晴れの日を映す【卑弥呼と名無しの弟】
「名を捨て、人の身、人の形すら捨て、我が魂を星辰に奉じる他ありません」
弟は、臥せたまま気丈に宣言して、すぐそばで控えていた私に微笑みました。
けれど、私は彼に微笑みを返すことができませんでした。
◇◇◇
邪馬台国女王の神殿、
女王の祈る神殿奥――女王の間。広く、暗く、見慣れたこの場所で、私と弟は二人きりの時を過ごしていました。
弟は、簡素な寝床で力無く横たわっていました。私は、臥せる弟のすぐ右側に座していました。私の眼前で、老いて痩せ衰えた彼が、弱々しく息をしていました。
人として長く生きた弟は、もう余命いくばくもなく、私の介抱もむなしく、つい先ほどには意識を永遠に手放しかけていました。
……あれは、星辰の導きと呼ぶべきでしょうか。弟は、一度は奇跡的に回復して、会話ができる程度の容態に戻っていました。しかし、いつ失われてもおかしくはない、儚い灯火の命でした。
私は従者に命じて、今日だけでも民には
女王の間から退いてもらい、弟と二人きりの場を設けました。薄暗く閑静で、遠くの集落の賑わいも届かない
女王の間では、外で降っている雨の音がざあざあと聞こえていました。
「……喉は、乾いていませんか」
声が震えぬように努めて、静かに問いました。彼は、もう自力で飲みものを口に含むこともできなくなっていました。
「大丈夫ですよ、姉上。……お気遣い、ありがとうございます」
弟は、か細く小さな声で礼を言って、微笑みました。雨の音にかき消されそうなくらい、本当に小さな声でした。
彼の体は、もはや彼の意思では満足に動かせられなくなっていました。それでも、まだ人の形として残っている体を、彼は自ら手放すのだと宣言しました。
『名を捨て、人の身、人の形すら捨て、我が魂を星辰に奉じる他ありません』
あのとき、弟の瞳には、迷いも怯えも映っていませんでした。けれど、私は、彼の決意の成れ果てを悟ってしまいました。名前という己を現す光すら捨ててしまえば、彼という存在は、この世の何者でもなくなってしまうのです。……そうして、彼は名すら伝えることのできない、何かへと成り果ててしまうでしょう。
私は、弟の選択を取りやめられないかと諭しました。しかし、彼の意志は、私に宣言する前から既に決まっていました。私が悲しむとわかっていてなお、弟の決意は揺るぎませんでした。
私は知らずの内に俯いていました。悲しさ、やるせなさ、申し訳なさ。そういった想念が、私の中で入り乱れていました。けれど、弟にそれらをぶつけるわけにもいかず、膝の上の両手をひとりでぎゅうと握り、行き場のない感情を留めました。
『ははは、奪うだなどと何をおっしゃるのです』
弟は、そう言って笑いました。『姉弟は助け合う者であり、私は弟として、姉上と助け合いたいだけなのです』と。
しかし、私はどうしても、弟の主張に納得できませんでした。
弟がどれだけ否定しても、弟がこれから為す行いは、私への贄を捧げる儀式にしか思えませんでした。『姉弟の助け合い』には程遠く、私が彼の名も形も奪い、彼のすべてを奪うのだと、そうとしか思えませんでした。
だからといって、これ以上論じても、彼を止められやしないのでしょう。彼は、老いの果てに朽ちる体では、もはや私を助けられないと理解してしまいました。人にとって当たり前の死という終わりで、『姉弟の助け合い』を終わらせたくはないようでした。
私は、星辰を象り託宣を下す巫女として、長く永く邪馬台国を治めていました。そして、いつからか容姿に変化のないまま、女王として君臨し続けました。
しかし、本来ならば、人は自然に老いて、自然に死んでいく定めです。それゆえ、弟は人の定めから逃れられず、年月を経て次第に老いていき、ついには寿命による死を迎えようとしていました。
弟が死に、この世から去っていく。それは、いつかは来るとわかっていた、悲しくても避けられない終わりでした。私は、これまで私を助けてくれた弟へ、抱えきれない感謝を込めて、光の道行きを祈るつもりでした。
なのに、名を捨て、人の形すら捨てて、魂を星辰に奉じ、そうして彼の名は永久に伝えられず、誰も彼の名を呼べず、この世から彼の形が失われるなど、あってはならないはずでした。
私は、何を言ってやればいいのかもわからず、沈黙が続いていました。兵も従者もおらず、静まり返った
女王の間では、彼のまだ生きている音がかろうじて聞こえていました。
見慣れたはずの薄暗さを、ひどく恐ろしく感じました。
雨が、ざあざあと降っていました。
「……姉上、どうか、悲しまないでください」
私の心情を気遣ってか、弟のしゃがれたか細い声が、そっと話しかけてくれました。
「私は、本当に奪われるなどとは思っていないのです」
……それでも、私にはやはりそうとしか思えないのです。そして、貴方の名を奪い、形を奪い、すべてを奪う業を、私の当然の権利だとはとても思えないのです。
私は
想いを彼に伝えようとして、意を決して顔を上げました。
けれど、こちらへ弱々しく微笑む弟を見てしまった瞬間、洪水のようにとめどなく想いがあふれ出てきて、声は喉につっかえ、意味のある言葉が発せられませんでした。悲しみややるせなさや申し訳なさを、弟を傷つけない形には整えられず、また黙り込んでしまいました。発散できなかった感情が、膝の上の両手をさらにきつく握らせました。
どうにも想いを形容できないまま、ふと、祭壇に飾っていた、とある丸い鏡が目に留まりました。
その鏡は、私が女王になるよりも前に、弟からもらったものでした。どこから入手したのかも知らないその鏡を、私は不思議と気に入っていました。女王になって以降は、神殿の奥でひとり、その鏡の前でよく祈り、また、時折その鏡を眺めていました。
私は、邪馬台国を纏め上げた女王として、ヒト一人では持て余すほど多くの贈り物を貰い受けていました。豪華で立派な贈り物の数々、その内の一種が鏡でした。だから、かつて弟からもらった鏡以外にも、私は数多の鏡を所持していました。
けれど、私のお気に入りの一枚は、邪馬台国女王として貰い受けた鏡ではなく、姉として弟からもらった鏡でした。
女王の間の祭壇に飾られる贈り物は、より良いもの、より優れたもの、より女王にふさわしいと民が思うものへと、時たま替えられていました。しかし、弟からもらった鏡だけは、私の意思で、ずっと大切に飾っていました。
そこまで追憶してしまい、すると堰を切ったように、弟とのこれまでの日々が私の中を駆け巡りました。
邪馬台国初代女王の政は、ずっと彼に支えてもらっていました。
女王の下した託宣を、各々の集落へ伝達する役目も、彼が担っていました。彼は、
女王の望む『
民の幸せ』の為に、私の代わりにあちこちへ赴いてくれました。
他にも様々な場面で、
女王は彼に助けられていました。
だけど、女王になる前から、遥かに昔から、私は弟にたくさん助けられていたのです。
あれは、私たち姉弟がまだ子供だった頃の出来事でした。その日の食べものが十分に足りず、私はおなかを空かせていました。ひもじい思いを我慢しようとしても、おなかの音がくうと鳴ってしまうくらいでした。
皆に迷惑はかけたくなかったのに、弟にはすぐバレてしまって、
『姉上はしようがないですね。私はもうおなかいっぱいですから、私のごはんをあげますよ』
そう言って、彼はやわらかに笑って、彼の分の食べものを差し出してくれました。
今ならわかります。あのときは、弟だってひもじい思いをしていたのです。なのに、彼は嘘をついてまで、私を助けてくれました。
……そうして、もっと小さな頃。弟が手を握ってくれた、いつかの晴れの日も思い出しました。
きっと、当時の私たちにとっては、ありきたりな日常だったのだと思います。私の小さな手を取ってくれて、弟の小さな手で握ってくれて、やはり彼は、やわらかに笑っていました。あの頃の私たちは、お日様の下で手を繋ぎ合って、雨に降られても笑い合って、一緒に野を駆け回り、何も知らぬまま無邪気に遊んでいました。
今に至るまでの日々を思い浮かべて、そのひとつひとつの記憶にまだ在る彼の面影を、失いたくないと願いました。
女王になるまでは、いつも弟が助けてくれました。
女王になってからも、いつも弟が助けてくれました。
私はもう既に、たくさんを弟からもらいました。私は、弟からもらってばかりの姉でした。
これ以上、彼から奪うなんて嫌でした。
ざあざあと降る雨の音が、薄暗い
女王の間を支配していました。弟のかすかな呼吸は、雨音よりもずっと頼りなく、いつ消えてもおかしくはありませんでした。
私の心は曇った鏡面のように暗く、雨に打たれて揺れる水面のように落ち着かず、ぐるぐるとどうにもできない想念が渦巻いていました。
それでも、刻一刻と終わりは迫っていました。どれだけ祈っても、時は止まってはくれませんでした。
……私が、弟の『献身』を受け入れて、やさしく微笑んで終われたなら。それが女王として正しい振る舞いだとわかっていても、悲しみは抑えられず、笑顔など到底作れませんでした。やるせなさと申し訳なさで、すぐそばの弟の顔すら見つめられず、私はまた俯いていました。
膝上でひとり握る両手をただ見つめながら、私は、
「貴方にそこまで強いるくらいならば、私なんてはじめからいなければよかった」
正しい女王としては振る舞えず、駄々をこねる子供の泣きごとを洩らしました。弟を困らせるとわかっていて、でも、私を止められませんでした。皆を光輝く未来へと導く巫女として、あるまじき発言だとわかっていても、私は私を律せませんでした。
「……そんなことはありません。姉上は、私のいない方がよかったのですか?」
「どうしてそのようなことを言うのですか。そんなはずがないでしょう」
思わず反射で顔を上げると、「そうでしょうとも、」と弟は弱々しく笑いました。
「姉上。どうか、いなかった方がよかったなんて、おっしゃらないでください」
その微笑みはあまりにも儚くて、私の胸をぎゅうと締め付けました。
「私は、姉上と歩んだこれまでを、失いたくはないのです」
私だって、失いたくはありません。なのに、「失いたくない」と言いながら、貴方はすべてを捨ててしまうのですか。
……私のために、貴方はすべてを捧げてしまうのですか。
「……姉上。私の手を、握ってくださいませんか」
「……」
私は両手で、弟の右手をそっと取り、やさしく握りました。
弟の手は、過ぎゆく時と共に自然と移り変わっていきました。遠い昔の小さな幼子の手が、活力漲る若者の手へと成長し、そして、力無き老人の手へと変わり果てていきました。
でも、私の手はいつからか不変の外観を保っていました。手だけではなく、私の体のすべては、老いずに若かりし頃のままでした。
かつて、お互い幼く小さかった私たちの容姿は、今や成人と老人という決定的な差で分かたれていました。私たちを知らぬ者から見れば、私と彼が姉弟だなんて、とても信じられないでしょう。
私は、身勝手だと承知の上で、どんどん変わりゆく弟に置いていかれる心持を、ほんの少しだけ抱いていました。
その寂しさが今このときに込み上げてしまって、思わず泣きそうになりました。涙を必死にこらえようとして、顔を歪めてしまいました。
不自然に歪んだ私の顔を、見てしまったのでしょう。弟は、まだ人のぬくもりがかろうじて残る手で、私の手を弱々しく握り返しました。
「姉上、これまでも、これからも。私は、姉上と一緒です」
彼の小さな声は、どこまでも穏やかでした。
「私は、名も形も無くなってしまっても、姉上のお傍に在ると決めたのです」
それは、人としての終わりを定めた者の声でした。
「……姉上。私の昔ばなしを、聞いていただけますか」
頷いて続きを促すと、彼は「ありがとうございます」と弱々しく微笑みました。
「私のはじまりは、きっと私ですら覚えていない、幼き頃から在りました。……あの頃の私は、姉上と共に笑って過ごせていれば、それだけで幸せだった」
私は、まだ幼かった私たちに思いを馳せました。日々を生きていくだけでいっぱいいっぱいだったあの頃、私たちはそれでも、一緒に笑って過ごしていました。
「……姉上から見て、私は姿形も魂も何もかも、はじまりから遠くへと変わり果ててしまったのかもしれません」
……事実、彼の外見は、成長と老化を経て、あの頃から大きく変わりました。思い出の中で笑う小さな弟は、こんなに皴だらけの顔ではありませんでした。
「――私はかつて、赦してはならない罪を犯しました。それはまぎれもなく過ちであり、ふと気づいてしまったときには手遅れで、当然、遡って過去を消し去ることはできませんでした」
弟は、私を女王に定めた彼の過去を、いつからか『罪』と認識していました。
私としては、女王になったきっかけなど、別段、誰かの罪でもなんでもないつもりでした。
本音を言えば、女王になってからのひとりきりでの食事は寂しくて、気晴らしの外出もできずに籠りきりの毎日は窮屈でした。
でも、
女王の人生が民の幸せに繋がるならば、『邪馬台国の女王』を生涯放り出さず、
神殿の奥で役割を全うしようと、私はそう考えていました。
だから、あのときも、
女王の境遇を案じてくれた弟に、本心でそのように伝えました。
『みんなが幸せならそれでいいでしょ』
けれども、あのとき、弟の表情はひどく歪んでしまいました。
そうして、彼の自罰的な認識は、今日これまで改められず、彼の内側にわだかまっていたようでした。
「……だから私は、私の罪から逃げず、生涯をかけて償い、私の責任を果たす道を選びました」
弟は、彼の表情がひどく歪んでしまったあのとき以降も、私から去りはしませんでした。
民の幸せの為に生きる
女王を、『姉弟は助け合うものですから』と言いながら、ずっとそばで支えてくれました。
……もしや、彼は、彼自身の罰として、名も形すらも捨ててまで、私にすべてを捧げなければならないなどと思い詰めているのでしょうか。
ならば、彼の決意を台無しにしてでも、彼を止めねばなりません。ずっと私を助けてくれた彼に罰を下すなんて、そんな理不尽は私が認めたくはありませんでした。
「それから、私は長く永く必死に走ってきて……。いつしか私は、私の気づかぬうちに、私のはじまりから遠ざかっていました」
私の思考を知ってか知らずか、彼は穏やかな声のまま語ります。
……彼のはじまり。幼い頃からはじまりは在ったのだと、先ほど話してくれました。
「……それでも、最後にようやく思い出せたのです」
私の手を握る弟の力が、ほんのわずかに強くなった、気がしました。
「私のはじまりは……、私は、ただ、親愛なる姉上を
救いたかった」
――そうして彼は、息を呑む私へ、やわらかに笑いました。
どれだけ容姿が変わっても、私の『変わらない弟』が、そこには在りました。
「私の償い、私のはじまり、私の魂。……姉上、どうか、信じてくださいな」
……ああ、そうだったのですね。
彼は、彼の話す通り、私に奪われるとは考えておらず、罪への罰とも考えてなかった。
「私は、私のすべてを姉上に捧げたいのではなく、姉上と共に、最後まで歩みたいのです」
――弟は、私の道行きを私のそばで、私の最後まで照らすために、名も形も捨てると決意したのだと。
――
姉を想い、
姉をずっと助けたいと願う、弟のはじまりの意志が、弟の道行きを定めたのだと。
――私を、これからも姉弟で在ってくれると、そう信じているからこそ、私に弟自身を託したいのだと。
彼のひとつひとつの想いをすべて汲み取って、私はようやく、弟の『覚悟』を受け入れられました。
「……貴方は、昔から変わりませんね」
弟は、少し驚いたのかきょとんと私を見つめて、それから、あの日のように――かつて、食べものを差し出してくれた日のように、私と手を繋いでくれた晴れの日のように、やわらかに笑いました。
「……ははは。やはり、姉上にはかないませんな」
その笑顔は、遥かに遠い昔から何ら変わらない、私を大切に想ってくれる彼そのものでした。
私は、弟にそっと寄り添いました。そして、わずかだけでもあたたかさを灯してあげたくて、反対側に投げ出されていた彼の左手も取り、私の両手で彼の両手を包みました。ひとり冷たくなっていた彼の左手も、私とずっと握っていた彼の右手のように、私のぬくもりで少しでもあたたまりますようにと、しっかりと握りました。
……枯れ木のように痩せ細った手指。肉が削げ、骨と皮しか残っていないような手の甲。
手だけではなく、彼の体のすべての部位は、年を重ねると共に老いていきました。
しかし、いつだって私を想ってくれる彼の魂は、何一つ変わってはいませんでした。彼の声も、言の葉も、まなざしも、私への親愛で編まれていました。
「……姉上。姉上こそは邪馬台国の女王『卑弥呼』」
彼の衰えを象徴するかのように、声は掠れ、か細く、小さく、――それでも。
「姉上が、姉上の意志で女王『卑弥呼』の道行きを征くならば。私は、女王の道行きを定めた者として、女王の道行きを啓く者として。……私の意志と魂を、姉上に託します」
――それでも、彼のずっと変わらない魂の在り方を想わせる、確固たる信念の声でした。
「はい……。貴方の決意を、私は、見届けます」
「……ありがとうございます、姉上」
小さく幽かで、けれど芯の確かな声が、私の耳元にはっきりと届きました。彼の穏やかな声色は、私と想いを伝え合えたと喜んでいました。もう、外の雨の音など、とうに気にならなくなっていました。
私は、瞳から溢れそうな涙を堪え、弟の両手をひしと、より強く握りました。彼のかさついた手の甲を撫で、これから失われる彼の形を、今、この瞬間だけでも覚えておきたくて、握り合う両手に額を寄せ、祈りました。両の手指を絡ませ、これから失われる彼の名を、今だけでも忘れたくないと願い、何度も何度も唱えました。
そうして、彼の瞳をしかと見つめ、
「貴方は、私をずっと支えてくれた大切な弟です」
どうか、とても言い表せないほどの感謝がすべて伝わりますようにと、せいいっぱいの笑顔を送りました。
やはり堪えきれなかった涙が、私の頬を伝いました。声は上擦っていて、果たしてちゃんと笑えていたかどうかも、私にはわかりません。
でも、きっと彼になら、私の気持ちは伝わっているはずです。私が弟を信じているように、弟も私を信じているから。
私は――私たちは、見つめ合い、想い合い、信じ合い、
「これからも、
女王『卑弥呼』は、貴方と共に在ります」
誓いを交わし合い、
――そして、彼は頷き、あの晴れの日の面影から何一つ変わらない、やわらかな笑みで。
「――――あとはお任せします、姉上」