たこ焼きてねさん「ソースたこ焼き一個お願いします」
財布のなかから五百円玉を一枚つまみ、ニールはうつむいて注文した。
「マヨネーズと青のり、かつおはどうしましょう」
知らない声だ。店長ならニールが全部乗せると知っているからいまさら確認しなおさない。
顔を上げる。
弓を張るようにきりりと引き締まった店員の目にニールはくぎ付けになった。涼やかでまっすぐな視線によって自分の罪が暴かれるようだ。目が合ったほんの一瞬で場を制する存在感に圧倒され、ニールはただ立ち尽くした。
ふいに店員の表情が緩み、整ったひげに覆われた口元がほころんだ。
「全部載せるのもおすすめですよ」
初夏だというのに春が来た。
凛とした気高さに包まれた親しみやすさが、ゆっくりと花弁が開くようにニールの前に現れた。人生が続く限り、彼以外の相手は目に入らないのだと理解し、この日のために自分は存在したのだと悟った。
店員はいっこうに口を開かない客に対して不満そうにするでもなく、いたずらっぽく「全部載せようか」と促した。ニールは目と口を開けたまま素直にうなずいた。
店員は、天板の上にあるたこ焼きを巧みに返しながら言った。
「ポン酢は食べたことあります?」
その味は過去に食べたことがあった。この店のすべてのメニューを網羅したうえで好みのソース味を選んでいるのだ。だが、ニールは彼の声を聞くために首を振った。
店員は目を細めて「今度食べてみてください。自家製のポン酢を使っていてすごくおいしいから」と言い、鮮やかな手つきで八個のたこ焼きを経木船皿に載せるとすべてのトッピングを丁寧かつ迅速に盛り付けた。
つやつやと光る香ばしいソースにマヨネーズ、踊るかつおぶしと青のりが完璧なフォルムを作り出す。普段食べているものより上等なたこ焼きに見えてニールはごくりと喉を鳴らした。
目の前に用意されてしまえば、あとは支払いだ。握りしめていたおかげで体温と同じ熱さになった五百円玉を店員に渡す。商品を受け取ってしまえばこの出会いは終わりだ。店員の前から離れがたくて、ニールは彼の顔をまじまじと見つめた。店員はゆったりと構えて物言いたげな客の口が開くのを持つようだった。
ニールの内側には大きな感情があふれているのに、なにも言葉にできなかった。もし、いま前と後ろから腹を押されでもしたら、勢い余って「愛しています」などと言いだしかねない。唇をピクピクさせていると店員が促した。
「冷めないうちにどうぞ」
電車が到着したらしく、ニールの背後に新たな客の気配がした。うつむきがちにその場を離れて、ニールは店員の所作が見える場所に陣取った。店に目をやると、店員は新たにたこ焼きを手がけている。まんじりもせず彼を見ていたかったが、商品を持ったまま店員を見つめ続けるのは異様に映るに違いない。ニールはぼうっとしながらひとつを口に運んだ。
うまい。
火傷するほど熱い中身がとろっとあふれて口内に広がる。うっかり冷まさないで食べたので熱さに足を踏み鳴らした。
熱いけどおいしい。いつもよりさらに味わいが増している気がする。
ニールは夢中になってすべて食べた。全然足りない、もっと欲しい。追加で購入するために財布を手に取ったとき、ポケットのスマートフォンが鳴った。ムッとしながら電話に出ると、学友の声がした。
「おまえ、いまどこだ」
「どこでもいいだろ。忙しいんだ、切るぞ」
同じゼミの友人、アイヴスが舌打ち交じりに言った。
「どこでもいいわけあるか。早く来ないとセイター教授の授業が……」
「わーーーー!」
店頭の客がびっくりした様子でニールを振り返る。涼やかな瞳の店員も、目をまん丸に開いて驚いた様子だ。
「嘘だ、明日だろ?」
「馬鹿。あと二十分したら時間だろうが」
ここから学校までは電車で三駅、最寄り駅から学校までの距離を見込んでちょうど二十分ほどだが、ついさっき電車が発着したばかりだ。次に来るのは十五分後だから使えない。だが、古墳を回り込んで線路が走っているため直線距離だと電車に乗るより移動距離は短い。全力で走れば間に合うかもしれない。
「やらかしたな。教室の準備はおれだけでやっとくからとにかくこっちに向かえ」
アイヴスの冷静な声が耳に痛い。本来は教授の授業を用意するために、三十分前には教室を整えに行くつもりだった。セイター教授は実験の手続きに対する試行錯誤や失敗には寛容だが、時間に限っては厳格で遅刻が大嫌いだ。前に、数分遅刻した生徒を授業の間中指名しては質問攻めにしていた。生徒の答えが違ったからといって普段と対応が変わったわけではなかったが、あの生徒にとってはかなりのプレッシャーがかかったに違いない。
その教授の授業アシスタントが遅刻したとなれば間違いなく担当から外される。それは避けたい。
ここから走ると頑張っても十五分はかかる。アイヴスのように毎日走るべきだったかと後悔しながら頭の中で道順をこねくりまわしていると、きみ、と声をかけられた。
「これ、使ってくれ」
中心に穴のあいたコインのキーホルダーが目の前に差し出された。先ほどの店員が店舗から出てニールに近寄り、困ってるんだろう? と手に鍵を握らせる。
「ここに戻してくれたらそれでいい。さあ、早く行くんだ」
やわらかな手の感触がニールの背中を押す。目の前に黒いマウンテンバイクがあった。振り返ると、そうだと言うように彼はうなずく。ニールの身体は再び温かいものでいっぱいになった。鍵を回してよろけながら漕ぎ出すと、きらびやかな色が目の前を飛び回り、時間の感覚がなくなった。
「おまえはおれに感謝すべきだ、違うか」
アイヴスが言った。マウンテンバイクを貸してくれた店員のおかげで授業に間に合ったものの、教室の事前準備はすべてアイヴスが行ったうえに、そもそもニールに遅刻しそうだと教えたのも彼だったからその指摘はもっともだ。それなのにニールは授業前に、「悪い」とひと言言ったきりで、誰もいない教室で実験道具を片付ける際にも黙っていた。
アイヴスは壁に向かって立ち尽くすニールの背中をつついた。ニールはビクッと反応して手に持ったキーホルダーを落としかけた。
「アイヴス、気をつけてくれ」
「失礼なやつだな」
「ああ、悪い、今日は助かった。ねちねちしたやりとりをせずに済んだよ」
アイヴスはうなずき、「で、なにがあった」と訊いた。
なにって、とニールは口ごもる。運命の相手に自転車を借りたのだと言ったらきっと馬鹿にされる。待てよ、もう六時に近い。マウンテンバイクを返しに行かなくてはならない。
「もう行かないと!」
ニールは振り返らずに教室をあとにした。
きちんと整備されたマウンテンバイクはすいすい動いて目的地に到着した。あの店員が店頭にいるかと思い、乗ったまま店を覗き込むと、そこには馴染みの店長しかいなかった。
「いらっしゃい、寄ってく?」
「あの、三時くらいにいた店員さんはいますか?」
「ああ、自転車貸したのってきみだったんだ。もう帰った。そこに置いてたらいいって言ってたからよろしく」
「明日も店に出ます?」
「わたしはいつもいるわ」
「じゃなくて、あの店員さんは明日シフトに入ってます?」
店長の目が鋭くなった。彼女がなにか言う前に、言い訳のように続けた。
「無事に学校に着けたからお礼を直接言いたいなと思って」
「そういうことならまあ、いいか。明日はお休みだけど、もしかしたらそれを使うからって取りに来るかもしれないわね」
『たこ焼きバーバラさん』の店長は、口元に小さく笑みを載せてニールを見つめた。
「張り込みでもする気?」
いやあ、まさか、そこまでしないでしょさすがに、などともごもご言いながらニールは元の場所にマウンテンバイクを置いて鍵を店長に渡した。ほかになにか言われる前に、ニールは走って駅に向かった。
翌日の朝、たこ焼きバーバラさん開店前に店頭を確認すると、マウンテンバイクはすでになくなっていた。あのひとはどこかに出かけてしまったのだと悟る。次の日も彼はいなかった。そして、その次の日も。
店長に確認しても彼女は曖昧に答えるばかりで、たまに来るからタイミングが合えば話せるのでは、の一点張りだった。自分が避けられている可能性に思い至ったのは一週間経ってからで、否定しようにも根拠がないことにニールは打ちのめされた。彼に執着していると店長に印象付けるのはよくないと理解しつつも、毎日店に顔を出してはあの店員の所在を確認せずにはいられなかった。
*
「ちょっとニール、あんたかなり辛気臭いよ」
ニオイを避けるように顔の前で手を振りながら、学友のホイーラーはニールの隣に座った。
「最近ひどくなった。聞いても話さん」
アイヴスが諦めたように言う。ホイーラーはここぞとばかりに笑った。
「さては失恋したな。どうだ、フラれる気持ちがわかったか」
ニールの頭が膝の下まで落ちていく。
なんだ、当たったの? アイヴス知ってた? いや知らん、誰にフラれたんだろう、てか好きなひといたんだ? わからん、などと好き勝手に話す声がした。
「そんなんじゃない、そんな状態にもない……」
ニールの声がか細く響く。珍しいこともあるもんだとホイーラーとアイヴスが目を合わせると、ホイーラーのスマートフォンが鳴った。ちょっと出るねとホイーラーはその場から離れる。「はいボス、なにかありましたか」
ニールはぼんやりと、あの美しい店員をボスと呼ぶ自分を想像した。きっとあのひとなら、少しくらい時間に遅れたって許してくれるはずだ。なにか理由があったんだろう、などと言ってくれるに違いない。想像しただけでニールは少し満たされた。
「なにニヤニヤしてんの? さっきまで落ち込んでたのに。怖いんだけど」
電話を終えたホイーラーは戻ってくるなりニールに突っ込み、返す刀で励ました。
「失恋ニールのためにたこ焼きパーティーでもやるか! アイヴスのおごりね」
たこ焼きと聞いて、ニールの浮いた気持ちはまた沈んだ。気が乗らないと言う前に、ホイーラーは歩き出し、アイヴスもあとに続く。
「ほらニール行くよ」
「さっさと立て」
友人たちにけしかけられ、ニールはしぶしぶふたりを追いかけた。どんなときでも、たこ焼きが好物なことに変わりはないのだ。
ホイーラーに連れて行かれたのは、『たこ焼きてねさん』という店だった。学校近辺のたこ焼き屋は網羅したと思っていたが初めての場所だ。香ばしいソースの香りでニールの胸はうずく。
あの店員に会いたかった。見た目が好みだというだけではなく、初対面の相手にやさしくできる心根にも惹かれた。彼について知りたかった。まずは友だちになって仲良くしてみたい。ずっと昔からの知り合いみたいに笑い合って喧嘩して、仲直りしてまた笑う。あわよくば、お互いにとって一番深い仲になれたらどれほど幸せだろうか。ニールは肩を落としてホイーラーのあとに続いて店頭に向かった。
「いらっしゃい。友だちか?」
「そう、失恋たこ焼きパーティーするんだ。ね、ニール」
ニールは目の前にいる「あの店員」を見て固まった。彼は最初にも見たときと同じく凛々しい姿でたこ焼きを焼いている。ニールに気づいた店員は目を開いた。
「きみはあのときの。バーバラに聞いた。気にしなくていいからな」
そう言ってにこやかにほほ笑み、注文を取った。
会いたいと思っていた相手が目の前にいる。ニールは自分がなんの準備もできていないと思い知った。注文を終えたアイヴスがニールを店内に入るようにと促した。ニールは店員を見つめたまま動かない。
店員はあのときと同じように、ニールがなにか言おうとするのに耳を傾けるようだった。力を振り絞ってニールは店員に近づいた。
「あの、自転車、マウンテンバイクを貸してくれてありがとうございました。その、すごく助かって、授業にも間に合いました。お礼を言わないといけなかったのに、遅れてごめんなさい」
店員は、気にするなというように首を振った。
「なにしてんだ、行かないのか」
アイヴスが店先から動かないニールに訊く。一度中に入ったホイーラーも姿を現してアイヴスと顔を見合わせた。
あの、あの、とニールは口ごもる。なんとかして話を引き伸ばして、別の機会に話す時間を取ってもらう約束をするのだ。そうしなければ、二度と会えなくなるかもしれない。
「どうしたのニール?」
ホイーラーの声に店員が反応した。
「失恋パーティーをするのはきみのためなのかな」
「違います!」
思った以上の大声を出してしまい、ニールは顔を赤らめた。
「そうじゃないんです。ホイーラーは勘違いをしただけで……、ぼくは、あなたに聞きたいことがあって、そう、聞いてもいいですか」
「なにかな」
店員は穏やかにニールを見つめる。目を合わせているだけなのに、ニールは自分が受け入れられていると強く感じた。もし、なにか愚かなことを口走ったとしても、彼なら許してくれると期待してしまいそうだ。聞きたいことは山ほどあった。名前は? 住んでる場所は? 趣味は? どうしてこの仕事を? バーバラの店にいる日時は? いつからここに? ホイーラーと知り合いなのか? ぼくのことどう思ってる?
「あの、『たこ焼きてねさん』のてねさんって、なんですか」
ニールは自分の発言が信じられず愕然とした。そんなことを聞いてどうする。
店員は、にこっと笑って答えた。
「ああ、ここのオーナーの名前が『新庄』というんだ。英語でTENETが信条というだろう? それで……まあ、ダジャレだな。たこ焼き
新さんはもうあるから別の店名にしたんだ。ほかに聞きたいことはあるかな」
ニールは力なく首を振った。
そうこうしているうちにニールたちの頼んだものが出来上がった。彼は華麗に盛り付けて配膳する店員に受け渡す。
「楽しんで」
そう言って、彼は次の客に向き直った。
ホイーラーとアイヴスが不思議そうにニールを見ている。中に入って今度こそ正真正銘の失恋パーティーを行わなければならない。いや、待った、それはダメだ。
「あの!」
彼がニールに向き直る。
「ぼくと友だちになりませんか!」
ニールは声を張って訊いた。
店員は、きょとんと目を開いてピックを自身に向けた。
「おれと?」
ニールは何度もうなずいて繰り返した。
「友だちになってほしい……です」
言ったそばから顔が熱くなった。まるで小学生が転校生に向かって投げかけるような言葉じゃないか、せめてもっとクールに誘えなかったのか。たとえば、今度、どこかすてきな場所に行かないか、とかなんとか――
目の前に片手が差し出された。
「おれでよければ」
ニールは強い引力にひっぱられるように手を伸ばした。しっかりと握手をして手のひらのやわらかさを脳に刻む。見開いた目に煙が入って何度もまばたきした。手を離しても、彼がどこにも行かないとやっと信じられた。
ホイーラーが注文したたこ焼きをほおばりながら言った。
「ニールの失恋相手ってボスだったんだ」
「どうやらそうらしいな」
アイヴスもひとつ口に入れてうなずく。
「ふたりとも彼を知ってるのか」
ニールは信じられないという顔で向き直った。
「だってうちらここで働いてるもん。ね、ボス」
「ボスじゃないと言ってるのに……、おれは単なる雇われ店長だ」
困ったように彼が答える。
ニールは、彼を見つけるためにどんな手段も取れると思っていた自分を蹴り飛ばしたくなった。友人に聞けばよかっただけなのだ。自分の秘めたる思いなど、さっさと開陳してしまえば一週間前には再会できたかもしれなかったのに。だが、彼らのおかげで再び出会えた。かくなるうえは、「お近づき」のために手を貸してもらおうではないか。
「ふたりとも、手伝ってほしい」
「いいよ、どうせしょうもないことだろうけど」
「なんだ、言ってみろ」
ニールはつばを飲み込んだ。
「あのひとの名前を聞きた……」
「ボスー! ニールがボスのこと好きだってー!」
ホイーラーが得意げに言い、アイヴスが苦笑いをする。
勢いよく振り向いた先で、店員はまた困ったように眉を下げた。
「待って、まだそんなこと言える立場じゃないって、もう、ホイーラーの阿呆!」
「こういうのは先に言っちゃったほうがいいんだって。あんたもうバレバレなんだから」
食べな、と口にたこ焼きを入れられてニールは無言で咀嚼した。こんなときでも彼のたこ焼きはうまい。涙目で振り返ると、あのひとは照れたように頬を指で掻いていた。
ふと、ふたりの目が合った。
笑って肩をすくめた彼の姿は、そのあとずっとニールの記憶のなかに残った。