パレイドリア、ココアと恋風 野に咲く花を見るたびに、儚いのにつよく咲く花を見るたびに、ヘラクレスの心中に浮かんで痛みをもたらす名と顔がある。エーコーの名前、顔。出会ったあの刹那、恋に懸命だった彼女の浮かべていた表情がなぜ痛みを齎すのか、ヘラクレスにはその理由が分からない。手芸店で自分のためではない淡い色で濃度の違うグリーン、薄く黄色の乗った白い毛糸を複数買い求め、ヘラクレスは夕焼けに焦がされる道路を歩む。
様々な転光生のいるこの東京では、初対面ではヘラクレスが枷をつけている理由をたずねていいのか逡巡する間が発生するのは極稀だ。問われない理由はそこまで珍しくはないからだと知って、この街の住人たちの懐の深さ、あるいは異物への慣れにヘラクレスは驚くばかりだった。
毛糸が詰まった紙袋を抱えなおすと、ヘラクレスは寮へ続く道を急いだ。門限に間に合わなくてはいけない、予想以上に毛糸を選ぶことに時間をかけすぎてしまったのだ。自分のせいであるから門限を破る理由には一切ならない。そう生真面目に思考を働かせて、ヘラクレスは帰路を辿る足を急かす。とはいえ、近くにある公園を突っ切ってしまえば、寮はもうすぐそこだ。目に映せばしびれるような、もえるような、感覚すら不可思議な痛みをもたらす野の花が咲き乱れていた公園に入らなければならないが、躊躇する理由にしていいとはヘラクレス自身が、思えない。
寮の門には管理人が立っていた。帰り支度を済ませている彼は、あとは門に鍵をかけて帰るだけという格好だ。ヘラクレスは遅くなってすまないと一言詫びた、別にいいといった管理人に気を付けてと言葉を返し、会釈してから寮に入ろうとすると、管理人に手紙が来てると呼び止められた。
「俺に手紙?」
「うん。DMじゃないみたいだから直接渡したほうがいいかなーって。それじゃあ次からはあんまり遅れないように、遅くなりそうだったら外泊届出しとくこと」
ヘラクレスは手紙を確認すると、そこにはエーコーの名前が書いてあった。丸みを帯びた小さな字、性格はこんなところにも出るのだと思うと、微笑ましいとヘラクレスは思った。部屋に戻り、毛糸を机に置き愛用している棒針を収納箱から取り出し置いて、いつでも作業をできる準備をと整えたうえで、ヘラクレスは封筒を開いて手紙を取り出した。拝啓から始まる少し肩を張った文字に目をゆるませ、同封されていた一枚のチケットを眺める。東京に来たヘラクレスはエーコーと、彼女が好むバンドを見に行く約束をしていた。別に彼女と音楽を聴きに行くのははじめてのことではない、三度か五度、それなりに回数は重ねられている。今回は野外フェス、というらしい一組の音楽だけではなく、ステージごとにたくさんのバンドが出場する大掛かりなイベントに行く予定で、エーコーはチケットの戦いに勝って見せますといった小さな体が、ヘラクレスにはなぜか大きく見えた。
フェスは冬になって行われる。手紙をしっかり読んで彼女から送られた手紙をしまっている箱を手に取ると、ヘラクレスはしっかりと仕舞って見える位置にそれを置き、棒針を手に毛糸を編み始める。濃い緑から黄みがかかった白へと変化していく綺麗なグラデーションになるように、頭の中で立てていた編み方を紙に書き記した編みをしっかり確認しながらヘラクレスはマフラー編んで行く。こうして編み物をしながら彼女を思うと心が温かくなる、けれど彼女を思い起こさせる野の花を思い返すと、心は痛む。
俺は彼女になにを求めているのだろうか。毛糸を編む手は止めないまま、ヘラクレスは考える。痛み、ぬくもり、あのとき零した涙に感じた淡い衝動、そして。そして、前へ進もうともがいて、未来へ進んだ小さな、けれど――前進という煌めきを秘めた背中。
ヘラクレスは時折あの繰り返しを反芻しながら、想いをこめて毛糸を編んでいく。知りたい、彼女のことを。知ってほしい、彼女がヘラクレスを知りたいと願ってくれたなら、どんなに幸福だろう。
消灯時間ぎりぎりまで続いた作業を切り上げて、彼女の髪色によく似た淡い色の中でも、一番濃い青みを帯びた緑とパステルカラーの緑の毛糸がきちんと美しい色目になっていることを確認すると、ヘラクレスは毛糸と編みかけのマフラーを籠に仕舞ってベッドにもぐる。
東京の空に星はない、彼女がそれを残念がっていたことを思い出しながら、ヘラクレスは電気を消して目蓋を閉じた。
◇◇◇
「大丈夫だよ、エーコー。緊張しないのは無理だろうけど、あの時教えてもらった大事なこと、ちゃんと覚えてるでしょ?」
「お、覚えてます……で、でも、」
「大丈夫だって! 何回もコンサートに行ってて、一回も断られてないなら脈は十分にあるよ! ね、タローマティ!」
エーコーの空になったカップに紅茶を注いでいたタローマティは、自分たちのサモナーの必死な援護要請に笑って「大丈夫だよ、きっと。それに、彼がこたえなかったとしても、君の抱く恋が否定されるわけじゃあない。拒絶されたって、彼を好きでいていいんだ」と答えた。
「……! え、エーコーは、ヘラクレスさんが、すきです!」
エーコーの瞳に、勇気が煌めく。エーコーは紅茶を飲み、クッキーを口にして、小さく両手を握ってサモナーとタローマティに一緒に、中断していた作業に戻る。タローマティがシンヤにかけあって、休店日だったらいつでもと許可をもらって彼の店のキッチンを借りていた。ついでに、いくつか商品のレシピもこっそり置かれていたため、エーコー達の悪戦苦闘は思ったよりも順調に形になっていく。ジンジャ-クッキー、シュトーレンに似させた、厳密にいえばちょっとばかり違うもの。作っても作っても、なんだか違う気がして、エーコーはバレンタインの、あの繰り返しのようだとも思う。
けれど、それとは違う。過去の初恋ではなく、目の前の恋へ送るためにエーコーは考えて考えて、彼に、ヘラクレスに贈りたい想いを形にするように、様々なアイデアを形にしていく。クッキーの金型を手に取ろうとして、エーコーは手を止めた。新しい贈り物の形を見出した彼女に、サモナーとタローマティは顔を合わせ、彼女の想いが形になったときのため、缶や箱、それにリボンやステッカー。用意しておいた綺麗な、あるいは可愛らしかったり、またはシャープな、印象の異なる入れ物を、いつでも出せるようにセッティングした。
◇◇◇
公園をゆっくりと歩きながら、ヘラクレスはちょうどいい紙袋を探すならどこがいいかを聞き、書き記したメモを元にどこからめぐるか算段を立てていた。転光したばかりのヘラクレスは、電車の乗り継ぎに慣れていない。けれど体力には少なくない自信がヘラクレスにはある。電車を使わなくていい一番近くにある100円均一から初めて、そこで気に入ったものがなければ別の場所へ行く。そうして訪れた店にはややもとめている印象とは違うものが多く、ヘラクレスはすぐにもうひとつ、少し値は張るがいい紙袋やらクッキー缶やらが置いてあるという問屋に向けて足を進める。普段はいかない土地勘のない地区であるから移動はややてこずったが、目的の問屋が見えてきた。
そして、そこでヘラクレスの足は止まった。エーコーと、サモナーがそろってその問屋から出て来たからだ。思わず止まって、ヘラクレスは彼女たちを見送った。声がかけられなかったのは、サモナーに向けるエーコーの笑顔がヘラクレスに向けるものとは違ったものにみえて、ああ、きっと彼女はサモナーのことが好きなのだと思ってしまえば、声などかけられるはずもない。
奴隷の身分で何を舞い上がっていた、そんなことも思ってしまって、ヘラクレスは彼に気づかないまま去っていった二人を見送った。足を無理やり動かして問屋に入り、どこか油の切れかけた機械のようなぎこちない動きで彼女のために作ったマフラーを入れるための袋を選ぶ。彼女の恋が俺であったなら。心の中で吐露してしまった、今の今まで自覚のなかった感情を、ヘラクレスは認識した。
俺は彼女が好きなのだ。ヘラクレスは真っ白で、繊細な金の花が印刷された紙袋を手に取って会計を済ませた。フェスの開始は明日であり、明日、自覚したヘラクレスの恋は千切れるのだろう。外泊届は出し終えていて、けれどそれを撤回する気にはなれない。
ヘラクレスの恋を告げた時、エーコーは友人のままでいてくれるのだろうか。大きな体を小さくしながら、ヘラクレスは帰路につく。
花に面影を探してしまうほど、深い恋だからこそそう会えないことに胸が痛んでいたのだ。ヘラクレスはそれを理解して、俺はいつでも遅いと自嘲した。
◇◇◇
「よかったね、いいクッキー缶あって」
「は、はい! あとはちゃんと洗って、出来たクッキーをつめれば……!」
「頑張ったね、エーコーはえらいなあ」
「えへへ……タローマティ様と……あなたのおかげ、です!」
隣り合う人が心底頼もしいと、エーコーは感じてそのままそのことを伝えれば、かわいいやつめーと頭を撫でられた。鈍い金、夜空の図案。どこか古めかしいが綺麗なその缶は、人気の品らしく、問屋に一つだけ残っていた。店に戻って、エーコーは店の厨房を貸してくれた上に仕上げの手伝いもしてくれているシンヤに、挨拶をして使わせてもらったお礼をたどたどしい言葉で伝えるとシンヤは気にしないでとだけ言った。
焼き上げられ、しっかり冷めたクッキーを、手袋をして紙のカップにまず菫のグラスクッキーを重ね入れ、バニラの香りがする絞り出しクッキー、ココア生地に甘さ控えめのチョコチップが練りこまれたもの、イチジクとナッツを入れたもの、型を抜いて作ったジンジャーマン、ビスキュイ。そして最後に、サモナーの書いたデフォルメされたヘラクレスの顔を模した大きなクッキーを上に置いて、エーコーはできましたと声をあげる。
「やったじゃないか! 後は明日、告白するだけだね?」
「は、はい……! エーコーは、頑張ります……!」
「ふふ、じゃあできたクッキーは何個か貰ってくね? サモナーズ、甘いもの好きけっこう多いんだ」
エーコーはクッキー缶を大事に白い手提げの紙袋に入れると、幸せでたまらないという笑顔を浮かべた。決戦は明日。突然想いを告げることになるけれど、もしかしたら友達という枠すら壊れてしまうかもしれないけれど、エーコーは、恋を告げないままでいたくない。エーコーは、頭を下げて、カフェから出た。両手で軽く頬を叩いて、帰路につく。
争奪戦の戦いに勝利して得たチケットの期日には、すでに十数時間となっていた。
◇◇◇
ヘラクレスは紙袋とチケットをリュックに仕舞い、寮を出た。電車を少し乗り継ぎ、防寒をしていても少し冷たい風を運ぶ午後の空気を目的地に向かうために裂いてゆく。フェスには初めて参加するが、音楽イベントに疎いヘラクレスにも熱気は伝わってくる。息を吐き、入口にいるスタッフにチケットを渡し、渡された地図をもとにヘラクレスはエーコーがいる場所に赴く。
「御前、元気そうだ」
「ヘラクレスさん、こ、こんにちは。エーコーは、とっても……とっても元気です!」
「そうか、頼もしい。ブースがいくつかあるようだが、まず何処に向かうんだ?」
こっちです、とエーコーが用意してくれたドリンクを受け取ってヘラクレスは彼女の後ろをついてゆく。すでにイベントは開始されていて、ギターのベースのドラムの音と魂の叫びに似た歌声が混ざり合う。彼女の好きなものを知れるのはこれで終わりかもしれない、そう思っているうちに、フェスの時間は終わりに近づき、あとは出店だけが出ているばかりの祭りの後に立ちながら、ヘラクレスはいつリュックにあるマフラーを渡そうか考えていると、エーコーの指先が、ためらいを含みながらヘラクレスの袖を柔くつかむ。
「……エーコー? どうした?」
「エーコーは……エーコーは、あなたが、好きです」
そういって、真っすぐに見つめるエーコーの大きな瞳には、ヘラクレスしか映っていない。勇気のきらめきと、恋が砕けるかもしれない不安が揺らめき合う瞳から、ヘラクレスは目が離せない。
ヘラクレスは袖に絡むちいさな指先を手を、その手で包んだ。俺でいいのか、と言葉を発せば、あなただから、ですと言葉が返る。うそだ、とは口にはできなかった。その目は雄弁にヘラクレスに恋をしていると告げていた。膝をつき、ヘラクレスは慌てる彼女を抱きしめる。俺も、御前のことを愛している。そう告げれば、跪いたヘラクレスの首に、繊細な抱擁に答えた腕が回る。
恋をしている、愛を感じる。それだけが確かな空間で、ヘラクレスはエーコーが恥ずかしいと声をあげるまで、彼女を抱きしめ続けていた。
◇◇◇
クッキー缶をしげしげと見つめているヘラクレスに、気に入らなかったのかエーコーは一瞬不安になったが、綺麗な缶だとつぶやいたヘラクレスにそうではないのだと知らされた。彼の作ったマフラーを首に巻いて、クッキー缶を開いた彼の隣で、エーコーはコンビニで買い求めたココアを飲む。
「これは……俺か?」
「は、はい。サモナーさんが描いてくれて……」
「…………ありがとう、エーコー。食べるのがもったいないくらいの出来だ。あ、いや、ちゃんと食べる。だが、今は少し眺めていたい」
そういって、ヘラクレスは目を優しい仕草でほころばせた。そしてしばらく眺め続けた後、ヘラクレスはクッキーを口に運ぶ。味はとエーコーが聞くと、ヘラクレスはとても美味しい、と愛しさだけが詰まった声を言葉を、エーコーへ贈りかえした。