明日の景色
私が我が愛しの使い魔と城に暮らしていた頃、揃って夜の生き物である私たちの目は灯りを必要としなかった。だが、私たちはしばしばロウソクに火を灯し、その燃えるさまを眺めて楽しんでいた。
ルーマニア産の蜜蝋のロウソク。在庫が残りわずかだと知らせると、文字通り父が飛んで届けてくれた。ほのかな甘いその香りは、燭台のまわりの空気を浄化しながら城の内部を漂い、ゆらめくオレンジ色の炎は私を透かしてアルマジロの影を床に落とした。蜜蝋のロウソクは、蜂蜜を採取したあとの巣を溶かしてつくる。巣の年代や集められた蜜の種類によってその色は微妙に違っていて、父は必ず最上の美しい品を届けてくれた。ロウソクとともに大きな手から渡されるアカシアの蜂蜜。この蜜が収まっていた城がこのロウソクの蝋だと父は言い、少し気の毒だと高貴な面立ちに慎ましやかな憂いを浮かべるのだった。
淡い黄色の蝋はゆっくりと穏やかに長く燃え、ほとんど油煙を出さず、その炎の色はやさしく私たちの城の調度品や壁を照らし続けた。
まったく予想もつかない成り行きで、ある晩私の城は木っ端微塵となり、それから短い命を燃やす人間の家が私の新しい城となった。
ロウソクの炎は夕焼けの色と色温度の値が近いのだという。私が棺桶の内側で聞く人間の声は、たぶんそんな色をしている。
棺桶としゃべってる気分、と人間が言ったので、いつも砂としゃべってるくせに、と私は即座に反論してやった。
「砂になってる本人が言うなや。そういや砂からおまえの声が聞こえんの、あれってどーいうメカニズムだ?」
「そんなことは私も知らん」
「ドラ公の成り立ちマジ意味わかねえ」
プリミティブにして無礼なセリフを返す人間の声は笑っている。
本日のお日柄は猛暑。けれども立秋。すたれつつある葉書による見舞いの文章が暑中から残暑に代わる境い目の日。つまり暦の上では秋である。棺桶越しに私に話しかけている人間は、今の時刻からおよそ五時間と三十分後に一つ年を取る。
私は棺桶の底で深々と息をつく。馴染んだ空間、安らげる場所、故郷とつながる誂えの品。一応のところ、棺桶の蓋を開けたとしても、太陽の光に当たらなければ私は死なない。理屈ではそうだ。しかし、強烈な日差しの気配というものは、吸血鬼としての弱点を誇らしく極めた私を着実に弱らせる。たとえ遮光百パーセントのカーテンを引こうとも、わずかな明かりさえ灯さず部屋を暗く保とうとも、人間の目がものの輪郭を隈なく見渡せる時間は本来私が起きる時間ではない。
季節によって私の活動時間は伸び縮みする。新横浜における八月七日の日没時刻はおおよそ午後六時四十分。これは毎年ほとんど変わらない。七月に比べれば確実に日の入りは早くなり、日の出は遅くなりつつある時期である。
夏の夕方、しばしば控え目なノックの音が私を眠りの渕から引き上げる。控え目、ではないときもある。バンバンと、それこそ子どもが力任せに叩くような騒音により驚き死につつ目覚めることもある。共通しているのは、その訪れが午後六時以降だということ。私の目覚ましの標準設定が午後六時だと、一緒に暮らして十年になる人間は知っている。甚だ心もとなくはあるが、その選択に彼なりの節度が窺い知れる。私は起き上がりはしないが、覚まされた意識を人間へ向けて、取り留めのない会話にしばし付き合う。
私と人間が棺桶越しに話す内容は、本当にさして意味をなさない雑談でしかない。言葉というより声のやり取りであると、そう言い表した方がより正確であるかもしれない。互いの顔が見えないゆえに、私たちは互いの声をよく聞こうと耳を澄ます。相手の声が奏でているのがどのような音色であるのか読み取ろうと感覚を傾ける。
「君は顔が見えないときの方が素直にものを言ってくれるな」
「そのセリフ、そっくりそのままおまえに返すぜ」
私と人間は、いつの日か顔を突き合わせて重々しく未来の話をしたりするのだろうか。一般論と入り混じったイメージかもしれないが、私は人間に長生きは向いていないと思っている。先日、ついうっかりそれに近いことを告げてしまった際に、人間は、「向いてないなら努力しなきゃな」と洗い立てのリネンのようなさらりとした口調で答えた。退治人も作家も向いていると思ったことは一度もないのだと。
「そろそろ出てこれんじゃねーの?」
「ふふふ、私のかわいい顔が見たくて待ちきれないかね?」
「べつにかわいいとか思ったことねーよ」
「はあ?」
心外な物言いに私はなけなしの血圧が上がりそうになる。一ダース以上の罵倒のセリフが瞬時に脳裏を駆け巡る。けれども、次に降ってきた言葉が、それらすべてを押し流した。
「かわいいとか思ったことはねーけど、早く会いてえ」
いつもはやくあいたい。
人間はそう繰り返して、棺桶の蓋をゆっくりと撫でた。振動でわかる。声の響きでわかる。重ねてきた経験でわかる。人間と私のあいだで流れる感情の湿度が一秒ごとに急傾斜を駆け上がるように高くなり、私はついに耐え切れなくなる。腕を持ち上げてこぶしを握り、蓋の裏側をノックする。トン、トン。
「はいってますよ〜」
「知ってるし!」
これで中身不在だったら俺マジで棺桶としゃべってるヤバいやつだわ。人間は半ば叫ぶようにそう答えてから、なぜか急に勢いを失い、いかにも自信のなさそうな調子で、おれもうすぐ誕生日だから、と続けた。
「知ってるし!」
今度は私がそう叫び返した。スマートでクレバーでノーブルでハンサムな私はできる限りの準備はもう終えてある。当然だ。当然でないわけがない。
「もうすぐじゃないだろ、すぐだろ! まったくもう、このゴリラはいくつになっても物の言い方がなっとらんな」
スマホの表示を確認する。あと五時間とニ十分だ。私の人間がまた一つ年を取るまで残されている時間を心に唱える。日が沈み、今、街には残照が広がっているだろう。ロウソクの美しい炎に似たその色が。溶けていく蜜蝋が放つアカシアのハチミツの甘い香りを記憶が立ち上らせる。
私の時間が来た。起きるとしよう。
夜、人間が出かけたあと、私はドラルクキャッスルマークⅡの部屋の電気を消さない。私と私のパートナーには不要な明かりを、あえてつけたままにしておく。ビルの窓が四角く光ってるのが見えてうれしくなった。そんなふうに人間がひとたび語ったことがあり、どうにもその声の響きが思い出されてならないからだ。
部屋を明るくしておくと、帰ってきた人間に「お帰り」と声をかける私たちの姿を見てもらうことができる。それは私にとって大いなる楽しみのひとつである。