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    第三話 ヤブレ・シュトーロン

     採光が十分に行き渡った教室、並ぶ机と若々しい汗の匂い。何ら変わり映えのない毎日の中で、今月の俺様の席は、教室でも最も後ろの席になっていた。授業中だけの眼鏡をかけて、コツコツと音を立てながら黒板に数式を書き綴っていく教師の手元を眺めている。
    「はい、じゃこの問題解けるやつ〜」
    ふり返って教室を一望した胡散臭い笑顔は、わざと俺様を飛ばすように次々に目線を合わせていく。いつものことだから、別にもう何とも思わない。
    「なんだなんだ〜? 誰もいないのか〜? 三年生になったんだから、もう受験は始まってんだぞまったく……えー……じゃあ、エリザベータ。前でこれ解いてみろ」
    呼ばれた幼馴染の女子が、渋々黒板のほうへ歩いて行くのを一瞥して、俺様は真っ青な空を覗き込む。窓際ではないが、明るすぎる空はここから見るくらいがちょうどいい。そういえばこの時間、イヴァンは体育の授業だったかと思い出して、早く学校終わんねえかなとため息をやる気と一緒にノートの上に落とした。俺様は数学に関しては独学でもっと先を学んでいる。自分でもよくわからないが嵌まるものがあり、好奇心に任せて次から次へと、学術書から研究論文まで、貪欲に吸収していった。その結果、高校程度の数学ではもう満足ができず、そんな俺様を、この教師も苦手としていたようだった。だから、例え俺様が上の空であろうが、別の参考書を広げていようが、この教師は特に関わろうとはしてこない。
     つらつらと授業は進んでいく。眠気に負ける生徒がちらほらと見受けられる中でも、教師は果敢に数式に挑んでいく。コツコツ、コツコツ、黒板の上をなだらかに流れるチョークの音はあまりにも柔らかく、眠くない生徒にも睡魔の誘いが迫っていくようだ。
     あれ、と意識がはっきりする。
     先ほどと同様、教師の出題に対して生徒が黒板で解き、それをまた教師が黒板で採点しているところだった。数字の違和感に気がつき、
    「先生、」
    考えるよりも先に声が上がっていた。
    「な、なんだバイルシュミット」
    教師の嫌そうな顔が俺様のほうへ向いた。その表情でめんどくさいことをしちまったかなと過ぎったが、それも刹那にすぎず、それよりも俺様の潔癖症がずずずと椅子を引きずる音を鳴らせた。
    「その問題、おかしくねえすか?」
    「え?」
    ガタガタと机を押しのけて、
    「だってほら、えーっと、」
    黒板の前に着くや否やチョークを握った。コツコツという音は変わらないのに、この教師が出すようななだらかな音は鳴らず、もっとゴンゴンに近いような低い音が後を追ってくる。教室中の視線が背中に集まっていることも気づかずに、無我夢中でその数式の解を書き連ねていく。
    「ほら、やっぱり。こうじゃねえっすか? こっちのやり方だと、単純ミスが出やすいっすよ」
    「……バイルシュミットくん」
    「はい?」
    「そんなやり方、いつ教えた?」
    いつも聞かないような低い声が飛び出す。……確かにそう聞かれると、この考え方はどこか別の参考書で見たものだった。だが、このやり方のほうが断然早く答えが出るのに、わざわざ遠回りする必要なんかあるんだろうか。まして、そのせいで単純ミスをしていたら意味がない。
     じっと教師の瞳が俺様を責めるように見ていた。
     残念ながら、どうやらそう思っているのは俺様だけのようで、教師は温厚な口調だけは失わなかったが、目は完全に怒気に煽られていた。
    「ここはこうじゃなくてこう解く。確かにこの部分だけは私の凡ミスだけども。……いいかい、ここは大学じゃないんだ。みんなのレベルに合った授業の進め方をしているから、君が授業を聞きたくないなら強制はしない。教室にいなくてもいい」
    ピリ、と針の先のような緊張感が眉間に走る。そこまで言うこたあねえだろ、俺様は間違ったことは言ってねえし、との反論はぐっと腹の底に押し込んだが、それのせいでそこが煮え立ってしまった。
    「そっすか。じゃ授業終わるまで外で立ってます」
    むっつりと唇を尖らせて、そのまま教室の外に出てやった。苛立ちのままに扉を叩きしめてやろうと思ったが、あいにくこの教室の扉は滑りが悪く、思うように音は鳴らなかった。
     日が当たるように設計されている教室側とは違い、一歩踏み出た廊下では、ひんやりと冷気が肌を撫でる。授業中にしかかけていない眼鏡を、未だにかけっぱなしにしていたことに気づいて、そそくさとそれを外して胸ポケットにしまった。
     ああ、まためんどくさいこと言っちまったな、青空を背景に廊下の窓にもたれかかって息を吐く。イヴァンにもよく言われるが、どうやら俺様は潔癖症らしい。大雑把に育てられた俺様が潔癖なわけねえだろ、といつも反論しているが、ええ、でも潔癖だよ、とへらへら笑って言う。へらへら笑って、頭を撫でようとする。
     意図せず、噴火が起こったように耳の先まで蒸気が噴き出した。
     イヴァンはすぐ、俺様のことを甘やかそうとする。やめろって言っても、勝手に、楽しそうに笑いかけてくるから……それが癖みたいになって、行き詰まるとすぐ縋るように思い出してしまうようになった。……そんな自分は情けなくて大嫌いなのに、そんなあいつの笑顔は、どう足掻いても嫌いにはなれなかった。
    「……あれ、ギルベルトくん?」
    「ん?」
    一瞬、空耳かと思った。ふわふわとした、本当に空に溶け込んでいきそうな軽い声が背後から聞こえて、
    「ギルベルトくんだ、みーつけた」
    ふり返ると、一年生の学年色の体操着姿が目に飛び込んできた。イヴァンが、ちょうどこの廊下の窓の下に面した中庭に立っていた。高低差が少しあるから、俺様が上から見下ろす形になる。……そう言えば体育の授業中だったか。他の生徒を警戒して周りを見回しても、イヴァン以外に生徒はいない。つまり、こいつはまた教師の目を盗んでサボってやがったのか。えへへと笑ったイヴァンは、本当に嬉しそうで、少し胸のあたりが窮屈になった。
    「……うわ、イヴァンか」
    「もう、酷いなあ。授業中なのにどうしたの?」
    お前のはサボりだってわかってるから聞く必要ねえな、と茶化してやろうかと思ったが、改めて見返した眼差しが心配そうだったのでやめた。誤魔化すのも気が引けて、渋々と答えをくれてやった。
    「まあ、色々あって、追い出された」
    後ろめたさのせいだろう。イヴァンではなく、どこか遠くのほうの木陰に教えた。何がそんなに愉快なのか、イヴァンは未だにだらしのない顔を続けていて、「君って本当、先生の扱いが下手だよね」と毒を吐いた。……こいつが教師陣から『イヴァンくんは真面目でいい子です』とレッテルを貼られているのが信じられない。関わる教師は軒並みぜんぶだ。評価の齟齬に異議を申し立てたいほどだ。
    「うるせ、俺様はお前みたいに人の顔色と自分の疑問を天秤にかけるようなこたあしねえんだよ」
    腕を組み、これ見よがしに鼻息を荒くしてやった。そうだ、俺様とこいつの評価は逆でもいいくらいだというのに、一体どこで何を間違えたのか。
    「知ってるよ。ぼくは、そういうギルベルトくんが好きだから」
    形のない雲のような声が放ったはずの言葉が、ガツンと飛んできて頭がふらつく。
    「……お、お前なあ……」
    こんなところで何てこと言いやがんだ、と叱りつけてやろうと思ったが、そろそろとイヴァンの白くて丸っこい手が俺様のほうへ伸びてきて、それに気を取られて動作が止まる。少しだけ背伸びをしている姿は、目を逸らしたくなるほどくすぐったく感じさせた。穏やかに笑い、静かに俺様が応えるのを待っている。仕方なく窓枠にもたれかかるふりをして、その手を握り返してやった。触れたその指先は、春先とは言えまだ木陰は寒い季節に外にいたせいか、ひんやりと冷たくなっていた。
     どくどくと、どこからともなく鼓動の音が聞こえる。あんまりこんなことをしていて誰かに見られでもしたら、と思っていたが、自分からはなかなか次の行動が取れなかった。
     する、と冷えた指先が解けていく。自分だけ満足したのか、一歩下がったイヴァンは一層笑みを深め、「あとでゆっくりお話聞かせてね」と、グラウンドのほうに走り出していった。……もうすぐ授業が終わるんだ。
     校舎の角を曲がり、ついには見えなくなってしまった背中がギリリと心臓を締めつけるようで、勝手に目の奥が熱くなる。たったこれだけのことで揺らいでしまう視界が、いつも情けない気持ちを押し込んでくる。視界が揺れたことなど見なかったことにしようと、その場で顔を突っ伏して腕の中に埋めた。目元も押しつけて、震えなんてものもなかったことにしてしまう。
     学校が終われば、またイヴァンに会える。泣きっ面なんかイヴァン以外には死んでも晒してたまるかと決意したことを思い出して、深呼吸ののちに顔を上げた。それとほぼ同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。……あと二時間やり過ごせば放課だ。俺様はどっと生徒が廊下に流れ出したところで、逆に教室に入って席につく。数学の教科書・ノートもろもろを机に押し込んで、次の授業の準備を始めた。

     俺様たちはもっぱら一緒にいる。もちろん、学校以外での話だ。周りに知れたら色々と面倒だからという理由で、イヴァンには学校内では接触してくるなと伝えてある。だから本当は、今日のこともお咎め対象……なのだが、今日は周りに人がいないことについてはちゃんと配慮されていたので、言及しないことにした。
     毎日、放課後には自宅に最寄りの駅で待ち合わせをして、それから二人で俺様の家に帰る。もうほとんど俺様しか使っていないようなものなので、姉妹がいるイヴァンの家よりはゆったりと二人の時間を過ごせるからだ。宿題したり勉強したり、一緒に料理をしたり、ゲームをしたり……もちろん恋人なのだから触れ合ったりもして。そうして夜の十一時すぎにイヴァンは家に帰っていく。元々家が近所なので、付き合う前から夜遅くまで遊びに来ることはままあった。
    「――で、そろそろ話してよ」
    イヴァンが宿題をやっている横で、俺様はベッドの上で読書をしていた。幼稚園生からお互いのあれやこれやといった醜態を目の当たりにしていたので、今さらお行儀よくする必要もなく、
    「いあ、もう忘れたからいい」
    だらしなく横たわったまま、本の文面から視線も放さずに続けた。
     イヴァンが話せと言っているのは、今日学校で具体的に何があったかと言うことだ。俺様に関しては病的なまでの執着を見せるイヴァンだ、何でも報告させたがる。だが、中にはもう、掘り返さなくてもいい出来事もあるわけで。
    「またそうやって。溜め込んでたらだめだよ」
    優しいというのか、芯がないというのか、ふにゃふにゃの声が珍しく強めに張った。それでちらりと本からイヴァンに視線を乗せ換えると、何とも真剣な眼差しで俺様のことを見ている。……そう、イヴァンはどこか、俺様がもやもやを溜め込んでるんじゃないかと過敏になっている節がある。そしてそういうのを、他でもないイヴァンが発散させたいと思っているように見えた。歳下ということもあり、背伸びをしているみたいで可愛いやつだなと思っちまう俺様も大概だが、自分でも消化できることも多いので、余計なお世話なことも多い。
    「そんなんじゃねえよ。もう本当にどうでもいい」
    「……じゃ、ぼくの今後の参考にさせて」
    いっそう、柔らかくした声つきで続けた。頑としてガス抜きをさせたいらしい。……正直、あの場で同じことをされていたら、またほろほろと不要な部分まで崩れ落ちてしまいそうだったが、今は本当に持ち直しているので大丈夫だ。
     ちらり、とイヴァンと目を合わせる。未だその眼差しは俺様の言葉を待っている。まるで、おいで、と言っているような大らかな瞳は、きらきらと瞬いて俺様を放そうとはしなかった。……まったく不思議なやつだ。
     今日あった出来事を、仕方なくイヴァンに吐露してしまうまで、あと五秒のところだった。

     俺様たちがそもそも付き合うようになったのは、イヴァンが受験生のときに、「君が好きだから同じ高校に行きたい。行ってもいい?」と聞かれたのがきっかけだった。質問の仕方はほかにあっただろうと呆れるが、こいつのマイペースさはおそらく姉妹の次に俺様がよく知っていたから、あいつの声のトーンがいつになく緊張感を持っていたのもすぐにわかった。『男のイヴァンが男の俺様を好き?』などという愚問はまったく浮かばず、「あー、いいんじゃねえの?」と深く考えずに返事したのは、俺様にとって大きな誤算をもたらしたわけだが。なんて言ったって、それからあいつを見る俺様のほうの目が百八十度変わってしまって、あいつの必死さとか、暖かさとか、そういうのが気に留まるようになって……今じゃ、今日みたいにあいつがいないと俺様のほうが不安定になる始末だ。
     付き合い始めてすぐのころ、イヴァンに聞いてみたことがある。
    「なんつうか……なんで俺様なんだよ」
    ただ自分のことを素直に『好きだ』と言ってくれることが嬉しくて、もっと言葉を貪欲に欲して、そうして出ただけの問いだった。別に不安になったとか、そういうのじゃなくて。そのときのイヴァンは、しばらく考え込んだあと、口元をはっきりと見せた。
    「ぼくのことを見放さないでいてくれた人、かな」
    そのときの俺様の胸中ったらなかったろう。どうしてだろうか、その言葉に気を取られて、そのあとイヴァンが言っていた言葉がまったく耳に入って来なかったのは覚えている。結局俺様も、同じ理由でこいつのことを想い返しているんだろうなあと思ったら、悲しくて、切なくて……同じくらい、ずっと側にいてほしいと願ってしまっていた。
     ――イヴァンと一緒にいることはこんなにも幸せなのに、どこかいつも、ぎゅうぎゅうと心が痛んで辛かった。そればっかりの思い出――……
    「……んあ、」
    ぱちりと、瞼が開いた。カーテンの隙間から差し込む光はまだ鈍光としか言えないくらいの暗さで、とっさにサイドテーブルに置いてある時計に目をやった。現在時刻はまだ六時すぎだ。今日は確か金曜日、つまり、今日も仕事がある。
     ……何やら、とんでもない回想を見せられた気がして、今まで睡眠を摂っていたはずなのに、どっと疲れが身体の上に乗ってくる。信じられない、とうとう封印していたはずのあいつとの思い出まで夢に見てしまうとは……よほどあいつの入社は、自分にとって重大な事件らしい。潜在意識の中にまで入り込んで、かき乱しているのだから、そうとうだ。
     とりあえず喉の渇きに促されて、いろんなものをリセットしようとベッドに起き上がる。何か違和感を覚えているが、ひとまずズキと走った頭痛に思わず頭を抱えた。……そうだ、確か昨晩は、社長にたらふくビールを流し込まれたんだっけか……とふらふら、壁を伝いながら自室を出る。
     まず目に留まったのは、リビングにおいてあるソファ。そこで見覚えのある毛布を見つけて、はて、と首を傾げる。……ほんの少しの間だけ、どうしてその毛布がそこにあるのか考えた。考えて、あ、と合点がいったときには、音を立てて血の気が引いていくのが自分でも聞こえた。
     ……そうだった。俺様、昨日の夜、あいつをうちに泊めたんだった。まずい、完全に忘れていた。お陰で寝癖も寝間着もそのまま、ひどい格好で部屋から出てきてしまったし、いいや、そんなことはどうでもよく、あいつ起きてるのだろうか。シャワーとか勧めたほうがいいのだろうか。脳内で繰り広げられる作戦会議はついぞ議題を決めきれず、ソファ横のマガジンラックに目が向かった。……マガジンラック兼サイドテーブル。それの上には、俺様が昨晩貸してやろうと出したTシャツやハーフパンツが置かれていて、おまけにあいつのスーツのジャケットやシャツ……果ては、スラックスまで置かれていた。……ということは、つまり……一体どんな格好してやがんだあいつは、とさらに動揺がひどくなった。
    「――ギルベルトくん?」
    「あ、」
    す、と起き上がった影に驚いて、間抜け過ぎる声を漏らしてしまった。
    「起きたんだ。おはよう」
    背もたれの関係で俺様のほうに向いていた背中はすぐに捩られて、穏やかさを忘れない笑みがこちらに向いた。先ほど見ていた夢と重なって、まだドッドッと胸を叩きつけるので、ぐっと腹に力が入った。早く目を逸らしたいが、今それをするのはなんとなく避けたくて、しっかりとあいつの目を見返してやる。
    「あ、ああ、おはよう。お前も早えな」
    「……うん、なんだか眠れなくて」
    苦笑へ変わったのだから、きっと本当に眠れなかったのだろう。それはきっと、ソファの寝心地のせいだけではないはずだ。……俺様はアルコールの力があったからすんなり眠れたが、こいつはよほどアルコールに強いらしい。こういうときは同情する。
     とにかく、こいつと見つめ合うのはやりきれなさを強くするばかりなので、なるべく余裕ぶった仕草でキッチンのほうへ身体を傾けた。
    「……てか、服、着ろよな」
    「あ、ごめん、そうだね」
    とにかく、何か温かい飲み物でも淹れよう。そう思い、まずイメージとして頭上に浮かんだのは、例のあの黒い飲み物だ。香ばしい香りが引き立って、爽やかな苦味が口の中に広がる、あの飲み物。深く考えずに『コーヒー淹れるけど飲むか』と尋ねるつもりだったのに、
    「コーヒー、」
    その言葉を発した時点で、昨夜のことがフラッシュバックしてしまった。
     ――『キッチン借りてよかったら、ぼくがコーヒー入れようか?』
     ――『あー、ごめん……今の、忘れて』
    またきゅ、と心が締まる。
    「……い、淹れてくる……」
    「ああ……うん」
    「飲むか?」
    「……ぼくはいいや、」
    なんとか穏便に会話を締結させている間も、ずっと心臓が叩きつけられるように痛んでいた。……本当に嫌になる。結局、俺様自身がどれだけ脳内で拒んだって、脈々と鼓動を打ち続ける心臓には敵わないのかもしれない。……ただ、この胸の痛みは、少しだけ自分でも理解できたと思う。……先日の昼食会のときと同じだ。もうイヴァンは俺様だけを見ているわけじゃないんだと知ってしまった。自分で力いっぱい拒んているくせに、勝手に裏切られたような、そんなちっぽけな悔しさのようなものが、払拭できずに身体の中のどこかを巡っている。
     リビングよりも一層ひんやりと冷えたキッチンに入った先から、いつもの習慣でコーヒーメーカーに浄水を入れた。豆が十分に入っていることを確認して、あとはマグカップをセットする。今はできるだけ何も考えたくない。スイッチを押せば耳に馴染む音とともに、香ばしさが優しくキッチンに溢れてくる。あいつがどこのどんなやつにコーヒーを淹れてやっていたかなんて、考えるだけ不毛だ、わかっている。
    「――ねえ、ギルベルトくん」
    びく、と肩が派手に跳ね上がった。コーヒーメーカーからドリップされる水滴を目で追っていたところに突然降った異音だった。慌てて笑顔を作って、キッチンの入口のほうへふり返った。
    「あ、どうした。腹減ったか」
    何と不自然だろうか。もし俺様があいつなら、このしどろもどろの顔を指差して笑うだろう。だが、一目そこに立っているあいつの両方の目を見てしまったら、そんな下手くそな笑顔もたちまち剥がれ落ちてしまう。
    「……イヴァン?」
    「恋人いるって、うそでしょ?」
    語気が少し荒い。そうだ、喧嘩したときの声を彷彿とさせる。覚えている。覚えていることとは反対に、すぐに言葉がすべて白紙に戻り、その間もあいつはずんずんと詰め寄ってくる。自衛するように力いっぱい身構えた。
    「……昨日、さ、色恋の『い』もないって、」
    「そんなの、社長にぜんぶ言うわけねえだろ」
    俺様よりも大きくなってしまった背丈のせいで、少しだけ見上げなければならないのは癪だが、咎めるように降り注ぐ眼差しから目は逸らせない。
    「……うそ、ついてる? なんで?」
    「……は、な、なんっ」
    言葉に詰まった。だって、そんなこと、こいつに言われたくない。むしろ、俺様なんかよりよほど質が悪りいじゃねえか、こんな、恋人の匂いをプンプンさせておいて。なんでそんな偉そうに俺様を責めるんだ。俺様は……こいつに恋人がいたなんて知りたくなかった。だから、距離を置きたかったのかもしれない。俺様がもうこいつの〝一番〟じゃないのを、知りたくなかったのかもしれない。
     はた、と息を呑む。見返していたこいつの目尻に、じわ、と滲み出る憂いがあって、それは簡単に俺様の憤りを奪い去っていった。
    「ギルベルトくん、」
    怒気の代わりに、声は揺らいでいた。
    「ぼくたち、やり直せないかな」
    心の底から欲しているような、我が儘ばかりを湛えた瞳だった。そんな必死な目で、俺様を見るな。これ以上、こいつに翻弄されたくない。これ以上、痛い思いをしたくない。そんな気持ちばかりが心の中で突沸して、俺様はもう、こいつの目を見返すことを止めた。
    「……出て行け」
    「え、ちょっと、」
    そして、目の前に詰め寄った大きな身体を手で押しのけて、キッチンの出入り口に立った。
    「そういうつもりなら、俺様は勘弁だ」
    「で、でもっ」
    「でもじゃねえ。さっさと自分のものを拾って出て行け」
    今度こそ流されてなるもんかと、じっとにらみ続けてやった。あいつはぐっと歯を食いしばったようだったけど、すぐに俯いたのでよくはわからない。俺様が言ったように、素直にリビングに戻り、そして本人のジャケットと鞄を拾い上げて戻ってくる。そういえばスラックスもろもろは既に履き直していたようだ。
     そのまま廊下を渡り、玄関まで歩いて行く。その途中で立ち止まったあいつは、一思いに顔を上げると涙をたっぷりと溜めていた。罪悪感だろうか、太い杭でも打ち込まれたような衝撃が身体を貫いた。
    「なんで、なんでだめなの? もう一度、ぼくを見てよ」
    必死に懇願される。それでも、守りたいものは変わらないんだ。これ以上、こいつへの気持ちに振り回されるのは絶対にいや。今の俺様の視界には、もうそれしかなかった。
    「――お前を見ていた季節は、もうとっくに終わってんだよ」
    なけなしの強がりで、そう釘を刺してやった。それを聞くと、あいつはひどく落胆したように口元を歪めて、けれど、またそれを隠すように手で顔を隠しながら背中を向けた。……悪いことをしたなんて、これっぽっちも思っていない。あいつが悪いんだ。今さらのこのこと現れて、今さら……またやり直したいなんて。
     気づいたら、俺様は、あいつが出ていった玄関を眺めながら、そこからいつまでも動けないでいる。ただ立ち尽くして、ぐにゃぐにゃと歪んでいく視界が熱くて、傷跡のようにこの目に焼きついていく。……自分で選んだ答えなのに、いっこうに溢れて止まらない気持ちが自分で恐ろしかった。……だが、やっぱりあのころみたいに無垢にはなれない。あいつの一番になれないなら、それはもうないのと同然だから。
     こんな早朝に放り出してしまったことだけは、少し悪かったなと思ってはいる。自分への気休めだが、一応この時間なら電車もあるし、会社にも多少遅刻したところで、今や英雄に近いあいつを咎める声はそうそうないだろう。大丈夫、あいつは社長のお気に入りだ。

     その後、俺様はもう一眠りなんてできるはずもなく、出勤の準備ができてからは、しばらく途方に暮れるように呆けていた。名目として握っていた読本だが、一ページどころか一行も進まずに出発の時間を迎える。会社の近くに部屋を借りたせいで、少し自転車を転がせばもう会社だ。……こんなときだけは、気持ちを整理する時間が持てる電車やバスは羨ましいなと思った。……まあ、単なる甘えだ。
     と、マンションの玄関を出たところで、そういえば昨日は自転車は会社に置いて帰ったかと思い出す。出しかけていた鍵をしまうついでに携帯電話の端末を覗き込むと、メールの受信が一件あるようだった。流れるような手つきでそのメールを開く。
    『久しぶり〜。ギル元気? ちょっと今日来れる?』
    馴れ馴れしい文面だが、これは一応お得意様からのメールだ。……正確には贔屓にしてもらってると言うべきか。メールの差出人も俺様によく仕事を回してくれるし、俺様もまた普段より価格を下げて受注してやっている、いわゆる持ちつ持たれつの良好な取引関係にある会社だ。
     付け加えるなら、このメールを送ってきたやつは、俺様の大学の先輩にあたるうるさい野郎。
     いつもこうやって急に呼び出されるが、新しい仕事の相談なのはわかっているので、文句の一つも垂れずに応対してやる。
    『特にアポはねえから行ける。いつもの時間でいいか』
    そう簡素に返してやると、それに対する返答もすぐにやってくる。
    『メルシー!』
    文末にハートマークなんぞつけて、いかにもこいつらしいなと呆れて笑ってしまった。大学の先輩であるフランシスという男は、卒業してからもしょっちゅう俺様にちょっかいをかけてくる世話好きなフランス人だ。そしてメールの中に登場したいつもの時間とは、午前の十一時ごろのこと。たいがい仕事の話をしたあと、フランシスの会社の休憩時間に合わせて一緒に昼飯を食べに行く。そこで互いに近況を報告し合う。
     ……考えないようにしていたが、どうしても『近況』という言葉に気が張る。忘れたわけでもないが、このまま会社についてしまうと、否応なしに顔を合わせることになるあいつがいる。できることなら二日酔いとかで休んでくれ、などとみっともなく思ってしまうが、あいつが二日酔いという状態からほど遠いことは、今朝この目で確かめたばかりだ。
     だが、状況を整理すれば俺様は何も悪いことはしちゃいないし、気後れする必要もどこにもない。単なる上司と部下、それだけだ。それに、その場にいるのは俺様たちだけではないので、おそらく会話も大丈夫だと気を強く持つ。何よりも、久しぶりのクレーム処理以外の仕事が入ったことを、今は励みに出社したい。
     俺様の今の対外的な業務はほとんどクレーム処理だが、ほかにも技術的にも人的にも難しそうな案件のサポート役として班員の客先に同行したりする。だが、そういった仕事が何もないときに限って、自分の営業に出ることができる。もっとも、営業部全体のノルマの内、八割を担う法人班の班長だけあって、今はほとんどデスクワークや会議に時間を食いつぶされてしまっているが……こうやって、俺様じゃないと取引しないという客先からのアポは、基本的に優先できるのでありがたい。元々の俺様の顧客はほとんど部下たちに引き継いでしまっているので、今でもまだ俺様と直接取引をしている客は、いわゆる駄々っ子たちと言えるだろう。
    「おはようございます、ギルベルトさん」
    「おう、おはよう」
    悲しいまでに呆気なく会社に到着して、うだうだしている意味もなく玄関を通り抜ける。きっとまだあいつは出社していないだろうと高を括って、思い切りよく営業部のフロアに踏み込んだ。まっすぐにデスクに歩いていけば、やはりあいつのデスクはもぬけの空だ。
     真っ先に挨拶をしてくれたミュラーは、俺様のほうに顔を寄せ、
    「昨日、社長と飲みだったんですって?」
    あちらこちらに動き回る社長に万一でも聞かれないようにするためか、こそこそと小声で話しかけてきた。
    「あ、ああ、社長もう来てんのか?」
    朝のミーティング後すぐに客先に向かう班員もいるわけで、朝一のフロアはバタバタと忙しない。
     あいつがまだ出社していないのだから、てっきり社長が自ら触れ回ったのかと思いきや、ミュラーは人のいい笑顔を浮かべて、何とも爽やかに「いえ、イヴァンくんが言ってました」と放った。
     ……それは、つまり。
    「……あいつもう来てんのか?」
    「はい、ネットカフェに泊まったとかで」
    「あー、そうなのか、大変だったな」
    意外というか期待はずれというか……とにかく、何よりも焦りのままにフロアの端から端までを確認せずにはいられなくなり、だが、そんな警戒心丸出しの行動は晒さないように堪えた。なんとか衝動を抑え込んだその代わり、席に座る動作はそわそわしていたんじゃないかと決まりを悪く感じる。
    「ねえ、社長も平日かどうかくらい考慮してくれればいいんですけどね」
    「まったくだぜ」
    とにもかくにも、昨晩の話題には既にうんざりしていた俺様だ。出社したらまずスケジュール掲示板に新しいアポイントを記入しようと思っていたことを思い出しながら、効率を考えてまず先にパソコンの電源を立ち上げた。
    「ところで今日、俺様アポ入ったから、昼前には出るぜ。またミーティングのときにあいつのこと話さねえと」
    スケジュール掲示板は共用のプリンターの側にあるので、記入のついでに印刷物を回収しようと流れを作るのが習慣だ。今朝のミーティングで使う予定の書類をパソコン上から印刷予約をする。
    「……あ、」
    「どうしたんすか?」
    その印刷する書類の内容を念のため確認しようとプレビューしたところで、
    「いや、大事な見込みがあるのを忘れてた」
    おそらく今日には確定するはずの新たな受注を思い出した。今、よくよく数字を確認したが、あいつご指名でもらった依頼書がもし確定すれば、今月の法人班の割当の五倍の売上になる。どことなくストンと飲み込めない状況だが、責任者としては喜ぶべきではあるんだろう。
    「お、どんなっすか」
    何かを思い出したのか、ミュラーもデスクからノートを取り出して書き込みし始めながら、片手間で俺様の言葉を待っていた。ちなみにミュラー自身の進捗率はまだ月初ということもあり、〝おまんじゅう〟だ。
    「新入りが昨日のところから再販の開発依頼書もらったんだよ」
    「ええ? まじっすか?」
    ぱた、とペンをその場に置いた。まんまるに見開かれた目で、こいつも腑に落ちていないのが見て取れる。そりゃそうだ、昨日の朝までめんどくさいクレーマーくらいにしか思っていなかった客先なのだから、俺様よりもやってられないのはこのミュラーのほうだろう。
    「そんなにすげえ数なんすか?」
    「前回と同じやつ、五十台だとよ。もちろん、一部見直しはするが」
    「ごっ……」
    「あいつ、そのための正式書類をもらいに行くんだが、一人で来いとの先方のリクエスト付きだ」
    言葉のやり場に困っているのだろう、わかりやすく目が泳いで「まじっすか……そ、それは……すごい……」とミュラーはぼやく。途中から話を聞いていた別の班員も、ミュラーと同じように口をあんぐりとさせている。
     ついに印刷予約まで辿りついたので俺様は席を立ち、ホワイトボードのほうへ向かった。背後から腹に力を入れる気配がしたと同時、
    「じゃ、ぼく午前中ひまあるんで、書類の準備の確認しましょうか。ギルベルトさん昼前には出るんですよね」
    気を取り直したミュラーが気を遣ってくれた。
    「ああ、助かる」
    「はい……あの企業はぼくが一番よく知ってるんで」
    嫌味なのか皮肉なのか、ミュラーはそうは言ったが、声色はそんなに後ろ向きには聞こえなかった。客先とは相性があることもわかっているから、早々に気持ちを切り替えたのだろう。
     スケジュール掲示板の前に立った俺様は、マーカーを手にしてつらつらと書き込んでいく。本日の予定欄に『 - ビデカメラ』と、これみよがしに。それを終えてから、その掲示板を一望する。俺様の来週の予定の欄に、勝手にいくつか予定を書き加えられているが、これらは他の班員が同行してほしい日時を早い者勝ちで記入していっているものだ。今週それがあんまりなかったのは、新入りのこともあって配慮されたからだろう。あれらのスケジュールを元に、朝、全体ミーティングをして、その後、個別ミーティングをやっていく。
     背後から別の班員が「お、ギルベルトさんまた新しい受注っすね」と声をかけていくが、それほど俺様とフランシスの会社の付き合いは社員に浸透しきっている。相槌程度の返事をしながら、純粋な俺様の成績って何ヶ月ぶりだろうかと考えそうになってしまった。だがいかんいかん、それを考え出すとやるせなくなってしまう。班長だから仕方がないとはわかっていながら。
     印刷物まで回収して、席に戻ろうと身体を翻したところで、ちょうどフロアに入ってきたあいつと目が合ってしまった。意図したわけでもないのに、何を思うよりも先に目を逸らして歩き始めてしまう。今のはあからさまだったかと余計に気まずくなって、ここはいっそ顔を上げて爽やかに挨拶の一つでも飛ばしてやらねえと俺様らしくねえなと決心した。
    「――おっ、」
    「イヴァンくん、今日出る前はぼくが書類チェックするからよろしくね」
    口の先まで出かかっていた『おはよう』はミュラーにかき消されたが、颯爽と斜め前の席についたあいつは「はい、よろしくお願いします」と、至って普段通りの応対をしていた。……今朝の涙ぐんだ姿がちらつくのに、切り替え早えなと関心する。
    「あはは、固くなるなよ。イヴァンくん、俺と同い年だよ。これからはイヴァンって呼ぶし、お前もベンでいい」
    別に気にしちゃいないが、出鼻を挫かれたように錯覚して、視線が重くなって手元を見る。ちょうどそこには印刷した書類があり、
    「あ、うん、わかったよ。よろしくね、ベンくん」
    「あー、まあ、いいや」
    書類を整理しながら二人の会話をそれとなく聞いていた。そうだ、俺様なんかよりも仲良くできるやつを早々に作ってくれたほうがありがたい。無駄に干渉しないほうが、互いにとっても楽なはずだ。
     ……と、思っていた矢先、ミュラーとあいつの会話はそれ以降聞こえなくなる。俺様ももうすぐミーティングの時間かと配布しなければならない書類の一式を持ち上げた。ちょうどそのときに「あの、」とすぐ近くから声がする。――あいつの声だということは明らかで、俺様に向けられただけでその声の質が少し違って聞こえるのは、きっと変な意識を持ってしまっているせいだ。
    「ギルベルトくん、おはよう」
    「おー。おはよう。間に合ったんだな」
    「うん、近くのネットカフェで準備してきちゃった」
    人前で何事もなかったように振る舞うのは慣れている。今さらだが、高校のときがそうだったからだとようやく繋がった。あくまであいつを見るのではなく、
    「その手があったんだな。よかったよかった」
    書類をほぐす動作を続けた。準備が徐々に整ってきて、それらを配布するために立とうとしたときだ。あいつはいっそう身体を乗り出して、その眼差しだけで俺様の注意を奪おうとしたのがわかった。じっと、意識に入り込もうとする視線を見返したが最後、
    「……ぼく、諦めないから」
    はっきりと、そう宣誓された。
     もわ、とまた胸が苦しくなる。
    「おう、発注書、がんばって取って来いよ」
    本当は何のことを言っているのかわかっていながら、とっさには白を切ることしかできず、そのまま逃げるように席を立った。他の島にも配布物を持っていくためで、毎朝していることなのに、どうしてか身体が内側から震えるような気持ち悪さがあった。足がおぼつかない気がする。抑えられない震えは巡る血液を沸騰させるように熱くして、真っ先に目の奥を火傷さながらに痛めつけられた。
     盗み見るようにふり返る。……俺様なんかに執着しすぎなんだ、あのバカは……。

     ミーティングのあと、俺様はいつものように最低限の準備をして、あとはよろしくと会社を出発した。今日の客先は気心が知れている相手だということもあり、何かあれば電話しろよとだけは残してきてやった。いくら書類の準備をミュラーが見てくれると言ったって、結局客先では一人になるのだから、命綱だけは繋いでおいてやる。……フロアを後にする直前、無意識にふり返った俺様は、あいつが熱心にパソコンに向かう様子を見て、またむずむずと居心地が悪くなってしまった。
     社用車に乗り込み、長い道のりを運転して、約束の時間より少し早めにフランシスの会社の駐車場に到着する。ビデカメラとは世界規模の大手カメラメーカーなだけあって、この街にも大きな工場を備えているので、立地は郊外とやや不便だ。だが、たまにしか通らない自然の多い景色には心が落ち着くようで、毎度少しホッとする。必要な荷物を持って車から降り、昨日行った客先と同じような入所手続きを踏み、社名に恥じぬ清潔で立派な玄関に進む。すでに到着した旨をメールしてあったので、目当ての人物はそこで待ち構えていた。久しぶりに見る髭面は、前回会ったときとほとんど変わった様子はなく、元気そうなのでとりあえず肩の力が緩む。……いや、少ししわが増えて一段と渋くなったか? なんとなくむかつくので言わないが。
    「わあ、ギル久しぶり〜!」
    相変わらず見てくればかりに気を使っているのか、品の良さそうなスーツを着て、ゆるゆると余裕有り気な笑顔で出迎える。もちろん、我ら営業、見てくれは大事だが、こいつのは少しベクトルを間違えている気がする……あくまで俺様視点だが。
    「おうおう〜、お前ヘマして降格とかされてねえか〜?」
    「あはは、お生憎さま〜! お兄さん昇進しちゃった〜。来月から幹部だよ、か・ん・ぶ」
    「ケセセ、ご愁傷さまだな」
    玄関には警備の人員も何人かいるわけだが、フランシスと俺様がこういうノリで毎回会っているのは知られているので、今さらどうということはない。
     フランシスにそれとなく誘導されながら、いつもの応接室に通されるんだろうなと、廊下の向こう側を眺めて歩く。毛並みのしっかりした絨毯が敷き詰められた廊下をスリッパで歩くので、足の裏が少しこそばゆい。この感覚もこの会社ならではのものだ。大手だけあって、応接室が三つほど存在しており、一番奥の応接室に通されていると察する。フランシスは時折楽しそうにふり返り、
    「だからね、お兄さんこれから取引とは関われなくなるからさ、今日は後任と引き合わせておこうと思って。とりあえずは仕事の話してからランチとかどう?」
    悪気の欠片もなく提案を寄越した。
    「そうだな。なんかすげえ久々だぜ、こういうの」
    何の気兼ねもなく口から零れ出たことは、いっそうフランシスの興味を煽ったらしい。
    「そうなんだ? 相変わらずデスクと恋人?」
    「言うな、泣けてくる」
    促されるままに応接室のソファに腰を下ろしながらも、言葉ほどの胸の痛みはたった今は感じていない。むしろ、『恋人』という単語でちらつく泣き顔に納得がいかなくて、すぐに考えを逸らそうとした。
    「お兄さんは楽でいいと思うけどね〜。強いていうなら、お兄さんの担当だった人たちには残念なことしたなあとは思うよ。お兄さん恋しさに電話かけてくる人も、未だにいるくらいだし」
    そうして間もなく、フランシスの後任だという若手社員が現れて、本当に引き合わせるだけの雑談会のような時間が過ぎていった。
     それが終わると、今度はフランシスと昼飯に出る。俺様がそのまま帰社できるように、フランシスはうちの社用車の助手席に乗る。昼飯のメニューはもっぱらフランシスの案内に任せて、運転手よろしくタイヤを転がしていく。今日は新しくオープンしたフランス料理の店に連れて行きたいらしく、曰くディナーはしっかりしたコースを出すところだという。ランチだからお手頃だよ、と付け加えられるが、別に金銭に苦労はしていないので「そうか」とだけ返しておいた。
    「でえ、ギルちゃん〜」
    「あんだよ、気色悪い声だな相変わらず」
    「まあ、ひどい」
    そのレストランに到着し、二人用の狭いテーブル席に通されてからのこと。
     レストランというよりはカフェに近い作りの店内は、それでもこいつが選ぶほどには小洒落ていて、ケーキのショーケースなんかも置いてあった。ランチのコースでもデザートに一種類のケーキが選べるらしいとのことで、なんとなく一番に目についたミルフィーユを選ぶ。
    「デスクとの恋もいいけど、人間との恋のほうはどうなの? 進展なし?」
    別段驚く話題でもない。むしろこいつと会うときの恒例行事のようなもので、
    「またかよ。お前定期的に俺様のプライバシーに首突っ込もうとすんのやめろよな」
    無関心を見せつけるために、ため息を混ぜて抗議した。
     さすがに昼間っからワインは飲めないからか、飲料水が注がれたワイングラスが到着し、フランシスはそれを手癖のようにくるくると回している。
    「だって〜ギルちゃんもう三十だよ? 心配になっちゃうんだもん。大学のとき、傷心のお前を守ってあげてたのだあれ?」
    「その節はどーも」
    まずは前菜さながらのサラダが目の前に出され、さあと、ナプキンを丁寧に膝にかける。こういう食事は性には合わないが、たしなみ程度には楽しめる。早速フランシスとほぼ同時にフォークを掴み上げる。
    「本当だよ。あのときのギル、なんにも言ってくれなかったけど、きっと傷心してるんだろうなと察したお兄さんに感謝してほしいね。ギルに変な虫が寄らないようにするの、なかなか大変だったんだからね」
    本日のサラダは生ハムのサラダだ。久しぶりにこんなもん頰ばってんなあと、文字通り噛み締めながら、向かいに座るフランシスの熱弁を聞いていた。
     ……もっとも、こいつが俺様に人が寄りつかないようにしていたのは俺様のためではなく、寄ってくるやつらを心配したんだと今でも思っている。……俺様はずっと喧嘩にだけは強かったのだと同級から聞いたらしかった。あいつと付き合う前は、これでけっこうやんちゃだったのだ。悪目立ちのせいでよく絡まれて、それでも〝潔癖症〟な俺様は、片っぱしからご丁寧に返り討ちに遭わせないと気が済まなかった。
    「俺が大学卒業するときの飲みでやっと高校のときの話を聞かせてくれてさ、ようやくふっきれたのかと思ってたのに、今度は恋愛にうんざりモードだし……」
    カラ、とフォークを陶器のお皿に置く音がして、フランシスは俺様のサラダが空になっていたことに初めて気づいたようだった。さく、とレタスにフォークを突き刺し、
    「ちょっとお、ギルちゃんしゃべらないからお兄さんの独白みたいになってるじゃない!」
    などと、勝手すぎる文句を垂れやがる。面白がって「あーうん、続けて」と手をひらひらさせると、「はあい……って、じゃないでしょう、もう」と満更でもない様子で笑っていた。それから、今度はフランシスがいそいそと野菜を口に運んでいく。
    「お前の口調、ますます女っぽくなってんな」
    「いいでしょう。俺、どこかの誰かさんと違って、暑苦しいムッシューよりも爽やかなマダムと話す機会のほうが多いからね。もっとも、暑苦しいムッシューも好きだけど」
    「余計なお世話だっつの」
    二人の皿が空になるタイミングを待っていたのか、店員がさっと現れて次の品を置いていく。今度はスープが出てくる。それと入れ替わるように空いた皿は下げられ、また颯爽とスプーンを握りしめた。コンソメの香りがそれだけで身体を温める。だが、フランシスはスプーンをスープに漬けただけで、それをそのまま手放してしまった。不似合いな真面目な面をして、何かを思い切るようだった。
    「……ねえ、まじめな話、そろそろ落ち着く気ない?」
    「は?」
    「お兄さんの知り合いで、とっても素敵な女性ひとがいるんだけど、ギル、会ってみない?」
    言われた途端、一瞬あいつの顔が浮かんだ気がして、表情が引きつったんじゃないかと本気で心配した。このタイミングであいつのことを思い出すなんて、まったくもって自分が理解できない。あいつはあいつで落ち着く相手を見つければいい。だが、俺様はと一考したときに行き着くのは、いつも同じ言葉だ。
    「……めんどくせえよ」
    スープに視線を落とした。薄くスライスされたベーコンと、よく煮込まれたオニオン。浮かぶ油分は模様みたいで、少しきらきらしているようにも見える。光の当たり方だろうか。そしてそこに映る自分の顔を見て、あぁ、と落胆した。……なんてひでえ顔してんだ。
    「……あれ? もしかしてまだ吹っ切れてなかったの?」
    そんな心配そうな声づかいもやめてほしい。いらないもやもやを煽るだけだ。俺様はもう、あいつのことなんてどうとも思っちゃいない…………というのは、うそになるだろうか。なぜだろうか、自分でもわからない。当時あんなに好きで、好きで、俺様にはこいつしかいねえと思っていたし……果たして今は。どうしてこんなにあいつを拒んでしまうのだろう。できることなら顔も見たくない。俺様は、毎日をもっと平和に暮らしたい……それだけだ。
    「ねえ、本当に大丈夫?」
    「……フランシス」
    「な、なあに、急に」
    顔を上げると、そこには昔からよく見知った大学の先輩の顔があった。それがあいつの優しい眼差しではなかったことを実感して、また俺様の中に膨れた得体の知れないもののせいで、窮屈に胸に軋んだ。……だめだ、やっぱり誤魔化しようもなく、これは重症だ。完治なんて程遠い。
     スープを一すくい、口元に運んだ。まだ湯気の立つ暖かい香り。それを喉に流し込んで、今にも溢れそうな感傷をもっと奥のほうへ追いやろうとした。
    「最近な、うちの会社に新入りが加わったんだが」
    「うん?」
    「そいつ、高校のときの後輩だったんだ」
    さすがフランシスだ。それを言っただけで俺様が言いたいことをだいたい悟ったらしく、「……え、うそ……まさか……?」と、丸々と目を見開いていた。
     そこへすす、とスープの隣にメインディッシュが置かれる。皮の焼き加減を見ただけで腹がなりそうなチキンステーキ。……だが、今となっては平らげられる気がまったくしない。
    「お互い、びっくりして……。……ちょっと俺様さ、最近キャパオーバーなんだよ」
    一旦スープは横にどけて、まずはこのボリューミーな料理をやっつけようと皿を引き寄せ――、
    「えっ、えっ! ギル⁉︎ それほんとに⁉︎」
    唐突にフランシスが声を上げた。見ればナイフとフォークを握りしめている拳にも力が込められていて、どことなく嬉しそうだった。なんでこいつがそんな顔をするんだと、とんでもない引っかかりを叩きつけられた気分だ。
    「すごいじゃんすごい! わあ! ええ! お兄さん今すっごいテンションなんだけど! すごい! 想い続けた甲斐があったねえ⁉︎」
    食いつくように同意を求められても、正直に言うと、それにはためらいしか抱けないんだ今は。……『想い続けた甲斐』? なかったぜ、そんなもん。毎日毎日、埋まらない穴を守っているみたいで、一つも楽しいものじゃなかったし、いつの間にか蓋をしてしまって、今やその本人にすら開かれないという腐り具合だ。……何にもすごくないし、よくもない。
    「……ちげえよ。最悪だよ」
    また、抑え込むように肉片を口の中に押し込む。
    「……え? まさか、向こうはギルのこと忘れてたとか?」
    無理に咀嚼しているせいか、今は味なんかよりもどこからともなく湧いて出る苛立ちのほうが意識の大半を占めていた。
    「……逆」
    「えっと、向こうも、ギルのこと忘れられてなかったってこと? それの何が最悪なの? よかったじゃん」
    ――だめだ。俺様はついに、ゆっくりと匙を投げた。
     自分でも何をどうしたいのかさっぱりわからない。なんでこんなにあいつを遠ざけようとしているのかも、まったくわからない。フランシスのように『再会できた最高じゃん』って思うことができたら、どれだけお互いにとって幸せだったか。……だが、何かがずっと胸の中につっかえてて、それの取り除き方が自分でもわからないんだ。
    「……ギルベルト?」
    「……わかんねえ?」
    「ぜんぜん」
    「……だよなあ。俺様もわかんねえ。わかんねえけど、あいつと正面から向き合うのが、」
    言いかけて言葉を止める。その先の言葉が決めきれなかった。なんだ、怖い、苦しい、痛い、ためらう…………いや、それら全部か?
    「もしかして、照れちゃうの?」
    「は⁉︎ て、照れねえよ! 俺様はお前じゃねえ!」
    思わず、だんっとテーブルを思い切りよく叩いてしまった。勢い余って立ち上がってまでフランシスに迫っていたが、これだけははっきりさせなければならない。断じて、照れとかではない。『照れ』ならここまで苦しくならないはずだ。たぶん。
    「わ、わかったわかった、落ち着いて……!」
    小声でそう宥められ、仕方なく着席し直す。当のフランシスは周りに向けてへこへこと頭を下げていた。だが、照れとか、そんな甘いものでは絶対ないのだから、わかってもらえたならそれでいい。
     ちら、と向かいに座った間抜けな髭面に盗み見られる。また丁寧な手つきでチキンステーキを頬張り始めるのを見て、俺様もそこに自分の分があったことを思い出した。
    「……今さら向き合うのが怖いのかなあ。なんてったって、十年? 十二年くらいか。十二年越しの恋だもんねえ。お兄さんだって臆病になることあるからわかるよ」
    さっき『照れ』と言ったときとは手のひらを返すようだが、そっちの相槌のほうがしっくりくる。それに、今度こそフランシスの放った言葉が俺様の思考回路にはまり込んだ。――そうか、『臆病』か。なんとなく、言葉つきはそれらしくなってきた気はする。ただでさえ痛いだけの思い出なのに、さらに上から傷をつけることに対して、臆しているのだろうか。……臆す? そもそも、つい今朝のできごとだから、こんなに多感になっているんじゃないか。きっとそう。
    「っあー!」
    「なに⁉︎」
    小洒落たワイングラスに入った水を乱暴にがぶ飲みして、またそれを乱暴にテーブルに戻した。『臆する』なんて俺様からもっともかけ離れた心の有り様のはずだ。俺様が臆するなんてそんなこと、あってたまるか。
    「こんな状況に屈してたまるか。どうにか上手く立ち回ってやる」
    「立ち回る?」
    あいつが側をうろちょろしても動じないように、ずっしりと構えられるようになってやればいい。
    「こんな話をお前にするために出てきたんじゃねえし、こんなことを心配してる場合じゃなかったぜ! んなことより俺様の成績だ!」
    そうだ、しかも今回のフランシスの呼び出しが新規の受注ではなかったのだから、尚さら俺様自身の成績を取っていかねば。もっと貪欲に。そして、総務や社長にまた営業に出られるように認めてもらって……、
    「あらまあ。そうなるのね」
    大いに不服そうだが、俺様がこれでいいんだから、これでいいんだ。
    「うるせえ。つべこべ言わずにお前もまた誰か紹介しろよな」
    「やだギルちゃん、積極的」
    「仕事のだよ」
    わざと茶化して言ったのはわかっていたが、あくまで釘を刺してやる。これ以上ここでうだうだおしゃべりしているのはもったいない。だいたいのものを平らげ終えていた俺様は、最後に残っていたスープを飲み込んだ。
     フランシンスはただ呆れて嘆息を見せつけて、「わかってるよ」と愚痴った。
    「でもどーせ紹介したって、結局いつもギルの部下に回っちゃうじゃない」
    「それでも俺様が紹介してもらったという事実には変わりねえよ」
    その場に少し多めの勘定をどかりと置いて、俺様はじっとしていられない子どもさながらに立ち上がった。それを座ったまま見ていたフランシスはアホ面もいいところで、今にも口が開きそうなほど呆けている。構わずに真正面から向き合い、得意のにより顔を見せてやった。
    「じゃ、フランシス、またな!」
    「え? あ、うん、帰っちゃうの」
    居ても立ってもいられなくて、既に一歩を踏み出している。それを見て諦めたのだろう、フランシスの声が既に少し離れたところから飛んでくる。
    「うちのこともよろしく〜! また連絡するね〜!」
    「ういーす」
    適当に返事をして、急いで店を出て、そのまま息もつかぬまま社用車に乗り込んだ。
     簡単なことだ、あいつのことが眼中に入らないくらいに仕事に取り組めばいい。恋人がいるとうそを吐く作戦は失敗しちまったが、恋愛なんかで付け入る隙がないと思わせられるくらい、仕事に打ち込んでやる。
     帰りしな、信号機の赤点灯で停車しているとき、フランシスからメールを受信していたことに気づく。何気なく覗き込めば、サムネイルに『ミルフィーユごちそうさまでした』と表示されていて、そういえばランチメニューのケーキを食べ損ねていたかと思い出した。だが、まあ、あいつが食べて満足してくれたならそれでいい。そういえば店までの往路は俺様が車に乗せてやっていたんだと思い出したが、時すでに遅かったろう、大した距離もなかったのできっと歩いて会社に戻ったに違いない。すまん、と車の中で呟いて、これで水に流してもらったことにする。
     さっさと会社に戻って、俺様にできることがないかを探すぜ、と青信号とともにアクセルを踏みつけた。
     ――だが、いざ帰社してみて仰天した俺様だ。営業部のフロアに踏み入れると、真っ先に赤青黄色が目に飛び込んでくる。カラフルな装飾でフロアが飾られていて、おまけに昨日散々酔っ払ったはずの社長の後ろ姿も目に入る。……やけに活き活きとしてんなあと思って声をかけると、どうやら今日、正式な受注書類をもらって帰っているあいつの祝賀会の準備だと言うことだった。『確定したら、これだけで前期と同等の売り上げだよ⁉︎ お祝いしなきゃ!』とは社長の弁で、結局俺様は自分の仕事どころではなく、祝賀会の準備に駆り出されてしまった。……まあ、今日くらいはいいだろう、確かに突出した成績だ。自分に言い聞かせ、社長と残っていた数名の班員でフロアの中を派手に作り変えてやった。
     それから三十分もしない内だろうか、既に我が班のエースと成り上がっていたあいつから、無事に書類を回収できたので帰社しますとの連絡をもらう。それを聞いて、社長はしつこく俺様に『ケーキ買う? ケーキ買う?』とはしゃいでいた。



        *

     それから、一ヶ月なんてあっという間だった。
     営業部のフロアの壁は、今月も派手な装飾で目が痛くなるようだが、これらはすべて社長指示なので文句は言えない。堂々と垂れ下がる幕の中には今朝飾ったものもあり、それにはみんなが注目せざるを得ないほどのぎらぎらとした文字で『祝! 業績達成!』と書かれていた。出社してきた班員が一度はそれを二度見して、それから決まって俺様に、あれはなんだと問う。そして俺様は朝から何十回とされている同じ質問に、何十回と同じ返答をしていた。――「ミーティングまで待て」と。一から十までを何度もくり返すなんてばからしい。
    「ギルベルトくん、お、おはよう……すごい垂れ幕だね」
    そうしてようやく登場した、本日……というより、この先しばらくは祭り上げられるだろう、営業部の〝主人公〟が、苦笑まじりに席に着いた。
     あれからこいつとは、仕事以外ではまともに会話をしていない。
    「おう、ブラギンスキさま。おはようございます。あなたさま専用の垂れ幕でございまーす」
    「ふふ、なあに、それ。面白いね」
    呑気に笑いながらパソコンを立ち上げているが、果たして周りからの視線には気づいているのだろうか。
     こいつの仕事ぶりは凄まじいものがあった。いや、営業としての基本行動は他と特に変わらないにも関わらず、「見込みありません」と朝言っていたかと思うと、夕方の報告メールには俺様ですらあまり見たことのないような受注の報告を入れてやがる。基本的には以前の会社のときの顧客からの紹介や、ほかの担当者からの引き継ぎ案件の挨拶回りに出ていただけのはずなのだが……。
     ミーティング用の書類を持ち上げる。そろそろ始める時間が迫っていた。その書類を配る端から、どよめきがフロアを埋めていくのが面白い。そうして本人以外の全員が待ちに待ったミーティングが開始された。
     まず初めに行われるのが顕彰だ。前日までに実際に受注書にできた案件を俺様が資料をもとに読み上げて、班員で健闘を讃え合う作業だ。何十回と寄こされた質問の回答は、この中にすべて詰まっている。入社順に各人のノルマ進捗率を読み上げていく、その中だ。
    「――ベン・ミュラー、ノルマ進捗率57%。もうちょいだな、期待してるぜ。……んで、最後、」
    そこまで言うと、面白いくらいにフロアに存在する目ん玉という目ん玉が、俺様のほうへ向けられた。大注目を集めるはずの本来の人物の目ん玉は、手元の資料に落とされたままだ。いったいどこまで呑気なのだろうかと視線を外し、フロア中に聞こえるように声を張った。
    「イヴァン・ブラギンスキ、ノルマ進捗率207%。以上、合計で、法人班の今月の進捗率136%、営業部全体の進捗率103%」
    資料を配ったときに散々どよめいたくせに、俺様の発表のあとにも、またどよめきが起こった。月半ばだというのに、昨日までノルマ進捗率が0%のおまんじゅう野郎が、今日唐突にこんな成績になっていたら、そら同じ営業なら誰だって驚愕するだろう。
    「イヴァン、すごすぎ……です。もう新入りとか呼べねえっすよギルベルトさん。ノルマ割合再編しましょ再編、ぼく、イヴァンに勝てる気しねえっす」
    ミーティング中だというのに、お構いなしでミュラーが嘆声を上げた。まだ入社して二ヶ月ほどしか経っていない新入りに対して、闘争心の欠片もあったもんじゃない。班長としてこの士気の下がり方は由々しき問題ではある。……まあ、気持ちはわからなくはねえが。
    「あほたれ、そんなこと言い出したらお前クビだぜ。ちゃんと自分のノルマは消化しろよ。できるできる」
    「ふええ〜鬼〜! 今月は法人班ノルマ達成してるんすから、皆で遊びに行きましょうよー!」
    どっと笑いが起こるが、笑いが起こっているような場合でもない。俺様が一人で空回っているのだろうか、他の班員はもっと危機感を持つべきだ。
    「……今月〝も〟だろ。先月に引き続き、今月もイヴァン・ブラギンスキに我が法人班は乗っかってるってこった」
    もっとも、へらへら笑っているあいつにも問題がある。もっと士気を上げるような態度をとってくれればいいものを、相変わらず空気にお花を飛ばしたようなだらしのない顔つきを晒している。
     周りにちやほやされているあいつを、しばし黙って眺めていた。何をそんなに珍しがっているのかと、わからん顔で応対している。……ここだけの話、来月については既に見込みもあるらしい。昨日の報告メールで、受注した会社のグループ会社が開発依頼を検討しているという話を受けたらしいと書いてあった。……すげえよ、ほんとに。先月だけでも十分愕然としたってのに……こいつ、なんで前職辞めたんだ。……眺めているだけでは、その答えがわかるはずもなかった。
     それからもはやエンターテインメントと成り下がっていた本日のミーティングを終え、俺様は希望の班員に個別ミーティングをしていた。あいつはというと、社長直々に呼び出されて応接室にこもっていた。あの口の回る社長のことだ、あれやこれやと褒めちぎっているのだろう。もう今月は東奔西走しなくてよくなったあいつは、しばらくそのまま応接室に拘束されていた。
     個別ミーティングが一通り落ち着いた俺様は、それでもずっとデスクに向かっていた。何度も何度も目を通した名刺ファイルに、今日も目を通している。
     ……実はつい先週、『ビデカメラ』からメールがあった。……フランシスではなく、後任の若手社員のほうからだ。何でも、これからは海外のもっと安価な会社に委託したいとかなんとかで、それよりも安く発注できるのかという問い合わせだった。……目を通したが、あいにく元々フランシス相手だとギリギリまで値下げして受注をしていたし、安価な海外に敵うはずもなく……。そう返答したので、もうあの会社からの受注はないだろう。会社としての方針なら仕方がない、フランシスに泣きつくなんてみっともないこと、死んだほうがましなのでしなかった。
     だから、俺様は焦っていた。何度名刺ファイルを巡っても、どいつもこいつも部下に引き継いでいるか、既に会社として存在していないかだ。こんなに俺様自身の見込みはなかったのかと失意のどん底……とまではいかないが、まあ、これが班長になったことの代償かと嘆息の一つくらいは出る。周りには、そんなに躍起になることはないと言われているが……そんなこともわかっている。既に班長である以上、今さら足掻くのは不自然に見えているかもしれない。
     うっかり頭を抱えたまま顔を上げてしまった。昼飯どきも過ぎたころで、既に班員はほとんどフロアにはいなくなっており、数名がせっせと出る準備をしている。……そしてそこに、ようやく社長から解放されたあいつが戻ってきていた。フロアの入り口に呆けるように突っ立っていて……目が合っていたので、急いで背筋を伸ばしてパソコンを注視した。
    「ブラギンスキー。突っ立ってる暇があったら、他にも見込み探せよー」
    ここで何も言わないのは俺様の性分に反しているので、班長として声をかけた。いくら今は法人班のエースと言っても、いや、来月の見込みがあったとしても、その次の見込みは常に見据えておく必要があるのが営業だ。
     ゆっくりとフロアの入り口に立っていた気配が歩き出す。のそのそと、まるで熊が迫っているような圧迫感を味わっているが、こいつが無駄にでかいせいだろう。俺様の斜め前の席に到着すると、座ることなくじっと視線を降らせている。俺様はそれに気づかないふりを続けて、早速午前中から客先に向かっていた班員の報告メールに目を通していた。
    「ねえギルベルトくん、」
    ぴく、とマウスを握る手に緊張感が走る。なんだ、この時間だから昼飯の誘いか。身構えた通り、降ってきた言葉は、
    「一緒にご飯、」
    「あー、わり」
    きれいさっぱりぶっちぎってやった。
    「その、なんだ。昼飯は、その、時間がねえから、わり」
    これまで二・三度こんな風に誘われていたが、そのどれもを断っていた。それからしばらく誘われなくなっていたので諦めたのかと思いきや……。
    「――そう、」
    あいつの声に、思わず顔を上げた。
    「イヴァン、俺は暇だから飯行けるよー」
    あまりにも不安定な声をしていたものだから、思わずその表情を確かめたくなった。なのに、わずかな差で先に声をかけられたあいつはそちらを向いてしまった。
    「あ、じゃあ、行こうかな」
    あいつが返事した途端、ぐっと胃を掴まれたように苛立つ。
    「すぐ出られる?」
    「おう、ちょっと書類印刷するから待って」
    もう今日は外に出るつもりがないのだろうか、鞄をそのままで、財布だけをポケットに詰めていた。その動作の途中にもこちらに視線が戻りそうな気配に感じ、すぐにまた自分の手元を見てしまった。どうにか諦めてくれたらしく、そのまま声をかけられた班員のデスクに向かって歩き出した。
     ちら、と目線だけあげる。わいわいと何かを話しながら、あいつは楽しそうにその班員の準備を待っていた。さっき聞いた不安定な声使いは、まるで俺様の勘違いだった。結局本当に昼飯の相手なんて誰でもよくて、たまたま席が近かった俺様に声をかけただけなのかもしれない。……俺様が一人で気張っているだけで、あいつはもう、俺様のことをなんとも思っちゃいないのかもしれない。『諦めない』とは言われたが、あれからもう一ヶ月以上は経っている。
     ……もしそうなら喜ばしいことのはずなのに、思わず蹲りたくなった。……とても、苦しい。この追い詰めるような焦燥感はなんだ。パソコンの画面がもはや理解できないほどに、気持ちが悪くなる。……俺様はいったい何をやっているんだ。惜しむようにフロアから出て行く背中を見送って、こんな胸中になってしまうのがみっともなさすぎて泣けてくる。
    「……君たち、最近どうしたの?」
    はっと、我に戻る。社長の声がして見返すと、心配そうに見られていた。お構いなしに俺様のほうへ歩いてくる。まずった、変なところを見られてしまった、と浮かぶのはまた焦りばかり。
    「何がっすか?」
    返した言葉もやっとの思いだ。
    「いや、なんか、最近、ほら、ぎくしゃくしてない?」
    あいつのことかとすぐに合致する。フロアの中を見渡しても、社長の他に誰もいない。結局残っていた四人ほど、みんなであいつと昼飯に出たようだった。
     何事もなかったように振舞うことに必死なっていた俺様は、不自然だと気も回らないまま、またマウスを握り直して画面を見ているふりをした。
    「いいえ、上司と部下って、こんなもんでしょう」
    「……そ、そう?」
    「はい」
    「……なにかあったらちゃんと相談してね」
    物事を多少強引に進めてしまうところがある社長のこと、珍しいことを言うなとは思った。だが、「どもっす」と返せたことに安堵して、とにかく早く会話が終わるように願うしかなかった。だから社長が、「で、ギルベルト、ちょっといい?」と続けたときには、素で生真面目な面を晒してしまった。
    「イヴァンくんのことだけど」
    「なんすか」
    結局話題はそこか、とは思ったが、それから他のデスクの椅子を引っ張って隣に腰を下ろす社長を見て、これは普段の雑談とは違うんだと姿勢を正す。社長は何度か俺様のパソコンの画面を覗き込んだりしていたが、最終的には俺様のほうに視線は収まっていた。
    「彼、もうすぐ試用期間終わるでしょう」
     ――あ。言われて脳みそに閃きが走る。そうか、すっかり忘れていた。あいつは三ヶ月の間は試用期間だった。ということは、あいつが続けるって言わなきゃ、あいつとはもう関わらなくて済むことになる。……こんだけ避けているから、あるいは本当に……。と、そこまで思考は巡って、だが、会社としては手放したくないんだろうと、社長と目が合ってたどり着く。
    「で。調べていたらイヴァンくん、前の会社でもとても優秀でね。今もがんばってるよね」
    「あー、はい」
    とてもじゃないが、『がんばってる』という次元の成績ではないのは確かだ。
    「彼は人材としては逸材だよ。そういうものを間違いなく持っている子だ」
    「……あー、まあ……」
    あいつとの個別ミーティングで聞いている限りは、合わない現場はとことん合わないが、合う現場からの売り上げが並みじゃない。それはもう既に、営業部なら全員が知っていることだ。だから、引き止めたいという話なのだろう。社長の語らいに傾聴を続ける。
    「それも踏まえて、だ。イヴァンくんの本採用にあたって異動を考えててね」
    「異動、っすか?」
    「そう。君も知っているように、この会社は年功なんて関係ない。会社貢献度で評価していく会社だ」
    「はい?」
    何が言いたいんだと、つい気持ちが急いて乱暴な聞き方をしてしまった。いやに回りくどい前置きをしている。
    「……ここだけの話ね、今度営業部の部長の席が空くから、そこにイヴァンくんを任用しようと思っている。それで、現在イヴァンくんの直属の上司である君にも意見を煽りたくて、」
    そこで俺様の反応を見るためなのか、言葉が一旦止んだ。じっと見られている。
     真っ先に浮かんだのは……浮かんでしまったのは、営業部内の各班長であるどちらかから次期部長を選ぶわけじゃねえのか、という疑問だった。あわよくば、これまではだいたいは法人班の班長が次期部長になっていたから、俺様じゃねえんだ、という気持ちが台頭してしまった。……それからすぐに、営業に戻りたいとか言っているくせに、そんなことを思ってしまった自分に失望する。
    「それはまた……いきなりっすね……」
    だが、この情動は上手く隠せたと思っている。今はそんなことを考えている場合ではない。……確かに部長は最近、突然休むことが多くなっていたし、見るからに体調を崩しているようだった。きっと急な話だったのだろう。
    「ああ、なんだ、その、ほら、うちほとんど歩合じゃないでしょう。こういうことしてしっかり働きに見合ったお給料をもらってほしいなあって」
    つまり、社長は俺様にこの采配に納得しろ、と諭しにきたわけだ。初めから俺様の意見なんか聞くつもりはなかったのだろう。どっと疲れが落ちてきて、一気に投げやりな気持ちになってしまった。
    「――社長がそうしてえなら、そうすりゃいいんじゃないすかね。俺は一社員なんで」
    「……じゃあ、総務と話してくるね。年度末の人事会議も近いしね〜」
    要件を話せて満足したのか、社長は軽快な足取りで椅子を元に戻して、「じゃ、仕事がんばってね」とフロアを後にした。
     最後に残していった社長の「仕事がんばってね」がこめかみを殴ってくるようだ。まるでお前の成績はいったいどこだと詰問されている気分になる。俺様が班長になる前だって、確かにあいつほどの成績を上げたことはあまりない。何度かラッキーはあったが、基本的にはコンスタントにノルマを消化していくタイプだった。だからこそ、突飛な成績を上げるあいつは、班員に最も近い『班長』という立場には向いていないのもわかる。……だが、いきなり部長で本採用とは……社長も思い切ったなと感心まで浮かぶ。
     だがそれより、あいつ自身に正規雇用される気があるのかどうかがネックになってくる。
     いっそう頭がどんよりと重くなり、ズキズキと身体の節々が痛むような気がする。耐えられず突っ伏そうと思ったら、ずっとかけっぱなしになっていたらしい眼鏡に気づき、それをデスクの端に置いた。
     ……ここ二ヶ月ほどの、かみ合わない互いの行動が頭をよぎる。やり直したいと言っていたあいつ。やり直すことを拒む俺様。近づこうとしているあいつ、遠ざかろうとしている俺様。頭の中でごちゃごちゃしたものがぐるぐると肥大していく。そうして直面した感情の終着点に、慌てて思考を拭った。
     ――……こんなことを考える俺様は最低だ。あいつがこの会社を辞めてくれたらいいのになんて……自分が汚すぎて潰されそうだ。
     ふ、と、思い当たる。もしかしなくても、仲間と昼飯を終えたあいつはここへ戻ってくるんじゃないか。荷物はここに置いたままだ。そう思ったらどうしても今は顔を見ることを避けたくて、慌ててパソコンの電源を落とした。外で使う用のタブレット端末をひっつかみ、鞄に押し込み、そのままの勢いで会社を飛び出していた。

     俺様が社長からあいつの異動について相談をもらった日から、ちょうど三日後のこと。
     毎週木曜の朝は班内でのミーティングの前に、戦略ミーティングを社内で行っている。これは営業に関係する各部署の班長、部長、そして幹部が集うミーティングで、各班の売り上げから今後の課題までを全社で共有するためのものだ。
     おおよそこの三日前から、どうも身体の調子が優れない俺様は、ついに風邪を引いたのではないかとの結論に行き着いた。なんてことはない、食欲もないし、身体も重い。だから、これはもはや精神的なものではなく、身体的な問題だろうと結論づけるには十分すぎるほどだった。健全な魂はなんとやら、ここ最近、やたらと悲観的なのはそのせいだ。
    「じゃギルベルト、異動の詳細は決定になったから、君からイヴァンくんに伝えてね」
    戦略ミーティングのあと、そう社長に声をかけられた。今日という長い一日の本当の幕開けは、この一言だった。解散していく各人の中で俺様の首根っこを掴んだ社長は、楽しそうにそう宣告する。……首根っこを掴むというのはもちろんただの表現だが、それくらいの気重さがあった。
     とにかく、社長の宣告で、あの落胆がぶり返す。……どうやらあいつ、正規の社員になることはオッケーしたらしい。意外だったこともあり、落胆は一入だ。よく考えれば、そもそも面接のあと、試用期間に入るときもこう思っていた。あいつは確実に変わっている。
     ……だが、あいつを部長に任用することを、他でもないこの俺様に言わせようとは、社長も飛んだ鬼だと思ってしまう。これは間違いだろうか。
    「……なんで俺なんすか?」
    抗議というにはあんまりにも遠回りすぎたのか、屁でもないような顔つきで、社長は俺様の肩を叩く。
    「異動は普通、上司から話があるものでしょう」
    「ああ、そうっすね……」
    俺様が返せたのは、たったそれだけの相槌だった。

     毎朝行われている班内でのミーティングを終わらせた営業部のフロアは、いつも活気立っている。班員同士で作戦会議をしていることもあれば、今日はどうやってサボろうかという議題まで聞こえてくる。……後者についてはたまになら黙認しているが、成績が芳しくない班員だと個別ミーティングコースだ。
     それはさておくとして。昨日の報告メールに、今日の予定は適当に外回りをすると書いてあった営業部次期部長さまに、俺様から大切な話があることは忘れていない。さっさと終わらせてしまおうと、静かに席を立った。
    「よお、法人班のエース、イヴァン・ブラギンスキ。ちょっと話そうぜ」
    ただでさえデスクが至近距離なのはわかっているが、わざわざあいつの背後に回って、『フロアから出るから来い』というのを仕草で示して見せた。
     当の本人は緩やかに首を傾げて、
    「うん? どうしたの、改まって」
    まつげにかかる長い前髪を揺らした。その物腰に言葉にならないわだかまりがまた湧き出したが、そんなことはなかったことにする。もう慣れっこだ。
    「異動の話」
    「……え、ぼ、ぼく異動……するの……?」
    ついにこいつも真面目な話なのだと気づいたのか、ゆっくりと立ち上がり、
    「ああ、まあ、異動というか、昇進かな。そんなに悪い話じゃねえよ。いいからちょっと来い」
    「う、うん」
    素直に俺様のあとに続いてくるのを確認して、二人揃って営業部のフロアを出て行く。……確か先ほど確認したところ、応接室はすでに先約があった。フランシスのところみたいにいくつも応接室がないのは、こんな中企業でもたまには不便なものだ。
     そこで俺様が向かったのは、開発部が使う喫煙所だった。
     ……営業と、そうでない業務部署とは、少し日中の就労ルーティンが異なる。そうでない部署では休憩時間は決められていて、それ以外は基本的に業務に集中している。つまりこの時間ならば、開発部の喫煙所には誰もやって来ない。そもそも建物も違うので、営業部の社員は滅多に立ち寄らない。
     建物が変わったあたりで、あいつの訝しみは強くなっていたようだが、特にその間に会話はなかった。どうやらあいつも俺様に何か言いたそうなのはわかっていたが、特に口を開く様子はない。さらに進み、最上階を目指しているのだと知ると、ようやく階段を登りながら一言めを発した。
    「……喫煙所? ぼくたち、どちらも煙草吸わないのに?」
    どうやらこの建物の最上階には喫煙所があることを、誰かに聞いていたようだった。そうか、そこにはいくつか自販機もあるので、他の班員に連れて行かれたこともあるかもしれない。
    「いいんだよ。この時間だれも来ねえし、応接室は先約があったんだよ」
    「……そっか」
    腑に落ちたようで、また元の沈黙に戻る。史上最強に気まずいが、もうこの際、俺様とこいつの間柄なので仕方がないと割り切るしかない。階段を登りながら、身体の重さに嫌気が差す。そろそろ観念して病院にでも行くべきだろうか。
     こつこつと、二つの足音はずっと続いた。このまま最上階に到着しないのではと思えるほど、閉塞的に感じる。二人の間に漂う静けさが肌寒さにいっそう拍車をかけ、息遣いがよく響く。……だが、さすがにもう春先だ、階段を登ればすぐに身体は温まる。
     そうして、そうとうな気力を消耗してしまったが、とうとう目的の階に到着した。自販機の前にはいくつかテーブルと椅子があったが、そこだと声がよく響く。なんとなく話しているところを誰にも聞かれたくなかった俺様は、そのまま扉が隔てる奥の喫煙所にそいつを連れて入った。
     開いた瞬間に、懐かしさと一緒に壁に染み込んだヤニの匂いが鼻を通る。数年前まで、俺様にも馴染みのあった匂いだ。今でもたまに吸いたくはなるが、実際に吸ったことはもうしばらくはない。……気持ちを落ち着けるために窓を開けて、あいつを引き連れたままその枠にもたれかかるように体勢を楽にした。続いて、あいつも体勢を楽にしたようだった。
     改めて喫煙所の中の黄ばんだ壁を一望する。懐かしい匂いのせいで、やっぱり少し口が寂しくなったような気がする。
    「あー、ここ来るのやっぱりまずかったかな。吸いたくなっちまう……ケセセ」
    緊張していたのだと、笑ってから気づいた。少しだけ身体が楽になる。
    「あれ、吸ってたんだ?」
    「ああ、おう……やめたけど。三年前くらいかな」
    指折り数えてみて、自分でももう三年か、と感心した。さすが俺様、一度決めたことは曲げねえぜ。
    「ふふ、煙草吸ってるの、ちょっと見てみたかったな」
    あいつが笑った声を聞くと、一気に警戒心が凝固した。声色だけで、あいつがどんな表情をしているのか想像ができる。見たらきっと、また苦しくなるような表情だ。それがわかってしまって、思考をかき消すように話題をかぶせた。
    「……お前な、来月から営業部長だってさ。おめでとう」
    あんまりにも奇天烈だったのだろう、あいつはその場で口を瞑ってから、
    「ええ……ん? え? 部長? ……ぼ、ぼくが?」
    めちゃくちゃに混乱していて、ちょっとその様子は面白かった。昔のことを思い出して顔を見ると、まるで『君じゃないの』と言いたげだ。こいつもそう思うなら、三日前に俺様が抱いてしまった感情も、きっと自然なものだったのだろうと、少し気が楽になった。
    「そうだな。ここは年功序列の会社じゃねえから。腕のあるやつが上る、そういう会社だ。そしてお前には間違いなく、腕がある。たった三ヶ月足らずであれだけの売り上げを見せつけられてんだぜ。そらそうなるだろ」
    この三日で、俺様も納得したつもりだ。確かにこいつの成績は恐ろしい。加えて、社長が前職でも活躍していたと言っていたので、きっとこいつの持っている天性のものなのだろう。俺様からすれば鈍臭いだけだが、それが余裕そうに見えるのか、客にはウケている。
     だが、あいつはいかにも浮かない顔で、わかりやすく目を泳がせた。
    「……ええ……でも……たまたまだから……なんか、荷が重いよ」
    あまり乗り気ではないようだ。天性ゆえなのか、自分の腕に確信が持てていないらしい。そうしおらしくされると、少し気の毒ではある。
    「まあ、なんだ。これからはデスクの前でふんぞり返って、たまに意見聞かれたときにちょっと口出せばいいだけなんだから、仕事も楽になるだろ。……ああ、俺様の尻拭い業務は、お前のデスクに積まれるようになるかもしんねえがな、ケセセ。そうだ、そりゃ名案だろ」
    慰めとか励ましとか、そんなたいそうなもののつもりはなかったが、どうにか気を楽にしてやれたらいいとは、ほんの一握りだけ思っていた。だから、わざと戯けてやったのだが、一向にこいつの顔は浮かないままで、思い詰めたように口を閉ざしていた。その頭の中でいろんな思いが巡っているんだろう。そりゃ、入って三ヶ月めにして部長に抜擢されるなんて、夢にも思っていなかっただろうしな。
     だが、今はこの状況に面食らっているとは言え、すぐにそんなことにも慣れちまうだろう。動揺は今だけのものだ。むしろ今後この会社の営業部を引っ張る立場になるのだから、もっとビシッとしてもらわねえと、下に付き従う身としては……――ああ、そうか、俺様、これからこいつの部下になるのか。
     嬉しくもない成り行きだったことに、ここへきてようやく至る。
     とにかく、こいつにはしっかりしてもらわねえと。
    「なに黙り放けてんだ、だらしねえな」
    「……うん、なんか、いろいろ思っちゃって」
    苦笑ではあったが、なんとか気を持ち直したようで、すっと顔を上げた。肺のあたりが掴まれたように、ぎゅっと苦しくなる。そんなことには、気づかないふり、気づかないふり。
    「そうか。まあ、決定は決定だから、頑張りたまえよブラギンスキくん。俺様のためにもな」
    そう告げて、なんとなくあえて肩を叩いてやった。ここでそうしないのは逆にわざとらしく思えてしまったからだ。
     だが、あいつの様子が一変した。ぐっとまっすぐに目を覗き込まれる。こいつの熱が滾る瞳に視界のぜんぶを奪い取られ、まさにその瞬間から息ができなくなった。
    「……ねえ、あのことだけど」
    だが、同じようにこいつも、少し息苦しそうだった。
    「やっぱり、もう一度、チャンスをくれないかな。今度こそ、君を、」
    言葉に詰まったようで、そこまでで声が止まる。ぎらぎらと迫る視線には、必死さが……あのころと何も変わらない、必死な輝きが灯っていた。それを見ているだけで、すべてが崩れそうになる。だめだ、ここで崩れたら、だめだ。
     気を強く持ち直して、あいつとの距離を保つようにひらひらと手のひらをはためかせた。
    「お前、それ今言うことか? 流れとか状況とか見て物を言え」
    長く捕らえられていた視線もようやく剥がすことができた。どこでもないが、とりあえずこいつではないところを意識して視界を定めた。
    「……ごめん。でも、ずっと、考えてて……」
    だから、そんな声を使うのはやめろ。揺れて、不安定で……意志が決壊したように、あいつの顔を確かめてしまった。
    「今のぼくには異動とか仕事とか、正直言って二の次なんだ」
    あいつの眼差しも、俺様に戻ってくる。
    「ギルベルトくん……!」
    窓辺に寄りかかるこの身に、また一歩踏み込んで迫った。身体の底から悲鳴が上がるような感覚が伝い、身動きが一つも取れない。
    「……その話はしたくねえ」
    渾身の拒絶の言葉も、迫っていた衝動の前ではきっと小さすぎた。あいつの懸命な瞳にずるずると気持ちが引きずられる。
    「――じゃあ、一回だけ、」
    くっ、とまた呼吸が止まる。苦しい、こわい……拒めない。目が放せない。
    「また、ぼくと、キスしてみてよ……?」
    心臓が力いっぱい殴りつけてくる。まるで逃げることから気を逸らすように、強くて、身体中を巡る血液の動きすらわかりそうなほど、どくどくと脈打つ。
    「もしかしたら、気が変わるかも……」
    唇が触れそうになる。息遣いを感じる。……こいつの匂い。懐かしい、
    「ねえ、ギルベルトくん……」
    す、と時間が止まった。
     ――だめだった、逃げられなかった。ついに、その唇の感触が、背骨を撫で上げるように、心の底から触れた。やさしくて、あたたかくて、
    「……っ」
    息が、できない。苦しい、痛い、つらい、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
     頭の中が言葉で埋もれて、ぐちゃぐちゃになる。どの言葉を、どの形を拾えばいいのか。わからない。こわい、いたい。
     するとそこへ、ちろろろ、と電子音が流れ出した。これは俺様のではない、こいつの携帯電話だ。それでも一間、触れ合っていることを惜しむように続き、ゆっくりと気配が離れる。
     伏せらえていた瞳が上がって、視線が重なる。見つめられて、言葉以上の熱が伝ってくる。
     気配はさらに動き、
    「はい、ディン製作所、ブラギンスキです」
    受話口を口元に押し当てて、あいつは喫煙所から出て行った。
     ――ああ、触れてしまった。あいつに。ようやく戻った呼吸でも、肺が痛くて生きた心地がまったくしない。口元を押さえて、必死に熱を抑えようとする。……こんなはずじゃなかった。触れてしまったら、この先、拒めなくなる。そんなの、絶対嫌なのに……好きだ。イヴァンが、好きで、好きで、たまらない。頭を掻きむしりたいような衝動が押し上げる。イヴァンが好きだからといって、あのころのような関係には戻れない。戻りたくない。
     動揺のせいだろうか、なかなか呼吸が整わなかった。過剰にくり返される深呼吸が、いっこうに止まらない。
     ……あれ、苦しいと思っていたら、うまく呼吸ができていないことに気づいた。意識して息を止めてみようとしたが、それでも深い深い呼吸が止まらない。
     あれ、待て待て待て。痛くなった肺を押さえてうずくまる。なんだ、本当に息が、苦しい。あ、やば、これって、もしかして――



    第四話「ムチュー・スィエッツァ」 へつづく
    (次ページにあとがき)



    あとがき

    わ〜! ご読了ありがとうございます!
    第三話、いかがでしたでしょうか。

    一話のあとがきで『社会人パロと高校生の学パロ優勢でしたので〜』と書いたと思うのですが、
    今回はこのように、ちらほらと学パロも混ぜていけたらいいなと目論んでいます……!
    ちなみに、今回は個人的に「書きたい!」と思ったシーンが満載なので、
    書いていてとても楽しかったです。
    ……でももどかしかったです(TT)
    このお話のギルちゃん大丈夫か……。

    さて、次話は久々のイヴァンちゃん視点です!
    お楽しみにしていただけると幸いです〜!

    改めまして、ご読了ありがとうございました!

    飴広 Link Message Mute
    2023/07/21 23:07:27

    第三話 ヤブレ・シュトーロン

    【イヴァギル】

    こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第三話です。

    more...
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    • こんなに近くにいた君は【ホロリゼ】

      酒の過ちでワンナイトしちゃう二人のお話です。

      こちらはムフフな部分をカットした全年齢向けバージョンです。
      あと、もう一話だけ続きます。

      最終話のふんばりヶ丘集合の晩ということで。
      リゼルグの倫理観ちょっとズレてるのでご注意。
      (セフレ発言とかある)
      (あと過去のこととして葉くんに片想いしていたことを連想させる内容あり)

      スーパースター未読なので何か矛盾あったらすみません。
      飴広
    • ブライダルベール【葉←リゼ】

      初めてのマンキン小説です。
      お手柔らかに……。
      飴広
    • 3. 水面を追う③【アルアニ】

      こちらは連載していたアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 3. 水面を追う②【アルアニ】

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 最高な男【ルロヒチ】

      『現パロ付き合ってるルロヒチちゃん』です。
      仲良くしてくださる相互さんのお誕生日のお祝いで書かせていただきました♡

      よろしくお願いします!
      飴広
    • 3. 水面を追う①【アルアニ】 

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 星の瞬き【アルアニ】

      トロスト区奪還作戦直後のアルアニちゃんです。
      友だち以上恋人未満な自覚があるふたり。

      お楽しみいただけますと幸いです。
      飴広
    • すくい【兵伝】

      転生パロです。

      ■割と最初から最後まで、伝七が大好きな兵太夫と、兵太夫が大好きな伝七のお話です。笑。にょた転生パロの誘惑に打ち勝ち、ボーイズラブにしました。ふふ。
      ■【成長(高校二年)転生パロ】なので、二人とも性格も成長してます、たぶん。あと現代に順応してたり。
      ■【ねつ造、妄想、モブ(人間・場所)】等々がふんだんに盛り込まれていますのでご了承ください。そして過去話として【死ネタ】含みますのでご注意ください。
      ■あとにょた喜三太がチラリと出てきます。(本当にチラリです、喋りもしません/今後の予告?も含めて……笑)
      ■ページ最上部のタイトルのところにある名前は視点を表しています。

      Pixivへの掲載:2013年7月31日 11:59
      飴広
    • 恩返し【土井+きり】


      ★成長きり丸が、土井先生の幼少期に迷い込むお話です。成長パロ注意。
      ★土井先生ときり丸の過去とか色んなものを捏造しています!
      ★全編通してきり丸視点です。
      ★このお話は『腐』ではありません。あくまで『家族愛』として書いてます!笑
      ★あと、戦闘シーンというか、要は取っ組み合いの暴力シーンとも言えるものが含まれています。ご注意ください。
      ★モブ満載
      ★きりちゃんってこれくらい口調が荒かった気がしてるんですが、富松先輩みたいになっちゃたよ……何故……
      ★戦闘シーンを書くのが楽しすぎて長くなってしまいました……すみません……!

      Pixivへの掲載:2013年11月28日 22:12
      飴広
    • 落乱読切集【落乱/兵伝/土井+きり】飴広
    • 狐の合戦場【成長忍務パロ/一年は組】飴広
    • ぶつかる草原【成長忍務パロ/一年ろ組】飴広
    • 今彦一座【成長忍務パロ/一年い組】飴広
    • 一年生成長忍務パロ【落乱】

      2015年に発行した同人誌のweb再録のもくじです。
      飴広
    • 火垂るの吐息【露普】

      ろぷの日をお祝いして、今年はこちらを再録します♪

      こちらは2017年に発行されたヘタリア露普アンソロ「Smoke Shading The Light」に寄稿させていただきました小説の再録です。
      素敵なアンソロ企画をありがとうございました!

      お楽しみいただけますと幸いです(*´▽`*)

      Pixivへの掲載:2022年12月2日 21:08
      飴広
    • スイッチ【イヴァギル】

      ※学生パラレルです

      ろぷちゃんが少女漫画バリのキラキラした青春を送っている短編です。笑。
      お花畑極めてますので、苦手な方はご注意ください。

      Pixivへの掲載:2016年6月20日 22:01
      飴広
    • 退紅のなかの春【露普】

      ※発行本『白い末路と夢の家』 ※R-18 の単発番外編
      ※通販こちら→https://www.b2-online.jp/folio/15033100001/001/
       ※ R-18作品の表示設定しないと表示されません。
       ※通販休止中の場合は繋がりません。

      Pixivへの掲載:2019年1月22日 22:26
      飴広
    • 白銀のなかの春【蘇東】

      ※『赤い髑髏と夢の家』[https://galleria.emotionflow.com/134318/676206.html] ※R-18 の単発番外編(本編未読でもお読みいただけますが、すっきりしないエンドですのでご注意ください)

      Pixivへの掲載:2018年1月24日 23:06
      飴広
    • うれしいひと【露普】

      みなさんこんにちは。
      そして、ぷろいせんくんお誕生日おめでとうーー!!!!

      ……ということで、先日の俺誕で無料配布したものにはなりますが、
      この日のために書きました小説をアップいたします。
      二人とも末永くお幸せに♡

      Pixivへの掲載:2017年1月18日 00:01
      飴広
    • 物騒サンタ【露普】

      メリークリスマスみなさま。
      今年は本当に今日のためになにかしようとは思っていなかったのですが、
      某ワンドロさんがコルケセちゃんをぶち込んでくださったので、
      (ありがとうございます/五体投地)
      便乗しようと思って、結局考えてしまったお話です。

      だけど、12/24の22時に書き始めたのに完成したのが翌3時だったので、
      関係ないことにしてしまおう……という魂胆です、すみません。

      当然ながら腐向けですが、ぷろいせんくんほぼ登場しません。
      ブログにあげようと思って書いたので人名ですが、国設定です。

      それではよい露普のクリスマスを〜。
      私の代わりにろぷちゃんがリア充してくれるからハッピー!!笑

      Pixivへの掲載:2016年12月25日 11:10
      飴広
    • 赤い一人と一羽【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズの続編です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのプロイセン視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのロシア視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / リトアニア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのリトアニア視点です。
      飴広
    • 「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズ もくじ【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのもくじです。
      飴広
    • 最終話 ココロ・ツフェーダン【全年齢】【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の最終話【全年齢版】です。
      飴広
    • 第七話 オモイ・フィーラー【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第七話です。
      飴広
    • 第六話 テンカイ・サブズィエ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第六話です。
      飴広
    • 第五話 カンパイ・シャオ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第五話です。
      飴広
    • 第四話 ムチュー・スィエッツァ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第四話です。
      飴広
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