Par hasard*小さな芽吹き 小さな芽吹き
剣の輝きような白銀の髪、砲弾の火種のような緋の瞳――勇ましくそびえ立つこの国の化身は、とても美しかった。まるまると肥え、お世辞にも身軽とは言えない父の隣に立っていると、その優美さは際立った。無敵を思わせる勝ち気な笑み、傍若無人なその仕草。まさにこの国、プロイセンではないか。……ただ、一つだけ難を挙げるならば――齢十の幼いフリッツは思っていた。きっとその姿には、戦場がとてもよく似合う。こんな守られた演習場ではなく、喊声の上がる戦場だ。戦争が嫌いな父のお陰で、本当の戦場など見たこともないが、プロイセンがそこで猛々しく切りまわる姿は、さぞ人外じみていて美しいだろう。フリッツはこの化身を見かける度に、玉座を我が物とする日を遠く夢見ていた。
「――でね、フリッツ……フリッツ?」
「ああ、すまない姉上、なんの話だったかな」
木陰に座り、本を開いていた姉の手元を見る。フリッツの隣には投げ出された木製の剣が、木漏れ日を浴びながら芝生を沈めていた。背丈に合わせて作られたその小さな剣は、まるでままごとのようで、とても振り回す気にはなれない。
長閑な土曜日の午後だ。午前中行われた試験に無事に合格して、ようやく手に入れた安息の時間だったが、父にはそういう時間にこそ、自主的に軍事訓練に励めと圧をかけられていた。頼んでもいないのに剣術の稽古をつけさせるように伝えておくと言われ、素直に剣だけは準備したが、気が進まずに姉と話している間に時間が経っていた。
「もう、またプロイセンね」
呆れた笑みを隠さずに姉は嘆息を下ろして、
「フリッツは本当に彼が気になるのね、いつも見ているわ」
本を閉じながら遠くの人物を眼で追った。
フリッツの視線もまたプロイセンに戻る。隣を歩く父と、これから新兵のほうの練兵場に向かうのだろうか。大きな歩幅で勇猛に闊歩できるだろうに、杖を突く背中の丸くなった父に合わせているのがよくわかる。
「だって、私が王になったら、今度はあれは私の隣に控えるのだろう。よい戦友になれるかな」
「ふふ、少なくとも、今稽古をサボっているようじゃ、玉座を奪われちゃうかもね」
「え? だが、あれは人間ではないんだろう?」
「そうね、人間じゃないと皆は言うけれど……ここだけの話ね、玉座を狙ってないとは限らないと、私は思ってるの」
後半は聞かれぬようにこそこそと声を潜めた姉の真剣な眼差しに、思わず固唾を飲む。夢見がちな年頃の姉の話ではあるが、確かにそれもそうだと妙に納得してしまった。ましてや、玉座を狙うとすると、心を許しきっている王に切りかかるのは容易いことだ。それくらいは子どもの自分が見てもよくわかる。父は化身のことを一つも警戒なんかしていない。
途端に獰猛なその眼差しが、おぞましく思えた。恐怖と期待感が小さな身体の中で絡み合う。
「ところでフリッツ」
拓けた芝生の一帯を歩いていた父と化身はまだ見えていたが、「うん、姉さん」と相づちを打つために視線を戻した。閉じた本を自身の膝の上に置いたまま、指先を躍らせるようにくるくると回して、
「今度のセッションはどの曲にしましょうね」
まるで歌うように笑った。
「ああ、そうか。さっきはその話の途中だったか」
父が不在のときは、決まって母と姉と自分だけの小さな演奏会を催していた。もちろん密やかに。そのときのために課題曲を決めてそれぞれで練習しておこうと、自分たちはいつもそういう魂胆でいる姉弟だった。
既に自身の傍らに剣が横たわっていたことなど、視界、ましてや頭の片隅にもなくなっていたフリッツだ。姉のほうへ身を乗り出し、その晴天を吸い込んだような瞳を輝かせた。
「姉上はなにか案は? 私はちょっと違う楽器も挑戦してみたいと思っているんだ」
「あら、かわった楽器はだめよ。いくら父上が留守とは言え、家臣がいるもの」
そうやって制してはいるものの、姉の笑顔も軽やかに揺れている。
「だけど姉さんだって、いろんな楽器に触れてみたいだろう」
「それはそうだけれど、父上に知れるほうが怖いわ。また殴られちゃうわよ」
ここで姉が懸念しているのは、姉本人のことではない。よく殴られるのはフリッツのほうだ。殴られるだけならまだましで、髪の毛をずさんに引きずり回されることだってある。杖や鞭で打擲されることも。
軽い冗談のように笑って忠告した姉だったが、フリッツは急いで笑顔を隠した。音楽や本に触れているときには綺麗さっぱり忘れてしまうのだが、そうだ、自分はこの国の王位継承者なのだ。父曰く、そんな男が野心も抱かずに芸事に勤しむなど、論外のことらしい。……だが、自分は好きなのだ。銃で狩猟するよりもよほど、空気を震わせるような協和音を聴いて、またその一部になるほうが。
心もとなくなり、そのまま芝生の上に背中を投げて空を仰いだ。こんなに清々しいのに、心の内はまるで雨天のようにどんよりとしてしまった。昇りきった正午の太陽が眩しい。この好天の下、逃げも隠れもせずに、心ゆくまで好きな音楽を奏でられる場所があればいいのに……そう願わずにはいられない。
ゆっくりと瞬きをした。目を開くと、眼前には思い描く未来がある。
「……姉上、私が王になったら、音楽をするためだけの宮殿を建てるぞ。秘密の図書館なんて小さなものじゃない。宮殿だ。誰にも邪魔をされない、私たちだけの砦になる……姉上、素敵だと思わないか。待ち遠しいよ」
ふふ、と姉のほうから控えめな息遣いが漏れ、
「ええ、そうね」
暖かな声遣いで返ってくる。
「早く王になってもらわないと。そのためにも、今は父上の不興を買ってはだめよ」
そして釘を刺そうとする。寝っ転がっている地べたに縫いつけるような言葉だが、踊りたい心はそんなことでは押さえたくない。
「わかっているよ。だけど、やはり見ているだけじゃ物足りないんだ。実際にいろんなものを経験して、自分に一番合ったものを見つけたい。姉上もそう思うだろう」
流れる雲はあんなに自由なのに。飛び交う鳥だって、あんなに楽しそうなのに。
「思うけれど……ふ、フリッツっ」
唐突に姉の声色に影が差した。どうしたのかと姉のほうに視線を向けたときだ。
「いい心がけじゃないか、フリッツ」
もはや畏れすら孕む声色が降ってかかった。
条件反射に近い。慌てて身を起こすと、目前にはやはり父が立っていた。数歩後ろには、そっぽを向いてつまらなさそうにしているプロイセンもいる。
「……ち、父上……」
「して、実際にいろんなものを経験したいと豪語しているお前が、なぜ剣の稽古を投げ出しているのだね? 今は剣に昼寝でもさせる経験をしているところか? 大佐が探しておったというのに」
「ち、父上……その、」
殴られるのは嫌だ。慌てて立ち上がり、父の前でしゃんと背筋を伸ばす。ほんの僅かでも機嫌を損ねたくない。だが、とっさのことで言い訳どころか、どんな言葉も形にならなかった。見下す父の視線だけでも、既にとても痛い。目を背けたい。だが、目を背けたらきっと今度は拳が飛んでくる。
はあ、と腹の底をひっくり返すような、深いため息を吹きかけられた。
「……お前は本当に出来損ないだな。白昼堂々、こんなところで夢ばかり語りおって。語るだけではなにも実現せんのだぞ。恥を知れ」
「すみません……」
視線はあえなく地べたに落ち、父の足元に潜り込んだ。
「ったく、なんでお前が私のせがれなんだ。腰抜けで根性なしで女々しい。気色の悪い」
ちら、と視線が逸れる。遠くから見て、その火種のような瞳に自分たち親子はどう映っているのだろう。まして、長い年月を見てきたと言うその眼には、自分という後継は、どう映っているのだろう。口を挟まないようにしているのか、ずっと遠くの世界を見渡しているプロイセンに、そのときから釘づけになってしまった。
「……ち、父上、でも、今日は土曜日でっ」
「ヴィルヘルミーネ、黙ってなさい!」
荒らげられた声に、ようやく我に戻る。目前の存在感に視線を上げれば、先ほどよりもそうとうに苛立っている。ぐに、と口元が歪んだ。
「だいたいにして、私の目を盗めると思うその魂胆が気に食わん! また仕置されたいのか⁉︎」
ぐっと拳が固くなるのが見え、「い、い、いえ……っ」と半ば泣きながらぎゅっと目を瞑った。
「ものははっきり言わんかい! 鬱陶しい!」
「っ」
「きゃっ!」
案の定だった。姉の小さな悲鳴とともに、ごつと、音が頭蓋骨の中に響くほど、父の硬い拳がこめかみに当たった。よろけるほどではないので、父なりに手加減はしているのだろう。だが、痛いよりも恐怖が勝り、なおさら視界が開けなくなった。
「いいか! そんなお前でも、いずれは母上のような素晴らしい妃を迎え、誰しもに慕われる王にならねばならんのだぞ! こんなところでぐずぐずしてる暇があると思っているのか!」
怒声は続く。恐怖の中で浴びせられたからか、父の口から出てきた『妃』という言葉に嫌悪感を抱いた。やれ狩猟だ、やれ軍事だ、と決まった軌道を走らねばならならないのか。やれ結婚だ、やれ後継だ、自分の人生は、そんな規格の中に収められてしまうようなものなのか。それは果たして、自分の人生と言えるのか。
――姉さん以外の女性は嫌いだ。たどり着いたのは、なぜかそんな見解だった。
なんとか父の敷いた軌道を逸脱したかった。父が驚くような、父の中にいる『出来損ないのフリッツ』を見返せるような、そんななにかを、一言でいいから言ってやりたかった。
視界の隅で、プロイセンがこちらを見ていたことに気づく。その剣の輝きのような、白銀の髪。火種のような緋の瞳。こんなだるまのような父にその優美さは、宝の持ち腐れのように思えた。――私は一刻も早く、あれがほしい。
「な、ならば……父上、」
「なんだ」
「プロイセンを、私に、」
「……なんだ?」
ぎろり、と。父の据わった眼差しがまた降り注いだ。
フリッツの中で強張っていた反抗心が、ふわりと形を失う。慌てて視線を外してしまった。
「ぷ、プロイセンに、私の稽古を……つけさせてください……」
途端に、父の纏っていた気迫が悪寒のようにフリッツを捉えた。その大きな手のひらが乱暴に肩に掴みかかり、
「っな! お、お前みたいな出来損ないにプロイセンが稽古などと! 大人をからかうのも大概にっ」
「ンっ!」
高く振り上げられた拳に、慌てて身構える。姉のほうからも、また恐々とした悲鳴が微かに聞こえていた。殴られる。また、引き倒されて、振り回されるに違いない。
……だが、そこで忽然とその気迫が消えた。
「……でもまあ、その心意気だけは買ってやる」
予想外の言葉だった。それでも乱暴な手つきのまま、父はフリッツの身体を投げ打ったが、殴られることに比べれば尻もちくらい、どうってことはなかった。
「そうだ、これから間もなく、プロイセンが新兵に稽古をつける予定だ。カルクシュタイン大佐の稽古は取り止めにして、お前も見学させてもらえ。自分がどんな生ぬるい溝の中に身を置いているのか、しっかりと刮目して来い」
早々に踵を返す。プロイセンが後をついて来ると信じているのだろう、そのまま歩き出した父の背中を目で追った。
「ったく、太鼓の練習などと言っておったせがれが懐かしいな。なあ、プロイセン」
呼びかけにプロイセンがなんと返したのかは、聞こえなかった。ただ、最後にフリッツを見ていたその射るような眼差しは、どう捉えるべきだろうかと、しばらくフリッツを悶々とさせた。
さて。言われるがままにその足で、フリッツは新兵の演習が行われている広場に出向いていた。近くの木陰に入り、よく身体に染み込ませたのだろう、美しい隊列を作っている若い兵たちを見渡した。大口を叩いてこの場にいることは理解しているが、どうにもしてやられたような気持ちが拭えない。稽古をつけるプロイセンが現れるまで、お利口さんに気をつけをして待っている新兵らを眺めて、自分には彼らのような猛々しさは爪の先にすらないのだと自認してしまう。判然としない敗北感を味わっている……ような気がする。さすが我が国の新兵といったところか。
そこへ、さく、さく、と踏み鳴らされる芝生の音とともに、大きな存在感がやってくる。当然、この場にいた皆が待っていたプロイセン本人だ。意識が引かれるがままに見やれば、父はいないらしく、いつもの不敵な笑みを浮かべながら闊歩する姿がそこにあった。これは、敵でなくとも一歩引いてしまいそうなほどの迫力がある。
「おうおう、お前らやる気じゃねえか。いいねえ」
端正に揃えられた隊伍に満足げな教官サマは、しっかりとその前で芝生を踏みしめてそそり立った。フリッツがいた位置からでは背中しか見えないが、それでも他に見たことがないほどに勇ましく、なんと大きな背中だろうと目が離せなくなった。
……あれが、将来自分の傍らに……昼間と同じ期待感が突沸して、ぞわと背筋をくすぐる。
「おいお前ら。まずは横一列に並べ」
わざと萎縮させるような声遣いで言い放つと、隊列が瞬く間に横に広がった。それをも満足そうに眺め、ふむふむと頷きながら動きが止まるのを待っていた。
しん、とそこから動作の気配が消えると、プロイセンは自身の腰に差した、稽古用のただの木製の剣の柄に触れ、
「いいかお前ら」
その声が満遍なく行き渡るよう、あちらへこちらへと堂々とした態度で歩き、弁舌をふるった。
「戦において、たしかに数は優劣を決める。だがそれ以上に力の差をつけるのは、一人ひとりの士気と質だ。士気は来たるべきときに王が上げる。俺様の役目はそう、お前らの質のほうだ。俺様が面倒を見てやるからには、半端な質は許さねえぜ」
決して捻じ曲げることのないであろう鍛えられた野心を、その眼光に灯したプロイセンは、さわ、と新兵たちの顔をすべて見渡した。そしてその瞳が野心を灯していたと知ったのは、そうだ、最後にその視線がぴたりと、寸分のずれもなく、フリッツの瞳の上で止まったからだ。
途端に身動きが取れなくなる。呼吸まで掌握されているような錯覚を起こし、フリッツの視界は一瞬だけ眩んだ。
「おい、フリッツ。お前もそこに並べ」
「……え?」
「ぐずぐずすんな。お前も、この列の端に並べっつってんだよ」
強い眼差しは、やはり、他でもないフリッツを捉えていた。恐る恐る移動を始めたフリッツも、その視線から目が放せない。ちら、と位置だけ確認して駆け足になったが、自分の動きが止まるまでプロイセンが見ていたように、フリッツもまた、終始プロイセンを見返していた。
兵の列の端に並んではみたものの……十歳の自分と新兵とでは身長差がある。自分用に準備された剣を持っているので、武器として不利などはないが、実技訓練になってしまったら、おそらく手も足もでないだろう。そう言えば新兵らの持っている剣は、よく見てみると木製ではなかった。……いや、まさか、大事な王太子である自分がいるのに、実践用の剣で実技訓練など。……そうやって一人で、プロイセンがなにかを教示している間も、ぐるぐると焦りの渦を巻いていた。
「では、さっそく始める。今さら剣術の基本である構えの型や足さばきを教える必要はねえと思ってるからな。そういう基本にまだ自信がねえやつは先に抜けて自主練でもしてろ」
まるで自分のことを指されているのかと思ったくらいだ。一通り習得はしているが、新兵と並んでまでそれらに自信を持つことはできない。だが言い出すことは敵わず、そのままプロイセンの声は続いた。
「そうではない次の段階に進めるやつらだけ、二人一組を作れ。お前らの手に握られているその武器、それらを振り回したときにどんな風に力の流れが生まれるのか、それを体感してもらうぜ。練習用の木製じゃねえ剣を握るのが初めてってやつもいるはずだ。ママゴト剣と違って当たったら切れるぜ。扱いは十分に気いつけろよ」
そして実に楽しそうにほくそ笑んだ。抜けてえやつは今だぞ、と言ったところで、この日を迎えるまでに十分に下準備をしていたであろう新兵たちは、誰ひとりとしてまとまりから抜け出す者はいなかった。フリッツもその緊張感に飲まれ、完全に出遅れてしまった。
「よし。では、二人一組を作れ。フリッツ、お前は俺様とだ」
蛇を思わせるほど、獰猛な色を孕んだ瞳でまた、まっすぐにフリッツを捉えた。まるで蛙になったように身体が縮こまる。見逃してくれそうもない。お前は少し待ってろ、と言われてから、他の兵たちに一通りの演習の流れを説明していたが、それが終わると、言葉通りにフリッツの元へ一直線に走り寄ってくる。その間中、どれほど扱かれるのだろうかと焦燥していた。
「おい、ちょっとこっちに来い」
他の新兵らが二人一組で互いに稽古をつけ始めた横で、プロイセンに引かれてそれらとは距離を空けた。あまり隣を歩くことがないので気づかなかったが、プロイセンは端から見れば大きく勇ましい印象を与えるが、間近ではその背丈も相まって、そうとうな威圧感を放っていた。自分はこんなものに稽古をつけさせろと宣ったのか。己の無知さにフリッツは少しだけ後悔を味わい、自らの口を恨んだ。
「うし、この辺でいいか。お前、どこまで教わってるか見せてみろ」
「えっ、あ、」
「んだよ。剣術習い始めてどれくらいだ? んな立派なもん腰に下げさせてもらってんだから、せめて構えるくらいはできんだろ?」
自分用に拵えられた剣。プロイセンはそれをまっすぐに見据えて笑っていた。呆れるように腕を組む姿は、あまり愉快なものではない。あまつさえ、自らと真剣に向き合ってくれている傅育官たちの名誉を汚されたような気がして、それがなによりも不愉快だった。むっと口の端に力がこもり、反論してやろうと拳を握った。だが、目が合うとたちまちその気持ちは窄んだ。自分よりもよほど高いところから見下す眼差しが、思っていた以上の圧迫感で影を被せている。
父を目前にやってしまうように、無意識の内に視線を足元に潜らせていた。
そこで大きく吸気した音が聞こえる。そしてそれはそのまま盛大な嘆息に繋がった。プロイセンは呆れ笑いすらやめて、ため息を吐いたのだ。信じるに耐え難く、ほんの少しだけ視界を持ち上げた。そこには、叱責するような厳しい表情をしたこの国の化身がいる。
「――お前な、あそこまで言われて悔しくねえの」
……その瞳には、紛れもなく自分という後継は、こう映っているのだ。
「出来損ないだの、腰抜けだの、根性なしだの」
常に父の隣にいるプロイセンは、きっと父の眼鏡を通して世界を見ている。そうに違いない。そして、父の眼から見れば、やはり軍事に関する訓練よりも芸事を好んでいる自分は、きっとそのままの格好なのだろう。
情けなく「……で、でも……」と漏らしかけたが、それこそ不必要な言い訳かと言葉が止まる。
「俺様は王のやることに口出しするつもりはねえ。だが、お前には闘争心が欠けてると思うぜ」
――闘争心が欠けている。
プロイセンの言葉が心を抉った。確かに、自分は父と戦うことを避けた。……しかし、それは父が確固たる〝王〟である前に、〝父親〟という、到底闘争し得る存在ではないことを、プロイセンは理解しているだろうか。芸事と本が好きなだけの、ただの十歳の少年には、一国の王に歯向かうこと、ましてや自分を育む絶対的な存在である父に歯向かうことは、幾分にも荷が重かった。それだけではない、歯向かえばすぐに打擲されることを、身体が覚えてしまっている。
「フリッツ。父親のやり方が気に入らねえなら、親でも食らう勢いでいけ。罵倒を受け入れてんじゃねえよ。今のお前は、まさしくただの腰抜けだ」
ふつふつと感情が湧き上がった。これは怒りだろうか、屈辱感だろうか。ぎり、と久々に拳を固く結んだ気がした。私の気持ちなど、一つも知らないくせに。そう心の中で煮え滾らせた。
見上げれば見上げるだけ、プロイセンも冷淡な眼差しで見下している。
――幼いフリッツは気づいた。あのだるまのような父から早く引き剥がせるようになりたいが、それは同時にプロイセンにも王たる威厳を認めさせなければならないということだ。今のでよくわかった。
白銀の髪に、火種のような瞳。いずれも、剣の柄を握ったフリッツを見下ろして、満悦に揺れた。しっかりとした手つきでその木製の剣を鞘から抜く。もう何千回とくり返した構えを作り、
「……よく刮目せよ、プロイセン。私だって剣術においては、国中の十歳の中でなら負けない自信くらいはあるんだぞ」
少しばかり見栄を張ったが、怯まずに真正面からその威圧感と向き合った。
「お? おお、そう来なくっちゃな。どれ、相手してやるぜ、殿下」
ほくそ笑んだプロイセンも、己の剣の柄を握る。稽古用の木製のそれを構えもせずに、力を流すように立ったままフリッツの一手を待っていた。その余裕綽々とした笑み。見返してやる。『出来損ないのフリッツ』のままでいるのは、御免だ。
「――はあ〜……っ!」
雄叫びと呼吸が混ざったような声を上げてしまった。そのままフリッツは芝生の上に倒れ込み、肩で息をくり返した。……もう限界だ。こんなに真剣に剣の稽古に取り組んだことがあっただろうか。ぼたぼたと下る汗が、次から次へと芝生の下の土に染み込んでいく。
「……まあ、思っていたよりは動けたな、フリッツ」
ぬ、と蒼天を遮って、涼しい顔をしたプロイセンが視界に入り込む。
「腰抜けは撤回するぜ。年齢からすりゃ、上出来だ。先生もいい腕してんだな」
そうか、先程の言葉は、ただの発破だったのかもしれない。傅育官の名誉を取り戻せたことにフリッツも少なからなず満足はしていた。それに、やたらと充足したような笑顔をばらまいているプロイセンを見上げて、少しだけほっと安堵する。
……だが、深呼吸をするために瞼を下ろしたら、別の感情がぐつぐつと煮えていることに気がつく。『上出来だ』とは言われたが、その言葉には少々納得がいかない。いかんせん何度真っ向から迫っても、プロイセン本人に剣の刃を受け止めてもらうことは、一度もなかったからだ。ひらひらと身体を翻すだけで、当たりもしねえぞ、と煽られ続けた稽古だった。……だがお陰で、剣を振りかざしたときの力の流れはなんとなく体感できた気はする。おそらくはプロイセンの狙い通りだろう。
「一度も剣を受け止めてもらえなかった」
文句を垂れながらゆっくりと身体を起こせば、
「俺様を誰だと思っている」
また厳しい声とともに、無骨な手のひらが目前に差し伸べられた。
「俺様に受けてもらいたきゃ、もっと腕を磨け、王太子。現状に満足すんな」
よもやプロイセンが手を伸ばしてくれるとは思っておらず、言葉よりも行動に呆気にとられた。じっと見返せば、汗を拭うような優しい風とともに、プロイセンが快活に笑う。毛先だけが微かにそよぎ、その瞳は姿を隠した。代わりに現れた真っ白な歯の並びは、戦場におけるもので例えることはできなかった。ざわついた胸中でプロイセンに釘づけになり、
「ほら、なにしてんだ。さっさと立て」
催促されるまで、その光景に見入ってしまっていた。
「あ、ああ、すまない」
差し出された手を握り返し、軽々と引き上げられ、己の二本の足でしっかりと大地を踏みしめる。
「さあ、今日の稽古は終わりだ。よく食らいついてきた。褒めてやるぜ」
見惚れていたことなど眼中にもないプロイセンは、わしわしと乱暴にフリッツの頭を掻き回してから、
「おーい、お前ら並べー!」
互いに稽古をつけ合っていた新兵の前へ歩み出ていた。
――……我が国プロイセンは、こんなにも美しい。
プロイセンの持つ芸術的な美しさも否定はできないが、それよりももっと、生けるものとしての美しさに打ちのめされていた。なんと強かで洗練された精神を持っているんだ、プロイセンは。いずれ王となる身として、誇らしくてたまらなかった。父が常に隣に置いておきたい気持ちも痛いほどよくわかる。同時に、早く自らが王となり、プロイセンを側に置いておきたいと、暖かな春を待つように胸が高鳴った。
大きな手のひら。温度があり、包み込むような力強さ。プロイセンはこの国を象った化身だと知ってはいたが、それを初めて心から実感したような気がする。プロイセンに認められる――否、気高きプロイセンが認めざるを得ない王に、自分はなってやるのだ。
膨大な心積もりを抱いたフリッツの胸は、しばらく興奮を収められなかった。
その晩、フリッツは夜が耽ってからも、眠る気配がなかった。昼間の興奮のせいだろうか。ごろごろと何度もベッドの上で転がり回り、それでも目が冴えてどうしようもなかった。こんなに眠れないのは、前回父に手ひどく杖で叩かれて以来だった。そのときは身体の痛みで寝つけなかったが、今回は違う。明らかな胸騒ぎを感じているから、これはきっと昼間の興奮が冷めていないのだ。特に理由はないが、母に触れたくなった。今日、自分が見聞きしたこと、体験したことを母に話して一緒に消化してほしくなった。母からの抱擁が、きっとこの興奮を押し沈めてくれる。
王太子であろうがなんだろうが、フリッツが齢十であることに関係はない。いそいそと布団を抜け出して、まだ大人は起きているらしいことに気が緩み、明るさの灯る廊下に出ることにした。通い慣れた母の部屋へ、まっすぐに足は向かう。廊下の明かりはまだところどころ灯っているというのに、一人も家内の者とすれ違わなかった。
そうして、母の部屋の前に立つ。ドアノブを握り、ぐっとそれを回したところで、
「んっ、あ、ヴィルヘル、ムっ……! 待って、」
部屋の中から漏れ出している声に気がついた。
「ゾフィ、今日も、素敵だ……っ」
「んんっ」
驚きのあまり、ばちりと静電気が走ったようにドアノブから手を飛び退けた。
この、余裕のない声遣い。二人きりでなにをやっているのかなどと見当もつかないが、普段の父母とまったく違う人間になったように感じて、いつもなぜか恐怖してしまう。そう、フリッツがこれに遭遇するのは初めてではなかった。だが、この雰囲気にはいつも頭が真っ白になってしまうのだ。どうも底を知らず怖くなり、一歩を引いていた。跳ねるような声はまだ聞こえている。確かに母のもの。父の言葉からして、危害を加えているわけだはなさそうだが、母のことが心配だ。けれど、父に歯向かってまた機嫌を損ねるのもためらう。
……頭の中がぐるぐる回る。部屋に入って母の安全を確かめるべきか、それとも他へ助けを求めて引くべきか、今日も決めきれず手が震えていた。
「――フリッツか?」
声がかからなければ、踵を返して逃げ出していたところだった。
ふり向けば、そこにはプロイセンがいた。なにか用事でもあったのか、こちらへ歩いてきている。助けを求めるように見返してしまい、プロイセンもそれを察したのか、母の部屋のドアをまじまじと見つめていた。中からは、あの変な声がまだ漏れていた。
それに気づいたプロイセンも目を丸めて、それから困ったように眉尻を下げた。
「あ、ああ〜…………こ、子どもが何人いりゃ気が済むんだろな、あいつは……」
ドアから遠ざけるように背中に手を回され、とんでもない苦虫を噛まされた表情のプロイセンを見上げた。言っている意味はわからかったが、既にそんなことよりも、プロイセンもこんな顔をすることがあるのかと、一気に意識がそちらに向かった。
「まあ、あれだ。フリッツ、俺様と散歩でもいくか」
そのままプロイセンは、フリッツに廊下を歩かせた。こんな時間に宮殿内を歩き回ることは滅多にない。しかも、化身であるプロイセンと歩くのは初めてに等しい。先程の動揺の延長か、気づけばプロイセンの袖を掴んでいたが、手を繋ぐ勇気までは持てなかった。
「まあ、なんて言うかよお、」
プロイセンが向かう先はどこか。方向的にはフリッツの寝室のようで、見慣れた廊下が続いていく。
「あれは夫婦が円満な証拠っつうか、お前の父上と母上が仲がいい証拠みたいなもんだから……大目に見てやってくれ」
プロイセンはフリッツと目を合わせることはなく、少し気恥ずかしそうに教えた。……なんだろうか。その横顔に釘づけになった。こんな顔もするのかと先ほど驚いたが、この表情も例外ではない。
それに……。
ところどころ明かりが残る狭い道の先を見据えた。
プロイセンは知らないのだろうが、母が父を好いてはいないことを、自分は知っている。一緒にいるのがとても苦痛なのだと、たまに零すことがあるからだ。しかし、寛大な心で芸事を許してくれる母と、一切の容赦なしに自分の求める『理想の王太子』を押しつけてくる父とでは、相性が合わずともなんら驚きはない。……だから、あれが『仲がいい証拠』と言われても、いまいち消化不良を起こしたような気持ち悪さが拭えないのだ。
「……でも、プロイセン」
この胸中を、思い切って明かすことにした。
「なんか変な気分になるんだ。はらはらして、こわい。……母上は、あれで大丈夫なのか?」
「……お、おう……まあ、少なくとも、傷つけられてはいないと思うぜ。安心しろ。お前の父上は俺様から見ても粗暴なやつだが、母上のことはちゃんと愛してる。ああそうだ、ありゃ、愛情表現ってやつだ」
「……愛情表現……」
「そうだぜ、フリッツ」
袖口を掴んでいたことに気づいていなかったのか、プロイセンは手を上げてフリッツの頭をまたわしわしと撫でてやった。お前の頭、撫でるの気持ちがいいなあと笑いだしたプロイセンをよそに、フリッツは頭をもたげたい気持ちになっていた。
自らも大人になったら、妻として迎え入れた相手にああいうことをするのだろうか……。自分は父のようにはならないという確信だけは得ているが、それにしても背筋が凍るような心地になった。こういうのを、虫唾が走るというのだろうか。
案の定、フリッツの寝室の前にたどり着き、プロイセンがドアを開けて中に入るように誘導する。まだ一人にはなりたくなかったので、プロイセンの姿を目で追っていたが、彼はちゃんと部屋の中まで寄り添ってくれた。
ドアを閉めてしまうと部屋の中の明かりと言えば、星空の柔らかい光だけになる。だがその僅かな光源でも、ベッドの位置はちゃんとわかったし、言ってしまえばプロイセンの持つ独特の毛髪もよく見えた。それくらい明るい夜だったんだと、窓の外を眺めながら気がついた。
星空の小さな瞬きに気を取られていたフリッツよりも先にベッドに寄り、プロイセンは布団をはぐって、フリッツがそこに潜り込むのを待っていた。我に戻ったときにそれを察して、誘導されるがままにベッドに上ったが、
「――プロイセンには、」
「おう?」
その胸には、希望のような疑問が浮かんでいた。
「プロイセンにも、ああいうことをしたいと思う相手が、いたりするのか」
フリッツは自らがまだ十の子どもだと自覚しているつもりだ。大人のあれこれを理解できないのは当然のことだとも。……だから、あれが『大人』という生き物の共通事項なのかと、そう純粋に疑問に思ったのだ。敬愛するプロイセンも、果たしてああいうことをするのだろうか。
だが、返ってきたのは、
「――は、はあ?」
これはまた初めて聞くような声色だった。
「お、お、俺様は化身だぜ? そんな、なあ?」
おや、と異変を察知する。なんと歯切れの悪い返答だろうか。傍若無人でこわいもの知らずのプロイセン、という印象が、少しだけ崩れた。……なにをそんなに焦っているのか。
「いるの?」
言及してしまうのは、子どもの好奇心だ。
「あ、そうだ、フリッツ。そんなことよりな、知ってっか」
こんなにもわかりやすく話を逸らされた。……ここまで取り乱すプロイセンを見て、フリッツは少し面白くなる。……もっと気高い、人間では触れられぬような人外じみた領域に身を置いていると思っていた『国の化身』は、思っているよりも自分ら人間と大差ないのかもしれない。
「明日ロシアから客が来るんだぜ!」
「ロシア? ずうっと東のほうにあるっていう、北の大国の?」
顔を覗かせた幼い好奇心を押し込めるように、プロイセンは慣れない手つきで布団を被せていた。騒がしく笑うプロイセンはやはりフリッツの中では珍しく、思っていたよりも人間じみているこの化身をとても身近に感じていた。……そうか、もし兄のようなものがいたのなら、こんな感じだろうか。
「ああ、そうだ。お前も昼食会に同席させてもらえよ。俺様から言っといてやるぜ、ケセセ」
「す、すごい客なのか」
「すげえもすげえぞ。なんせドケチのお前の父上が、接待費の上限を引き上げたくらいだからよお。『大国ロシア』からの来客だ。上客間違いなしだぜ」
「そうなのか」
快活な笑みのまま饒舌に語るからには、プロイセン自身も楽しみなのだろう。フリッツもわくわくしたが、同時にそんな席に自分が同席しても大丈夫なのだろうかと怯む気持ちもあった。――父からして見れば、『出来損ないのフリッツ』だ。きっと、父からは反対される。
過ぎった途端、一気に気持ちが縮こまってしまった。身体を小さく畳むように膝を抱えた。
「まあ、お前にとって勉強になると思ったから言ってんだ」
それを見つけたのだろう、プロイセンのトーンも幾分も静かなものになっていた。またぽんぽんと、優しく頭を撫でられ、
「……ロシアの化身も来るしな」
付け加えられた情報に、思わず顔を上げた。
「化身! ってことは……!」
「そうだ。ロシアの、俺様みたいなやつだよ」
「へえ……それは、会ってみたい!」
プロイセンは、まさしくこの国の化身を思わせる、優美で逞しい化身だ。ならば、大国と呼ばれ、怖れられているロシアの化身は、いったいどれほどの者だろうと、僅かな間に想像を膨らませた。この気持ちは完全に怖いもの見たさというものだろう。きっと熊ほどの背丈と体躯の良さ、そして強面を持っているに違いない。冬は雪が多いと聞くから、プロイセンのように白銀の毛髪を靡かせて。
だが、次にプロイセンを見返したときに、もわ、と胸中に広がった違和感に戸惑った。笑っているその表情は変わらないのに、先ほどまでの快活さが身を潜め、どこかもの寂しげに見えたのだ。その口からは「期待すんなよ? どうしようもねえ田舎臭え野郎だぜ、ケセセ」と、からかっているのか冗談なのかわからない形容が出てきている。……だが……これは、なんだろうか。ドクドクと、フリッツの中で打つ心臓の音が早くなる。……プロイセンの浮かべるこの笑みは、いったい。
「さあ、眠れそうか?」
は、と息を吸うと、視界いっぱいにプロイセンが覗いていた。やはり快活さはなくなっていたが、優しさは隠せていなかった。
「あ、うん、ありがとうプロイセン」
「おう。あんまりお前と話す機会ねえからな。今日は楽しかったぜ、殿下」
「……うん」
ベッドの脇で胸を張って、プロイセンは、やはり笑っている。……楽しかったと言われたのは、とても嬉しかった。プロイセンも機嫌がいいのだろうか。そういえば父の傍らに控えているプロイセンとは、まったく印象が違うなあと思い返した。フリッツは素直に思う、こちらのプロイセンのほうが好きだと。自分が王になったときは、こちらのプロイセンを大事にしたいと。
夕べの挨拶をしながら、プロイセンは部屋のドアのほうへ歩いていく。先ほどまではなかった軽い足取り。ロシアからの来客の話をしてから、雰囲気を変えたプロイセン……――ああ、と、フリッツの中で合点がいった。
「プロイセン、」
「おう」
「明日が楽しみ?」
また、目を奪うような溌剌とした笑みを見せた。
「……おう、そうだな」
高鳴った心臓が、またしてもプロイセンに釘づけにさせる。当の本人はそんなこととはつゆも知らず、そのまま「さっさと寝ろよ」とドアを閉めていってしまった。
プロイセンは国だから、外交が好きなんだろうか。それとも、そのロシアからの来客を気に入っているのだろうか。……すべて、明日になればわかる。フリッツは、静かに瞼を下ろすことにした。
さあ、朝が来た。清々しいまでの日曜日の朝だ。窓から差し込む日差しが、幾重にも光の層を作っていた。
起き抜けにも昨晩の話を覚えていたフリッツは、大きな伸びをしてから、窓から見える真っ青な空を見渡した。今日はロシアからの客人が来る。嬉しそうに話をしていたプロイセンの様子すら鮮明に思い出せる。口ぶりからして、おそらくプロイセンが父に口利きしてくれるはずだ。父はフリッツのことを嫌ってはいたが、プロイセンが嘘を吐くとも思えないので、おそらく同行させてもらえることになるだろう。そんな気がしていた。
今日は日曜日からして、まずは礼拝の準備だ。日の昇り方から考えるに、おそらくそろそろ傅育官の一人がフリッツを急かしにやってくる。
案の定、すぐさま訪れた傅育官に急かされ続け、礼拝を終えたフリッツだった。その後、父に呼びつけられているのだと聞かされ、期待を胸に父の元へ向かうと、早く支度しなさいと言われた。昼食会に参加させてやるから、恥のない召し物を纏え、その間にある程度のロシアの礼儀作法を教えてもらえと、簡単に指示を受けた。あくまでここプロイセンの作法で構わないが、客人のタブーも知っておけとのことだった。
それらが終わると、フリッツはその足で父の元へ戻った。既に忙しなく書類の確認やら、歓迎行事の進行確認やら、ああだこうだと大わらわの父一行に、声をかける隙も見つけられなかった。安息日ではあるが、一国の王である父には、実質的にそんな日は存在しないのだ。どうやら、もう客人が近いのだと報告を受けていたようで、バタバタしている王宮内。しかし、それらを横目にプロイセンは余裕綽々の笑みで「似合ってるぜ、王太子」と楽しそうに声をかけてくれる。普段は着ないような窮屈な服装だったが、それゆえに身が引き締まるというか、緊張するというか、上手く笑えなかったのが少し悔しかった。
それから、ロシアからの客人一行が到着したと、兵の一人から報告を受ける。結局昼食会以外には、なにをどうすればいいのか聞かされる暇などなかった。わたわたしている間に、お前はここで待ってなさい、と指示を受けて、プロイセンだけを連れて父が客人を出迎えに行ってしまった。まだ周りでてんやわんやと駆け回る人々はいたが、それにしても取り残されたような心許なさは拭えない。
昼食会も楽しみだったが、どちらかというと、早くロシアの化身を見てみたかったフリッツだ。後ろから覗くくらいなら別にいいだろうと腹を括り、まずは玄関付近に向かってみようと心に決める。装飾品の多い住まいだ。後ろからこっそり覗くこともできるはず。
そうと決まれば、好奇心を抑えられない子どもは、焦るような足取りで階段を下り、廊下を渡り、玄関へ向かった。だがいざ到着してみれば、客人の「きゃ」の字もない。周辺を歩いていた使用人を呼び止めると、一行はまず、昼食会が開かれる広間に向かったと教えられた。慣れた宮殿内を、またしても駆け足で巡る。
そうして、ようやく教えられた広間に到着するところだった。……この角を曲がれば、その広間だ。もう目と鼻の先だというのに、
「――わあ、会いたかったよ、元気してた?」
すぐそこで柔らかい声が聞こえて、思わず立ち止まってしまった。突き当りに差しかかっていて、あとは曲がるだけだというのに、聞き慣れぬ声にまた一気に緊張してしまう。……聞き覚えのない声なので、ロシアからの客人の一人だ、きっと。えらく流暢なドイツ語だとは気になったが、
「は! その緩みきった顔どうにかしろ、みっともねえぜまったく」
応対した独特な質の声に、閃きが走った。……これは、プロイセンだ。しかもこんなに親しげに話している。予想よりもかなりふわふわして締りのない声だが、相手はもしかすると、ずっと気になっていたロシアの化身かもしれない。
そう思うとほぼ同時だった。おそるおそる、曲がり角から顔を覗かせていた。
「ふふ、君は相変わらずだね」
そこには大きな背中がある。予想通りの大柄な体つき。その声だけは見当とは違っていたが、それ以外はきっと考えた通りだろう。早くその強面を見てみたくて、じいっと後姿に見入ってしまった。
「だろ! 俺様のかっこよさは留まるところを知らねえからな! 褒め称えてもいいんだぜ!」
「うん、プロイセンくん、だあいす、」
「うおおおフリッツ⁉︎」
びくぅ、と身体が驚くほど跳ね上がった。唐突に呼ばれた名前は自分のもので、なんの警戒もしていなかった身体が落雷にでも遭ったようにしばらく震えてしまった。だが、その『しばらく』はあくまでフリッツの体感であって、
「フリッツ?」
柔らかい声がくり返してすぐに、その化身の身体は大きく捻られて、想像を根底から覆すような温和な顔立ちがふり返った。あんまりにも予想とかけ離れた閑やかな眼差しと、豊かな自然を思わせるような純朴な顔つき。……なるほど、プロイセンが『田舎臭い』と言っていたのが、少しわかる気がした。
その視線が幾分か高いところをふわふわと漂ったあと、背後の下方に名前の持ち主がいたのだとたどり着いたようで、
「あ、彼が王太子?」
にこり、友好的な笑顔に変わった。背丈以外のなにもかもが、予想と違っていた。
「初めまして。ぼくはロシア」
身を屈めて、一気に詰められた距離感に怯んでしまう。いろんなことに面を食らって、うまく言葉が出て来なかった。
「す、すると、あなたがプロイセンと同類の、」
「おいおいフリッツ、こんな顔でも一応客人だぜ? 握手くらい返せよ」
「あっ」
言われて見下ろせば、本当に目下に手のひらがある。慌ててその大きな手のひらを自分の小さいもので握り返したが、それが離れるとロシアの化身は笑顔のままプロイセンに向き返った。
「もう、君のほうがよほど失礼だよ〜? 気にしないでね殿下。他の人は怒ってなにか条約とかあったら破談しちゃうかもしれないけど、ぼくは気にしないよ」
にこにこ笑っている。笑っているのに、背筋に感じているこの寒々しい感覚はいったいなんだろうか。恐ろしく寒い国の化身だから、それを前にしたときにこんなに冷えを感じてしまうのだろうか。それとも大国の化身ゆえの、威圧感だろうか。
白銀ではまったくなく、むしろ白金といった風の毛髪の色。隣に並んで「お前なあ……」と、なにかを咎めているプロイセンとは、よく似合いだった。
楽しそうなプロイセン。昨日見て受けた印象ともどこか違う、また別のプロイセンがそこで、ロシアの化身と並んでいた。
「じゃぼくは一旦行くね。殿下、また昼食の席で」
いっそう笑みを深めた大国の化身は、すぐにプロイセンに目配せをすると、二・三ごにょごにょと言葉を紡いだ。……ごにょごにょと聞こえたのは、フリッツは知らない言語だったからだ。ほとんど母国語のように育ったフランス語や、聞きかじったことがある程度だが、触れる機会もあったロシア語なら、おそらくだいたいはわかっただろう。けれど、そんなフリッツでもまったくわからなかったのだから、そう言った言語ではないはずだ。その内容に見当もつかなかった。
そして不思議なことに、それに対する返事をプロイセンはしなかった。むしろ、返事をする暇さえなく、ロシアは踵を返して、楽しそうに歩き出していた。今、交わされた……というには、一工程足りない気もするが、交わされた会話はいったいなんだったのだろう。
他のロシアからの使者たちに混ざり、荷物を移動させ始めたロシアの化身を、フリッツは目で追っていた。……目で追い、そのあと、プロイセンも目で追っていたのだと気づいた。その眼差しは、やはり見たこともないような、新たなものだった。……今、プロイセンはどんな胸中なのだろう。忖度しようとしばらく顔を見上げていたが、ついぞわからぬままだった。
「なあプロイセン。ロシアの化身は最後になんて言ったんだ?」
話しかけてようやく、プロイセンの視線はフリッツに移動する。
「……あー、うーん……。まあ、ちいと伝言だな」
また歯切れの悪い返答だ。……国の化身同士だから、人間に知られてはならない情報交換でもあるのだろうか。
歩き去っていく、大きな化身。それを名残惜しそうに見ているプロイセン。……やはり、昨晩楽しみだとプロイセンが言っていたのは、『外交が好き』とか、そういうものではないのだ。正解は『客人を気に入っている』のほうだ。すぐにわかる。
「――プロイセン」
「おう」
「あの化身、ほしいぞ」
ぎゅっとプロイセンの手を握る。
深く考えずに、浮かんだ言葉をそのまま零していた。プロイセンにそんな眼差しを向けさせる相手。まだまだ大国とはほど遠いこの国の化身だからこそ、きっと羨望のようなものもあるのだろう。フリッツの勝手な憶測だが、少しもやもやとしてしまった。ならば、プロイセンをあの大国をも凌駕するほどの大国にしてやらねばならない。自分が将来、その手でそれを叶えられる立場にあるのだと、しっかりと自覚していた。
「おお?」
考えなしに漏らした言葉に、プロイセンは勝ち気な笑みを現してくれる。そんなことにどれだけ安堵させられたか。
「お前が大きくなって強い王になったら、叶えられるかもしれねえぜ。期待してるぜ、未来の我が王」
フリッツも思わず頬が綻んでしまった。
プロイセンの暖かな手のひらが、フリッツの頭をわしわしと撫でて回る。ただし、今回は来客に合わせて整えた頭髪にはちゃんと考慮されて、程度は昨日よりも優しかった。
プロイセンがかけたその発破は、なんとも上手にフリッツの心を奮い立たせ、またくすぐった。
「――ああもう、いったいなんなんだ!」
それからあまり時間は経っていなかったのではと、フリッツは思う。昼食会の準備が使用人たちにより手際よく進められ、テーブルセットはもうとうの昔に終わっていた。客人も揃ったことだしと、予定していた時間よりも幾分か早まったが、その昼食会は催される運びとなった。客人たち、父、自分、そして化身や重臣など……十数名で囲える食卓で、フリッツはすでに指示された席に大人しく座っていた。先ほどまでは、ほかの面々も揃っていたのだ。――プロイセン、ロシア、両国の化身を除いて。
まずは客人側の数名がそわそわしていることに気づき、その様子のまま数名が席を立った。それから、父も使用人にいくつか伝言をして、しばらくして使用人に呼び出されて席を立った。
気づけばあっという間にフリッツは食卓で一人だ。……テーブルの上に並ぶ食器は、ここに住んでいるというのにあまり見ない、高級そうな装飾を施されている。暇を潰すためでも、伝染したそわそわした心持ちを落ち着かせるためでもあったが、その装飾を指でなぞり、注意深く観察していた。……そこでだ、廊下から、先のような父の怒声が聞こえたのは。
「――ああもう、いったいなんなんだ!」
元々すぐ激昂する父なので珍しくもないが、下手をしたら客人たちにも聞かれる状況だ。だというのに、抑えられずに声を張っているのだから、よほどのことがあったのかと、思わずその足が廊下に向けて動いていた。
恐る恐る顔を出すと、やはり苛々に任せて身体を揺する父が、そこでぶつぶつと文句を垂れている。
「ち、父上、どうかされましたか?」
思い切って声をかけると、その姿は乱暴な動きでふり返り、
「ああ、フリッツか! プロイセンが見当たらない!」
「……え?」
鬼のような形相で迫った。
「聞けばロシアの化身もというではないか! こんな大事な席だというのに、勝手なことをしおって! いったいなにを考えてるんだ化身たちは! フリッツ、お前も心当たりがあれば探してきなさい! もう昼食会の準備はできているんだ!」
「え……あ、はいっ」
急かされるがままに走り出したフリッツに、じわ、と冷や汗が吹き出す。叱責されているのは自分ではないと頭では理解していても、ぐるぐると気持ちが渦を巻いて、焦りがどんどん心拍数を上げていく。一刻も早く化身たちを見つけなければ。
父の勢いに思わず飛び出してしまったが、周りを見ていれば見当くらいはついた。どうやら使用人たちは王宮の中を探しているようだ。ロシアからの客人も、地の利がないので王宮の内部を中心に、外部に出ても、周りの庭園を捜索するのがせいぜいだろう。……建物から少し離れた場所、例えば裏庭などは、捜索されてないのではないかと目星をつける。
いつもよりも美しい召し物をしていたことも忘れて、ためらいなく裏庭の方角へ駆け出していく。慣れない靴で芝生を踏み潰す感触が、足の裏から伝わる。いつも履いている稽古用の靴よりも、見てくれを優先しているためか、薄い素材のようだ。しげしげと芝生の上を早歩きで裏庭を横切り、二人の影がないと確信すると、さらにその向こうへと歩を進めた。
この先は、冬支度用の倉がある。冬を越すために食料や薪などを蓄えておく小屋だ。ほとんどの貯蔵品は王宮の中に貯蔵されるが、そこに入りきれないものはその倉に蓄えられる。……大きなビール樽とかもそうだ。この季節、暖かくなってきたからには人の出入りは減っていたが、まだ冬のために蓄えたもろもろが残っているはずの時期だ。……つまり、倉は解放されている。
実はフリッツ自身、父の仕打ちに耐えられずにここへ逃げ込み、身を隠したことが何度かあるので、よく知っていた。ここには、人が身を隠せるほどの余裕が十分にあるということを。……化身たちがそんなところでなにをしてるんだと聞かれれば、それはまったくを持って見当もつかないが、とにかく姿が見えないのだから、どこでも探してみるべきだろう。
辺りをキョロキョロと見回しながら、迷いなく突き進む。王宮のほうも何度かふり返り、万が一にでも化身たちが見つかったという合図が、なんらかの形で出ていないかと確認はしていた。……だが、目立った異変はない。
しばらくして、高い木々の向こうに、その倉の屋根がいくつか見えてくる。裏庭と練兵場をそれぞれの区画として分けるために、猫の額ほどの面積だが、青々と茂った木々や藪といった緑地が敷かれている。そしてその緑地と練兵場の間を縫うように、それらの倉は建っていた。もう間もなく、倉の入り口が見える。
緑地と言っても、皆が散歩にも利用する場所だ。砂利ではあるが、しっかりとした歩道は整えられている。薄い素材の靴でその砂利を踏み固めながら、フリッツは一番手前の倉に歩み寄った。倉の扉はドアノブがついているようなものではなく、古い木製の閂を取りつける種類のものだ。中から閉ざせるものではないので、扉がしっかりと閉じられているのを確認してから、そこに耳をつけた。ほぼあり得ないことだが、念のために中から話し声が聞こえないかと息を止める。――案の定、中からは物音一つ響いて来ない。
二つ目の倉、三つ目の倉……そうして、四つ目の倉に目標を据えたときだった。フリッツはようやく違和感に気がついた。――四つ目の倉の扉が、少し開いていた。閂は外されていて、近くには見当たらない。もしかすると、倉の中かもしれない。
……自身の予感が当たったのだろうかと、忍び足で倉に近づいた。やましいことはなにもなく、ただ昼食会に遅れている化身を探しにきただけなのだが、どうしてここまで身構えているのか、フリッツ本人にもよくわからなかった。
ただ、忍び足で近づくにつれて、確かな気配を感じる。……やはり、この倉の中には誰かがいる。……化身かどうかまではまだ確証は持てないが……――話し声? 足がぴたりと止まり、たちまち聴覚が研ぎ澄まされた。中から微かに音が聞こえている。そのままの足つきで、フリッツは倉の扉に張りつき、中の様子を窺おうと身を乗り出した。
「っはっ、ロシア、待てっ、待てって……!」
ドク。身体を貫くような心搏が叩き、足がすくむ。終いには中を覗くことなく、その独特な声と、それによって呼ばれた名前ですぐに理解してしまった。中にいるのは、プロイセンとロシアの化身で間違いはない。
「もっ、はじ、まるだろ……⁉︎」
「君ったら心配性だね……まだ、大丈夫だよ……っ」
頭が真っ白になる。元々思い描いていたものより幾分も柔らかかったが、それ以上に甘ったるくなっている声が重なる。潜めるように交わしてはいるが、そのため、不自然な布ずれの音も、そこに混ざり込んでよく聞こえた。
「でもっ、ンン、こらっ、おい……!」
「ふふ、かわいい」
「かっこいいの、間違いっだ! いい加減にしろ!」
この息遣いに覚えがあった。思わずその場から走り出してしまったほどの衝撃だ。がさがさと踏み潰される芝生には、もはや気を取られている余裕すらない。
どうしても二人のやりとりが自分の父母と重なってしまった。あんなに優美で逞しいはずのプロイセンの声調が、よくわからない気持ちにさせる母の声と同じ声色になっている。一度そう感じてしまうと、もうその思考を拭い去ることができない。湧き上がるこのおどろおどろとした感情の塊は、いつもそういうことに遭遇してしまったときに起こる、胸の不快感と酷似している。
――なんなんだ、あれは。ロシアの化身は、我が国の大事な化身に、父のようなことをしているのか? 幼い脳みそがフル回転してぐるぐると巡る。その他の可能性がないかを探ってはみたものの、ときは既に遅く、植えついた印象を変えることは非常に難しかった。ロシアの化身は、大切なプロイセンを、我が物にしようとしているのか。……あるいは――?
『まあ、少なくとも、傷つけられてはいないと思うぜ。安心しろ』
『ありゃ、愛情表現ってやつだ』
風のように過ぎ去っていく景色の中で、昨晩聞いた、プロイセンの温かい声が鼓膜に蘇る。
『あれは夫婦が円満な証拠っつうか、お前の父上と母上が仲がいい証拠みたいなもんだから……』
――そうか。プロイセンは、夫婦が円満な証拠と言っていた。つまり、プロイセンとロシアは夫婦……? そうだ。だから昨晩、プロイセンは今日が楽しみだと漏らしたのだ。そうか、ロシアの化身に会うことができるから、楽しみだったのだ。……なんとか自分を納得させようとした。
表の庭園ほど広くはない裏庭をかき分け、ついに王宮に戻ってきていた。……全速力で走ったお陰で息がかなり上がってしまい、しばらくまともに言葉を発せられない状態になったほどだ。
先ほど、フリッツが居合わせた二人の会話を思い出してもそう。ロシアとプロイセンの化身は、それぞれできっと相手のことを想っている。……プロイセンが伝言だと苦笑していた、ロシアの化身が発した言語不明の言葉も、二人の関係をフリッツに悟らせないためだったのだ。いち早く理解したのは、二人はなんらかの事情があって周囲に関係を隠していることだ。フリッツにはまだよくわからないが、おそらく他国との外交の関係などもあるのだろう、二人は互いのことを明かすことができず、ああやってたまの逢瀬を楽しんでいる……。だが、プロイセンもロシアも、それぞれ国の化身だ。……国民の総意により具現化されているらしい彼ら化身が、彼ら自身の独立した意志を持っているということなのだろうか……。そもそも人間の形をしている時点で、フリッツにはまだよく自分たちとの差異がわからなかった。
結局、昼食の席に戻っても二人のことを打ち明けることはできなかった。仕方なく化身抜きで開催されることとなり、すべてを完食するまでに、二人の化身が戻ることはなかった。……もちろん、当初予定していた時刻からしても遅刻だ。
フリッツは度々、料理の運ばれてくることのない空の食器を眺めては、化身たちの話もゆっくりと聞きたかったなあと惜しむ気持ちが湧いていた。その端から先ほど聞いてしまった、熱のこもった囁きを思い出し、決まりが悪くなっていたのだが。
化身たちがともに戻ったときは、既にデザートまで終えて、それぞれに動き出したところだった。ほとんどのロシア側の客人たちは各々の部屋に向かったあとで、その光景を目の当たりにした二人の青ざめようときたら、またしても、なかなかお目にかかれるものではない珍しいものだった。ほとんど人がいなくなった広間の廊下に立たされ、父からどやされている二人の化身の姿は、テーブルに座ったままのフリッツからはよく見えた。扉の隙間からそれを捉え、気づいたことがある。顔面蒼白していたのはプロイセンだけで、ロシアの化身はずっと、どこか上機嫌さを隠しきれていなかった。
プロイセンはああいうことをしている父母のことを『子どもが何人いりゃ〜』と言っていた。……つまり、このままいけば、いつかプロイセンとロシアの間に子が生まれるのだろうか。それとも、化身は子は産まないのだろうか。――否、そもそも二人は男性同士だ。そういえばフリッツは、男性同士の夫婦を見たことがなかったことに気がついた。……夫婦といえば、自分もまずは男女を思い浮かべていたのだと、開眼させられたように自覚した。
「ったく、なぜ寄りにも寄って今日なんだ! こんなことは初めてだろう⁉︎ いったいどういう気まぐれだ⁉︎ 客人だからと浮かれ過ぎてはいないか! 軽率だ! 見損なったぞプロイセン!」
未だにテーブルに座ったままのフリッツは、それをなんとなく見ていた。プロイセンの数歩後ろに控えるロシアの化身は、俯いて父から隠してはいるが、やはり少し嬉しそうだった。フリッツからはしっかり見えており、反省の色も罪悪感も含んでいるようには思えない。……否、それはプロイセンも同じだ。そこにあったのは反省などではまったくなく、むしろぶすくれて、まるで理不尽を受け入れられないと言った目つきだった。こんな顔を見てしまっては、若い兵と大差ないなと、また一歩近いところにプロイセンを感じた。……とは言ったものの、本当にただの若い兵だったらば、父の激昂はこれほどのもので治まりはしなかっただろうが。
「――゛あ゛あ。お前のせいだからな、クソ!」
ずがずがと廊下を踏み鳴らしながら父が去ったあと。そこに残されたプロイセンは真っ先にふり返り、ロシアの胸ぐらを掴んで抗議していた。フリッツも初めて見るほどにプロイセンは感情を剥き出しにしていた。だが、それにも動じることなく、「ごめんねえ?」と緊張感の欠片もない声でロシアはあしらうばかりだ。……やはり二人は、仲がいいのだろう。そう言い聞かせてはいるものの、先ほどの会話からして、時間を気にしていたプロイセンに、ロシアが無理を通していたのは拭いようのない事実だった。それでプロイセンだけがお咎めを食らったことが、少しばかし面白くない。……本当にプロイセンは望んでロシアと夫婦なのか。自国の、ましてや将来自分が統べるようになる国の、大切な化身のことだ。まだまだ親心と言うには幼すぎるこの感情は、弟心くらいにしておこうか。フリッツの中に静かに息づく、その弟心がむずむずと歯がゆさを感じさせた。
座っていた椅子から下りて、プロイセンが声を荒げる二人の元へ急いで向かった。もうこの昼食会の会場になった広間にも、周辺の廊下にも、人の影はなくなっていた。向こうのほうでは後片づけに勤しむ使用人たちが走り回っていたが、こちらへやってくる気配はない。
二人の間近でそこまで確認したというのに、二人のほうへ視線を向けても、大きな化身たちはフリッツに気づく様子はない。
「お前のそういうところだよ! 自由すぎんだいつもいつも!」
「うん、ごめんってば……だって、ぼくたち何年ぶりに会えたと思ってるの?」
「だからってお前、そんな節操なしの動物みてえな――」
「――あの、失礼、」
まだ背丈が彼らの半分くらいしかないフリッツは、意を決して二人に声をかけた。こうでもしないと、目の前の痴話喧嘩は収束しそうもなかった。
「うああ⁉︎ フリッ……⁉︎」
「あら、」
飛び上がるように声を張ったプロイセンと、静かに感嘆したロシアの化身とでは、やはりどこか調子が違う。
「お、おおう……ふ、フリッツ……」
明らかに動揺するプロイセンだ。観念したように深くため息を漏らすと、
「お前にも悪かったな……その、昼食すっぽかして」
自分から誘っておいてこのざまだもんな、と自嘲して付け加えてはいるが、すぐにその目つきが鋭くなり、「そもそもこいつが!」とまたロシアの横腹を殴る真似をして見せた。それにもロシアは「えへへ」と照れるばかりだ。……この気持ちをなんと呼ぼうか、フリッツはほんの少しの苛立ちとともに、確証を得てしまった。
「二人は、夫婦なのか?」
隠すことなく、その問いをぶつけてやった。
「……は?」
二人の目が、明らかに点になる。今回はロシアも同じ反応をした。二人があまりにも同じ顔で見合わせるものだから、
「二人は、その、結婚しているのか?」
だめ押しで言葉を変えてやった。
はあっと先ほどのため息よりも大きな息の塊を吸い込んで、
「はっ、な、なに言ってんだお前え⁉︎」
戻ってきたのは思わず後ずさるような鬼気迫る形相のプロイセンだ。造形の美しいこの化身が見せた表情は、なかなかに迫力がある。
「だ、だって、プロイセン。……その……は、母上が出すような声を……出していたから……!」
実際に耐えられず一歩だけ後ろに足を引きながら、どうしてこんな質問をしたのかと言い訳が恐々と並ぶ。ロシアの間の抜けた「まあ」という声に続き、プロイセンは肩を掴んでさらに迫った。
「は、は、母上が出すような声えええ!? もっ、もっぺん言ってみろ!!」
「だから、母上が出すような、」
「言うな!!」
「まあまあ、」
ようやくロシアがプロイセンを引き剥がすも、プロイセンが「あああ」と頭を抱えたことで、触れてはならないところだったかとやっと気づく。だがなぜそれを隠すのかをそもそも理解していないフリッツは、どう言い繕えばいいのかわからない。焦っている間に、プロイセンが抱えていた頭を上げ、隠れる場所もなく目が合った。宝石のような瞳がじっとフリッツを見下ろし、それによりさらに萎縮して、思考ごと真っ白になる。
「――お、おい、フリッツ。お前、み、見てたってこと……か……?」
静まり返っていた廊下に、ようやく音が落ちる。フリッツへの投げかけだったそれを拾い上げ、
「ああ……探しに行ったときに……びっくりして、声をかけられなかった……すまない……」
丁寧に返事をした。
「ま、まじかよ……」
完全に肩を落としたプロイセンだ。また頭を抱え直したことで、視線の行き場を失くしたフリッツは、その後ろでただプロイセンを見ていたロシアと目が合った。心配そうにしていたものの、フリッツと目を合わせるや否や、にこりと人のいい笑顔を浮かべた。プロイセンとの温度差が、どうしてもなくならない。
……そもそもフリッツだって、望んで目撃してしまったわけではないのだ。むしろ、兄のように慕い始めていたプロイセンのこんな一面なぞ、誰が望んで見ようと思うことだろうか。まして、まさか相手があの大国ロシアの化身だなどと。
ふ、と、なんとも軽快にプロイセンの顔が持ち上がった。
どきりと身体が緊張したのは、プロイセンがまたまっすぐに自分を見ていたからだ。しかしそれまでとは打って変わり、なんとも清々しいまでの笑顔を浮かべていた。いつもの、勝ち気で、少し高飛車とも取れるその笑みだ。
それがフリッツのほうへ歩み寄ると、膝をついて目線を合わせた。
「いいかフリッツ。お前は勘違いをしている」
なんの迷いもなくそう言い放った。その声にすら迷いがない。
「か、勘違い?」
「そうだ。こんなに強くてかっこいい俺様が、こんな田舎くさい野郎と、ふ、夫婦なわけねえだろ? よく見ろ」
言われるがままに後ろに控えるロシアの化身を見たが、先ほどまでとまったく変化がなく、ただ静かににこにこと笑っていた。よほどの信頼関係なのだろうか、余裕綽々だなと勘繰ってしまったほどだ。その笑みの奥の真意がどうにも読み取れず困惑し、だが、それが真意を読み取らせないための笑顔だと気づいてからは、ぞっと寒気が襲った。
「えっと……その……そ、そうなのか……? 二人はとても仲が良さそ、」
「それも勘違いッ!」
間髪入れずに全否定された。……いいな? と付け加えるものだから、逆に察しろと迫られていることが伝わった。……だが、やはりなぜここまで頑ななのか理解ができていないままだ。食われそうなほどに獰猛な目つきになったプロイセンに迫られ、さらにもう一度「いいな」と追い打ちをかけられる。まだ子どもであるフリッツにはなす術なく、ただ必死に首を縦に振り回すしか逃げ道が思いつかなかった。
「――よし、」
どうにかこうにか納得してくれたらしく、
「わかりゃいいんだ、わかりゃ」
唐突にその視線から攻撃的な色が消えた。安堵する暇もなく、代わりにわしわしと頭を撫でる感触に思わず目を瞑った。その間にプロイセンは立ち上がっていたらしく、次に視界を上げたときには、もう何事もなかったかのように笑っていた。
今の今まで関係を全否定していたというのに、なんとも自然な仕草でロシアの隣に並び、「よおし、腹減ったな」となんのためらいもなく笑みを零す。元々それほどなかったが、その行動により説得力の一切が消え去った。なんだやっぱり隠しているだけじゃないかと腑に落ちない心地だ。
「ぼくもお腹空いちゃった」
「ばか、お前にはなんもやらねえぞ。ったく、誰のせいでご馳走食いそびれたと思ってんだ」
目前で夫婦然とした会話は続いていく。……いや、これまでの経緯を知らなければそうは感じなかっただろうが、無理に迫られたところで自分が遭遇した光景までは拭い去れない。二人の化身がまた小競り合いを始めたが、やはり肩を寄せ合っているその光景には、甚だ納得がいかなくなってしまった。
「――なんだね、騒がしい」
なんの前触れもなく、フリッツの背後から父の声が聞こえた。
「う、ヴィルヘルム……、」
明らかにプロイセンの顔が強張った。
「ちょっとプロイセン、来たまえ。お前に仕事だ。ロシアの化身様は、どうぞお部屋へ」
「え、あ……わかった」
「はーい」
だが、ある意味では期待はずれというのか、思っていたものと違う話題だったらしい。言われるがままにいそいそと父の後を追ったプロイセンは、緊張感が抜けたようで、また隠すこともなくロシアの化身に目配せをしていた。そしてその化身――フリッツの隣に立つその男からは「ふふ、はいはい」と楽しそうな笑みが漏れていた。
今の目配せだけで、この化身はプロイセンが言いたかったことがわかったというのだ。いったいプロイセンはなにを伝えたのかと気になったが、それよりもやはり、互いのことを深く理解し合っているんだなあと見せつけられた気分だ。
「――『変なこと言うなよ』って」
「ん?」
「さっきのプロイセンくんの目、たぶん、そう言ってた」
まるで花が咲いているようだった。揺れてフリッツに向いたロシアの化身の笑みは、そんな印象を持たせる。プロイセンが『田舎臭い』と揶揄するのは、実はこういう側面もあるからではないのだろうか。
「ぼくのこと、そんなに気になる?」
「あ! すまない、そんなつもりじゃ、」
観察するように見ていたのだと気づいたのは、そう言われてからだった。
「変なことって、どんなことだろうね?」
心地がよく、柔らかい声遣い。……これがあの大国ロシアの化身なのかと、改めて実感していた。もっと粗暴で、横柄な態度を取るような化身だろうと思っていたのだが……肩を竦めて小さく笑う姿は、そんな想像とは程遠い。
「ぼくとプロイセンくんはね、幼馴染なんだよ」
「幼馴染?」
その柔らかい話し方は変わらなかった。遠い思い出の中からたぐり寄せるようにゆっくりとした言葉つきは、すぐにフリッツを釘づけにする。
「うん。彼がまだドイツ騎士団って名前で、ぼくがまだノヴゴロドって名前だったときからのお付き合い」
「……へえ。それは、長いのか?」
「そうだね。もうかれこれ五百年くらいになるんじゃないかなあ」
ふらりとまたその視線がフリッツのほうへ向いた。五百年、という言葉を楽しそうに教えたロシアは、見ていても心地の良い笑顔を浮かべている。
「ごひゃ……⁉︎ や、やはり、化身同士の付き合いともなると、想像がな……」
「はは、そうだね。想像は難しいよね」
ロシアは笑うことを止めなかった。大柄ではあるが、まだ幼さの残る顔つき。今日初めて会ったはずなのに、懐かしいと思ってしまうのは、我が国の化身であるプロイセンの中に、この姿が刻み込まれているからだろうか。
「プロイセンくんは当時から傍若無人で怖いもの知らずでね、ぼく、そのときは今よりずっと弱虫だったから、彼に憧れてたんだあ」
……あ、とフリッツは悟った。ロシアが湛えるこの笑みに、見覚えがあったことを思い出したからだ。
「ちょっと落ち着かないところもあったけど、」
これは、なんと例えていいのかわからない気持ちにさせた、昨晩、プロイセンが見せた笑みによく似ていた。
「プロイセンくん、かっこよかったんだよ」
「……それは、私も知っている」
「うん……そうだね」
互いのことを思い浮かべて、こんなにも無垢な感情を零す二人の化身。十歳のフリッツには、彼らを理解するための言葉を持ち合わせていなかった。……だが、心が満たされて、溢れて、苦しくなるようなこの心地だけは、忘れてはならないとすぐにわかった。
父母の間でも、一度もこんな表情は見たことがない。つまり、やはりプロイセンとロシアは『夫婦』とも違うのだろう。……だがきっと、それは〝それを超える〟間柄に違いなかった。……人間には到達できないのかもしれない。それでも将来、誰かとこんな風になれたなら……どれだけ心が豊かになるのだろうか。
二人が肩を並べて笑っていた光景を思い出す。そしてそれは、必ずしも性別は関係のないものなのだ。
「――そうか、」
「うん?」
フリッツの中で、一つ小さな芽吹きがあった。
「なにも、人生の伴侶は女でなくともいいってことだな」
「ん?」
見ていたロシアの化身の顔つきが、少し苦味を増した気もするが、
「ちょうどいい、姉さん以外の女性は嫌いだと思っていた。姉さんを妃にできないなら、伴侶足り得る男性でもいいというわけか」
「ええっと……ちょっと待って?」
そのあと大国ロシアの化身に、男女の間柄でないと後継が生まれないなどの話を聞かされることになったのは、誰が想像しただろうか。だが、もうフリッツの胸中に根づいた二つの化身の笑顔は、この先、形を変えながらも、しっかりと育っていくことになるのだ。
*
「――ところで、」
いつの間にか打ち解け合っていた、小さな王太子と大きな国の化身。声を改めたフリッツは、ロシアを逃さぬようにしっかりと見据えた。
「プロイセンは我が国の大切な化身だからな。私が玉座に就いた暁には、好き放題はさせぬから、覚悟しておくように」
よく言い聞かせるように告げたつもりだったのだが、
「へえ……。ふふ、望むところです。未来の王サマ」
それはどうやら、宣戦布告と捉えられていたようだ。
おしまい