ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン
炭酸のよく効いた、喉に心地いいビールをぐいっと飲んだ。最近通いつめているビールバーでのことだ。
店内は狭いが内装がおしゃれで、極め付けは見つけにくい立地だからか、いつも客が余りいない店だ。俺はここなら何に警戒する必要もないと決め込み、一人だというのにマスターに勧められるがままに四人がけの席に座っている。特等席だ。ノートパソコンも広げる。初めと違い、もう四回くらいになるので、この店にはノートパソコンを禁止するルールなどないということを知っている。いつものように、あれやこれやと一人を楽しむ。
今はもうカリーニングラードとかいう言語の違う名前の州になってしまったが(ヴェストがそう呼ぶのはいけすかねぇから止めてくれと指摘はするが、実際はそれが正しいので、わがままを言っているのは自分だという自覚はある)、土地に魂を呼ばれるというのだろうか……旧都ケーニヒスベルクの地べたからエネルギーを吸い上げている感触とか、空気を取り込んだときの古い友人に歓迎されているような感覚が捨てがたく、気まぐれにこの地にやってくる。どう足掻いても、やはりここは俺の一部だと実感する。
取り分け一人でくることが多く、自分の時間を楽しみたいときの御用達というわけだ。義務なので一応ブラついてる店の名前はヴェストに伝えてはあるが、実際に弟を連れてきたことはない。
パソコンにインストールしたスカイプで、スペインや髭にネットで拾った画像やネタ板をはっつけて、たまにくる返信に腹を抱えて笑うのが好きだった。この手のことは日本にもウケがいいが、大概のものは向こうが先に仕入れているので話の流れは早い。
少し暗めの照明である店内に合わせ、バックライトをやや控えめにしているパソコン。その上部に掲げられている時計を盗み見れば、そろそろ日付の変わるころだった。もうブログの時間かと、俺はブックマークから慣れたアイコンを選ぶ。まずは見落としているコメントがないかと見返し、なさそうなので今日は書くことがいっぱいだなぁと、また一人楽しすぎるぜモードでニヤニヤしてしまう。
おっと、怪しいよな。俺は慌てて表情筋を脱力させ、改めてキーボードに手を添え直す。その上で指がカタカタと飛び回る。
ある程度の文章と写真を打ち込み終えると、今度は頭から読み返す。店の入り口からぼんやりとした冷気が流れ込んだ気がした。足音からして二人組の新規来店だが、おれには関係がないので、引き続き自分で書いた記事を読み進める。
入り口で中の様子を伺うように止まったその二人の足音が、また歩き出した。タイル調の床はよく足音を響かせる……て、ん?
覚えのある気配に、思わず顔を上げた。
ーー言葉も出ないとはこのことだ。俺は瞬間的にその二人とどういう関わりがあるか思い出せなかった。だが、確実に知人で、二人を見比べている間に、たくさんのことを思い出した。
リトアニアと……ロシアだ。いっそ二人のことを思い出せなければよかった。そう思うのも無理はない。記憶がフラッシュバックする。……特にロシアは駄目だ。俺がヴェストのところに戻ってからも、ずっと俺の根本に居座っている太々しいやつ。
あえてリトアニアに的を絞り、
「あれ、お前……こ、これは一体どういう……」
状況の説明を求めた。
言葉がまとまってないが、おそらく動揺しているからだ。
「見たまんまだよ。おれはロシアさんがどうしてもって言うから、付き添いで」
不本意を隠す気もないらしいリトアニアが、見下してそう教えた。しかしそれよりも、気を散らされることがあった。前に立っているはずのリトアニアの上から少し覗いている、白金色のくせ毛。座っている俺のアングルからも見えるとは、どんだけでかいんだあいつは。
その頭が動き、リトアニアの肩越しに幼い笑顔がひょこっと覗いた。似つかわしくないほど大きく雄々しい手のひらが、手前にある肩に乗る。
「うん、もういいよ。リトアニアはあっちで待ってて。何か飲んでていいよ」
久しぶりに見る温室にいるかのような暖かい笑顔を器用に作り、リトアニアに孤立を助言する。素直に「はい」と返したリトアニアにたまらず、「は?」と声をかけてしまう。
ここまで来といて一人で飲むのか。俺様にこいつを押し付けて。
抗議しようにもあいつは俺の声など無視しやがって、おまけにロシアまで俺の意向を確認せず、向かいのソファに腰を下ろそうと、テーブルとソファの隙間に入り込んだ。慌ててロシアの注目を引くため、視界でひらひらと手を旗めかせた。
「お、おい、そんなところに座っても俺様構ってやんねえぞ。今一人タイムだかんな」
「いいよ。待ってる」
二つ返事でそう答える。……違う、そういう意味じゃない。
しかし座り込んだ側から、にこにこと気味の悪い笑顔を向けられるので、俺はそれ以上何も言えなくなり、『忠告したからな』という心持ちでパソコンへ改めて向き合った。
ぜってー構ってやんねえ。なんでも思い通りになると思ったら大間違いだぜ。
……とは意気込んで見たものの。
ノートパソコンへ意識を戻した俺は、ブログの更新の途中だったことを思い出した。つい先程まで書いていた文章を改めて読み返し、末端に今の状況を付け加えてやった。
『ところで聞いてくれ。今一人で飲んでいたら、ロシアのやつが俺様の前に現れやがった! 全くかっこいい男は辛いぜ!』
ロシアが嫌いなのは俺様だけじゃないのは確信している。プロのブロガーとしては、やはりこのネタ的状況を実況しない手はないと思った。ただそれだけのことだ。
投稿ボタンをクリックして、投稿完了の文字が画面に浮かぶ。俺はできることなら忘れたい目の前の大きな存在感を否定するように、意識して画面に食い入る。他で開いていたタブに移行し、ロシアが来る前は何をしていたかなと記憶を呼び起こす。
そうか、先ほど日本と話していたネタの元になっていた本を、注文してみるかと中古サイトを見ていたのだ。これがなかなか人気で、もしくは取り上げられた影響かで、主要なサイトでは売り切れになっていたので、躍起になって探していたところだった。そう、ここで諦める俺様ではないのだ。
タブを開いて検索バーに文字を打ち込んでいく。さらに三、四サイトを巡った。潜りに潜ってようやく唯一販売しているネットショップを見つける。俺はそのユーアールエルをコピペして、早速日本に探し当てた旨を報告してやる。さすが俺様だぜ。
褒めろ讃えろと書き加えている最中に、画面の隅にポップアップが飛ぶ。
ブログにコメントがついた際の通知だと慣れていた俺は手を止め、そちらのページを開く。
何なに……本文よりも少し小さめの字で表示されたそれを確認する。
お、ヴェストからだ。ブログを見てもコメントを残すことは滅多にしないヴェストが……そうかそんなに俺様のことが心配か、愛されてんなぁ俺様。いやしかし、あいつまだ起きてやがったのか、大丈夫か。
思っていたところで、すぐに髭からもコメントが付き、続けざまに坊っちゃんからもコメントが付いた。
……なんだなんだ?
まるでみんなが一処にいるのかと聞きたくなるほどのタイミングの良さだったが、無論この時間にみんなが一緒にいるはずはない。少なくともこの取り合わせは。
来たコメントを順番に追い、その最中にイギリスの野郎からもコメントが追加される。みんな俺様のことが大好きだな、困っちゃうぜ。さすが俺様だ。
「へへ! 見ろよ!」
ふと衝動に押し上げられた表情が向かう先は、
「俺様の前にお前が現れたってブログに書いたら、次々と俺様への労わりのコメントが、」
当たり前にロシアだった。
俺は出した声を引き止めるように息を捕まえた。しまった……『構ってやんねぇ』と宣言したんだった。
なんという失態だ。バカにするようにロシアはニヤニヤとこちらに笑顔を向けている。
腹が立ったので乱暴に「な、なんでもねぇよ!」とぶつけてやったのに、それでも「いいよ、続けて」とおちょくってきやがる。
「続けねぇっ!! 全く!」
声と変わらず乱暴にノートパソコンの画面の角度を触る。少しだけ明かりの角度が変わり、それでも見え方はそんなに変わらなかった。
なんだよ本当に。まるで俺様が自分から構ってやったみたいじゃねぇか。悔しかったり腹が立ったりと自分でも、俺様の胸中忙しすぎだろと思ったが、そんなことよりも、動揺している自分に羞恥を覚えた。そしてそんな動揺もロシアの思惑通りなんだろうと思うと、さらに腹が立った。
ひとまず今の状況、いや、ロシアの存在さえも忘れてしまえと自分に言い聞かせながら、コメントへの返信ページを開く。しかし正直に言うと、気が散って全くもって手につかなかった。そもそも読むコメントが頭に入らない。なんということだ。動揺はロシアの思う壺だぞ、俺様よ。
自分で自分に諭して落ち着きを図る。そもそもリトアニアもリトアニアだ。本来ならばロシアの世話は俺様ではなくあいつの担当じゃないのか。俺様はもうロシアとは関係ないってのに。
…….そうだ、関係ない。
「……なんであいつ連れて来たんだ」
ならば、未だに関係がある二人で飲めばいいだろ、と安直にたどり着く。だからロシアに尋ねた。一瞥した先はリトアニアだ。我関せずと向こう側ばかり見ている。
視線はすぐに疑問を投げつけたロシアに戻る。また俺様から話しかけたことを嘲笑うように、ニコニコと気持ち悪く単調の笑顔を続けている。
「だ、だからなんだよ! なんであいつ連れてきておきながら俺様のことばっか見てんだよ! あいつと来た意味ないだろ! 他の二国はどうした!」
イライラのままに声を張る。
俺様の大事な一人の時間をめちゃくちゃにしてるだけじゃない……なんだよ。なんでいつも三国まとめて引きずり回してるやつらを、今日はあいつだけなんだ。俺様は意外とそういう細かいところに気が散るんだよ!
ずっと俺様を見下したままなのだから、表情に変化の必要もないロシアは、その顔のまま口を開いた。
「ラトビアは面白いけど今の気分じゃないし、エストニアには雑務任せてるから」
違う、と喉の奥で反論した。
知りたいのはその人選だ。なぜ雑務を任せたのがエストニアで、リトアニアではないんだ。理由があるのか、それともないのか。それを言及したかった。
「な、なんでそいつなんだよ」
ここであいつがお気に入りだからとでも言おうもんなら、じゃ、そいつと飲めよとたたっ切ってやる。
ロシアは悪びれる素振りもなく、考えを巡らす風でもなく、
「こう見えてぼく、リトアニアのこと気に入ってるんだ」
と『笑った』。
ほら見ろ、気に入ってるんだろ。なら、そいつとうまい酒をいくらでも飲みに行けよ。
予定通りそう言ってやろうとしたのに、その表情に余計に腹が立って、口の天井で言葉がぶつかって空回った。
とっさにそれを飲み込もうと目線を下げる。その先にはスクリーンセーバーが起動されたノートパソコンの画面がある。チカチカと形を変えて落ち着かない。鬱陶しくてさらに視線を落とせば、今度は自分の手のひらが目に留まる。よくわからない苛立ちにビリビリと痺れている気分だ。
「それに、ここまで来といて君がいなかったら寂しいでしょう。ぼく、君ほど一人でいることが楽しいとは思えないんだ。慣れてはいるけどね」
存在感とは正反対な可愛らしい声でもって、ロシアは言葉を寄越す。
俺は拳に集中した、意地でも顔を見てやるもんか。ここで顔を上げたら、また俺様の反応を見て笑うに決まっている。むしろそれに必死で、ロシアの言い分は余りよく理解していなかった。
……ビールが足りねぇ。俺は脇に置かれたジョッキに手を伸ばすかどうか、思考ではなく神経で迷った。
「……本当は、」
寄越される声は続く。
「君も一人が楽しいって言って、一人になってしまう自分を守ってるんでしょう。君の口から一人が好きとは聞いたことないから」
さすがの俺様でもその暴論には抗えず、顔を上げてしまった。
開いた口が塞がらない、何を言っているんだロシアは。俺は俺一人の時間を間違いなく楽しんでいる。少なくとも、確実にロシアがいる方が心中は平和でいられない。
返したいコメントも返せやしねえ。笑いたいネタも探せやしねえ。……飲みたいビールすら、手が伸ばせねえ。
怒る気力も起きず、ただため息が出てしまった。俺の指先を捉えていたビリビリが、不思議なことに吹っ切れたように消え去る。
「いや、ホントもう……お前にどう思われてるか興味ないし、帰ってくんねえかな。俺様のパーソナルスペース……」 「いぃやぁだ。今日はぼく、君とすごくおしゃべりしたくなっちゃってさ」
くそう、しつこい野郎だ。こいつん家にいたときもずっとそうだった。俺様がいくら嫌悪を全面的に押し出しても、飽きもせずにその中身が見えない笑顔を保って付きまといやがった。他にすることあるだろうと心配するときもあったほどだ。
その図太い神経で、どうぜいつもと同じニコニコ顔を保つに違いない。そんなのごめんだ。俺の大事な一人の時間を奪われてたまるか。
思いついた方法はただ一つで、俺様と一緒に居たいという気持ちを打ち砕けばいいというものだ。ロシアのプライドを傷つけるには、本人が毛嫌いしているものを引っ張りだすのが一番早い。そう踏んだ俺は、意識するようにわざとらしく侮蔑の表情を作ってやった。
得意なんだぜ、こういう顔も。
「全くいいご身分だよなぁ。他国を私物化して振りまして。昔はあんなに弱虫だったくせに」
しかし図太いのは神経だけではないロシアは、
「あれ? プロイセンくんはあの頃が懐かしいのかな?」
一見すると温厚な笑顔を浮かべたまま、俺様渾身の見下しを笑って流した。しかも続けたのは、
「猛威をふるった強国だったもんね。現役が恋しいよねぇ。今の生活には不満があるんじゃない」
……挑発だ。
安く見られたもんだぜ、めんどくせえ。そりゃあ、あのころを思い出すときだってあるけどな。
「何言ってんだ。俺様はもう全部をヴェストに託して引退するんだよ」
無邪気を演出している眼前の笑顔に焦りを抱く。
口や思考はいくらでも曲げられる。だけど、拭えない心象まで覗き込まれているようで、居ても立ってもいられなくなってしまった。自然と退けた視線も、蟠ったものを隠すためだ。
一体なんだって言うんだ。ひたすらに笑顔を向け続ける歪みねえロシア。目的が全くわからねえ。本当に俺様と話したかっただけにしろ、なんで俺様なのかが理解できねえ。
手のひらにデニム生地がなじりつけられる感触がして、俺は無意識に手汗を拭っていたことに気づいた。盗み見た手のひらは、発汗のせいか真っ赤になっている。思っていたよりも気圧されているらしいと思い知ったが、おそらくそれすらロシアには知れている。鋭くないはずの眼光が、監視するように捉えているから。
無言のまま、息遣いだけでの腹のさぐり合いが続く。
「ねぇプロイセンくん」
呼びかけてから、大きな一口、また酒を飲み込んだ。
安定していた幼い笑顔が逸れ、その男くさい首筋が覗く。
でかいくせにいつまでも愛らしさが拭われないロシアだが、その反面、ときどき見せる仕草には殴りつけられるほどの衝撃を与えられることがある。本当に不思議なやつだなと思った。
燃えるようなその飲料が喉を伝ったのが外からでもわかった。グラスをテーブルに置くと、よほど美味かったのか満足げにまた微笑み直した。
「やっぱりぼくの家においでよ」
……どさくさに紛れて何言ってやがんだこいつは。
「まだ言ってんのか。そんなの断るに決まってんだろが」
余りにも唐突な提案にびっくりしてしまった俺は、緊張の糸が切れて無意識にジョッキに手が伸びた。口を付けた常温の苦味と、炭酸の抜けた口触り。バーにいるというのに、ビールを久々に摂取したように思う。なんてことだ。
「けっ、つまんねぇ夜につまんねぇやつとつまんねぇ話で、俺様まつ毛が全部抜けて胃に穴が開きそうだ」
ビールを飲み干したあと、軽口のつもりで吐き捨ててやった。図太い神経を持ってやがるんだ、これくらいいいだろう。
そう勝手に見当をつけたが、苛立ったような笑顔で「開けてあげようか? 穴」と首を傾げられた。また条件反射で萎縮してしまい、「そ、それも断る」と口をついて出てしまった。情けない……けど、過去に刷り込まれた服従の習慣のせいだと責任を転嫁する。全く嫌になるぜ。
「おいお前」
前触れなど持たせる余裕もなく、俺はリトアニアに呼びかけた。本来ならばこの情けなさを味わっているのはあいつなわけで、
「お前も黙ってねぇでこいつ連れてどっか違う店行けよ。俺様の大事な一人の時間がだな」
いつまでも俺が掻き回されているのは割に合わないというもんだ。
……とかなんとか言いながらも、やつの返答は十中八九ノーだとわかっている。リトアニアだって馬鹿じゃないし、俺以上の服従の経験を植え付けられている。俺様とロシアの指示のどちらに従うかは、もう決まり切ったことだ。
「知らないよ。よかったじゃない。ロシアさんとのおしゃべり楽しんで」
「け」
思った通りの反応だったので、俺様は思わずまた嫌悪感を吐き出した。一体いつまでロシアの子守をすればいいんだ。
……ヴェストのところに戻ってからも、生活の節々で意識の中に紛れ込んでいたロシアだ。きっとこの先、俺がおいしいビールを飲む度に、またこいつのことを思い出すようになっちまうのだろう。実に残念だ。
「……ねぇ、一人はつまんないよね」
ロシアにしては珍しく芯の弱い声を出した。
気になったが、嫌悪感を丸出しにしている最中なので、視線をくれてやることはない。何をどう言いくるめる気か知らないが、きっと碌でもねえことを言うつもりに決まっている。
全力で拒否するスタンスを構える。まともに聞いてやるつもりもねえ。
「ぼくもつまんないんだぁ。プロイセンくんがいないと」
「断る」 「やだなぁ。まだ何も言ってな、」
「断る」
「……そう」
ほらな、どうせまた『友達になろうよ』とか『おいでよ』とか、そんなことの繰り返しなんだ。こいつの口から他の言葉が出るはずもねえ。
「……なんで?」
ロシアが身を乗り出したのがわかった。視界の端で動いたものを追ってしまうのは至極当然のことで、
「は?」
心に決めていた態度を簡単に崩されてしまった。
視界に入れてしまったのは、あの胡散臭い笑顔のないロシアだった。
一気に凛々しさが姿を現して、またしても俺の既成観念を殴りつけてくる。視界がぐらついたのはそのせいだ。
「なんでそんなに拒むのかなぁ。あのときぼくはやれることはやったつもりなんだけど。……ぼくだってもらった国は大事だったし」
ロシアはソビエト時代のことを言っているのだろう。俺様が大人しく属国をしてやっていたときの話だ。
……やれることをやった?
そんなの俺様だって同じだ。違う、そういうわけじゃない。こいつを拒むことはそれとは関係はない。それよりもっと昔からだ。
……じゃあ、なんで俺はロシアをこんなに拒むのか? 確かに良い質問だ。
やり方や接し方に問題はあれど、こいつに他意はないことは、一緒に過ごしたときによくわかった。全部ロシアになればいいのに、という思惑も、悪意からではなく平和への願いからなのも。……たぶん。
ただ、上司や環境に恵まれなかったんだろうなとは、薄ぼんやりと思ったことがある。そして、視界に入れるのが痛々しくて嫌になった時期も。
――なんでそんなに拒むのかなぁ。
ロシアの質問が改めて響いた。……それは条件反射とでもいうのだろうか。とにかく、自分でもよくわかっていないことはわかった。
だが、自分で『実は自分でもよくわかっていません』などと言えるはずもなく、
「教えてたまるか。その足りねぇ頭で考えろ」
と話を振って誤魔化した。
考えることを放棄して、確か先ほど飲み干したはずのジョッキを覗き込んだ。
案の定、そこに泡の跡はあれど、肝心の飲料はなかったので、それを持ち上げてマスターにアピールをした。了承したマスターから目を放し、そのジョッキを置く位置を確認するためにテーブルを見やる。
先ほどまでジョッキを置いていたところに、底の形をなぞるように水滴が溜まっていた。なんとなくそれが気になり、自らの指で拭ってやる。常温に置かれていた水気は期待したほど冷たくもなく、思ったよりも量があって手を使わなければよかったと思った。
「……わかったぁ」
「は?」
いつもより少し張りの高い声でロシアが呼んだ。
「だから、君がぼくを嫌がる理由だよ。あ、でもこれが正解なら、君は自分でもわかってないかもねぇ」
ギクリと神経が麻痺する。ジョッキをテーブルに置く動作が一時停止していた。
自分でよくわかっていないことを言い当てられたことに動揺し、なおかつ、それでいてロシアは答えがわかったと宣言したことに狼狽える。
「どう? 君、ちゃんと自分でわかってる?」
追い討ちをかけられたが、ここはなんとしても知れないように努めるしかない。
「……あのな、んなことはどうだっていいだろ」
俺様はジョッキから手を放す動作に戻り、あくまで気のない態度を取る。
「お前のことなんか興味ねえ。嫌なもんは嫌なんだよ。まぁ聞いてやらんこともないが」
こいつが引き出した答えが気になり、一応尋ねた。……が。
「え? ……教えてあげないよ。プロイセンくん恥ずかしくて泣いちゃうし」
笑顔を忘れていたことに気付いたのか、ふわりと笑った。
それから「あ、でもそれもまた一興かぁ」とさらに目を細めやがる。なんて顔しやがるんだ。俺は「は? こんなにかっこいい俺様が泣くわけないだろ」と応えながらそいつを見ていた。
店員が俺の脇に現れ、空のジャッキと炭酸がしゅわしゅわと踊っているジョッキとを交換して行った。早速それを喉の奥へ流し込む。
「……言っていいの?」
「当たってねぇからいいぜ」
促してやると何かを打診するように俺の様子を伺った。小さく音を鳴らし、息を吸った。
「君、ぼくに憧れてるでしょう」
答えがそこに投下された。真意の全く読めない、ロシアお得意の単調な声色でもって。
……あ、憧れてる!?!?
その爆弾に尻を燃やされたように飛び上がった。
「……はぁ!?!? ないッ! ないないッ!」
ロシアには届かず、机を力任せに叩きつけていた。
初めこそは驚いていたものの、その顔はニンマリと笑い、「ふふ、そんな力いっぱい否定しなくても」と俺様がぶつけた怒気を殺した。ロシアの柔らかい視線が、それを上回る嘲りに満ちている。
「でも無理ないよねぇ。ぼく、君くらいならどうにでもなるくらいの大国だし、ぼくのこと羨ましいんでしょ? 本当は」
「ち、ちがうってんだろ! お、お前といると危なっかしくてっ!」
つるつると引き出されていた言葉をなんとか止めた。
……危なっかしくて? 何を言ってるんだ?
自分でも何が言いたかったのかがわからず、ただ顔からの発熱でのぼせていることは自覚した。対面のロシアは俺の言葉の続きを心待ちにするような、無邪気な目で俺を捉える。
……危なっかしくて……
「……な! なんでもねぇよッ!」
乱暴にソファに座りなおした。
わかってしまった。その続きを。
慌てて顔を隠す。こんなのぼせきった顔を、こいつに晒すわけにはいかねえ。なんと笑われるか知れたもんじゃねえ。
……俺様は見ていたくなかったんだ。ロシアの幼いままの心が捻れていくのを。してきたことを全部を振り切って、手を伸ばしてしまいそうになる。俺様だって強くなるために手段を選ばなかった時期もあったが、それよりも大事なものがあることに気づいた。だが、それが一向にわからないこいつに、教えてやりたくなる。楽にしてやりたくなる。俺様の兄貴分な性がそうさせるってんならまだ納得もいく。……まだ納得も……
見てきた様々なロシアの表情が浮かぶ。どれも『こいつと居たくない』と感じたときの表情だ。どんどん体感温度が上がっていく。ロシアの一途な視線を、顔を隠した手に感じる。気づいている。気づかれている。こいつ絶対気づいてやがる。
……のぼせが酷くなる、これはやばい。
待て待て、落ち着けよ俺様。こんなのかっこいい俺様らしくねえよな。えぇと、何の話だったか。
そうだ、また『ぼくん家おいでよ』と戯言を聞かされたんだった。そしてそれを断る理由を聞かれたんだ。勝手にドツボにハマっていた自分にさらに恥ずかしくなり、ますます鼻や頬の辺りがぽかぽかと温度を上げる。
断る理由、断る理由……。
考えていたら、間もなくしてヴェストの顔が浮かんだ。迷いや戸惑いなど必要もないほど、俺様には立派な理由があるじゃねぇか。俺はまだ、ヴェストから離れるわけにはいかない。それに……
「お、俺様のこと、今でも大事にしてくれてるのはヴェストのとこの国民だし。お前は俺様に興味なんかないんだろ。わかってるんだぜ」
これ見よがしに言い放った。どうだ、否定はできないだろう。いつもの素直さを持って『そうだね』と答えろ。そうすればまた一刀両断してやる。
……だというのにその困ったような笑みは、
「なんでそういうこと勝手に決めちゃうのかなぁ」
全くの期待はずれに象った。
どっちつかずの返答ではあったが、いつものように二つ返事で肯定しなかったことが俺様の脳天をぶん殴る。違う、ロシアは確かに、俺様なんかに興味はないはずだ。正確には、俺に特別に興味があるはずがないってことだ。『全部がロシアになればいいのに』の一貫でしかない。
いくらそう自分に言い聞かせても、一度冷えかかった体温がまたしてもうなぎのぼりに上がっていく。どんどん上昇して、きっともうゆでダコみたいになっている。思考が上手く回らない。これは一体どういうことだ。ビールにウォトカでも仕込んでやがったか。
……というか、こいつ、あんな顔もできたんだな。
あれからまともに会話をしていなかったせいか、初見と思われる大人びた表情を目の当たりにしてしまい、意識の全てを奪われる。あんな風に返せるようになってたんだな……。
ああ、気づかれる。こんなんじゃ、ロシアを前におかしな動揺の仕方をしていることを、気づかれてしまう。自棄を大爆発させて、俺はその場で飛び上がった。
「な! なんか暑くなって来たなあ!? ビール飲み過ぎたかもな!? と、とにかくもう帰れッ! 俺様にはお前と話すことなんかねぇからよッ!」
それすらもロシアは笑顔で、「焦ってるねぇ」と笑って流してしまった。
……俺様は今、ロシアの顔を見れない。脊椎反射並にどうしようもできねぇ。だが顔を見れないことを意識したら、さらに体温が上がった。
「お客様、」
低く通る声が店内に響いた。直視できずに止まっていた俺には、神に思えるような抜群のタイミングだった。それを期にゆっくり腰を下ろすことにした。
「どうしたら君はちゃんとぼくを見てくれるんだろうね」
ロシアから柔らかい愚痴が聞こえる。ドクドクと心臓が伸縮しているのを自覚したのは、その愚痴のせいか、急にウォトカを飲み始めたロシアのせいか。
心臓の音とよく似た、ウォトカを喉に通す音が重なったが、もうそれも視界に入れるわけにはいかない。
とうとう俺様が一瞥もしないまま、ロシアは乱暴にグラスを置いた。その手元が視界に入り、立ち上がる動作を追うはめになり、
「……なんだか悲しくなってきたからもう出るね。リトアニアも可哀想だし」
気づけば、流れでその鼻の下の人中を見ていた。まだ目を見ることができない。
――もう帰るとロシアは宣言した。よっし、やっとか。願ったり叶ったりじゃねえか。
俺様は安堵した、これで開放されると、腹案で。
「今になってそんな顔するの。ひどいよ」
しかしロシアから返ってきた言葉にギョッとする。
気づかれている。気づかれている。自分でも気づきたくなかった本意を。
――煩わしく思っている横で、俺は『放っておけない』という気持ちを隠していたこと。自分をも誤魔化していたというのに。一体自分がどんな顔をしているのか、さっぱりわからなくなっていた。そんなにわかりやすい顔をしていたのだろうか。
――!?
俺は息を止めた。ギギギと衣類を引かれ、まるで宙に身体が浮いたように錯覚すると、立て続けにロシアの顔面が迫ってきたことに大層驚いたためだ。キスをされるのかと、本気で構えてしまった。
――『二四六通りを左に曲がったところにあるロシアンバーで、一人でこれから飲むよ』
……だが、それは違った。耳をくすぐる息遣いが教える。
パッと手を放れたときに見えた横顔が、やけに目に留まる。
「じゃぁね。待たせてごめんねリトアニア。出よう」
従順なリトアニアはロシアに寄り添い、「あ、勘定」と有能な秘書と化す。一度も店内を見渡すことも、俺様の方へ振り返ることもなく、
「適当に済ませといて、ぼく外で冷たい空気に当たってくるよ。のぼせちゃった」
「は、はい……」
ロシアは扉から外へ出て行った。同時にリトアニアの尖った視線が向けられたのがわかったので、理由も考えぬままに打ち返す。会計が終わると、忙しなく店をあとにした。
その一連の流れの間に、目に焼き付いた笑顔が繰り返す。『二四六通りを左に曲がったところにあるロシアンバーで、一人でこれから飲むよ』
――つまり。そんなことを教えるということは、もはやこの可能性しか残っていない。俺様に来い、と? そう指示してやがるんだ。
……くそ。また忘れていた体温と動悸を自覚してしまった。どういうことだ。どういうことだ。
俺様は急いでパソコンの電源を切るために、スクリーンセーバーを解除した。出てきたブログの記事に、コメントはまたいくつか増えていた。だが、やはりどれも頭に入らなかった。いつもならすぐに返すところだけども……情けなくも余裕のない現実を叩き込まれる。
ブラウザを閉じ、パソコンを閉じた。落ち着きのない動作で、まだ泡の残るビールを持ち上げる。
するとマスターが会計を記した紙を持ち、テーブルの横に立った。パソコンを閉じたあとに流し込むビールは、俺はこれで終わりだぜという印だと思われている。今までがそうだったからだ。
俺様は所持していた小切手の紙を出し、その金額とサインを書いた。もう俺様のものではないその紙切れをマスターに手渡す。……何か書きにくかったなと思ったら、どうしたことか、俺様は右手でそれを書いていた。
ど、動揺しすぎだぜ……。
自分自身に呆れを抱くが、またロシアの無声音が耳をくすぐった。――『一人でこれから飲むよ』
ひ、一人なら、誰かが行ってやらねえと困るだろ。あいつは質の悪い酔っ払い方をするからな。リトアニアみたいなひょろいやつじゃどうにもならない。
……どうしようもなく、俺様は席を発ってしまっていた。
おわり
(あとがきのあとにおまけ有)
あとがき --------------
プーちゃん視点でした!!
お、思うように書けているかしら……。
途中から少し心が折れてしまいそうでしたが、なんとか完成(T▽T)
お楽しみいただけたなら嬉しいです……!
やはりろぷちゃんは難しいですね……。
理想のろぷちゃん像があるからでしょうか……生むの苦しい……。
けど書きたくて書きたくて仕方がないのがもう、、、
というわけで、これからもこういうものを量産していけたらいいな!!!!
と、意気込みだけはあります。。。
どこかでまたお見かけいただきましたら、どうぞよろしくお願いします!
ご読了ありがとうございました^^
おまけ(温度差注意)
ろ「あ、来てくれた〜」
ぷ「うわ、酒臭えし、本当に一人で飲んでやがる!」
ろ「えへへへ〜来てくれると思った〜。プロイセンくんは何飲む? ウォトカだっけ?」
ぷ「何言ってんだ、ビールだビール」
ろ「えへへ。マスター、ビールと、あと同じのおかわり」
ぷ「……ったくまんまと来ちまう俺様まじ優しすぎるぜ」
ろ「嬉しいよ」
ぷ「……。……か、帰る! お前といると悪寒しかしない!」
ろ「ええ、今頼んだのに! ビール来るよ! 一杯だけでいいからさ、飲もうよ」
ぷ「……ああ、もう! だいたい先にベロンベロンなやついると酔えねえだろ!」
ろ「じゃあ、これあげようか? ビールも来たことだし、君ならすぐに酔えるよ」
ぷ「ああ!? お前酔っぱらいすぎだろ! 俺様のビールにウォトカ入れやがって! なんてことしれくれてんだ!?」
ろ「ええ、いいじゃない。おいしいよ。ほら、責任持って飲んでね」
ぷ「ふっざけんな!!」
お粗末様でした( ̄▽ ̄)