其れは、届かぬ星々の色彩を映す。それでも、【卑弥呼と名無しの弟と壱与】
「これはね、弟がくれた鏡なの」
そう言って、卑弥呼様は壱与にふわりと笑って、眼前に飾られた一枚の鏡に穏やかな眼差しを向けました。
「むかーし、あたしが女王になる前に、弟がくれた鏡」
此処、邪馬台国の神殿奥は白昼の陽射しも満足に届かないのに、卑弥呼様はまるで光降り注ぐ希望の光景が広がっているかのように目を細めます。
……今、私たちは二人きりで隣に並んで腰を下ろし、なんてことのない日常のやり取りを過ごしていたのに。ふと、すぐ近くの卑弥呼様を少し遠くの人に感じました。
邪馬台国初代女王である卑弥呼様は、貢ぎ物として数多の鏡を所持しています。奉じられた数々の中で一際目立つ鏡は、精緻な細工が施されたモノや、希少な材料が用いられたモノ。しかし、それらを差し置いて、とある一枚の鏡だけが……、絢爛豪華とは程遠い、簡素で大きな丸い鏡だけが、卑弥呼様から特別な扱いを受けていました。祈りを捧げる部屋の祭壇に飾られ、卑弥呼様自らにこまめに手入れされ、丁重に大切に扱われる一枚の鏡を、かつての私は何らかの理由で託宣や邪馬台国の繁栄に重要なモノなのだろうとぼんやり考えておりました。
「あたし、壱与が来る前はもっと暇でね。平和な日はあんまりやることないから、いつもこの鏡を眺めてたのよね」
お隣の卑弥呼様は在りし日に想いを馳せているのか、日向の浜辺に咲く可憐な花々のような微笑みを浮かべて、
「……うん。これは、特別。一緒に居ると、頑張るぞって気持ちになるの。あたしの、お気に入りの一枚」
いつになく穏やかな声は私に語り掛けながらも、瞳は私ではなく一枚の鏡を見つめていました。
その眼差しは、宝物にそっと指を沿わせて懐かしむかのように。長い女王生活の日々に寄り添ってくれたかけがえのない存在なのだと、物語っていました。
……けれど。
(でも、弟様は……)
私は動揺を表に出さずになんとか飲み込み、混乱に渦巻く心中に反して何も口にできずにおりました。思い出の一枚の鏡を愛おしむ卑弥呼様の横顔を、ただ眺めるだけ。次第に、しばらく前に遭遇した正反対の出来事を振り返っていて―――…………、
◇◇◇
あの日の昼間はすがすがしい晴天で。
だけど、あのときはもう日が暮れゆく頃だったから、神殿の奥は闇に包まれつつあった。
なんてことはない会話の流れで、私はなんとなく尋ねました。
「この鏡、どうして卑弥呼さんはあそこまで大切にされているのでしょう? 弟さんは、なにか理由をご存知ですか?」
とある一枚の、大きな丸い鏡。其れが卑弥呼様に特別扱いされる様子を、私はあの頃には把握しておりました。
だからといって深くは考えておらず、たまたまその一枚の鏡を前にしたときに、たまたま卑弥呼様が不在だった場で、たまたま近くにおられた弟様の背に、軽率にお尋ねしました。
あの日の昼間はすがすがしい晴天で。
だけど、あのときはもう日が暮れゆく頃だったから、神殿の奥は闇に包まれつつあって。
―――だから、弟様のお顔は、よく、見えなかった。
……いいえ、それで良かったのかもしれません。もしも、白日の下にすべてが晒されていたならば、私は果たしてどうすればよいのか、ますます途方に暮れていたのかもしれません。
私の安易で気軽な問いかけ。たったそれだけで弟様の背中はビタリと硬直し、黙り込んでしまいました。いつもの穏やかな雰囲気は一瞬で削ぎ落され、まるで体も心も時が止まってしまったかの様相でした。しんと不自然な沈黙が落ち、私はなにか間違えた言葉を口にしたのかと、突然この場が底知れぬ深淵に変質してしまったのではと急激に恐れ、焦りがばくばくと心の臓を急かしました。夜に近づく冷え冷えとした大気の中、ゆるりと濃くなりゆく暗闇の中、私は二の句も継げずに世界と共に静止していました。
―――長く、あるいは短い、痛ましい静寂。私たちは呼吸まで奪われていた。
先に生を取り戻したのは弟様の方でした。暗がりで身じろぐ、細く長く息を吐く声なき声の後ろ姿は、剥がれ落ちた命を悴む手でよろけながら拾い集めるかのようで。
……やがて、命を再び纏われた弟様は、ようやく、ゆっくりと、ぎこちなく私に振り向かれました。
そして、
「……さあ。私には、わかりませんな」
弟様のお顔は、暗くて、よく見えなかったけれど。
張り詰めた震え声は、か細くも悲痛を滲ませ、今にも泣き崩れたい衝動を必死に押し止めているかのようでした。
何が起きたのか理解できずに何も返せなかった私を置いて、弟様はその場を去っていきました。遠ざかる足音と気配が完全に失われてから、私はやっと息をつき、しかし体は未だ強張っていました。これからさらに夜が深まる神殿で、私のそばには一枚の鏡が微動だにせず佇んでいました。茫然と思い浮かんだ感覚は、雨降りの後の、日陰で湿った土のひんやりとした手触りと暗く重い色合い……。
◇◇◇
―――あの日。日は暮れゆき、神殿は闇に包まれてゆき、弟様の面持ちがどのような心情を湛えていたのか、私にはわからなかった。
それでも私は、あの一枚の鏡は安易に触れてはいけないモノなのだと思い知ったつもりでした。ゆえに光を当てない方がいいと考え、以降は意識して件の鏡について話題に出さないように心掛けていたのです。
けれど―――
(卑弥呼様の反応は、弟様とはまったく違っていた……)
先ほど、卑弥呼様とのやり取りで件の一枚の鏡をうっかり話題に出してしまった私は焦り、咄嗟に取り繕おうとしました。しかし、卑弥呼様はとくに気にする素振りもなくあっけからんとした様子でした。それどころか、あの鏡はお気に入りの一枚なのだと、大切な大切な宝物を内緒で自慢するかのように言葉を紡がれたのです。
(卑弥呼様は、あの一枚の鏡に対して、弟様とは異なる考えをお持ちになっている)
歴然としたお二人の差に、私は確信を導きました。
考え直すと別段、不可思議な話ではないのでしょう。お二人は姉弟だけれど、お二人はひとりとひとりでもあるのですから。一つのモノに別々の想いを抱いていてもおかしくはありません。
(……だけど、どうして?)
あの鏡は弟様が卑弥呼様にあげたものだと、卑弥呼様は嬉しそうにお話しくださいました。なのに何故、弟様はあのように悲鳴じみた声を絞り出したのでしょう?
―――例えるならば。
卑弥呼様の眼差しは、其れはいつまでも両腕で抱きしめたい優しい光なのだと物語り。
弟様の声音は、其れをいつまでも足元でわだかまる泥濘の澱なのだと苦しまれていた。
差異は鏡を渡され、渡した頃から芽生えていたのか。それとも、その後の何処かで突然に決定的に違えたのか。もしくは、幾重の日々を隣で過ごす最中でいつの間にか隔たりができ、幾重の日々を隣で過ごす最中で徐々に深まってしまったのか。
(……答えは、わからない)
だって、壱与はその場にいなかったのですから。後から邪馬台国にやって来た幼い壱与では、壱与よりずっと長く生きてこられた卑弥呼様と弟様の思い出のすべては共有できないのです。
当たり前の道理ですが、私の知り得ない数多の思い出が、卑弥呼様と弟様の内側には積もっているのです。二人を二人たらしめる日々の積雪が、雪解けを迎えずに今も歴然と在り続けているのです。
(本当に積もりゆく雪であれば、確かにカタチが残るのに)
あるいは。
―――時折、お二人から何気なく零れ落ちる昔ばなしは、手の届かない数多の星々に似ている。
星々とは見上げるものではなく、足元に揺らめく水面に映る。私たちの立つ大地が鏡面となり、鏡の向こう側に輝くは満天の星。お二人の足元にも、星々の大河がきらきらと流れている。
鏡の向こう側の星空に、こちら側の卑弥呼様と弟様は上空に手を伸ばすだけで悠々と触れることができる。ところが、こちら側の私の手は何もない上空を掠めるだけ。私は向こう側の星々を掬い上げてみることも、触れてみることすらできない。
だから、星々の大河が冷たいのか、熱いのかも、私には空想しかできない。どこからどこまで続いているのか、私の瞳では見届けられない。織りなす星々の一つ一つは、それぞれの色と大きさで煌めいているはずなのに、私の記憶ではとても判別できない。
私の知るお二人は、私の知り得ないお二人の思い出で培われている
私の知るお二人は、お二人の思い出を幾重に織りなした星空の上に、悠然と立ち並んでいる。
そうして、
―――私は、お二人の幾重の星々に、生涯、手の届くことはない。
(それは、……それは…………)
考えてみればそんな真実、至極当然の理なのに。今更、ああ、と思い知ったのは何故でしょうか。一抹の、身勝手な寂しさ。誰かに嘲笑されても当然の、筋違いな孤独感。ただの現実が重苦しい絶望としてじわじわと私の内を浸蝕していく。
……より詳しくお二人のこれまでを尋ねれば、何もかも教えてくれるでしょうか。卑弥呼様は、どこまで話してくれるでしょうか。弟様は、どこまで胸の内を見せてくれるでしょうか。
でも。たとえ尋ねたとしても、やはり、私が完全にお二人と同じ出来事を、想いを、共有はできないのです。そのひとときを共に過ごしてきたお二人にしか、感じえぬことがある。お二人と今を過ごす壱与が触れられないひとときは、星の数ほど在る。……だから、
(なんだろう、この気持ち……)
……私の中で、数多の色が複雑に入り交じり、私でも己の色が区別できずにいる。どろどろに交じり合う色彩を掻き分け、一色だけを掬い上げようとしても、両手には混沌の泥土が乗るだけ。その色合いがどのような感情を示すのか、私はカタチにできずにいる……。
(だから、私は……)
「……どうしたの、壱与?」
「えっ―――」
はっと我に返ると、私の顔を覗き込む卑弥呼様と目が合いました。どうやら私は考え事に没頭するあまり、長く呆けていたようです。肩と肩が触れ合う隣同士の距離で、座り込んだ卑弥呼様は心配そうに私を見つめます。
「……な、なんでもない、です!」
「ほんと? どこか調子悪いなら、早めにあたしか弟に言うのよ?」
―――ああ。私だけを映す、卑弥呼様の瞳。
なにかが、喉に込み上げてきて。何を言いたかったのか、私が漠然と何を求めていたのかも、カタチにできずにいて。私がどういう表情をしているのかわからなくて、わからないままに今の表情を見られたくないと思い起こして、卑弥呼様の肩口にぽすんと頭を突っ込みました。そのままぐいぐいと頭を擦り付けます。
「……壱与?」
……私を案じられる声が、私の耳だけに届く。
卑弥呼様のお体はいつも私よりあたたかくて、陽だまりの匂いが香ります。日向とはかけ離れた神殿で長く暮らされているのに、不思議で素敵です。卑弥呼様に体を預けると、お日様のあたたかな光を浴びているみたいで、いつだって安らぐ心地を覚えるのです。
「……なんでもないでーす!」
「ええ~、ほんとうかしら?」
顔を見せぬまま、元気いっぱいを装って調子のいい振る舞いをすれば、卑弥呼様の朗らかな笑い声が神殿に響きました。すっかり聞き慣れた明るい声に、じんわりと心があたたまり、すくわれた気さえしました。
鏡以外にも、私には想像もできない姉弟お二人だけの思い出が数多に存在するのでしょう。お二人の積み重ねたこれまでを、私はすべてを理解はできず、生涯手の届くことはないのでしょう。
それでも、過去はわからずとも、現在の私はこのときを卑弥呼様と弟様のお二人と共有しているのです。卑弥呼様と出会ったあの日から、夢みたいな奇跡に恵まれたあの日から、お二人と共に朝を迎え、共に笑い、共に夜を越す日々は、私のかけがえのない寄る辺で……、生涯手放したくない、光降り注ぐ希望なのです。
(だから、私がどうしたいかなんて、とっくに決まっている)
甘える私の頭を、卑弥呼様は上機嫌によしよしと撫でてくださいます。つい、にやにやとゆるむ私の頬。―――ええ、永遠に手の届かない水面に満天の星ほどの過去があろうとも、私には私たちの日々で織りなす星々の現在がある。
私よりもお二人と共に長く過ごしてきた、一枚の大きな丸い鏡。其れに向けて、私はお二人と共に現在を生きていくのだと胸の内でしかと宣言しました。
一枚の鏡はもちろん何も答えずに、それでも冷ややかには感じませんでした。其れの色は、光でも澱でもなく。きっと、卑弥呼様とも弟様ともまた別の想いを、私は抱いたのです。