクハラだの痴漢だの痴漢冤罪だのと単語を思い浮かべてみるが、具体的なものは何一つ見えてこない。
「そのつもりでいるわよ。余計な事までされちゃかなわないもの」
台詞はつっけんどんだが、マニュアルの教示は何よりありがたい。元自衛官としては一番落ち着くまである。
南は、一歩先をずんずん歩きながら、やるべき事の講義を始める。その歩幅は羽京にとって、余裕で並べる程度のものであったけれど、獣道に毛が生えた程度の狭い通路なので、生徒らしく後ろをついていく。
「一番必要なのは教育よ。この世界でも性犯罪は司さんが許さないってこと、はっきり示して。男同士で楽しく盛り上がってるときにも、一回ずつ釘を指してよね」
「分かった」
「もし立会人が必要になったときは、男性代表に呼ぶから。公正な立場であることを期待するわ」
「もちろんだよ」
「それから……基本は私が女性陣の相談を取りまとめて、羽京君との間に立つつもりだけど。私が居ないときの緊急避難先に推薦させてもらうわ。そのときだけは、女の子の味方でいて欲しい」
あくまで「推薦」止まりであることに安堵する。いっぱしの男としては、無条件に信用されるのも複雑なのだ。とはいえ、頼られたものを無下にするつもりはない。
「責任重大だね、任せて。他には?」
「やるべき事はそれだけよ」
「それだけ?」
羽京は目を瞬かせる。まるで僕という人選の意味が無い。
「気をつけるべき音があるなら、注意するけど」
当たり前の提案のつもりだったが、返ってきたのは険悪な視線だった。
「その耳が役に立つと思わないで。声なんて、出せないから」
南は羽京に怒っていたが、その声の揺らぎは、悔しさ、に聞こえた。年頃の女性である彼女は、沢山のものを知っているのだろう。声を出せなかった人を、あるいは、その経験そのものを。
問題の繊細さが、初めて実感を伴う。
「……肝に銘じるよ。やってはいけない事は、ある?」
「そうね、二つくらい。一つは、男同士でも、女同士でも、起こり得ることだから。そこに私見は挟まないこと」
「そうか、そうだね。思い浮かばなかったな」
「もう一つ。女の子に話を聞かなきゃならなくなったら、必ず私を通して。私が話をする。でも報告はしない」
かなりの無茶を言われた。男性代表に立てると言ったそばから、ちょっとあんまりだ。
「それって公正かな」
おかしなことを言ってはいないはずなのに、南の機嫌はどんどん悪くなる。
「セカンドレイプって言葉、わかる?」
「知らない……けど、字面でなんとなく分かったよ。お任せします」
両手を上げて全面降伏を示す。これは確実に、羽京の手には負えない。大人しく、南に顎で使われておくべきだ。
ここで初めて、南は足を止める。司に呼ばれた洞窟からはだいぶ離れて、周囲はうっそうとした常緑樹の原生林に囲まれている。水汲み場や狩場からも方角が外れていて、周囲には誰もいない。込み入った話には最適な場所だが、これ以上離れると、見張るべき物音が聞こえなくなってくる。
「ところで、問題です。あなたはこの状況をどう見ますか?」
懐かしくなるような定型文で、南が向き直る。脈絡の無い出題に、羽京はきょとんと眼を丸くする。しかも非常にふわっとした問いだ。帽子を押し上げて視界を広く取るが、どう見ると聞かれても、森の緑がいっぱい、くらいしか答えようがない。
いや、脈絡が無い、わけではないのだろう。出題者の意図としては。見るべきは景色でなく、出題者自身か。他には登場人物が居ないわけだし、と考えた瞬間に閃きが訪れる。
「人気のないところに二人きり。南ちゃんにはとっては、リスクだね」
「合格。……すぐには分からないわよね。男にとって、女と二人きりになるのは、リスクじゃないもの」
私達がどんなに風に困っているか、分かってほしい。そう言う南は不機嫌を貫いていたが、羽京はそれが信頼の形であることに気が付いた。恐らく自分は試されていて、たった今、危機感を共有することが出来る人物だと判定された。
万が一、羽京がここで手を出すような人間だったら、南はどうするつもりだったのか。自身を賭けた、その度胸に賞賛の眼差しを送る。
「やっぱり、味方を増やすべきじゃない? 特にスキルが必要なことでもないんでしょ」
「馬鹿同士が殴り合うのを止めに入るような面倒見の良さとか、余分な事を言わないでいられる分別とか、持っていない人間は多いのよ。氷月と陽は絶対無理」
「その二人は、まあ、もう分かったけど。大樹はどう? いい子だと思うよ」
「あの子もまだ十代よ。あと声が大きくてデリカシー無いからパス」
「そっか」
このコミュニティ、案外、人が居ない。八十人もいて、大人数特有の問題が生まれて、それでも人材が足りない。復活させる人選がアンバランスなせいだ。年若い女性を守る立場の人間は、司の選定から零れ落ち、砕けている。
それでも羽京は、羽京に出来る事しか、出来ない。
「……僕、なんにも出来ないね」
「別に期待してないわよ」
零れ落ちた懺悔はばっさりと切り捨てられた。羽京の内心など知るよしもない南は、残酷な棘を吐き捨てる。それは、言った本人の意図を超えて、羽京の心臓に突き刺さる。
羽京は、先ほど押し上げたばかりの帽子の鍔を、深く深く引き下げる。
「羽京君はそのままで居てくれれば、それで良いの。余計な事はしなくていいから」