ペルセウス号を知っているか? それはベッドに雷が直撃したかのような目覚めだった。音であり光であり熱であり、それ以上の何かでもある衝撃。俺は寝具を跳ね上げて飛び起きた。
スプリングの利いたベッド。早く激しい鼓動。箔押しの壁紙。荒い呼吸音。ウッディに統一した家具。汗で濡れた手の平。海の色の絨毯。たった今鳴り始めた目覚まし時計。
「なんだこれは」
よく馴染んだ自室である。ごく小さな音量から始まる、気分を明るくするヒーリングミュージックの目覚まし音に包まれて、ごく平和な朝である。
だがおかしい。おかしいのだ。
何故なら俺は、緑の光に襲われて石になった筈なのだ。全人類は石になった。目が覚めたなら、そこには、『再び』文明が滅びた世界がある筈なのだ。
一度目の石化から蘇ったとき、その世界の先達は、ストーンワールド、と呼んでいた。
石と木と皮と紙と、それからガラスと布と鉄、ほんの少しのプラスチック、新たに手に入れたゴム。そんな生活に、もうだいぶ慣れた頃だった。
「ゆ……夢、か?」
枕元に手を伸ばし、目覚ましのスイッチを切る。確かな手応えで、音楽は止んだ。
ベッドサイドのディスプレイを見る。
六月三日、AM五時三十一分。
夢は、どちらだ。
鏡に映る自分は、確かに七海龍水の顔をしていた。顔を洗う水は冷たかった。歯磨き粉は味がした。ドライヤーは熱く、整髪料は匂いがする。
少なくとも俺は今、現実を生きている。
一人きりの朝食の席では、フランソワが控える。いつも通りだ。いつもとはいつを指す? 昨日だ。高校三年次、六月二日。昨日の朝もこうだった。その筈だ。
「フランソワ、俺は今朝、愉快な夢を見たぞ。俺には冒険小説家の才があるのやも知れん」
オムレツを切り分けながら、斜め後ろに語り掛ける。頭の中が、靄のように覆い尽くされたかのような不快感がある。愉快な話として片づけてしまえば、気が晴れるのではないかと期待した。
「冒険の始まりはこうだ。ある日突然、全人類が石になり、そのまま三千七百年が経過する――」
目が覚めれば全てを失っていた。フランソワさえ傍に居なかった。まだ発見もしていない油田の権利を手に入れて、男は再び海に出る。
全て語り尽くすには時間が掛かりそうだ。食事は既にコーヒーを飲み干すのみとなっている。日課では、食休みに読書、その後軽く運動してから登校となる。
「フゥン、時間が足らんな」
残念だが、いつまでも今朝の夢の内容を話しているほど、暇人ではいられない。コーヒーカップを手に取ろうとしたとき、静かに話し相手を務めていたフランソワが口を開く。
「その旅は、どこで終えられましたか?」
「アラシャだ。再び石になった」
「私もです」
今何と言った? ”私もです”――架空の冒険の結末を、同調で返されることがあるか?
出来るだけ平静に振り向けば、フランソワは珍しく動揺を露わにしていた。俺も隠しきれてはいないだろうが。
「……どうやら、私と龍水様は、ほとんど同じ夢を見ていたようで」
二人の人間が、同じ晩に同じ世界の夢を見る。こんなことがあり得るだろうか?
フランソワの眼をじっと見る。フランソワもまた見つめ返す。心のどこかを夢の世界に置いて来た、僅かな寂しさがあった。フランソワの眼に映る俺も、また。
「ハッハー、俺は最悪の目覚めだったぞ。貴様はどうだ?」
「そう、ですね。最悪でした」
口に出して確かめ合う。本来、俺とフランソワの間に、そんなひと手間は必要無い。だがたまには良いだろう。こんな不思議な朝には。
「フランソワ、日課は全てキャンセルだ。貴様もコーヒーをどうだ?」
「有難く頂戴します」
執事は、もう一人分のコーヒーを用意して、対面に腰掛ける。昨日と同じであり、数年ぶりでもある、コーヒーの馥郁とした香りを改めて堪能する。冗談めかしてカップを掲げれば、フランソワもそれに応えた。
「ストーンワールドに」
「乾杯致します」
今と、三千七百年後の世界、どちらが夢か、現実か。どちらだって構いやしない。どちらも手に入れるまでだ。
三千七百年後の俺は、自らの手で七海財閥を興し、世界を手に入れんとした。
そして今の俺は、科学王国を再び手に入れる。我が船を、そして仲間を。
「少なくとも三人、実在する人物が登場したな」
「獅子王司様と、あさぎりゲン様、基本先生ですね」
「奴らも同じ世界の夢を見た。違うか?」
「可能性は高いかと」
「そして他の連中も実在する。千空に大樹に杠……。全て欲しい! 何としても繋がりを作るぞ」
「尽力致します」
「司とゲンにアポイントメントを試みろ。スポーツ選手勢、氷月・ほむら・ニッキーなどもコンタクトが取れるかもしれんな。その辺りは任せる」
「かしこまりました」
「折角だ、文明の利器でも戦ってみるとするか。俺は急な体調不良で学校を休む。後は頼んだぞ」
「御意に」
作戦が決まれば、もう時間が惜しい。熱いコーヒーを喉に流し込んで、席を立つ。どちらにせよ、叔父上が起きてくるまでに退散した方が良さそうだ。何故なら俺は体調不良だからな。
自室に戻り、製図台に用紙を広げる。紙面に蘇らせるは、俺が夢見た機帆船。船首にはゴリラのペイント、手作りのレーダー設備、後甲板のハッチの下にラボカー。自ら設計に携わった船だ。手すりの直径まで思い出せる。
詳細に、綿密に、どこまでも書き込んでいく。別の紙には内装も再現した。ブリッジ、バーフランソワ、船上カジノ。一目で思い出が蘇るように。
仕上げに、お気に入りの万年筆でサインを書き込む。竣工年として、あり得ない四桁の数字も添えて。
ふと、人差し指に滲んだインクが目に留まる。ためらいなくインク壺に右手を突っ込んで、左手で戦化粧を整える。
設計図と右手を一緒に写真に撮るのは苦労したが、人を呼んで手伝わせる気にはなれなかった。これは祈りだ。部外者の手は入れられない。幸い、スマホの最新機種は手振れ補正機能が素晴らしかった。
機帆船の設計図と指を弾く右手。船内のイラスト。添えるのはたった一言。鍵を外したSNSアカウントに投稿する。
『ペルセウス号を知っているか?』
千空の場合
「ご報告申し上げます」
ペルセウス号を書き起こすのに、午前中いっぱいを費やした。昼食後は、フランソワと自室で会議だ。
「司様の所属するキックボクシングジムに、見学の申し込みを致しました。本日の十六時です」
「司は居るのだな?」
「トレーニングにいらっしゃる予定だと伺っております。その後、二十時より、ゲン様とご会食の約束を取り付けました。いつもの店を押さえてございます。基本先生、チェルシー様、及びスポーツ選手の皆様は、所属する組織の回答を待っているところです」
「素晴らしい」
ソファで深々とくつろぎながら、我が執事を賞賛する。時刻は十三時を回った。昼休みが終わる時間だ。端末を取り出して、SNSの反応を確認する。
学校サボって何やってんだよ、と、学友からのコメントが並んでいた。無制限にコメントを受け付けたために、いたずら目的のものも数知れず。仏頂面でスクロールを繰り返すこと数回、彼が居た。
アカウント名、「科学王国」。コメント内容は一言。
『よう。』
これで足りると言わんばかりだ。そうとも、多くを語る必要は無い。仲間ならばな。
「ハッハー!!! 来たぞ、フランソワ!」
「科学王国」アカウントは、無制限にダイレクトメールを受け付けていた。もどかしくアカウントフォローを済ませ、メッセージを打ち込む。
『今日中に司とゲンとは接触できる予定だ。もちろん、フランソワも一緒だ。そちらはどうだ?』
もはや定型の挨拶など無粋だ。千空もまた、夢の続きそのままの調子で、返信を寄越す。ものの数分でのことだった。
『一般高校生に期待すんじゃねえ。ゲンのSNSにコメント飛ばしてみたが、まだ反応が無い。大樹と杠と居る。俺達三人、昨日の夜の記憶が無えんだが、テメーらは何か覚えているか?』
問われて初めて、昨日の夜に何をしたかを思い返そうとした。だがしかし、ぽっかりと空白があるばかりで、食事のメニューも余暇の活動も、何も思い出せない。まるでその時間が存在しないかのようだ。
「フランソワ、昨日の夜に何をしたか覚えているか?」
念のために訊ねてみるが、やはり、何も思い出せないという。
『俺もフランソワも、何も思い出せない。空白だ』
『実験に使ってたツバメの石像が無い。インターネットからも、関連するSNS記事が消えた。俺はそっちを調べたい。人集めはそっちに任せる』
千空ときたら相変わらず雑だ。七海龍水の労働が安くないことを、恐らく分かった上で、自ら後手にまわっていく。
『ほう? 俺が集める仲間の連絡先、貴様も欲するというならば高くつくぞ』
『要求は何だ。ドラコは持ってねえぞ』
『俺の船に乗れ。大樹と杠もだ』
『交渉成立だ』
即答だった。幼馴染達本人の意思確認は取ったのか、いや取っていないだろうが、あの三人ならそれもアリなのだろう。
実に雑な決断である。行先も季節も航行日数も確かめていない。ゲンが居ない交渉など、こんなものだ。フランソワは、俺の表情だけで状況を理解し、祝杯のドリンクを用意し始めた。
手付だ受け取れ、と、俺のメールアドレスから住所まで入力し、送信ボタンを押した。
司の場合
平日十六時のキックボクシングジムというのは、人数こそまばらなものの、非常な熱量を帯びていた。別の本業を持つライトな会員が訪れるには早く、プロ及びそれを目指す若者だけが、口数少なにサンドバックを叩いている。
「司の姿が見えんな」
「今日は少し遅れるようで……」
俺のぼやきに、ジムの会長が薄い頭を搔く。こちらの目的が獅子王司だということは、向こうも把握してはいる。だが、名目上はただの施設見学だ。司に接近するのに最も手っ取り早いやり方だが、会長によるジムの売り込み、というジャブがねじ込まれてしまった。知見を広げる、いい機会ではある。
時間潰しに、いくつかのトレーニングを体験する。スポーツジムは自宅に備えつけのものがあるが、格闘技に特有の、反射神経を鍛えるメニューは初体験だ。なかなか面白い。このトレーニング器具、欲しい。
うっかり夢中で体を動かしていたところ、ふと視線を感じて振り返れば、長髪の男が立っていた。露出の少ない現代の一般的な衣服の上からでも、隆々とした筋肉がよく分かる。獅子王司のお出ましだ。
霊長類最強の高校生は、愕然と口を半開きにして、俺を熱烈に見つめている。スポンサー候補がスケジュールにねじ込んで来ることなど、大して珍しくもないだろうに、まるで信じられないものが目の前にあるかのようだ。実に愉快だ。
当たるぜ、船乗りのカンは。司は昨晩、俺の姿を夢に見た。ならば自己紹介は要るまい。
「ペルセウス号を知っているか?」
ニヤリと笑ってみせれば、司は数秒、硬直した後に、表情を和らげた。
「――うん。知っているとも」
司は、会長の期待の眼が気になるようで、一緒にロードワークでもどうだい、と提案した。フード付きのトレーニングウエアで髪ごと容姿を隠し、路上に出る。なおフランソワは留守番である。
「妹はどうしている? 容体は?」
二人っきりになって、真っ先に確認するべきはこれだ。わたあめやラーメンを売ってドラコを稼ぐ獅子王未来は、俺にとっても、大切な取引先だった。石化時は脳死状態で、六年間寝たきりだったことは聞き及んでいる。彼女の健康状態は最大懸案事項だ。
司は、横を走る俺の顔を真っ直ぐ捉えて、花が咲くように笑った。
「今朝、目が覚めたよ。実はさっきまで見舞っていたんだ」
「そうか……! そうか!! 何よりだ!!」
今朝の目覚めは衝撃的だった。あの雷のようなものが未来にも訪れて、それが意識を呼び戻すことになったのかもしれない。
「検査やリハビリで、入院生活は続きそうだけどね。それでも、見通しは明るい」
ランニングコースは司任せだ。大通りへ出る前に路地へ折れて、公園の外周へ。プロのスポーツマンではない俺にさえ、余裕が持てるペース。ただ話をするために走っている。
「ならば花を贈らせてくれ。部外者の見舞いはできるか? 生花の持ち込みは大丈夫か? 食事に制限は?」
「ありがとう。お見舞いと食事は、まだちょっと。生花は大丈夫だよ」
さて、それでは、心置きなく取引を始めようではないか。
「貴様ら兄妹、俺の船に乗らないか?」
「……時間が取れないな。もう少し、興行を続けるつもりだから」
「ハッハー、スケジュールは考慮しよう。今すぐ太平洋横断に付き合わせるつもりもない」
「それなら、うん、未来の負担にならない程度に」
「もちろんだ」
バッシイーン、とフィンガースナップを決める。こいつめ、妹の回復で相当ハイになっている。まるで隙だらけの取引だ、千空よりはだいぶまともだが。
「他の乗組員も必ず集めるぞ。早急に南と連絡を取りたい。頼めるか?」
「以前に取材を受けたからね。自宅に名刺を残しているよ」
「うむ。そうだ、俺はこの後、ゲンと会食するつもりだ。貴様もどうだ?」
「折角だけど」
拳士の頬は緩みっぱなしだ。目深にフードを被っていても分かる。
「今夜は未来の病室に泊まるつもりだから。君の話もしてやらないと」
「それはそうだな。――南の件、すまんがくれぐれも早急に、頼むぞ」
「分かっているよ」
南の場合
十九時。しっかり汗をかいてしまったので、会食に向けてシャワーを浴び、着替えようというところで、司からメールが入る。南の連絡先を記し、『本人の許可は取った』とだけ付け加えた、簡素なものだ。早急に、という望みを、しっかり叶えてくれた。浮かれていても律儀な男だ。
司から話がいっているならば、ラフにいこう。すぐさま電話を掛ける。
『もしもし――』
濡れ髪から雫が垂れる間も無く、南の応答。
「龍水だ。話は聞いているな?」
『だいたいね。乗組員集めに、私を利用したいんでしょう?」
話が早くて助かる。生き馬の目を抜くマスコミ業界に身を置く南は、自分が利用されることに不快感も見せず、単刀直入に話を進める。
「貴様も乗れ」
『司さんが乗るんだから、そりゃ、乗るわよ』
やはり最初に司を押さえておいて、正解だった。やつの求心力は計り知れない。フランソワの調整の賜物だ。
『乗組員集めに協力しても良いけど、条件があるわよ』
「フウン、当然だな」
『今後、君がマスコミを呼ぶときは、必ず私を指名すること。広報でもスキャンダルでもね。それから、直接、誰かの連絡先を渡すのはナシ。まず私が連絡して、本人の許可が取れたら、そっちとの橋渡しをするわ。拒まれたら、そこで終了。分かった?』
情報を尊ぶマスコミとして、真っ当な条件である。もう少し高値でも買うつもりだったが、この世界でも司と親しくするきっかけ作りへの、謝礼が含まれているかもしれない。
「いいだろう。コンタクトを取るときは、千空やゲンも乗るぞ、と伝えてくれ」
『手が早いわねぇ……』
ゲンのことはまだ未確定だが、このくらいの勇み足はご愛敬だ。それに、エンターテイナーであるゲンだけは、「札束で頬を叩く」という手が使える。船上でのショーでもオファーすれば良いのだ。科学王国一、手に入りやすい男と言える。
一方で、財閥の御曹司にはどうしても手に入れ難い者達がいる。公務員だ。
「特別に急いで欲しい相手が居る。羽京だ。海に潜られたら手が出せん」
『個人的な連絡先は知らないわ。職場に問い合わせるくらいしか出来ないわよ』
「それでも、南から手を回すのが一番近いだろう。頼む」
『いいわ、明日の朝一でやってあげる』
それでもきっと長期戦よ、向こうから連絡して来てくれなきゃ、と、最後に南はぼやいていた。
ゲンの場合
馴染みのフランス料理店で、いつもの席に座り、鼻歌交じりに会食の相手を待つ。
細やかな男だ。事務所を通じて突然捻じ込まれた、御曹司との会食にあたって、SNSの一つもチェックしない訳がない。フランソワがいたずらコメントの掃除をしたので、かなり見やすくなっている筈だ。今頃はあの書き込みを見て、会食の理由を把握していることだろう。
ゲン本人のSNSは、今朝の六時を最後に更新が止まっている。『今日は一日中、旅番組のロケ』とのことだ。
約束の時間の五分前に、待ち人は現れた。およそ芸能人とは思えない正確さである。船において遅刻は絶対に許されない。それでこそペルセウス号の乗組員だ。
ゲンの髪は黒かった。目に馴染んだストーンワールドの服装でもなく、テレビで見かけるステージ衣装でもない。店のドレスコードにギリギリ抵触しないジャケット姿が、俺にはかえって奇妙に見える。
ゲンは、俺の姿を見とめるなり、ウェイターを置き去りにしてツカツカと歩み寄った。目が据わっている。
「龍水ちゃん、俺、コーラ置いてる店が良いんだけど!」
「ご安心ください。特別に用意して御座います」
「フランソワちゃんゴイスー?!」
ゲンが自分で椅子を引こうとするので、フランソワがそっと手を出した。おっとメンゴ、ありがとう、などと右手で礼をする姿はなかなか浮足立っている。
ウェイターに片手を上げて見せて、食事を運ぶよう促す。
「貴様、SNSを確認したのは、ついさっきだな。違うか?」
「旅番組ロケって忙しいのよ、ジーマーで」
「千空が、メッセージを送ったが返事が来ないと言っていたぞ」
「さっき送ったよ。ていうかそこはもう繋がってるのね。ああ、もう、後手後手」
「ハッハー、察しが良いな。奴とは既に取引を結んだ。貴様の出る幕は無い」
悪辣に笑ってやったところで、食前のドリンクが運ばれる。当然、コーラだ。ゲストに合わせて、今夜は俺もコーラに付き合うつもりでいる。
「まずは、再会に乾杯」
「乾杯」
グラスを掲げて、独特のコクを味わう。科学王国謹製のものとは風味が違う。懐かしいような、かえって新鮮なような。
「で、どんな取引したの?」
「千空、大樹、杠の三人が俺の船に乗ることと引き換えに、俺が集めた仲間達の連絡先を共有する」
「同じ船に乗るなら、乗組員名簿なんて共有されるもんじゃない……?」
「フフン」
前菜が運ばれた。野菜のマリネ、イクラで彩られたスモークサーモン、手作りのポテトチップス。フィンガーボウルが気が利いている。コーラとスモークサーモンのマリアージュもまた、悪くない。
「ちなみにその、船に乗るっていうのは、どういうクルージングなわけ?」
「未定だ。つまり無制限と言える」
「ぐっふぅ……。ドイヒー……」
「貴様も乗れ」
ゲンは野菜のマリネを噛み締める。偽悪的な笑みを浮かべているが、舌は三千七百年ぶりの栽培品種の味の虜だろう。
「船に乗ることで、俺に何のメリットがあるわけ?」
「勘違いするな、いちエンターテイナーを俺の船に乗せることなど簡単だ。俺の財力を舐めるなよ。今は貴様の個人的な意向を聞いている」
「わあ恐い。そーね、今度は危険な旅ってことにはならなさそうだし、とりあえず一回は乗ってもいいよ。俺も乗組員名簿欲しいし。でもスケジュールは仕事優先ね。機帆船でアメリカとか、大圏航路でもリームーだからね」
「構わん。司と未来も、ほぼ同じ条件だ」
「そこももう済んでるの?! えっと、未来ちゃんは――」
「今朝、目が覚めたそうだ。心配いらん」
「ああ~、良かった。ホント良かった。他には? 誰と連絡ついてるの」
「あとは南もだ、それで全部だがな」
「軒並みビッグネーム押さえてるぅ……。一日目なら十分じゃないの」
ゲンはフォークを置いて、ポテトチップスを指でつまむ。暫し無言。
フィンガーボウルで指を濯いだタイミングで、スープが運ばれた。黄金色のコンソメにスプーンを差し入れる。料理の色を活かす、白磁の器。
「だが、辛うじて最難関に着手できたところだ。かかる時間もコストも未知数、場合によっては、ゲン、貴様が動いた方が早いかもしれん」
「え、誰のこと? ルーナちゃん達?」
「ルーナはアメリカの探偵に依頼した。恐らくなんとかなるだろう。――金の力を使えば、絶対に手に入らなくなる立場の者が、二人居るだろう?」
「あー、羽京ちゃんと陽ちゃんね」
「正直、陽は何とかなる気がしている。行動が目立つしな。問題は羽京だ」
「石化時に陸に居たことは確定、どの辺で起こしたかは司ちゃんに聞けば分かる。同姓同名の人もそうそう居ないだろうから、特定は早いんじゃない? いや、でも、自衛隊を通じて個人的なやり取りってできるのかな。うわ、できなさそー」
「そういうことだ。とりあえず南に頼んであるが、全くどうしたものか。メンタリストの視点から見て、どうだ? 奴は俺のSNSに行きつくだろうか」
「羽京ちゃんのパーソナリティとして、考えは理想家で行動は慎重――期待薄だね。ストーンワールドでのことは、羽京ちゃんにとっては黒歴史な部分もあるから。そもそも、夢の中の出来事として片付けちゃうかも」
魚料理は、タイのポワレ。ほっくりとした身とパリッと焼いた皮、添えられたベビーリーフの爽やかさが粋なものだ。やはり食事はバランスが大切だ。魚も決して悪くないが、肉や野菜と共にあってこそ輝くのだ。
「ぶっちゃけ俺も、今日は仕事が忙しくて、夢のことはあんまり考えなかったもん。なんか凄いもの見たな、とは思ったけど、夢は夢だしね。なんか、きっかけが無いとな~」
「俺が、ただの夢では済まないと思ったのは、フランソワと同じものを見たからだ。千空も、恐らく、似たような経緯だろうな」
「それに近いアンカーを打て、ってわけね」
この店は本格フレンチのため、魚料理の後に、一旦、ソルベが供される。
レモンの氷菓の最後の一口をすくうまで、ゲンはしばし黙った。
「言っとくけど、俺のメンタリズムは安くないからね?」
「貴様にも利益のあることだろう」
「別に俺は、羽京ちゃんに一生会えなくても困んないけど? むしろその方が、嫌なことも思い出さずに済むし、お互い心穏やかに過ごせるんじゃないかな~」
ゲンは薄ら笑いを浮かべて、グラスを干す。
肉料理。俺のリクエスト通り、牛フィレのロッシーニ風。ステーキの上にフォアグラのソテーが鎮座する、圧巻の姿。一口分切り分けて、ナイフでソースを絡めて、味わう。シェフめ、相変わらず良い腕をしている。
「フウン、飲み物のお代わりはいかがかな?」
「いや流石に――」
フランソワが有無を言わさず、グラスにコーラを注ぐ。俺もグラスを干して、同じように給仕を受ける。ゲンは固唾を飲んで、黒褐色の液体を見つめた。
「フォアグラにコーラはさ、お店が怒るんじゃない?」
「ゲン、貴様の技術を手に入れるための席だ。これくらいはするさ」
喜ばせようと思ってグラスを掲げたのだが、ゲンは眉間に皺を寄せる。指摘する前に、自らそれを揉み解して、蝙蝠男は溜息を吐いた。
「龍水ちゃんさあ、いっつもこんな口説き方してるわけ?」
「好みではなかったか」
「庶民には辛いわー。俺は自分を高く売りたいだけなの。おいしい仕事回してくれれば、それで良いから」
「知己の男を金だけで買うのは芸がない」
「ほんともうやめて」
やけくそのように、ロッシーニを大ぶりに切り分けて、口いっぱいに頬張るゲン。幸せそうに顔が緩む。偽悪の時間が終わりなら、少しからかってやろう。
「心にもない言葉を吐くから、心尽くしのもてなしに耐えられないんだ。違うか?」
「うんまあ、自分でも無理があったと思うよ。科学王国が集結するのに、羽京ちゃんが居なかったらツッコミが足りない」
もういいでしょ、俺もその道のプロは尊重したいの、ノンアルコールワインちょうだい、と殊勝なことを言う。全く、俺の贔屓の店を舐めている。
「ハッハー、気にするな。いつもと味付けが違う。これはコーラに合わせるためのロッシーニだ」
「ひぃ……。だからそういうところがこわいの……」
大樹と杠の場合
リムジンの後部座席に据え付けたディスプレイが、ほんの数秒、ローディングを示す円環を回した。Web通話のアプリが立ち上がり、画面の向こうに三人の少年少女が映し出される。俺の知っている彼らよりも、ほんの少し幼い顔。
時刻は二十一時三十分。コンプライアンス上、十八歳以下と連絡を取り合うには遅い時間だが、当の本人達は無頓着だった。科学の光を余すことなく享受する彼らは、肩をくっつけ合って一つのカメラを共有している。
「え、杠ちゃんも居るの? もう夜遅いよ、親御さん心配しない?」
ゲンの、社会人としての配慮は、「大丈夫、千空君のところに居るって連絡したから!」と、元気良く無下にされる。この三人の信頼関係ならば、それもアリなのだろう。
『なんだか、不思議な感じだな! 久しぶりのような……いや、なんというか、新鮮な気分だ!!』
大樹が吠える。彼の押し出しの良さは、二・三才若返ったところで変わらない。
『二人とも、そういう恰好、凄く似合うね。素敵なジャケット!』
服飾を担っていた杠は、画面の中の縫い目を確かめんとばかりに身を乗り出す。多種多様な素材を選べる今、杠はどんな衣服を縫うのだろうか。うむ、欲しい。
『たかが一日ぶりだろーが。ご歓談は後にしやがれ。まずは本日の成果を交換だ』
そう、これは科学の力を利用した、科学王国リモート会議である。決してティーンの駄弁り通話ではない。
俺とゲンからは、SNSの反響、司と未来のこと、南の協力を取り付けたこと、ゲンによる『ペルセウス号へのアンカー』作戦の説明。
「まあ、そもそも羽京ちゃん達がテレビ見てくれなきゃ、どうしようもないんだけどね。こればっかりはね~」
『売れっ子マジシャン様の人気次第ってわけだな。ククク、期待してるぜ』
次に、千空からの調査報告が始まる。
『念のため部屋を調べたが、泥棒が入ったような形跡は無し。ツバメの石像は盗まれたわけじゃねえ。まるで夢みてえに消えやがった。俺が散々調べた筈の、SNSの記事も同様だ。サーバーに潜り込んで痕跡を探したが、一切のログが出て来ねえ』
「謎は謎のままか」
『ああ。だが、少なくとも九人の人間が、あの石化した世界を知っている。再現性があれば、それは科学だ。地道に突き止めてやる』
千空の眼は燃えていた。膝から転がり落ちたボールを追いかける子供のような、焦燥と幸福に満ちている。
『俺達も手伝うぞ!! 体を使うことは任せろー!!!』
『私に出来ること、あるかな? 根気が要ることなら任せてね。龍水君達も、遠慮なく言ってね!』
「ハッハー、もちろん仕事はある! 大樹は操船、杠は帆のエンジニアだ。また俺の船で海に出るぞ!!」
バッシイーン、とフィンガースナップを決める。こちらのマイクは良い感度でこの音を届けるが、向こうのスピーカーの性能はどうだろうか。音響に凝るタイプとも思えないが。
『それ関係あんのかよ』
「龍水ちゃん、もうどこに行くか決めてるの?」
「まずは、石神村と宝島があった場所へ向かう。一日あれば足りるだろうな」
「それって、みんなを探しに……?!」
大樹と杠が、揃って目を輝かせる。
「当然だ。クロムにコハク、金狼銀狼、ルリ、コクヨウ、ソユーズ……名前を挙げてはキリがないな。全員欲しいに決まっている!!」
『ワァオ! 行く! 行きたい!!』
『うおー! 俺も会いたいぞ!!』
『いや居るわけねーだろ。今、ISSに居る宇宙飛行士の、子孫だぞ。あいつらが生まれるのは三千七百年後だ』
千空は失笑して耳をほじった。肘が大樹の肩をグリグリと押している。
その可能性は、俺も考えないではない。だが、欲することを止められないのが俺の業。例え切り立った奈落に落ちようとも、世界の端を見に行く。それが冒険というものだ。
「フゥン、生憎、俺には冒険の合理性を説いて資金集めに奔走する理由が無いのでな。行きたいと思えば何処へでも行く。そして貴様には既に拒否権が無い!」
「プ。千空ちゃんってば、龍水ちゃんと雑な契約交わすから~。辛いよねえ、無いと分かっていて探しに行くのは」
大樹がぐっと口を引き結んだ。杠は視線を落とす。ゲンめ、乗組員の士気を下げるようなことを。
『ククク、「無いことを確認する」のも大事な実験だ。いっぺんだけなら付き合ってやんよ』
一方千空はこれで士気が上がった。ゲンの手の平は千空を転がしたのだ。
そして千空は、仲間の悲しみを放置するようなことはない。まるで天体観測のように、上を向くための光を指し示す。
『おいデカブツ、杠。情けねーツラ晒してる暇ねーぞ。ストーンワールドであいつらが繋いできた三千七百年を、今度は俺らがあいつらに繋げるんだ。唆るぜ、これは』
地道な進歩を積み上げて、クロムにもっとやべー科学を見せてやる。そう言って笑う千空は、大層悪い顔をしていた。
『なにーっ?! 「やべー科学」……! スマホもか?!』
『そんなもん古代の遺物レベルだろ。人類が石化せずに科学発展を続けられたなら、三千七百年後なんざ完全にSFの世界が実現してるわ』
『なんか、凄いね。コハクちゃん達は、宇宙旅行とか行くのかな』
「当然、行くだろうな。現代ですら、歌手のリリアンが、ソユーズの席を買っているのだからな」
「じゃあきっと、もっと遠くの宇宙まで行けちゃうね~。太陽系の外とか? 知らないけど♪」
ゲンの適当な相槌に、千空が深く頷く。
『あ゛あ゛、全くの未知だ。俺らが全力で科学を発展させて、既知の世界に変えていく。アホほど広大なロードマップになるぜ?』
『俺は! 何でもするぞ!! 千空、まずは何から始める?!』
『私も私も! 何かしなきゃ!』
カップルはあっという間に持ち直す。俺の目にも、知っているものとは違う姿の三千七百年後が浮かんだ。欲しい、ああ、きっと手に入れる。友にバトンを繋ぐ栄誉を。俺達が死して塵になった世界を。
幼馴染に揉みくちゃにされた科学のリーダーは、フンと鼻を鳴らした。
『焦んな、とりあえずは――』
あくまで冷静に、ロードマップの一マス目を明かす。
『――百夜の婚活だな』