阿僧祇が体調不良になる話 阿僧祇は目覚めた瞬間、己の不調を理解した。
横になっているはずなのにぐるぐると視界は回り、そこはかとない倦怠感によって体を起こすことすら億劫でならない。上体を少し起こして時計を確認すれば、時刻はいつも通りの午前7時だ。朝食を作りに起き上がる時間ではあるが、この体調で果たしていつも通り動けるか。
阿僧祇は大抵不調になった場合は一日中寝ると決めているのだが、タイミングが悪いことに今日は外せない仕事の用事が入っている。代役を頼めるのならそうするが、どうしても阿僧祇自身で対処しなければならない案件だから質が悪い。
零名に頼ることも考えたが、確かあの能力は外傷には効くが、風邪などの病には効きづらかったはず。そう考えると零名に頼ることも難しそうだ。
阿僧祇は大きなため息を吐きながらいつもの倍の時間をかけてベッドから起き上がり、ゆっくりと移動して朝のルーティーンを終えた。そのころには既に30分近くなっており、零名たちが朝食の準備を手伝いに起きてきている頃だと想像できた。
さすがに不調であることはバレてそうだな、とは思いつつ。それでも他者に弱みを見せることを良しとしない阿僧祇は顔色が大していつもと変わらないことを確認した後、2階へと降りる。
「あ、阿僧祇さん。おはようございます。遅かったですね」
「おはよう、レイナチャン。ちょっと寝坊しちゃってネ」
朝食の準備は大分進んでいる様子でトーストもサラダも既に出来上がっていた。阿僧祇は零名の頭の上からフライパンの中に目玉焼きとベーコンがあることを確認した後、朝食についてはすることがなさそうだと思う。やるとするならお湯を沸かしてインスタントのスープを作ることくらいか。
電気ケトルの準備をしていれば、零名の方も滞りなく進み、あっというまに朝食が完成した。随分料理が上達したものだなと思いながら、そのうち朝食当番をやめる日も近そうだと阿僧祇は笑った。料理は苦ではないが、面倒くさくはある。他人に任せられるのなら任せたいというのが本音だ。
「阿僧祇さん」
「ん? どうしたの、レイナチャン」
テーブルの上にいつも通り3人分の料理を並べた後、零名は阿僧祇を呼び止める。しかし二の句は告げられず、作り笑いで「なんでもありません」と返した。
零名が師事する医者のレベルを考えれば、不調もやはりバレているのだろう。そのうえで、何も言わない阿僧祇の気持ちを汲み取って言及しないでいる。なんてできた子だろうか。気を遣わせて大人げないな、と自分を嗤いながら阿僧祇は席に着いた。
いただきます、と食前の挨拶をした後は普段通りの朝食が続く。基本的に昼を抜くため、朝はしっかりと食べる派な阿僧祇でも、不調であれば食欲も失せるというもの。思ったように食事は喉を通らず結局朝食を残すことになった。
同席した愛名にはストレートに「調子が悪いの?」と聞かれてしまったが、そこは余裕の仮面をかぶって「ちょっと夜食食べ過ぎただけダヨ」と言い訳しておいた。そんな言い訳で納得されれしまうのはどうなんだと思わないでもないが。
部屋に戻った阿僧祇はそれはもう本当に、いつもより時間をかけてゆっくりと仕事の支度をした。急いで焦ってこれ以上体調を悪くするわけにはいかない。えっちらおっちらとそれほど広くない部屋の中を歩き回っては道具を集め、どうして前日に準備しておかなかったのかと昨日の自分を恨んだりもした。
そうしてなんとか予定していた時刻に家を出た阿僧祇は、これから向かう電車とその人込みの事を思い、深い深いため息を吐いた。
「おや、随分と疲れてるみたいだね」
「んー、まぁ。面倒な仕事だったからネ~。幽霊も分かってるデショ?」
割り振ったのはオマエなんだから、といつも通り調子が悪そうな男――幽霊に当てつけのように言えば、幽霊は困った様に肩をすくめてうっすらと笑みを浮かべた。さしずめ体調不良まで自分のせいにするな、といったところだろうか。
確かに阿僧祇の不調は幽霊も関与するところではないので、話題はそれ以上膨らまず、二人して静かに他のメンバーを待った。
予定に予定は重なるもの、というよりも外せない用事事態がfurfanteでの活動に関わるもので、結果が出れば報告会を開くのは当然だった。
時間が近づき、メンバーたちが徐々に集まる。会が始まるまで思い思いに雑談を楽しんだり、近況について話をしたりとしている中、阿僧祇はそれらの会話に一切参加せず、静かにスマホを見ているふりをしていた。
もちろん具合が悪いからだ。阿僧祇の体調不良は悪化の一途をたどっており、手や足は水にさらしたように冷たく、しかし発熱はしているようで頭はややぼんやりとして熱い。いち早くベッドに駆け込みたかったがそうもいかない。
(いや、普通にメールで幽霊に結果報告はしてるし、全部幽霊に任せて今からでも部屋に帰って寝ていいんじゃないか?)
そう思いついたものの時すでに遅し。幽霊に急用が出来たと嘘をつくためスマホから視線を外した瞬間、残りのひとりであった桐志が部屋へと入ってきた。
定位置に座った桐志は阿僧祇の方を見てわずかに眉を顰めた。だてに10年以上付き合ってない。不調に気づいたというよりは、不調を隠す阿僧祇の表情に気づいた、というべきだろう。
自身の顔面に刺さる視線を気にしないようにしていれば、さっそくと幽霊が話を切り出した。
「さて、みんな集まってくれてありがとう。さっそく今回の仕事について、話そうか」
いつもお決まりの言葉を皮切りに、会議が始まる。
そして全て恙なく終わった。特別問題となる部分もないし、全員が賛成した作戦でいろいろと実行されることだろう。阿僧祇の出番もあるが、まだ先の話。ひとまず体調を整えるだけの時間はありそうだと試算しながら、ソファに体重を預ける。
今立ち上がり足早に部屋に戻ったとて、その道中で倒れない自信がない。流石に全員の前で倒れるなんて恥ずかしいことをしたくなかったため、幽霊たちが退出するのを待つことにしたのだ。
そんな阿僧祇の元にずかずかといつもより少し大きな歩幅で歩み寄ったのは虚淵桐志だった。
電灯の光を遮られ、影になった阿僧祇からは桐志の顔はよく見えない。だが、なんとなく怒っているような気がした。
「……どうしたノ」
桐志はその問いに答えることなく、すっと腕を上げ、阿僧祇の額に手を当てる。まさしく熱が出ていないか確認する時の動作だ。
熱が出ているせいか桐志の手のひらは殊更冷たく感じる。ちょうどいい温度だと阿僧祇が感じるということは、当然桐志は熱いと感じるはずだ。阿僧祇は桐志の口から小さな溜息が零れ落ちたのを聞き逃さなかった。
「熱あんのか?」
「これでなかったらビックリするよネェ」
分かりきった質問に、阿僧祇は茶化して答えた。口の端を持ち上げて笑って見せているが、やはり顔色が悪い。
「仕事は?」
「急ぎはなにも」
「動けるか」
「休めば多分」
短い言葉の応酬で状況を確認した桐志は少しだけ何かを考えるようにした。
何を考えてるんだろうか、と阿僧祇がぼんやりと考えていると、急に桐志が近づいて来た。
その行動に熱で朦朧とした頭では反応できず――熱がなかったとしても反応する必要性を感じていなかっただろう――一体何をするのだろう、と考えていた阿僧祇をふいに浮遊感が襲った。重心が崩れる感覚を受けて反射的に身近な掴めるものにしがみつく。すなわち、桐志へと。
一瞬経って、ようやく阿僧祇は自分が桐志に持ち上げられたのだと気づいた。阿僧祇は自分が男の中でも大柄な方であることを自覚している。桐志の方が阿僧祇と比べてやや身長が大きいとしてもそこまで大した差ではない。
だというのに不安げなく阿僧祇を持ち上げて見せるその筋力と大幹に改めて感心の溜息が出そうになった。
「俺なら無理だな」
「ん?」
もし立場が逆だったなら、と考えてそんな言葉がつい零れる。おそらく持ち上げようにも桐志の足を床に引きずりながらという不格好な様になるだろう。
阿僧祇から小さく零された感想を聞いた桐志が軽く首をかしげるが、阿僧祇は何でもないと言った後、さっと周りを見回す。幸いなことに幽霊も鬼も魔女も退出した後だったようだ。唯一残っている天使――零名は「後で薬届けますね」という言葉と共に二人を見送る体勢だ。
最初から薬貰えばよかったか、と今更思ってももう遅い。大人しく桐志に運ばれ、数分後。阿僧祇は自室のベッドに転がされていた。
「飯は起きたらでいいか?」
「ん。そこから適当に着替え取って」
「これか?」
さすがにハイネックでは寝苦しい、と阿僧祇は桐志の後ろにあるクローゼットを指指した。本音を言うならシャワーくらい浴びておきたかったが、酷い眩暈にそれも断念した。今起き上がれば一歩も進むことが出来ずに倒れるだろう。
桐志から寝巻に使っているラフなスウェットを受け取り、上だけ着替え、ベルトと脱いだ服は床へと投げ捨てる。桐志がそれを拾おうとするのを横目に捉えて、「いいよ置いといて」と言ったが、果たして届いただろうか。
思惑小さな弱り切った声がでて阿僧祇自身も驚いていた。思考は元気よりだが体は随分と参っているらしい。
阿僧祇の瞼はとうに落ちていて、周囲の様子は音と気配から推測するしかない。それも徐々に微睡みに奪われて、現実がゆっくりと霧の向こう側にあるように遠ざかっていく。
ふいに自分の近くにあった気配が遠ざかるのを感じて、阿僧祇はそれを引き留めようと反射的に腕が伸びた。しかし何かを掴むだけの力はもはや入らず、指先が布を撫でるだけに終わる。足を止めた気配に阿僧祇は急に申し訳なくなって、「いいよ」とほとんど音のない言葉を紡いだ。
どうせ夢の中では一人なのに、誰か近くに居てほしいなんて馬鹿らしい。
完全に意識を微睡みに落とす直前、阿僧祇はそんなことを考えた。
「いやァ、迷惑かけたネ」
「今度から早くいってくださいね。あんなに酷くなる前に!」
「はァい、レイナセンセー」
翌日の朝。すっかり調子を戻した阿僧祇は零名へと謝罪を口にした。
それははた目からすると謝罪の体を取っていなかったが、阿僧祇が申し訳なさを感じていることは雰囲気で把握できたので、零名は怒っています、という顔をすぐにひっこめた。
さて、朝食、と三人が手を合わせた時、この時間には珍しい姿がダイニングに現れた。
「ふわ……。はよ」
「……珍しい。おはよ……ん?」
「熱はないな」
「おかげさまでね」
流れるように阿僧祇に近づき額に手を当てた桐志は、その熱を確認して頷いた。目は半分ほど空いていないので、まだ頭は覚醒しきっていないのだろう。そもそも桐志は夜型で早起きはそれほどしないというのもある。
「昨日オマエに抱き上げられたくらいまでは記憶があるんだケド……。その後着替えさせてくれた?」
「いや、自分で着替えてた」
「そう? 意外と元気だな」
「元気じゃないですよ」
「ハーイ」
咎めるような零名の視線と声に阿僧祇は両手を肩の上に挙げ、降参の意思を示す。
確かに絶対的に見れば元気ではないが、相対的に見れば着替えられるだけまだ元気な方だろう、とは阿僧祇の言い訳であるが、それが口に出されることはなかった。
「食べる? 用意しようか」
「いやいい。寝治す」
阿僧祇は席を立ちながら桐志に朝食を食べるかを聞いたが、桐志はそれに首を振り部屋へと戻っていった。どうやら阿僧祇の具合を確かめるためだけに起きてきたらしかった。
「アイツも心配性だネェ……」
「そりゃ心配しますよ。本当に顔色悪かったんですから」
零名はそう言って今度こそ手を合わせて朝食を取り始めた。
心配をかけた分くらいの埋め合わせはするかと、零名たちにはケーキバイキングを、桐志には旨い酒と肉でも買おうと決めながら、阿僧祇も朝食を再開した。