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    魔界への道は善意で舗装されている 夏真っ盛りのこの季節、人間界のこの一人暮らし向けワンルームの廊下はただでさえ効きの悪い冷房が届かなくて暑い。その先にあるやっぱり暑くて薄暗い玄関には備え付けの靴箱。それと、頭から血を流して倒れている面識のない成人男性。
     そんなつもりはなかった。ただ、突き飛ばした先の当たり所が悪かったのか動かなくなって。どうしようどうしようどうしよう。
     唐突なコール音に弾かれたように顔を上げて音の発生源であるD.D.D.を掴む。相手が誰かも確認せず「助けて!」と叫んでいた。
     
     わずかな時間の後にドアが開けられて焦りと心配が微かに滲む顔が覗いた。隙間から見えた外は夏の日差しで明るくて、暗い廊下とは玄関を境にはっきりと世界が隔てられていた。
    「ご無事ですか?」
     ただ頷くしかできない状態と不自然にはだけた胸元と玄関に転がっている人間を見て察したらしい。私に上着を掛けると、何か考えがあるのか、少々お待ちくださいと言って玄関から出て行った。目の前のものを見ないように目を閉じて、懐かしいRADの制服の感触とよく知ったバルバトスさんの香りに集中していると、少し落ち着く気がした。来てくれたのが、彼でよかった。
     
    「お待たせいたしました」
     そう言いながらすぐに戻ってきたバルバトスさんの手にはどこから調達したのか巨大なクーラーボックス。本体にタイヤが付いていてスーツケースのように引いて持ち運べるタイプだ。キャンプで見たことがある。それにしても大きい。これなら人だって――バルバトスさんを見ると、昔、楽しい秘密を共有したときのように唇に人差し指を当ててウインクをした。
     
    「バスルームをお借りします」
     そう言いながら倒れている人間を軽々と持ち上げてバスルームと呼ぶには質素すぎる風呂場に放り込む。バストイレ別にしてよかったな、なんて場違いなことを思った。
    「それと……」
     キッチンに視線をやる。もう意図はわかっている。
    「これしかないですけどいいですか……?」
     普段料理をしないせいで小ぶりのペティナイフしかない。もう少し自炊しておくんだった。
    「ありがとうございます。ではそれを持ってこちらへ」
     肩を抱かれて一緒に風呂場に入る。耳障りな換気扇の音はしているものの、性能が低いのか湿気と混じって血の匂いがじっとりと立ち込め始めていた。
     
    「どうぞ」
     やってくれないの……? と一瞬思ったことをすぐに恥じた。悪魔相手に対価もなしに何かをしてもらうなんて出来るはずがない。
     目の前にあるのはもう動かない、生きていないと思っていても今までの人としての経験からそう簡単にできるものではない。震える手で何度も刃を当てては動かせずに引っ込める、を繰り返す。救いを求めるようにバルバトスさんを見ると優しく微笑んで手を添えてくれた。
     手に手を重ねて、刃を入れる。脳内で、前に出席した結婚式で聞いた「初めての共同作業です! 拍手をお願いいたします!」なんてセリフが再生された。不謹慎にも程がある。
     直後、今まで感じたことのない感触と初めて見る光景に胃液がこみ上げる。ごめんなさい、と慌ててトイレに駆け込んで吐き続け、罪の意識にえずき続けた。やっぱりバストイレ別にしてよかった。
     
     体力の消耗と暑さで汗だくになりながらトイレから出ると、既にすべては終わっていてクーラーボックスの蓋が閉められるところだった。シャツに汗も汚れもないバルバトスさんが立ち尽くす私に気付く。
    「お加減はいかがですか?」
    「大丈夫です……それはどうするんですか……?」
    「魔界の端にはまだ人間を食料とする者がおりますので。ナイフはこちらで処分いたしましょうか?」
     返されても今の気分を思い出すだけだ。頷くとナイフもクーラーボックスに放り込まれた。
    「それにしても、その様子だとお風呂に入られた方がよろしいのでは?」
     汗だくな上に今も廊下に立ち込める熱でじわじわと服に汗が染みていっている。
    「あ……そうします……」
     返事はしたものの動けない私を見て
    「お手伝いいたします」
     再度肩を抱かれて風呂場に連れ込まれる。さっきと違って血の匂いはもうしなかった。
     
     気付けば部屋の床に座ってドライヤーで髪を乾かされていた。耳元で蝉の鳴き声とドライヤーの音が混じってうるさくて仕方ない。目の前に置かれた麦茶のグラスが私の代わりに汗をかいている。
    「乾きました」
     これからどうしよう。社会的には何も心配することはないのだろう。何しろ被害者の存在が消えているのだから。面識はないし、万が一警察が来ても私が「知りません」と言えばきっとそれで終わりだ。それでも私に罪の意識は残る。遊んでいても食事をしても寝る時も起きた時も常に「人を殺した」という意識が常に頭の片隅にいて消えることはない。だから。
     だから、私の罪を共有するひとから罰を与えてほしかった。私が罪の意識から逃れるためだけの卑怯な罰を。
     振り向いてそのままバルバトスさんを押し倒してシャツに手をかけた。私を酷い目にあわせて。私を傷付けて。外れたボタンと理性が一つ、二つ、と転がっていった。
     
     結局、私から始めたその行為は、蝉の鳴き声が変わり部屋に差す光の色が変わる頃、溶かされきった私の何度目かの哀願によって幕を下ろした。
     まだ魔界にいた頃よくそうしてくれたように、満足気に私の髪を撫でるバルバトスさんから優しく穏やかに魅惑の言葉が紡がれた。
    「いつでも戻ってきてよろしいのですよ」
     加害者も行方不明。これ以上ない完全犯罪。
     すぐの返事は求めていないのか、それだけ言うと身支度をし始めた。
     
    「今日は楽しませていただきました。またいつでもお呼びください」
     閉めたドアの向こうのクーラーボックスを引く音はすぐに聞こえなくなり、氷の溶け切った麦茶となくなったナイフだけが白昼夢でないことを告げていた。
    8gb_obm Link Message Mute
    2023/02/11 5:26:09

    魔界への道は善意で舗装されている

    バル留
    うっかりMCが人を○したときのはなし

    (2023/02/13 タイトル修正)

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