こんなに近くにいた君は
その晩、俺たちは懐かしい夜に浸っていた。……いや、懐かしいながらに、新鮮な夜だった。あの頃の毎晩のドンチャン騒ぎが、ここふんばりヶ丘で再現されているような。
〝あの戦い〟を終えてから、初めて集まる俺たち五人の戦士。竜が準備してくれた宴席を囲って、俺たちは初めて酒を交わして騒ぎまくっていた。
まん太は残念ながら明日の大学があるからと、簡単な挨拶をしてから帰ってしまった。先ほどまで話題の中心だった花坊は、アンナとたまおが連れて行ってしまった。おそらく、時間的に寝かしつけでもするのだろう。蓮がずっと大事そうに抱いている黽坊も父親の腕の中ですっかりぐっすりと言ったところだ。
「でも日本って本当にきれいなところだね〜! ゴミが全然落ちてなくてびっくりしたよ」
リゼルグが楽しそうに話題を振った。それにチョコラブもテンション高く同意する。この二人は日本に来るのが初めてなのかはわからないが、とりあえずふんばりヶ丘は初めてらしい。俺は北海道の田舎から出てきたもんだから、特別ふんばりヶ丘がきれいだとかは思わなかったな、と酒を一杯、口に運ぶ。
ここまでで既にかなり飲んでいた俺は、楽しそうに会話するみんなを嬉しい気持ちで眺めていた。
「もっと見て回りたいくらいだよー!」
「はは、だったら北海道とかどうだ? ほら、ホロホロが案内してくれるぞ」
リゼルグの笑い声に葉が続けて俺を見る。みんなの視線が俺に向いたことに気づいた俺は、ぼやぼやと酒にふやけた頭が幾分か冴えた。
「おう! いつでも来いよ! 北海道の大自然、俺が見せてやるぜ!」
うるさいくらいに答えた俺だが、周りも盛り上がっていたのでそんなに気にされなかったようだ。
それからまた話題の主導権はリゼルグやチョコラブが握って進む。アジア人ではないこいつらはおそらく酒に強いのだろう、ぽやぽやと溶けそうな俺や葉とは裏腹に、いつまでも元気だ。蓮はひたすらに眠たそうだ、こいつは酒を飲むと寝るタイプだなとすぐにわかる。
そんな中で、話題は花坊や黽坊へ移っていく。……本人たちがいる前では話せないような下世話な話題へだ。〝そういう話題〟への関心のせいか、俺の脳みそも多少シャキッとした。
葉とアンナの初体験はいつなのか、とか、蓮とメイデンちゃんは、どちらから誘ったのか、などだ。興味津々で聞き耳を立てて、ときどきうるさいと制されながら相槌を打ってやる。
ちくしょー、俺なんて彼女が最後にできたのいつだよ、と内心で悪態を吐きながら、
「チョコラブ〜、俺たち仲間だよなあ〜!」
情けない者同士で傷の舐め合いでもしようかと思ったのに、それについてはなぜかリゼルグがニヤニヤと楽しそうに口を開いた。
「実はチョコラブくんもね? お相手がね?」
含んだようなものの言い方にもむかついたが、その直後にチョコラブも「まあな」と満更でもないように頬を掻き始めたから、本格的に怒りが湧いた。
「んだとチョコラブ!? お前!? ハア!?」
お前だけは仲間だと思っていたのにー! と激しく掴みかかってやるも、誰も止めることはなく、むしろその状態でリゼルグは続けた。
「彼は本当に優秀な模範囚なんだ。罪を償おうと誠実な活動を続けている姿を見て、少しずつ支援者が増えててね。……その中のとある女性がね、ね? チョコラブくん? 熱烈なアプローチをしてくれてるんだよね?」
「はあ!? お前ー! 服役囚のくせにー!」
「ホロホロ〜、その辺にしとけよー」
俺がガチ泣きしながらチョコラブの胸ぐらを掴み抗議しているというのに、葉は相も変わらずゆるゆるな声色で俺を制そうとしやがる。こんなので俺の傷ついた心が癒やされるかー! と騒いでいたら、チョコラブが補足を始めた。
「いや、俺だって刑期が終わって償いが進むまでは、そんなこと考えるつもりはないって言ってるんだぜ?」
「でもお相手がねー、すごく熱心なんだよね」
またリゼルグが楽しそうに付け加える。そういえば、なんでこいつは先ほどからずっと機嫌が良さそうなんだ、と少し矛先がリゼルグに向いた。
「そういうお前はどうなんよ、リゼルグ」
同じことを思ったからのか、それとも俺の矛先を完全にチョコラブから外そうとしたのか、葉がまた何にも考えてないようなゆるさでリゼルグに話を振った。
言われてみれば、ここへきてリゼルグは自分のことをほとんど話していなかったなと思い出した俺は、気になってチョコラブから手を放した。
それまでの楽しそうな笑顔を崩さないものだから、てっきりリゼルグからも悔しい報告を聞くことになると思っていたのだが、リゼルグは笑顔のまま、まさかの返答をした。
「ボクー? ボクもまだだよー。仕事が忙しくてそれどころじゃないしさ」
俺は驚いて自分が今聞いたことが正しいのか反芻してしまった。いかんせん、リゼルグは背も高くイケメンでおまけに頭もいい、この中で一番に結婚をしてもおかしくはないと思っていたからだ。……だから、チョコラブと同盟を組もうとしたときも、当然のことのようにリゼルグは除外していた。……なのに、まさか。
思考しながらも、リゼルグが言い終えるころに眉を少し困ったように歪めた気がして、俺は確認のためにぱちぱちと瞬きをしてしまった。
けれどリゼルグ本人がまた一口と酒を呷ったせいで、その確証は得られなかった。なんとなく気になって葉のほうを盗み見たが、相変わらず何もわかっていない鈍感野郎はへらへらと笑っている。
俺がそれとなく昔のことを思い出していると、その思考を遮るように割って入ったのはチョコラブだ。
「本当なんだぜ。俺も獄中まで気を配ってくれるこいつ見てて、こいついつ寝てんだ? っていつも思ってんだ」
「それは俺も同感だ」
珍しく口を挟んだ蓮は、先ほど黽坊について話を振られてから、少し復活したようだった。
「まあ、健康的な生活は維持できるくらいには休んでるから大丈夫だよ」
リゼルグはまた笑って誤魔化すように酒を呷った。……というか、こいつ本当に酒に強いな、と自分の手元を見て感心してしまう。
俺は空になりかけたお猪口にお気に入りの日本酒を注ぎ入れ、それを眺めてから先ほど驚いてしまったことを口にした。
「しかしよお、この五人の中でまさか俺とお前だけが残りモンになっちまうとはなあ〜世の中わからねえもんだぜ〜」
リゼルグを指名しながら俺も酒を呷る。お猪口を台に戻し終えると、そこには未だにニコニコと機嫌よさそうに笑うリゼルグがいた。
「はは、ホロホロくんはこんなに漢前なのにねえ」
「まったく本当だぜ」
リゼルグがこんなに素直に俺のことを褒めてくれるなんて思ってもいなかったが、きっと本心なのだろうと思い、それを何も疑わずに受け取っておいた。だがその直後に蓮が「ホロホロ、それはイギリス式のジョークだ」などと言うので、不意を食らって「ん?」と間抜けに返事をしてしまった。
なんだよイギリス式のジョークって。
「しかしよぉ、リゼルグ」
俺がツッコミを入れる前に、今度はまた葉が楽しそうに口を挟む。
「ホロホロはともかく、お前は結構モテるだろー? そういうの本当にないんか? オイラたちから隠してるだけじゃねえだろうなー?」
からかうように笑って問いかけるが、リゼルグはその笑顔を崩すことなく冷静に答える。
「……やだなあ、全然モテないよ。さっきも言ったけど、仕事が忙しいしね」
「そっかあ、本当に世の中わからんモンだなあ」
葉は納得がいかなかったようだが、俺は心の中でそれ以上聞いてやるなとはらはらしていた。本当にこいつはどこまでも鈍感野郎だな、と苛立ってしまった。アンナしか眼中にないこいつは、どれだけの人間を泣かせてきたのか、知りもしないと言った風だ。
ふん、と一人で鼻息を荒くしていると、
「蓮の息子が見れたってーのに、リゼルグには子どもいねえとはな。でも確かに、あんなに忙しかったら無理ねえか」
チョコラブが色々と回想しながら言った。
メイデンちゃんと結婚した蓮や、獄中で面倒を見てもらっているチョコラブはリゼルグとそれなりに交流はあるだろう。その二人が言うのだから、まあ、これは本当の話のはずだ。
しかし、やはり〝忙しさ〟だけが理由なのかはどうかは、俺としてはまだ結論は保留にしたいところだ。
そんなことを思いながら、しばらく忘れていたつまみの枝豆の存在を思い出し、手を伸ばしたときだった。
「――まあ、ボクも男だからね、処理くらいはするけど。それくらいの関係で止まっちゃうなあ」
リゼルグが爆弾発言を落とした。俺は伸ばした手を止めてしまい、風が立ってしまいそうなほど激しくリゼルグのほうへ顔を向けてしまった。
「は!? なんだそれ!? つ、つ、つまり、せっセフレってことか!?」
「おいおいホロホロ、食いつきすぎだぞ」
びっくりしすぎて身体を前のめりに出しながら尋ねてしまい、それをいち早く葉に揶揄われた。しかもその直後に今度はチョコラブが腹を抱えて爆笑し出す始末。
「だっはっはっ、本当に相手がいねえのこいつだけじゃんー! だーはっはっは!」
「お前ちょっと黙れチョコラブ!」
「いてぇっ」
反射的に頭を殴ってしまった。ふさふさの毛は相変わらずだ。
「でもお前それっ妊娠とかさせちまったらどうするんだよ!?」
俺はあまりにも衝撃的すぎるその発言に、頭の中の疑問は止まらなかった。セフレなんてエロ本の中でしか見たことがない言葉だというのに、まさか目の前のこいつが――!?
「え? 大丈夫だよ。ボクの相手は妊娠しないから」
「は!?」
さらに目玉を落としてしまいそうなほどに目を見開いてしまった。つまり、リゼルグの相手は男ということなのか!? そう考えた瞬間に、なぜだか、本当になぜだが全くわからないが、元X-LAWSのマルコに組み敷かれるリゼルグを想像してしまった。そしてそんな想像をしてしまった自分にも驚いて、俺はもはや固まってしまった。
……う、うそ……だろ……!? そんな、まさかこんなに顔が良くて性格も穏やかなリゼルグが、そんなに股が緩かったとは……!? 厳格そうなのに……!!
なぜだか頭がくらくらしてきてしまった俺は、なぜか『いや確かに、イケメンと言っても当時の可愛げが残っているし、所作の端々にある上品さは暴いてみたくなるのもわかる』などと頭をよぎってしまっていた。なぜたか。なぜだ。
しかもそんなときにリゼルグが笑顔で俺に手を振ってくれるものだから、俺はじろじろとリゼルグを眺めていたことに自分でようやく気づく始末。自分が今し方浮かべてしまった思考も思い出してしまい、俺はあっという間に縮こまってしまった。
お、俺の大馬鹿野郎……!! と自分に猛抗議した。……バカか俺は、想像してんじゃねー!!
自分の頭を掻きむしりたいほどの動揺の中でも、蓮たちは構わずに話題を進めていく。
「……フン、そんなふしだらな関係はやめておけと言っているんだがな。まったく、こいつの気が知れん」
「あはは、そりゃあ、大好きな相手と結婚もできて、幸せの絶頂にいる蓮くんにはわからないよねえ〜。結婚式で彼ってばさあ、」
「は!? おい、やめろ!」
「え〜言われたら困っちゃうの〜?」
蓮の弱みを握っているとばかりに意地悪く笑うリゼルグを見て、俺は自分の中に込み上げてくるよくわからない感情を必死に押さえ込もうとしていた。
というか、今のリゼルグの発言も引っかかる。もしかして俺の勘は当たっているのかもしれないと思いながらも、やんややんやと騒いでいるリゼルグに、俺はもはや釘づけになってしまっていた。
それからしばらくしてのこと。
気づけば宴会場でみんなが酔い潰れていたらしく、様子を見にきた竜に起こされた。こんなところで寝てしまっては風邪を引きますから、と竜の気遣いに俺たちはなんとなく目を覚ます。
それから竜が誰から寝室に運ぶべきかと悩み始めたのが、その独り言で分かった。
それによりいち早く立ち上がったのはリゼルグで、
「じゃあ、ボクも手伝いますよ。……ホロホロくんの部屋は何号室ですか?」
言いながら俺のまだ開ききっていない視界の中に、誰かの気配が紛れ込んできた。今の話からするにおそらくリゼルグだろうと分かった俺は、なんとか目を開こうとした。
「……ホロホロくん、立てる? ほら、肩貸すから」
近くでリゼルグの声がして、確かにそうだと確信を得た。こんなところを見せておいて今更ではあったが、俺はなんとか自力で立ちあがろうと試みる。……まあ、足に力がまったく入らなかったので、結局リゼルグの肩を借りることになってしまったが。
俺たちが宴会場を出ていくとき、背後では「お前は自分で動けるか、チョコラブ」「うん、まあ、ぜんぜんだいじょうびらぜ」と、おおよそ大丈夫でもなんでもない会話が聞こえていた。
「本当に、今日はみんな飲みすぎちゃったね」
のそのそと暗い廊下を歩きながら、リゼルグが半笑いで話しかける。俺もそれに応えるように「まったくその通りだな」と言おうと思ったが、思っていた以上に呂律が回らず、リゼルグに軽く笑われてしまった。
それから俺が持っていた部屋の鍵を渡して開けてもらい、そのまま既にベッドメイクされた布団に転がされる。……俺の身体を受け止めたふかふかの布団のお陰で、俺は一気に気が抜けて、爽快なまでの開放感を味わった。
「……わりいな、リゼルグ」
なんとか保っていた意識の中でそう呟くと、リゼルグは何かを持って俺の元に戻ってきたところだった。なんだ、と目を開けると、
「ほら、水持ってきたから飲みなよ」
リゼルグは甲斐甲斐しくも俺の上体を起こさせてくれて、その水が入ったコップを差し出した。
それを喉に通したら、なんとなく頭が冴えたような気がした。ふと目の前を見ると、ネクタイを緩めて鎖骨が覗く白い肌がそこにあった。思わず視線を逸らす。
「……少しは落ち着いた?」
俺のことを心配してくれているのだろう、リゼルグは俺の顔を覗き込むように尋ねた。
そのときなぜかふと、先ほどの宴会の席でのことを思い出した。……こいつが未だに独身を通していることについて、まだ納得のいっていなかった俺は、
「お前、もうちょっと付き合えよ」
自分の限界も測らずにそんなことを言っていた。
それこそほとんど呂律が回っていなかったであろう俺がそう提案したことで、
「ええ? そうだね。君は少しも酔っ払っていないみたいだし」
などとリゼルグは口に含めるように笑った。
「それもイギリス式のジョークか?」
辻褄の合わない返答に更に返しながら、水の入ったコップをリゼルグに差し出す。
そこで目と目が合ってしまい、俺のことをじっと見つめているその視線に釘づけになってしまった。――あ、瞳、きれいだな。俺に気を遣ってか、暗めに調光された明るさの中で眺めるそれは、てらてらと鈍く光を含んでいる。こんな至近距離でリゼルグの虹彩を見たのは初めてだったので、俺は無心でそう思ってしまった。
そういえば、緑の瞳は嫉妬を象徴するとかなんとか、昔聞いたことがあるっけ、とぼんやり思い出した。血液型占いと何ら変わらない、何の根拠もない都市伝説には違いないのだろうが。
思考を変えようと視界に意識を戻すと、……本当に唐突に、唐突にだ。唐突に俺は今、リゼルグと見つめ合ってしまっている事実に気づいて、ボンっと瞬間湯沸かし器のように頭が蒸気した。
そしてそれとほぼ同時だ。
「……ブフッ」
リゼルグの口元から失笑が漏れ出した。それから何やら噛み殺すように笑いが続く。
「……ああ? 何がそんなにおかしいってんだ」
偶発的に見つめ合ってしまったせいで恥ずかしくなっていたというのに、突然笑われて訝しむのも無理はないというものだ。
だというのに、リゼルグはひとしきり笑い終えたあと、
「あのねえ、そんな目でボクを見るなんて、ずるいんじゃない?」
何かを含んだ視線を俺に寄越しながら尋ねた。
……〝何か〟ではない、それは明らかに――、
「……は!? そんな目ってどんな目だよ!?」
慌てて否定の意味を込めて言葉を返したというのに、リゼルグはコップをその辺に置いて、そのまま俺の隣に腰を下ろしてしまった。
「ボクが気づいてないとでも思った? ホロホロくんが実はゲイだったなんて驚きだよ」
藪から棒に身に覚えのないことを指摘されて、俺はさらに焦ってしまった。
「はあ!? お、俺は別にっっ」
「まあまあ」
俺の言い分なんて初めから必要なかったのか、簡単にリゼルグの言葉に遮られてしまう。それからリゼルグはわざとらしくその身を俺のほうに寄せ、
「……でも君もなんで、女の子に引く手数多なボクが未だに独身を貫いているのかくらいは、わかっているんでしょう?」
誘われるように、緩められた襟口から覗く、その白い肌を目で追ってしまった。
その口ぶりから、やはりリゼルグが独り身でいるのは〝忙しいから〟ということだけが理由ではない。そう確信していたにも関わらず、誘うように俺の視線を釘づけにするリゼルグの眼差しに、思考は完全に奪われて、思わず息を飲んでしまっていた。
「――いいよ。」
「ん? は!?」
何かを許可する意図の言葉を置いたあと、体勢を整えたリゼルグは、するすると自身のネクタイを外していく。
「ボクも今日は久しぶりにみんなと会えてとても気分がいいんだ」
目前の状況が飲み込めず、完全に頭が真っ白になってしまった。これから何が行われるのかと必死にリゼルグの行動を目で追うほかない。
するとネクタイとベルトを外し終えたリゼルグが再び俺のほうへ迫り、
「ボクと、試してみたいんでしょ……? いいよ、タチは譲ってあげる」
今にも口と口がくっついてしまいそうなほどの距離に、自身の気配を置いた。
囁くように呟かれる声に、そしてその内容に、俺はまた動揺してしまい、再び生唾を飲み込んでしまった。もしかしたらリゼルグにもその音が聞こえていたかもしれない。
今にも触れそうな唇。その長いまつ毛すら当たってしまいそうなこの距離で、それでも俺の理性はまだ生きていた。
「あ、いや、俺はっ、そ、そんなつもりじゃ……ッ」
なんとか絞り出した言葉――それを聞くなり、リゼルグはひょい、と身を引いた。
「……そ。じゃあやめとこうか。ボクも別にそこまで願望があるわけじゃないし」
「え、」
あまりにも呆気なくて、気の抜けた声を落としてしまった。気づけば今までに経験したことがないような速さで心臓が脈を打っていたことに気づく。
今度は離れてしまったその気配に喪失感を抱かされ、それにより自分の感情がわからなくなって混乱する。――ど、ど、ど、ど、心臓は鳴り止む気配はない。
「うん?」
見ればリゼルグがわざとらしく笑っている。……本当にこの機会を逃していいのかと聞きたげな口元だ。……その柔らかそうな唇を意識してしまっている時点で、俺は――俺の理性は、既に敗北を眺めていた。
「え、いや、その……っ」
歯切れ悪く吃っている俺を、リゼルグはその優しそうな笑顔で許さない。そうだ、リゼルグはあくまで〝俺の意志で〟そうなることを求めている。……それはそうだ、リゼルグが勝手に強引に続けてしまったらそれは、フェアではなくなる。
けれど俺の中には未だに一抹の抵抗があった。……男とことに及ぶことへの抵抗だ。残念なほどに女性相手にすらその経験が乏しい俺が、まさか同性とこうなることはもちろん初めてだ。その未知に飛び込むことへの勇気がまとまらなかったのだが……、
「……あっ、あー!!!! あとで後悔すんなよ!?」
俺のことを静かに待っていたリゼルグを見ていたら、まんまとすべてが吹っ切れてしまった。
***
――天井を見ると、暗めに調光した明かりが灯ったままだった。
「……久々だったせいかな、なんかすげえ、ヨかった……っ」
俺は伝えずにはいられず、そのまま天井を仰ぎながらリゼルグに言った。
するとリゼルグは深呼吸をしてから、
「……ふふ、よかった。嫌悪感もあんまりなかったみたいだね」
そう言って安堵したように笑う。言われて初めて〝嫌悪感〟というものの存在を思い出した。
「あんまりどころかまったくだったけどな」
「……そうなんだ」
「……おう」
互いの呼吸に耳を澄ませ、しばらく沈黙を用いていた。そうして落ち着いてきたところで、俺はちらりとリゼルグのほうを盗み見てやった。
それに気づいたリゼルグも俺のことを見返し、そのせいで、俺は先ほど間近で見てしまったそのきれいな虹彩を思い出してしまった。――熱と涙に濡れて、ゆらゆらと揺れる瞳を。
ぶわ、とまた全身に熱が駆け巡ってしまった。やばい、と思ったので焦って視線を放す。また暗く灯る電灯に視線をやる。いつまで経っても、心臓がバクバクと脈を打ち続けている。――今、俺は、リゼルグに触れたくて仕方がなかった。
そういったすべての感情を〝一時的だから〟と決めつけて、それらが治るのを俺はしばらく待っていた。……だがそれらは一向に治らず、
「……ねえ、ホロホロくん、」
しまいには先に落ち着いたであろうリゼルグが、この薄暗い沈黙の中で口を開いた。
「またさ、会ったときはこうやってときどきボクと寝てくれない?」
思わぬ提案に、俺の心臓への負担は増すばかりだ。わざとトボケるように「……なんだそれ」と呆れてやると、今度は少し遠慮がちにリゼルグの「……だめかな……」という問いがやってくる。
俺は意識してリゼルグのほうを見ないようにしていた。……なんとなく、今、リゼルグの顔を見てしまったら、取り返しがつかない気がしたからだ。
だから俺は、何も響かなかったことにして、何事もなかったように上体を起こしてから告げた。
「バカお前、今日のは酒の過ちだろ。んなの、次にどうとかわかんねえっつうの」
今なら大丈夫、そうたかを括った俺は、ようやく思い切ってリゼルグのほうへ顔を向けることができた。
リゼルグは俺と同じように上体を起こして、
「……そっか。変なことお願いしちゃってごめん」
俺に倣うように、何事もなかったような口ぶりで笑った。
しかしそれからいいことでも思いついたように俺の肩を叩き、注目を求めた。
「あ、でも、北海道旅行は楽しみにしてるよ?」
本当に、今し方こんなにふしだらな行為をやってのけたような気配は一欠片もなく、ただ無邪気に笑うものだから、
「おう! 男に二言はねーよ!」
俺もなけなしの正気を保って笑ってやった。
それからそこら辺に脱ぎ捨ててある衣服や、色んなものを拭うためのティッシュなどを引き寄せて、俺たちはテキパキと後始末をした。
もちろんそのあと、リゼルグは爽やかな顔をして俺の部屋をあとにした。
つづく