星の瞬き
「――それではアルレルト訓練兵。消灯時間を超えてしまっているので、まっすぐに兵舎に戻るように」
「はい、お疲れさまでした」
「はい、ご苦労だった」
僕はすっかり暗くなった廊下を歩き始めた。
こんなにへとへとになっているのだ、まっすぐ兵舎に戻らずにどこに行くというのだろう。今日の早朝から待機時間を含めて、ほぼ座った体勢のままだった身体を思い切り引き延ばしながら窓の外を見た。
まだ配属兵科を決めていない僕たち百四期訓練兵は、これまでと同じ兵舎を使っている。僕が一日中――いや、正確に言うと昨日からだ――拘束されていたトロスト区の内門側に設置された特別調査委員会の建物から、このウォール・ローゼ内の訓練兵施設の入り口までは馬車で送ってもらった。
そこから消灯時間をすぎて静かになっていたはずの兵舎を目指し、一昨日からの一連の流れを思い返しながら歩いた。
一昨日、突然現れた超大型巨人にトロスト区の壁門を蹴破られてからの時間――、エレンがどういうわけか巨人化するという事故が起き、そして人類初となる、領土の奪還を果たした歴史的な出来事が起きた日。僕はエレンの幼馴染で、なおかつ巨人化したエレンの側にずっといたことから、今日の事情聴取が完了するまで、ずっとその特別調査委員会に身柄を拘束されていた。ミカサもだ。……きっとエレンもだろう。
その間、エレンと関わりの薄かったほかの兵士たちは休む間もなく駆り出されていたと聞いた。昨日はトロスト区内に入り込んだ巨人の大砲による掃討作戦が行われ、訓練兵のみんなも駐屯兵団の先輩方の支援をさせられていたらしい。……そして、今日は。
ちょうど兵舎へ続く廊下を曲がったところだった。僕は驚いてしまい、思わず足を止めていた。
消灯したはずの兵舎の中で、あちこちに兵士たちが徘徊していたのだ。――教官らもさすがにそれどころではないのか、見回りに来ている様子はない。
そこらじゅうにある兵士たちの気配を横切りながら、僕は急いで足を運んだ。
廊下のそこかしこから、啜り泣くような声が聞こえる。頭を抱えて蹲っている人、何かをぶつぶつと呟きながら行ったり来たりしている人……まるで初めて見るような光景に、ゾッと背筋が凍った。
――いや、無理もない。何せ今日は、トロスト区内の遺体の収容作業を行なっていたのだと聞いたからだ。巨人が食い散らかしたあとの同胞たちの亡骸を集めて、火葬する。それがどれほどまでに悍ましい作業かなんて、きっと想像にも及ばないのだろう。……彼らは心身ともに、取り返しのつかないような傷を負わされたに違いなかった。
ふと顔を上げると、僕は思わずその光景にまた足を止めてしまった。
渡り廊下に差し掛かったところで、窓から外を眺めてぼうっと立ち尽くしている、見馴染んだ友人を見つけたからだ。
「アニ……?」
驚かさないように静かに声をかけ、歩み寄ってみると、
「あっ……、」
アニは声を溢して、それから慌てるように踵を返してしまった。逃げられたからなのか、僕は思わずアニの腕を掴んでいた。
「ちょっと待ってよ! どこに行くの?」
「どこでもいいでしょう、放っておいて!」
アニはこちらに顔も向けずに腕を振り解こうとする。抵抗されたからムキになって、僕は振り解かれまいと必死に掴んでいた。
「いや、もう消灯時間も過ぎてるし一人で出歩くのは危ないよ!」
僕の言葉が届いたのか、アニはいきなり自ら力を抜いた。だらんと腕が垂れ下がり、身体がほんの少しだけ角度をつけてこちらに向いた。
「……危ないわけないよ。今日はみんな混乱して、寝ているやつは負傷しているやつくらいだ」
しかし俯いたままで、その表情が見えないのは変わらない。声色からもわかる、思い詰めているのだろう……何せ今日は、食い捨てられた同胞の亡骸を収容していたのだから。
「そう……かもしれないけど……」
僕も力なく返答していた。
「わかったら、今は一人にして」
それを見計らっていたのか、アニは再び一歩を踏み出そうとした。
「待って、」
「……なに?」
しつこく足を止めさせる僕に対して、アニの声色が少しの苛立ちを混ぜた。
けれど、そんなに辛そうな声色で、辛そうな仕草で、いったいどこへ行くというのだ。そんな打ちのめされた心で一人になるなんて、そんな悲しいことを言わないでほしかった。僕という友人がここにいるのに。
「今だからこそ、一人になっちゃだめだよ」
僕はこの身勝手とも取れる感情をなんとか伝えたくて、アニが耳を傾けてくれたところに言葉を紡いだ。
「今日、トロスト区内の遺体の収容作業だったんでしょ? ……だから、みんなが落ち込んでいるのはわかるよ」
どうしてだろう、まるでアニの切迫した気持ちが伝播してきたようで、僕の声まで震えていた。想像することしかできないが、僕は目の前で彼らが食われる瞬間を何度も見ていたから、きっと鮮明に想像できていたと思う。食い捨てられた、無念を叫び続けている同胞たちの亡骸を集めること、その悲痛さ、無力さ、……そして生き残ってしまった罪悪感。それらはいったいどれほどその身体を蝕んでいたことだろうか。
「……あんたのことは見かけなかったけど、どこにいたの?」
思考の中に自ら飛び込んでいた僕を、アニは声色を変えて呼び戻した。
「僕? 僕はエレンの件で今まで事情聴取を受けていたんだ。その……、手伝えなくてごめん」
「私に謝ることじゃないよ。とにかく今は、一人になりたいんだ」
先ほどまでとはまた違った静けさで、アニが身体を返した。既に一歩を踏み出すところだったにも関わらず、今度は僕は、アニの手首を捕まえていた。
「アニ、お願い。何も話さなくていいから。こんなときに君を一人にさせたくな――、」
「――いい加減にして!!」
僕が言い終わるよりも先に、アニが声を荒げて一歩下がった。まるで僕を拒否するように睨みつけられている。
「あんたは私のなんだって言うの!? 今はあんたの顔だって見たくないんだよ!! なんでわからないの!?」
睨んでいるその瞳には、確かに涙を浮かべていた。ほとんど灯りのない暗闇の中でもわかるくらい、鈍光がその瞳の中で揺れている。
「……ごめん」
きっと、本当に今は一人になりたいのだろう。心の整理をしたいのもわかる。けれどやはり、打ちのめされている今だからこそ、僕は大切な友人の隣にいてあげたかった。
無気力に手を引っ込めて俯いた僕を、アニは少し見ているようだった。長い沈黙のあとに深呼吸が聞こえる。
「……わ、私も悪かったよ。怒鳴るつもりはなかった」
謝るアニに僕はなんて返したらいいのだろう。ごめんとまたくり返すのは白々しい気がしたし、君は悪くないよなんて言葉も安っぽい気がした。だから返すべき言葉が見つからなかった。
するとまたアニが小さく吸気して、
「……ああ、だから、一人になりたかったんだ……っ」
片方の手を使って、自らの視界を塞いだ。また声が震えている。僕が動揺させてしまったことは自覚していたが、それでもやはり、こんな状態のアニを一人にさせたくなかった。
「……じゃあ、」
僕はこれからアニに提案する約束通りに顔を見せないように俯いて、
「……じゃあ、僕の顔も見なくていいから……何も話さなくていいし、僕の顔も見なくていいから……だから、ただ、君の隣に居させてくれないか」
僕の心の内を打ち明けた。
アニはしばらく悩んでいたようだったけど、
「…………勝手にしな」
最終的にはため息混じりにそう告げて、今度は僕を待つように踵を返した。
僕が顔を上げると、その小さな身体にどれだけの悲痛を溜め込んでいるのか、その背中がいやに心許なく見えた。
何も言わずに歩き始めたアニを追い、僕も渡り廊下を抜けていく。兵舎とは逆の方向だ。そのまま消灯された食堂を突き抜け、その裏口から外へ出る。
兵舎の裏手側にある森を目指しているのだと、このときにようやく気がついた。僕たちは終始無言に徹したまま、覚束ない足元で森の小道を歩いていく。何度も人が通っているのだろう、獣道というにはしっかりと自我を持った歩道が続いた。
次第に木の葉の擦れる音の間に、せせらぐような水音が聞こえ始める。木々を抜けると、目の前には小川の川べりが姿を現した。
「……すごい、こんなところがあったんだね。僕も時々森に入っていたけど、ここは気づかなかったや」
さらに歩みを進めていくアニの背中を目で追う。
「……うん、川の音が、落ち着く」
そのままその心許ない影は、川の淵にあった少し大きめの岩の上に腰を下ろした。そこから足を下ろせば水面に着くくらいの高さの岩だ。夏場に来たらさぞ涼しいだろうなと思いながら、僕もその隣に腰を下ろす。……アニが僕が座るための空間を空けたまま座ってくれたから、それはなんとなく心を弾ませた。
静かに川面を見ていたアニの隣で、僕はこの小川を囲む木々の景色を見回していた。そう密集しているわけでもない木々の間からは、鈍く澱んだ空が見える。
「……あんたって、本当にどうしようもないね」
俯いたまま、アニが僕に声をかけた。
一人になりたいと主張している人間にこのこのついてこんなところまでくる僕のことを言っているのだろう。
「……うん、ごめん」
それを僕は否定しなかった。身勝手なお節介なのはわかっていたからだ。
「でも、一人でいたら君は孤独に感じるだろう。それは、嫌だったんだ……僕が」
アニは顔を上げる様子もなく、先ほどのようにぼうっと水面を眺めていた。
「君にそんな想いは、してほしくなかった」
ちゃんと伝わっているのかわからずそう付け加えると、アニの顔がゆっくりとこちらを向いた。僕の眼差しをしっかりと捉えて、
「……私は、――」
ぼそり、とそれだけを言ってやめた。
再び顔を僕から背けたその瞬間、確かにまたその瞳が揺らいだのを見てしまった。
――『私は、孤独だよ』
そう伝えたかったように思えて、ぎゅ、と僕の胸が締めつけられた。僕はその思考を振り払い、冷静になるように意識した。
……アニは、何を伝えたかったのだろう。どうしてそれを、言ってくれなかったのだろう。まるですべてを飲み込んで耐えるようにアニは蹲り、
「……何も、話したくない」
また静かにそう言った。
「……うん、わかった。何も聞かないよ」
僕も見ていたアニの頬から視線を移し、また木々の合間を目で追った。
それからどれくらい水音を聴いていただろう。星が出ていない曇り空の夜では、どれほど時間が経過したのかはわからなかった。とにかく、しばらく経ってからのこと。
「あんたってさ、なんで自分が生まれてきたんだろうって考えたことある?」
唐突にアニから質問を投げかけられた。僕はその問いの答えとして思い当たる節がいくつか脳裏に過って、それぞれの場面が意識の中で移り替わっていく。
「え、あ……まあ……それは、それなりに、あるけど……」
質問の真意を確かめるべく、僕はあえて続きを言わずにアニの顔を覗き込んだ。
ちらり、とアニの視線が僕を一瞥すると、それはまたすぐ水面に戻って沈んでいく。
「こんなどうしようもない人間として生きていかなければならないなら、なんでそもそも生まれる必要があったんだろうって……」
ぎゅ、とアニが自身の身体を抱き込む。その痛々しい姿を見て、僕がもっと優しく抱きしめてあげられたらなと思った。……そんなことは望まれていないのは自覚しているので、あくまで静観して待つが。
ただ、アニは自らの言葉の中に迷い込むように、またその瞳を歪ませたのがわかったので、僕にとってもその沈黙はひどくぴりついていたように思う。
「……どうしてアニがそこまで自分を責めているのかわからないけど……、今回の巨人の襲撃で無力感を味わったのは君だけじゃないよ」
考えられる限りの可能性を出して、アニをフォローしたつもりだったが、
「……そういうんじゃない」
ばっさりとその返答を切り捨てられてしまった。アニが欲しかった言葉ではなかったことだけが確かで、僕もひどく気持ちが落ち込んだ。
「……そっか」
手元に視線を落として、そこにある無骨な指先を眺めた。一昨日、ブレードを握った手。エレンの生還を確かめた、この手。
そして壁越しに見えた超大型巨人の巨大な視線を思い出して寒気を催した。
そうだ、すべての元凶はあいつらだった。……おそらく、エレンと同じで巨人の身体を身に纏うことができる人間……なのだろう。憶測にしかすぎないが。
「……でも、君が招いたことってわけじゃないんだから、そこまで思い詰めなくてもいいんじゃないかなって、僕は思う……。少なくとも、アニに救われた命だってあるんだし」
アニはふと顔を上げた。突然空を見上げた理由はなんだったのか。ただ、その横顔は今にも泣き出しそうに歪んでいたのは見えていたし、それがふらふらも僕のほうに向けられた。……まるで助けを求められているような気がした。
アニ、そう呼びかけたかったけれど、その光景に呆気に取られて声が出ない。アニ、アニ。その中でいったい何がそんなに渦を巻いているの。僕も理解したい、アニのことをもっと理解して、そして寄り添えたらいいのにと思う。
次第にアニの瞳に溜まっていた水分は大きな粒となって川面へと落ちていった。まるでそこにある川の流れすべてがアニの涙でできているようだった。その勢いに引かれて俯いたアニは、何も言葉を作らないまま、その嗚咽のような喉の音を必死に噛み殺していた。
僕の隣で僕の大切な人が静かに涙を流し続けた。ただ隣に居させてくれればそれでいいと伝えたが、何も助けになれないのはもどかしさしか抱かせない。
アニが今抱えている苦しみから解放されるには、どうしたらいいのだろう。僕に何かできることがあればいいのに。そんな切実な想いのまま、僕は再び木々の隙間から覗く空を見上げた。――相変わらずだ、曇って鈍く黒ずんでいるだけ。
「――星が見えないね」
何でもいいから言葉を、音を、紡ぎたくて、僕は空を見上げたまま独り言でも言うように声にした。
すると僕の隣からまたボソボソと何かが聞こえた。耳を傾けると、確かに僕に何かを言ったようで、
「そんなもの、見えたってなんの足しにもならない」
すっかり絶望しきった瞳と一緒に、アニはそう僕に教えた。
「そうかな」
僕はちょっと、そのアニの諦念に抗いたい気持ちになった。例え今は眩く導く星空が見えなくても……、そこに確かにあって、僕たちを待っている。まるで〝未来〟のようだなと思った。何が待つかはわからないが、必ず僕らを待っている。
相変わらずアニのほうからはずず、と鼻を啜る音が聞こえる。何を思ってそんなに涙を流しているのか、やはり僕にはわからなかった。……もしかしたら、考えすぎているだけなのかもしれない。ただただ、対峙した巨人が恐ろしくて泣いているだけなのかもしれない。あるいは、弔った友人や同胞たちに、その想いを馳せているのだろう。
僕は実際のところ、まだ僕が所属していた三十四班以外の犠牲者を知らない……。あるいはアニですらこんなに涙するほどの誰かが、無念に食い捨てられていたのかもしれない。……いや、三十四班にもアニと親しい友人がいたじゃないか、ミーナだ。アニは、ミーナを想って泣いているのかもしれない。
隣から漏れ続ける嗚咽を噛み殺そうとする声を聞きながら、僕はずっと思考を忙しなく動かしていた。
ふ、と我に戻る。僕はせっかくここに座って、アニの隣にいるというのに何もできないことに嫌気が差した。本当は泣きじゃくる大切な友人を抱きしめてあげたい。だから僕は、その気持ちを抑えてアニの手のひらを握った。何度も涙が拭われた手は少し濡れていたけど、冷えたその手を温めてあげられるなら何でもよかった。
はた、とアニの嗚咽が止まる。驚いたような瞳でこちらを見ていたのを気配で感じていた。僕は本当は視線を向けずに存在を殺しておこうと思っていたけど、そんなことは結局はできなかった。僕を見つめるアニと視線を合わせ、そしてできる限りの優しさを持って笑ってみせた。……君は一人じゃないよ、そう伝わるように。
しかしその途端、アニは何かを思い出したように表情を強張らせた。
「やめて!」
思いっきり手を引き抜き、僕のことを睨みつけていた。その涙にふやかった目元で。
「……ご、ごめん。君は、一人じゃないよって伝えたくて……、」
真意を伝えるとアニはさらに逆上した。
ぐっと眉根に皺が寄り、涙がまたぽろぽろと流れ落ちていく。
「――ッ! そんなこと言って、どうせあんたはすぐ死ぬんでしょ!?」
「え?」
「だって、調査兵団に入るつもりなんでしょ!? だったら絶対すぐに死ぬんだ! あんたは!」
そのあまりの形相と勢いに気圧されて、僕は言葉を失ってしまった。まさかアニに調査兵団へ行くことを咎められるとは思っていなかったから、それはまるで青天の霹靂だった。
――アニは、僕が死ぬから、側にいてほしくなかった……のか?
「……もういいよ。もう、いい」
力なくすべてを投げ出して、アニはまた背中を向けて蹲ってしまった。
「……アニ?」
「もう誰とも、関わりたくない。あんたとも、もう顔を合わせるのも嫌だ」
今回の巨人の襲撃で多くの友人や同胞たちに別れを告げなければならなかったこと、アニにとってはきっと、想像を絶するほどの深い傷を負わせることになったのだろう。アニの態度からようやく〝それ〟の輪郭が見え始めた気がした。
あ、いや、もしかすると、僕が知らない何かが、アニの中にはあるのかもしれない。こんなに取り乱しているアニを目の前にして、僕はいっそう考えを深めた。〝あの〟アニが本当に取り乱しているのか、それがにわかには信じられなかったという気持ちも、なかったと言えば嘘になる。
「……もしかして、ご家族に何かあったの?」
それからアニの話によく登場する人物が頭を掠めた。
「あ、お父さん……?」
尋ねたあとに、しまった、と思った。もし本当に今回の巨人襲撃でお父さんに万が一のことがあったなら、それを思い出させることになってしまうからだ。……けれど、僕の中の知りたい欲も抑えられなかった。何にアニがこんなに取り乱しているのか、それを知りたいと思う。
そうだ、アニにあんなにすごい体術を教えた人だ、兵団組織にいてもおかしくはないだろう。
「……違う」
僕が答えを待っているとアニは肩の力を抜くようにため息を吐いた。
「父は、巨人の脅威から程遠い場所にいる。……いや、ある意味で、一番巨人の脅威に晒されている場所とも言えるかもしれない」
何を言っているのかいまいち掴めなくて、僕は首を傾げた。
「……とにかく、」
僕の思考を遮って、アニは言葉を挟んだ。
「私とあんたはもうこれきりだよ。明日からは顔を合わせても、もうあんたとは話をしない」
「え、どうして」
「もう、誰とも関わりたくないんだ」
まるで自分に誓いを立てるように、川面に向かって言葉を綴っていく。その姿は、あまりにも小さくて孤独で……、そして、言葉に換えられない切なさを含んでいた。
「……それは、失うのが、――こわいから?」
「……ッ」
性懲りもなく、僕はアニへの質問を続けていた。だって、アニの言動がそう言っていたからだ。……この先に失う未来があることが耐えられなくて、ならば先に失っておこうと、そういう思考のように見えた。
そして図星だったのか、アニは動揺したように喉を鳴らせたあと、慌ててまた顔を隠すように俯いた。
アニが見せたその反応だけで答えがわかった僕も、静かにまた川面に視線を落とした。
「……わかるよ……僕だって、失うことはこわいよ」
せらせらと小川が流れる音が耳に止まる。ずっと僕たちを宥めるように鳴り続けていたそのささやかな音が、とても心地よく流れていく。
そう、例えばこんな些細な時間でも――。
「でも、例えばアニと出会えたこと、過ごした時間……どれも、嘘だったら……そのほうが僕はつらいよ」
それを聞いたからなのか、アニは少しだけ顔を上げた。しかし特に僕に視線を向けることはなく、せせらぎの隙間に静かに言葉を紡いだ。
「……私は――、」
そしてまた、途切れる。またその表情をくしゃりと歪ませて、慌てて口を瞑ったようだった。
そんなに苦しんでいるのなら、いっそ言ってくれたらいいのに。そう心の底から思った。
「……どうしたの?」
「……言わない」
けど、アニの返答は変わらなかった。頑なにアニは、今自身が抱えているものを晒そうとはしなかった。
「いいんだよ。僕は聞いてるから」
念を押してみようと思い、僕はアニの顔を覗き込んでみた。強引さでどうにかなればラッキーだなと思っていたが、
「うるさい! だからだよ! だから今あんたと一緒にいたくなかったんだ! こんな……こんな……っ!!」
また先ほどのように切羽詰まった表情で、声で、思いっきり返り討ちに遭ってしまった。
……どうやら僕は、まだアニの中で信用に足る人物になれていないのかもしれない。ふとそう思ってしまったら、あっという間に僕の中にまで孤独感が入り込んできた。
「……ごめん。ごめん、アニ」
それでも僕は、アニの隣を譲ることはなかった。
――それでも僕は、アニに一人じゃないよと、伝えたかった。
それからまたしばらく二人で沈黙していたと思う。アニのほうからしていた啜り泣くような音はもう止んでしばらく経つ。
それなのにアニはずっと川面を眺めたまま、そこを動こうとしなかった。
それも、ここまでのようだった。
「――……ば、ならない」
「ん?」
アニが確かに何かを呟いた。ただ、あまりに無防備だった僕は、それをほとんど聞き取れなかった。
しかしそんなことはアニにとって重要なことではなかったのだろう。アニはいきなりその場で立ち上がり始め、それを見ていた僕を置いて、颯爽と一歩を踏み出していた。
「……アルミン。そろそろ兵舎に戻るよ」
「あ、うん。大丈夫……?」
――その表情は、明らかにこれまでと違っていた。何かを決意したような、受け入れたような、芯のある眼差し。けれど、不安の色も濃く残った顔色。
それが僕の問いとともに、いっそう強く意志を持ったのがわかる。
「このクソッタレの世界で、私は生かされていることを思い出したよ」
アニがここに座っていた長い時間をかけて導き出した結論を聞いて、深く共感するような気持ちが湧き上がってきた。
「……アニ……」
そうなんだ、この世界は、強い者が弱い者を食らう、親切なくらいわかりやすい世界なのだ。その中で、僕たちは生かされている。
「おやすみ、アルミン。」
アニは僕が立ち上がるのを待つこともなく、力強く地べたを踏みながら歩き始めた。
それを見てようやく立ち上がった鈍臭い僕は、
「あ、うん、おやすみ! また明日ね!」
迷いを捨てて立ち去っていくその背中にそう投げかけるのが精一杯だった。
アニが立ち直ってくれたなら嬉しい。……けれど、あの諦念を含む表情を見て、僕は純粋にそれを喜べなかった。もしかしたらアニは、完全に〝何か〟を諦めてしまっただけなのかもしれない。
翌日以降、アニを見かけて話しかけても拒否される素振りはなく、むしろ昨晩のことがなかったかのように振舞われた。アニが言っていた『これきりだよ』という言葉が忘れ去られていたことには安堵していたが、アニが何かを決意したような表情はしばらく僕の頭から離れなかった。
おしまい
あとがき
みなさんお久しぶりです!
いかがだったでしょうか。
進撃を見返しているときに、ミーナの亡骸に向かって「ごめんなさい……」とぼやいているアニちゃんを見て、唐突に書きたくなりました( ;∀;)
あのトラウマ的状況から、どうやって数日後のソニビン殺巨人犯の洗い出し現場まで我を取り戻したのかというのを書きたかったのかも。。
アルアニカプ厨なのでアルミンくん絡めてスンマソ♡
でも悔いはないです。
アニちゃん……本当に戦士として歩まなければならない人生……つらかっただろうなあ……( ;∀;)
ご読了ありがとうございました!