退紅のなかの春 かつこつ、かつこつ。
「――それでね、そのときにね、」
「わかったから、落ち着いて話せ」
鈍く鏡面処理をされたタイルの床と革の靴がぶつかる音と、それとイタリアの間の抜けた声が高い天井の廊下に響いていく。全面ガラス張りの立派なオフィスビルの上階で、俺たちはあるのかも定かではないものを探して彷徨っていた。
本日は隣の棟の一室で世界各国が出席する世界会議が行われている。……どの化身に対しても不満にならないよう、よく配慮された、ある意味では特筆すべき点がなにもないような殺風景な会議室でそれは行われていた。久々に訪問したこの国は、相変わらずトイレと食べ物にかける情熱は国一倍で、
「なかなかないね〜。日本が言ってた『おしるこ』が売ってる自動販売機」
余計なことをこいつに吹き込んでくれたお陰で、俺はこうやってイタリアの子守をしなくてはならなくなってしまった。休憩も十五分というのに、これでは十分に気が休まらないではないかと、憤るまではないが、少しばかり呆れてはいた。
「そもそもお前が曖昧な情報のまま飛び出すから悪いんだ。『隣の棟』だけでは何階かも、西側か東側かさえもわからないではないか」
「ヴェ〜」
「ごーまーかーすーな!」
とりあえずで歩を進めていはいたが、ようやくこの廊下は終わりが見えて、大きなロビーのような空間に出ることがわかった。休憩スペースらしきソファも見えたので、おそらくあそこに一台ないし二台の自動販売機があると予想ができた。……イタリアも同じように予想したのだろう、「わ、」と声を上げて歩幅を広げた……が、すぐに俺のほうへふり返った。
「ねえ、あれ、プロイセンとロシアだよ」
報告されている間にイタリアが足を止めた場所に追いつき、示されたほうを確認する。
確かに、先ほど見えていたソファは手前のほうで円を作り、その壁際には自動販売機があった。だが、そのさらに奥……反対側の廊下に繋がるほうでも同じように休憩用のソファがあり、そしてそこに、イタリアが指摘した通り、兄さんとロシアが座っていた。
……こんな人気のないところで、二人肩を……並べているわけではなく、それなりに距離はあるが、それでも二人で座って休憩していることに訝しみを抱く。
「……本当だ。な、仲がいいな」
「そうだねえ」
よくよく見れば、二人に会話をしている気配はない。別に嫌悪感があるようにも見えないが、どちらかというと、何かを互いに推し量り合っているような、そんな微妙な空気のようだった。
「……ヴェ……やっぱりロシアは大きいであります、」
先ほどまで『おしるこ探索隊』がどうのとはしゃいでいたこいつは、いとも簡単に俺の陰に逃げ込むように後ずさった。付け加えるが、兄さんやロシアがこちらに気づいているような様子は見受けられない……というのに、またそんな、出くわしただけで怖気づくとは情けない。今となってはこいつに頼りがいがあるほうが恐ろしいが、それにしても嘆息を落としてしまうのは不思議なことではないはずだ。
「まったく、お前は本当に怖がりだな」
「だってえ……。た、隊長、『おしるこ』買ってくるであります……」
俺の陰に潜んだままのイタリアは、いったいどんな神経をして〝隊長〟を顎で使おうとしているのだろうか。しかも言葉尻のせいで少し曲げて解釈もできてしまうことから、こいつの動揺と青ざめた顔が見なくてもわかる。
「……あー、それだとお前が一人で行くみたいに聞こえるが、それで大丈夫か?」
「ひえ、大丈夫じゃないですっ」
身体を無駄に強張らせるように目を固く瞑って、本当に仕方のないやつだ。以前ならばぴしゃりと一喝でも入れてやるところではあるが、この時代にそれは甚だ不釣り合いだろう。こんなやつにも優しい時世になったのは大いに喜ぶべきだ。
「……よし、じゃあ、お前がそこまで言うなら引き返そう」
俺の腕を強く握りしめていることをいいことに、そのまま踵を返して前進するために足を上げた。
「え、待っ、でもおしるこ……あ、」
「ん?」
何かを見つけたような声を零すから、何を考えるよりも先にイタリアの表情を確認してしまった。見ればイタリアは未だに兄さんとロシアのほうを見て……いや、釘づけになっていて、だから俺も改めて二人のほうへ視線をやった。
先ほどから特に目立った変化は見られない。かと思えば、ロシアのほうが小さく口でも開いているだろうか。兄さんの顔は向こうのほうへ傾けられたからよくわからない。
「どうかしたか?」
……だが、ロシアの表情は確かに柔らかく見える……かもしれない。よくにこにこと笑っているロシアのことなので、それは取るに足らないことではないかと、改めてイタリアに焦点を合わせた。
「う、うん、」
それとも、自動販売機を凝視しているのだろうか。ここからその『おしるこ』という得体の知れない飲み物がないか見ているのだろうか。
「まったく、お前は本当に味に対しては好奇心旺盛だな。そんなに飲みたいなら近くで見ればいいだろう」
今度は俺のほうがイタリアの腕を引き、兄さんたちのほうへ身体を出した。
「ロシアもあんなやつだが、兄貴が気を許しているんだ、きっとお前が思っているような恐国ではない……少なくとも今は、」
「――でもそれは、」
思わぬ反論が飛んでくる。
「相手がプロイセンだからでしょ?」
足を止めて数秒、真面目にイタリアと見つめ合ってしまった。
「……は?」
「え?」
二人の間で何かしらの行き違いが生じているのは明白だが、それが何なのかまでは明らかにならない。
「相手が兄貴だと、なんでそうなるんだ?」
俺のほうから抱いた疑問を明かしてやると、イタリアは珍しく訝しむように目元を強張らせた。
「ええ、ドイツ?」
「な、なんだ? そんな神妙な面持ちで」
それからさらに数秒、俺の頭の中をスキャンしているかのようにしっかりと瞳を覗き込まれ、ついにイタリアは諦めたように視線を逸した。……なんだ、何かを俺から隠すような仕草に思えた気がしたが、こいつはそのまま決まりが悪そうに「あ、いやなんでもないであります……」とぼやいていた。
俺はと言えば、投げ出されたもの拾うことはできず、「おかしなやつだ」とぼやき返すほかない。
仕方がないのでまた兄さんたちに焦点を当ててみると、向こうは少し会話が弾んでいるようだった。兄さんが楽しそうに笑う横顔が見える。……先日、兄さんととも旅行したカリーニングラードでたまたまロシアに出くわした際、一応俺もロシアもこれまでのことは精算したはずで、だから俺は、実際は少し複雑にざわめいている胸中をなかったことにしていく。……いつか、これは気にならなくなるはずだ。兄さんのことを気にかけすぎないようにすると、自分の中に取り決めをしたのはまさにそのときだ。
「……あのさドイツ」
「なんだ」
「この間、プロイセンと旅行に行ったカリーニングラードでさ、」
ぴたり、と視線をイタリアとくっつける。
「プロイセンが夜中にいなくなったって電話したでしょ? 俺に」
「ああ、お前も来るはずだったが寝坊したからな」
気に病まれても困るので本人に言ってはいないが、少しだけ、イタリアと見る〝ケーニヒスベルク〟はどう見えるだろうかと前向きにしていたのは事実だ。だからそう指摘してやったわけだが、イタリアは苦虫を噛み潰したように笑って、「ヴェ……悪かったって」とその場しのぎの謝罪をした。……まだ納得はしていないが、そのうち何かで埋め合わせをしてくれることを期待するとして、とりあえずは話の続きを促しておいた。
「それで、大慌てだったお前を、俺は『ロシアのところだと思うから朝まで待ってみたら?』って助言したでしょう」
「……ああ、された」
兄さんが姿を消すのは初めてではなかったが、場所がカリーニングラードだったこともあり、俺はイタリアの言う通り少し取り乱してしまった。今でもあのときの光景を思い出してゾッとする、暗闇の中でふり返った先のベッドが、もぬけの殻になっていた。……そのときに、イタリア言われたのだ、『朝まで待ってみたらきっと大丈夫だよ』と。それを聞いて俺は思い出したのだ、兄さんが寝る前に少しそわそわしていたことを。だから俺も自分を納得させることができた。
「二人で何か話があるようだったし、実際に深夜に戻ってきたからお前の言う通りだったんだろうと、報告はしたはずだが」
なぜ、今この機会にこの話を持ち出しているのか、その意図は未だ掴めないままだ。わかりやすく首を傾げてやると、イタリアはまた控えめに俺を見返した。
「……それが、どういう意味か……もしかして、わかってない……?」
「……意味?」
何か話があるようだった兄さんとロシアがたまたま、ロシアのカリーニングラードで出会ったのだから、そのあった話を済ませたという意味ではないのか。おそらくその前後のやり取りやそれまでの二人の様子から、話の内容も大体予想はできていたこともあり、イタリアが今さら何を尋ねたいのか……俺とイタリアの意思の疎通が一向に図れている気がしない。
「長年の引っ掛かりを解いたのではないのか。だからああやって談笑して……、」
兄さんとロシアが座っているソファのほうをまた二人して確認する。
先ほどまでは確かに楽しそうに笑っていたというのに、いつの間にかまた二人は黙り込んでいた。……あの度々訪れる妙な沈黙は一体なんだろうか。
「……談笑して?」
「は、ないな」
「そうだね」
……わからない。イタリアが言いたいことも、あの二人の間に漂っている空気も、何一つ今の俺には理解が及ばなかった。どうして先ほどまで談笑していた二人が、ふらふらと互いに視線を避けているのか、あの見ているこちらを悶々とさせる微妙な距離感とは一体何か。
「あはは、邪魔しちゃ悪いね! おしるこは会議の後まで我慢するよ!」
じっと見てしまっていた二人の様子から、唐突に動きを持ったイタリアに視線は飛び移った。
「あ、おい、イタリア?」
今度はどうしてそんなに楽しそうなのか、下手くそなスキップに乗って進んでいたかと思うと、
「ドイツも、そんなに鈍感だとプロイセンが泣いちゃうよ?」
何かくすぐったそうに笑いながら忠告された。いやいや、本当に理解ができない。
「……さっぱりわからん」
ただ、確実に『おしるこ』に執着していたのはイタリアのほうであり、俺ではないことは確かなので、俺も腑に落ちないながらも渋々と廊下を進み始めた。イタリアはそれを待ち、隣に立つやいなや「ヴェ〜」とまた気の抜けた掛け声とともに、うっとおしく俺の腕にまとわりついて嬉しそうに笑った。……いつも以上にこいつがわからない。……わらかないが、
「今日会議のあと日本とどこに行こうか〜!」
嬉しそうなら、もうそれでいいかと諦めがついた。
「プロイセンが来れなくて寂しいね」
見上げる二つのつぶらな瞳が嘆いてみせた。言葉ほどの残念さは見受けられないが、別に嘘は言っていないだろう。
「ああ、兄貴から聞いていたのか。まあきっとフランスやスペイン辺りと飲みにでも出るんだろう」
もうすぐ休憩も終わる時間になってしまう。早いところ水分補給を済ませて会議室に戻らないとと思い浮かべる横、兄さんがよく飲みにでかける友人らもそこに並んだ。
「あれれ、そうだっけ? 確かスペイン兄ちゃんは兄ちゃんとどこかに遊びに行くって言ってたし、フランス兄ちゃんも『〝飲んだくれ眉毛〟でも捕まえるか〜』って言ってた気がするけど〜」
ちら、とイタリアの視線が俺の横顔を捉えた。
「まあ、いっか」
……ああ、イタリアのやつ、これはわざと俺を試しているんだなと理解した。これまで俺が兄さんに抱いていた過剰なほどの執着をイタリアも見ていたから……お、俺は兄さんのためにももう一回り成長することを誓ったのだ。
フランスやスペインと出かけないのなら、もしかしてロシアだろうかとふり返りたい衝動に駆られたが、それはなんとかぐっとこらえた。
「……も、もう、行き先に口出しをしないと、決めたから……」
そうだ。俺がいつまでも兄さんに甘えていてはだめだ。どんな現実を突きつけられても、どんと構えていられる〝ドイツ〟に、俺はならなくてはならないから。
「……でも、ドイツにとっては大事な家族だもんね。気になるよね」
問われれば答えたくなる……当たり前だ、気になるに決まっているだろう。だが、今はそれを言ってしまうのはきっと正しい回答ではない。そうやって一人、口の中でもごもごと言葉を探していたら「あはは」と悪戯に笑って、いっそう強く俺のほうに身を寄せた。
「会議のあと、二人をつけちゃう?」
「そっ、そんな真似できるわけがないだろう⁉︎」
ったく、兄さんのことを必要以上に気にしないようにと努力をしているのに、こいつは悪魔なのか。思わず肩で息をするほどに焦って声を荒げてしまった。
だがこういうときばかり、イタリアは俺が怖くないらしい。
「えへへ、そうだよねえ。残念〜」
驚くほどのびのびと笑ったかと思うと、
「では隊長、我々はどこに行くでありますか?」
もう切り替えて、きりりと会議後の遊ぶ算段をつけ始めた。……まったく、本当にこいつは。その自由気ままさに、簡単に毒気を抜かれてしまった。兄さんに甘えるのをやめるだけではぬるいな、イタリアのようなふらふらした男に振り回されているようでは、この先が思いやられる。
小さく咳払いをして見せた俺は、また仕切り直すようにネクタイを整えた。
「そうだな、ビールの美味いところを日本に紹介してもらおう」
「いいねえ! うん! いっぱい飲もうね! みーんな楽しそうで俺、嬉しいよ!」
言葉に違わぬ爛漫な声が、また来たときと同じように高い天井に響いていった。
イタリアが好き勝手自由にするのは時折、とても苛立たしく思ってしまうが……こうやって、元気に笑っていられる時世には、やはり愛おしさを覚えるばかりだ。こんな穏やかな時代が、いつまでも続けばいいのにと、願わずにはいられない。
おしまい