うれしいひと
「来ないでっ!」
思わず大きな声で、彼の行く手を阻んでしまった。
「けどよ、すげえ音してんじゃん! 悲鳴みたいな声も聞こえるし!」
「それでもっ、だめなの……!」
かっこいいのかかわいいのかよくわからない小鳥の柄のエプロンだけがおどけて見えるけれど、なんて言ったってぼくたちは互いに真剣だ。はたりと彼の視線が一羽の小鳥を一瞥して、またぼくの前に戻ってくる。心の底から心配そうな彼に、それでも必死に立ちはだかるのには理由がある。
今日はプロイセンくんのお誕生日。なにか、なんでもいいから、せめて普段のお返しがしたくて、ぼくは彼に宣言したんだ。――「今日さ、君にケーキを作るよ」って。彼の手を借りず、一人で。
それから二人でやんややんやと食材の買い出しに行って、彼の希望でショートケーキを作ることになった。生クリームもたっぷり買ったし、苺も……ちょっと高かったけど、ちゃんとケーキを埋め尽くせるようにたくさん買った。帰宅してから、さあやるぞ、と普段は彼が使うエプロンをぼくが締めたところで、当たり前のように台所に踏み込もうとするから、そこで一度、盛大な一悶着があった。
ぼく一人でやりたいから、でも心配だから、の押し問答は五分ほどでようやく収束して、彼は渋々と居間のほうへ向かっていった。紙をめくる音が聞こえていたから、本かなにかで気を落ち着けていたんだと思う。……確認したぼくは改めてタブレットに映しておいたレシピを目で追う。そもそもケーキを作ろうと思い立った理由である、メイプル風味のスポンジのレシピだ。……これは彼には内緒なんだけど。ふふ、と期待感に胸が躍る。まず始めにオーブンの加熱を始めるのだと書いてあって、「もう?」と半信半疑ながらも、素直に指示に従う。
次の手順を画面で確認しようと目を近づけたのだけど、そういえばプロイセンくんの勧めでケーキミックスを買っていたことを思い出した。タブレットからケーキミックスの箱の裏に印刷された手順に目標を改める。……まったくケーキミックスなんて初心者向けのものを買わせておいて、それでも心配なんて、どれだけぼくのことを〝できない子〟だと思ってるんだろう。少し傷つく。
……と言ってる側から早々に早とちりして、大きめのボウルにケーキミックスの粉末をぶち込んでいた。先に卵や牛乳を溶かないといけないことに気づいて、残っていた小さめのボウルに卵と牛乳を入れた。なにも考えずにプロイセンくんが出してくれたハンディミキサーの電源を繋ぎ、ボウルにさしてスイッチをオン。
――最初の悲鳴はそこで上がった。
ミキサーを斜めに構えてしまっていたらしく、目で追うよりも先に卵と牛乳の飛沫が頭上の戸棚に飛び散った。びっくりした。いや、本当に。それから、ああ、これどうしよう、とパニックになった。今ので少し減ったよね。分量大丈夫なのかな。……結局は、それらに「ごめんね」と謝罪をしながら別のお皿に移して、後でプロイセンくんになにかしてもらうことにした。改めてボウルを洗い、また同じ数と分量だけのそれらを入れる。今度こそ、角度を確認してスイッチ、オン。
「……ほ、」
思わず安堵したのは、ひとまず飛沫が上がらなかったから。幸先いいんじゃない、と鼻歌を歌いそうになったときには、一度失敗していたことは頭の中からきれいさっぱり忘れ去られていた。ガガガガとミキサーがボウルの底面と喧嘩している音が響いているけど、きっとこんなものだよねと調子に乗って混ぜ混ぜを進める。
頃合いを見計らい、それをケーキミックスの入ったボウルに移して、またミキサーのスイッチをオンにする。……うん、いい調子。ぼくは満悦になって、意外と料理って楽しいじゃん、と調子に乗りながらだまがなくなるまでそれを続ける。ケーキミックスの外箱に印刷されたレシピを追っていたぼくのケーキの生地は、これで無事に完成した。
――……って、あれ? 思わず首を傾げる。そういえばぼく、まだメイプルを一滴も入れていない。……はっと気づいたときには既に遅く、ぼくはタブレットの画面に映したレシピではなく、ケーキミックスの外箱のレシピを追っていたのだと思い知った。けれどここから勝手にメイプルを追加したりなんてこと、ぼくには到底できない。サプライズでやろうと思っていたことが一つ潰えてしまい、また少し残念な気持ちが侵食してくる。
だけどここで心を折らせてはいけない。気を強く持ち、次の段階へ目を向ける。
ここでパンとやらの準備らしい。ケーキの生地を入れる型のことを『パン』ということを今日び初めて知り、更にそれには油を塗ることも初めて知って、もう一回、最後に粉をふるってなんだ? とタブレットの操作にせいが出る。パンはもちろん丸型。よくわからないけれど、とりあえず手頃な油を塗って、それから粉ってなんでもいいの? と首を傾げながら小麦粉の袋を豪快にぶち開けていた。……悲鳴は上がらなかったものの、吹き上がった粉が目に入り、しばらく悶えた。……痛かった。やっぱり料理なんか楽しくない。
パンの準備を終えると、ようやく生地を型に流し込む。膨らむから半分くらいまでしか入れられないらしく、パンは二つに分かれた。予め加熱しておいたオーブンにそれらを丁寧に入れて、ボウルに残った生地を好奇心に負けて舐めてやった。いい匂いだったし、焼きあがっておいしいなら、今もおいしいはず、という謎の確信に寄るものだったけど、やっぱりおいしかった。出来上がりが楽しみで仕方がない。少し心を持ち直す。
さて、ケーキを焼いている間、デコレーションの準備をする。ホワイトチョコのプレートも買ってあるから、備えつけのチョコペンで『Пруссия』と名前を書いた。『с днем рождения』なんて、このプレートに書ける気はこれっぽっちもしなかったから苦肉の策だったけれど、それと一緒にほんの少しだけ歪になってしまったハートをいくつかあしらったので、まあ、いい出来としたい。そしてこれを冷蔵庫にイン。ケーキの生地を冷ます時間も必要だなと考えたら、使った調理器具を先に洗っておくと効率がいいと至り、それらをやっつける。――ケーキの生地は、ここで焼き上がった。
オーブンから取り出すときに、腕がオーブンの端に当たって悲鳴を上げること二度目。こんな凡ミスをするなんて……としくしくしていたら、廊下のほうから「大丈夫かー?」と声が聞こえた。「大丈夫ー」と応えるしかなくて、そう答えながら、しばらく患部を流水にあてた。
それから苺の蔕を一つ一つ丁寧に取り除き、生地に挟むための苺と、上に乗せるための苺とに分け、片方は薄くスライスした。回数をこなす毎に包丁さばきが軽快になり、思わず指を巻き添えにしそうになった。なんとか未遂で終わり安堵するも、ざわざわとした緊張感がぼくを叱る。……すぐ調子に乗ってしまうから気をつけなきゃ。
続いて生クリームを作る。このとき、ハンドミキサーでさっきとまったく同じ過ちを犯し、三度目の悲鳴を上げた。……冒頭の、プロイセンくんが台所に乱入しようとしたのが、ここだった。彼は粉まみれのぼくを軽く注意して、不服そうにまた居間に戻っていった。……だけど、ぼくが頑張っていることも少しは認めてほしいなんて、不満が伝染してしまった。一気にまた心の中が悲しい気持ちに塗り変わってしまって、もんもんとしたまま乱暴にミキサーをかける。……ああ、これはだめだ、だめだ、この心中は良くない。
けれど持ち直せない心持ちのままに生クリームは完成していて、冷やしていたスポンジを冷蔵庫から取り出した。まだ少しだけ温い気もしたのだけど、レシピには大体と書いてあったので、まあいいかと普段より少し大きめのお皿に乗せる。
それからそれに生クリームを塗って、苺を置いて、また生クリームを被せて。二つ目のスポンジを重ねて、回りにたっぷりの生クリームを塗りたくって。この作業に一番集中していたらしく、気づけばあっという間に立派なショートケーキ……しかも、ホールケーキが出現していた。ぼくが作ったとは到底思えないこの出来栄えに歓喜して、早く、早くプロイセンくんに見せたい! 早く見せたい! と心が跳ね始める。冷蔵庫からホワイトチョコのプレートを急いで取り出して、そっと真ん中に乗せてやれば……
ぼくが一人で作ったケーキが、ここに、ついにここに、完成した……!
「プ……! プロイセンくんっ! できた! できたよーっ!」
呼びかけながらも、これを前にしたときの彼の顔が浮かび、まだ妄想だというのにだらしなく顔が緩んでしまう。どれほど喜んでくれるだろう。笑って。一気に半分くらい食べちゃったりして。
「おお、ついにか!? 俺様待ちくたびれたぜーっ!」
居間から走ってくる音が聞こえて、慌ててまた台所の入り口に立った。彼の突入を間一髪のところで阻止することに成功。
「ダメ! そっちに持っていくから居間の準備してて! 電気消して! ぼくがろうそくつけて持っていく!」
成し遂げたことが嬉しくて、まだ若干浮かれて緩んだままだった表情で力説した。そうしたら彼は仕方なさそうに笑って、わかったわかったと残して居間に戻っていく。すぐに居間の電気が消灯されたから、暇だったらしいことがわかり、笑みがこぼれてしまった。……そうか、だから、ことあるごとにぼくの様子を窺っていたんだ。誕生日なのに寂しい思いをさせちゃったかなと思い返したけど、でも、目前に出現したホールケーキを見れば、それも意味のあったことだって思ってもらえるはず。頑張った甲斐があったなあと、改めて完成したケーキを見て綻ぶ。
「電気消したぜー! 早く持ってこーい! 早く食いてえぞー!」
「はいはーい! じゃ、いくよー!」
ろうそくをさし終えたケーキのお皿を持ち上げて、傾けないように細心の注意を払いながらキッチンの出口に歩を進める。居間の暗闇の中でゆらりと影が動いて、プロイセンくんが首を長くして待っているんだと実感したら、更に楽しくなった。廊下に出たことで靴下越しの感触がタイルから絨毯に代わり、目前に迫った居間を見据える。すうっと息を吸い込んで。
「はっぴばーすでーとぅーゆ〜」
ケーキと道なりを確認しながら、できる限りの高揚を持って奏でた。一歩一歩、彼の待つ居間に近づいていく。エプロンを外していないことに気づいたけれど、これも味かと諦めた。「はっぴばーすでーでぃあ〜」と差しかかったところで、とうとう廊下を突き抜け、真っ暗になった居間に踏み込む。あと一歩。あと一歩で、プロイセンくんの目前。遠目にぼくとケーキを捉えた彼が、おおっ、と声を上げる。嬉しい。テーブルに置いて、しっかりと眺めてもらってからろうそくを吹き消してもらおう。……あと、一歩で。
「っうわあっ!?」
――その〝あと一歩〟がどこかへ逃げていったことを、ぼくはいつ気づいたろう。
あっという間に真っ暗な視界が反転して、ぼくは……ぼくは。ああ、どすん、と……大きな音を立てて。
「……」
状況が理解できなかったせいだ、声も出なかった。
「……はあ!? おいロシア!? 大丈夫か……!?」
駆け寄る音が響き込んで、目前の、光を薄く透過させているカーテンをぼんやりと眺めていたぼくの視界に、プロイセンくんの真っ青な顔が飛び込んできた。
「……え?」
……尻もちをついて。ぼくは、転倒して。
もう既にわかってしまっていたのだけど、大事に抱えるお皿の上に先ほどまでの重量はない。こわくて手元を見られなくて、ずっと、心配そうにぼくのことを見ていた彼から、目を放さないようにしていた。
「ちょ、電気点けるぜ」
釘づけにしていた彼が気を利かせて、部屋の明かりを灯した。……その時点で、まだ誰も吹き消していないはずのろうそくが消えていたことも、知ってしまう。
「……うわあ……やっちまった……なあ……」
呆けるように彼が言うから、ついにぼくは手元を見やる。
……やっぱり、このお皿の上にあったはずのぼくの血と涙の結晶である、彼のお誕生日ケーキは……跡形もなかった。……どこにも。縁取るように蕾を置いた生クリームの残骸だけがあって、悲痛な叫びを上げていた。
「……え……え……」
ぼくの脇に、ぐしゃりと潰れたそれを見つける。『元々はケーキだったもの』にほかならないそれが、視界を殴りつけて。……悲しくて、悲しくて。悔しくて。
「は、派手に飛ばしたな……」
「え……」
他に言葉が出てこない。これは、現実だろうか。こんなに張り切って、こんなに苦戦して、こんなに頑張って作ったのに。……ぼくは自分の手でそれを台無しに……してしまったの? 彼にまだ見せてないのに。喜ぶ顔、まだ見ていないのに。これを頬張って、美味しそうに、嬉しそうに笑う彼を……見たかったのに。
ふるっと目元が震える。顔が強張っていくのがわかるけど、自分でやってしまったことで泣いて、更に彼を困らせるのだけは避けたかった。だから、目頭がどんどん熱を上げている中でも、なにか言わなきゃ、なにか言わなきゃ、と焦って言葉を探した。
その内に見兼ねたプロイセンくんのほうから、
「……おい、大丈夫かよマジで……」
ぼくの視界の前で手をはためかせて確認してきた。
「……大丈夫じゃ、ない……かも……」
「……だよな……でも、これはもう、どうにもできねえっつうか……」
今度はこわくて彼の瞳を見返せなかった。きっと楽しみにしてくれていた。彼の大事なお誕生日の数時間を使って……きっとその間も退屈な思いをさせたよね。考え始めるとどんどん否定的なことが湧いて、情けなさに拍車がかかっていく。
「……な、ロシア。こんなこともあるって」
慰めようとしている彼の声がいやだった。怒ってくれてもいいのに。いや、怒ってくれたらいいのに。なにしてんだよお前、だから俺がやるって。そう思っているなら、はっきり言ってくれたほうが気が楽なのに。あんなに頑張った自分にも申し訳なくて。こんなことなら、いっそ初めからケーキを焼こうなんて、
「――ふンがっ!?」
唐突に視界がぐしゃっと真っ暗になった。ねちょりとまとわりつく感覚と、甘い匂い。ぼくの顔面を覆っていた。息ができずに口を開けば、落ちてくるふわりと溶けるようなクリーム。なにが起こったのかは、すぐにわかった。生クリームにまみれたケーキスポンジが、ぼくの顔面に飛んできたのだ。どうしてそんなことが起こったのかは、
「いつまで不貞腐れてんだよ。俺様の誕生日をぶっ壊す気か?」
その一言で理解した。
ぐちぐちと嫌悪感をこねくり回していたぼくを見限った彼が、顔を目がけて、さながらパイ投げのように、床に落ちたケーキの欠片をぼくにぶつけっていた。それにいらついた拍子に、全部、吹っ切れた。
適当に瞼を覆っていたクリームを落として、
「それにしたってひどくない?」
脇に落ちていたスポンジを掴むと同時に、彼の顔に塗りつけていた。ぶふっと変な声が出る。仕返し。あんなに悲嘆に暮れていたぼくを邪魔したことにも苛立ったし、ぼくがあんなに頑張って作ったケーキをこんな風に使うなんてとも思った。
だけど、今にも溢れそうだった涙は引っ込んでいて。とどのつまりは、安堵を与えられていた。
「やりやがったな」
「君が先でしょう、もう、信じらんない。ニットって洗濯めんどうなんだよ?」
「はあ、誰が洗濯してると思ってんだよ」
互いが顔や服についたベトベトの生クリームを払い落としながら、唇を尖らせて応酬する。エプロンをかけっぱなしだったぼくだけど、その下に着ていたニットにも生クリームがべったりとついていた。これは本当に洗濯するのが大変そうだ。
「そう、だから、君は自分のためにも、こういうことはしないほうがあがっ!」
今度はしゃべっているところに崩れたスポンジの甘さがぶつかってくる。……ひ、ひどい! 今狙ってたでしょ! 抗議をすぐにでもぶつけ返したかったけれど、口の中に入り込んだ食感のせいで、すぐには叶わない。
「ケセセセ! つべこべうるっせえんだよ! 今日は俺様の誕生日だぜ? 好きなことやらせてもらう!」
「あー! もうっ!」
勢いとともにまた顔についた汚れを払い落とすと、深く安心しきった眼差しの彼と目が合ってしまった。もう一度、ケセ、とその口から漏れる。
「……だからさ、お前も機嫌直せよ」
不意に寄ったのはスポンジではなく、プロイセンくん自身だった。れろりとぼくの鼻頭をその小さく薄い舌が撫でて、くちゅくちゅと味わうように咀嚼を見せた。
「……うめえ」
嬉しそうに笑う彼のせいで突沸したのは、さっき消化しきれなかった悔しさで。
「……うっ、」
それ以上見せられないくらい、顔面が歪んだのが自分でわかった。
「ん?」
「本当は、ちゃんとしたの、食べてほしかった……っ」
その悔しさが形を作って、ぼくの身体から吹き出していく。みるみるあふれて、みるみるこぼれて。彼は見兼ねてぎゅっとしてくれて、耳元で優しく教えるんだ。
「誰にだって失態はあるぜロシア。泣くんじゃねえよ、泣き虫だなまったく」
しっかりと背中を撫でてくれる。泣くなと言いながら促すような彼の手つきに、
「君に言われたくない」
なんて、恨み事すら浮かぶ始末だ。ぎゅっともう一度だけ強く抱きしめられて、ぼくは手放されたのだけど、改めて彼の舌の感触がぼくの頬を撫でた。
「……それにこれはこれでうめえし。いつもふわふわのマシュマロみたいなお前を食ってるみたいでよ、愉快だぜ、ケセセ」
まるでいたずらを楽しむ子猫のような舌使いで、また何度かぺろ、ぺろ、と舐められた。……こんなに彼に顔面を舐められたのは初めてだ。どきどきと、心臓がうるさく鳴っていて、それにようやく意識が向く。
「……じゃあ、ぼくも、食べていい?」
彼の腕を引き寄せて、じっと見つめて尋ねる。彼のお顔にもまた、ケーキの残骸は残ったままだから。ふ、とほくそ笑んだと思うと「なんで聞くんだよ」と自信満々な返答。
「ほら、ちょっとだけな」
彼にしてみればいたずらやじゃれ合いの延長なのだろうけど、どう考えてもぼくの腹の中にはそれ以上の衝動が潜んでいた。もし彼がそんなことにも気づかずにこんなことをしているんだとしたら、
「……うおっ?」
思い知らせてあげなきゃ。
手首を引いて、まずはプロイセンくんの手のひらを舐め始めた。指と指の間にもクリームはついているから、きれいに舐めとって。それから、もっと彼を引き寄せて、今度は他でもない、その可愛らしい唇に食みついた。
「んっ……ん、」
急なことに上手くスイッチが入り切らないのか、彼の返すキスは拙かったけれど、気にも留めずに、今度は少しだけ口の周りを舐め上げた。
解放するころには彼は先ほどとは別人のように真っ赤に蒸気していて、その唇には溶けるような甘さが詰まっていた。可愛すぎるよ、と伝える代わりに、ふっくらと膨れ上がった唇には触れず、一度だけ頬にキスをした。
「……さすがぼくじゃない? すっごいおいしい」
一瞬だけ呆然としていた彼を呼び戻すために笑いかけた。
「だ、だから、そう言ってんだろ」
応えるように笑う仕草がとても心地よくて、違う意味で泣きたくなってしまった。こんなにも簡単に、だ。
素敵でかっこよくてかわいくて心配性で……けれどたまにびっくりするくらい短気で。完璧とは程遠いけど、ぼくよりもぼくの扱い方を知っているプロイセンくん。そんな彼が、ぼくの前にいてくれることが不思議で不思議でたまらなくなって。『なんで』なんて悲しいこと、今は考えたくないから、その代わりにと別の感情を思い浮かべた。
「……ねえ、プロイセンくん」
「なんだ」
「お誕生日おめでとう」
「ケセセ、ダンケ」
ここにいてくれて、本当にありがとう。この日にぼくからお願いするのはおかしなことだけど、でも、
「こんなぼくでも、また一年、君の側にいさせてくれる?」
抑えられず約束をせがんでいた。言葉だけでもよくて。今はただ、そこからまたぼくたちが繋がっていけるように。――彼は得意の自信に満ちた笑顔でもって、すべてを一蹴した。
「なにくだらねーこと言ってんだよ。お前がいなかったら、この有能な俺様はいったいぜんたい誰に世話を焼きゃいんだよ」
それは確かに、なんて自分で思ってしまった。彼が面倒を見てきた人で、彼から離れられなかった人はいない。残るのはぼくだけ。ぼくだけのプロイセンくん。
「……うふふ」
「なんだよ」
「ねえ、このままお互いのこと、食べ尽くさない?」
身体を少し前に倒して、プロイセンくんに影と一緒に唇を寄せる。わざと吐息がかかるくらいの距離まで迫ってやると、べしっとぼくのおでこをその手のひらで容赦なく押し返された。そして「ばーか。調子乗んな」と立ち上がる。目で追うために見上げたまま「ええ」とぶーたれてやると、テーブルの上から布巾を手に、彼が戻ってくる。
「あのな、まずはこの惨劇の片づけ。それから、シャワー入って。んで、スーパー行こう、スーパー」
「スーパー?」
床にぶちまけたケーキをお皿に救出しながら、ふわりとした笑顔でぼくを捉えた。
「改めて、ケーキ食おうぜ。今度はちゃんと腹満たしてさ。それから、」
「……それから?」
「腹じゃないところを、いっぱいにしようぜ」
また快活に破顔して。こんなしわくちゃのお顔がかわいいって思うのはおかしいはずなのに、可愛くって可愛くって仕方がなかった。見入っていて反応を返さなかったぼくにプロイセンくんは、
「な、俺様もお前も、逃げねえしさ」
小首を傾げてのだめ押し。そんなことを言われちゃったら、ぼくはそれ以上つべこべ言うわけにはいかない。
「……わかったよ。君がそういうなら、そうしよう」
体勢を改め、ぼくが丹精込めて作ったケーキを、二人で丁寧に拾い上げていった。
*
居間の惨劇が片づいたあと、結局シャワーは後回しにして顔だけ洗った。それからぼくとプロイセンくんは彼の言ったように、地元のスーパーで、出来上がりのケーキを買った。ショートケーキが二切れ入っているだけの、質素なやつだったけど。散々積り散らかした雪をざくざくと踏み分けながら進んでいるのは、スーパーが徒歩五分のところにあるからだ。車庫から車を出すために雪かきをする手間を考えたら、歩いたほうが楽だった。
目が眩むような雪の白さも、真っ青な空や、行き交う子どもたちが背負う鮮色のお陰でそんなに気にならなかった。よくよく考えたら買い出しどころか、二人で並んで歩くことすらとんでもなく久しぶりのような気がして、どちらともなくわくわくと足取りが軽くなっている。
「あーあ……それにしても、ぼくの手作りケーキ、食べてほしかったのもあるんだけど、見てみてもほしかったなあ。飾りつけも頑張ったから、完成度高かったんだよ」
惜しむように隣で歩く彼に零すと、最小限の動きでちらりと一瞥された。
「そうか。まあ、確かに惜しいことはしたよな。俺様もどんなもんか見てみたかったぜ」
買ったケーキは彼が持っている。申し合わせたようだけど、どちらがそうしようと言ったわけではなかった。ただぼくは、また転けたらいやだなと思ってはいた。それに、ガサガサと音を立てるビニール袋を、なるべく振らないように心がけながら静かに歩く彼は、とても不似合いで面白かった。
「うん。せっかく君にかっこいいところ見せられるチャンスだったのに」
「はあ?」
なにが不服だったのか、彼が思いっきり唸って非難の目を浴びせてくる。
「勘違いすんなよ。かっこいいは俺様のための言葉だ」
思っていた内容とあんまりにもかけ離れていて、思わずふふと綻んでしまう。
「またよくわからないこと言ってる」
「それに、かっこいいお前なんか気色悪いだろ」
「うわ、すごい言われよう」
茶々を入れながら適当に返していると、唐突にぼくの腕が引かれた。振り返れば彼は立ち止まっていて、いつになく真剣な眼差しで、まっすぐにぼくを見ていた。
「まあ、だから、なんだ」
「うん?」
「お前がかっこいいかかっこ悪いかは、そんな大した問題じゃねえんだよ」
なんとも容易くそう言ってしまって。
「俺様がお前を評価してるのはだな、その、俺様を選んで、側に、いてくれてるところ……だろ」
まっすぐにぼくを捉え続ける瞳の奥は、ふわふわと揺れていた。そこに映るぼくも大層間抜けな顔をしているのがわかる。
――ぼくは、息を詰まらせていた。どきどきと血の巡りが早くなっていく。
先ほどぼくの中に膨れ上がっていた思考が蘇る。彼が側にいてくれることを、心底不可解に思って、同時に心底感謝したぼくに対して、もしも彼が、同じことを思ってくれているのだとしたら……
思わずまたうっと熱が込み上げて、慌てて顔を隠した。
――ぼくはいつだって、こんななのに。
「ぼくを選ぶ君は、見る目ないよね、馬鹿みたい。なんで、こんな、ぼくと、」
気の利いた返事なんか、できるわけがなかった。言葉が詰まって上手く伝えられないけれど、プロイセンくんの存在は、ぼくにはあんまりにももったいなくて。それを、少しでも伝えたかったのだけど。……完全に軌道を見失ってしまった。
「えっと……おーい、ロシアちゃーん? なんで俺様悪口言われてっかわかんねえんだけど?」
わざと俯いたぼくの顔を覗き込んで、けれど、最終的には興味もないようにすぐにまた広すぎる空を仰いでいた。大きく深く息を吸って。
「お前を選ぶこの俺様こそが! 最っ高にクールだろ! ケセセ! 讃えてもいいんだぜ!」
がさりとビニールの音が鳴る。ちらりと瞳を上げると、彼が大きく両手を広げて高笑いをしていた。……馬鹿みたい。なんで、そんなに。なんでもないことのようにぼくの隣にいてくれるの。嬉しさが止めどなくて、口からこぼれる言葉を、止められなかった。
「もうやだ……プロイセンくん……すき……」
「ケセセ、それも知ってるぜ、今更よ」
彼の指先がぼくのコートの裾に触れる。引かれたことで呼ばれているのだと知り、控えめに顔を向けた。――彼はいつもの楽しそうな笑顔で、ぼくを待っていた。
「ありがとうな、ロシア。今年の誕生日もお前がいてくれて、俺様最高だぜ」
「うん……うん、」
もったいなかったけど、やっぱりずっと見ていることはできなかった。ぼくのほうが彼がここにいることに感謝をしているのに、むしろ、彼がいなかったらと思うと、身の毛もよだつような心地になるのに。彼はまったくそれが見えていないように笑っている。
そしてなにより。……なんで今日はそんなに素直なの……ったく、恥ずかしい……。お誕生日ハイなの……?
「ケセセ。ほら、とりあえず帰るぞ。もたもたしてたら、この俺様だってケーキ落としちまうかも知れねえからな!」
白い息を豪快に吐き出しながら彼がぼくの前に右手を差し出した。
「うん、プロイセンくん、帰ろう」
ぼくがそれに左手を重ねる。
手袋越しでも、触れて、彼の温もりが伝わる。愛おしさが。溢れた温かい気持ちが勝手に頬を綻ばせて。
「……お、おう」
今ごろになって、彼は少し照れたように口元を歪めた。
生まれてきてくれてありがとう。ぼくの側にいてくれて、ありがとう。君の誕生日を君よりも喜んでいるのはぼくだってこと、帰ったらしっかり伝えるからね。
Happy Birthday * Prussia ♡