スイッチ 初めてだった。人生で。そりゃ、親父や弟とはあるけどな。それとは話が違うだろ。……俺様は初めて、丹田の中が高速回転するような、腹の底からエネルギーが爆発するような、そんな――
「ギルくん、おはよう」
――そんな、キスをした。
「あっ、あぁ、イヴァン、おはよ」
しかもこいつと。
小中とケンカばっかしてた幼馴染のこいつ、イヴァン。国籍も母国語も、趣味、趣向、成績から性格まで。何一つ共通点などない俺様たちは、なぜか二人で同じ狭い部屋に入って、ごろごろと縄張り争いを長く続けていた。
クラッシックを聴くイヴァンが、すこーし激しめのパンクを聴こうとした俺様に抗議したのが始まりで、俺様の私物のオーディオ機器が破壊されたこともあるし。ゲームをしていた俺様の横で、飽きたと落書き帳に何かを描き始めたイヴァンが気に食わず、やつの大切にしていた色鉛筆のセットをバッキバキに折ってやったこともある。
そんな俺様たちが、だ。昨晩、初めてのキスをしたのだ。
経緯は色々とあった。高校に入ってから、しばらくお互い違う友達とつるんでいた。突然そうしたイヴァンが初めは理解できなかったけども、元々そんなに気が合うわけではなかったし、深追いはしなかった。ただ、イヴァンとしか過ごせない、あの緊張感のある時間は少しだけ惜しんだ。顔を合わせる度に、何か言葉にし得ないむず痒い感覚が募るのがわかった。これはなんだろうな、と、そう疑問に思っていた矢先に、イヴァンが俺様に会おうと言い出した。夕飯も食ったあと、言われた近くのコンビニにのこのこ出向いた俺様だ。軽く買い物を済ませ、「こうするの久しぶりだね」と浅い挨拶を終えるまで、ずっとイヴァンに対して違和感を覚えていたのが印象に残っている。いつもよりも眉が下がって、そわそわとしている感じ。落ち着きがなくて、少しイラついた。
「こんな時間に呼び出して、話したいことでもあんじゃねーの」
そう問いかけたら、イヴァンは非常に驚いた顔をした。付き合ってもらったから家まで送るよと言い出したあとだ。
わざわざこんな時間にコンビニまで呼び出して、買い物付き合わせて終わり。……んなわけねえだろ。
だけど俺様の計算外だったこともある。そう問いかけたのは、せいぜい今の友人関係で悩んでいるとか、勉強が思うようにできない、とか。そういう軽い悩みを打ち明けられるのかと思っていたからだ。久々に話すこいつにそんな風に頼られるのも悪くないなと、少し浮かれていたのかもしれない。
だけど、苦虫を噛んだような笑みを零したあとで、イヴァンは「そうだね」と立ち止まった。ちょうど自宅までの近道として通る、小さな土手沿いの道に入ったところだった。……街灯が存在しないほどの小道であるそこでは、家屋から漏れる灯りがせいぜいの明るさで、回りに人の気配など一つとしてなかった。あるのは、風が草花を揺らしてそよぐ音だけだ。
立ち止まったイヴァンに合わせて、俺様も立ち止まる。
俺様からしたら未だに違和感の塊みたいになっているイヴァン。一体どうしたのだろうかと、近くまで歩いて顔を覗き込んだ。思っているよりも重い悩みを告白されるのかもしれない。変な事件に巻き込まれた、とか。実はストーカーに追われている、とか。その実その口から吐露されたのは、「ギルくんはさ」という、俺様に対する疑問符だった。
――男同士の恋人はどう思うか。
そう問われたとき、聡明な俺様は、これは俺様に対する告の白だということをすぐに察した。
当たり前のように色んなこと、言ってしまえば余計なことまで考えていたこの頭は、その瞬間に白紙に戻る。それほどの衝撃を味わった。……どうしてか、言葉が出なかった。自分で把握している感覚といえば、身体の中を巡る血液の感覚だけ。ドクンっドクンっと耳障りなほどに主張しながら、体中を巡っているのがわかった。生きているんだとわけもわからず実感して、目の前のもじもじしているイヴァンに釘付けになった。
固まってしまった俺様に対して首を傾げて、イヴァンはさらにゆっくりと歩み寄る。少しずつ近づくイヴァンに、それでも釘付けになって動けなかった。どうしてここまで動揺したのか、そのときの俺様には判然としないままだ。
「ギルくん……?」
イヴァンの持ち前のやさしい声が鼓膜を叩く。
「え、ああ、悪い。す、すす、好きなやつでもできたのか。男の」
わざとらしく問いかけた自覚はあったが、動揺を全面的に出したのは本意ではない。
だがイヴァンは視線を揺らした。同じように動揺したのだろうか。見えている表情は、果たして正解なのかと勘ぐる。暗闇のせいでほとんど見えなかったからだ。虹彩だけが僅かな光を拾って、そこに揺れている瞳があることを教える。
「あの……ギルくん。質問変えるね」
いじらしくそう放ったイヴァンは、俺様の知らないイヴァンだった。
「ギルくん。好きな人いないんだったら、ぼくとお付き合いしてみない?」
「……えーっと……ちょと、ちょっと待ってくれるか」
控えめな視線にすら耐えられず、手のひらでお互いの間に距離を作った。熱くなる顔を覆って。なんでこんなに照れてんだ。動揺の仕方おかしいだろ。ガンガン俺様自身を殴りつけてくる突っ込みの方が、イヴァンの眼差しよりも狼狽えさせた。……これじゃまるで、そう言われて嬉しいみたいじゃねえか。
「いやだ。待たない。……君、一度に色んなこと考えちゃうでしょう。深く考える前に、一度だけ、ぼくの目を見て欲しい」
言葉と同時に手首を掴まれていた。
既に腕に抵抗するほども力を込められていなかった俺様は、視界の真ん中に現れたイヴァンにまたもや釘付けになってしまった。ドクドクと巡る血液が速さを増していく。少しずつ距離を寄せるイヴァンの、その先の行動を理解はしていたが、それでも動けなかった。見ていられなくて、急いで目を閉じた。……それと、ほぼ同じ瞬間だった。
「……ん……!」
驚いて出た声も飲み込んで、イヴァンにキスをされた。腹の下の方にあるらしい、何かの渦がざわざわと騒ぎ出すのがわかった。温かくて柔らかすぎるほどの感触だけでも初めてだったというのに。そこから高い電圧の電流が伝わって、丹田の辺りで高速回転するような、熱とエネルギーを孕んだその不思議な感覚は、まるで身体が浮かんでしまいそうなほどに意識を危うく揺らがせた。俺様の知らないイヴァンに引き続き、俺様の知らない不思議な心地に出会ったのだ。こんな心地になったことなど、今まで一度だってない。……これは、一体、なんだろう……。
イヴァンの気配が離れて、強襲したのは羞恥や嫌悪感などではなく、惜しむ気持ちだった。離れた気配を追おうとしてしまった自分に驚いたのは、「ごめん!」とイヴァンが踵を返して走り出したあとだ。
すぐに角を曲がって見えなくなったその背中に、呆気に取られて立ち尽くした。真っ白だった脳内には、イヴァンの顔やら、明るみでいつも見ている唇、意外とゴツゴツしている指の先なんかまで、浮かんでは重なって降り積もった。……まるで現実を叩きつけられているようだった。こんなにも鮮明に思い出せるイヴァンの隅々に、普段からどれだけ自分がイヴァンを見ていたかという事実に打ちのめされた。
――イヴァンに会いたい。
たった今消えた存在感を、こんなにも切望した。驚きは続き、しばらく帰宅できないほどだった。
そんな人生の一大イベントを乗り越えた、次の日の朝。
「ギルくん、おはよう」
「あっ、あぁ、イヴァン、おはよ」
――『ぼくとお付き合いしてみない?』
その爽やかすぎる笑顔を見た途端に、不意に昨晩の経験を脳内で反芻した。昨晩は認識していなかった、唇を離した瞬間の、妖しい光を放つこの瞳を思い出してしまい、一気に頭が爆発したみたいに煮え滾った。というのに、一方のイヴァンはあんまりにも登場通りの爽やかさだ。一言も二言も言いたいことが浮かんでは消える。腑に落ちないし、納得がいかないし、不本意である。
しかも、あんな状況で俺様を一人置き去りにしたことは許すまじである。文句の一つも垂れてやろうと睨みつけると、
「じゃ、教室でねー!」
イヴァンはタイミング悪く俺様の肩を叩き、そのまま通学路を走り去っていった。
――?
何が起こったのか確認したくて周りを見回してみたが、素知らぬ顔をして登校する生徒たちがいるだけだった。
改めて前方へ注意を戻したが、やはりイヴァンはすでにいなくなっていた。文句を垂れる、という強い意志を持っていたのに、それが行き場をなくして拍子抜けする。……というか、部活とかしているわけでもねえのに、なんで走って行くんだよ。俺様たち、昨日から付き合ってるんじゃねえのか? てか、そういえばそもそも付き合うってなんだ? 俺様の貧相な恋愛経験――しかも全てが見聞にすぎない――では、一緒に通学するとか、映画やゲーセンに行くとか、遊園地行くとか、そういうモンしか浮かばない。……というのに、一緒に通学はなし、と。
……さては。さては、あいつ。照れてやがんな。思春期の男子高校生にありがちなやつだ。告った手前、恥ずかしくなって距離置いちまうやつ。俺様の見聞録には確かにその事象が存在していた。可愛いところあるじゃねえかと少しくすぐったくなって、柄にもなくケセ、と笑いが漏れた。
その時、俺様に不意打ちを食らわせたのは、昨晩のキスされる直前の、余裕なさ気な雄臭いあいつの顔だった。唇に触れた感触もフラッシュバックする。一度治まっていたはずの熱気が再度蒸気して、とっさに顔を下に向けて隠した。こんなん……誰かに見られたらどうするんだ。ドクドクと鳴り止まない動悸が追い打ちをかけやがる。だめだ、だめだ。考えるのをやめろ。考えるのをやめるんだ、俺様……!
直後に現れた、現在の俺様の連れの一人であるフランシスが、腫れ物を扱う見たいな態度取りやがるし、そのあとアントーニョが追加されると、今度は手のひらを返したようにいじりまくるしで、もうてんやわんやの一日だった。……も、もちろんイヴァンと付き合うことになったことは知れてねえはずだ。……はず。
教室でイヴァンと向き合ったときも、なんとか顔には出さずにやり過ごせたと思う。イヴァンも至って普通に接しやがるし、無闇矢鱈と触れ回ることでもねえ。
だが、余りの味気なさに俺様は少し肩を落とした。弁当も一緒にと誘われることもなく、授業中だって何かが変わる隙など全くない。残る可能性としては放課後なわけだけども、先ほど帰りの挨拶を終えて喧騒に変わった教室内でも、あいつから『一緒に帰ろう』と誘われる気配は皆無である。友達というか配下というか、何の繋がりかさっぱりわからないが、たまに会話をしているやつらと笑顔で雑談している。……相手も笑顔とは限らないが。その相反する二つの表情が一所に集まっている様が笑えて、ププ、と笑みを漏らしてしまった。
――イヴァンと目が合う。
は、と射抜かれたように驚いて、不意に目を逸らしてしまった。唐突に息が浅くなる。俺様は無意識にイヴァンを目で追っていたことに、ここで初めて気がついた。……は、恥ずかしい……。俺様が一人で浮かれてるみてえだ……とんだ阿呆に思えた。激しい感情の起伏で、胸筋ならぬ、胸襟のあたりがぎゅっと痛むような気がした。
もう待ってても埒があかない。そう思って帰り支度を始めると、俺様の元にやってきたのはフランシスとアントーニョで、とっておきの雑誌があるからファーストフード行こうと誘われる。気安く「いいぜ」と二つ返事をして、立ち上がりざまにイヴァンを見やれば、イヴァンが少し寂しそうに笑っていた。
――ドクンッ
またしても急いで目を逸らす。お前がとっとと誘いに来ねえのが悪いんだろ。むっと口元を引き締めて、あえて気にしないように努めた俺様だった。
フランやトーニョたちと見た雑誌は、いわゆるグラビア雑誌だった。……可笑しいな、ついこの間まではこのバカ二人と一緒に大はしゃぎしていたそれも、何故か興味の欠片も湧かなかった。
「見ろよー! この子の肉厚な唇! くびれはもちろんだけどさ、この子はやっぱり唇が最高だよねぇ!」
二人で盛り上がっているところ、俺様は一人で黄昏ていた。頭に浮かんだ『最高の唇』は、言うまでもなくそんな平面に印刷されたものではない。……また昨晩のワンシーンを丁寧に思い出す。思い出す度に美化されるのはよくあることらしいけども、これもそうではないだろうか。……思い出したような、こんな感触だったろうか、イヴァンとのキスは。……もう少し重ねていたかったことははっきり覚えているのに、感触に関するところは自信はこれっぽっちもなかった。
「あ〜あ、せやったな。ギル好きな人できたんやもんな、こんな紙っきれ、つまらんよなぁ」
俺様自身も気づいていなかった嘆息を拾ったトーニョは、からかうように肩を組んできた。
「そうだったねえ。ギルどんな感じなの? 話したことは? 今朝何も教えてくれなかったでしょー?」
「……せや、親分たちにもちゃんと相談しいや〜!」
ケタケタと笑う二人を見て、『ぜってえ相談というよりからかいてえだけだろ……』と透視してやる。
その晩、イヴァンから特にメールなどは届いていなかった。イヴァンの中でイメージしている距離感とは、一体どんなものなのだろうか。付き合っているということは恋人なわけで、恋人だということは、お休みとかおはようとか、そんなことを言い合ってしまう仲のことだろうか。
……ぽっと頬に灯った惚気はくすぐるように熱く、もだもだと転げるためにベッドに倒れ込んだ。思い切って『明日はもっと話そうぜ。お休み』とメールを入れてやった。……どうだ、嬉しいだろ。俺様はイヴァンからの返信を夢に見て、そのまま寝落ちてしまうという荒業を披露し、一日の幕を閉じた。
翌朝起きると、イヴァンから返信が入っていた。喜々として開いてやれば『ごめんね、今度、ちゃんと謝るね。お休み』と書かれている。――はて、謝るとは一体何のことか。そう首を傾げた俺様だったが、まあ話せばわかるだろうと深読みを避けて、朝の支度を始めた。
しかし今日に限ってイヴァンは遅刻するわ、授業中も一度も目は合わないわ、飯の時間はいつの間にかいなくなってるわで全然顔を合わせられなかった。……ゆっくり話をしたかったんだけどな。後から聞いた話、昼休みは教員に呼び出されたらしいということがわかったので、おそらく俺様を避けているわけではない……。と、思われる。思いたい。
本日最後の授業中、じっとイヴァンを見つめていた。ぼんやりと考えていたのは、やはり濃厚な一昨日の夜のことだった。もっと光があるところだったらイヴァンの表情もしっかりわかったろうに、思い出したところでこれっぽっちも参考にはならない。……蘇るのはその感触と、ちゅ、と触れ合った瞬間の空気を挟み込んだ音、イヴァンの温度、手首を捕まえる強さ。そんな、視覚以外の全ての項目。取り分け強烈に想起されるのは、身体を巡ったエネルギーの衝動だ。その唇の柔らかさとか、あの不思議な心地を……また、味わってみたい。この渇望するような感覚は好奇心だろうか。それとも、俺様の潜在に根付く欲求だろうか。
ちら、とイヴァンの視線が返されたのがわかった。ぼんやりとしていた俺様は、慌てて背骨にぴ、と筋を通し、口パクでイヴァンに伝える。『今日、一緒に帰るぞ』と。それを見たイヴァンは困ったように笑って、控えめに頷いてみせた。まっすぐに俺様を見ないあたり、やはり照れているらしい。
……これで今日のミッションはコンプリートと言えるだろう。満足した俺様は、ようやく今日初めて、授業に身を入れることができた。
その放課後は計画通り、二人で下校した。他愛ないことを話して『うわ、こいつとこんなどうでもいいこと話すの久しぶりだな』と、懐かしいような新鮮なような、言ってしまえば浮足立っているような身軽さを味わっていた。こいつに『付き合おう』と言われるその瞬間まで気づいていなかったが、嫌悪感がない辺り、俺様は自分で思っていたよりもこいつのことを気に入っていたらしい。
こいつが手振りをつけて何かを話す度に、その手は繋いだらどんな温度だろうか、どんな感触だろうかと気になって。こいつが口元を緩めて笑う度に、あの唇に次はいつ触れられるのだろうかと、次はいつ、迫られるんだろうかと、勝手に身構えてしまった。こんな心境にいるなどと、イヴァンはわかっているのだろうか。会話の途中で何度か、口を開きかけてはやめていたので、気づかれているかもしれない。
「じゃ、ギルくん、また明日ね」
「……え、」
「ん?」
「え、あ、ああ、また明日、な」
だからこそ、呆気なく迎えた別れに、俺様は少し戸惑った。……付き合っているはずの俺様たちは、一度も、手すら触れ合わせないまま、イヴァンは解散を宣言したのだ。
……触れたかった。イヴァンが笑顔で手を振っている間、俺様は情けなくもそれを口に出せないまま、同じように笑って手を振ってしまった。
イヴァンがタイミングを掴めないのか、また苦笑に走って手を振るのを止めた。それから数秒間だけ俺様を見て、ゆっくり背中を向けて歩き出す。……とうとう、帰っちまった。
一人で勝手に意識して、一人で勝手に落胆した。帰路に乗った足取りは釣り合いを図るように重く感じる。
……思っているよりもイヴァンは奥手なのだろうか……。だとするなら、告白ついでにキスを迫ったことは、相当な勇気を要したに違いない。……次のきっかけは、俺様が作ってやるべきなのだろうか。こんなことを真面目に悩む日が俺様にも来ようとは、少し不思議な気持ちではある。だがそれは、案外あっさりと訪れるものらしい。……明日はもう少し、何かが進めばいいなあと、イヴァンを思い浮かべて眠りについた。
そうこうしている間に、さらに二日が経過した。
登校は一緒にならなかったが、下校は一緒にできた。その間に一体何回『さあ、ここで俺様からきっかけを……』と思ったことか。だけども残念なことに何回そう腹を括ろうが、関係はなかった。俺様は、自分からは何のきっかけも作れなかった。
回りくどいやり方はわかんねえ。だけど、かと言って、『手を繋ごうぜ』というのは人目もあって言えなかったし、『キスしたい』なんぞ持っての他だった。進展させるためには二人だけの空間が必要だとわかっていたが、もう半年以上俺様の部屋に遊びに来ていないイヴァンを誘うのは、少し白々しく思えて言えなかった。……その分だけ、俺様の中の悶々は大きく育っていくのだけど。
イヴァンはどう思っているのだろうか。
三日目の放課後だった。
俺様はイヴァンと触れ合いたくて仕方がないのに。触れ合えない分だけ、苛々みたいな悶々が幅を利かせていくというのに。イヴァンはなんとも思わないのだろうか。もっと俺様に触れたいとか、もっと一緒にいたいとか、そういうのは、浮かばないのだろうか。……だったら、もういっそ友達でよかったのではないか。俺様をこんな気持ちにさせてまで、イヴァンが欲したものは、一体なんだったのだろうか。段々と浮かれていた足取りも地ベタを取り戻して、逆に埋まってしまいそうだった。
未だにイヴァンから『一緒に帰ろう』とは声をかけてくれたことはない。だから、今日は発破をかけてみようと思い、イヴァンに「俺様、これからフランシスたちとゲーセン行くぜ」と報告してやった。……イヴァンは眉一つ動かさずに「そうなんだ、じゃまた明日ね」と言い放ちやがった。
くそ、お前それどういう意味だよ……! と頭を掻きむしりたくなった俺様を横目に、イヴァンは何かの大荷物を持って教室を出て行った。……明らかに帰り支度という荷物ではなく、教員に頼まれごとでもしたかのような荷物だった。……それを見た俺様は、イヴァンは所用が残っていたので素っ気なく振る舞った可能性もあるのだと思い至る。ならば、待ってやろうじゃねえか。
ここ数日、幾度となくきっかけを作ってやろうと思っては未遂に終わっていた俺様は、これが重要な分岐点だと確信した。すぐにフランシスとアントーニョに断りを入れて、教室でイヴァンが戻ってくるのを待つことにする。そしてはっきりさせてやろうと息を巻いた。
教室でイヴァンを待っている間、次から次へとクラスメイトたちは下校して行く。残されたのは俺様だけになり、まだ鞄すら準備されていないイヴァンの席を眺めていた。……遅えなあ、とぼやいてみたところ、見計らったかのように教室の後方のドアが開いた。
「あれ? ギルくん?」
……お待ちかね、入ってきたのはイヴァンである。放課してまだ一時間は経っていなかった。
俺様が「よお、イヴァン」と返しながら席から立ち上がる間にもイヴァンは、本人の机の方に寄り、席に座って帰り支度を始めていた。持って帰るテキストなどを選別し始め、
「フランシスくんたちと行ったんじゃないの」
と片手間ながらに尋ねられた。
ムッと口を結ぶ。その片手間なのが許せなかった。俺様はイヴァンの机の前に立ち、覗き込むように目線を合わせた。
「我慢なんねえから行くのやめた」
「え? あ、そうなんだ」
目を丸めて見返したイヴァンは、続けざまに「えっと……我慢?」と問う。
その問いを待ってました、と言ってしまいそうだったがそれはなんとか抑え、俺様はさらにその瞳を深追いする。まっすぐと見据えた。
お前にもあるだろ、我慢してること。それを引っ張りだして、今日こそきっかけを作ってやる。少々強く意気込みすぎている気もするが、もう鬼の形相でも構わないので完遂してやる気概はあった。
「俺様たち、付き合ってんじゃねーの?」
付き合ってるってことは、もっと触れ合っていいんだぜ。そう続けるつもりの問いかけに、イヴァンはくるくると、その瞳の中のきらめきを踊らせた。
「……え?」
揺れた双眼は動揺のせいだったらしい。
「え?」
その動揺に、俺様も釣られてしまう。なぜそこで揺らいでしまったんだイヴァン。俺様たち、付き合ってんだよな……?
不意なことで不安が込み上げて、開かれたイヴァンの口元を見守る。ゆっくりと慎重に、その動揺は声に乗る。
「……あれは……有効だったの……?」
「……は?」
何言ってんだこいつ。
「人に勝手にき、キス、しといて。有効かって、何だよ」
「え……だって……その……勝手にしたことだし、きみ」
慌てて言葉を止めた。何かを隠そうとしたのはすぐにわかって、俺様は物騒な態度で「あん?」と続きを促した。
焦って顔を下げたイヴァンは、少しだけ言いにくそうに愚痴った。
「ずるいよ、あんな顔するんだもん」
またもや不意打ちを食らって、俺様は胸ぐらを掴んで揺さぶられるような振盪を叩きこまれた。
「あっ、あっ、あんなって! ど、どんな顔だよ!?」
狼狽えて力任せに問いただすと、イヴァンは顔を下げたまま、上目遣いで俺様の様子を伺った。
そんときによくよく見れば、イヴァンは照れているのか恥ずかしがっているのか赤面していて、簡単に言うとお手上げ状態らしく、困惑したような表情をしていた。
「言ってもいいけど、君、怒るよ」
こうなったらもう引き下がるわけにはいかねえ。
「はあ!? 言わねえ方が怒る!」
「えと、じゃ、知らないからね? 言うよ?」
「おう! 吐け!」
まっすぐに見つめ続けて、一体自分がイヴァンにどれだけの醜態を晒していたのか、覚悟を持って答え合わせを待つ。そういえばあのキスの前後は、余りの衝撃で自分でも色んなことがはっきりしていないことを思い出してしまった。緊張感がじわじわと心拍数を上げていく。
机を挟んで目前にいるイヴァンも観念したらしい。俺様の眼差しを真正面から受け止めるため、一直線に見上げている。その瞳もすでに動揺に踊ることをやめていた。
「……その。……泣きそうな、顔、してた、から」
「……は?」
「涙いっぱい、溜まっててさ……」
「な! 俺様が泣くわけねえだろ!」
訂正を要求するために詰め寄る。
「ぼくだってびっくりしたんだよ!」
反論するためにイヴァンも身体を少し乗り出した。
「だってさ、確かにキスしたけど、ちょっと触るくらいのキスだったでしょ? なのに、あんなに涙浮かべてるんだもん。もう、見ているだけで、頭がおかしくなりそうだった……」
「ん?」
黙って聞いてやっていれば、イヴァンから前後がちぐはぐな言葉が漏れた。
……『頭がおかしくなりそう』……? とは? 仮に俺様が涙を溜めていたとして、さらに仮にそれを俺様が嫌なことをされたから泣いたのだと解釈をしたとして、何故そこで『頭がおかしくなりそう』へ繋がるんだ。
「うん、罪悪感じゃなかったんだ」
その謎に対する返答も、もちろんイヴァンは丁寧に述べてくれた。
「……ぼく、泣かれるほど嫌がることしちゃったのに、そんな君がとっても可愛く思えちゃって……」
我が耳を疑う。こいつは俺様が涙を溜めている光景を見て、『可愛い』と思ったというのだ。
「自分を抑える方法が他にわからなくて……」
しかも、自分を抑える……? キスを強引にしておいて、それ以上何を抑えるっつうん――
ボゥッと全身に火がついたように、瞬間的に体温が上昇した。イヴァンが抱いた『抑えなければならない自分』に、この期に及んでようやく合点がいく。そして合点がいった途端に、まるで耳から湯気がでそうなほどに汗が噴き出てて、慌ててまた思考を白に戻そうとした。
「ああーっ!」
奇声を上げたのはイヴァンだった。何かに追いつめられるように顔を隠したイヴァンだ。
「!? どうした!?」
「……もうやだ」
切実に絞り出された言葉に、親身になって続きを待つ。
「おかしいの」
「何が?」
さきほど悟ったことは正解だったのか、これでも理解をしたいと思っている。だが肝心のイヴァンは、すく、と清々しいまでにまっすぐに立ち上がり、半ば放心状態のままに、「ぼく、帰るね」と荷物を肩にかけて歩き出してしまった。
「え? イヴァン、おい! イヴァン!」
勝手に一人で何かと戦っているイヴァンを無理やり引き止めた。
もし、イヴァンが抑えようとしているものがあるなら、そしてそれがキスの先にある何かなら……いや、何かでも。そんなこと、今はどうでもいい。今はただ、イヴァンとちゃんと恋人として向かい合いたい。
腕を掴んでやって、なんとか足を止めたイヴァンは、そおっと振り返って見せた。
戻ってきた表情はもう、なんとも情けないもので、
「……たく、てめえこそ酷え顔してんじゃねえか」
俺様の力んでいた身体から、思いっきり力が抜けていった。緩んだ頬から順に、頭の中もゆっくりと落ち着く。じぃっとイヴァンが俺様を捉えていることに気づくその瞬間までの、実に短い間だったけども。
先ほど情けない、と評したこの表情が重なったのは、最初にイヴァンとキスをしたときのものだった。……思い出せた。そうだ、この表情だったのだ。こんな風に余裕なさ気に迫るイヴァンは、無心に捕食しようとする、なんとも獣臭い表情だと……
――ボン! また騒音を立てて、俺様の体内の熱が全て集中して発火したように錯覚した。耳からの汽笛だけではなく、頭の毛穴一つ一つからも火を吹きそうなほど、体温が急上昇した。
ぐらぐらと揺れる視界に促されて、血液の巡りももっともっと早くなっていく。
……この流れ。これは……。
今日は明るい。きっとあのときも、暗闇の中でイヴァンはこんな顔をしていたんだ。俺様がイヴァンの腕を捕まえていたというのに、イヴァンのその手のひらも、俺様の首にそっと添えられた。
早鐘のようにうるさい血が巡る音も、目前の髪の毛の揺れ一つすら見逃さない集中力の前では、まるで意味のないものだった。
――あ、触れる。
悟ったその刹那に、俺様はまた耐えられずに瞼を下ろしていた。
「……っ」
今度ははっきりとした声にはならなかった。ただ喉の奥が歓喜に震えた、ただそれだけの音。
待ちに待ったその心地は、いとも簡単に数日前の興奮を呼び起こす。そうか、興奮か。……丹田の中でぎゅるぎゅると圧を高めているのは、興奮だったのだと知る。触れるだけのキスなのに……ああ、イヴァンの言う通りだった。
ゆっくりイヴァンの気配は離れて、俺様は瞼を上げた。
やはりイヴァンの言うとおり、俺様の視界の端には驚くほどの水分が溜まっていた。ぱちぱちと何度か瞬きをしてやると、ようやくイヴァンのその表情が心配そうなものに変わっていたのだとわかった。
「……いやじゃない?」
おそるおそる問われる。
そう聞かれると、天邪鬼な俺様は肯定したくなくなってしまう。だが、あぁ、これは悔しいくらいに頭の中をふっとばされてしまっていた。
「……イヴァン、」
うん、とも、ううんとも言わずに、なんとか声色だけで伝えようとした。
まるでそれがしっかり伝わったように、イヴァンはふわっと微笑んで、持っていた鞄をその場で床に落としていた。誰もいない日が傾いた教室の中で、イヴァンの空いた手が回ったのは俺様の背中。ぐっと力強く引き寄せられたあとは――
「んっ、イヴァ、」
――想像に任せる。
おしまい
あとがき
いかがでしたでしょうか。
注釈に『※ギルベルトくんが気持ち悪いほど恋する乙女なのでご注意ください』って本気で入れるか迷いました。笑。
でも先入観を入れてくなかったのでしなかったのですが、いかがでしたでしょうか。。笑。
こんな青春色ボケろぷちゃんはパラレルならではですね。笑。
(ん? ハワイ? あれはまた別件です笑)
ありがちなすれ違いでしたが、書いてて楽しかったです。笑。
本当は蘇東の少し切ない感じのを予定していたのですが、
進捗50%のところで自分の表現力の限界を感じて、中断してしまいました。。
もう間に合わない〜と嘆いているところに、救世主くまつぁん大先生がご降臨なされて(笑)、
私にこのネタを授けてくださいました。笑。
(ありがとうございました!/私信)
おかしいなあ〜超短い短編になる予定だったんですが、設定盛り込みすぎました。笑。
だって、あのリクエスト文を見ただけで、これは捗る! って思っちゃったんですもん……。
結局最初に予定していたものよりも長くなってしまったという。笑。
ちなみに今回断念した蘇東の方も、
完成したらいつかは載せたいと思いますので、お待ちいただけると幸いです。
ご読了ありがとうございました。