何も知らないボクと君
玄関の重苦しい金属音が擦れ合う音が聞こえた。
ボクはいち早くボールペンを置き、すぐさま机上の読書灯を消灯した。――ガタガタンッ、と続けて玄関で音がする。その頃にはボクは既に勉強部屋のドアノブに手をかけており、厚い木製の扉の開閉にかかっていた。
「ただいま〜。おお、けっこう綺麗になってきてるじゃねえか」
扉を開き、暗い廊下の先で人影が動いているのがわかる。そちらへ向けて歩みを進めると、そこで不意に電気が灯る。――露わになったのは、電気を灯しながら雑に靴の泥を落としている彼の姿だった。
「まあね。少しがんばったよ。君はいい収穫はあったかい?」
彼の元に辿り着き、歓迎ムード全開で出迎える。彼はそんなボクを見上げて挨拶代わりの目配せをして、それから作ろうとした笑顔を少し崩して笑った。
「あー、あんま。やっぱ現地行かねえとわかんねえこと多いわ」
彼の側に置かれてあった買い物袋を持ち上げ、彼に合わせてボクたちはとりあえずでキッチンへと踏み込む。カウンターの上に買い物袋を置くと、彼は早速そこから食材を取り出し始めた。
それからもボクたちは互いの今日の成果を報告し合いながら、ボクは彼が夕飯を適当に寄せ集めてくれる様子を見守る。
彼はそんなに難しい工程を踏むわけでもないのに、あっという間に食事を拵えてくれるから、まるで魔法みたいだ、といつも感心してしまっていた。
夜になると二人で同じ毛布を被る。ただ前の持ち主がここから移動させることができないから、と置いていった大きくて年季の入ったソファベッドにボクたちは身を寄せた。この建物と同じ、やたらと年月だけを重ねたこの家に住むボクたちは、そこかしこに価値のありそうなアンティーク品で埋もれていた。最も、それらの価値なんて気にしたこともないのだけど。
「じゃあ、おやすみ、ホロホロくん」
「おう、しっかり寝ろよ」
「ふふ、当たり前だよ」
――なんたって、君がいるからね。……それは飲み込んで瞼を閉じる。手は繋がない。彼は……ボクの気持ちは知らないから。
ホロホロくんはこうやって時々、ボクに会いに来てくれる。一度の滞在でだいたい一週間から二週間の滞在をする。彼はここイギリスで調べたいものがあるから宿を貸してくれ、といつもそんな方便を使った。
でもボクは、本当はそんな彼の真意に気づいている。
シャーマンファイトが終わったあと、五人の戦士たちだけではない、皆がそれぞれの故郷へと帰っていった。――葉くん、蓮くん、そしてホロホロくんは言うまでもなく、それぞれ自分たちの〝家族〟が待つ場所へ。
チョコラブくんはそんな〝家族〟はいなかったけど、彼には行かねばならないところがあった。――事件から年月が経ち過ぎていて立証は難しく思われていたけれど、犯人しか知り得ない情報の開示を続けた結果、チョコラブくんは数件の殺人事件の主犯格として服役することが決まった。それが彼が話していた「行かなければならないところ」だった。
だから、そんなチョコラブくんを除けば、彼の関わりのあった人物の中でおそらくボクだけが〝身寄りのない人〟だったからなのだろう。
ホロホロくんはこうやってボクを気にかけてくれているようだった。もう十八歳にもなれば、ボクでなくても一人でアパートで暮らす人なんて山ほどいるだろう。けれども彼は、ボクのアパートに光を灯しにやってくるのだ。
始めはボクも、近くにX-LAWSの皆もいるから心配いらないよとは言った。けれど本質は確かに、メイデン様もフランスの全寮制の女学校へ入学されたし、ほかのメンバーもそれぞれの国に帰ってそれぞれの活動をしている。だから……確かにそんなに頻繁に会えたわけではなかった。
今さら孤独なんて騒ぎ立てるほどのものではないけれど……確かにボクの、彼と過ごす日々はささやかな癒しとなっていた。
彼が訪れるときは、まず本人ではなく彼からの物資が家に届く。日本の北海道に住む彼は、いつも彼が滞在中に使う野菜や食料品を送ってくれるのだ。するとボクは玄関に置かれている荷物を見て、もうすぐだなと思ってウキウキする。
彼自身が到着すると、
『うげ、また伸びてやがる……』
そう言って唇を尖らせることがここ数年のお決まりだった。……そう、ボクはもう、彼の身長を追い越していた。――でもまあ、欧米人とアイヌの血筋だからどうしようもできないと思うけれど、毎回ぶつくさと文句を垂れる彼も面白い。
そして彼が滞在している間、片づけがそんなに上手ではないボクと一緒に一通り家の中の片づけをしてくれて、そして滞在中の食事もすべて彼がやってくれる。
『どうせお前はいつも冷食温めるだけで済ませてんだろ!』
彼は決まって少しお節介な説教を交えてそう言う。
『俺も上手いわけじゃねえが、来てるときくらい俺が作るっての。お前はたまには身体休めとけ。勉強ばっかで熱出ちまうぞ』
そんな風にボクに苦言を呈し、あまつさえ心配するような顔で見られていたから……ボクも意地悪を返してやりたくなってしまった。「も」というのはおかしいだろうか。
『まさかあ。ボクは勉強したって熱は出ないよ、ホロホロくんじゃないんだし』
『誰が知恵熱だうっせー!』
『ははは』
そんな会話もしたことがあったっけ、と思い返す。
少しでも早く大学を卒業して一人前になりたかったボクは、彼の言うとおり、いつもいつも勉強をしていた。彼の滞在中ももちろんそれは健在で、だから彼は日中はいつも『調べ物をしてくる』と言っては家を空けている。ボクの勉強の邪魔をしたくないのだろう。――面倒を見にきているつもりで忙しのない人だなと思う。
――こんな時間、いつもはまだ机に齧り付いているはずの時間で、だからボクは彼の言いつけを守らずにまだ起きていた。
目の前で何も考えていないような、ちょっぴりバカっぽい寝顔で大いびきをかいている彼を見ていると、なんだか笑いたくなってしまう。……そんな自由でお節介で、忙しない彼が、愛おしく見えてしまう。
ふ、と頬が綻ぶ自覚があった。この時間が好きだと、心からそう思う。
けれどそう思った途端、キリ、と微かな痛みが胸に走った。思わず目を瞑る。
彼が泊まりに来てくれる度に、彼のぶっきらぼうな優しさに触れて、どんどん惹かれていく自分がいる。そのことに、あるときボクは気がついた。
……わかっている。彼がそんなつもりでボクに世話を焼いてくれているわけではないことを。……それでも、確かに存在する〝真っ暗な夜〟に、彼がどれだけボクの灯火になってくれているかなんて、無頓着な彼は気にも留めていないのだ。
このソファベッドも、彼の滞在中だけ活躍するもの。ボクが一人で夜を過ごすには、広すぎるベッドだから。彼がいてくれて始めて、灯る光があるように。
――ただ。
しっかりとこの胸に走った痛みを捕まえて、そしてそれを反芻する。
ただ、ボクは彼のこの無頓着な優しさが大好きであると同時に、許せなかった。
耐えられなくなるときがあるからだ。特に彼が帰国する日が近くなると、ボクは心臓を握りつぶされそうなほどの寂しさに襲われる。なんでこんな気持ちに気づいてしまったんだと自分を恨むくらい、強烈な孤独感だ。……こんなことならいっそ、ボクのことなんて忘れてくれたらいいのにと思ってしまう。
――ただでさえ、不況の日本で経営難の牧場のやりくりをしていると聞く彼。ボクなんかのために大事な貯金を使うなんて……そんな考えなしなところも許せないときが、確かにあるんだ。
そんなボクは、あることを思いついていた。そしてそれを決行するなら、おそらく早ければ早いほうがいいはずということも理解している。お互いのためにも。だからボクは〝そのとき〟を探して、毎夜彼の寝顔を眺めた。本当はそんなことはしたくないけど、でも、やはりこんな関係は辛いから。
――「結局野菜余っちまったな〜。俺が次来るまでは保たねえだろうし」
彼の帰国を明日に控えた朝になっていた。彼は二人のために作ってくれたポテトサラダを挟んだサンドウィッチを頬張りながら、ダイニングテーブルの脇に寄せていた段ボール箱を眺めた。……彼より先に到着した、日本からの物資だ。
確かにそこにはまだいくつかのじゃがいもやにんじんなどが転がっていた。……そんな大した量でもないけれど。
「せっかくだし、ボクもまた料理を練習してみようか――、」
「はあ!? 間違ってもお前自分で調理するんじゃねえぞ!?」
ボクが割と真面目に考えていたところだったのに、彼は大袈裟なまでに身を乗り出してボクを止めた。
「何回教えても焦がしちまうんだから!」
そんな心外な、ボクだって練習すれば――と反論しようか迷ってしまったのは、何度も何度もできあがってしまう黒焦げの完成品を思い出してしまったからだ。そしてそれを払拭するよりも先に、
「……そうだなっ、お隣さん!」
元気よく彼の声が飛んできた。
「お隣さんにそれ持ってって調理してもらえ! ちゃんと北海道産だってこと言い忘れるなよ!」
「本当に君は心配性だなあ」
後半に付け加えた得意げな言葉は、彼にとってただの鉄板ネタだというやつだ。だからボクはそれは置いておいて、少し反抗したい気持ちを抑えながら彼のサンドウィッチを摘み上げる。
「ったりめえだろ! お前、料理焦がしちまうのは百歩譲っていいにしても、それをまたボリボリ食っちまうんだもんな! あんなもん食ってたら長生きなんかできねえんだからな、絶対だめだからな!」
そうやって大袈裟に、大真面目に、指摘してくる彼を見ていたら、本当にお節介が好きな物好きだなあと腹の底がくすぐったくなる。これで本人は〝優しい〟自覚がないのだから困ったものだ。――でもボクはやっぱり、彼のそんな無頓着で飾らない優しさが愛おしいなあと、この腹の底に落ちていく。
――ギリ、とした痛みがまた心臓の辺りにまとわりついた。
……明日には帰国してしまう彼。ボクはもう、ここで覚悟を決めるべきなのだ。
「あ、そうだホロホロくん、」
何事でもないように、ボクが準備していたことを悟られないように、細心の注意を払って呼びかけた。手にあったサンドウィッチを頬張り、半分に欠けたそれを握りしめたまま彼の瞳を捉えた。……なんだか唐突に味が消えてしまったような錯覚に陥る。
「実はボク、今やってる論文が認められれば卒業できることになったんだ」
「おう、また飛び級か? すげぇな。お前どんだけ頭いいんだよ」
「ははは。なんて言ったってボクはダイゼル家だからね」
これから言うことを、本当は複雑な気持ちで抱えていた。けれど、こうする他に方法がわからない。
「――あ、それで、卒業したらルームシェアしないかってX-LAWSの何人かに誘ってもらってるんだ」
それを告げると、彼はパッと顔色を明るくして、ボクのことを見返した。
「お、そうか。そりゃいいな!」
まるで自分のことのように笑ってくれる彼は、本当はいつまでも隣でそうしていてほしいと思ってしまうまでになっていた。
「だからもう、君もボクのこと心配しなくて大丈夫だよ。日本からここまで旅費だって安くないんだし、君も君の勉強があるでしょう?」
尤もらしいことを並べて、彼の反応を誘導してやる。案の定彼は所在なげに視線を落とした。
「まあ、そうだけどよ……」
「ね? 今までボクのこと、気にかけてくれてたんでしょう? ありがとう。君の優しさには救われたよ」
――心からそう思う。寂しさがにじり寄ってくるとき、ボクはいつも君のことを考えていたんだ。君が会いにきてくれたときのこと。来てくれるときのこと。
「べっ、別にそういうんじゃねえよ!」
照れくさそうに眉を顰めて声を上げる彼は、あまりにも、いつまでも彼のそのもので安心する。
「ほ、ほら、イギリスってやっぱ歴史があるって感じでかっこいいし、知らない文化ってどこでも勉強になるし!」
「ふふ、そう言うことにしておくね」
あくまで恩を着せないその言い分は、やはり彼の無自覚な優しさからくるもの。でも……だからこそ。ボクみたいな人を大切にしてくれる君だからこそ、君は君自身を大切にしなくてはいけない。――君は、ちゃんと君の夢を叶えなくてはいけない。
「しかし、ルームシェアか〜楽しそうだな」
真意を誤魔化すように話題を変えて笑う彼に、もちろんボクはこれが嘘だと伝える気もなくて、ただただ彼の優しさに釣り合うような自分になりたいと笑顔を保っていた。
この先に何が待っていようとも、ボクは彼が自分の夢を叶えてくれることを願っている。そしてボクたちの夢路の途中でまた会えたなら、そのときはもっと頼れる自分でありたいと思う。
おしまい