夢に非ず カツンカツンと冷たく規則的な足音が曲がり角の向こうから近づいてくる。
後にも先にも隠れられるような場所はない。地下特有の冷たく湿った硬い石壁に背中を押し付けて必死で息を殺す。何かの腐敗臭が鼻をつく。明かりが角の向こう側にあるおかげで、影の心配をしなくていいのだけが救いだった。
「そちらにいらっしゃるのですか?」
この場に似つかわしくない優しい声に思わず答えそうになって口を押さえた。
背中を嫌な汗がじわじわと伝う。血管の音が煩い。
足音は止まらない。すぐそこまで来たところで、みつかる、と固く目を閉じた。
……身構えたのに一向に声は降ってこない。足音も聞こえなくなって辺りは静まり返っている。
もしかしたらいなくなったのかもしれない、と体の力を抜いたその瞬間。
「こちらにいらしたのですね」
耳元でさっきと寸分違わぬ優しい声がした。
ヒッ。口に手をやり飛び出しそうになる悲鳴を何とか抑えてずるずるとその場にへたり込んだ。
その先で視界に入るのは小さな肉片がへばりついたつま先。普段なら磨き抜かれて汚れ一つないのを私は知っている。
「おや、これは大変失礼いたしました」
私の視線の先を追ったらしい。
「あ、あの、わた、私……」
後退りしたくても背中を壁に押し付けることしかできない。
「実は私、今非常に困っているのですが」
何に困っているかなんて怖くて聞けない。
「ご協力願えますか?」
私に許されたのはがくがくと上下に首を振ることだけだった。
「このことはあなたと私、二人だけの秘密にしていただけないでしょうか」
その日から常に監視される日々が始まった。
監視される、と言っても相手も常に忙しい身、私が後をついて歩くことになった。
こっそり離れてみようかと考えてみたこともある。でも、相手は〝あの〟バルバトスだ。逃げられるなんて到底思えない。
同じ授業のときは隣の席に。授業が違えば終わり次第迎えに。学食でも隣の席に。執行部でも常に隣に。朝は嘆きの館に迎えに来て、帰りは嘆きの館まで送ってくれる。
そんな生活を続けていればそういう仲なのだと周囲に認識されるまで時間はかからなかった。
それでも、この急に進展した関係を疑問に思うひとがいなかったわけではない。
「なんか変じゃね? MCが乗り気じゃねェっつーか」
ありがとうマモン。こういう勘の良さはすごく頼りになる。
チャンス、とばかりに私が答えようとする前に当然の如く隣に立つバルバトスが口を開いた。
「そのように見えてしまうのですね。彼女は少々恥ずかしがりのようで、他の方の前では控えめになってしまうようです。ですが、二人きりの時は――これ以上はプライベートなことなので控えさせていただきます。ね?」
と求められた同意に「違うんです」なんて言う勇気なんてあるわけなかった。
「う、うん……」
でも、マモンは気付いてくれたし、きっとまたチャンスはあるはずと楽観的に構えていた。
甘かった。いつの間にか魔王城に住むことになっていて、なんと既に私の部屋まで用意されているらしい。
迎えに来た馬車に乗せられながら、違うの助けてとルシファーに視線を送っても
「達者でな。たまには帰ってくるといい」
という私にとっては絶望に近い見送りの言葉が返ってきただけだった。
魔王城での生活は悪くはなかった。家事当番がない分、嘆きの館より楽かもしれない。それでも私がここに住まざるを得ない事情が心を暗くした。
そんな日々が過ぎていったある晴れた日、私は真っ白なドレスを着て司祭台――きっと魔界では違う呼び方をしているのだろうけど私は何と呼ぶのか知らない――の前でバルバトスと向き合っていた。
さすがにこれは洒落にならないと小声で尋ねる。
「あの、お聞きしたいんですけど」
「なんでしょうか」
「この生活、いつまで続くんですか……? 私、あのこと誰かに言ったりなんてしません」
「何を仰っているのでしょうか」
バルバトスは冗談や脅しでなく、本当に何を言っているかわからないというように小首を傾げた。
「一生、です」
その言葉と共に左手に指輪が嵌められた。
「――っ! ……はぁ」
詰まった息を一気に吐き出し、目を開けた。
いつの間にか寝ていたらしい。汗でパジャマが張り付いて気持ちが悪い。
「あ、あれ……ここは……?」
ゆっくりと体を起こして見えた部屋には見覚えがあった。何度か泊ったことのある、魔王城の客室。
さっきまで寝起きしていたはずの私の部屋ではない。
「お気付きになられましたか」
ベッドの側の椅子に座り、私の様子を伺うバルバトスは今までとは何か雰囲気が違う。それでも油断はできないと警戒する私を無視してバルバトスは続けた。
「お茶会の最中に席をお立ちになり、戻ってこられないので探したところ、廊下に倒れていらしたのです。それから半日ほどお眠りに」
「廊下……? 半日……?」
思わず左手を見ると、そこにはアクセサリー類は何も付いていなかった。念のため右手も確認する。ない。
「はあぁ……よかった……」
どうやら夢だったらしい。
大きく息を吐いてずるずると上体を前に倒すとバルバトスの靴が視界に入った。
そこには見覚えのある何か――があるわけもなく、私がよく知っている通り、汚れ一つないつま先が静かに光っているだけだった。
「どうなさったのですか?」
「ちょっと悪い夢を見てたみたいで。あはは……」
「そうでしたか。本日はこちらにお泊りになりますか?」
「……いえ、帰ります」
半日ということはもう夜も遅いはず。それでも慣れた自分のベッドで落ち着いて眠りたかった。
「かしこまりました。荷物を預かっておりますので、お手数ですが支度が済みましたら私の執務室までいらしてください。その後、嘆きの館までお送りします」
「色々ありがとうございます。あ、バルバトスの執務室って……」
「ここを出てすぐの角を右に曲がり……です。危険ですので途中にある部屋や地下への階段へはもう入らないようお願いいたします。では、失礼いたします」