Love as if 赤と白のビーチパラソルが日光を遮っても、チェアに座る男の輝きは阻めない。鋭くもきれいな瞳こそサングラスで隠されているものの、上半身にはなにも身に着けず、黒の海水パンツのみを履いた姿を彼は惜しみなくチェアの上に伸ばしている。無駄なく引き締まった身体は、横になっていてもいつでも動き出せるというように張り詰めており、それぞれの筋肉がどんなふうに動くのかを誰もが目で追いかけたくなってしまう。
もちろんニールもそのうちのひとりだった。
七月最後の日曜日である。ここは避暑地や著名な観光地ではないが、雲のない青空と静かな海を求める者は少なくない。家族連れやカップル、老若男女の集まりが広い砂浜にパラソルを立て、ビニールシートを敷いて思い切り夏を楽しもうとしていた。
ニールの隣に寝転ぶ男は、ほとんど裸同然といった無防備な肉体を世間に晒している。時間が経つごとに、彼を見つめる周囲の視線が熱くなるのがニールにはわかった。気品のある姿に目が引き寄せられてしまうのは自然の摂理に近いので仕方がない。だが、彼を見る他人の目はもとより、その視線を気にせず、のびのびと身体を晒す男こそニールは気に入らなかった。
赤いアロハシャツを裸の腹に投げかける。
「それ着たら? 日光に直接当たるとよくないよ」
彼は軽く笑って「日に当たりに来てるのに?」とのたまった。
ニールはぞんざいな態度を改めずに言う。
「そうだけど、周りのために着てやろうって気にはならないか」
あたりを見回す彼の動作に合わせて集まった視線がバラけて散っていく。
「周りって?」
わかってるくせに、と胸の内でつぶやいたニールに構わず、彼はアロハシャツを胸から砂浜に落とし、頭の下に両手を入れて脇の下を見せびらかした。
声にならない声で唸り、ニールは昨日海に誘われたときのことを思い出した。
「ビーチに行くつもりはあるか」と前置きもせず上司は訊いた。
ランチのサンドイッチを頬張ろうとしていたところだった。ニールは次の任務だと察して、ビーチで行う任務とはいかなるものかと考えた。
「行ってもいいけど、砂の上はうまく走れないよ」
サンドイッチを食べながらこたえる。ニールの上司である男は、たしかに、走ることになるかもしれないなと頷き、「そのときはおれを援護しろ」と言った。
自分ひとりか、上司以外の誰かと一緒に行動するのだと思い込んでいたニールは、思わず眉をひそめて聞き返した。
「あなたと一緒にビーチへ? なにをするんだ」
「さしあたり、日光浴だな」
上司はいたずらっぽく笑って言った。
今朝になって、車に積んだビーチパラソルとチェアを目にしたとき初めて、冗談ではなく本気で日光浴をするつもりだとニールは気づいた。赤いアロハシャツと黒い海水パンツをすでに着込んでいた男は、ニールの服――ひざ丈のコットンパンツとティーシャツ――を見て首を振り、青いアロハシャツと紺色の海水パンツを渡した。
「こんなもの、いつ用意したんだ」
受け取ったシャツを両指でつまんで広げる。蛍光ブルーにピンクのハイビスカスの柄が踊っている。ものすごく派手だ。ちなみに上司の赤いシャツは深い赤に白抜きのハイビスカス柄で、あちらのほうがシックで着やすそうだった。
――もしかして嫌がらせか?
なにもした覚えはないが、と思いつつ、ニールは素直に受け取って手早く着替える。ビーチで日光浴をしながらの任務など初めてだった。それに、上司はかなり浮かれて見える。敵を欺くには形から入ったほうがいいのは身に沁みているから、彼と同じくらい浮かれて見えたほうがいいのは間違いない。そう思ってついてきたはいいものの、当然ながら海水浴場には自分たち以外の人間が大勢いた。そして、彼らはニールの上司をニール以上に見つめても許されるのだった。
――ぼくだってこんな姿を見るのは初めてなのに。
半裸というよりほぼ全裸だ。
男性なら裸の上半身を大衆の面前に晒しても良しとする、この世に幅を利かせたなぞの社会通念は、いったいぜんたいどこから来たものなのか。ニールは深く腰掛けて、横目で隣のチェアを盗み見た。サングラスの端から、男のきれいな茶色の肌――どうしても胸に目がいく――が光っているのが見える。もっと近くで自分の目で、その姿を直視したいと思ったところで、ただの上司と部下の関係ではその願いは叶いそうもなかった。
盗み見をやめて海へ向かうひとびとに目を向ける。彼らは太陽に急かされるように水に入り、泳いだりサーフィンを楽しんだりしている。まぶしそうに目をすがめているけれど、皆笑顔で夏を満喫して見える。
いいな、と思った。上司とビーチバレーをするイメージはまったく浮かばないものの、少しくらいなら一緒に海に入ったりしてもいいのではないか。海水を掛け合ったり、泳ぎを競ったりするのだ。ニールはその想像に口元を緩ませた。高く上がったビーチボールを目で追いかけながら訊く。
「それで、ぼくたちはなにをするんだ」
車中では任務の詳細を聞かされなかった。現地で話すの一点張りだったので、彼の機嫌が妙にいいのと、ひとの多い場所なら危険は少ないだろうという予測だけを立てていた。いまのところ、不穏な動きをする不審人物や危険な兆候も見当たらず、警戒の必要はなさそうだ。
上司が答える。
「しばらくはここに馴染んでおこう。それからニール、おれのことはサムと呼んでくれ」
サングラスをずらしてニールを見上げるサムが笑った。
サムか、とニールは苦笑する。上司はたまに偽名を使った。ニールも目的の場所――研究機関や大学など――に潜入する際には素性を偽ったが、多くの場面で名前は変えなかった。理由は不明だが、上司は、ニールはもとよりほかの者たちが名前を偽るのを好まなかった。そのくせ、自分は秘密主義を徹底し、その場限りの名で呼ばせたがるのだから矛盾している。
だが、ニールはその矛盾も含めて彼を好ましく思っていた。どういった作戦であれ、彼は責務を果たそうとする。だとすれば、その重責は増える一方だ。それぞれの名前に、少しくらい重荷を分散させても問題ない、ニールはそう受け取った。
それにしても、「サム」は具体的なことをなにも言わない。日曜日の午前十一時に、この牧歌的な海岸で事件が起きるとは思いにくいし、彼の態度がそれを裏打ちして見える。
「馴染む、ね。具体的には?」
サムの笑顔につられてニールの苦笑が緩んでいく。サムは持参したボディバッグに手を入れた。
「お兄さんたち、楽しんでる?」
ビール瓶を持った二十代後半くらいに見える女性がニールたちに話しかけた。赤い水着が金髪にやたらと似合っている。隣には同年代の男性が、コーラ缶とビール瓶を両手に持ってたたずむ。その視線がサムに注がれているのにニールは気づいた。先んじて口を開こうとしたニールを制してサムがこたえた。
「ああ、海水浴日和だな。きみたちも楽しんでるか」
金髪の女性が楽しげに微笑む。
「ほんといい天気。わたしたちあっちで飲んでるんだ。よかったら、一緒にどう?」
そう言って栓をしたままの瓶を持ち上げてみせる。彼女の示した方向に目をやると、パラソル四つ分離れた場所に、クーラーボックスを囲んだ男女三人が興味津々というようすでこちらを見ていた。サムが片手を上げると栗色の髪の女性が小刻みに手を振り返す。
女性の持つ結露した冷たそうな瓶は、ニールには魅力的に映った。手元にはぬるくなった水がペットボトルに半分あるだけで、ほかに飲み物は持参していない。かといって、このような誘いを受けるわけにはいかない。任務中だからというよりも、上司に色目をつかって引き入れようとするグループのエサに飛びついていいはずがないからだ。
ニールは断りを入れるために口を開こうとしたが、再度、サムに先手を取られた。
「申し訳ないが、今日は彼とふたりで過ごそうと思ってるんだ。仕事でなかなか時間を作れなかったから埋め合わせのために。明日以降も見限られないようにしないといけないからね」
女性は、あら、というように眉を上げて隣の男性を見上げた。男性は肩をすくめて両手に持った飲み物をこちらに近づけて言った。
「よかったらどうぞ。その、関係の修復のために」
サムがちらりとニールを見て、差し出されたビール瓶を受け取る。ニールもコーラ缶に手を伸ばして言った。
「ありがとう、もらっちゃっていいのかな」
「いいのいいの! 足りなければ来て。たくさん持ってきたから」
女性が男性を促すように腕を引いた。男性は、じゃあ、と声を出さずに片手を上げて去っていく。名残惜しげな視線だけが残った。
頬に冷たさが響いた。
顔を引くと、ビール瓶を差し出してニヤリと笑ったサムが見える。
「遊んでるのか」
ニールが不服そうに訊くと、
「そうかもな」
とサムは瓶を掲げた。
「おれはコーラがいい。きみはビールの方がいいだろう?」
「仕事中だぞ。酒なんか飲んでいいのか」
サムは気にしない素振りで栓を開けてニールに渡した。
「それ、もらえないか、ニール」
ニールはビールとコーラを交換して口をつけた。冷たいビールが喉を潤していく。これぞ夏。気分が浮ついても仕方がないと思えるような瞬間にあって、ニールの耳にはサムの言った言い訳がこびりついている。見限られないようにするためにふたりきりでいたい――、なんだその言い草は。そういう設定があるなら先に言ってくれれば、もっと恋人らしい振る舞いをしたというのに。
ニールは隣でコーラを飲むサムに身体を向けて改めて訊いた。
「後ろの男、明らかにきみに気があったよな」
「そうか? 気づかなかった」
このにぶさに限っては疑いはない。上司は他人からの好意――特に恋情――に非常に鈍感なのだ。コホンと咳払いをして話を戻す。
「ぼくたちって付き合ってるんだ、サム?」
口角を上げてサムが言う。
「付き合って二年目のカップルで、そうだな、おれは技工士、きみは研究員ってところでどうだ」
「ぼくはきみを見限ろうとしてるんだ?」
「おれが夜中まで仕事続きで全然家に帰らないから、別なやつと会ってると疑って仲違いしたんだな」
想像するのは容易かった。夜、彼が帰宅した音を聞きつけたニールは決然と部屋を出る。リビングでサムを迎えるのは低い声だ。誰と会ってた? サムは答える。なに言ってるんだ、仕事をしてただけだ。ニールは過去の「仕事」について追及し、弁明するサムを遮ってなじる。事実を伝えてもへそを曲げて話を聞かないニールにサムも腹を据えかねる。強い言葉が飛び出し、互いを傷つける。
でも、――もちろん、でも、だ――ふたりはそれぞれ反省する。話を聞かずに思い込みを突きつけたことや、きちんと会話をせずに不安にさせたことを謝り合う。そして、彼らにとって思い入れのあるこの海辺に来たのだ。
それはとても「普通」のカップルの姿に思えて、ひどく愛らしかった。
サムがニヤリと笑う。
「だから、仲直りをするんだ」
手にはコーラの代わりにサンオイルがあった。目を開いてまじまじと見つめる。
「まさか、それを塗れって?」
「塗ってやろうか?」
ニールは思わず身体をのけぞらせた。
自分の身体に上司の手のひらが満遍なく伸ばされるなんて、刺激が強すぎる。どうなるかわかったものではない。危険だ。
いまにも蓋を開けようとするサムを、明るい声が遮った。
「おふたりさん、手伝おうか」
顔を向けると、今度は男性のふたり組が笑顔でニールたちを見つめていた。彼らの、下心などないといった爽やかな笑顔の奥に、サムに対する興味を見つける。
――またか。
彼には一刻も早くシャツを着てもらわねば、と心に誓いながら、今度は手早くニールが断りを入れた。いわく、サムと自分とは婚約したばかりで互いしか目に入らない。だから、できるだけふたりきりで過ごしたいのだと、サムの作った設定を少しばかり大げさに伝えた。彼らはオーケイ、と軽く頷いて、にこにこ笑って立ち去った。
サムの視線が刺さる。
「婚約してたとはな」
ニールは下唇を突き出して言った。
「きみだって好き勝手言ってたろ。いいから、早くシャツを着てくれ」
サムは顔を歪めて、なんでだ、と首を傾げた。
ああもう、と諦めのため息をつきながらニールはサンオイルを奪い取った。
「何度も話しかけられるのは面倒だ。うつ伏せになってくれ。ぼくが塗る」
サムからしたら、突然機嫌を悪くしたように見えただろう。ニールは気にせず、強い調子で上司をうつ伏せにした。彼の背中には薄く汗が浮いていて日の光を反射している。
もう一度、ニールは大きくため息をつき――嫌ならしないでいいぞとサムは言った――、ビールを飲み干し、サングラスをかけ直して気合を入れ、手のひらに出したオイルをたくましい背中に広げた。
するするとすべるようにオイルは伸びていく。できるだけ無感情に、思い入れなく、皮膚の上に手のひらをすべらせた。
大丈夫、バレてない。ニールは誰にともなく静かに頷いてみせる。周りを見てみろ、サンオイルを塗るカップルなんて珍しいものではないではないか。自分たちも同じだ。役になりきればいいだけのこと。普段から触れ合っている相手の身体をケアしているだけだ。やましい気持ちなど入り込む余地はない。決して、少しも。
集中していたために、ニールは無言でオイルを塗った。サムは気迫を感じ取ったのか、口を閉じてされるがままになっている。
背中だけでもよかったはずだが、ニールは勢い余って肩から下、両腕をどちらも塗り終わり、上半身を完成させた。
ふう、と息をつき、額に浮かんだ汗をぬぐう。手のひらには上司の皮膚の弾力ややわらかさが残っていて、できるだけ思い出さないようにするのが精一杯だった。塗る側でこれだ。塗られる側になったらどうなるのかと予想し、ニールは唇を噛んだ。
サムが脚をバタつかせながらくぐもった声を出す。
「こっちはしてくれないのか」
人の気も知らないで、とニールは天を仰いだ。
「脚は自分で塗れるだろう」
「してもらえると思って待ってたのに」
バタバタと膝から下をバタつかせ続ける。
思わず舌打ちが出そうになり、ニールは口をつぐんだ。上司はごくまれに、甘えた子どものような振る舞いをした。誰にでもするわけではない。少なくとも、自分とアイヴス、過去にはホイーラーに対してだけそういう姿を見せた。それは主に、彼が要求を通したい場面で登場した。拒絶しなければならない立場でも、はにかんだ上目遣いで頼まれるたびに、ニールはどうにもその願いを聞き届けないといけない気持ちになった。後に、ホイーラーは「それ」への対処術を学んだらしく、きっぱりと希望を退けることに成功し、ニールとアイヴスからの賞賛を得た。だが、残されたふたりは今なお弱みに付け入られている。
「……わかったから、止まって」
ピタリとバタ足が止まるのが気に入らない。
ニールは再び無言でサンオイルを手のひらに落とした。
太ももの上に手をかざそうとして、さすがに無理だと足首に向かう。なんてことだ、サンダルが落ちて足の裏が丸見えだ。これを許していいのか? いや、気にするな、手早く塗ってしまおう、別のなにかを考えるんだ。それにしても足首の形が美しい。薄い皮膚の下にある骨の形がよく見える。違う、別なもの、海洋生物について考えよう。サメがいい。サメの歯は生涯生え変わり続け、死ぬまでに生える歯は二万本とも五万本ともいわれている。……でもこの張りつめたふくらはぎはサメの歯にもびくともしない。はね返して返り討ちにするはずだ。そうではなくて、サメに打ち勝つなら白亜紀の生き物だ。モササウルスは海棲爬虫類で恐竜ではない。名前の由来は川の名称から。マース川のトカゲという意味だ。攻撃力が高くてアンモナイトも噛み砕いていたらしい。それにつけてもなんと艷やかな肌だろう。うっすら見える傷跡すらきめ細やかな装飾に見える。オイルの膜が張った皮膚は、もはや鏡のようなきらめきを見せていて、しかもこのしっかりした筋肉を覆う裾の奥には……。
「ニール、くすぐったいぞ」
サムがこちらを振り向いて顔をしかめてみせた。
ニールは力の加減を忘れて太ももを思い切り叩いた。サムの脚が縮こまる。
「いっ……、なんだ。怒ったのか」
ニールは自分のチェアに座り、無言で脚にオイルを塗り始めた。先に全身に塗ってしまえば、塗られる側に回る恐れはなくなるとようやく気づいたのだ。
制御を失いかけていた自分に腹が立った。気をそらせずに、欲望の奴隷のような振る舞いをするところだった。そう仕向けたとも受け取れる上司のやりようにも腹が立つ。見限られるだの、婚約だの、なにが恋人の振りだ。これまで、特別な相手に接するように、触れたことも、触れられたこともないではないか。
――クソ。八つ当たりだ。癇癪を起こすなんて情けない。
そう思うものの、波打った感情を落ち着かせるのは難しく、ニールは口を閉ざして腕や腹にオイルを塗りたくった。
隣に人影がさした。
次の瞬間、こめかみにやわらかな感触が当たった。
「え?」
顔を上げると、サムが笑って近づいた。
ごめん、と小さく口に出すくらいのキスが唇に落とされる。すぐに離れた男をニールはまじまじと見つめた。得意げだったサムは、きまり悪そうに視線をずらした。
「すまなかった。嫌だったんだな」
「は?」
「悪かった」
「なに?」
「なにって、無理にサンオイルを塗らせた謝罪だ」
「いや、そうじゃなくて、なんだよ」
「どうした」
「あなたはもう……」
ニールはオイルまみれの膝に頭をうずめた。ずれたサングラスを顔から引き剥がして砂の上に放り投げる。
さっきまで苛ついていたのが嘘のように力が抜ける。そのくせ、飛び跳ねたくなるくらい嬉しくて、幸せだと感じてしまうから滑稽だ。
――挨拶にもならないキスに喜ぶなんて愚かすぎる。
頭で考えるのと胸の奥から湧き出るものとの乖離がニールをカオスに押し出した。
落ち着け、まともに取り合うな、いや、これはチャンスだ、絶対にボロが出る、振りでもいいから恋人に、気持ちがバレたらおしまいだ、またキスできるかも、ないものねだりなんて寂しすぎる、形から入ってなにが悪い? 苦しい、触れたい、どうしてダメなんだ?
「悪い、調子に乗った」
静かなサムの声がする。ふざけたりおどけたりしていない真面目な声だ。ニールは膝の間に埋め込んだ重い頭を持ち上げて言った。
「なんでさ『サム』。ぼくたち恋人だろ」
これは演技だ。任務中だと割り切ればいい。
際限なく湧き出る喜びと混乱に蓋をして、ニールは笑顔を作った。
キスなんて、これまで潜入先で何度もしてきた。そのたびに嫌悪感や好意を感じていたのでは、この仕事はやっていけない。あくまでも、こちらには好意があるのだと相手に勘違いさせるのが目的なのだから。
今回も同じだ。周囲――どこかにいるであろうターゲット……本当にどこかにいるのか?――に違和感を抱かせないような仲睦まじいカップルだと思わせる。婚約中ならキスなんて当たり前。惹かれ合っているのを確かめるためにも、スキンシップを取る姿を見せびらかすなんてよくあることだ。
サムと膝を突き合わせるようにニールは座り直した。いつの間にか、彼はサングラスを外して手に持っている。その手を取り、自分の口元に導く。振り払われなかった手に小さくキスをして、彼の両目をのぞき込んだ。
そこには、穏やかなまなざしがあった。
思わず手を伸ばしたくなるような、触れればやわらかく包み込んでもらえるような、どう振る舞っても許してもらえるような視線を浴びて、ニールはとろけた。
全身から力が抜け、思考が緩む。サムから発生した磁場がニールを惹き込んで離さない。
自然のことわりに導かれるように、ニールの顔がサムに近づく。
サムは少し笑うようにしてニールを受け入れた。
ニールに注がれた視線そのものというぬくもりが唇に移った。
身体はリラックスしているけれど、皮膚が波打つくらい心臓が鳴る。嬉しくて、気持ちが良くて、楽しささえ感じる。握ったままの手に力を込めると、サムも握り返してくれた。
いくら婚約中であっても、人前でするには長すぎる時間をかけてふたりはキスをした。やさしくほどけた感覚を堪能するにはじゅうぶんだったが、サムが離れるのを追いかけようとする自分を抑えるのにニールは骨を折った。
顔を離したサムは顎に手を当てて険しい顔をする。難しい問題に対処するときと同じ表情だった。
「そんなに違和感があった?」
余計に顔をしかめる姿に、ニールはにわかに胸をざわつかせた。完璧なキスだと確信したのが自分だけかもしれない可能性に気づく。愛情を感じたのは錯覚で、彼は苦いものを噛み締めていた可能性もあるのだ。そんな馬鹿な。
キスのあとにはハグをしたい、肌と肌を触れ合わせるこの機会を逃せない、などという浮かれた考えがぼやけていく。怯えの走る表情を取り繕い、ニールは神妙な面持ちでサムの言葉に耳を傾けた。
「これは……なんだろうな」
あとに続く言葉を待つものの、サムはなにやら考え込むように黙ってしまう。ニールは堪らず言い返した。
「婚約中なんだ、あれくらい当たり前だろ。嫌ならやめろって言ってくれればやめたのに……」
サムは片手を前に出してニールを制した。
「その、なんだ、嫌ではなかったことに驚いているというか……、きみはいつもあの感じなのか」
嫌ではなかった、嫌ではなかった、嫌ではなかった――
きっと自分と同じ気持ちだったのだとニールはひそかに息をついた。にやけそうになる顔を引き締めて聞き返す。
「あの感じって?」
サムはニールを見つめ、言いにくそうに口をもごつかせた。
「……言わん」
「ちょっと、気になるだろ。教えてよ」
「やめておく」
「なんだよそれ、言いかけてやめるのか」
サムは頭を振ってなかったことにしようとしている。「あの感じ」がしたから変な気持ちになったというのだろうか。せっかく嫌ではなかったと言ってもらえたのに、その余韻に浸るには彼の言葉が引っかかる。
「まさか言わない気か、ぼくらの間に秘密を作るって? これじゃ、成立したての婚約も解消目前だね」
腕を組んで怒ってみせると、サムは困ったように顎を搔いた。
「場数を踏んでると思っただけだ」
場数って、とニールは苦笑する。
「本当はなんて聞きたかったんだ。ほら、怒らないから言ってみなよ」
サムは眉をぎゅっと寄せてニールを睨みつけるようにした。そんなに意気込まないと言えないのかと、いっそう興味をそそられたが、ニールは無理に聞き出すつもりはなかった。こんな小さなことで葛藤する彼の姿は珍しく、かわいらしかったので見ていたかっただけだ。相手を困らせて喜ぶなんて子どもみたいだと思い、それを許される立場にいるのを改めて自覚した。
もういいと言おうとしたとき、サムがニールに身体を寄せた。
彼の意図を察したニールは、驚きと喜びのなか目を閉じた。
先程より短かったが、愛情を確かめ合うキスであることに間違いはなかった。
「もう一度する?」
ニールが訊くと、サムはそうだなと短く応えた。何度繰り返しても彼とのキスは最高で、次第にニールはサムの身体に手を這わせた。首の後ろに手を回したとき、さすがにしつこかったのか、サムに胸を押されて距離を取られた。
互いに盗み見し合っているのに気づき、おかしくなってニールは笑った。サムもつられたように笑い返す。
雰囲気を切り替えようというのか、サムは姿勢を正して言った。
「腹が減ったな、なにか買ってくるか」
海岸を出たところにスーパーがあった。駐車スペースから離れているので徒歩で向かうと時間がかかる。
「なにがいい? ぼくが行くよ」
サムは「一緒に行こう」と言って立ち上がった。
「でも、ひとりはここにいないといけないだろう?」
隣に並んだニールが訊くと、サムは肩をすくめて海岸に背を向けた。
「そうだな、まあ、いまのところは大丈夫だ」
あくまでも、任務中だという設定は崩さないらしい。ボディバッグのみ持ってそのまま歩いていくので、ニールは慌てて砂まみれになったアロハシャツを拾った。
不意に、ここに着いたときにはあれほど気になっていた周囲の視線をまったく感じないのに気づいた。あたりを見回しても、彼らはそれぞれの好きなものに熱中している。
ニールは満足して口元を緩めた。
「スーパーに行くなら、ちゃんと服を着てくれよ」
できるだけ砂を落としたシャツをサムに渡す。サムは素直に着込んでボタンを留めた。
「戻ったら海に入ってみるか」
思わず、えっ、と声を上げたニールにサムは笑いかける。
「せっかく海に来たんだ。少しは海水浴をしたほうが自然だろう」
うなずきながらニールはサムの手を取った。
「もちろん、婚約中なら手をつなぐのも自然だよね」
ふたりはつないだ手を大きく振って歩いた。夏の太陽の熱さでさえ、ニールの胸のうちの熱さには敵わなかった。