火垂るの吐息
すう、と、星空から空気を吸い出すように吸気した。ひんやりと冷えきった暗闇に包まれているというのに、温かい、そして焦げ臭い空気で肺が膨らむのがわかる。苛立ちのままライターの蓋から指を下ろせば、独特の金属が擦れた音を響かせて、明かりが消えた。星空と夜景の間で、咥えた煙草の先端が、淡くゆらゆらと揺れ始める。
もう一度、すう、と大きく肺に空気を取り込む。もちろん、煙草を通して。……これほどまでに澄んだ空気をわざわざ汚してから吸い込んでいることが、少しだけおかしく思えた。見上げていた星空から、目前の夜景に視線を落として、もう一息吐く。まあまあ、綺麗だ。まあまあ。
先ほどまでの苛立ちが十としたら、今はようやく七くらいまでは落ち着いただろうか。どうしてもロシアの態度が許せず、逃げるようにここベランダに飛び出して来ていた。あいつを置き去りにしてきたことに、罪悪感はまるでない。むしろあいつは反省しろ。
おそらくは既にぐーすかと昏睡状態であろうロシアに届かぬから、ここロシアの夜景に文句を垂れてやった。
ふ、と、気づく。背後でがたごとと音が聞こえている。てっきり寝ているかと思っていたところだが、これはまるでロシアが転げ回りながらこちらに向かっているような音だ。ぎり、と身構え、絶対ふり返ってやるもんかと意思を固めた。
それとほぼ同時だったと思う。背後にあるベランダのドアから破壊されたような派手な音が響き、
「ぷろ〜いせ〜んく〜んっ」
「うわっ!」
存在自体がでかすぎるロシアが、こともあろうか歌いながら覆いかぶさってきやがった。苛立ちが一気に復活して、抗議しようと思ったところ、目を回すようにくるりと身体を返される。
「はっ、む! む、んっ、」
慌てて安全なところに手を伸ばして、どちらかが火傷をしないように配慮した俺様に対して、ロシアが遠慮のかけらもなくねじ込んでくる舌は、そのままウォトカの味だ。ひりひりするし、消毒液みたいで尚更腹が立つ。
「んっ、おい、こら……っ、」
無理やり押し返そうとしたが、酔っ払ったこいつはビクともしない。それにも腹が立つ。いつもは手加減してやがんだ、くそ。
最終手段よろしく、これ以上続けるようなら鳩尾をぶん殴ってやろうと思った。いや、舌を噛んでやったほうがいいか。
熱烈な吐息を含んだ舌先が、上顎から歯の裏を撫でて通る。アルコールのせいだ、くらくらして、よし、噛んでやる、そう脳みそだけが一拍遅れで決定を下した。
それを察したのか、運がいいだけなのか。気配が少しだけ離れて、視線が唇に移ったようだった。
「――……怒ってるの?」
ひた、と今度は真っ直ぐに俺様の眼を覗き込んでくる。顔色一つ変えずに泥酔しているくせに、それでも眼の中だけはきらきらと夜景をよく反射していた。幼気を装うその表情にも、一発拳を入れてやりたい気分だ。
「ああ、かんかんに怒ってる、」
言い終えるかどうかのところで、また唇に食みつかれた。ちゅ、ちゅ、と二回、重なったところから音が漏れる。
また離れたかと思うと、戻った視線のせいで息が苦しくなる。それに、やけに痛い空気だと思ったら、ロシアの吐息が吸える距離だった。こいつの中には、ウォトカが巡っているのを実感する。
「――酒くせえ、ほんと腹立つ」
あしらうように追い返して、かき消すように呼吸いっぱい、煙草を通して空気を取り込んだ。やっぱこっちのほうがよっぽどましだ。……精神衛生上も。煙草が通りしなに身体の中をすっきりさせていく。
ふうう、と口を歪めて横から息を吐き出す様子を、すみれいろの夜景は静かに見ている。すべて吐ききってもなにも言わないので、ちらと一瞥してやると、にんまり、いつもの腹立つ笑顔を浮かべた。にこにこにこにこ。
「ふふ、ぼくはねえ、君の煙草の匂いは、嫌いじゃないよお」
まるで噛み合わない会話は、せっかくまた落ち着きかけた苛立ちを、丁寧に構築し直していく。
そもそも俺様が腹を立てているのは、その染み出している酒の匂いのせいだと気づかない。余計に苛々が重なって、またロシアを遠ざけるように煙草を吸った。触れようと思えば、互いの唇に触れられるような距離のままだ。
――しばらく前から俺様が来ることは決まっていた。公務のあと、予定よりも幾分も遅くになっちまったが、来てみりゃロシアが泥酔してやがる。仕方なくへろへろになったこいつをベッドに寝かせて、一人で苛立っていたってわけだ。ものすごく誠実な謝罪の言葉がない限り、絶対に許してやんねえ。そう心に誓って、未だに酒のせいでふわふわと笑っているこいつを、咎めるように睨みつけてやった。
「俺様はな、泥酔したお前を介抱しに来たわけじゃねえんだよ」
いつも以上に鈍感になっているロシアに、わかりやすく教えてやった。きょとんと小首を傾げて聞いている顔に、まだ煙の残った吐息がかかる。意図したものではない。
「……じゃ、なにしにきたの?」
いろんなことを含めて、ロシアの目元がいやらしく笑う。『介抱する以外になにが』と言いたいんじゃない。こいつは俺様がなにを期待して来たのかと問うている。別に、ロシアに会えればそれでいいとも思っていたし、だが、会うからには多少の触れ合いだって期待はしていた。ああ、そうだ。期待してたとも。俺様は苛立ちの原因を今更ながらに自覚したが、それすらこいつの思う壺だと思うと、途端にはらわたの煮え方が変わった。これまではぐつぐつと煮詰めるように苛立っていたのに、唐突に、吹き上げる激昂のように、懐の裏側からの震えが――
「……っ」
言葉を飲み込む代わりに、喉が鳴って、
「ねえ、教えてよ」
ロシアはそれすら見逃さない。酔っ払っているこいつは、こういうところは抜け目なく、こういうところだけ敏感だ。さらりと俺様のシャツの中に手を滑り込ませて、いつもより少し水っぽい瞳で俺様を捉える。それからまた、影が、被さる。
「ん、はぁ、んっ、」
握る煙草のせいで上手く抵抗ができない。ねとりと絡む舌先に、ウォトカと煙草の味が混ざり合って、変な心地を呼び起こしていく。は、は、と息が上がる。腹が立つ。なんで、こんな、勝手だろ、まったく。加えて、こいつのペースになっているのも気に食わない。
ロシアが息を吸った瞬間を見計らって、空いているほうの手のひらで互いの唇を隔て、ロシアを引き剥がしてやった。なんでも思い通りになると思うなよ。そう見せつけるように、また深く煙草を一呼吸吹かしてみせる。じっと見つめ返す暗く夜を映す瞳は、もはや夜景を孕まない。ひたすらに俺様のことを見ている。まるで待てを言われた犬っころのように、物欲しそうにしているのが小気味いい。
もう一つ、煙草を通して呼吸をする。
「……そんな焦らし方、どこで覚えたの?」
余裕をなくしている表情が、大変よろしい。
「別に焦らそうとしてるわけじゃねえんだけど」
「うそ。すごい焦れるよ」
まだ頬の横にそれを構えているからか、しおらしく俺様の肩に顔を埋める。柔らかい髪の毛が頬をくすぐって、思わず空いている腕を背中に回してしまった。切なげな呼吸も聞こえる。それだけのことだというのに、俺様は大いに気分をよくしてしまう。
「……もういい?」
「たった一本も待てねえのか、ロシアちゃんは」
調子に乗って笑ってやっても、切羽詰まった声色は変わらない。
「待てないよ、」
シャツの中に入れたられた手が、さわさわと忙しなく脇から背中を撫で上げていく。まだ気づかぬふりができる。熱くなった大きな手のひらからは、それだけでこいつがいかに余裕を欠いているのかがわかる。
「煙草の匂いも好きだけど、君の汗の匂いのほうが、もっと好きだな」
手が回る。わざとらしく腹をゆっくりと撫でるから、意固地になって気づかないふりをする。はらはらと煙草の先から灰が落ちる。火種を含んでいるものが、きらきらと目の端で踊りながら下る。
また余裕を取り戻すように、煙草に呼吸を通した。煙を肺の中に溜め込んだまま、
「はっ、これだから酒に酔ったロシア人は、っ、」
言っている最中にまた口を塞がれた。俺様の中に残っていた煙の塊が、行き場をなくしてロシアの口内へ渡り、もわもわと少しずつ吐息と一緒に熱に溶け込む。
そそそと遠慮がちに動いていた手が、シャツの中、敏感なところに触れて、舌を絡めながら身体がひくりと跳ねた。……だめだ、俺様にも余裕がなくなってきている。拒否する意志すら湧かない。
「ん……んぁ、おい、」
まだ一筋の炎を握ったままだ。伝えようとして呼びかけると、ロシアは厚いまつ毛を揺らして、
「ぼく、もう待てないや、」
片手間だったそれを取り上げられてしまった。伏せられていた瞳が、ゆっくりと俺様を捉える。重厚な動悸を伴うほどの期待感が、どくどくと俺様を打ちつける。
嫌味な手つきでベランダの柵の上、取り上げられたそれを一滑り。湧き上がっていた性急な衝動を抑えていた小さな明かりは、静かに擦り消されてしまっていた――
おしまい