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    第七話 オモイ・フィーラー
    「……ねえ、それ、会社じゃだめ?」
    自宅のリビングのソファに並んで座っていた。イヴァンは先程まで技術系の雑誌を読んでいて、俺様はその隣で別の技術系の読本を開いていた。いつの間にか夢中になって文字を追ってしまっていた本の代わりに、下から覗き込むようなイヴァンの顔が目の前に広がる。驚いてぱちぱち、と二・三度瞬きをして視界を明るくしたら、採光に合わせて薄くきらめく、朝露のようなバイオレットの虹彩が待っていた。
     二人がけのソファにわざと詰めて座り、腿が互いに当たって……いや、当てて、落ち着いていたから、イヴァンの顔はそれはもう目と鼻の先に構えていた。距離をなくして座るのは、学生のときにもよくやっていたことだ。一人暮らし用のマンションとは言え、今やあのころの俺様の自室よりはよほど広い家の中だというのに、それでも俺様たちは自然と距離を省いて過ごそうとしている。……さすがに初夏を目前としていた今日は、昼過ぎからは暑くなって窓を開けていたが、そうするとちょうどいいくらいの涼やかな風がやさしくカーテンを揺らした。
     今日は日曜日で、何回目かになる休日を、ともに過ごしている。
    「ああ、悪い。お前まだ終わってねえのかと」
    眼鏡を外しながらイヴァンの瞳を見返す。
     休日とは言え、別段どこかにでかけたりするわけでもない俺様たちだ。……というか、俺様は二人ででかけるのはあまり好きじゃなかった。……だって、外でまでこんなにくっついてはいられない。離れることが不安とか、そういうわけじゃないが、家の中だとなんの気兼ねもいらないのが心地良いだけの話だ。
     何を合図と捉えたのか、ふ、とイヴァンの瞳が抱いていた硬さが抜けて、眉が落ちる。それと一緒に目元が緩み、そのまま、やさしく、やさしく、俺様の唇にその唇で触れられた。音の一つも伴わないようなただ当てるだけのキスなのに、脈拍が一気に押し上げられる。どくどくと心臓がうるさくなり、また視界に戻ってきた瞳には、そうするより前にはなかった細かな光が灯っていた。
     その暖かな……いや、熱線のような視線に半ば狼狽えてしまう。キスの、その先を望んでいる目。これよりももっと奥へ入りたがっている、健全な欲を湛えた目だ。この目を見ていると、いつも息が詰まりそうになる。
    「……肘が当たって痛えんだけど」
    「あ、ごめん」
    その瞳に気づかなかったふりをして、あえて体勢を整えてやった。それに合わせて、隣のでかい身体も重心を気持ちだけ持ち直す。
     俺様が自らの想いが抑えられないものと自覚して、イヴァンと気持ちを通わせてからも、まだこの胸中には一抹のためらいが残っていた。……いや、ためらいと名付けていいのかも疑わしい、息苦しさだ。どうやらあの時とは心境が逆転しただけで、イヴァンに対して警鐘を鳴らす俺様も、いまだに心の中に居座っているらしい。
    「じゃ、そうだな。一緒に映画でも見るか?」
    イヴァンの中でこの先の時間の使い方はたぶんもう決めてあるのはわかっているが、俺様にとっては今はまだ、距離をなくして同じ空気を吸っているだけで十分だった。……その先は、まだ、直視するに耐えない。
    「……えとね、ぼくはさ……、」
    曖昧なところで区切って、改めてこのリビングの中の空気を作り変える。やっぱりイヴァンの眼差しは先程の延長にあるような熱を燻らせていた。背後にはカウンターがあって、その奥には電気が灯っていない、暗いキッチンがある。
     ……あれはもう二週間くらい前になるだろうか。酒を飲んで帰宅したイヴァンと、どうしようもなくキッチンで触れ合って。〝恋人として〟……触れ合って。もちろんもういい大人だ。自分でいろんなことを処理してきていたが、そういうときとは比べ物にならないほど……言ってしまえば学生のときに身体の中で燃えたぎっていた熱をそのまま、引っ張り出してきたような、脳みそが溶けるような灼熱がぶり返した。あのころと何一つ見劣りしないそれが身体を燃やして、簡単に自分を投げ出してしまったような後悔すら抱いた。それくらい、俺様にとっては強烈な触れ合いだった。
    「――ううん、なんでもないよ」
    甘やかな声とともにイヴァンは一撫で頬に触れて、今度こそ重心を向こう側へと移す。ソファの背もたれに寄りかかって、それでも熱を孕んだ眼差しのまま笑むのをやめないから、恥ずかしくて手動であっちのほうへ顔を向けさせてしまった。「もう、なに」と戯けて返されるが、さっきのキスも手伝って、俺様はそれどころではない。心臓を中心に身体を打ちつける脈が、危険な熱を伴っている。
     イヴァンが、あれ以上の触れ合いを求めているのはなんとなくわかっている。それでも、何も言わずとも身を引いてくれることに甘えて、俺様はそれに気づかないふりを続けていた。……イヴァンには申し訳ないが、あれからそういう話題ができないのは、思い出しただけでいろんなことに耐えられなくなるからだ。羞恥とか、期待とか、恐怖とか……先程から持ってしまっているような、止まない動悸とか。キッチンで触れ合ったとき、俺様はイヴァンに縋りたくて仕方がなくて……もし、この先、本当の意味で〝繋がって〟しまったら……今度こそみっともなく縋ることしかできなくなりそうで、それがとてつもなく怖かった。きっとそれが、人生の絶頂にすら思えてしまいそうで。……一度でもイヴァンと身体を重ねることを知ってしまったら……もしもまた道を別けることになったとき、自分がどうなるか恐ろしくて、想像もしたくない。……とどのつまり、自分でも受け止めきれていないほどの欲がこの中に渦巻いていることに、まだ向き合うことができないでいた。ただそれだけだった。
     ころん、と見ていたイヴァンの表情が転がった。あ、と声が落ちたかと思えば、まるで思い出したように目を丸めて「そういえばさ、」と、脚だけは未だに触れ合ったまま、にこりと笑ってみせた。
    「ねえ、ぼく考えてたんだけど、この際二人でお引越ししない?」
    あんまりにも唐突だ。……しかも、そんな『散歩に行こう』みたいな笑顔で言う内容じゃないだろう。
    「君のマンションを引き払ってぼくの一軒家に来てもいいけど、せっかくならさ、どこか遠くに。世界を百八十度変えてみるってのはどう?」
    つまりは、もう本格的に屋根をともにしてしまおうという提案も含まっているらしかった。……イヴァンがさも名案かのように言い出したのは、間違いなく俺様がジャパンキコーから受けた誘いがあったからだ。そうでもなければ、俺様が『時期尚早だ』と言い張るのは目に見えていたはず。
    「ほら、君はジャパンキコーの人にお願いしてさ、引越し費用も出してくれたりするんでしょう」
    案の定、思ったままを続けた。軽かった笑顔はほんの少しだけ苦味を含ませて、それでもつらつらと言葉がその口から出てくる流れは止まらなかった。
    「ぼくは今の会社に愛着なんてないし、ぼくも君についていくよ。君といられないならどの道、無理だもん、死んじゃう」
    そう大きく締めくくって、「ね?」とようやく俺様の意見を聞く気になったらしい。だがそんな可愛らしく同意を求められたところで、
    「死んじゃうってお前なあ……」
    こいつがあまりにも大きく締めくくったことだけが引っかかってしまった。
    「まあ、ちょっと……考える」
    そう易々と『死んじゃう』とか。一気に身体の芯にこもっていた熱が冷めていくような感覚を抱く。……本当に別れることになったとして死ぬわけがないのに、どうしてそんな言葉を軽々と使ってしまうのか。そうじゃないとわかっていても、まるで初めから果たすつもりのない約束を持ちかけられたように思えて、落胆するようなさめざめとした心持ちになってしまった。――この言葉のように本来の重さに関係なく、別れを切り出されてしまうのだろうか。不意に過って、いやいや、そこまで繋げるのはいくらなんでも理不尽すぎるだろうと、それは流石に自戒した。
     そもそも、俺様は転職する気はない。……少なくとも、今のところは。前任の社長が退職する際に、この会社を頼むと個人的に話をしてくれていたし、いろんなできごとをともにした運命共同体のような会社だ。もうすぐ生活をともにして十年になる、今さら金を積まれたところでほいほいと乗り換えるつもりは……爪の先ほどもなかった。
     それに、あえて言うなれば、やはりイヴァンと形式だって屋根をともにするのは、時期尚早に思える。まだ復縁して二ヶ月にも満たない。イヴァンの態度からしてそんな気は微塵もないのはわかっているが、それでも万が一として、もしまた投げ出されるようなことがあれば、今みたいな関係のほうが傷が浅くて済む。……少なくとも、俺様はそう思ってしまっている。
     くるくるくる、と脳みその中が落ち着きなく堂々巡りを続けていて、なんの前触れもなくそれを自覚した。……今から『もしも別れたら』なんて考えるのはあまりに不毛だし、イヴァンに対しても失礼だ、わかっている。……だが、そうだ、これはさながら自己防衛の一つとして、まるで必ず踏まなければならない手順のように、脳裏を掠めていくから厄介だ。
    「コーヒー淹れるかなあ」
    そうやって立ち上がろうとした、まさにそのときだった。
     ゔゔゔ、とソファの隣の雑誌ラックに置いていた携帯電話端末が着信を主張した。何冊かおいてあったソフトカバーの読本の上で揺れていたバイブレーションのせいで、ごごごに近い衝撃音がなり、慌ててそれを拾い上げた。……そこに表示されていた名前は『ホンダ』だ。……つい数日前に俺様が転職の提案を受けた、ジャパンキコーのやり手の営業、その人。
     興味津々で画面を覗き込もうとしていたイヴァンに向けて顔を上げ、
    「……ジャパンキコーのやつだ」
    「お、ほんとに? 出なよ」
    端的にイヴァンに教えたら、なんともあっさりとそう返事が寄越される。席を外して受話するのがいいだろうかと身動きを取る準備をしていたので、たちまち拍子抜けした。問い返すようにまた視界を覗けば、うんうんと頷いてみせられる。
     こいつがいいと言うのなら、まあいいだろう。受話ボタンを軽やかに押し、画面が切り替わるのを確認した。
    「――もしもし、俺様だが、」
    『もしもしギルベルトくん。先日はありがとうございました』
    本田が最後まで言い切るよりも先に、イヴァンが横から俺様の端末に手を伸ばした。短く「貸して」と言うから、何を考えてるんだととっさに身体を逆の方向に捻る。
    「ホンダ、ちょっと待ってくれ。今連れといるんだが、」
    『ああ、それは失礼しました。ではまた改めま、』
    する、と手の中から端末がすり抜けていった。驚いて見れば、イヴァンがなんのためらいもなくそれをスピーカーモードに変えて見せ、
    「もしもし、ギルベルトくんと同じ会社のイヴァン・ブラギンスキって言う者です」
    俺様の反応を伺うように、じっと目を合わせてきた。
    『……え、あのイヴァンさんですか?』
    受話器の向こうから届いた声が、わかりやすく数段音階を上げた。その反応は不自然に思えて、二人して見合わせてしまい、イヴァンのほうが「あのって?」と問い返していた。もしかすると、思っているよりもうちの会社の内情に詳しいのかもしれない。
     本田はすぐさま、
    『いえ、失礼な言い方でしたね。すみません。ジャパンキコーの本田と申します』
    そう謝罪を入れて、そこまでで言葉を止めた。続く気配がなかったからだろう、イヴァンが改めて端末を持ち直し、俺様が口を挟むのを牽制するようにまた様子を窺われていた。
    「えとね、ギルベルトくんにしたお話、ぼくも一緒に詳しいことを聞いたらだめかな?」
    何を言い出すんだと思ったのは、俺様だけじゃないだろう。
    『……えと、それはつまり……』
    「もちろん会社の人には言わないよ」
    確かにさっき『ぼくもついていくよ』とは言っていたが、こんな引き抜き話に勝手に混ざるつもりでいたなんて予想外で、言葉をなくして会話の行方を見守ってしまった。受話器の向こうからも返答が途絶える。おそらく本田も突然の申し出に戸惑っている。イヴァンの表情からも緊張感が覗いていたから、イヴァン自身、これが突飛な行動なのは理解しているらしかった。
    『……そうですか……』
    ようやく沈黙が終わりを告げ、途絶えていた応答が再開する。
    『でしたら、はい。イヴァンさんのような方でしたら、我々も大歓迎です』
    このときのイヴァンの顔ったらない。よほど安堵したのか、一気に笑顔になって、その笑顔のままに俺様に目配せをしてきた。さながら『やったね!』とはしゃいでいるようで、その表情は何とも子どもじみていた。
    『……ああ、ですが。……社長さんが手放さないんじゃないですかねえ……』
    言い渋るような声色で本田がこぼす。こいつはよほど内情に精通しているらしい。どこまで知ってやがんだと少々の不安を抱くが、そんなことはお構いなしなのか、
    「そ、そんなの関係ないよ! とにかくぼくも聞きたいんだ」
    むしろ力説するように、イヴァンは勢いよく端末に向けて意見していた。まさかこいつがここまで強い意志を持っていたなんて、これっぽっちも気づいていなかった。……結局、この話を持ちかけられた俺様よりも、イヴァンのほうがいろいろと考えていたのかもしれない。
    『わかりました。では今晩、三人で食事でもどうですか?』
    「わあ、行く行く。喜んで」
    『はい。では場所と時間はまた改めてギルベルトくんにメール入れますね』
    勝手に会話が進んでいく。はらはらとした心持ちは拭えないが、詳しい話を聞くくらいならいいだろうか。あくまで俺様は転職の意思なしの方向だが、イヴァンがそうしたいというのなら、付き添いくらいはしてやろう。
    「おう、頼んだぜ」
    『はい、ではまた後ほど』
    その挨拶を最後に通話は終了し、ずっとイヴァンの手の中にあった端末がついに俺様のほうに返された。……しかし、なんでこいつ突然こんなに積極的なんだ……? 見ている限りでは、新年度からの部長職も板についてきて、不自由をしている様子はないように思えていたから、俺様は端末をまた雑誌ラックに戻しながらイヴァンの表情を見返した。相変わらずにこにこと、読み取りづらい表情をしてやがる。
    「なんか意外だったよ。すごく渋い声の人だったね」
    ほわほわと無邪気に笑うことで、一つだけ理解した。……やっぱり、こいつはこの件を俺様ほど重く捉えてはいないということだ。これはもう本人の気質だろう。……こいつは変なところで楽観的になることがあり、この件はそれに当てはまるらしかった。……そうなると、俺様も重く考え過ぎていることがバカバカしくなってくる。あくまで転職はしないという意思を持っていれば、そこまで身構える案件ではないだろうかと思考を改めた。
    「今のやつ、ホンダって言うんだけどな、見た目と違って俺様より一回りもジジイらしくてさ、初めて会うときはイヴァンも驚くぜ、きっと」
    だから、重くならないようにと、イヴァンに合わせて軽く笑ってやった。
     そうだ。俺様は今の生活を変えるつもりはない。たとえ今は営業職から離れているとしても、ちゃんと今の仕事にも生きがいは見つけられるだろうし、真面目にやっていればどういう変化が訪れるかはわからない。……もし、イヴァンが本田の話を聞いて転職をしたいということであれば……そのときは、また、そのときだ。
     早速ソファから立ち上がり、スーツじゃなくてもいいよねと笑った顔がふり返った。その笑顔の裏にあるであろう期待を汲んで、またぎゅ、と息苦しくなったような気がする。……思いが通じて、こんなに近くにいて、どうしてまだこの胸は痛むのだろう。いい加減、自分でも不可解に思ってしまう。俺様はイヴァンが好きだ。そしてイヴァンも、俺様のことが大好きだと言う。側にいすぎると、泣いて、たまらなく好きだと言う。……なのに、まるで一方通行のような虚しさが残っているのは、なぜなんだろう。

     その晩、俺様とイヴァンは揃って本田が指定した飲み屋の前に立っていた。先日本田に誘われた際とは違う店だが、本田もあまりこの街のことに詳しくないのか、立地としてはとても近かった。……何より、俺様たちの会社からも一駅という近さにある飲み屋街だ。それとなくそわそわしてしまうのはそのせいだろう。同僚に会わなければいいがと辺りを見回していたら、本田からメールで、すでに到着しているから中に入って来てくださいとの指示が入った。手振りでイヴァンについて来いと伝えながら店に入れば、奥の方で見覚えのあるおかっぱ頭のアジア人が、控えめに手を振っていた。眼鏡をかけてはいなかったが、この街で真っ黒の頭部は珍しいので、割と強い確信を持ってそのテーブルのほうへ向かう。
    「おう、待たせたか」
    「お久しぶりです。まだ時間より早いですから。こちらが噂のイヴァンさんですね、初めまして」
    そうやって初対面同士を挨拶させて、とりあえずはと飯と飲み物の注文を終える。濡れタオルで手を拭いて、それをまた丁寧に畳み直しながら、本田は「早速ですが」と前置きを寄越した。俺様もイヴァンも、同じようにして本田に注目した。
    「単刀直入に言いますね」
    「ああ」
    「ここへ来る前に上に掛け合ってみたのですが、」
    勿体ぶるように言葉を止めて、俺様とイヴァン、両方に目配せをした。
    「引越しなどの支度金をお出しできるのは、ギルベルトさんだけということになりました」
    すう、と隣から息を吸い込む音がする。ちら、と盗み見れば、おそらくイヴァンはその答えが意外だったのだろう。特に反論をしようとするような顔つきではなかったが、納得はできていないようだった。……まあ、これはごくごく自然な決定だ。初めから本田は俺様に声をかけたのだし、もともと採用予定は一人だったのだろう。
    「ああ……まあ、そうか」
    イヴァンの代わりに俺様が相槌を打てば、本田はそれまでの真剣な眼差しを難しそうに綻ばせて、
    「なんていうか、まだ我が社としては未開拓なマーケットなので、どれほどの売り上げを見込めるかもわかっていなくてですね……申し訳ないんですが、今のところ、お迎えしたいと思っているのはギルベルトさんのみで。イヴァンさんの優秀ぶりも話してはみたのですが、尚さら、お給料の面でもうちに変わるメリットを作ってあげられないかと」
    懇切丁寧に事情を話してくれた。そもそもが今回、本田の言うように新しいマーケットの責任者に俺様を、という話だった。ましてや当面は〝俺様一人〟で担っていくマーケットだということも、すでにあのときから聞いていた話だ。売上が見込めれば人員を増やしていくだろうが、始めはまだ試験的なマーケットということ。
    「ぼ! ぼくは!」
    ぐっと身体を乗り出したイヴァンが唐突に声を上げて、それに対して俺様も本田も目を見張った。
    「ギルベルトくんといられるなら、お給料なんて今の半分だって構わないよ!」
    見れば机の上に置いてある拳はご丁寧に丸く握り込んでいて、いかにも必死であることを見せつけるような表情をしていた。こんなに真剣な眼差しを見ることは少ない。いやそれどころか、俺様と向かい合ったときの他には、見たことがなかったので驚いた。仕事のことでもこんな顔をするんだと釘づけになっている間に、
    「え? ……ああ、」
    ぽろ、と本田の口から何かを察したような声が漏れた。驚きを隠せないというように、俺様とイヴァンをその視線で行ったり来たりして、
    「そういうことでしたか……」
    なんとも意味深にそう呟いた。……おい、イヴァン、お前なんかばれてんぞ。咎めてやろうと俺様もイヴァンを見やれば、珍しく「あ、あの、今のは……」と狼狽えている。もうおせえっつの。
    「いえ、大丈夫です」
    本田はただ静かにそう言って、建前なのか本心なのかさっぱり見当もつかないような笑顔を浮かべた。
    「遠距離だと忍耐がかなり試されますよね。そういうことでしたら、お二人には側にいてほしいです」
    ほら、確実に俺様とイヴァンの間柄を察せられている。しかもその上で、めちゃくちゃに気を遣われてしまった。……帰ったら文句の一つくらい垂れてやる。
     そんな心境の俺様をよそに、本田はまたしばらく一人で考えているようだった。たった今放った言葉に嘘偽りはないらしく、ふう、と肩の力を抜くような深呼吸をしてから「わかりました」と改めた。
    「ただ、イヴァンさん、本当にお給料がどうなっても知りませんよ?」
    「うん。正直、転職先が見つからなくてもギルベルトくんについていくと思うから」
    俺様の意見なんてどこにも取り上げられていないことは薄々気づいていたが、またしてもイヴァンの一生懸命すぎる言葉に注視してしまった。
     よほど離れたくないと思ってくれているのだろう。……それは、少しくすぐったく感じさせた。……そうだ、再会してからの四ヶ月余り、こいつはただただ俺様と復縁することだけを考えていたほどだ。……俺様が身構えてしまっているほど、あっさりと手放す気はないというのが、この態度だけでもちゃんと伝わってくる。
    「ふふ、若いっていいですね」
    くすぐったさを感じていたのは俺様だけではなかったらしい。本田も隠すように笑みをこぼして、イヴァンはそれを見て「えへへ」と満足そうに笑っている。……そしてどうしたことか、俺様だけが何故かめちゃくちゃに恥ずかしくなってしまい、二人にこの蒸気を上げそうな顔に気づかれないように慌てて口を挟んだ。
    「若いって、見た目だけならお前もそうとうだけどな! 本田!」
    「あはは、何をおっしゃってるんですかギルベルトくん」
    棒読みで返されたが、どうやら上手く誤魔化せたらしい。……たぶん。とりあえず本田はその場で改めて座り直して、
    「ではまた明日にはなりますが、もう一度上に掛け合ってみますね」
    同じように座り直したイヴァンを見据えた。
    「よろしくお願いします」
    いつもほやほやしているイヴァンも、柄にもなくしゃっきりと背筋を伸ばして、丁寧にお辞儀をしていた。……俺様は転職する気はないとちゃんと決めてきたにも関わらず、イヴァンが宣言してくれたことが思っていたより嬉しかったのかもしれない。本田にもイヴァンにも俺様自身の意見を伝えることに、それほどの重要性を見いだせなくなっていた。今じゃないどこかのタイミングで、ちゃんと伝えてやればいい。
     料理が運ばれてからも、イヴァンと本田は何やら親しげに話をしていて、この空間をとても心地の良いものとして感じさせた。……きっとイヴァンと恋人同士であることを知られ、それでもそれを当たり前のことのように受け入れてくれる第三者がいるというのが、心地よく感じていた理由だろうと思う。
    「――ところで、なんでお前は俺様の給料把握してんだよ。誰かが情報流してんのか?」
    話が弾んでしばらくしてから。ビール瓶を握りしめながら、俺様は思い出したことを本田に尋ねた。本田は裏を持ったような目つきで微笑むばかりで、
    「それはまたいずれ、我が社への転職が終わってから詳しくお話しますよ」
    肝心なことは上手に隠してしまう。……俺様たちの秘密を掴みたい放題にしているくせに、自分の腹の奥にはたんまりと隠し事を溜め込んでいるらしい。よほどのやり手だなと実感した、さすが忍者の国から来た営業は一味違う。
    「……ですが、少し安心しました」
    「何がだ?」
    俺様が自分でグラスに注ごうと思っていたビール瓶を取り上げて、流れるような動作で俺様のグラスをその金色のアルコールで満たしていく。
    「いえ、先日お話した際のギルベルトくんは、あんまり感触がよくなかったもので」
    改めて瓶を置くと、手のひらでどうぞと示してから笑って見せた。
     どうやらこいつが言っているのは、こいつの提案に対する俺様の反応のことらしい。ここが正しいタイミングかと見定め、本田が注いでくれたグラスを握りしめてから、
    「ああ、転職のことか」
    「はい」
    ごく、ごく、と数回、炭酸を楽しむようにそれを流し込んだ。そうだ、これこれ。その喉越しは何千回と経験したって最高に気分がいい。
    「まあ、なんていうんだろうな。本音を言うとさ、実は今でも、転職する気はあんまりねえんだけどな」
    言い終えてから初めて、グラスから視線を上げて、向かいに座った目が見開かれるのを見つけた。
    「え? そうなの?」
    隣からも間の抜けた声が届いて、いや、お前にはずっとそう言ってただろうと、呆れ眼を向けてしまった。え、そうなの、じゃねえだろまったく。
    「そうだぜ。お前らやっと俺様の意見聞く気になったのか。良かったぜ」
    皮肉でそう言ってやり、本田が自分のショットグラスに入っていた日本酒を口に含むのを目で追う。こく、と小さな動作でそれを嚥下して、目の前に並べられているつまみの残りに箸を伸ばしていた。……先ほど、店員にお願いしたら特別にと出てきた箸だ。
    「ですが、それは困りましたね……」
    「そうだよ」
    目前からも真横からも、俺様を挟み込むように不満をこぼされる。よく考えたらこれ、俺様めちゃくちゃ不利な布陣じゃねえか。今度は隣に座ったイヴァンのほうに目を向けて、視線がかち合ったところで控えめに腕に触れられた。
    「ギルベルトくん、君が今の会社が大好きなのはわかってるけど、でも、それじゃ君がもったいないよ」
    ちら、と本田の気配が微妙に動いて、イヴァンと本田が不自然に目配せをした。……あ、こいつら、今目的を確認し合ったな、とそれは察して、
    「私もそう思いますね」
    すぐさまイヴァンの後押しをするように本田が割り込む。さすが勘のいい営業同士だ、光の速さで結託してしまった。
    「残念ながら私はあなたの営業風景を見たことはありませんが、ただ、私にあなたという人を推薦してくれた人は、あなたをとても高く評価しています。ですから、あなたにはもう少し大きな展望を持っていただきたいです。叶うなら、同じフィールドで味方として戦っていただきたい」
    空気を読んで発言を慎む日本人とは程遠く、本田ははきはきと本人の意見を並べ立てた。……いや、むしろこれは空気を読んでのことかもしれない。押すなら今だ、とそんな意志を窺わせる眼差しだ。
     ……だが、またグラスを握っただけで、慣れ親しんだ社内の風景が視界を掠める。……やはり俺様にも信念はしっかりと灯っていて、そう簡単に手放すことはできない。
    「……その評価は嬉しいけどよ、」
    「じゃあね、」
    まだ最後まで言ってすらいないのに、イヴァンの声が俺様の信念を遮った。
    「君は、今の会社に残ることのメリットはなんだと思う?」
    「……メリット?」
    「うん、君の将来のことを考えて、はっきりさせたほうがいい」
    イヴァンが俺様に今寄越しているのは、先ほど本田に見せていた真剣な眼差しと同じものだ。むしろ合点がいったのは、先ほど見せたあの真剣な眼差しは、俺様のことが絡んでいたから見られたものだということだ。……どうしてそうまでして一生懸命になれてしまうのだろうか。とてもじゃないが、じっと見返すにはその視線は情熱的すぎて、本田のほうへ視界を移した。……だが、本田も、綻び一つ見せずに真面目な顔をして、俺様の見解を待っている。
    「……メリット、な」
    仕方がないので、俺様も目前に置かれたつまみの中から小さめのヴルストを選び、それを口の中に放り込んだ。マスタードのつぶつぶを口の中で潰していき、その度に風味が鼻を抜け、次を促すほどに美味い肉汁と絡まる。
     こんなに熱心に俺様の見解を待たれては、逃げ場はどこにもない。……いや、逃げるつもりはさらさらないのだが、そうやって〝メリット〟〝デメリット〟で測ってしまうのは少々分が悪いのは気づいている。ある程度噛み砕いてしまってから、俺様は答えをじっと待っている二人に向き合った。
    「まあ、十年近くやってる仕事だしな。業務的な新しいことを覚える必要はなく、効率的に今知っていることの探求ができる。あと、落ち着く」
    残念ながら情を抜きにした場合のメリットとは、それくらいのものだろう。薄々わかっていはいたが、こいつらの思惑通り、思っていたよりも少なかったことに気づかされた。
    「……探求なら、うちでもできますね」
    俺様の言葉に区切りが入ったことを悟り、本田が控えめに意見を挟んだ。
    「業界は同じですから。むしろ、こういう言い方をしてしまい申し訳ないのですが、我々はより大手ですから、幅も広く、知識も深いですよ」
    本田の箸も俺様が口に投げ込んだのと同じヴルストに伸びて、嬉しそうにそれを頬張っていた。選手交代をして、今度はイヴァンが俺様に所見を明らかにする。
    「落ち着くかどうかだって、もしかしたらジャパンキコーのほうがもっと落ち着くかもよ?」
    「それは行ってみねえとわかんねえよ。外国だしな。俺様日本語はからっきしだし」
    返しながら少し言い訳じみているなという自覚はあったが、まあ不安要素の一つであることは確かなので撤回はしない。それには本田が再び口を挟む。
    「以前もお話しましたが、日本勤務ではありますが、ターゲットは日本在住の外国人の方々なので、日本語の習得の有無はそこまで重要視していませんよ。それに、ギルベルトくんは聡明でいらっしゃいますから……すぐ話せるようになる気がします」
    「……どれも希望的観測だな」
    「君が今の会社に居続けることだって、そうだよ」
    はっきりとイヴァンはそう断言してしまった。もわ、ともどかしさのようなものが、俺様の胸中に入り込む。……そりゃイヴァンはまだ入社して四ヶ月だ、愛着もクソもないだろう。こうやってメリットとデメリットだけで話すことは簡単だ。だが、俺様にはそれに〝情〟というハンデがつく。浮かぶ顔ぶれは、今やイヴァンよりもよほど付き合いが長い人々で溢れている。
    「今の社長さん、いくつ?」
    今の流れでなぜそれが問われたのか、様子を窺うように「さあ、確か五十くらいだったか」と軽く返答した。イヴァンのほうは、本人に近い位置にあったピクルスを摘んで、それを迷いなく口に運む。かりかりと咀嚼する音に混じって、「そうだね、たぶんそれくらいだ」と返答を得る。
     余計な効果音がなくなってからイヴァンは、改めて注目を促すように、俺様の目を控えめながらもしっかりと見据えた。
    「……で、今の社長さんは、その、なんていうか……そう、君には営業じゃなくて教育が向いているって、思ってるでしょう。つまり、少なくともあの社長さんがあの席に座っている間は、君は営業に戻れないと思っていい」
    なぜそんなにはっきりと言いきれるのだろうか。
    「……わかんねえだろ、そんなの」
    まだ入社してすぐのお前に何がわかる。ほんの少しだけ、そういう反抗的な苛立ちが降って湧いた。
     と、思ったら、
    「……そうですね。ですが、ギルベルトくん」
    「ん?」
    本田からもはっきりとした声が発せられた。いつの間にか威勢よく睨み合っていた俺様とイヴァンが、別に見計らったわけでもないのに、面白いくらい同時に本田のほうへ顔を向けてしまった。
    「……あ、すみません。……その、横槍のように聞こえるかもしれませんが、私が聞いた感じでも……おそらくイヴァンさんの読みは当たっていますよ」
    「……は?」
    本田もイヴァンに負けず劣らずといった真剣な眼差しをこさえていた。
     この二人は結託しているのだから、意見が同じなのはわかるが……別に事前に打ち合わせをしていたわけではない。俺様が間に立つことで初対面を迎えたのだから、それは疑う余地もないのだが……どうやら、二人は俺様の知らない何かを知っているらしいということだけは、なんとなく肌で感じた。
     改めてイヴァンへ視線を戻せば、待っていたとばかりに見返されて、
    「……あの社長さんが退職するまで十何年、君は営業から離れているとして、そのあと、また営業に戻る可能性はあるのかな」
    独り言のような静けさを持って問われた。
     とん、と、鉛玉のような、重さを持った小さなわだかまりが腹の底に投げ込まれる。……この二人が何を知っているのか、それを俺様は知らない。だが、イヴァンの言葉だけを切り取って考えるならば、もし本当にこの先十何年というときを、今座らされている席に座り続けることになれば……俺様の中にある芯のようなものは、力を持たなくなっていることは、十分に考えられた。
     自分の中にある思考の終着点に到着したと同時に、そっと視界を上げた。そこでイヴァンも本田も静かに待っていて、どうやらこの仕草だけで結論が出たことが察せられたらしかった。
    「……だったらぼくは、絶対君に転職を成功させてほしいよ」
    イヴァンの凛とした声が、一つの摩擦もなく身体を通る。
    「ぼくは、君がやりたい仕事を活き活きとしているところを見ていたい。……日がな一日、技術書を読んで時間を潰すだけの今、君が心底楽しいと言えるなら、ぼくはこれ以上何も言わないけど」
    やはりそこにある眼差しには、一つのほつれもなかった。このイヴァンの意見に対して、果たして本田はどうなんだろうかと、今度はそちらに目をやる。そして目が合ったところで、本田が緊張感を取り戻すようにぴ、と背筋を伸ばした。
    「私は、ギルベルトくんという人材がほしい会社の人間なので、胡散臭く聞こえてしまうとは思うのですが……ギルベルトくんと話してみて思ったのは、あなたでしたら我が社でも人望を集めることができるということです。そして、きっと、真価を発揮していただける。……もしこれから始めるマーケットがだめでも、あなたはもうジャパンキコーの社員になっているのですから、お好きな営業は確実に続けられます。それだけは私が責任を持って保証しますよ」
    やはり、寸分のずれもなく、本田も誠実な顔つきでそこで座っていた。言い終えてからようやくふわりと頬を綻ばせて、そしてその小さなショットグラスに注がれた日本酒をまた身体に流し込む。
     ……まさか、こんなに真剣に俺様の将来を考えてくれているとは思わなかった。この二人が何を知っているのかは今はどうでもよく、ただただ二人の真剣な眼差しが突き刺さって言葉が浮かばない。……確かにさっきまでの俺様はまともに現実と向き合うこともなく、ただ単純にもうすぐ十年になるからと、ただそれだけの理由に不必要に固執していたのかもしれない。
    「……わかった。もう一度、よく考えて……みるわ」
    固めていた意志が粉砕されたような、心もとない心地で、俺様はグラスに残っていたビールをすべて身体に流し込んだ。ぐびぐびと喉が鳴り、目前で弾ける金色が波打ちながら空になっていく。
    「うん」
    「ぜひ前向きに、よろしくお願いします」
    グラスをおけば、二人は満足そうに笑んでいた。本当に、どこまでも結託しているなと関心する。
    「……ああ」
    もう一度二人を肯定するように呟いてみせた。それからイヴァンがまた雑談を始めたが、俺様の胸中にはそのあともずっと、心もとない心地はそのままでそこにあり続けた。

     本田と飲み屋の前で別れたあと、俺様たちは並んで夜の飲み屋街を横切っていく。たくさん飲みはしたがまっすぐ歩けないほど飲んだわけでもなく……いつもより少し開放的な気分でいるくらいの心持ちだ。
     先ほどイヴァンと本田に挟まれるようにして説得されて、その後雑談モードに入ってからも俺様はずっと頭の片隅でカタカタとあのことを考えていた。あんなにも大真面目に俺様のことを考えてくれているとは露ほども思っていなかったので、嬉しいような照れくさいような、そういう中途半端な心持ちになってしまっていた。楽しそうに本田と笑うイヴァンの横顔を見ていても、俺様を諭すような熱心な眼差しが視界を上書きして、感情に覆いかぶさってくる。そのうち、アルコールのせいだろうか、本田の前だというのに、イヴァンに触れたくて、触れたくて、どうしようもなくなって……何度も自分を誤魔化すために、さらに上からビールやヴルストを掻き込んだ。……今だってそうだ、本当はこのぶらぶらと宙に浮いている手で、しっかりとイヴァンを掴んで安心したいのに、ネオンに照らし出されることを恐れてそれもぐっと堪えている。……だから、俺様はイヴァンと外に出るのが好きじゃない。この分だと、二人が言ってくれているように転職をするにしても、やはりついて来てもらわないと身が持ちそうにないように思えてしまう。……こんな風に考えてしまうのは情けなくて虫唾が走るばかりだ。わざと気を逸らすために、今日の食事をふり返る。
     ふと、そういえば、と気に留まることがあり、どちらとも口を開いていなかったので、イヴァンのほうへ顔を向けた。
    「というかな、お前、もっと上手にやれよな。ホンダに俺様たちが付き合ってんの、出鼻からばれてただろ」
    そう、俺様のことで熱心なのはありがたいが、そんな調子で会社の中でまで知られてしまうヘマを想像してしまった。こんなこと昔からわかっていたことだが、こいつはマイペースであり、それに比例して嘘も下手くそだ。……いや、嘘が下手くそというのは語弊がある。こいつは『後ろめたさ』というものを持ち合わせていないではないかと思うくらい、嘘を不要として本心ばかりを悪びれなく晒す人間だ。
    「あ、ああ。そういえば、ホンダくんも遠距離の恋人がいるような口ぶりだったね」
    「話をそらすのも下手かよ」
    わかりやすく話題を変えたことが、もはや呆れを通り越して面白く感じてしまい、ふふ、と息が漏れるだけの笑いをこぼしてしまった。こういう呑気なところも、こいつのことが嫌いになれない理由の一つだ。
    「……でも、まあ、そうだったな」
    そのときの本田の口元を思い出してイヴァンに返した。自分は遠距離だから、俺様たちにはそうなってほしくない、そんな口ぶりであるとは、俺様も確かに思ったところだ。
    「ねえ、このまま二人で飲んで帰らない?」
    なんの前触れもなく、イヴァンが足を止めて俺様の腕を引いた。それを察していた俺様は、がくりとなる前にしっかりと踏ん張ったおかげで事なきを得る。その上で、しっかりとイヴァンを見返してやれば、にこにこにこにこと期待に埋め尽くされた眼差しが輝いていた。……これは取り囲むネオンのせいか。立ち止まった俺様たちを鬱陶しげに横切っていくカップルや、お構いなしの酔っぱらい……数人を見送ってイヴァンに視線を戻しても、まだにこにことそこで俺様の言葉を待っている。
    「……ぜってえやだ」
    俺様がこいつと外を出歩くのが好きじゃないのは知ってると思っていたが、酒のせいか、
    「ええ〜なんで、なんで」
    駄々をこねるお子様よろしく、俺様の腕を振り回して声を上げた。触れられている腕を見下ろして、またイヴァンの緊張の欠片もない顔を見返す……冗談じゃない。
    「ここは会社のやつらだってよくうろうろしてる飲み屋街だぜ? 勘弁しろよ」
    わざと大げさな仕草でその腕を振り払った。勝手に一人で歩き出した俺様に駆け寄って、そして隣について、「ぶー」とまた無駄な可愛らしさを振り回してくる。
    「……じゃ、お酒買って帰ろ!」
    「……まあ、それなら、別にいいんじゃねえの」
    「やったあ」
    声色からして本当に嬉しいのだろう。あんだけさっき飲んだのに……と思いつつも、こいつが笑っているから、単純すぎる俺様も頬を綻ばせたくなる。……だが、それと同時に、またどうしてだろうか、のたうち回りたいような心の重さに襲われた。……家の中でイヴァンに熱視線を送られたときに感じるような……半ば、恐怖にも似た心の重さ、息苦しさ。……そういうものに襲われて、どこを見て気をそらせばいいのか、わからなくった。
    「……ギルベルトくん」
    「ああ?」
    先ほどまでの声色はどこへやら、そこへ転がり込んできたのは、まるで自信を持たない弱々しいそれだった。俺様を見ている表情も、相応に不安げだ。恐る恐ると口を開いたかと思えば、
    「その……怒らないで聞いてね」
    なんとも気弱な声で念押しをされた。
    「……ああ、なんだ」
    せっかく一度歩き出したというのに、また改めて足が止まる。一緒になって足を止めた俺様をじっと見つめて、そうして、その瞳の中で揺らめく光の塊を踊らせた。……この揺れ方は、ネオンのせいではないだろう。それだけははっきりとわかるもので。そんな表情から飛び出すのは、一体どんな言葉だろうと強く身構えてしまった。
    「そのね……ぼくといるの……やっぱり嫌……かな……?」
    ふお、と湿った風が吹き抜けたような気がした。まるで殴られたように心臓が喚いて、ド、ド、と狼狽えている。……冷や汗のような気持ちの悪いものが、膜のように身体を覆い、一度頭の中からいろんなものがすっぽりと抜け落ちた。……なんだ、何が悪かったんだ。イヴァンの不安げな瞳を見ながら、俺様の空っぽになった頭の中では、大忙しで記憶を巡って必要そうな要素をかき集めていく。……やはりあれか、こいつが何も言わずに身を引いてくれることに、甘えすぎていることか。キス以上のことさせないから。……それとも、二人で出歩かないようにしているからか。会社でも、極力関わらないようにしているからか。一体何が原因で、イヴァンはこんな顔をしているんだ。
     言葉をなくしていたところで、唐突にイヴァンが「おっと」と言いながら、俺様のほうに身体を寄せた。我に返れば閃光が駆け抜けた残像がそこにあり、この狭い道路で車が通り抜けて行ったらしいとわかる。そのお陰で思考が鮮明になった。
    「何言ってんだよ。嫌なら、家に入れてねえだろ。……今までのことを考えろ」
    咎めるような気持ちを我慢できずに、少しだけ語気を強めてしまった。こんなにもイヴァンを俺様の中に入り込ませてしまっているのに、そんな風に思われるのは心外だ。何が原因だったろうか。
    「……そっか……。ごめんね、そうだよね」
    肩を落としたかと思うと、今度は少し持ち上げて、得意の笑顔を作り上げた。……だが、〝作った〟ことが見え見えな、そんなぎこちのないものだ。
    「謝るこたあ、ねえけどな」
    「ううん。……でも、」
    イヴァン独特の柔らかさが見当たらない、強張っているだけの目元に釘づけになる。何一つ笑っていると言える要素がない眼差しだ。
    「思ってることがあったら、ちゃんと言ってね」
    また、先ほどから巡る動悸が強く主張する。
    「……おう、わかった」
    必要だと判断してそう相槌を打ったが、実のところ、俺様の中でイヴァンのこの注文は噛み砕くことができていなかった。
     ……だって、そうだろ。思ってること? このもわもわと重苦しいものは、未だに言葉に落とし込めていないのだから。イヴァンに愛されていると実感したときの、心臓の痛み。触れ合いを求められたときに抱く、先へ進むことへの、いや、溺れてしまうことへの恐怖。……それらを総じてなんと呼ぶのか、未だに適切な形を得られたなどとは思えない。これはなんなのか、やはり……不安なのだろうか。
     ひどく胸中をかき乱されて、ろくに顔も見返せなくなってしまった。今すぐにでもこのどうしようもなさを払拭したくて、そのためにはきっと、イヴァンに縋るしかない。衝動が爪の先まで巡って、諦めろと俺様に指図してくる。
     結局のところ、家に酒は多少あるかと話をして、寄り道をせずに帰ることになった。
     ネオンが眩しい飲み屋街を抜けて、人がまばらになった小さな駅のホームに並んで立つ。先ほど感じたような、少し冷ややかな水気を帯びた風とともに電車が到着し、イヴァンとともにそれに揺られて一駅、もう見馴染んだホームに到着する。その間も、ぽつぽつと会話はあるものの、俺様もイヴァンも、変に互いを意識していた。互いに意識していたのが伝わっていた。先ほどイヴァンに乱された胸中のせいで、ずっとこの身体の中に居座る不安を拭えず、イヴァンの肌に触れて安心したかった。いや、触れるだけじゃない。キスをして、身体を寄せて……そういうくらくらしてしまいそうな類の『意識』が、イヴァンのほうからも気配で伝わってくる。
     年季の入った薄暗い街灯だけが照らす狭い道を歩くころには、おそらく二人揃って限界に達していたのだろう。もう会話をするほどの余裕もなく、マンションのエレベータに二人で入ったときは、息すら一人で保てているのか怪しいところだった。一刻も早く、イヴァンを確かめたかった。イヴァンが俺様を手放すことができないのだと、あの逃げ出したくなるような熱視線で実感したかった。
     ……どちらが何かを言ったわけではない。本当に合図の一つも必要なく、
    「――ギルベルトくん……!」
    「……んっ、イヴァっ……ッ!」
    玄関で靴を脱ぐや否や、イヴァンに腕を掴まれて、そのまま押さえつけるようなキスをされた。壁が背中に当たり、安堵を感じるほどに逃げ場を塞がれる。のしかかってくる厚みのある身体を、俺様も腕を回して閉じ込めようとした。
    「……んふ、ぅ、んん」
    玄関の電気すら、まだつけていなかった。それほどまでに、性急な衝動が俺様たちを引き寄せ合っていて、目を開くのもためらった。きっと目を開いてしまったら、一心不乱に情を注ぐイヴァンを目の当たりにしてしまう。背筋に駆け上がる痺れを感じながら、どくり、頭の奥を撃ち抜くような動悸が叩きつけた。
     じゅる、と口の端から溢れていきそうな唾液を吸われ、イヴァンが食んでいた唇を放す。
    「……ンぁ、」
    突然の喪失感に喉が震えて、だらしのない声が漏れてしまった。まだ顔にイヴァンの熱すぎる吐息がかかって、今にもまた食らいつきそうなほどに息が浅い。だが、そこで耐えるように動きを止めているから、つられて瞼を上げてしまった。……案の定、そこには今にも溶け出しそうな甘いカクテルのような紫の眼差しが揺らめいていて、何度もその透き通るようなまつ毛を揺らして俺様を捉える。
     ――ほら、だめだ。そこにあると認めざるを得ないほどの欲に促され、胸のあたりが力いっぱい捻らるように痛んだ。痛い痛いと泣き出してしまいそうなほど、苦しくて悲しい。イヴァンからこんな風に見られていることが、抑える術を知らないほどの歓喜で埋め尽くしながら……それと同じだけの喪失する恐怖で心の底に穴を開けていく。
     ……やっぱり、これ以上を知ってしまうのは危険すぎる。こんなにも全身で求めてしまうのは、どう考えても異常だ。キスをして、その熱い視線に晒されるだけで、こんなに身体が熱を上げる。イヴァンを求める。もしも万が一にでも、イヴァンとまた道を分かつことになってしまったら……
    「……イヴァン、」
    いつの間にやら握りしめていたイヴァンの服を、ゆっくりと手放した。イヴァンもそうしようとしていたのか、自分を落ち着けるように呼吸を深くとりながら、
    「うん……?」
    ゆっくりと俺様を圧迫していた身体を離した。心地のいいほどにイヴァンと密着していた身体が楽になり、すう、と俺様の肺にも軽い呼吸でたくさんの空気が取り込める。
     無駄な衝撃を避けるようにゆっくりと、自身の中に蔓延する衝動を、不器用にでもちゃんと逃せるように……イヴァンが重心を持ち直したのを見守っていた。先ほどカクテルのようだと見入ってしまった紫の瞳に、不意に正気のようなしっかりとした輝きが戻ってくる。……それをひと目見てわかった、言うなら今だ。
     イヴァンに縋りたいと思った衝動と変わらない、確固たる自分を守りたいという衝動が背中を押した。
    「……やっぱりさ、日本へは、俺様一人で行こうと思う」
    とっさに対面していた瞳が左右に動いて、この両方の目を見比べる。本当はきっと、両方の目を見比べたかったんじゃない。この眼から、俺様の真意を探ろうとしていた。
    「……うん、なんで?」
    ぎらりと鋭い眼光が混じり込む。無意識だとは思うが、声も音階が数段下がったような威圧感を滲ませていた。……そういう風に見えたのは、俺様が身構えたことも関係しているかもしれない。むしろ後ろ手に壁に貼りつくように、無抵抗を示しながらも見えない壁を作ろうとする。あくまでしっかりと目を合わせ、決めきれない心でこの空間に二人を共々繋ぎ止めようとした。
    「……向こうで、どうなるかもわかんねえし……お前は今の役職もあるから、無理に俺様についてくることは、ない」
    早く納得してもらいたかった分、〝正論のようなもの〟を投げつけてやることで頭がいっぱいだった。……本当は違う。イヴァンのことを思ってとか、そんな綺麗事じゃない。だが、今はそれを上手に伝える自信は毛の一本ほどもなかった。
     イヴァンの目が一度伏せられて、それからまたゆっくりと、だが余裕はないことを隠しきれていない動作で、また顔を上げる。
    「……無理じゃないよ。ぼくがそうしたいと思ってる」
    柔らかさという入れ物の中に、厳しさを詰め込んだような声色で言及される。言い聞かせをするときに使うような、穏やかとも取れる声色だ。俺様の中で自制できないほどの衝動が渦を巻いているように、イヴァンの中にも種類の違うそれが通っている。
    「ギルベルトくんは、――ぼくと離れたい?」
    一見すると飲み屋街でされたのと同じ質問のようだが、これには違う意図が含まれている。問われたことで浮上した言葉は、入れ替わり立ち替わりで心の内外にとっ散らかる。どの言葉を掴んでいいのかわからない。どの言葉を拾い上げて、そしてイヴァンにこれです、と提示していいのかわからない。
     すきだ、やだ、はなれたくない、おいていかないで、このままだとまた、二の舞だ、こわい――こわい……!
     どれかをちゃんと提示したい身体と、でもどれを選べと言うんだと心が、きれいさっぱりとすれ違って、ただただ言葉にならない声だけが喉の奥で鳴った。
    「そんな怖い目で見ないで、」
    凛とした声が突き刺さる。感情が読めないのは動揺しているからか。
    「違うなら、ちゃんと気持ちを教えてほしい」
    丹田の辺りに溜まった泥沼に、また重く大きな石を投げ込まれる。数多の言葉がそれによって舞い上がって、だが今度はもう少しだけ、上手に言葉として連なっていく。
     こわい、こわくてたまらない。また手放されるんじゃないかと、今度こそしっかり溺れてから、そうなってしまわないかと、もう、今はただそれだけがこわい。それならいっそ、距離を置いて。もっと一人でも安定できるように……。そう、それだけだ、今は、それだけ。それだけ、イヴァンのこと……。
     静かに待っているイヴァンの視線に耐えられず、薄ぼんやりと形が見えた時点で口を開いた。
    「――離れたい。……もう少し、距離を、置きたい……」
    イヴァンがそうしたように、静けさを意識に入れて、なるべく取り乱さないようにと自分の心臓に言い聞かせた。続いたイヴァンの沈黙にも、余計な言葉や言い訳を付け加えることなく耐えた。
     こんなにもイヴァンに絡め取られている。そう、あの頃のように〝癒着〟という言葉が脳裏を掠める。……だが、もうそんな関係ではいたくない。一人で投げ出されたって平気な面ができるくらい、しっかりと安定した自分で、イヴァンの隣にいたい。あんな子どもじみた〝恋愛〟は嫌だ、苦しい……苦しいが勝つのは……嫌だ。
    「……そっか」
    のそりと、大きな身体がさらに一歩引いた。重いと思っていた動作が急に軽快になり、パッと玄関の電気を点ける。一瞬にして現れたイヴァンの顔は、一糸の乱れもなく笑っているように見えて、
    「そばにいる機会をもらったのに、それでも何もできなかったぼくの問題だね」
    驚くほど冷めた空気をまとっていた。
    「ギルベルトくん、みっともないのを承知でお願いさせて」
    イヴァンの無骨な指先が頬に触れて、
    「最後に、もう一回だけ、キスしていい?」
    その言葉を頭で理解する前に、既にイヴァンの熱を失った唇が、俺様のと重なっていた。あまりにも唐突すぎたそれに肩が跳ねて、思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。惜しまず離れた気配を追って見開けば、そこに立っているイヴァンは今度こそ、感情をむき出しにするような、なんとも複雑な笑みを保っていた。
    「じゃ、ぼく、今日は帰るよ。夜遅くまでごめんね。また明日、会社で」
    早口でそれを言い切って、焦るように靴を履き始めた。
     ……というか、は、『最後』? 俺様の真っ白になっていた頭が再稼働したのは、ようやくこの時点でだった。……待て、違う、そういう意味じゃない。おそらくイヴァンは今の会話を〝別れ話〟と勘違いしている。それをすぐに察したにも関わらず、どう訂正していいのかわからない。イヴァンもそこまで察しが悪いわけがないだろ、と別の思考が邪魔をする。……ここであえて『これは別れ話じゃない』と訂正してしまうのは、速断すぎるのではないか。
     思考がほうぼうに散っていく中でも、イヴァンは止まらずにそそくさと玄関の扉に手をかける。
    「あ、おう……。なんか、悪りい、気をつけて」
    何故か口から出たのは、今は余計すぎる気遣いだ。このまま帰らすのか、それは大丈夫なのか、イヴァンは勘違いをしているのか、だとしたら、どうしてこんな勘違いをしたんだ。心の中で混乱して、ゆっくりと吟味もできないままにイヴァンが玄関を開いていく。扉の向こうには、もう真っ暗になった空がどんよりとぶら下がっていた。
    「うん。ギルベルトくんも、ゆっくり休んでね。おやすみ」
    イヴァンの身体が、玄関から外へ出る。そのどんよりがイヴァンに纏わりつくように錯覚して……それを目の当たりにしたことで、ハッと、たちまち思考が明瞭になった。
     だめだ、なんか言わねえと――!
    「――イヴァ、」
    ガタンと、慌てたような音を上げて、玄関の扉が閉まった。
     ようやく心と身体が合致したというのに、イヴァンの姿はもうそこにはなく、再び頭の中が白紙に戻る。……状況を飲み込めない。
     どうしてイヴァンは帰ったんだ。いつも泊まっていくのに。……俺様が言った言葉を『別れ話』と勘違いした……のか。いやいや、それは俺様の考え過ぎじゃないのか。だって、イヴァン、は、俺様と離れられないって、言っていた。……手放せないって。……大好きって。
    『最後に、もう一回だけ、』
    声が巻き戻しのように再生して、現実を見ろと示唆している。……イヴァンは確かに『最後に』と言った。……つまりイヴァンは、やはり、俺様が別れたいと言ったと思ったんだ。
     よくわからないが、突如として身体から力が抜けて、その場で座り込んでしまった。
     俺様たち、今、別れたのか……? どうしてそんな、あっさり……なんで、『ちょっと待って』とか、そんなことを一言も言わなかったんだ。そうやって聞き返してくれれば、違う、そういう意味じゃないと、はっきり返せたのに。……いや、責任転嫁をしてどうする。そもそもが俺様が判断を迷ってしまったのがいけなかったんじゃないのか。……そうだ、今ならまだ走れば間に合う、イヴァンに追いつく。ちゃんと、イヴァンに……!
     そこまで結論が出かかっていたにも関わらず、次に割り込んできたのは、虎視眈々とこのときを狙っていた思考だ。
     ……やっぱりイヴァンは、俺様のことを簡単に手放せる。しかも〝こんなにも簡単に〟だ。ものの五分もかからなかった。俺様に一言でも食らいつくことはなく、一切の迷いなく身を引いた。……つまり、身を引ける。……今後のことを考えると、やはりこれでよかったんじゃないか。結局、今離別するか、そのうち離別するかだ。……俺様はこんなにもイヴァンで身体の中を埋め尽くされていたというのに、きっとイヴァンの中に入り込んだ俺様は、そんなに大きくはなかった。不公平だと思うよりも先に、そもそもイヴァンの抱いていた執着と、俺様の中の執着とは、ものがまったく違っていたんだと、思い知った。……ならば、やはりこれでよかった。これで。
     そう……この一ヶ月半が、そもそもすべて、間違いだった。

        *

     次の日、平日ということもあり、俺様はいつもより少し早めの時間に出勤していた。そもそもほとんど眠ることができず、朝早くからいても立ってもいられなかったし、もう一つに、俺様のマンションに置いてあったイヴァンの鞄とか、そういうものを誰にも知られずに持ってきたかったからだ。……スーツとかは自宅に換えがあったとして、さすがに営業鞄はそういくつも持っていないだろうと、俺様なりに気を遣った。
     だが、イヴァンは就業時間になっても姿を見せなかった。朝のミーティングの間も、結局営業部の誰一人としてなぜイヴァンが姿を現さなかったのか、知らないままに終えてしまった。それから少ししてからだ、総務部の人間がわざわざ区画の違うこのフロアまでやってきて、イヴァンから午前中だけ病欠にしてくれと連絡が入ったとの旨を告げられた。……ったく、そういうことはちゃんと同じ部署内の人間に伝えろよ、と思ったが、おそらく俺様が本当は〝病欠〟ではないと知っているということもあり、そこまで図太くはいられなかったんだろう。……きっと、あの時間から家に帰ったイヴァンは、俺様のマンションに泊まっている〝いつもの〟朝の時間に起きてしまい、準備が間に合わなかったんだと憶測した。
     軽くだけため息を吐いて、もう十年近く、毎日毎日眺めているホワイトボードを見やった。年季の入ったそれは、今は一番上の欄がイヴァンの名前になっている。……今日は一日、外へ出るアポイントがないらしく、イヴァンは耐えられずに病欠にしたに違いなかった。
     ……俺様は、今日はこれからアイソが主催する技術セミナーに行くことになっている。昼飯のあとの時間からだが、三時間は拘束されるので、帰るころにはもう退勤直前になる。……昨日の今日でイヴァンと顔を合わせずに済むのは気が楽ではあるが……果たして本当にこのままでいいのだろうかという悶々は晴れることはない。……正直な話、今日のイヴァンの態度で見定めようと思っていたところもあって、肩透かしにあった気分だ……つまりイヴァンは、やはり俺様と顔を合わせたくないと思っている……たぶんだが。だって、支度が間に合わなかったとして、一時間の遅刻ならそれで出勤すればいいものを、わざわざ〝午前中は病欠〟と言っているのだから、疑いは濃厚になっても仕方がない。俺様が今日の午後はセミナーに出るということは、もう随分前から決まっていたことだ。
     とりあえず、時間を見つけて本田に連絡しないといけないなと思い出す。……イヴァンと俺様は別れたのだから、もう本田に無理を言って、イヴァンの雇用の検討をしてもらう必要はなくなった。
     ……俺様自身は、自分で思っていたよりもよほど平気だった。というより、『イヴァンと別れた』という事実が、まだいまいちよくわかっていない。確かに昨晩は久しぶりにあの狭いシングルのベッドを一人で使ったし、そのせいでどこか落ち着かずに朝方まで寝つけなかった。朝起きても、やけにベッドを広く感じて気が抜けるくらいで、それ以上はどこか物足りないくらいのものだった。……自分で思っていたよりも、俺様はイヴァンに溺れてなどいなかったのかもしれない。
     先日退勤したときに見たままのイヴァンの机を一瞥して、
    「んじゃ、アイソの技術セミナー行って来まあす」
    なるべくいつもの声の調子を意識して、少し早いがフロアを発つことにした。
     それに対して、まだ時間的に余裕のある営業員が何人か、「いってらっしゃーい」と声をかけてくれる。やはり、こういうところは居心地がいいなと思ってしまう。……だが、そうだな、俺様の気持ちはもう、ここから離れることに傾いていた。
     つい昨日の朝までは、あのデスクからの光景は嫌いじゃないと思っていたが……今朝、違う心持ちで眺めた風景は、本当は少し味気なく見えて、そんなには気に入ってはいないことに気づかされた。……自分の気持ちに言い聞かせることが上手になりすぎていて、いつの間にかそれが正しいことのように思い込んでいた。前向きでいようと固執することは、ときに危険であることをこの歳になって初めて知る。
     それから俺様は多少の悶々を抱えたまま、アイソのセミナーの会場に到着した。アイソとは、世界の共通規格を定めている機構のことで、そこが定期的に主催している技術関係のセミナーというわけだ。年に一回開催されるかされないかという貴重なセミナーで、しかも申し込みは先着順であり、会場は毎回そんなに大きなところではない。俺様も班長だったころに何度か案内を見ていたが、いつもスケジュールが合わずに見送っており、今回が初の参加となる。
     その主催の名前の大きさに関わらず狭い会場に踏み込めば、席についている者はちらほらしかいなかった。まだ時間よりかなり早かったのか、壁掛けの簡素な時計は開始の十五分前を指す。そんなに飛び抜けて早いというわけでもないが……と会場の中を見回していると、その中に、見覚えのある後頭を発見した。……あの、ここドイツでは絶対見かけない色と髪型……真っ黒なおかっぱ姿の後頭部に、思わず「おい、本田」と声をかけてしまった。……そして案の定、ふり返ったその人は、ジャパンキコーの本田だった。……日本で開催されるスケジュールに合わず逃していたが、たまたまこちらでのスケジュールに組み込めたからラッキーだったと話していた。……なんてことはない、俺様もこんなところで本田に会えたのは、とてもラッキーだった。
     セミナーの途中の休憩時間中、俺様は本田を連れて自販機の前のソファに座った。会場になっている建物にあるそのロビーには、他の参加者でも賑わっている。同じドイツ内で働く同業者たちということもあり、見知った顔ぶれはちらほらとあるものの、会釈程度に留めて本田に缶のコーヒーを買ってやった。
    「本田、あの件だが、」
    硬めのソファに落ち着いてから、缶コーヒーのステイオンタブに指を引っ掛けて、「ああ、はい」と同じように開栓する本田の手元を見やる。
    「やっぱ俺様さ、一人で行くことにした」
    ぐっと一思いに引っ張り開けて、缶の中からアルミの捻じ切れる音が飛び出した。
    「どういう手順を踏んだらいい?」
    一口だけを大きく口に含んだのは、それを言ってしまってからだ。缶を下ろせば、そこに本田が目を見張るような表情で待ち構えていた。リアクションの薄い日本人よろしく、表情よりもよほど大人しい調子で、意を決したように口が開かれる。
    「……ええ、い、イヴァンさんは? いいんですか?」
    まあ、昨日の晩、夕食をともにした様子を見ていた本田なら、そんな風に尋ねるのも無理はないかと思い返す。あのあと、家に帰るまでは俺様もイヴァンも、どちらもこんなことになるなんて思っていなかったし……ましてや、別れ話に要した時間は実に五分程度だった。……まさか、そんな、誰があれを離別の分岐だったと思うだろうか。
     玄関を閉じたとき、最後の最後に見えていた横顔が残像となって蘇る。そこだけを切り取るならば、立ち去ることに必死になっていたのだろうと理解できる。そんな形相だった。
    「イヴァンは……あいつは、もういいんだ、」
    勝手に視線が足元に落ちて、勝手に呼吸が細くなった。目の前に現れたのは、営業のときから使っている革靴と、薄汚れた絨毯の床だ。そういえば今まではまめに磨いていたのに、今の役職に変わってからはずいぶん疎かにしていた。これがどうして、釘づけにさせて……重たい頭を上げようとしても、思うように持ち上がらない。なんの前触れもなく、音すら立てるかのように性急に、じわ、と視界が霞みがかる。……どうしてだ、さっきまで、なんともなかったのに。……いきなりぐっと目頭に力が入ったかと思えば、自分でどう制御したらいいのかわからないまま、どんどん視界が滲んでいく。前後なんてこれっぽっちもなく、勝手に気持ちが沸騰してくることに一人であわあわと焦った。
    「……そう……ですか」
    本田の大人しい、静かな声が耳に届く。それをきっかけに深呼吸ができて、突沸した感情も喉の奥に飲み込むことができた。……よかった、間一髪だった。地面を見ていたんだから、本田に顔は見られていない。大丈夫、今のはまだ、なかったことにできる。
    「……では、」
    本田の声色が切り替わったのがわかった。しゃっきりとした、仕事モードのときに聞く声だ。先日俺様がこいつの講義を聞いていたときと同じ声。俺様の仕事スイッチも押されて、条件反射のように顔を上げた。無意識に鼻から吸った息がみっともなくずず、と音を鳴らしたが、本田はそんなことには気づいていませんという顔で続けた。
    「まずは、穏便に会社をやめてください。会社を辞められる日取りが決まった時点で、当社からの雇用の書類をお持ちします」
    そこまで言うと、ふ、と表情が少しだけ緩む。
    「日本へのビザの関係もありますので……おそらくお仕事を辞められてから、少しばかり休暇が取れると思います。お楽しみに」
    「おう、よろしく頼む」
    本田の表情に合わせて、俺様もニッと笑ってみせた。それなりに上手く誤魔化せていたんじゃないかと自負した矢先、
    「……あの、余計なお世話を百も承知で言いますが、」
    今度はまた仕事モードとは違う、だが、生真面目さは失わないままの姿勢で、本田はまっすぐに俺様と視線を合わせた。今まさに安定しない心持ちのせいだろうか、その眼差しに捉えられただけで、肩に余計な力が入ったことが自分でわかる。
    「もし何かがあって、それが当人同士で解決することが困難であれば、第三者に介入してもらうのも一つの手ですよ?」
    言葉をすべて、確実に俺様の脳みそに押し込むように、控えめのくせにしっかりと目を覗き込まれる。本田はまさしく、俺様とイヴァンのことに首を突っ込もうとしていた。如何にしてそれを拒絶するかと思考するように、一気に俺様の周りの空気がガチガチと固まる。完全に無意識だが、危機感に寄る苛立ちがはっきりとわかるように、ぐっと眉の間に力を入れた。
     それを見て察したのだろう、本田は慌ててコーヒーを持ったまま両手を見せて笑い、
    「ああ、それは『信頼できる第三者』ですよ。私である必要はどこにもないので……どなたか、いらっしゃるのであれば……二進も三進もいかないときは、相談してみるのもいいのかと」
    ぐいっとコーヒーを流し込んだかと思うと、その流れで腕時計を確認していた。俺様が自覚している苛立ちがあるということは、おそらくこの鋭利な目元は今、現在、本田に向けて威嚇をしている。だから耐えられなくなったのだろう、そわそわと繕うような態度にも、さらに逆撫でされた。
    「おう、余計なお世話だな。別に二進も三進もいかないわけじゃねえ。俺様が選んだんだよ」
    それを発散してしまうように、少し力を込めて立ち上がった。この苛立ちを本田にぶつけることは、八つ当たりになることはちゃんとわかっている。だから、余計なお世話で首を突っ込んで来たことだけを咎めて、本田の手の中にあった空のコーヒー缶を奪い取った。
    「……そうですか。少し、残念です」
    本田の本当に残念そうな声を聞きながら、自動販売機の横に設置された缶専用のゴミ箱に二人分の缶をぶち込む。本田が懸念した通り、そろそろ休憩時間は終わりだ。
     結局、本田は最後の最後まで余計なお世話を顧みることはなかったが、講義を受けている間には、ある程度の苛立ちを鎮めることに成功した俺様だった。

     セミナーが終わったのは、定時のおおよそ一時間前だった。これから社用車で帰社すれば、本日の講義内容をある程度まとめるだけの時間は取れそうだ。聞いた内容は忘れないために、ある程度その日の内にまとめたいので、スケジュールが上手く回りそうで安心した。
     本田には近い内に会社に辞表を出してから連絡をすると伝え、そのまま駐車場で軽く別れを告げた。俺様は車に乗ってから、今日取ったノートや配られた資料をかさばらないようにまとめたり、と少しそこで整理をする。本田の乗った車が前を横切り、一足先に別の帰路に乗ったところを目で追った。
     おや、と、あることに気づく。俺様の携帯電話端末の画面にメールの受信を知らせる表示が出ていた。受信時間はもう少し前になっているが、会場内での電波状態が悪かったので、どうやら受信できていなかったらしい。その一通のメールはもしかしてイヴァンだろうかと、少し緊張感を持って内容を表示させた。
     新着メールの送信者欄を見て、んだよ、と一気に力が抜ける。……そこにあった名前は『フランシス』、緊張感など微塵も似合わない髭面が浮かんで、ためらいの一切が消え去った手つきでさらに詳細を表示させた。
    『ギル、彼氏くんとはどう?』
    だが、現れた本文に硬直する。……なんで、だ。なんでフランシスが俺様に恋人ができたことを知っている。
    「はあ〜⁉ なんであいつがこのこと知ってんだよ⁉」
    思わず誰もいないのに、大きく声を上げてしまった。
     だってイヴァンのことは、まだ俺様の中に不安が残っていたこともあり、フランシスには伝えていなかった。……だから、こいつが恋人の存在を確信した上でメールを寄越したのは、誰かが伝えていない限りは辻褄が合わない。一体誰だと記憶の中を駆け巡るが、残念ながら共通の友人には誰ひとりとして、俺様からイヴァンのことを伝えたやつはいない。そもそも、フランシス以外の大学時代の友人とは、もう誰とも連絡を取っていない。
     メールを返す余裕すらなく、真っ先に電話をかけた。おそらくこの時間なら会議などはないはずだと見当をつけて、端末の向こうから鳴り響く呼び出し音を聞く。
     ……まさか、本田だろうか。俺様とイヴァンの関係を知っているのは、本田しかいない。俺様はフランシスに自分の給料の話をしたことはないが、もしフランシスと本田が知り合いで、フランシスが俺様を推薦したとするなら、まあ、なんとなくだが筋は通りそうなもんだ。
     プチ、と機械音が鳴ってから、
    『ボンジュール、ギル〜! お前から電話なんて、お兄さんうれしいよ〜!』
    目の前にいたら顔を叩いてやりたいくらいの、いい加減で軽々しい声が届いた。それによるところもあり、ぎゅ、と拳に力が入ってしまう。
    「お前っ! ホンダキクとつるんで何こそこそしてやがんだ⁉」
    『え、ホンダキク……? それ誰? ってか何人? どうしたの?』
    はた、と勢いが止まる。一つの疑いも持たずに迫ったが、この反応は本当に本田のことは知らないようだ。もともと演技ができるほど器用な男でもない。「え、ホンダじゃねえの?」と改めて確認したら、『何が?』とだけ返ってきた。……なるほど。これは確実に、フランシスと本田は他人だ。
    「……え、あ、お、俺様の勘違いらしい、すまん」
    『うん? 別にいいけど? それよりどうなの、恋の進行は』
    改めて問われて、しつこいなと思ってしまった。今となっては既に別れたことになっているのだから、
    「どうって……最初からンなもんねえよ」
    そういうことにしてしまう。既に終わったものを報告するのも痛々しい。
     だが、俺様のこんな心境にも関わらず、フランシスは懲りずにまた大きな音声を、受話器の向こうから撒き散らしてきた。
    『ええ〜またまたあ! ……イヴァン・ブラギンスキ、』
    ぎょ、と、身体が一気に強張った。
    『彼でしょ、君の彼氏』
    「……は⁉ なんっ、は⁉」
    『やっぱりね〜! お兄さんすごい! ギルちゃんのことは何でもお見通しだね!』
    恋人がいる云々だけなら、まだ発破をかけられているだけという可能性もあったが、その名前がフランシスの口から出てきた今、これは確実に現状を知られている。……俺様は本田以外には誰にも口外していない。そうなると……?
    「す、ストーカーか……?」
    もうそれしか思いつかなくて、そんな暇人じゃねえだろ、と自分でつっこみを入れてしまった。……フランシスが俺様のストーキングするなんて、この地球上で最も面白くない冗談を言ってしまった。
    『やだなあ、違うよ。で、そのイヴァンだけど、雲行き怪しいのはなんで? 何かあったの?』
    ならば、なんでフランシスは俺様たちのことを知っているのか。
    「……た、頼むから情報源を言ってくれ……こええよ」
    『今はそんなこと話してる場合でもないからまた今度ゆっくりできるときにね』
    「はあ?」
    『それより、取り急ぎ』
    勝手に勝手を重ねて、それでも飽き足らずにフランシスは、
    『イヴァン、このままだとロシアに帰るって言ってるよ。いいの?』
    と続けた。
     なるほどそうか。まさかとは思って選択肢から除外していたが……フランシスが繋がっているのは、イヴァン本人か。どうやって二人が知り合ったかなんて知る術もないが、これはとても不愉快な展開だ。……だって、今日、イヴァンは午前中を病欠した。そのお陰で俺様はイヴァンとは会っていないわけで、まだ一度も直接話していないくせに、フランシスには『ロシアに帰る』と伝えている……それは、あんまりにも筋違いじゃないのか。
    『ギル?』
    「知らねえよ。俺様だって日本に行くことにしたから、ちょうどいいんじゃねえの」
    『本当なんだ』
    フランシスの最後の相づちにより、苛立ちに確信という一本の筋が通る。やっぱりフランシスは、イヴァンからいろんなことを聞いている。その事実が控えめな音を立てながら、ぐつぐつと俺様の身体の中に小さな振盪を起こした。
    「お前、イヴァンと繋がってんのか? 今もそこにいんの? あいつ仕事のはずだろ。お前に泣きついて、情けねえ野郎だな」
    腹が立って、腹が立ちすぎて、携帯電話をスピーカーモードに切り替えて、助手席に放り投げた。こんな話に集中して付き合っていたら、憤りで腸が煮えてしまいそうだ。
    『イヴァンは俺がお前とつるんでいるの知らないし、「ロシアに帰ろうと思う」しか聞いてないからね』
    意識を分散させるようにエンジンをかけて、車をいつでも発進できる状態に整えた。気づけばこの会場の駐車場では、出口に向かって長蛇の列が形成されている。
    『あとは俺の憶測、あながち間違ってないみたいだけど』
    まだしばらくは、その列に入ることすら困難だろう。
    『ギルが振ったんだ?』
    まるで咎めるような言い方だ。現状だけでなくこのフランシスの言動すらも、腹立たしく思えてくる。……なんでこいつにこんな話をしなければならないのか。だって、こいつはイヴァンと繋がってるんだろ。イヴァンに聞けばいい話だ。
    「この話はもうしたくねえよ」
    渾身の憤りを投げ返してやっと言うのに、それでもフランシスは言葉を怯ませることはなかった。
    『話もしたくないくらい未練があるのに、それでいいの? 何回同じことくり返すの?』
    「いいんだよ。あいつも、俺様も、何も変わってねえ。結局、俺様なんてその程度しか想われてなかったってこったろ」
    風船のように次から次へと、心の中へ怒りが入り込んで身体を窮屈にする。そうだ、そもそもあいつが勝手に勘違いをして、ひ弱な愛情を摘み取っただけだろう。なんで俺様がフランシスに責められなきゃなんねえんだ。そもそも……ロシアに帰るだ? バカ言えよ。俺様がいないと『死んじゃう』んじゃなかったのかよ、まったくもってくだらない。
     これ以上はどう考えても不毛中の不毛だ。イヴァンとのことでどうして俺様がフランシスとまで口論する必要がある。まったくもって無意味だろうが。
    「もういいから、首を突っ込んで余計なことを言うのをやめろ」
    そう言って、新しい空気を吸うために車の窓を開けた。車の中に溢れていた湿気が逃げ、代わりに排気ガスがこもったような、汚らしい空気が流れ込んできた。しまった、頭痛のような気持ち悪さを吸い込んでしまった。それにすら苛立ちを深めて、慌ててまた窓を閉じる。八方塞がりか、くそう。
    『……わかった』
    ち、と舌を打ってしまったかもしれない。それとほぼ変わらないタイミングで届いたフランシスの言葉は、ごく自然に勢いが抑えられていた。
    『ギルが自分の納得する答えを出すまで、お兄さんもう何も言わない』
    その変化に気づいて、俺様も少しだけ冷静になれた気がする。こいつもこの口論が不毛だと感じてくれたなら、それでいい。俺様も意識して語気を弱めた。
    「納得ならもうしてる」
    褒めてほしいくらいに端的に返すことができた。
     ……そうだ、俺様はもう納得している。一人で日本に行って、今度こそあいつのことなんか忘れてやる。ロシアに帰ると言っているくらいなのだから、どうせ俺様のことなんか、もうどうでもいいはずだ。たかが勘違い一つで別れるようなやつは、放っておけばいいんだ。
     フランシスに対する語気は弱められたものの、確かにまだ苛立ちは抱いていたし、目の前の長蛇の列にはもどかしさも持っていた。だが、それでも黙って待っていたのは、結局はフランシスの回答が気になっていたからだ。受話器の向こう、フランシスがいるのも電波状態の悪い施設内なのか、雑音が少し混ざってはいたが、
    『それは聞かなかったことにするね。ちゃんと、考えるんだよ。お兄さんの意見が聞きたくなったらいつでも答えるからね』
    はっきりとそう返してきた。何を偉そうにと感情が突沸した時点で「はっ⁉」とそれなりに大きな声を上げてしまった。だが、昨日の玄関と同じだ。……気づいたときには、もうすでに電話は切られていた。
     ツーツーと鳴きながら横たわる端末を、ただただ虚しさと落胆でもって見下ろす羽目となった。……優しいのにどこか硬い機械音が、何度かその内蔵されたスピーカーから漏れ出し、ついには、何もないホーム画面へと表示が切り替わる。
     なんということだ……勝手に電話してきて、勝手に胸中をかき回しやがって。せっかく菊の話のあとに心を落ち着けて、さあ、帰って仕事するぞと自分を制していたのに。フランシスから言及されたからじゃない。強いて言うなら、昨日から蓄積されてきた小さな動揺のせいだ。俺様は耐えられずにその場で項垂れてしまった。ぐっとまた、顔中に強張りが走る。
     ……だが、俺様は日本へ行く。イヴァンとは別れた。……この事実さえ忘れずにいれば、大丈夫だ、何がこようがうろたえることはない。本当は胸に入り切らない悶々が膨れ上がっていたのもちゃんとわかっていたが、それはもう、別のどこかで待っていてもらうしかない。
     まだエンジン音が啼いているばかりで、誰が運転するの、と尋ねるように車は静かだった。……深い溜め息が漏れる。
     ……まったく、どいつもこいつも……もうわけわかんねえよ……放っておいてくれよ……。
     それから顔を上げて、長蛇の列に終わりが見えていることを確認した。そろそろ発進できそうだ。こんなところで項垂れていても時間の無駄だ。今はただ、振り払うように走り続けるしかない。

     それから車を転がして会社に辿り着いてしまった俺様は、とうとう悶々を治めきれないままだった。このままの心境でイヴァンと対面して、会社で痴話喧嘩なんか、よもや俺様に限って……などと考えていたが、そんなことは全くの杞憂だった。
     俺様が営業部のフロアに入るよりも前から、イヴァンのきっちりとした、仕事モードのときの声が廊下に響いていたからだ。電話でもしているのだろう、いつもより少し丁寧……という程度ではあるが、明らかに社外の人間と話す口調で話していた。フロアに入ってみれば案の定だ。俺様と目が合ったと思えば、わかりやすく目を泳がせてどこか別のところへ向いた。……電話中なのだから、まあ余計なことを考えたくはないのだろう。いいぜ、別にそれでも。……俺様もあえて凝視してやる必要はなく、「ギルベルトさんおかえりなさーい」と声をかけてくれたやつに、「おう、ただいま」と声をかけた。鞄をデスクの上に置きながら、そいつに「今日はどうだった」などと言って、自分の腹の虫を誤魔化してしまう。……よかった、思ったよりも冷静だ。
     だが、その営業員との会話が終わっても……ましてや、荷物を一通り整理し終えても、イヴァンは一向に電話を切る様子はなく、ずっと話している。……内容を聞いていれば、どうやらこれまで取引のなかった会社へのアプローチらしく、自社商品の営業に行かせてほしいと言ったところから話が広がっているらしい。まあまあ、景気のいい話で。……だが、その声を聞いているだけで、一度治めたはずの腹の虫が、どういうわけかまたそこで暴れ始めていた。これは厄介だ。先方の人間と上手く行っているのだろう、だんだん砕けた雰囲気で楽しく談笑が混じっていくのが、この上なく腹が立って、今にも握っているボールペンをへし折ってしまいそうだ。
     俺様はデスクの端に置いてあったメモ帳を引っ張り出して、そのペンを折ってしまう前にと紙面に走らせた。書き終えたあと、すぐさま携帯用のダブレット端末を鞄に投げ込み、即座に席から立ち上がる。本当は慌てているわけではなく腹が立っているのだが、あえて訂正する利点はない。イヴァンの顔も見ずに、書き殴ったメモをドカッと音が鳴るほどに勢いをつけて、デスクに叩きつけてやった。――『資料の本の買い出しに行ってくる』メモの通り、俺様は一歩の迷いもなく、フロアから駆け出した。
     社用車に乗り込み、本当に最寄りの本屋まで行った。ただし、駐車場に車を停めて、俺様がしたことと言えば、タブレットで辞表をつくることだった。……会社に戻ったら即座にこれを印刷して、イヴァンにやってやったように、総務部に叩きつけてやる。そもそも俺様のためにと新設したような役職だ、引き継ぎもくそもないので、月末なんて言わずに来週くらいに日付を設定してしまいたいくらいだ。
     だが、使い慣れたタブレットのはずだというのに、何故かうまく操作ができず、くそ、と何度も悪態が漏れた。手元が覚束ないというか、震えるように不安定で、視界が怒りのせいでぐらぐらと揺れていた。何もかもが上手くいかない。こんな風になるまで憤慨している自分に対しても情けなさが湧き上がり、奇声を上げたくなった。タブレットを車のフロントガラスに投げつけて、頭を掻きむしって、喉が潰れるまで叫び声を上げたい。タブレットを握り潰しそうになりながらも、それはしてはいけないとブレーキがかかった瞬間に、ぐっと痛みを伴って涙が押し出してきた。ぼたぼたとタブレットの画面に大粒の涙が降って、「うわ」と声を漏らしながら慌ててそれをティッシュで拭う。まるで発狂したい衝動の代わりと言わんばかりに、なんでこんなに出てくるのかと理解もできないほど、次々と溢れて止まらない。スーツが濡れるからと、何度も何度も拭ったが最後には息すら危うくなっていた。本田といたときと同じだった、なす術なく、勝手に溢れてくる涙にただ対処していくしかない。判然としないままにただ溢れてくる痛み。
     ……いつの間にか怒りに代わって、虚しさがこの身体を埋めていた。それを自覚してようやく、どうしてこんなに泣いているのか冷静に考えることができた。むしろ、なぜ今までわからなかったのか……。そうか、イヴァンと別れたことがここへ来て、心に沁みてきたのかと腑に落ちた。
     そもそも、これでよかったんだと思ってるくせに、なんであんなに苛立っていたのか。いちいち考え直せと言ってくる外野に噛みつき回して、イヴァンにも、くだらねえと悪態を心の中で吐いて。……本当に〝これでよかった〟と思っていたのなら、そもそもあんなに憤るのはおかしいことだ。残念なことに、気づいたのは本当に今の今だった。イヴァンと別れたことを、この場で初めて、俺様は拒絶していたことを知った。
    ――『俺様も、イヴァンに決断を託しすぎていた』
     イヴァンとよりを戻したあの日。俺様は過去の自分を反省したはずだった。……今こそ、あの頃と同じことをくり返してしまっているんじゃないか。イヴァンを捕まえて一言、『俺様にそんなつもりはねえ』と言うだけで、もしかしてまた違う結果になるんじゃないのか。
    ――『何回同じことくり返すの?』
    つい先ほど、フランシスに言われた言葉が過った。まさしく、フランシスにはこれがわかっていたんだ。……俺様は、あいつと、ちゃんと話をしたほうがいい……はずだ。ちゃんと話をして、違う、それはお前の勘違いだったと、しっかりと伝えてやるべきなんだ……だが、それでもやっぱり、
    ――『ロシアに帰るって言ってるよ』
    そんなこと、あいつの口から聞けるわけもない。俺様がいないと死んでしまうと言っていたくせに、勘違いで簡単に別れてしまうようなやつなんだ……。もしもう自分の心を決めてしまっていたら……。そうだ、フランシスにも報告しているくらいだ。もしかすると、昨日の夜ちゃんと引き止めなかったことで、すでに手遅れなのかもしれない。
     押しつぶされそうな胸中をなんとか変えようと、俺様はまだ夕日の暖かい、何事もなかったように人々が営みを続けている町並みに向けて、顔を上げた。
     いや、ちゃんと一回話そう。あれはそういう意味じゃなかったと、しっかり話さなければ、確実にまた後悔して引きずってしまう。そして今度そうなれば、フランシスに『ほら見ろ』と言われてしまう。……本当は逃げ出したい、けど、ここはだめだ。腹を括ったその刹那の内には、助手席に置いておいた携帯電話端末を拾い上げていた。自分が逃げられないように、イヴァンにメールを送っておく。文面の丁寧さよりも、やっぱりだめだと消極的な感情が混ざり込む前に。
    『一回ちゃんと話したほうがいい』
    ただそれだけを本文に入力して、そして、ろくに見直しもせずに送信した。……これで、もう逃げられない。ちゃんとイヴァンと日取りを決めて、腰を据えて話をしなければならなくなった。例えばイヴァンに『もういいんだ』と言われることになったとしても、ちゃんと話さないほうが情けないだろ。
     手の中に握っていた端末が、ヴ、と震えた。まさかあのイヴァンからこういう流れでの返事が来ると思っていなかったので、慌てて受信したメールを開いた。
     そして、そこに表示されていた一言に首を傾げる。『大丈夫だよ』と、ただそれだけが記されたメールだ。……これはとても不可解な返事だった。てっきり返事は来ないだろうと思っていたということもあり、俺様から強引に連れ出すことになるだろうかと、半ば覚悟をしていたからだ。だが、予想に反してメールが返ってきて……それで『大丈夫』の一言。……話し合うことを了承したという意味だろうか。
     気づけば流れ出る涙は止まっていたので、最後に一枚ティッシュを取り、涙を拭った。ついでに鼻もかんで、フロントミラーで自分の顔を確認する。……多少目が充血していたが、まあ、アレルギーとかなんとか言って誤魔化せる程度のものだろう。携帯端末に表示された時計を見れば、もう定時の十分前になっていた。……そうだ、定時になってイヴァンが退社してしまう前に捕まえなくては。
     すぐさまエンジンをかけて、俺様は『探していた本はなかった』という言い訳を考えながら、本日二度めの帰社を果たす。社用車用の駐車場に車を停めるころには、既に定時から五分過ぎていたが、おそらくこの五分の間に退勤したとは考えにくい。よかった、間に合ったと安堵を零しながら、大慌てで鞄をひっつかんで車を降りる。玄関に向かうにつれて、まばらに見知った社員たちとすれ違っていった。みんなが気さくに挨拶をくれる中、俺様はそれに紛れて玄関から出ていくイヴァンを見つける。今まさに駅の方向に歩いていくイヴァンを視認して、足が勝手に地を蹴り出した。
     なんで勝手に帰ろうとしてんだあのシロクマ。ちゃんと話し合おうって言っただろ。
    「――おい!」
    追いつく目処が立ったので、先に声を使って呼び止めた。びくりと派手に肩を跳ねさせて、
    「あれ、ギルベルトくん、どうしたの」
    ふり返ったイヴァンは、素知らぬ顔でそんなことを尋ねた。どうしたの、じゃねえよ、まったく。……そう思ったが、さっき一人でガス抜きができたお陰か、昼間ほどの苛立ちは抱かなかった。俺様たちを横切っていく社員に邪魔にならなよう、道の端っこにイヴァンを押しやって、その向かいに立った。
    「……だから、一回ちゃんと話そうって」
    改めてしっかりとイヴァンの目を見てそう告げると、わかりやすくその顔が強張る。ふらふらと目が泳いでから俺様の元に戻り、
    「大丈夫だよ。ちゃんと君の気持ちはわかったから。無理強いは、しないよ」
    よそ行きのしけた面で笑いやがった。
    「わかったって、なんだよ」
    「だから、君がっ、ぼくといたくないって……こと……」
    ついに俯いたが、一足遅かったイヴァンは、俺様にしっかりとそのふるふると震わせた目元を目撃されてしまった。そんな、今にも泣き出しそうな顔をして、それでも『ぼくは別れたくない』と、その一言も言わないつもりでいるらしい。……何が、君の気持ちはわかっただ。
    「だから、ちゃんと話そうっつってんだよ」
    その面を拝んでやろうと、角度を変えて覗き込んだ。だがイヴァンは逃げる一方、
    「……ううん、やだ、ごめん、聞きたくない」
    「……は?」
    さらに顔をあちらのほうへと追いやった。俺様のこの目すらもう見たくねえと、まるでそう言いたげに一歩後ずさる。
    「もういいよ、ちゃんとわかってるから。君は好きにしていいよ。この会社にいても、日本に行っても。ぼくは、遠くから応援してるから」
    ぐ、と腹に力が入る。目頭まで熱くなる。今度こそもどかしさから怒りがこみ上げて、追いかけるように力いっぱいに足を踏み込んだ。
    「遠くからってなんだよ。ロシアにでも帰るつもりか?」
    嫌味でそう言ったのに、やっと顔を上げたイヴァンは呑気に目を見開いて、「すごいね。なんでわかったの」と尋ねる。……そんなことは、今はどうだっていいだろ。フランシスは言っていた、イヴァンは俺様とフランシスが知り合いだとは知らないと。つまり、これは俺様が勝手に見当をつけたと思っている。だが、本当にそんなことはどうでもいい。過去にあれだけの過ちを犯して、そして、こいつはずっと未練に苦しんでいたはずなのに、まだ何も学んでいないのかと胸ぐらを掴んでやりたくなった。
     ……そうやって、言ってやりたいことが山ほどあるが、どうも今は怒りが煮えて、余計なことまで言ってしまいそうだ。イヴァンが再び顔を歪ませて、そしてそれに耐えられずに俯いたこともあり、俺様はなんとか深呼吸をして、自分の中の熱を鎮めようとした。
    「……わかったよ、今日はやめにして、またお互い頭を冷やしてからゆっくり話そうぜ。俺様も、言いたいこと、ちゃんと考えとく……いや、まとめとくから」
    なるべく穏やかに聞こえるように努めた。腕を組んでみせたのは、あくまで譲歩してやっているという気持ちをどうにかして示したかったからだろう。これも無意識だ。それでもイヴァンは顔を上げることはない。
    「いいよ。君の時間がもったいないよ」
    だが、こいつなりに顔を上げる努力はしているらしい。下方を彷徨っていた視線は何度か俺様のほうへ向けられ、優柔不断な動作でも、最終的にはちゃんと俺様と向かい合った。そうだ、冷静になればちゃんと、こいつも考えてくれる。
    「そういうのいらねえから。今週末な」
    釘を刺したら、またイヴァンの視線が泳ぐ。いやだと口から出なかったものの、その目は饒舌にそれを物語っていた。……こいつは今、何を言っても通じないだろうと、改めてため息をこぼしてしまう。元々マイペースが故に頑固なところはあったが、ここでそれを発揮されちまうと厄介だ。それ以上は追い打ちをかけないよう、
    「……じゃ、とにかく、明日な」
    勝手に別れを告げて、俺様は会社のほうへ歩き出した。ふり返ったりはしないが、気配ではイヴァンがしばらく立ち尽くしていたことを感じていた。
     後から思えば、多少強引でも、この場で伝えてやればよかったのだ。ある程度は怒りも収まっていた。だがこのときの俺様は、それではだめだと信じていた。イヴァンが自分で結論を出さないままになってしまうから。そういう関係でいたら、今後の俺様たちは本当にだめになる。そう思ったから、俺様はあえて立ち去ることにした。
     ――俺様はちゃんと頑張ったんだ。次はイヴァン、お前がしっかり俺様と……そして自分と向き合う番だ。
     〝それをその場でちゃんと言えていたら〟次の日になってそんな風に後悔しているなんて、このときの俺様は知るよしもなかった。

        *

     イヴァンは朝のミーティングには出席しなかった。昨日の今日で、わざわざ総務部の人間にまた足を運ばせるのは忍びなく思い、ミーティングのあとに、俺様のほうから総務部に向かった。イヴァンから連絡が入ってないかと聞くと、そこら一帯で誰か知らないかとざわざわして、結局、誰も何の連絡も受けていないという結論が返ってくる。……まさしく昨日の今日。いい言い訳が思いつかなかったのか、今日こそあいつは無断欠勤を華麗に披露したというわけだ。
     俺様とのことで思い悩むのはいいが、さすがに社会人としてそれはあんまりだろう。営業のフロアにつながる廊下に足音を響かせながら、俺様は少し悶々としてしまった。……ましてやあいつの現職は営業部の部長であるからに、イヴァンが承認しないと前に進まない書類がいくつもある。……と言っても、俺様から連絡をしたところでおそらくは逆効果であろうし、あいつが自分の尻を叩いて出勤してくるまで、俺様からは連絡を取らないことにした。……次に顔を合わせたときは、耳にタコができるくらいに説教をしてやるつもりだ。
     そうやって席に着き、昨日の講義のまとめをまだしていなかったので、それに手をつけようとアイソで配布された資料を取り出した。
     ちょうどそのタイミングだった。ヴ、と机の上に置いていた携帯電話の端末が振動を起こし、メールの受信を知らせた。……ったく、ようやくイヴァンが連絡してくる気になったのか。それでも遅えだろ、と、まだ本人を目の前にしていないのに、説教が頭の中を垂れ流れてくる。
     だが、その端末の画面に新着のメールを表示させたところで、俺様はまたしても拍子抜けした。二日連続で連絡があることが珍しいその送信者は『フランシス』。むしろ、昨日こそこれ以上首は突っ込まないと宣言したばかりだというのに。
     深く考えずに指が無記入の件名に触れ、パっと画面が切り替わる。
    『ギル、今から電話するから必ず出て。緊急事態、ちゃんと出、』
    最後まで読み終わる前に、その画面は電話の着信を表示するものに変わった。最後まで読んではいなかったが、どこか心を急かすような文面だったことを、その画面にでかでかと表示された『フランシス』を見ながら理解した。
    「おう、どうし」
    『ギルちゃん、落ち着いて聞いて』
    「は? お前が落ち着け」
    ずいぶんと慌てた声だ。いつも憎らしいほどに落ち着き払っている声が動揺している様は、聞いている俺様にまで不安を掻き立てた。
    『イヴァン、今日休んでるでしょ?』
    「……ああ、無断欠勤だとよ」
    出てきた名前。それを意識して、嫌な予感が脳みそを揺さぶる。フランシスは俺様の返しに声を被せて、
    『イヴァン、死のうとしてるかもしれない』
    その強烈な言葉の並びで、俺様の頭の中を真っ白に塗り替えた。
    「……は?」
    ……こいつ、今、なんて言った?
    『その、確信があるわけじゃないんだけど、さっき、電話が来て、すっごく酔っ払ってて。始めは何を言ってるのかもわかんなかったんだけど。そしたら、今までありがとう〜って。なんかすげえ俺のこと褒めちぎるし、まあお兄さんだから仕方がないんだけど。いや、そうじゃなくて、俺、面識ないのに姉さんにも今までのことを感謝してるって伝えてとか、言われて』
    頭が理解することを拒否していたせいで、フランシスが早口でそれを言ってしまう間も、相槌一つ打てやしなかった。
    ――『君といられないなら、無理だもん、死んじゃう』
     ハッと息を呑む。……嘘だろ。あれは、質の悪い冗談じゃなかったのか。確かにイヴァンは、俺様にそう言った。だが、そんなの、
    『こんなになってるの、好きな人には絶対知られたくないだろうから、できればお前には言いたくなかったんだけど、でも、俺イヴァンの家知らないし、俺じゃ止められないから、』
    フランシスのこの慌て方からしても、おそらく尋常じゃないほどの胸騒ぎを持っているのだろう。俺様の中にもざわざわとしたものが這い上がってきて、完全に身体が脳みそから取り残されていた。
     ……だって、死ぬって。どうやって? どこで? 一人でか? 俺様と今週末、ちゃんと話そうって……そんな約束すら反故にして?
    『ギル、ちゃんと聞いてる? お前が自分で結論出すまで横槍入れないって言ったけど、間に合わなくなったら意味がないんだよ。間違いなく後悔して一生苦しむよ』
    何かフランシスに返さないといけないことはわかっていたのに、まるで自分の身体じゃないように何もできない。まったくの不自由な状態で、ただただ頭の中が混乱していた。俺様とちゃんと話もしないで、そんな風に置いていこうとしているのか。……冗談じゃない。これは冗談じゃ済まされない。
    『……あーもう』
    フランシスが受話器の向こうでがなった。
    『ギルちゃん、頼みがある。お兄さんの代わりにさ、ふざけんなって、イヴァンをぶん殴ってきて』
    そして、初めて聞くような迫真の怒号を上げた。
    『今すぐッ!』
    ガツンと俺様の頭を殴りつけるように突き刺さって、それがきっかけで思わぬ量の酸素が身体の中になだれ込んでくる。こんなに空気からの圧迫を感じたの初めてだと言い切れるほど、肺がいっぱいに膨れて、呼吸すら止まっていたことを知った。……そして、俺様はもう、我に返っていた。
    「……わかった」
    フランシスの怒号とはまったく釣り合わない静かな声だ、立て続けに何も考えず電話を切る。机の上の整理を十秒で済ませ、社用車を借りる作業を一分で終わらせる間。思考は一つも働いていなかった。今思考を回してしまうと、きっと正気でいられなくなる。一秒でも早く走ってくれとアクセルを踏み込んで、十何年も前に行ったっきりの、イヴァンの古い一軒家に向かった。



    第八話(最終話)「ココロ・ツフェーダン」 へつづく
    (次ページにあとがき)

    あとがき

    わ〜! ご読了ありがとうございます!
    そして長らくお待たせしました!^^
    久々にこのギルくんを描くのに、自分で頭の切り替えが大変でした……笑
    いかがでしたでしょうか、第七話。
    史上最高に不穏な感じですね……。

    もしかしてこういう展開(考え方?)が苦手な方もいらっしゃったかなあと思うのですが、
    どう考えてもこのお話のイヴァンちゃんならこういうことしそうだなあと……

    ついに次回が最終回です。

    今の調子でいけば、次話はおそらく早ければ来週にはアップできるんじゃないかと思います。
    あくまで早ければの話ではありますが……。
    ああ、でも、間に合えば6/20でもいいかな〜(*^^*)笑
    裏ろぷの日……笑

    はてさて、最終話はようやく、ようやく……!(あんまり語るとあれなので笑)
    ぜひともお楽しみにしていただけると幸いです(^^)

    それでは、改めましてご読了ありがとうございました!

    飴広 Link Message Mute
    2023/07/21 23:17:03

    第七話 オモイ・フィーラー

    【イヴァギル】

    こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第七話です。

    more...
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    • こんなに近くにいた君は【ホロリゼ】

      酒の過ちでワンナイトしちゃう二人のお話です。

      こちらはムフフな部分をカットした全年齢向けバージョンです。
      あと、もう一話だけ続きます。

      最終話のふんばりヶ丘集合の晩ということで。
      リゼルグの倫理観ちょっとズレてるのでご注意。
      (セフレ発言とかある)
      (あと過去のこととして葉くんに片想いしていたことを連想させる内容あり)

      スーパースター未読なので何か矛盾あったらすみません。
      飴広
    • ブライダルベール【葉←リゼ】

      初めてのマンキン小説です。
      お手柔らかに……。
      飴広
    • 3. 水面を追う③【アルアニ】

      こちらは連載していたアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 3. 水面を追う②【アルアニ】

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 最高な男【ルロヒチ】

      『現パロ付き合ってるルロヒチちゃん』です。
      仲良くしてくださる相互さんのお誕生日のお祝いで書かせていただきました♡

      よろしくお願いします!
      飴広
    • 3. 水面を追う①【アルアニ】 

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 星の瞬き【アルアニ】

      トロスト区奪還作戦直後のアルアニちゃんです。
      友だち以上恋人未満な自覚があるふたり。

      お楽しみいただけますと幸いです。
      飴広
    • すくい【兵伝】

      転生パロです。

      ■割と最初から最後まで、伝七が大好きな兵太夫と、兵太夫が大好きな伝七のお話です。笑。にょた転生パロの誘惑に打ち勝ち、ボーイズラブにしました。ふふ。
      ■【成長(高校二年)転生パロ】なので、二人とも性格も成長してます、たぶん。あと現代に順応してたり。
      ■【ねつ造、妄想、モブ(人間・場所)】等々がふんだんに盛り込まれていますのでご了承ください。そして過去話として【死ネタ】含みますのでご注意ください。
      ■あとにょた喜三太がチラリと出てきます。(本当にチラリです、喋りもしません/今後の予告?も含めて……笑)
      ■ページ最上部のタイトルのところにある名前は視点を表しています。

      Pixivへの掲載:2013年7月31日 11:59
      飴広
    • 恩返し【土井+きり】


      ★成長きり丸が、土井先生の幼少期に迷い込むお話です。成長パロ注意。
      ★土井先生ときり丸の過去とか色んなものを捏造しています!
      ★全編通してきり丸視点です。
      ★このお話は『腐』ではありません。あくまで『家族愛』として書いてます!笑
      ★あと、戦闘シーンというか、要は取っ組み合いの暴力シーンとも言えるものが含まれています。ご注意ください。
      ★モブ満載
      ★きりちゃんってこれくらい口調が荒かった気がしてるんですが、富松先輩みたいになっちゃたよ……何故……
      ★戦闘シーンを書くのが楽しすぎて長くなってしまいました……すみません……!

      Pixivへの掲載:2013年11月28日 22:12
      飴広
    • 落乱読切集【落乱/兵伝/土井+きり】飴広
    • 狐の合戦場【成長忍務パロ/一年は組】飴広
    • ぶつかる草原【成長忍務パロ/一年ろ組】飴広
    • 今彦一座【成長忍務パロ/一年い組】飴広
    • 一年生成長忍務パロ【落乱】

      2015年に発行した同人誌のweb再録のもくじです。
      飴広
    • 火垂るの吐息【露普】

      ろぷの日をお祝いして、今年はこちらを再録します♪

      こちらは2017年に発行されたヘタリア露普アンソロ「Smoke Shading The Light」に寄稿させていただきました小説の再録です。
      素敵なアンソロ企画をありがとうございました!

      お楽しみいただけますと幸いです(*´▽`*)

      Pixivへの掲載:2022年12月2日 21:08
      飴広
    • スイッチ【イヴァギル】

      ※学生パラレルです

      ろぷちゃんが少女漫画バリのキラキラした青春を送っている短編です。笑。
      お花畑極めてますので、苦手な方はご注意ください。

      Pixivへの掲載:2016年6月20日 22:01
      飴広
    • 退紅のなかの春【露普】

      ※発行本『白い末路と夢の家』 ※R-18 の単発番外編
      ※通販こちら→https://www.b2-online.jp/folio/15033100001/001/
       ※ R-18作品の表示設定しないと表示されません。
       ※通販休止中の場合は繋がりません。

      Pixivへの掲載:2019年1月22日 22:26
      飴広
    • 白銀のなかの春【蘇東】

      ※『赤い髑髏と夢の家』[https://galleria.emotionflow.com/134318/676206.html] ※R-18 の単発番外編(本編未読でもお読みいただけますが、すっきりしないエンドですのでご注意ください)

      Pixivへの掲載:2018年1月24日 23:06
      飴広
    • うれしいひと【露普】

      みなさんこんにちは。
      そして、ぷろいせんくんお誕生日おめでとうーー!!!!

      ……ということで、先日の俺誕で無料配布したものにはなりますが、
      この日のために書きました小説をアップいたします。
      二人とも末永くお幸せに♡

      Pixivへの掲載:2017年1月18日 00:01
      飴広
    • 物騒サンタ【露普】

      メリークリスマスみなさま。
      今年は本当に今日のためになにかしようとは思っていなかったのですが、
      某ワンドロさんがコルケセちゃんをぶち込んでくださったので、
      (ありがとうございます/五体投地)
      便乗しようと思って、結局考えてしまったお話です。

      だけど、12/24の22時に書き始めたのに完成したのが翌3時だったので、
      関係ないことにしてしまおう……という魂胆です、すみません。

      当然ながら腐向けですが、ぷろいせんくんほぼ登場しません。
      ブログにあげようと思って書いたので人名ですが、国設定です。

      それではよい露普のクリスマスを〜。
      私の代わりにろぷちゃんがリア充してくれるからハッピー!!笑

      Pixivへの掲載:2016年12月25日 11:10
      飴広
    • 赤い一人と一羽【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズの続編です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのプロイセン視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのロシア視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / リトアニア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのリトアニア視点です。
      飴広
    • 「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズ もくじ【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのもくじです。
      飴広
    • 最終話 ココロ・ツフェーダン【全年齢】【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の最終話【全年齢版】です。
      飴広
    • 第六話 テンカイ・サブズィエ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第六話です。
      飴広
    • 第五話 カンパイ・シャオ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第五話です。
      飴広
    • 第四話 ムチュー・スィエッツァ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第四話です。
      飴広
    • 第三話 ヤブレ・シュトーロン【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第三話です。
      飴広
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