赤い一人と一羽
「ねえ、プロイセンくん」
ぼくは静かに語りかけた。眉間に深く深く不快感を刻み込んでいるであろう彼は、短く「なんだ」と悪態のような声を返してくれたのだけど。
「君、なんで来たの?」
呆れてため息が出る。余っていたスイートルームはとりわけ肌触りのいいシーツらしく、その上に寝転んで、腕で光を遮断している青ざめた彼を見下ろす。
「そりゃお前が一人で飲んで、動けなくなったら俺様が介抱してやるためだろ」
「……で、この状況は」
「俺様のビールにウォトカ入れたバカはどいつだ」
「君がそんなに弱いって知らなかったよ。あのころよりも弱くなったんじゃない?」
そう、楽しく飲んでいたぼくに対して、彼は割とすぐに目を回してしまった。リトアニアに連絡したけど、結局取ってくれていたらしいホテルがどこかわからず、そのとき飲んでいたロシアンバーのビルの上層階がホテルになっているのだとマスターに教えてもらったぼくは、そのままプロイセンくんをそこに担ぎ込んだ。その流れで、よりにも寄ってぼくが、このぼくが彼を介抱するはめになったのだ。
「……知らねーよ。ああ……頭ガンガンする……」
「もう……」
彼がさっきからおえおえと文句とか諸々を吐き散らしている横で、うんざりとした気持ちでぼくはベッドに座っている。以前の、いや、昨日までのぼくなら、きっとこのまま「じゃあ頑張ってね」って帰ったんだろうけど、先ほど自覚してしまった気持ちのせいか、もう少し、もう少し、と彼との不毛な時間を浪費してしまっている。
公務と偽ってこちらに飛んできたぼくは、朝一の飛行機で帰るつもりだった。……でないと、残してきた仕事が間に合わないから。……こんなことになるなら、二軒目で調子に乗らなければよかった。浮かれていた自分の非は、まあ、認めてやってもいい気はしている。
「おい」
「ん?」
プロイセンくんが身体をわっとその場に起こした。その額と腕の間に挟んでいた濡れタオルが彼の膝に落ちる。
「海、見に行こうぜ」
相変わらず眉間に皺が寄ったままだというのに、彼はなぜかそう提案した。……確かに、近くに海岸線があったようには思う。けれども、今は冬まっただ中で、おまけに早朝五時を回ったところで。
「この寒い中? 君、気分悪いんでしょう」
「いんだよ。海の風、見に行こうぜ」
『風を見る』なんて、きざったい彼らしいなと思ったけど、素直にその行動には呆れるほかなかった。酔っている彼にとって、海風は大丈夫なのだろうか。より酔いが回ってなおさら気分が悪くならないのだろうか。
色々と彼の代わりに懸念してあげていたわけだけど、彼はそんなこと露ほども知らずに、「くそ」と愚痴りながらコートを羽織った。やんわりと裾が舞ったロングコートは彼によく馴染んで、唐突に溢れた万華鏡のような熱がぼくの視界を邪魔して、彼からすぐに目を放していた。
「まあ……いいけど」
先導して歩く彼を追い、ぼくも部屋を後にする。
ホテルを出てから、彼はずっと無言で前を歩いていた。前を行く背中はぼくとは違い、オフの人のそれだったけど、懐かしい背中に刺すような熱がぼくの内に蔓延していたことは自覚している。
こんな風にこの地を二人で歩いたことなんて何回でもあったろうけど、きっとそのとき、彼の纏うロングコートは安っぽくて工場の匂いがして、ぼくだってこんな穏やかな気持ちではいなかったはずだ。……でも、そんな思い出も懐かしいなって。今よりも幾分か暗がりだった視界を思い出す。
海沿いの歩道に到着して、彼は「あー……だよなあ」と一人でまたごちっている。海の上を渡る風の音が耳を叩く。何が「だよなあ」なのかぼくはわからないのだけど、とりあえず彼はフェンスにもたれ掛かって、真っ黒な空の向こうの方を見渡した。……星すらほとんど見えないのは、曇りだからだろうか。ぼくの目が眩んでいるからだろうか。
まっすぐに向こうを見据える彼の瞳には、一体何が映っているのだろう。気分の悪そうな横顔に釘付けになって、彼の考えていることを探ろうとする。ぼくのことを考えてくれているだろうか。それとも、この地に思いを馳せているのだろうか。ちら、と彼の視線が動き、目を合わせた。それで釘付けだったことに気づいたぼく。特に慌てたわけじゃないけど、視線を足元に落とした。深く巻いていたマフラーに鼻の先まで埋まって篭った吐息が暖かい。
視線の先には、薄っすらと水面に照り返る街灯の明かり。それのお陰で波の動きがよく見えて、でも海そのものは、空と同様に真っ黒で、ここが海なのか夢への入り口なのか迷った末に、少しだけこわくなった。フェンスに置いていた手が、ぎゅっと縮こまる。
「真っ暗だねえ。足元の界面に飲み込まれそうだ」
ゆらゆらと誘うその水面を見張るぼくに、プロイセンくんは軽く肩を叩いて顔を上げさせる。ひんやりなんてかわいいものじゃなくて、ざっくりと切りつけるような寒さが顔を撫で、ぼうっと息が泡のように白く舞った。
「ここが海の底みたいじゃねえ?」
彼の指し示す方向は、相変わらず上に向かっていて。確かに、真っ黒の空を見上げると、既にここが海底のよう。まるで世界が反転してしまったように……やっぱり足元がおぼつかなくなる。
「本当だね、うん」
彼の手を掴んで、その心もとなさを誤魔化してしまう。
真っ黒の空に溶け込むぼくたち二人の吐息は、まるで熱を持っているのがこの世界でぼくとプロイセンくんだけのように錯覚させる。そんな風に夢見たことも、あった気がする。世界に存在しているのが、ぼくと、従順な彼だけだったら、どんなに世界は平和だったろうかと、そう。初めて手にしたぼくの中で唯一凍らない海も、以前は確かに彼の心臓部で、そんなことにぼくは想いを巡らせたこともある。……ぼくの中のたった一つの凍らない部分が、ぼくではなくて従順な彼のものだと思うと、切なくて苦しくて、もういっそ全部が凍ってしまえと、
「不凍港」
思考を遮って、彼の吐息が混った。
「……うん」
「持っててよかったろ、ここ」
まだ少し青ざめてるくせに、彼はニッと快活に笑う。まるで銃弾で鬱積を撃ちぬかれるような衝撃を受ける。――ここは、ぼくのもの。ずっとそう。この凍らない部分も、ぼくのものだった。どういうわけか今更それに気づいて、嬉しいのに苦しくて、息をが詰まる思いをした。これはなんだろうと背中を丸め込む。視界に広がる真っ黒の夢の入口に向かって、ぼくは自信もなげに落とし込んだ。
「うん、ずっと欲しかったもの」
不凍港に憧れていた。……だけど今ならわかる。それだけが理由じゃなかった。
「ここさ、夕焼けがとびきり綺麗なんだぜ」
再び彼を見やると、楽しそうに彼は空に向かって笑いかけた。まだ日の出の気配すらないのに、彼にとってはもうそこに焼き付いているであろう光景を、満たされたような揺らめきを漂わせて眺めている。だけど、ぼくはそれを知らない。見てみたい。そう思ったけど、今回は朝一で帰らなくちゃいけないから。
「……もう少し待てば、朝焼けは見れるかな」
「夕焼けがいい」
とても強い意味を持っているのが、その瞳の温もりからわかった。ここから彼が見た光景は、一体どんなものだったのだろう。知りたい。彼について。彼の抱いている思いについて。ああ、その眼差しはぼくの中にいた彼は持っていなくて、くらくらと目眩を起こしそうなほどにぼくを惹きつけた。
顔色はすっかり晴れやかになっていて、またしても釘付けになってどうしようもなかった。
「そういえばさ、気分はどう?」
「おう、かなりいいぜ」
「よかった」
続けざまに彼は大きく息を吸い込む。
「あのころはさ、大変だったけどさ、今思えば多感で忙しくて、時間があっという間に過ぎてったよなあ」
「そうだね」
同じときのことを想えているのは、なにか少し照れるな、なんて思ったらマフラーに口元を隠していた。彼と共有できた時間はしっかりと彼の中にも残っているということ。もしぼくだけじゃなくて、彼もあのころを懐かしむように思い出せるのだとしたら、それは嬉しくて、くすぐられたようにもっともっと頬が緩んでいく。
――あのころのぼくの夢は結局、叶わなかったけど。
「もっとも、あのときのお前にここを見せてやりてえなんて、ひとっっつも思わなかったけどな、ケセセ」
ぼくの視界でまた星が踊る。笑った彼の嫌味ったらしい表情が、それでもぼくには眩しく映る。……彼の中のぼくも、新しい姿を与えられているのだろうか。もしそれがプロイセンくんの中にも新しい波紋を描いているのなら、今日無理矢理にでも会ったのは、満更間違いでもなかったということにしてしまってもいいのかもしれない。
ずっと彼の瞳を見ているのが照れくさくなり、ぼくはまた沖の方へ目を向ける。当時の視界のように相変わらずすべてが真っ暗だったけども、彼が隣にいるというのには、あのころも今も、どんなに心強いだろうか。もうあのころのことを思い出す人は少ないけれど。いつかは、思い出せる人が誰ひとりとしていなくなるけれど。ぼくたちだけは、二人で秘め事のように思い出すのかな。
「ここさ、夕方の五時ごろになると鐘がなるんだ。その音がまた染みこむっつーかさ」
嬉しそうにぼくに伝えてくれる彼は、まるでその情景を体現しているようで、胸の中にまた暖かさと期待が流れ込む。夕方の五時といえば、彼が言っていた夕焼けほどの時間だ。
……あ。
その『五時』という合言葉で、ぼくは『時間』の存在を思い出してしまった。……朝一の飛行機で本土に帰らなければいけなかったんだ。ポケットに入っていた腕時計を覗けば、午前六時過ぎ。ぼくは一度別宅に戻って荷物の準備をしたりと、いくつか手間が残っている。
未だに楽しそうにその大好きな情景を語っている彼を見ていたら、そんなこととてもじゃないけどどうでもよくて……だけど、それらを投げ出せるほどに開き直れもしない。
「ごめんね、」
彼の言葉を遮った。
「ぼくそろそろ行かなきゃ」
「……そうか」
隠してしまうように彼は無表情になって、ぼくはまたドキリとした。訝しげな顔も、ましてや楽しそうな顔も、彼は表情を転がすのが上手なくせに、こんなにも無表情にぼくを眺める。どういうわけかそれに焦ってしまったぼくは、
「あまりにも急に君に会いたくなったから、公務ってことでここまで来ちゃったんだ。だから、もう帰らなきゃ」
繕わなければと、まくし立てていた。
裏腹に、彼は「そうか」と零して、また騒がしく笑ってしまう。
「ケセセ。ぶっ倒れねえ程度に頑張れよ」
ぼくのことなんか責めちゃいなかった。抱いていた緊張感は気づくころには緩んでいて、「うん、君もね」と笑い返してやったら、彼は不服そうに「嫌味か」と口を尖らせた。彼は優しいなって、そんなこと随分前から知っていたはずなのに、その優しさに綻んで「うふふ」と力なく笑っていた。
少しの間だけ、この眼下の海のような沈黙が漂う。返さなければいけない踵を返せなくて、
「今度はさ、夕焼けを案内してね」
「おう、いいぜ」
動かなきゃと思えば思うほど名残惜しさが身体の中に散開する。どうしようもなくなってしまう。離れなければいけないのに、手はまた彼の腕を掴んでいて、離したくないと胸の内が苦しくなる。そしてそんなぼくを、彼がまたまっすぐに見たりなんかするから、ああ、欲しいって。彼が側にほしいって。離れたくないって。もう、だめだった。ぼくの中に聞き分けのない欲求が生まれて、それで、彼にもそれが伝染したらいいって、じいっと彼を見つめていた。
思い出した情景のせいだろう。彼の瞳の中に漂う淡い揺らめきに引かれて、ぼくの力がふわっと抜ける。抑えられずに身体をぎゅっと抱き、ぼくはその温もりでなんとか衝動を覆い隠した。ハッと彼が呼吸を再開したのが音でわかる。
「……じゃあね」
惜しまないように潔く手放して、そのまま急いで踵を返す。仄暗い海の底に彼を置き去りにしたような罪悪感はあったけど、ぼくだってたった今手放した感覚を惜しんでしまう。惜しまないなんて、無理だった。
ああ、なんか、とっても寂しいな。ぼくの中にずっとあった穴が、彼の形をしていたなんて。……こんな気持ちには気づきたくなった。
あ、もうじき明けるかな。ぼくは白み始めた空を仰ぎ歩いた。
おしまい
あとがき
いかがでしたでしょうか。
近頃は俺誕に参加できたらな〜と原稿をガリガリ書いたり何だりしているので、
余り投稿できておりませんが、このお話はブログじゃなくてこちらにと思い投稿いたしました。
軽い気持ちでお題を〜なんて言ったら、
「ケーニヒスベルク二十六時の続編!」とリクエストをいただきまして、
書かせていただきました。
実は大前提に「キッス」があったのですが、すみません、
この二人はまだそこまで至りませんでした……許してください。笑。
「ケーニヒスベルク二十六時」の方が、「表.参.道.2.6.時.」をテーマにしていたので、
今回は(勝手に続編と思っている)「M」をテーマに書かせていただきました。
歌詞を見て「あの子」がロシアちゃんで、「カモメ」がプロイセンくんかなと。
(色々と妄想で補完しましたが)
その内気が向いたらプロイセンくん視点も書くと思いますが、
今は少しお待ちいただけると幸いです。
ご読了ありがとうございました!