3. 水面を追う②
それからと言うもの、待てど暮らせど、支配人は一向に私に〝割りのいい客〟を当ててくれることはなく、私は自力でゲストに同伴やアフターの誘いをするようになった。もちろん以前から誘ってくれていたゲストへも、以前からは考えられないような足の軽さで了承していた。
すべてが上手くいくわけではないが、いくつかの誘いは成功して、ときどき店の時間以外でも客に会うようになった。
だが、それだけで私の収入が増えるわけではない。どうにかして収入をあげなければ、と思う反面、万が一にでも支配人が割りのいい客を見つけてくれたときに、〝処女〟でなくなっているわけにもいかないので、私は悶々としながら過ごした。
支配人の中で、私の処女権を売る意思がなくなってしまったのか、それともただシャロスほどの相手が見つからないのかはわからない。だから悶々としている。直接支配人に聞けたらよかったのだが、あれから支配人はめっきり談話室に顔を見せなくなってしまった。年末が近づいていることで忙しくしているのか、あるいは過去を打ち明けたことでばつが悪く感じているのかもしれない。いずれにしても、私の決意ばかりが先行して、何にも成果を得られない日々はとても苦しかった。
シャロスとは連絡先を交換していたのだが、当時の私は気持ちが悪すぎてすぐ捨ててしまっていた。その自分の行動をこれほどまでに後悔すると思っていなかった私は、本当にこれからどうしたものか、とベッドの上で転がりながらいろいろと思考を巡らせていた。
ちょうどそのときだっただろうか。外から何やら騒がしい声が聞こえて、私は耳を澄ませた。よく聞けばその声は明らかにヒッチのもので、それがキャッキャッとはしゃぐように弾んでいた。
そういえばヒッチがホールに出なくなってもう二週間くらいは経っていたように思う。彼女を身受けした男の準備が整うまでここにいると言っていたヒッチは、そういえばいつここを出ていくのだろう。
疑問に思いながらひょい、と起き上がり、窓の側へ寄る。外を見下ろすと、ちょうどヒッチと男のシルエットが軒下に入っていくところだった。
――おお、もしかしてあれが、ヒッチの旦那になる男だろうか。
私はそのまま慌てて廊下の方へ駆け寄り、扉を開いて階段を登ってくる男女の気配へ目を向けた。二人はそのまま三階へ上がっていく。おそらく支配人の事務所に向かっているのだろう。……ということは、いよいよヒッチがここを出ていくときがしてしまったのか。
当然、これからここを出ていくヒッチにも、支配人のことは話していない。ほかの女から支配人が昔は男娼だった話は聞いたようだが、彼の借金のことは口止めされていなくても話せたものではない。これからここを出ていくヒッチに、そんな心配事をくれてやるのは酷だと思ったからだ。
私は再びベッドに横になり直して、また天井を見上げた。
背の高い男と仲睦まじ気に腕を組んでは「やめてくれ」と照れた男に腕を払われていたヒッチ。彼女の足取りがとても楽しそうに嬉しそうに弾んでいたのは、ここから見てもわかることだった。
こうやって、支配人にはしなければいけないことは山ほどあるのだろう。それはわかる、わかるが……いつまで経っても客を当ててくれないことに関してはやはり悶々としてしまう。私にできることは微々たることかもしれないが、それでも居ても立っても居られない私の気持ちをどうしてくれるんだ、とぶすくれる。
せめて私がシャロスの連絡先を捨てさえしなければ、……何より、ちゃんとあいつの要望を叶えてやっていれば、三百万とは言わず、五百くらいは稼げたかもしれないのに……いや、やりようによってはさらにいけたかもしれない。
とは言ったものの、それは既に取らぬ狸の皮算用に成り下がってしまっている。それが本当に悔しい。
同伴やアフターを増やしたところで私の売り上げが上がるわけでもないなら、私はほかにいったい何をしたらいいのだろう。……何をすれば、少しでも支配人の助けになれる。
――『……はは、気にしないでよ。僕は大丈夫だから』
あのとき支配人がこぼした空っぽの笑みを思い出す。
これがどうして気にせずにいられるというのだろうか。
もし支配人が何にも囚われなくなったら、彼はどんな人生を歩む人になるのだろう。そういえばこうなる前は『弁護士を目指していた』と言っていた……それはもう、弱きのために奔走する、英雄のようになっていたに違いない。
ふうわり、と支配人が笑顔を向けてくれたときのことが思い出される。その柔らかい笑み、それでいて精悍で芯のある海のような瞳。……ああ、好きだなあ、そんなため息が溢れてしまいそうになっていた。
――コンコン
突如として意識に飛び込んできたノックに驚き、私は上体を飛び起こした。
「アニ〜?」
そこから響いたのはヒッチの声だ。
私は支配人への挨拶を終えたヒッチが、別れの言葉を告げにきたのだとすぐにわかった。返事をしながら慌てて扉を開くと、そこにはいつもよりは少し素朴に着飾ったヒッチが立っていた。
彼女の周りに誰もおらず、一人でいることを知ってキョロキョロと廊下を見回した。
「今日であんたともお別れだからさ」
「……旦那は?」
やはり廊下に誰もいない。私はヒッチに正面から聞いてやった。ヒッチもヒッチで私が『旦那』と言ったのがおもしろかったのか「だん……!」と笑いを堪えていた。
「あはは、もう、あいつは外で待ってるよ」
「そう」
こんな見目だけでなく、性格まで派手な女を娶ろうとしている男の顔を見てみたい気持ちがあったのだが、それは叶わずに落胆してしまう。
「結婚式はまだいつできるかわからないけどさ、できるとしたら、ブーケはここの子たちにトスするつもりで投げるからさ」
ヒッチが珍しく素直で穏やかな笑みを浮かべた。私はそれを見て、何やらさまざまな感情を掻き立てられた気がした。……そうか、ヒッチはようやく、平穏を手にすることができたのか。
「……うん」
「あんたもしっかり幸せになりなよ。境遇になんか負けるな!」
「……うん、ありがとう」
どんっと音がなるほど強くヒッチは私の背中を叩いた。まるで喝を入れるためにヒッチのその快活さを私に注入してくれたようだ。
なんだかんだ、こいつは本当に面倒見がよくて優しい。それはこの短い期間だけでもよくわかることだった。結局、男に媚を売る女以上に、こういう根が優しい女が人気を集めるのだ。……いやまあ、ヒッチはその両方を持ち合わせていたような気もする。
「あんたは一足先に幸せになるんだね。嬉しいよ」
何はともあれ、目の前に立っている、私の幸せを願ってくれる友人に、私も同じように願をかけた。
「……ヘマして追い出されないように気をつけなよ」
私なりの言葉で言ってやったのだが、ヒッチはその量の多いまつ毛をはたはたと瞬かせて、
「ええ、なにそれ! 私は大丈夫ですよーだ!」
大きな口を開けて笑った。
本当に、ヒッチにこの幸せをくれた男に私も感謝したいと思う。きっとこんなに幸せなのだから、この二人はこの先も大丈夫に違いない。
「……うん、そう思う」
「……ったくあんたは。まあ、だからさ、多少無理してでもがんばんなよ」
「うん」
ヒッチはもう一度私の背中を叩いた。今度は少し控えめで、優しい手つきだった。
「じゃ、これで。短い間だったけど、ありがとうね」
「こちらこそ」
そうお互いに伝え合って、名残惜しくもしばし立ち尽くしてしまった。
思い返せばここにきてまず初めに話したのがヒッチだった。いろいろなことを教わり、私はそのおかげでなんとか今独り立ちできている。もちろんほかの女でも優しく指導はしてくれただろうが、ヒッチだから気づいた作法もある。
少しの沈黙の末、ヒッチが一歩を引いた。
「……じゃ、行くわ」
「うん。旦那によろしく」
「ハーイ」
よく見せていた軽快な背中をいつものように見せて、手をひらひらとさせた。
もしヒッチの退去が遅くなれば、今週末にパラダイスハート内で毎年企画されているという、年末恒例の従業員忘年会にてお別れ会をしよう、と話をしていたが、それもなくなってしまったことになる。
私はあまり寂しさを感じないように、さっさと部屋に身を引っ込めて扉を閉めた。ずっと隣の部屋にいて、いつでも見守ってくれていたヒッチはいなくなってしまう。私はいよいよ、頼れる人がいなくなったことを実感した。
いや、そもそもヒッチに今後のことで頼るつもりはなかったが、もし今回のヒッチの結婚の話がなければ、私は迷わず相談していただろうと思う。……だから、正直ヒッチを巻き込む前に彼女の結婚が決まってよかったと思う。もうこんな世界のことは忘れて、ここで被った不幸と苦労を覆すほどの幸せを享受してほしい。
私はようやく足元を見ていた視線を上げた。窓の外から光が差し込んでいる。……ここから私は、本当に一人で戦わなくてはならないのだ。
――『僕のためにも、がんばってね』
支配人のその言葉が脳裏をよぎり、よし、と自分で改めて気合を入れた。
とりあえずお金を稼ぐことがすぐにできないというのであれば、そのほかに方法がないのかを探ることにしよう。それを思い立った私は、それならまずは支配人の周りの情報を集める必要性に思い至る。そして支配人本人は私がいかなることにも関与することをよく思っていないのがわかっているので、ほかの情報源を見つけるしかない。
私はまた窓際に寄り、狭い空が見える繁華街の街並みを眺めた。
まさか支配人の会社のほうの部下に尋ねるわけにはいかないだろうし、おそらくここのほかの女たちに尋ねてもヒッチ以上の情報は出てこないだろう。……だとするなら、私はどこで探れば……。いっそのこと、支配人の留守を見計らって書斎を調べてみるかとも思ったが、三階にも女たちの部屋があり、白昼堂々そんな空巣みたいなことはできないだろう。そもそも、私には施錠された鍵を開けるような技術はない。……支配人を説得して――いや、一番現実的でない。
そこでふと、私はある光景を思い出した。
そうだ、支配人はこの眼下の駐車場で、仲良さげに話していたではないか。そう、支配人が幼馴染だと言っていた、あの警察官と。――あの警察官なら、私の知りたいことを知っているかもしれない。
確か、名前はエレン・イェーガーと言ったか。
私は自分の中でその名前を確固たるものとして、すぐに窓辺から離れた。
ここへきて半年はアフターや同伴以外での外出は禁じられているが、監視要員もいないと言われていたことも思い出し、私はすぐさま身体を翻した。開店までに戻れば、あるいは外に出ていたことなど気づかれないはずだ。
居ても立っても居られなかった私は、急いで一着しか持っていない外着を身にまとった。
携帯端末はGPSなどで追跡されている可能性を考えて、ここに置いていくことにした。おそらくこんな繁華街だ、街中に案内板のようなものはきっとあるだろう。そこで近くの交番を見つけて尋ねれば、目当てのエレン・イェーガーと接触できるかもしれない。
時計を見ると、あと少しで昼食の時間だった。寮の中を自由に動き回る女たちが唯一一ヶ所に集まる時間が近いのだと気づき、寮から抜け出すならこの時間が一番いいだろうと思い至った。
それから昼食の時間まではそわそわとした心持ちで過ごしたが、幸いなことに、その間に支配人も出かけていくのが見えた。
……これは、環境がすべて私を後押ししているような気がした。
寮を抜け出して支配人の情報を探るなら、今だ。今しかない。
私は廊下で歩く足音が聞こえなくなったのを確認して、そうっと部屋から踏み出した。慌てて靴を履き、念のために周りにスタッフなどいないか確認しながら、パラダイスハートの脇にある小道を抜ける。
こんな真っ昼間にこの街に出てきたのは初めてで、太陽の眩さに目が眩んでしまったように思う。気を取り直して、私はパラダイスハートの目前に走る大きな通りに沿ってそのまま早い歩調で歩き始めた。
夜からの営業に備えて仕込みをしている料亭や、玄関先を清掃している遊戯施設のビル。それらを横切りさらに歩くと、近くに少し大きめの公園が見えた。駆け寄れば、散歩をしている老人や、明らかに寝床として陣取っているホームレスなどがいた。
ぐるっと公園の周りを回って見たが、案内板のようなものはない。……読みが甘かったか、と思いながら辺りを見回していると、向かいから犬の散歩をしている女性が歩いてくることに気づく。
私は意を決してその女性に近づいた。
「……すみません、」
「あ、はい?」
立ち止まった女性はとてもにこやかに話を聞いてくれた。
「あの、この辺りに交番はありませんか?」
「……交番、ですか?」
「はい」
私がそうきっぱりと断言すると、女性は公園から伸びる一本の細い道を指し示して、
「あの道をまっすぐ行くと、交番の脇の道に出ますよ」
細い道は建物の間を縫っていくように続いている。その先はここからは見えないが、私は意外と近くにあったことを知って、心臓が急かすように早打った。
「あ、ありがとうございます!」
女性に簡単に会釈をして、私はその脇の道に駆け込む。おそらく後から周りに建っていったであろう建物を見上げながら、この薄暗い路地を真っ直ぐに進む。野良猫が横切り、猫なんて久しぶりに見たな、などと呑気なことが浮かんだ。
それからしばらく歩くと、その一本道の終わりが見えた。大きな通りに出る突き当たりで、光が差し込んでいる。
その脇に独特な形の建物があったので、おそらくあれがあの女性が言っていた交番だろう。私はさらに歩調を早めて路地を抜けた。
思っていた通り、この変な形の建物は入り口の上部に大きく交番と書いてあった。私は少し竦みそうになった足に喝を入れて、思い切って交番の扉を潜った。
目の前にはカウンターと椅子が並んでおり、ここからは誰一人として警察官が見えない。きっとこの奥に彼らが待機する空間があるのだろう。
やはりと言うべきか、私が立ち入った扉の音で気づいたのか、男の警察官が二人ほど顔を出した。
――エレン・イェーガーではない。
私が二人の警察官のことを見比べていたことに不可解さを覚えた一人が、
「お姉さん、どうされました?」
カウンター越しに話しかけてきた。
私もおずおずとそのカウンターに立ち寄り、
「あ、あの、ここにエレン・イェーガーという警察官はいませんか?」
簡潔にそれだけを尋ねた。
しかし彼の反応は思わしくなく、首を傾げて眉を歪めた。
「……エレン? イェーガー?」
「あ、はい……」
「いや、いないけどねえ」
ここは外れか、と落胆に肩が落ちそうになったとき、さらに後ろに待機していた警察官が口を挟んだ。
「ああ、俺知ってますよ。同期っす。今は中央交番にいるっすよ」
私の目の前で対応してくれていた警察官がそう助言したほうへ振り返る。
「本当か、キルシュタイン」
「はい」
「お姉さん、あいにく違う交番なんですわ」
そうして再び私のほうへ向き直す。残念だったねという空気にされかけていたので、私は思い切ってさらに踏み込んだ。
「……よ、呼び出してもらえたり、しませんか?」
また場所を教えてもらってそちらの交番に行くこともできたが、正直あまり歩き回りたくなかったのが本音だ。万が一にでも支配人やその部下に見られでもしたら、私はお咎めなしというわけにはいかないだろう。
あんまりにも真剣な眼差しだったのか、私を対応していた警察官はまじまじと私の姿を観察した。もしかしたら〝着の身着のまま〟というふうに見えたかもしれない。
警察官がそっと脇に置いてあった電話機に手を伸ばした。
「……何か急な様子ですし、わかりました」
そしてそのまま受話器を持ち上げる。ボタンを一つ押しながら「えーっと、お姉さん、お名前は?」と尋ねられた。
急いで答えなくてはと焦り「アニ、」までは伝えたのだが、そこでふと、例えば私の失踪を知るミーナや教授などが捜索願などを出していたらどうしよう、と頭を過った。結果、私は咄嗟に「アルレルト」と答えていた。――なんと、ここ最近で最も聞き慣れていたそのファミリーネームを、私は口にしてしまったのだ。
「アニ・アルレルトさんね」
そうやって警察官が反芻するから、ボッと一気に身体の中に熱が発生した。これではまるで夫婦みたいではないか。
「イェーガーに伝える用件は?」
さらに投げかけられる質問に、私はまた虚をつかれた。たった今『夫婦みたいだ』と思ってしまったことが仇となり、私はまたしても咄嗟に「あ、あの、夫の、ことで……」と宣ってしまう。
「旦那さんのことね」
しかしもちろん訝しむ理由もなく、警察官はそう軽快に復唱してみせた。
私はというと内心自分の頭を掻きむしりたくなるほどに羞恥心を抱いていた。なっ、何やってんだ私はー!? 兄のことで! とかでも! よかったはずなのにい!?
一気に燃え滾った熱のせいでおそらく顔も真っ赤になってしまっていることだろう。私は慌てて顔を逸らして誤魔化そうとした。
……いやいや、いくらなんでも欲を出しすぎだ私よ。
「あー、お疲れさまですう」
唐突に私の目の前にいた警察官が声を張った。どうやら通話したようだ。
「地域課、西ミッドラス交番のシュルツです。今こちらの交番に来ている方がエレン・イェーガーに繋いでほしいとのことで、」
そこまで伝えると一旦その言葉が止まる。何かを言われたようで、受話器からは声が漏れ聞こえている。
「あー、はい、アニ・アルレルトさんです。旦那さんの件についてらしく……え、はい? あ、わかりました。伝えておきます」
なんとも手早く対応は決まったらしく、シュルツと名乗っていた警察官は受話器をすぐさま置いた。
それから電話機の位置を整えながら、
「今からこちらに来るそうですよ」
教えてくれた。ちらりと目が合ったので、私はとりあえず「え、あ、ありがとうございます」と返答しておいた。
よし、これでエレン・イェーガーに会える。私はもう既にミッションコンプリートした気持ちになって、すっかり安堵してしまっていた。
そうして振り返ると出入り口の窓から外の光が差し込んでいる。……私が無断で寮を出たこと、誰にもバレてないといいのだが。そうぼんやり思った。
「まあ、そちらに座ってお待ちください」
「あ、ありがとうございます」
シュルツに示されたほうへ目を向けると、簡素なソファが置いてあった。
指示された通りにそこに腰を下ろすと、シュルツ自身は奥の待機所に戻って行ってしまったが、私を監視するためなのか、キルシュタインと呼ばれていた警察官はその場に残って作業を始めてしまった。
少し気まずい空気だったが特に話題もなく、私は指先を絡め合いながらエレン・イェーガーの到着を待った。
女たちは各々接客の準備をしているはずだし、支配人もどこかへ出かけていた。……大丈夫、おそらく私がいないことなんて、誰も気づいていない。――そう自分に言い聞かせていたのは、それでもはらはらと腹の中が落ち着かなかったからだ。
待つこと十分くらいだった。がらり、と交番の玄関が勢いよく開く音がしてそちらを見上げると、先日確かに見かけた横顔が現れた。
「お疲れさまです。お待たせしましたー……ああ!」
その横顔が見上げていた私に気づき、私も大慌てで立ち上がった。
「あ、あの、お久しぶりです!」
「お姉さんでしたか!」
エレン・イェーガーもしっかり私のことを覚えていてくれたらしく、とても愛嬌のある笑顔に変わって身体の向きを整えた。
「――あの、奥の部屋使います?」
そこへ今度はカウンターのほうから声が聞こえた。私の様子を見守っていた背の高い警察官が、カウンターの脇にある入り口を指差した。おそらく応接室的な部屋なのだろう。
だが私が何か答えるよりも先にエレン・イェーガーは私の肩に手を置き、提案してくれた警察官を見やった。
「あ、いえ、外で話します」
「あ、はい、それで」
「そうですか」
先ほどこのキルシュタインと呼ばれていた警察官はエレン・イェーガーと同期だと言っていたが、おそらく業務上の関わりであり、私がいる手前丁寧な言葉を使っていたのだろう、互いに向けた表情から若干の戯けが見てとれたので、なんとなくそう思った。
とにかく、私はエレン・イェーガーに誘導されるままに交番の外へ出た。隣の駐車スペースには先ほどはなかった一台のパトカーが停まっていた。
その場に私を残して、エレン・イェーガーはそのパトカーに駆け寄る。見てみると運転席にはいつも一緒にいる赤髪の男が待機していた。
コンコン、とその運転席の窓をノックする音が聞こえたかと思うと、その窓は開かれ、エレン・イェーガーが口を開いた。
「フロック。アルミンとこの子だ、ちょっと後部開けて」
「ああ」
その短い会話の末、パトカーの後部座席の扉が開いた。そうしてエレン・イェーガーの仕草を見るに、そこに座って、ということらしい。
私が戸惑いの色を見せていたからか、エレン・イェーガーは意味深な笑みを浮かべた。
「ほら、署内よりこっちのが〝安全〟っすから」
その言葉から察するに、おそらく裏社会の人間である支配人との関わりをほかの警察官に悟られないためなのだろうと思った。前回、私が思いっきり殴ってやったゲストを運ぶときにも赤髪の警察官――フロック、と呼ばれていたか――は、ともに訪れていた。よって、おそらくフロックはエレン・イェーガーから内情を聞いていて、そして彼に協力してやっているのだと見る。
何はともあれ、支配人を守るためなら必要かと納得した私は、言われるがままにパトカーの後部座席に乗り込んだ。
そしてそれを見届けると、エレン・イェーガーはそのまま助手席のほうへ回った。
ひと段落が着くと、助手席に座ったイェーガーがさっと私のほうへ振り返った。私の様子からことの次第を理解しようとしたのだろうが、最終的にそれは諦めて静かに口を開いた。
「……しかしお姉さん、度胸ありますねえ。よくアルミンの妻って」
開口一番そのことを突かれて、私は忘れていたのにまたあっという間に顔から熱を噴射させてしまった。
「あっ、と、とっさの……ことで……!」
顔を隠してしまいたいくらい恥ずかしかったが、それでは自分の羞恥を認めているようなものなので、私は断固として逃げるようなことはしなかった。
イェーガーはそれには追い討ちをかけることはせず「へえ~」と適当に流したあと、「で、どうしました?」と私に本題を促した。
その言葉を理解した途端、私の身体には一気に緊張感が走った。
……だ、大丈夫だ。支配人が言うように本当に支配人とイェーガーが幼馴染で、再会したあとも組織間での対立を二人の間で持たず、さらに協力関係にあるということならば、私が支配人のことを探ろうとしていることを知っても咎められることはないはずだ。私の行動原理は支配人をあの組織からなんとか解放したいということなので、幼馴染であるイェーガーがそれを疎むことはない……そう思っていいはず。
私は何重にも自分に言い聞かせて、ようやく決心が追いついた。……しっかりとイェーガーの表情を見据えながら、
「その、あなたは支配人の幼馴染と聞いて……、いろいろ知っているのかなと……」
「いろいろ?」
曖昧に告げた内容の輪郭をはっきりさせるべく、イェーガーは詳細を求めた。
「その、支配人はいつから、今の仕事に……?」
まっすぐな眼差しで尋ねる。そしてイェーガーも同じように、今度は戯けることなく、真剣な眼差しで私を見返していた。
「……それを知ってどうするんすか」
端的にそれを尋ねられる。そうか確かに、私はまだ自分の行動原理を伝えていない。イェーガーの協力を煽りたい私は、慌てて手の内を明かしてみせる。
「支配人から今までの経緯を聞いて、それで私……支配人だけ自由になれないのが、その、納得いかなくて、」
包み隠さずに伝えた。この際、私が抱いている支配人への感情は置いておいて、ただただ、彼の安寧を願っていることを伝えた。
しかしそれを聞いたイェーガーは虚を突かれたとでも言いたげに眉を顰めた。私の言っていることが真実だと確証が持てないのか、改めて私の様相から私の本意を見定めようとしているようだった。
それから口を開くと、
「……ふーん、アルミン、君に話したんだ」
どうやら引っかかっていたのはそこだったらしい。
確かに支配人はこれまで雇っていた女たちには自分の身の上を話したことはないようだった。そしてイェーガーも、それを確信していたのだろう。
だが、そうは言われても話を本人から聞いたのは事実だったので、私はありのままに答えるしかない。
「え、あ、うん。まあその、流れで……」
もし嘘を吐いているのなら、もっとましなものを吐いていただろう。おそらくイェーガーはそう思ったようで、ふとその表情が和らいだ。
「……そっかあ」
どうやら納得してくれたようだ。
しかしそのあと、間髪入れずにまた口を開く。
「でもアルミン、君が心配することじゃないとも言ってなかった?」
真っ直ぐに尋ねられる。その眼差しは私の記憶を貫いて、あっという間に支配人の言葉を想起させた。
「……確かに『僕は大丈夫』って……」
溢すようにその思い出を呟くと、それを拾うようにイェーガーはすぐに「じゃあ、大丈夫」と断言してしまった。
あまりの潔さに驚いてしまい、え、と言葉が転げ落ちたくらいだ。しかもイェーガーはそれは拾い上げることなく、そのまま言葉を続けた。
「アルミンさ、いなくなったの、六年前――十五のときでさ」
その言葉を認識した途端、イェーガーは支配人の情報をくれているのだと気づき、なりふり構わずに食いついてしまった。
「っうん!」
「俺、なんとしてでもアルミンを見つけ出したくて警官になったんだ。でもたまたまこの街で再会したとき、あいつは自分で這い上がっていた」
まるで当時のことを思い出すようにイェーガーは苦笑を浮かべた。数年ぶりに見た幼馴染が組織の一員になっていたら、確かにそんな顔をしたくもなるのだろう。
ふと、イェーガーは支配人が〝這い上がっていた〟その前に経験したことについては、知っているのだろうかと、そんな疑問が浮かんだ。だがそれは口から出ていくことはなかった。
「……あいつが大丈夫って言ったことは、大丈夫なんだよ」
そう自信あり気に締め括ったイェーガーだ。……確かに、この人が言うように、支配人には『きっと大丈夫』と思わせる力があるのも事実だ。実際、男娼から組織の一員にまで自力で這い上がってきたのだろう。――だけど、そこからどこへも行けないから、甘んじて今の役柄に落ち着いているのではないか。あるいは、周りからの手助けがあれば、もっと早く抜け出すことができるのではないか。
早い話が、ただただ支配人を信じて待っていろ、と言いたげなイェーガーの言説に、私は納得がいかなかった。
「……あんたは、それでいいの?」
試すようにイェーガーにけしかけてやった。もちろん私が言いたかったことは理解していただろう。
「何が?」
しかし、それをあえて私に言葉にするように促した。
そのせいで私の中で一気にこの現状を許したくないという感情が湧き立った。
「アルミンが……っ、」
勢い余って先ほどからイェーガーが呼んでいた名前で呼んでしまい、
「あ、えと、支配人が……」
それに気づいてサッと勢いを引っ込めた。それでも、イェーガーに問いただしたかった。
「……支配人が……、今のままでいいのかって、こと」
本当に『アルミンを見つけるために警官になった』とまで言っていたイェーガーは、支配人の置かれた現状を甘んじて受け入れるというのか。本当にそれでいいのか。
しかし何故だろうか、イェーガーは何の脈略もなく、嬉しそうに笑った。
「……へへ、だから、大丈夫。任せとけって」
――『任せる』? いったいどう言うことだと首を傾げてしまった。
だが残念なことに、私に詳しく説明する気はさらさらなかったのか、イェーガーはさっさと次の行動を始めてしまった。自身の胸ポケットに手を伸ばし、
「あ、これ、俺の直通電話番号。もういちいち交番から呼び出さなくていいから」
「あ、ありがと」
そのポケットからどこにでもあるような名刺入れを取り出し、そこから本人の情報が記載された名刺を一枚差し出した。
私がそれを受け取って内容を確認している間には既に、シートベルトを止め始めており、
「店まで送るよ」
そう言いながら、ずっと運転席に座って静かに聞いていたフロックに目配せをした。
これからパラダイスハートまで送ってもらうのかと理解した私は、慌てて「あ、ありがと」と感謝を重ねた。そのついでに唐突に寮のことを思い出し、私が抜け出したことがバレていないだろうかと焦燥した。
そんな私とは裏腹に、イェーガーは未だに何か嬉しそうに笑っている。
「ううん、お姉さんも、アルミンのこと心配してくれてありがとう」
そう言われたら、何やらじわじわとまた羞恥心のようなものが湧き起こった。そんなにあからさまに支配人のことを心配しているように見えただろうかとばつが悪くなり、往生際悪く「わ、私は……別に……」などとシラを切ろうとしてしまった。
「ところでお姉さん、名前は?」
「え?」
今度は何の前触れもなく、イェーガーが尋ねた。確か交番から呼び出してくれたときに名乗ったはずだったが、と思い出していると、
「さっき、アニ・アルレルトって名乗ってただろ? 本当のファミリーネームは?」
問われた内容にまた一段と照れてしまい、おそらく紅潮してしまった顔を隠すために窓の外に目を向けた。
「え、あ……れ、レオンハート、だけど……」
そうボソボソと伝えると、イェーガーはやはり何か嬉しそうな声色で「……うん、わかった」と返してきた。またしても運転席にいるフロックに目配せをしてにやにやと笑っているものだから、私にとっては居心地が悪かった。いったい何だと言うのか、と度重なる羞恥心とともに脳内を掻き乱され、私はパラダイスハートまでの短い道のりをそわそわと過ごしてしまった。
そしてさほど距離もなかった目的地に到着すると、私よりも先にイェーガーがパトカーを降りる。その様子を見ている間に私の席のドアが勝手に開き、イェーガーが目配せするものだから渋々とそこから降りた。
何も大事になっていなければいいが……と思いながら恐る恐る脇道を覗き込むと、ちょうど玄関で何やら騒いでいたらしい人だかりが目に入った。――その中心にいたのは、支配人だ。
反対に支配人は脇道を覗き込む私たちに気づいたのかこちらに目を向け、その瞬間にあからさまに険しい顔つきになる。私の心臓はどきり、と激しく動揺した。
支配人が慌てた様子で玄関を駆け出してきたかと思うと、今度は私の隣にいたイェーガーも歩き出した。
私はことの成り行きについて不安が募ってしまい、一歩も動けなくなってしまっていた。――支配人のこんなに険しい顔つきは初めて見たものだ。私が寮を出ていたことは完全にばれていたのだとわかり、さらに足が竦む。
「あ、アニ!?」
そう言って私に駆け寄った支配人を宥めるよう、イェーガーが間に立っていた。……どうやら私のことを庇ってくれるようで、私はその行動にさらに驚いた。
「……エレン、これはどういうこと……?」
険しい表情の中にも、心配そうな色が含まれた声で尋ねられる。しかしそれにもイェーガーは軽快な声使いで「まあまあ」と支配人を嗜めたあと、
「――お前が心配かけるから」
そう言って、いろんな意図を含んだ目配せを私に向けた。それを見て支配人も私のほうへ向き、
「ほら、ちゃんと帰ってきたし、今回は見逃してやってくれよな」
イェーガーのダメ押しに肩の力が抜けたようだった。
何かホッとしたような、緊張の糸が切れたような、そして何かに気づいたような綻びを見せてから、小さく「わかったよ」とだけ呟いた。
「……君にも迷惑かけたね。ありがとう」
「ああ、気にすんな。俺もなんかすっげーやる気出たし。また例の件は連絡する」
「あ、うん。よろしくね」
「……おう」
支配人の勢いが打ち消されたのを見てもう大丈夫だと確信したのか、イェーガーは颯爽と帰って行ってしまった。……私は何もお礼を言えないままだ。
……そんな私はパトカーが見えなくなっても、ずっと大通りのほうを見ていた。……支配人の顔が見られなかったからだ。勢いは治ったものの、寮から無断で外出した事実は消えない。
「……アニ、」
閑やかに名前が呼ばれる。どきり、と肩が跳ね上がり、私は観念して支配人のほうへ振り返った。
「ご、ごめんなさい」
見れば寮の玄関の周りには支配人の部下の男や、数人の女たちが集まっていて、こちらの様子を見守っている。
「……いや、謝るのは僕のほうだから」
それでも支配人はそう落ち着いた声で告げた。けれどどこか悲しそうなその眼差しを見て、もしかしたら支配人は、私に話さなければよかったと思っているだろうかと思ってしまった。……いや、きっとそうだろう。支配人は私の助けを必要だと思っていないのだから。……私がただ一人で無意味に奔走しているだけ。
「でも、これからは勝手にいなくならないで。これが知れたら君がどうなるかわからないんだから」
少し引き締められた声に変わっていたか。やはり支配人は私の心配をしていたようだった。
「……う、うん。ごめん……」
寮のルールを破り勝手に抜け出したのは私だが、私も私で必死だった。そんなこと、支配人には関係がないのだろうけれど。
二人でとぼとぼと玄関まで歩み、そこで見守っていた女たちに「アニ、大丈夫?」などと声をかけられた。私は心配されるよりは、本来はルールを破ったことを咎められる立場にいたため、なんと返答してよいかわからず、支配人のほうへ目を向けた。
思っていたよりも心労を与えてしまっていたようで、支配人は浅く嘆息を吐いてから、また静かに口を開いた。
「勝手に寮を出ることは禁じられているんだよ、アニ。だからこれから一週間、君は謹慎処分にするよ」
「……謹慎?」
「そう、一週間、最低限の生活以外での部屋からの出歩きを禁止するからね。店での営業も禁止」
そんな罰則があったなどと見当もしていなかったので驚いた。だがそれはそれを聞いていた女たちも同じだったようで、その場が少しだけざわついた。
……私が抜け出したことはほかの女たちにも知られてしまっているのだから、支配人としてきっちりと見せしめておかないといけないのだろう。すべては私が蒔いた火種なのだから、私にはそれを拒否する権利はない。
その場にいたほかの面々からの注目を集めてしまった私は、支配人の宣言に見合うほどの小さな声で「はい」とだけ伝えて自室へ向かった。
部屋に戻ると私の部屋の扉は開いていて、ここがもぬけの殻だとわかったときの支配人の気持ちを考えて、今さら申し訳なさが込み上げた。……支配人のことだ、きっとまず初めに私の身を案じただろう。本当に申し訳ないことをした。――そう思う反面、私にはこれしか手段がなかったのもまた事実だった。
私はただ、支配人に自由になって欲しいだけなのに、どうしてそれがこんなに困難なのかと胸が苦しくなった。
そのままベッドの上に倒れ込む。緊張やら焦りやらでかなり疲れてしまったのか、マットレスに沈み込むこの身がとても重く感じる。
ともあれ、私は一週間は部屋で謹慎の身となってしまった。もうすぐ行われるという、パラダイスハートの従業員による忘年会とやらにもおそらく参加できなくなってしまった。……まあそれは差したる問題ではないが。
そこでふと、私はパトカーの中でイェーガーが言っていた言葉を思い出した。これまでの思考と何ら関係がなかったのに何故これを今思い出したのかさっぱりだが、それでも私は思い出してしまった。
――『アルミンさ、いなくなったの、六年前――十五のときでさ』
そう、その年月の話だ。そして私は簡単に思い至る。
もし六年前に支配人が十五歳だったということは……もしかして支配人は歳下なのではないか!?
これまで支配人と過ごしてきた日常や、交わした会話などが一気に彷彿とされ、私はその現実に打ちのめされた。……あの、頼れる支配人という空気を纏いながら、あの晩に感じた妙な幼さ――し、支配人はなんと、まだ二十一の若者だったのだ。これには驚いてほぼ全ての思考が飛び去って行った。
頑なに年齢を明かしたくなかったわけだ。ここにいるほとんどの女よりも若かったのだから。
しかし何故だろう、私はそんなことを知ってしまったというのに、心臓の早鐘はしばらく鳴り続けていた。
***
ときは少しだけ過ぎて行った。
年末の最後の一週間を謹慎処分の中終えてしまった私は、この年末年始の休業期間中の営業スケジュールを組むことができず、ここぞとばかりに稼ぎに奔走している女たちを横目に、自分に与えられた狭い部屋でひっそりと過ごすこととなった。
忘年会への出席も認められなかったものだから、翌日の昼食の席で女たちがその様子を話してくれた。……とは言ったものの、毎年とそんなに変わらないらしく、支配人を取り囲む女たちによる塊と、女たち同士で管を巻く塊とに分かれて、わいわいと盛り上がっていたようだ。
その中で毎年恒例だと言われていたのが、支配人への質問攻めで、しかしそれも毎年のように支配人は多くのことに黙秘したままだったと嘆いていた。……私はと言うと、この女たちの多くが知りたがっていた支配人の年齢に関してだけ言えば、私だけはそれを知っているので、意味もなく勝ち誇ったような心持ちになってしまった。――まあ、支配人から特別に思われていない時点で、既に私とほかの女たちとは同じ土俵なわけで、優越感もほとんど意味もないのだが。
しかもさらにいうと、謹慎を言い渡された日から余計に支配人がよそよそしくなった気がして、心底まで落ち込む日々だ。……いや、謹慎処分を受けている自分と支配人が顔を合わせる機会がないだけ、と自分を納得させてみているものの、その期間が終わってもなお、その現状は続いた。――廊下ですれ違ったりするときも、いつも通りの愛想のいい挨拶をしてくれるものの、いつも通りとは行かずそのまま立ち去っていく。違和感としか言いようのないよそよそしさが、明らかに支配人から漏れ出していた。……私は完全に支配人の中で『使えない上に余計なことをしでかす問題児』となっているに違いなかった。
そんなある日のこと。
年が始まって初めての営業日となるこの日、私は久々の出勤の準備をすべく、一足先にシャワーを浴びて、自室で身支度を整えていた。
コンコン、と何故だかいつもより優しく聞こえたノックに気づき、扉のほうへ振り返ると、その向こうから支配人の声が聞こえた。
「アニ、いる?」
「ここに」
短く返答をすると、がちゃり、と勢いよく支配人が扉を開けた。その瞳があまりにもきらきらと輝いていて、私はその表情に意表を突かれてしまった。
「君に朗報だよ!」
この階すべての部屋に声が響き渡るのではと思うほどの溌剌とした声で支配人は言った。ここしばらくのよそよそしかった雰囲気がどこにも見当たらず、私は思わず心臓を跳ねさせてしまうほどだった。
「……な、なに?」
いったいそんなに喜んで何を伝えにきたのだろうと頭の中を駆け巡る。ようやく割りのいい客でも見つかったのか。あるいは、またシャロスとの約束を取り付けるに至ったのか。
〝この生活〟の範囲内で考え得る物事を予想していた私の耳に、完全に予想外のところから言葉が飛び込んできた。
「――なんと、君は自由の身だ!」
私の部屋に一歩踏み込んでまで、支配人は嬉しそうに声を上げた。
その言葉は初め、私の中で意味が入ってこなかった。だから真っ白になった頭でようやく口から出たのは、大きな大きな疑問符のみだった。
「……え?」
「失踪していた君のお父さんが見つかったんだ!」
私の頭の中はさらに混乱する。……父が、見つかった? 私を借金の担保として金を借りていた父が、見つかったというのか?
「……え? え?」
「これからは君のお父さん自身に借金を支払わせるから、君はもう帰れるんだよ!」
瞳をきらきらと輝かせながら、初めて見るほどの眩しい笑顔で力説されても、私の中に広がるのはじわじわとした焦燥感だけだった。……そう、私は気づいていた。もし父が見つかったとなれば、私がここから解放されること――そして、それの意味すること。
「……えっと、父にそんな支払い能力が……? まだ八千万以上残ってるはず……」
おずおずとそう尋ねたのは、支配人のようにこの現状を喜べなかったからだ。私は必死にその朗報を覆す手段を考えていた。
それなのに支配人は力強い眼差しのままで私を見返していた。
「ああ、そうだね。正直僕は多少損金が出ても彼を解体して売り捌いて、貸金を回収してもいいと思っている。娘を借金の担保にするような人間なら、それくらいバチは当たらないでしょう」
おそらく、支配人は私が抱いている焦燥感を察している。だからこそ、こんなに頑なで強情な明るさを保っている。
どうやら覆す手がないのかもしれないと理解したとき、私は一番恐れていたことを口にした。
「……でも、それじゃあ……ここを出るってこと……?」
「うん。そうだよ。君は晴れて元の学生生活に戻れるんだ!」
そう宣言されたと同時に、私の心臓が握りつぶされそうなほどに痛んだ。ギィン、と強く、耳をつんざくような音が鳴っているのではと錯覚するくらいに、胸が苦しくなった。
ここを出ていくと言うことは、私はもう、支配人のそばにいられないということだ。――もちろん、こんな反吐が出るような現状から解放されることは嬉しい。嬉しいはずなのに、それ以上にここに残していくであろうすべてが大き過ぎて、私は息も詰まるほどに動揺していた。
だって私は、まだここまで私たちを守ってくれた支配人に、何も返せていない。こんな志半ばで支配人を置いていくなんて……っ、
「……支配人、私、ここに残――、」
「――だめだ。君は君の人生に戻るんだ」
言い終わる前から支配人の強い口調で釘を刺された。……やはり支配人は、私がこんなことを言い出すのだと気づいていたのだ。
さらにその強い意志を持った眼差しで、支配人は芯の通った声を続けた。
「勝手に連れてきておいて、勝手なことを言うようだけど、君が帰れるなら僕は全力で後押しするよ」
その眼差しが語る意志の強さは、私に有無を言わせないものだった。
だめだ、おそらく、支配人のこの意志を退けることはできない。
……私は支配人と離れることになる。けれど、日常に戻れるんだ。もうしたくもない接客なんてしなくてもいい。またただだらだらと生きて、毎日を流されるように過ごしていけばいいだけだ。
自分を必死に納得させようとしている間にも、支配人は肩の力を抜くように息を吐いて、一歩下がった。
「……いいね。君の新しいアパートが準備でき次第、君はここを出ていくんだ。今晩からはホールにも出なくていい」
「……はい」
既に準備を始めていたというのに、もう私はあのうるさい場所にも赴かなくていいらしい。全身から力が抜けて、私はそのままベッドに座り込んでしまった。
「じゃあ、新居については僕に任せて。今日明日中にはいいところを見つけるよ」
そう残して支配人は私の部屋を出て行った。
『使えない上に余計なことばかりしでかす問題児』でしかない私だ。きっと支配人は私にこれ以上の理不尽が降りかかることを止められると同時に、まったく向かないこの世界から追い出すいい機会と捉えている。――支配人のことなので、おそらく前者が主な理由だろう、それはわかる。わかるのだが、それでは支配人はどうなる? 彼の立たされた境遇を知っているのは私だけだ、誰が支配人を解放できるというのだ。……いや、そもそも、支配人は私にそんなことまで求めていない。わかっている、わかっている。
そのままベッドに倒れ込んで天井を仰いだ。
私は今まで流されるように適当に生きてきた。……けれど今は、支配人と出会って、支配人の力になりたいと言う目標ができた。そのためならなんだって――この先の人生において何の価値もない処女だってくれてやるつもりだったのに、私のこの持て余した決意はどうすればいい。
部屋の中を見回しても、ここに来たときのまま増えていない荷物。それらを眺めて、引っ越しはすこぶる楽そうだと頭を過った。もう何も、考えたくなかった。
支配人は宣言通り、次の日には私の新居を決めてくれたらしく、お昼ご飯を食べる前に身支度を整えるように、とまたボストンバッグを渡された。昼ご飯を食べたら出発だ、と言われ、私は無気力な人形のようになった自分を何とか動かし、なけなしの私物をカバンに詰めていった。――ここへ来る際は荷物を詰めるのを手伝ってくれた支配人。心を埋めるのはその横顔だけだ。
昼食の席では私がここから出ていくのだと既に支配人に聞いていた女たちが、惜しむように餞別の言葉をくれた。そしてこの日々からの解放への祝いも。けれど昨日から私は何やらぼんやりしていて、自分の感情がよくわからなかった。
おそらくここからこんなに早く抜け出せる私は、この女たちのためにも喜んで見せるのが礼儀なのだろう。……それもそうだ、私の父を探し出す手間をかけてくれた支配人のためにも。けれど私の心の中は未だに整理がついておらず、とうてい喜んでみせるような器用なことはできなかった。
昼食を摂ったあと、荷物をまとめ終わった私は、支配人の部下にあたる男に支配人の事務所に来るようにと指示を受けた。
とぼとぼとした足取りでそこに向かうと、支配人はあくまで明るく振る舞うように私を出迎えてくれた。
ここへ来て最初に書かされた契約書についての破棄の書類を渡されたり、新居の鍵や入居の経緯を聞かされたり、事務的な話を一通りされた。
それから支配人は立ち上がり、私のほうへ歩み寄った。
「アニ、これは僕からの餞別だ。必要になってくると思うから使ってくれ」
そう言って、くたびれた茶封筒を私に手渡した。中を覗くと、見たことがないような大金が入っていた。私は驚いて、そして同時に何かとても腹が立って、思わず支配人に向けて声を上げていた。
「……支配人! やっぱり私は……ここに残りたい……!」
その茶封筒を押し返すように支配人に詰め寄った。しかしいつも温厚な彼は、ここでもしっかり冷静で、優しい手つきで私の身体を押し返した。……重心を私自身に戻してくれるように。
そして昨日見せたような、準備した強情の笑顔ではなく、小さく慈しむようなそれで私を見つめた。
「……アニ、いいんだ。君はもう」
どうして今になってそんなに優しい声を出すのか、私はさらに腹が立った。私はこんなに支配人の力になりたいのに――、
「……あ、あんたのそばに……支配人のそばに、いたい……」
思わず目頭が熱くなっていた。ここへきてようやく実感したのだ、私がここから出ていくこと、そしてその意味。
ただ涙を見せるなんて卑怯な気がして、私は雑に顔を俯けた。上手く隠せたわけはないのだけど。
すると支配人は何をどうするでもなく、ただ私に寄り添ったまま言った。
「アニ、僕がこれを言うのは卑怯なのはわかっている。……けど、君のそれは錯覚だよ。自分の身を守るための本能――『ストックホルムシンドローム』って聞いたことあるだろ? ここにいるからそう思うんだ。大丈夫。また元の日常に戻れば、僕のことなんてもう思い出さなくなるよ」
ただ優しさだけを内包したように諭される言葉。
ああ、そうか、支配人は私の抱く感情に気づいているのだと、このときに知った。けれど、甘く見られたものだ、そんな安い説得で納得するほど軽い気持ちでもない。
「そんなこと……っ」
「僕は、君に愛してもらえるような人間じゃないんだ」
「……なんで……っ」
「僕なら大丈夫」
また支配人はあのときのように断言した。そうしたら先日イェーガーに言われたことを思い出してしまった。
――『アルミンが大丈夫って言ったことは、大丈夫なんだよ』
不思議だが、その言葉は縋りたくなる。信じたくなる。支配人ならきっと大丈夫と思いたくなる。……けれどそれは、私がここから出ていくことに納得することとはまったく別の話だ。
支配人は私がいなくても大丈夫かもしれない。けれど、私がいたほうが、もしかしたら少しだけ助けになるかもしれないではないか。
「……ね? いい子だから」
それでも支配人もこの機会を譲る気はないらしく、私の泣き顔を覗き込むように柔らかく諭した。――やはり、こんなに優しい人が理不尽に苦しむなんて嫌だ。そんなの納得できない。
……けれど、ふと一つの可能性が私の頭を過った。……もし私がいることで、支配人の心労を増やしているのだとしたら。優しい支配人のことだ、こんな惨めな立場にいる女は一人でも少ないほうが安心できるのだろう。……私はここへきて〝支配人のために〟諦めなくてはならないことを理解した。
ちらりと支配人の表情を覗き込む。やはり泣いている私を見て辛そうな顔をしていた。支配人のためにも、私は笑顔でここを出ていくしかないようだと理解した。
「……じゃ、じゃあ……餞別にもう一つ……お願いさせてほしいことがある……んだけど、」
「ん? なあに?」
私はこの顔を上げた。涙を拭って、まっすぐに支配人の瞳を見つめた。どくどく、と心臓の鼓動が速くなる。――どうせ知られている恋ごころなら、一つだけ残る、未だに消せぬ後悔を払拭させてもらっても文句はないだろう。
静かに私の要求を待っている支配人に、私は思い切って告げた。
「……き、キス、してください……」
まさか私がそんなことを言うなどと思ってもいなかったのか、支配人は大きくその眼を見開いた。その海のような瞳が水面に輝きを散りばめて、美しく漂っている。私はその様に釘づけになった。
長い長い沈黙が齎される。おそらく支配人は真剣に現状を見極めようとしている。
そして長い長い思慮の末、支配人はゆっくりと息を吸った。
「……しないよ」
ただそれだけを私に聞かせる。
それでも、その言葉は私に深く納得させた。ああ、支配人は最初から最後まで、ただただ優しすぎる人だった。
「……君の新居までは僕の部下が連れて行くからね。……アニ、元気で」
「支配人も、幸せを願ってます」
「……ありがとう」
そうして私は支配人の事務所を出て、彼の部下が持ってきてくれていたボストンバッグと一緒に部下の車に乗り込んだ。
車のカーテンはすべて閉め切って、私はもう、何も見ないようにした。
つづく