あとは野となれ恋となれ【ロナドラ新刊サンプル】午前の光の下に
D
午前八時。かるく朝更かし。スマートフォンの情報によれば、吸血鬼を殺す晴れた戸外の気温は現在十度。ほぼ無風で、おそらく人間は散歩などをすると気持ちがいい日和。たぶん、うちのゴリラとか。ドラルクは棺桶のなかで昨日投稿したお料理動画の再生数やコメントなどをチェックしつつダラダラしている。おなかの上ではジョンがヌフヌフと寝息の合間にちいさな口を動かしている。きっと美味しい夢を見ているのだろう。なによりも幸福が似合う生き物は、今日もゆるぎなく健やかだ。ドラルクの手は完璧な曲線を描く彼の甲羅を幾度もなでる。しっかりと硬いアルマジロの甲羅。出会った頃はまだやわらかかった。こんなに丈夫に大きくなってくれてありがとう。と、そこへ、感謝の念に割り込む無粋な音。スマートフォンに画像の着信。写真が一枚、いや二枚、と確認するうちに三枚目が届く。あいだにメッセージがぽつりと一行。実にせわしない。液晶画面に映し出されたのは地面と紫色の花。コンクリートとアスファルトのわずかな継ぎ目に根を張り茎をのばして咲いている。二枚目の写真では見慣れたスニーカーがその隣に並ぶ。
『ちょ~ちっせえ』
簡潔なメッセージに少し笑ってしまう。わざわざ比較のための写真を撮って、咲いている花がどれだけちっぽけかを吸血鬼へ伝えようとする人間。スミレだな、とドラルクは考える。たぶん爪の先ほどの、とてもとてもちいさいサイズだが、この形と色は日本のスミレだ。たぶん、場所や日照の条件に合わせて驚くほどコンパクトなサイズになったのだろう。スミレのミニチュア、とドラルクは心のうちでつぶやく。指先で三枚目の写真をタップする。画面いっぱいが濃い紫色になる。思い切り花がアップで撮られているのだと知る。なんで? と疑問に思うと同時に目が次のメッセージをとらえる。予期せぬ内容に、思わずぽかんと口が開いてしまった。
『おまえのマントの裏地の色』
R
部屋を出る前に棺桶を眺める。特にそうしようと意識しなくても眺めてしまう日が多い。この位置にこのデカさでこの黒さ。あり得ないほどあつかましくて異彩を放つひとつの箱。蓋つきのベッドで就寝中の一人と一匹をあとに残してロナルドは出かける。今日はゴミの日ではないから両手は空だ。ゴミの量は増えた。種類も増えた。一人暮らしの頃と比べれば格段に。私が生活を豊かにしてやった結果だなどとクソザコは言う。偉そうに言ってんなよバーカとロナルドは言い返す。毎日のように稼働している台所。湯が張られては抜かれる浴槽。トラブルにより新調した洗濯機。玄関わきの水槽。スニーカーの紐を締め直す。このままランニングコースへ向かう。ほかに用事はないことを頭の片隅で贅沢だと感じる。走るのは好きだ。朝の空気を抜けて真っ直ぐに体が前へ進んで行く感覚が好きだ。廊下を突っ切り、外階段を降りる。見上げる空はずっと向こうまで青天。両足をそろえて軽く地面を蹴る。意味もなく、おそらく景気づけに。道路へ出て、ゆっくりとしたペースで走り出す。舗装工事が終わったばかりの車道の表面が午前の光を浴びてキラキラと光っている。その黒々とした新しいアスファルトを超えて、信号の色に足を止める。赤い一つ目の合図。ロナルドは辺りをうかがう。横断に困っている人がいないか、危険運転をしている車がないかを確認する。自分の動きに合わせて、地面の上の影も動く。自然光の下の人間の影だ。その存在を確かめるように目線を足元へあてると、意外な景色が見えた。歩道のコンクリートの継ぎ目に爪の先ほどしかない小さな花が咲いている。花びらの色を見て、ごく自然に知っている色だとロナルドは思う。スマートフォンを取り出し、その場に屈んで写真を撮る。すぐさま写真を棺桶の主に送る。そうしたら、ザコは眠っている時間のはずなのに返事が来た。
『頭上を撮れ』
命令すんな、とつぶやきながらスマートフォンを空へ向ける。撮った写真を送る。返ってきたメッセージに目を瞠る。行く手の信号は青に変わっている。
『君の両目と同じ色』
ステイン
大事に守り育てられ、二百余年のあいだ一族から手厚い庇護を受けてきた私が、年中無休で他者に苦言を呈し続ける生活を選択するなどとだれが想像しただろうか。当の私でさえ夢にも思わなかった。一寸先は城爆破。なんというハチャメチャなスリル。なんて愉快な行き当たりばったりの我が吸血鬼生。
身に沁み込んで当たり前になっていく未知の日々。いつの間にか定着してしまった新しい呼称。ドラ公と最初に呼ばれたのはいつだったっけ。
「ボタン取れそうなら教えろって何度言わせるのかね君は」
「靴下を裏返しのまま洗濯機に入れるな」
「事務所のソファで寝落ちしないでちゃんとベッドで睡眠をとれ」
依頼者への接し方や執筆に関しては繊細極まりない彼は、自分自身に関しては相当に扱いが雑である。なにしろ家賃八千円の住まいに疑問を抱かず平然と起居してきた男なのだ。控え目に言っても危険極まりない。なぜそんなに騙されやすいのか。なぜそんなにも妙な存在にばかり好かれるのか。彼の星回りがこの先もずっと変わらないのなら、私の小言のバリエーションは増えることはあっても減ることはないに違いない。
たいていの場合、彼は私からの有難い訓戒のほとんどにまともな反論もできずウホって殺しにかかってくる。本当にしょうがないやつである。おそらく無意識のうちに自己に非がある事実を認めているのだろう。過剰な肉体言語はその表れだ。そうに違いない。そうであるべきだ。なにしろ理はつねに私にあるのだから。ただし、極寒の夜に財布も持たず軽装で家出するのはやり過ぎだ。バーカ、バーカ、ロナ造のバーカ。
「読みかけの本を床に積むんじゃないアホ!」
「片付けという概念をへその緒と一緒に置いてきたのかこの五歳児が」
「だから買い物メモに画像もつけただろーが確認しろゴリ馬鹿ゴリ造」
正直に打ち明けるなら、彼が自分の命さえ雑に扱わなければそれ以外はすべて許容範囲かもしれないと思うこともしばしばある。ことあるごとにガンガン叱りつけてはいるが、たまに一歩間違えば大怪我などという危機に直面すると、バカでもいい……元気に育ってくれれば……などという方向へ思考が舵を切りそうになる。むろん本人に伝えることは絶対にありえないが、実のところ、私の小言のすべては私の娯楽の範囲におさまっているに過ぎないのかもしれない。突き詰めれば無用の長物。月夜に提灯、塵芥の類。だがそれこそが真の娯楽である。あの男がただ健やかであってくれればそれでいい。私の本音は、案外そんなていどのものかもしれない。言わないけど。言わないけどな!
「おいこら、若造。飲みかけのコップを放置するのはやめろと言っとるだろ」
私は冷え切ったコーヒーが底に五ミリほど残ったカップを回収しながら、いつものように文句を言った。
「……違うし、飲みかけじゃなくて飲み終わってないだけだし」
「負け惜しみだけは一人前か? カップに茶渋をつけるの大得意ルドくん」
前髪をヘアバンドでオールバックにした男は、コーヒーじゃん、お茶じゃないじゃん、などと唇を尖らせてぶつぶつ屁理屈をこねている。ほざくなチンパン。そのコーヒーを淹れたのをだれだと心得る?
「はいはい、茶渋じゃなくてcoffee stainな」
私が思い切り嫌味っぽい口調で発言を正しく言い直してやると、彼は少しばかり怯むような素振りを見せた。まるで自分へ発せられた流暢な英語に噛みつかれでもするかのように。アホである。
「カ、フィー、ス、ステ……イン?」
たどたどしく私の言葉をなぞる男の声が事務所の室内に反響する。私は反射的に無駄にかわいらしいのをやめろと思う。いや、べつにやめなくてもいいが。
「そう。つまりコーヒーによる着色」
着色、と聞かされた単語を口先で鸚鵡返しにしながら、彼は見事に生えそろった銀色の睫毛をふるわせる。
「着色、染色、汚れ、しみ、変色、汚点、傷、錆、焼き付け。たとえばステンレスは錆びにくいという意味を表し、ステンドグラスは着色されたガラスを指している。二重母音がどこぞへ消えた形で定着した日本独特の呼び名だな」
「にじゅーぼいん?」
「ああ、つまり二つの母音が」
そこで私は眼下の男の顔色の変化を認めて言葉を途切れさせる。そう、彼は薄っすらと血色で頬を染めている。母音。ボイン。ああそうか。私はとっさに噴き出しそうになる。ちょっとした言葉の響きを性的に受け取って反応する初心な若者。残念なバカ者。私はカップを手にして彼に背を向ける。こんな冷え切った残骸を飲み干す必要はない。新しいのを淹れてやろう。
「おまえには縁がないよな」
背後からぽつりと無造作にこぼされた言葉。私は肩を捻ってふり返る。目線だけで言葉の意味を問う。ステイン、と男は言う。
「しみも傷も錆も着色もおまえには無縁だろ。死ねば全部リセットされる」
なぜか憂いを秘めた表情で彼は私へそう語った。なにを今さら当たり前のことを、というセリフが私の頭に浮かぶ。ふいに気がかりが頭をもたげる。その点に関して、彼と私のあいだに暗黙の了解があるのかないのか。
死ねば全部リセットされる。
そうとは限らないこともある。あそこにあるスチール棚を動かしたら、壁紙のもとの色がわかるように。その色を目にするまで、かつてどんな色をしていたか君が忘れているように。
「本当に、そう思うかね?」
私はなるべく重々しく響くように声音を調節して問いかけてみる。そして答えに耳を澄ます。
しみ、傷、錆、着色。
たぶん永遠に、君がステイン。