バウムクーヘンエンド 石畳を踏む音が聞こえてそちらに目を向けた。
そこにいたのは人間界からの留学生で、いつも彼女はディアボロとバルバトスとの三人でのお茶会の時刻より少し早く訪れ、開始までの間に準備をするバルバトスと二人きりで秘密の談笑をするのが常だった。
ここに訪れる際、いつも笑顔を見せていた彼女は普段と違ってどこか思いつめた顔をしていた。
小刻みに震え、視点は足元、体の前で強く握った手から何かあったことが窺える。
「こんにちは。お座りになられてはいかがですか?」
魔王城にいる以上、身の危険はないはずで、まずは落ち着かせるべきだといつもそうするように着席を促したが彼女はその場から動かなかった。
「私……ディアボロから好きって言われて……結婚を前提に付き合ってほしい、って……」
バルバトスは彼女がディアボロに向ける好意よりもバルバトスに向ける好意の方が大きいことには気付いていたが、その事実からは目を逸らして祝福の言葉を口にした。
「それはそれは。おめでとうございます」
「あ、うん…………あの……あり、がと……」
あまりにもあっさりとした様子に拍子抜けしたらしい。
ディアボロ以外――兄弟たちであれば、バルバトスも自身の気持ちを吐露していたかもしれない。だが、今回ばかりはそうもいかない。主を押し退けるなど以ての外だ。
「……ごめん。今日は帰る」
そう言うと、小走りで立ち去り、直後、D.D.D.の魔王城チャットルームに体調が悪いのでお茶会は欠席する旨と謝罪の言葉が送られてきた。心配するディアボロを取り成し、彼女との距離が近付くようお見舞いを勧めたところ、事が上手く進んだのか、後日、お茶会の場に二人並んで現れ、その日からバルバトスと彼女の目が合うことはなくなった。
雲一つないよく晴れた日。もっとも魔界なので光は差していない。
魔王城の一室のドアをノックすると、中から「はい、どうぞ」と返事があった。
「お時間です」
室内では彼女が純白のドレスに身を包み、鏡台の前に座って身嗜みのチェックをしていた。
魔界で、それも祝いの席でこのような色のドレスとは来賓から白い眼を向けられても仕方ないが、それでも彼女がこの色がいいと言い、ディアボロもそれを受け入れたと聞いた。
「あ、もうそんな時間なんだ。ごめん」
彼女が立ち上がるとそれを追うようにドレスが衣擦れの音を立てる。
出口に近付いたところで音が止まった。彼女はじっとバルバトスの目を見ている。
「ねえ」
「何かございましたか」
「……これでよかったのかな」
バルバトスが何よりもディアボロを優先していることは周知の事実で、今ここで彼女に「でしたら駆け落ちでもしますか?」などと冗談でも言うことはないし、きっとそれは彼女も理解している。
「行きましょうか」
彼女は一度目を閉じ、開くと力強く返事をした。
「はい」
その直後始まった婚礼の儀は厳かながらも幸せが溢れ出ており、来賓の間からも感嘆の溜息がそこかしこから漏れ聞こえていた。
それはこれまでディアボロに付き従い、数々の式典を見てきたバルバトスから見ても素晴らしいもので、きっと二人は良き夫婦、良き親になるのだろうと思えた。
来賓が去り、さっきまでの喧騒が嘘のような魔王城。日付も変わろうという時刻。
バルバトスは自室に下がる前にキッチンに立ち寄り、湯を沸かした。
ワークトップにぽつんと置かれている箱は今日の客への手土産として用意したもので、中にはバルバトスが魔界風のアレンジを加えて作った人間界の焼き菓子が入っている。予備としてキッチンに積んでおいたものだが、一つだけ余ったらしい。
箱を開け、彼女が好きだと言っていた紅茶を淹れ、彼女のリクエストで焼いた焼き菓子を一口齧った。
「……少々苦いですね。どこかで間違えたのでしょうか」
その声は誰にも聞かれることなく、夜の静寂に溶けて消えた。
〝その日〟はよく晴れていた。人間界であればさぞかし澄んだ青空だったことだろう。
魔王城のホールに集まった魔界の住人は皆手に花を一輪携えていた。
長い長い行列の先には棺が一つ。その手前に献花台が設えらえており、一人ずつ花を供えては別れの言葉を口にして立ち去って行く。
ディアボロの妃が身罷ったのはつい先日のこと。魔界のためだけでなく三界の融和にも尽力し、彼女が持ち込んだ人間界の文化は魔界に数多くの変化をもたらし、今では人間の魔術師を街で見かけることも何ら珍しくはなかった。人間界との交流による恩恵に与ったものも多く、皆が嘆き悲しみ、惜しんでいた。
この後棺は馬車で霊廟に運ばれ、代々の魔王や妃と並んで埋葬される予定となっている。人間などを、と異を唱える者も当然いたが、彼女の功績を挙げられてなお反対出来る者はいなかった。
薄暗く冷たい霊廟に安置された棺をディアボロは名残惜し気に撫で、何か一言二言、誰にも聞こえない声で呟いて立ち上がると「行こうか、バルバトス」と為政者の顔に戻り、霊廟を出た。
バルバトスもこれまでと変わらずディアボロに付き従い、霊廟の外に出て扉に手をかけると
「お疲れ様でした。おやすみなさい、――」
何十年と呼ぶことのなかったその名を呼び、静かに扉を閉めた。