向日葵 男は色濃く落ちた自分の黒い影を踏んで歩いている。
七月の午後、太陽の光は強いが空気は乾燥しており風が吹くとすがすがしい。日差しを遮るもののない広々とした霊園だった。まめに手入れされているようで夏の盛りだというのに芝に雑草は生えていない。整備された花壇には色鮮やかな花が咲いていた。
時間があるときに霊園や墓地を歩くのを男は好んでいた。この世に生を受けた人間の足跡を想像して思いを馳せると落ち着いた気分になった。
死者が眠る場所はいつも静かで穏やかだ。
そこは、かつて共に戦った友人と心置きなく語り合うためにふさわしい場所だった。
墓石の名前を見るともなく見て歩みを進めると見知った名前が目に入った。男のことをを友人だと言い、笑顔を残して死んだ者と同じ名前が刻まれていた。それは、男が霊園や墓地に来ては連れ立って話すのを期待する相手の名前だった。
ふわりと柔らかい風が吹いて頭の少し上から声が届く。
──ちょうど、二年前の今日が彼の最後の日だったんだね。ぼくと同じ名前だ。
含み笑いが聞こえる。
「おまえより長生きしてるぞ」
ほら、と期間を読み上げる。
──それは言いっこなしだ。それよりも、見て。ひまわりが置いてある。
白い墓石の前を指差す動きが見えるようだ。
「一輪だけだな。掃除もしたらしい」
ここに置かれて二年しか経っていない新しい墓石は、両側のものよりいくらか整って見えた。
──ひまわりが好きだったのかな、このニールさんは。
「おまえはどうだ、好きか?」
うーん、と考える素振りをしたようだった。きっと前髪をかきあげたりしているのだろう。
──見た目はそんなに。でも姿勢は好きだよ。太陽への忠誠と尊崇。ぼくの好きなひとは太陽みたいに魅力的でね、出会ってしまったが最後、生涯の忠誠を誓わずにはいられなかった。ねえ、誰のことだか分かるか?
耳朶をくすぐる息を感じる。
「……おれには分からないな」
──ぼくには言葉を強いるのに、きみはいつもはぐらかすよね。
ニールは息をつく。
──きっと分かるようになるよ。もうそろそろだ。
楽しそうな声音だった。なにかを予感させる声である。
「どういうことだ。なにが始まるんだ」
隣には目もくれずに、姿勢を正して男はまっすぐに墓石を見据えた。周囲の音が遠くに吸い込まれていくようだった。呼吸が浅くなるのを感じる。
ニールは静かに語りかけた。
──ぼくがこうしてきみに話しかけるのは、今日が最後になる。時間を行き来しながらぼくらが過ごしたのはあれからだいたい三年か、ぼくはずっときみを見守ってきた。きみが気づいていないときからずっとね。
──ぼくみたいな存在にとって、時間はあってないようなものなんだ。こうなってはじめて知るというのも皮肉なものだけれど。
──いろいろなものの過去や未来が分かるわけじゃない。ただ、記憶は薄れないんだ。なんと言うんだろう、自分で撮った自主制作の映画という感じかな。見たいもの、思い出に残ったものにフォーカスが当てられてはいるけれど、子どものときの記憶も、きみと別れたときの記憶も、同じ鮮やかさで残っている。
──だからよく覚えているんだ。今日のことも。
「おまえはどこにも行かない」
挑むような目で墓石を睨んで男がつぶやく。身体にかかる重力が急に増えたようで、ぐらつかないようにと両足を踏みしめた。
──うん、そうだね。
目を伏せてはにかむような声が隣からした。一拍おいて、ニールは言葉を続ける。
──ぼくの母はひまわりが好きだったんだ。明るくて元気で素直な花だからって。父が死んだあともひまわりの花を飾っていた。明るいほうがいいと言ってね。
はあ、と軽いため息が聞こえる。肩の荷を下ろす、といったような気配を感じた。
「おまえはおれをひとりにしないと言った」
──うん。しないよ。
「おれは重荷だったか。ひとりでは危なっかしくて見ていられなくて、仕方なく、わざわざ化けて出たのか」
苦笑するような息遣いがあり、
──いやだな、そんなふうに思っていたのか?
目を丸くしてみせたようで、
──きみが気づく前からいたって言ったろう。ぼくはきみのそばにいたいからいるんだ。
あくまでも軽快に、しかしはっきりと口にした。
「それなら、なぜいなくなるんだ」
太陽に照らされて背中に汗をかいているのに男の両手の指先は冷えていた。熱を取り戻すために指をぐっと握りしめる。
男は心のなかでひまわりの花びらの数を数えようとした。太陽に向かってしゃんと顔を上げていた黄色い花は、いま、地面の上で横たわっている。顔を土につけるようにして、力なく。
記憶のなかの「彼」が地面の上に倒れ伏す。ぐったりとして動かない。起こそうとしても起きない。二度とこちらを見ない。
その記憶と同時に別れたときの「彼」の笑顔が脳裏に浮かんだ。忘れたくなくて何度も思い返しているうちに自分の勝手なイメージになっていた。あのときの「彼」のほんとうの顔を思い出したい。
死者になれば記憶が鮮やかに蘇るとニールは言った。それならば、きたる日が来れば、「彼」の顔もはっきりと思い出せるのだろうか。
「ニール」
自分で思った以上に腑抜けた声になった。隣にいる相手には格好をつけない自分をさらけ出せた。その相手は、男をひとりにしないと言っておきながら別れを告げようとしている。
男の様子を見て心配になったのか、いっそう声音を優しくしてニールは話す。
──きみの前からいなくなるといってもね、さっき言ったように、ぼくには時間の概念がない。だからこうも言える。また、すぐに会うことになる、と。
「未来が分かるのか」
──きみがきみのままでいるなら、ぼくはどうしたって引き寄せられてしまうってことさ。
破顔して笑みを深めたのが分かった。どことなく得意気にも聞こえる。
──ほんとうはね、きみは、ぼくがいなくても大丈夫なんだ。いままでは、ぼくのわがままをきみが許してくれていただけ。これからは、ぼくを思い出す暇もなくなるくらい忙しくなるだろうしね。
そんなことはない、と男は胸のうちでつぶやく。口に出すと声が震えてしまいそうだった。前と同じようにしてニールは立ち去ってしまう。それを止めることは自分にはどうしてもできなかった。あるいはできるのだろうか。あのときも、必死に彼を止めればなにかを変えられたのだろうか。
──過去は変えられない。変える必要もない。きみには未来がある。きみの未来はぼくとともにある。だから、ぼくはどこにも行かない。きみをひとりにしない。
「言ってることがめちゃくちゃだ」
黄色い花の輪郭がぼやけて芝の緑が視界全体に滲んで広がる。霊園に足を踏み入れたときより自分の影が伸びていた。日が長くなったとはいえ、徐々に太陽は沈んでいく。
影はひとつだけしかなかった。
──きみにはもう分かっているはずだ。
満足げにニールが告げる。
「だからおまえは、霊園だとか墓地に行ったときだけおれの前に出てきたのか」
──さすが、察しがいいね。
男は目を閉じ、震える喉を絞って声を出した。
「そうする以外にないのか」
だとしたら、今後もう一度、別れが来るのではないか。こんなことを何度も繰り返したくはない。まるで、別れるために出会っているようなものではないか。
──いまの世には、たくさんの火種が溢れている。ぼくらは爆破を止めたし、これからも止める。ぼくはきみに会えてよかった。それまで思いもしなかった出来事に関わって一緒に「世界」を救って……。
ニールがうつむいた気配がする。
──これはぼくのわがままなんだ。何度も別れを経験するのは嫌なものだと自分では思うのに、きみにはそうさせるんだもの。
──機会があるならつかみたくて、どうしてもそばにいたかった。きみの人生に関わりを持っていたかった。……あれ、これって後悔になるのかな。それとも「彼」にとっては啓示になり得る?
うん? と首を傾げる素振りをするようだった。
──ともあれ、ぼくのわがままはここまで。もうすぐお別れだ。それからまた、はじめましてをする。なんにも知らないから仕込むのが大変かも。でも、どうとでもなるよ。
やはり、少し楽しげにそう言った。実際、ニールはこれから起きることを楽しみにしているのだろう。
「おまえに会いたくなったらどうしたらいい」
うつむく首筋に、柔らかい視線を感じる。夏の強い日差しの熱とはまったくちがう暖かさだった。
日差しからかばうようにして自分を包む、薄くて柔らかな膜があるのを、男はずっと知っていた。「彼」と出会ったときから少しずつ重ねられ、気づいたときにはあるのが当たり前になっていた。「彼」と話すたびに積み重なるベールのような膜はどれだけ連なっても重さはなく、ただ、ふわりと男を包み込んでいた。こうして話しているあいだにも、ゆるやかに折り重なっていく。
──そこにいる。
ニールはその膜のことを言っていた。
──ずっといる。必要がなくなるまで。
必要がなくなってもいるかも、とニールはうそぶいた。
──さて、もう時間だ。また、すぐに会えるよ。
それはおまえにとっては、だろう、と男は眉をひそめながら苦笑した。あとを振り向かない楽観的な別れ方は前と同じだった。
──そうだ、さっきは知ってるのに知らない振りをした。先に謝っておくよ。じゃあ、「彼」によろしく。
そうしてニールはいなくなった。
先ほどまで感じていた気配がなくなり、男はひとり、取り残される。
ニールのわがままだというなら聞かなければならない。生きている者にできるのは、すべての感情を持ち続けることだけだ。悲しみも切望も、持っていられるだけ贅沢なものだから。
ニールの墓はなかった。あったとしてもそこで弔うとは思わなかった。あの土地に赴いても彼はどこにもいない。生きた証はかたちになって残らない。
頬を流れる涙を風が乾かしていく。
ゆっくりとした足音が聞こえた。隣まで近づくと、こちらを伺うようにして足を止める。
「父のお知り合いですか」
おずおずとした声だった。
息をひとつついて顔をあげるとひょろりと背が高くまだ年若い青年がいた。彼は男の涙を見てはっとしたように目を伏せた。
はじめて会ったときの「彼」とは雰囲気がちがった。まだ学生なのだろうか。ネルシャツにジーンズという格好は目新しく感じた。そう、彼については知らないことのほうが多いのだ。
黙ったままでは不自然だろうと声を出す。
「いや、きみのお父さんの知り合いというわけではないんだ。同じ名前の知人がいてね。前を失礼した」
男は心持ち後ろに下がった。青年は、はあ、と曖昧にうなずき、
「だったら、ぼくの名前も同じですね。ジュニアなので」
眉を下げてとりなすように言った。
男は軽く咳払いをして、顔の水分を払う。
ふたりの視線は自然と白色の墓石に集まった。風が後ろから吹きこみ、地面の上の花びらを揺らした。青年が口を開く。
「別れは必ず来るのに、どうしてこうもさみしいものなんでしょう」
答えを求める言葉ではなかった。見知らぬ他人に対する気遣いが感じられた。この場所を使ってもらって構わないと言外に告げてくれる。
青年は距離を取りつつも、男の隣に立って同じ墓石を見ていた。男の隣には人間の厚みと体温、息づかい、視線、思いやりがあった。
「きみのお父さんはひまわりが好きだったのかい」
質問をされると思っていなかったのだろう、きょとんとした眼差しを男に投げてから、手向けた花に目を落として青年が口を開く。
「父は特に花には興味はなくて、これは母の趣味ですね。だからなんとなくぼくも同じものを」
あなたのニールさんは? と訊いて、青年は表情を変えた。
「答えなくていいです。すみません、不躾で」
男は目を細めて答える。
「見た目は好きではなかったらしい。ひまわりの振る舞いが好きだと言っていた。
……おれ自身はひまわりが好きだと思う。見た目も、あり方も」
「生命力のある花ですね」
ああ、と返した言葉は湿っていた。青年がまた、しまった、というような表情を見せる。男は思わず口元をほころばせた。
「気を遣わせてしまったね。すまない」
ふるふると頭を振って、いえ、と青年は口ごもった。
男は、先ほどより深く呼吸ができていると気づいた。現金なものだと自分にあきれてしまう。
ニールはいまのことをどういうふうに思い出していたのだろうか。そして、これからのことをどう記憶するのだろう。
丸太で作ったやわな筏に乗せられて外洋に押しやられたような気持ちになった。陸も見えず、手にはオールもなく、ただ潮流の生じるままに流されていく。別れるたびにこんなにも寄る辺ない気持ちになるというのに、これをもう一度繰り返させようとするなんて。
それでも、隣にいる青年と話すと呼吸は楽になった。もう一度別れなければならなくなると分かっていても、そのときが来るまでは隣にいて、ゆっくりと息をつきたいと思ってしまった。
ニールを責めるばかりにはできない。いまや、自分が彼を望んでいると認めざるを得なくなっていた。目の前の青年について知りたくなる。趣味はなんなのか、食の好みはあるのか、どんなことに怒って、どんなことに心を動かされるのか。
出会ったときのニールとは別の人間である彼を、はじめから知っていきたい。男は、なにかに強要されたわけではなく、個人的な望みによって彼を選び取ろうとしていた。
出し抜けに、頭のなかにまっすぐなラインが走るイメージが現れた。男の前に伸びるラインはかつての戦友に繋がっている。ニールもいまの自分と同じイメージを持っていたのかもしれないと思い至った。未来やだれかのためである以上に、自分の望みのための選択だったのではないか。
男は隣に目を向け、質問する。
「きみは学生かな」
こちらを振り向く顔は、記憶のなかのニールより年若く穏やかに見えた。この青年について知っていることはなにもないと改めて思う。
偽りのない自分をさらけ出して彼に自己紹介しよう。運が良ければ、時間をかけて少しずつ互いのことを知っていくだろう。もし、この青年がなにかを選んだら──それが自分の望むものであろうがなかろうが──全力でその選択を後押しするのだ。
未来を望む理由がこれからも同じかどうかは分からない。けれど、そのときが来るまでは、脅威に抗い、善なるものを育みながら彼の隣にいたいと思った。
「失礼、名前を名乗っていなかった。おれの名前は……」
一陣の風がふたりのあいだを吹き抜け、横たわったひまわりの首を上向かせた。黄色い花はしっかりと顔を上げ、青い空を見上げていた。