ブライダルベール
ごろん、と身体を寝返らせ、ボクは目前で深い寝息を立てるデンバッドさんの顔を見た。暗闇の中だがすっかり慣れてしまった視界では、彼が心地良さそうに呼吸をしている様までよくわかる。
――今日は色んなことがあった。
嗅ぎ慣れない古い植物の匂いに包まれて、これはきっとこの日本文化でお馴染みの『畳』という物の匂いなのだろうと検討をつけた。確か原料は『い草』だったか……昔何かの本で読んだ気がする。
そう、ボクたちは唐突に、ここ、ふんばり温泉チームが率いる一派が宿にしている民宿で、一夜を過ごすこととなった。それもこれも、今日の夕暮れのあとに現れた葉くんやハオ一派のラキストと対峙したボクたちX-LAWSが、その敗北とともに一度崩れ去ってしまったからだ。――今となってはボクたちを互いに繋ぎ止めていたのは、ボクたちの治療看病をしてくれたふんばり温泉率いる彼らのおかげかもしれない。
「……ッ」
何の前触れもなく脳裏に過った光景に、ボクは思わず息を乱してしまった。
『――リゼルグ、』
頭がぼうっとする。
ボクに作戦を伝えるため、葉くんはボクの身体を抱き止めた。そのとき、ボクは不意のことに聴覚だけでなく、五感のすべてを刺激され、思考が一時停止していた。
ふうわりと香った、少しカビ臭い匂い。それは葉くんがいつも過ごしているこの旅館由来の匂いだったのだと気づいたのは、ここに来てからだ。そして鼻先をくすぐった彼の柔らかい髪の毛、温もり、いつでも優しく紡がれるその声。――まったくの空白になった頭の中に飛び込んできたのは、その状況を打破するための作戦に過ぎなかったというのに、ボクは錯乱して心臓が勝手に走り出してしまいそうだった。
もう一回寝返りを打ち、今度は前方に見えた窓から漏れる光を見つめた。月明かりだ、そんなに明るくはなかったものの、確かにその窓枠から漏れ出ている光があった。その下で眠るのはマルコ。こんなにぐっすりと眠りについている彼は初めて見た気がする。……それもそうだ、宿敵だったのだろう、ラキストと対峙してその巫力をほぼ使い切ってしまったのだから。
――マルコに抱き寄せられたことも、触れられたことも幾度となくボクは経験していた。だからこそ、葉くんがボクを抱き込んだときに湧き立った感情が、そのどれもと違っていたことは気づいていた。……むしろ、ボクにとってその感情は、これまでおそらくそうなのだろうと予想していたことを、やはりそうだったか、と確証へと変えるものとなっていた。
……ボクが初めにその気持ちの違和感に気づいたのは、ボクがX-LAWSに加入させてもらってからだった。名前が付けられたことさえ最近だ。
初めに気づいたこの違和感を、ボクは葉くんに対する〝憎しみ〟や〝不満〟だと思っていた。X-LAWSに加入したあとも、何度も何度も、ボリスらと対峙したときの葉くんのことを思い出してしまっていて、その度に得体の知れないモヤモヤとしたものをこの胸に渦巻かせていたからだ。ボクは許せなかったのだと思っていた。葉くんがボクがハオに対して抱く憎しみを正しく理解してくれていなかったのではないかと。両親があの憎きハオの前に倒れて、どうしてその恨みをそのハオの仲間にまで向けることを許さないのか。また、ボクもマルコたちのように、悪は排除して然るべきだと信じていたし、疑ったことすらなかった。再びハオと向かい合ったなら、ボクは疑いもなく彼を殺してしまうことを想像していた。ボクの両親を殺したハオは、ボクに殺されて当然だと……だから。
『邪魔だからって殺していたら――』
そのもどかしさに満ちた葉くんの言葉を聞いたら、ボクの心臓を貫かれたような衝撃を受けた。
そうやって、ボクが得体の知れないモヤモヤを抱えていた、X-LAWSでの慣れない日々。あるとき、マルコに同席させられた天使隊たちのX会議のあとに、ミイネさんに声をかけられた。
「どうかしたの? まるで上の空みたいだね」
ほかのメンバーがそそくさと廊下を歩いていく中、いつもボクをボクの部屋まで先導していくマルコはブンスターさんに呼び止められていたようで、何かを真剣に議論していた。
だからボクはそのミイネさんの優しい笑顔を見て、これまで誰にも話したことがなかった胸の内を打ち明けた。
葉くんたちと過ごしたアメリカ旅行での話――葉くんの柔らかい人柄や、彼の持つ独特の価値観、時折見せる迷いのような表情も。そして最後に葉くんがボクの心の中に残した違和感の存在。おそらくそれはそんな彼にハオへの憎しみを否定されたように感じて、とても悲しかったのだろうと思っていることも含めて、すべてを打ち明けたのだ。
するとミイネさんは少しだけ考えたあと、言葉を選ぶようにボクに伝えた。
「……もしかしたらそれは、必ずしも〝憎しみ〟とは限らないのかもしれないわね」
「え、どういうことですか?」
ミイネさんの言いたいことがいまいち伝わらなくて、ボクは素直に尋ねた。しかしミイネさんも上手く言葉をまとめられなかったようで、難しそうに首を傾げた。
「そうね……うーん、例えば、その子を思い出すときと、ハオを思い出すときの感情は、やっぱり違うものじゃないかと思うの」
「……そうですね?」
それはもちろんそうだ。ボクは葉くんに両親を殺されたわけではないのだから。
疑問符を拭い去ることができずにいたボクへ、ミイネさんはさらに何か言葉をまとめようとしてくれていたのだけども、マルコに呼ばれたことでその会話は終了してしまった。結局ボクはこのとき、ミイネさんが言いたかったことを受け取れないままとなっていた。
それから間もなくして迎えたX-1の試合で、ボクはメイデン様から先陣を切る役目に抜擢された。そのときもボクの頭の中にいたのは葉くんだ。慌ててスタジアムに駆け込んで来た彼が目に留まったからではない、それより前、試合の発表があってから、ボクはなぜか葉くんの姿を頭の中から消し去ることができなくなっていた。
ついに葉くんに、ボクがX-LAWSで手に入れた〝新しい正義〟を見せつけてやるときがきたのだと息巻いた。もちろんメイデン様やマルコに実力を見て欲しかった気持ちもあったが、それと同時に、葉くんには『甘さではボクの心は救えない』ということを示してやりたかった。――いや、葉くんだけではない、その会場にいたすべての人に、ボクは〝悪〟に対しては非情にもなれる、〝正義の人〟なのだと示したかった。
――そして結末はあれだ。
葉くんだけではなく、モルフィンにまで裏切られたのかと落胆した。モルフィンがボクに向けるその悲しそうな眼差しを見て、もしかして葉くんもそんな風にボクを見ているのだろうかと、胸が引きちぎれそうなくらい痛んだ。
結局ボクは非情になりきれなかった現実の前に打ちのめされた。そんなボクにもずっと寄り添ってくれたモルフィンを見て、ボクはモルフィンに裏切られたわけではないのだと気づく。だったらなぜ、モルフィンは――?
X-LAWSの船に戻りマルコの指導を受けている間も、ボクはボクを取り巻くすべての人間に失望されたのだと情けなくなった。自分でもわからない、なぜボクは躊躇ってしまったのだろう。何度マルコに尋ねられても、何度マルコに叩き込まれても、なぜかボクの中に、マルコが諭す〝正義〟は馴染んでいかない。そして思い浮かぶ葉くんの真剣な眼差し。――『邪魔だからって殺していたら』――
与えられた自室に戻ってから、ボクは生気を失ったままベッドに倒れ込んだ。もう自分のこともわからない。なにもわからない。ボクはいったい何なのだろう。どうしたいのだろう。……こんなとき、葉くんなら、なんと言うのだろう。
「――っ」
気づいたときには、ぼとぼとと涙が溢れていた。
ボクの脳裏に焼きつく葉くんの優しい笑顔のせいで、張り詰めていたものが一気に欠壊したかのように、ボクの涙は止まらなかった。そしてそんなボクの隣で、モルフィンはずっとボクの頭を撫でるように寄り添ってくれていた。
ボクはなんて身勝手なのだろう。彼を裏切ってまでここにいるのに、こんな惨めな思いをして、……彼はそんなボクを笑うだろうか。笑って――許してくれるのだろうか。
それからもボクはスタジアムや街の中で葉くんたちを見かける度に、目を放せなくなっていた。一目だけでも、葉くんが笑う姿を見たくて……そしてそれを見たら、なぜかホッとして――遠目で見て、本当に楽しそうな葉くんたちは、いつしかボクの無意識の拠り所になっていた。アメリカで過ごした時間が心の中で蘇り、それは痛みに変わってボクの胸を締め付けることもあったけれど、楽しそうな彼らはボクを安心させてくれていたのだ。
だがその反面、それはボクの心を蝕みもした。ボクの痛みを理解してくれる人たちに囲まれて、ボクは幸せで恵まれているはずなのに――ボクはこの心の安寧を、彼らに――彼に、寄せてしまっている。我に返ると決まって後ろめたさが湧き上がるのは、それが理由だった。
ましてや、そのときのボクはまだ、この葉くんに対する〝執着〟の正体が分からなくてもどかしくもあり、――つまり、この安堵や懐かしさ、後ろめたさ、もどかしさ、孤独感――そんな感情をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような心境になり、それはボクの枕を濡らすことも少なくなかった。
とは言ったものの、さすがにもうこの〝違和感〟と称していたものの正体には気づいている。度々会いに来てくれる葉くんに、ボクの心臓はドクドクと激しく歓喜し、彼を見るだけで世界が優しく思えるようなふわふわとした感覚……。これが世に効く〝恋〟なのかと、さすがのボクも推察できた。――しかし、だからこそだ。今度はそれの正体に気づいたせいで、また違った意味で葛藤する毎日だった。
のそり、とボクはデンバットさんとマルコの間で布団から起き上がる。
いつまで経ってもごろごろと転がるだけでまったく寝つける気配もないので、気分転換に顔でも洗ってこようと思ったのだ。
ほかのメンバーにばれないようにそっと部屋を抜け出して、寝室が並ぶ二階からそっと一階へ降りていく。
一階の階段を降りるとすぐそこに共用の便所と手洗い場がある。階を分けているとは言え、階段のすぐ下なので、音には気をつけないと近い部屋の利用者にはうるさくなってしまうだろう。
ボクはそんなことをぼんやりと考えながら階段を降り、一階の廊下に明かりが灯っていることに気がついた。――誰かほかにもお手洗いに行っている人でもいるのだろうか。
ドキリ、と胸が一回だけ高鳴ったのは、ボクの期待のせいだったと思う。
まったく、いったい何人がここに泊まっていると思っているんだ、と自分を揶揄いながら手洗い場の前に進んだ。
そういえば、ボクが今日に限って上手く寝つけないのは、毎晩マルコに指導されていた寝る前の〝儀式〟が、今日はマルコの疲労により行われなかったというのもあるのかもしれない。――〝儀式〟というのは大袈裟だが、小さい子どもが寝る前に親に絵本を読んでもらえないと眠れないように、X-LAWSに加入してからずっとその〝儀式〟を続けていたボクは、もうそれなしでは眠れなくなってしまったのかもしれない。
そこでふと、また今日の〝作戦立案〟のときの葉くんを思い出してしまった。ふうわりと包み込む少しカビ臭い匂い、優しくくすぐる毛先と、柔らかく包み込む彼の声。……途端にボッと頭が噴火したように熱を持ち、ボクは慌てて蛇口を解放してパシャパシャと顔面に水をかけてやった。
「――なんだ、お前も便所か?」
完全に無防備だったところに背後から声がして――しかもそれは葉くんの声で――ボクは慌てて振り返ってしまった。もちろん顔がビシャビシャのままだ。
葉くんはいつものように穏やかでニコニコと優しい顔をしていて、間違いなく葉くんがいるのだと認知してしまう。寝間着の浴衣を着て、少し眠そうな瞼は久々に見るものだった。そうすると、じわじわと速度を上げていくボクの心臓の鼓動。
ボクは慌ててそこにかけてあったタオルで顔を拭って、どうして、なんでここに、すごい偶然だ、落ち着かなきゃ、と自分に言い聞かせていた。ふわふわと踊り出しそうなくらいに跳ねている心を、なんとか抑え込もうとする。その間にも葉くんは手を洗っているようで、楽しそうに何かを話している声が聞こえた。たぶん、「今日は大変だったな」とか、そんなことを言っていたと思う。
そこでふ、と。ボクの脳裏には先日初めて会話をした、葉くんの許嫁のアンナちゃんのことが思い出されていた。
『――自己紹介が遅くなったわね。私は恐山アンナ、シャーマンキングの妻になる女よ。もちろん、シャーマンキングはうちの葉がなるから』
強気な態度でそうみんなの前で言い放ったアンナちゃんは、キリリと鋭く意志を持った眼差しでボクらを一瞥していた。ボクと違って自信に満ち溢れたその姿を見ていると、近寄りがたいと思ってしまうし、またボクには到底追いつけない人なのだと理解した。
だから、多少苦手意識があったのかもしれない。今日も顔を合わせはしたけど、結局ボクはアンナちゃんとは直接会話することはなかった。
「それにしても急にこんなところに連れ出して悪かったなあ」
「ううん、X-LAWSの船もかなりダメージを受けてしまったし、助かっているよ。ありがとう」
葉くんの話に合わせて会話をしながら、それでもボクが思い浮かべていたのは、常に葉くんの隣にその位置を構えるアンナちゃんのことだ。
――彼女のことは、アメリカの道中から知ってはいた。何かの会話の弾みでホロホロくんが「こいつの嫁がよぉ〜!」と話をして、ボクは「こんなに若いのに、もう結婚相手がいるんだなあ」となんとなしに考えただけだった。
それからもスタジアムで葉くんの隣に立っている彼女を度々見かけてはいたが、先日ついに直接会うことになった。ボクは葉くんのいつもの穏やかな眼差しがいっそう愛おしく細められる瞬間を見て、あぁ、この人は本当に彼女のことを慈しんで、愛しているんだ、と実感してしまったものだ。――葉くんの篤い情が大好きだったボクは、そんな葉くんを見て幸せな気持ちにもなったし、どこからともなく忍び込んできた、黒々とした感情に心の裏側を引っ掻き回されているような心地にもなった。
「それにしても、本当にホロホロくんのお話通り、葉くんのお嫁さんはおっかない人だったね」
ボクはなんとなく会話の端にその話題をくっつけた。もちろん軽快な笑い声も忘れずに。こんな話題を振って、墓穴を掘るだけだとわかっているのに、ボクは何かを確かめるようにそう繋げてしまっていた。
「あぁ、アンナか?」
葉くんの声が少し高くなったような気がした。
「そうなんよ、もうオイラは頭が上がらんくてなあ」
そう言って笑う彼は、やはり心の底から嬉しそうだった。いつも穏やかで柔らかい顔つきをしているけれど、やはりアンナちゃんのことを話している彼は格別なのだなと思った。
その表情からだけでも、彼女がただのおっかなくて近寄りがたいだけの人ではないことは感じ取れてしまう。きっと彼女はボクの知らない葉くんをたくさん知っていて、また、葉くんしか知らないアンナちゃんの顔もあるのだろう。――そんな二人を想って、ボクは心の底から二人が愛おしくなった。
「……ふふ、彼女のことが大切なんだね」
「まぁな」
ほんのりと頬を赤らめる葉くん。
二人がふたりでよかったと思ったことは……二人がふたりで愛おしいと感じたことは、一つも嘘ではないはずだけれど。――ましてや、彼らの間に入り込もうなんて思っちゃいなかったけれど、やはり微塵も入り込む隙がないことを実感してしまう。そしてボクの心の裏側を執拗に引っ掻き回していた黒々とした感情が、少しずつボクの心の表側まで蝕み始めていた。
「――ボク、もう寝るよ」
慌てて立ち去ろうとしたのは、そんなボク自身の醜さに気づいたからだ。ボクはただ純粋に大好きな人の幸せを願いたいのに、どうしてもそれとは反対のことを主張する感情が見え隠れしてしまう。――こんな気持ちのボクは、葉くんの前に立っていることすら烏滸がましい。
「リゼルグ?」
気づけば葉くんにボクの腕を掴まれていた。名前を呼ばれただけで、どきり、と心臓が跳ね上がって、抗う術もなく顔が熱くなる。
「お前、大丈夫か? オイラでよかったら話を聞くぞ」
心配そうな葉くんの眼差しがボクを捉えている。釘づけになってしまう前に、ボクは急いで視線を逸らした。
葉くんはこれっぽっちもボクに愛情を向けているわけでもないのに、こんなに優しいなんてずるい。もしかしてこんな醜い感情でも葉くんは許してくれるんじゃないかと、そんな無駄な期待さえしてしまう。縋りたくなってしまう。
でもそんなの、ボク自身が嫌だった。
そうやって引き裂かれた心が苦しいくらいに痛んで、どんどんボクの目頭を熱くしていく。じわ、と視界が滲みかけていることを理解し、今度は俯いて声を絞り出した。
「い、いや、ほんとっ……平気、だから……ッ」
――ああ、バカだな、ボクは。声、震えてるじゃないか、こんなのバレバレじゃないか……。
そう悪態を吐くことで、なんとか自分の正気を保とうとする。とにもかくにも、一刻も早くここから逃げ去って、葉くんに醜態を晒すことを回避したかった。
……けれど、葉くんの声色は、ボクが見積もっていたよりも遥かに優しくて、
「そんな顔して大丈夫なわけねえだろ? ほら、話しちまえばすっきりするぞ?」
あまつさえ、必死で隠そうとしているこの醜い顔を、純粋な眼差しで覗き込んでくるのだ。……その眼差しからもわかる、葉くんがどれだけ〝ボクのことも〟大事にしてくれているのかを。大事にして、信頼してくれているのかを。こんなボクでも、葉くんはその深い懐に迎え入れてくれる。
「……葉……くん……」
思わず名前を呼んでいた。抵抗することも忘れていた。
「……おう」
そして葉くん自身も、一つもためらいを見せずにボクに笑いかけてくれる。その優しく柔らかな眼差しが、しっかりとボクを捕まえている。
その眼差しに引き摺り出されるように、ボクの心の裏側に押し込めていた欲が騒ぎ始めた。――どうしよう、葉くんに甘えたい。いっそ、甘えてしまいたい。ボクのこの〝気持ち〟を知られなければ、そんな欲求も葉くんにとってはないものになるだろうか。……葉くんは、許してくれるだろうか。
静かに葉くんに向き直ると、ほら言って見ろ、と語りかけるようにさらに笑顔を深めた。
優しくて、穏やかで……大好きな葉くん。広くて、大きくて、この身をすべて預けてしまいたくなる、葉くん。眩しすぎて無意識に視線を落としていた。――ボクのことだけを見て、なんて願う気すらない。けれど、一度だけなら……許してくれるだろうか。
ボクの中の葛藤はとても短いものだった。
「……じゃあ、」
「おう、どんとこい!」
葉くんの顔色を伺いながら瞳を上げたボクに、葉くんは変わらずに笑っていてくれる。ボクは思い切って口を開いた。
「……その、……ハグ、しても、いいかな……?」
ぱちくり、とオノマトペでもつきそうなくらい、葉くんはその瞼を瞬かせた。
「あっその、ボク、不安で……」
慌てて弁明を付け加える。わざとらしく自分の身体を抱いて見せてまで、ボクは葉くんの優しさに縋ろうとした。
ああ、葉くんが優しくてずるいなんて、ボクが言えたことではなかったなと落胆した。こんな欲まみれで、純真を装ってこんなことお願いするなんて、ボクはなんて最低なんだ。ただ一度だけ、ただ一度だけでよかったんだ、もう一度だけ、その温もりをこの肌で感じたかっただけ……だけど、どんなに自分に言い訳をしても、やはり、ボクは自分のこの下心に耐えられなくなってしまった。
だから、慌てて笑顔を取り繕って、
「あ、いや、ごめ――、」
「――おう、いいぞ。ハグだろ? ほれ」
取り繕おうとしたのに、目の前で葉くんは何事でもないように、ただ笑って両手を広げて見せた。
どく、と心臓が跳ね上がり、ボクのしたことを責め立てる。それと同時に、ボクの行動を急き立てる。どくどくどくどく、うるさいくらいにボクの中で早鐘は鳴り続け、その光景に固まるボクに追い討ちをかける。
どうしてかわからない。ボクはその場で動けなくなった。自分からそれを求めたのに、いとも簡単に与えられて動揺している。目の前に葉くんがいて、そして、ボクをためらいもなく受け止めようとしてくれている。――それもこれも、ボクがこの下心を隠しているからだ。葉くんはただ純粋にボクの言葉を信じて、ボクを安心させようとしてくれている。
……ボクはこんなにも、葉くんが好きだ。一度空っぽになった頭蓋骨の中には、そんな言葉が陣取っている。葉くんという人に出会えて、ボクはこんなに幸せで、こんなに恵まれているというのに……腹の底から何かが込み上げてきて、たちまちボクは目頭を熱くさせてしまった。
「へへ、その、何やら恥ずかしいな……日本人はこういうのあんまり慣れてねえからよ。ウェッヘッヘッ」
ボクがあまりにも反応しないからか、葉くんが言葉の通り、照れたように笑った。そして再度両手を広げる仕草をしてくれて、ボクを促してくれる。
ついにボクの視界が歪んだ、じわり、と葉くんが滲んだ。そしてそれを隠すように、
「……葉くん……、」
ボクは自制も効かずに葉くんのその両腕の中に飛び込んでいた。すぐに葉くんの腕もボクを支えてくれる。
こんなに優しい葉くん。こんなに広くて、温かい葉くん。ボクはその柔らかい空気に包まれて、込み上げてくるものを次から次へと溢れさせてしまう。そしてそれは葉くんの胸元を濡らしていく。
「ごめん……ッ、ありが、と……ッ」
もう葉くんはボクが泣いていることには気づいているだろう。きっと、孤児(みなしご)のボクが両親を思い出して肌寂しいのだろうとか、そんな風に思ってくれているに違いない。――ボクの真意なんて知るはずもない。知らなくていい。知ってしまったら、きっともうこうして隣で笑うこともできなくなる。
なら、そう、このままでいい。
すると、ふわりと気配が動いた。頭頂部に優しく触れられたことに気づき、
「よしよーし、大丈夫だぞ〜リゼルグ〜……なんちって」
葉くんがボクを宥めるように撫でてくれているのだと理解した。それはまるで父親役を演じようとしてくれているようだった。その優しく温かい心で。
照れくさそうに笑う声も愛おしい。
その手は優しくて、身体は温かくて、声は柔らかくて……戦いに満ちた明日はまたくるというのに、こうしている間はまるでゆりかごの中にでもいるような安寧に溺れていく。
――でもここは、ボクの場所ではない。
涙はまだ止まってはいなかったけれど、それでもボクはしっかりと現実を受け止めた。葉くんは葉くんが一番愛する人とこうして、そして幸せになってほしい。もちろん名残惜しいけれども、一度だけと甘えたのだから、ボクはここから離れなくてはならない。
自分の中でぐちゃぐちゃと混ざり合っていた感情を丸め込んで、ボクは意を決して葉くんの腕の中から放れた。
乱暴に涙を拭い、今までボクを受け止めてくれていた葉くんを見れば、やはりその胸元を濡らしてしまっていた。
「あはは、ありがとう葉くん。ごめんね、濡らしちゃった。でも、すごく落ち着いたよ」
今できる渾身の笑顔を向けて、ボクは葉くんに感謝を告げた。
もちろん葉くんは濡らしてしまったことなど気に留めることもなく、またいつもの笑顔でボクの肩を叩いた。
「あぁ、こんなことでよければいつでもしてやるよ」
その笑顔はやはりボクには少し眩しくて、わざと目を細めるように続けた。
「……う、うん。でも、自分の弱い部分を見せちゃうのは恥ずかしいし、これっきりにするから」
「ん、そうか?」
それはボク自身の決意だ。葉くんには葉くんの幸せがある。ボクはこんな形でそれをくすねるようなことは今後したくない。……葉くんは、知らなくていいんだ。気づかれない内に、ちゃんと距離を取らなくては。
「……まあ、お前がそう言うなら……でも、オイラはいつでもいいからな。寂しくなったりしたら、いつでも言うんだぞ」
「……うん。葉くんは優しいね。ありがとう」
「ウェッヘッヘッ。お前ほどじゃねえだろ」
おそらく社交辞令として言っただけの言葉に、ボクはぴり、と心に痛みを感じてしまった。
「そんなことないよ」
ありきたりな返事をしながら、ボクはさらに深くなる痛みに耐えた。だって、本当にボクなんて全然優しくなんかない……未だに自分のことばかりだ。
「じゃあ、おやすみ、リゼルグ」
「うん、おやすみ、葉くん」
踵を返した葉くんの後ろ姿を見守っていると、葉くんは何度か振り返って笑ってくれた。階段に足をかけて登り始める前に、最後にもう一度手を振って改めて挨拶を交わした。
これで本当に、葉くんに甘えるのは最後にしよう、と心に誓った。
それなのになんだか無性に泣けてきてしまい、気づけばボクの頬はまた濡れていた。……ようやく誰かに見られる心配も緊張感もなくなったせいだろうか、先ほど葉くんの胸元を濡らしてしまっていたときよりも、涙は溢れていた。
こんなに誰かを想うことが辛いことだったなんて、ボクは少しも知らなかった。だからせめて、葉くんにはこんな想いをせずに穏やかにいてほしいと思う。
ボクはもう一度顔を洗い、熱くなった目元を冷まそうと蛇口を捻ると、
「――お前はつくづく生き方が下手くそだな、リゼルグ」
またしても背後から声が聞こえた。この声は、
「わあ!? 蓮くん!?」
ボクは我に戻り、慌てて涙を誤魔化すように水飛沫を自らの顔面にかけてやった。
「気にするな。それより静かにしないとほかのやつらが起きてしまうぞ」
「あぁ、ごめんっ」
見れば蓮くんは寝間着ではあったものの、登場は階段からではなく廊下のほうからだったので、ボクはどうしてここにいるのだろうと――いや、いつから聞かれていたのだろうと焦ってしまっていた。
そしてそれが顔にも出ていたのだろう。
「……ふん、散歩に出ていたところ、話し声が聞こえて気になって来てみれば」
そう言って蓮くんも簡単に手を洗い始めた。
「はは、つい両親のことを思い出してしまって……」
きっと〝誤解〟されているのだろうと思い、ボクは慌てて葉くんが考えたであろうものと同じ言い訳を使った。
蓮くんはというと、興味もなさそうに手の水気をタオルで拭いながら、
「……俺には気を使わんでいいと言っただろう。そういうところが、下手くそだと言うのだ」
面倒くさそうに教えた。
そういえば蓮くんは先ほどから、ボクが下手くそだとか何とか言っていたのだと意識に入った。
「……えと、下手くそ?」
「ああ、貴様は頭はいいがバカだと言っている」
蓮くんのただでさえ鋭い目つきが、何か言いたげなものを含んでボクを捉えていた。けれどその内容はかなり辛辣だ。……ボクが〝バカ〟だなんて。――思い当たる節がありすぎて、ボクはばつが悪くなってしまった。
「ええ、ちょっと、いきなり酷いな……これでも少し落ち込んでいたんだけど」
そうやって話を逸らそうと思ったのに、
「とぼけるな、葉のことだ」
蓮くんは鋭く釘を刺した。
その口から出てきた名前に動揺して言葉を失ってしまったボクを置いて、蓮くんはただ冷静に「場所を移そう」と告げ、今来た方向へまた一歩を踏み出した。
「え、あ……うん?」
ボクは言われるがままに蓮くんの後を追い、そしてすぐに二人で民宿の玄関を潜る。
先ほど布団の上から見えていた淡い月明かりはもはや隔てるものがなく、静かにボクたちを照らしていた。少し冷えた空気もなんとなく心地がいいけれど、やはりボクが育った国よりも日本はやや湿気が肌に絡む。
「Xなんちゃらに加わったときもそうだったな」
背中を追っていた蓮くんから、唐突に会話が始まった。
「……ボクがバカって話?」
「そうだ。何が貴様にとって楽かなんて貴様の決めることだが、やつらを選んだことは貴様を苦しめただけだったではないか」
蓮くんはおそらく、ボクが葉くんたちの元を離れてX-LAWSを選んだことを言っている。
「少なくとも俺の目にはそう映っていたがな」
……まあ、そう見えていたとしても無理はないと思った。実際ボクは〝自分の正義〟を見つけるためにもがいていたのだから。
ただ、
「……――そう……なのかな……」
このときばかりはボクの脳裏を過っていたのは、天使隊のみんなと過ごした日々の思い出だった。始めは緊張はしたけれど、時間が重なればお互いに気も許せた。……みんなで甲板でバーベキューをしたり、時にはメイデン様の〝拷問〟のお手伝いをしたり。
何もすべてが苦難であったわけではなかったし、その苦難の部分だって、ボク自身の正義を見つけるためには必要な過程だったと今では理解できる。
「――……葉のことも、」
藪から棒に突きつけられたその名前に、ボクは性懲りもなく不意を突かれてしまった。まるで嘘発見器で調べられているかのようにじわじわと、焦りと動揺が指先まで広がっていく。
「あいつはいつも気が抜けた顔をしている。だからこちらが油断して、気づいたときにはもう遅い、こちらの懐に既に入り込んでいる」
先ほどからの口ぶりと合わせて考えても、蓮くんにはボクの葉くんへの気持ちがわかっているようだった。……むしろその口ぶり、まるで蓮くん自身にも経験のあることのように聞こえる。
「だが、貴様の失態はそれを〝認めた〟ことだ」
「……え?」
ボクが蓮くんの言葉を考察していると、無防備なところを突くのが上手な蓮くんは、またしてもボクの注意を奪った。
葉くんはあんな人柄だから、たくさんの人に慕われているのはわかる。けれどボクの失態が、それを認めたことだと蓮くんは言った。……それはつまり……――
「どんなに想いが向こうとも、〝それ〟さえ認めなければそんな想いもせずに済んだのではないか?」
やはりそうだ、蓮くんはボクがこの〝恋心〟を自分のものとして受け入れてしまったことを言及しているようだった。
けれど、今ここでボクのそのときの心情を責めたってどうにもならない。蓮くんはなぜこんなことをわざわざ指摘しているのかもわからない。
「……えっと……君がなんのことを言っているのかよくわからないけど……」
結果、ボクは誤魔化してしまおうと反応を示したけれど、
「気を使わんでいいと言っただろう。思いっきり恨み節でも吐いてやればいいのだ」
蓮くんは少し歯痒そうにそう言った。そしてその言葉でようやく蓮くんの意図を理解した。
そうか……蓮くんはきっと、ボクの気持ちを変えることで、ボクをこの苦しみしか生まない心から解放しようとしている。葉くんがアンナちゃんを想っている以上、確かに蓮くんの言う通り、こんな気持ちは早く忘れてしまうのが楽なのだろう。
ボクは言葉を止めた。蓮くんも何も言わない。
ぐるぐると思考は巡る。
そこで柔らかい光の中で笑う葉くんの姿が、ボクの中で浮かび上がった。
長い沈黙の末、ボクはようやく蓮くんに伝えるための答えを見つけた。
「……もし、さ」
「ん?」
「もし、君が言ってることとボクが考えていることが一致していたとして……、」
そう前置きをしたボクは、未だに拭えないままの葉くんの笑顔を、あえて思い出しながら続けた。
「それは無理だよ、蓮くん」
「……何がだ」
「〝それ〟を意志で止めることなんてできない、よ……」
ボクにとって陽だまりそのものの葉くんを、ボクの弱すぎる〝意志〟で、追い出すことなんてできない。
「いや、どうだろう……止めることができていたなら、ボクだってそうしたのかな。けれど、〝これ〟はボクの〝考え〟なんて気にしちゃくれない」
そう、〝意志〟なんていつだって〝心〟には敵わないのだから。心がそちらを向いてしまったら、もう意志なんかではどうにもならない。
「……それは貴様が認めてしまったからだろう」
納得がいかないのか蓮くんは重ねるけど、ボクだって根拠があって言っている。そう、ボクが〝この気持ち〟の正体を知るずっと前からだった。
「……うん、どうかな……気づいたらもうここに〝あった〟んだ。そんなの、どうしようもないよ……」
例えばそれを〝恋心〟だと未だに気づいていなかったとしても、ボクの心が葉くんに惹かれて止まないことに変わりはなかったと思う。それこそ、それを認めてしまうまで、ボクがどれだけ回り道をしたのか蓮くんは知らないのだから。
「…………だから、下手くそなのだ」
そう言い放つ蓮くんも、きっとその内、ボクが今抱いているものと同じものに直面するときがくるだろう。もしかしたらそれまでは、ボクの言っていることはわからないのかもしれない。――この、拒みようのない、強烈で鮮烈な心。
「でもね、蓮くん。確かに〝これ〟は辛いけどさ……ボクは、たぶん今、幸せだよ」
今まで、ハオへの復讐一色だったボクの世界は、葉くんと出会ったことで色とりどりの色彩でボクを包み込んでくれたから。……どれだけ辛くたって、一生葉くんという存在を知らなかったら、ボクはこの〝温かさ〟を知らずにいたから。
そしてそれは、先ほど彼が言っていたX-LAWSも同じだ。ボクが負った心の傷をわかってくれる人たちと出会えたことは、それだけでボクの支えになってくれた。
「……そうか……」
「うん」
「……ならば、初めから余計なお節介だったな」
蓮くんの強気な眉はいつも通り吊り上がってはいたけれど、声色にどことなく申し訳なさが感じ取れた。そのときに蓮くんがボクにしようとしてくれたことの真意を思い出して、ボクはまた、違った温かさを受け取った。
「ううん、君がボクのことを心配してわざわざ出てきてくれたのはわかるし、ありがとう」
でも、ボクはきっとまだ当分、葉くんへ向けたこの心を捨てることはできないだろう。……けど、ボクはそれでいい。例えボクが葉くんの隣にいなくても、ボクに葉くんがくれたほどの温かさを、葉くん自身も受け取っていいのだから。最愛の人と、平穏で幸福な毎日を過ごしてほしい。
「……ふん。貴様の幸せはよくわからんな、だったらそんな泣きそうな顔をするな」
急に指摘されて、ボクは心臓に矢を喰らったように驚いてしまった。
「……ッ。やだな、そんな……、ボク、別に……っ」
蓮くんに言われたせいなのか、たちまちボクの涙腺は緩んでしまい、じわ、と視界の端が歪み始めた。……だめだ、そんなことをボクに自覚させたら、だめなんだ。違う、ボクは葉くんが幸せなら、それでいいのだから。
「ほれ、取り乱しているではないか」
蓮くんが重ねる指摘に負けないように、ボクは何度も何度も自分に言い聞かせた。
「……ううん、それでも、ボクは彼に出会えて、幸せなんだよ」
それだけは揺るがない。ボクは乱暴に涙を拭いながら、今度はボクが釘を刺すように蓮くんに伝えた。
ようやく観念してくれたのか、蓮くんは一度だけ呆れたようにため息を吐くと、「ならばもう何も言うまい」と背中を向けながら放った。……きっと、必死に涙を拭うボクの情けない姿を見ないようにしてくれている。
「……うん、ありがとうね」
「ふん」
いつものように鼻を鳴らしているけれど、それでもボクが落ち着くまで蓮くんはそこに居てくれた。
――でも確かに、あのあと蓮くんが話を聞いてくれて助かったのかもしれない。
もしあのまま寝室に向かっていたら、それこそ余計に眠れなくなってしまっていたかもしれない。今度はお布団が水浸しになるくらいには、泣いてしまっていたかもしれない。
けれど、蓮くんのおかげでボクはまた一つ自分のことがわかった。……ボクはそれでも、幸せなんだ。
おしまい
あとがき
いかがだったでしょうか〜!!
初のマンキン小説がまさかのリゼルグくん片想い小説とか……笑
長女のせいです!!笑
タイトルはベゴニアと迷ったのですが……直感的にはこちらのほうがいいかなと思い、選びました。
ご読了ありがとうございました!