虹の向こう
今日もようやく日が沈んでくれた。特に大事でもない仕事用の鞄を抱え、電車の隅っこに立ってスマートフォンをそれとなく操作する。電車の揺れのせいで雑に作られた鞄の生地が時々頬に擦れるけど、そんなことよりも画面に夢中になって覗き込んでいた。
これはぼくの日課だ。仕事にでかけて、それを卒なくこなすことよりも、よほど大事にしている日課と言ってもいい。ぼくには大好きな、大切な、そして、本当はできることなら片時も離れたくない人がいる。ぼくの勘違いや妄想でなければ、その人も、ぼくと同じ気持ちでいてくれているはずではあるのだけど。……その人が毎日欠かさずに続けている日課があるから、ぼくも欠かさずに続けられる日課を持っていた。
――あ、もう更新している。
そう、大好きな彼が、毎日毎日、律儀に更新している日記代わりのブログを覗くこと。それが、ぼくが仕事をこなすよりも大事にしている日課だった。
端末を持ち直すように顔を近づけて、画面いっぱいに表示されている文字の数々を目で追う。
外はすっかり真っ暗になっているから、窓に反射して映るのは、ぼくの嬉しそうでだらしのない顔だ。なんでか自分でもわからないのだけど、ぼくは彼がこのブログを更新していることを確認しただけで、いつも嬉しい気持ちになってしまう。……今日、彼はどんな一日を過ごしたのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい、変な意味はなく本当にただ純粋に、彼がまだ、こうやってブログを更新したいと思える世界にいることが、この上なく嬉しく思えていたのだ。
ぼくはそのブログの内容を目で追っていく。いつもと同じような、取り留めのないこと。愛犬が散歩中に必ず寄り道したがるコースができた、とか。どうして毎日片づけをしているはずなのに、埃は溜まっていくのだろう、とか。本当に、どうしようもなく取り留めのないことばかりだった。
だけど、ぼくの頬はさらにゆるゆると緩んでいく。実はこのブログの更新それそのものが、ぼくたちの間では一つの合図になっていた。――このブログを投稿したあとはもう部屋にこもるから、それ以降ならいつ連絡してもいい――これはぼくにしかわからない、彼からの可愛い合図だ。
「……あれ、」
けれど、ぼくは今日のブログ記事の最後に、普段は見かけない記号の羅列を発見する。
このブログの投稿それそのものがぼくたちの間では合図になってはいるのだけど、そこからさらに「―」「・」という記号で(いわゆるモールス信号的あれで)、特別に暗号が付記されていることがある。本当にたまになんだけど。……しかも、他のだれにも解読されないように、わざわざ日付で使うパターンまで変える徹底ぶり。……あまりにも手の込んだことが大好きな彼らしくて、ぼくはそんなめんどくさいところも可愛げがあって大好きだったりする。ぼく以外には伝わってほしくない言葉、だけど、ぼくにだけは伝わってほしい言葉。こんなの、嫌いになれるわけがないじゃない……だからもちろん「メールのほうが早くない?」とは決して言わないのだ。
さて、その短い文字列の読解に着手する。今日の日付と曜日を思い浮かべ、そうか、今日はパターンБで書いている日か、と思い至り、改めて彼の付記した記号と向き合う。
――『は』『や』『く』『し』『ろ』
思わず首を傾げた。合わせてがたん、と車体が少し揺れる。
彼の暗号の意味はぼくを急かすような内容だったにも関わらず、何を急かしているのかがさっぱり記載されていない。彼はいったいぼくに何を急いでほしいのだろうか……と、端末を一旦視界から外して考える。目前で文字を流していく電光掲示板を見れば、ぼくが降りなければならない駅は、もう間もなくの到着だということがわかった。
それはさておき、いつも通りならば、ぼくは彼のブログの記事が更新されているのを確認したのち、家に帰り着いて一段落してから、そこでようやく彼に電話の一本を入れている。だけど今日は、何かを急かされているらしい。……家に帰るなんて待っていられない、駅を出たらすぐにでも電話をしてみようと思うには、十分な伝言だった。……彼に何かあったのだろうか。ぼくに会えないのが恋しくて泣いちゃっていたら可愛いのにな、と気が緩んだところで、なぜかぼくの涙腺まで緩んでしまった。……考えないようにしていたけど、ぼくだって彼に会えないのは泣きたいくらいには寂しいのだ。……けど、もうお互い駄々をこね合う子どもでもないから。
とにかく慌てることなんてないのに急いで改札を抜けて、ぼくはネオン輝く繁華街へ駆け出しながら、早速スマートフォンで彼の声を聞くための操作を始めた。歩き慣れた道だ、本当は立ち止まって操作をしないといけないのをわかっていながら、一刻も早く喧騒から逃げ出して静かに彼の声を聴きたかったから、小走りのまま小さなアイコンをなんとか押さえていく。ひょこひょこと動きを伴うので、うまく触りたい部分に触れられなかったりともどかしい思いをしながらも、やっとの思いでぼくは、大好きな彼の呼び出し画面にたどり着いた。
タッチパネルが頬に触れたせいで通話を切断してしまうという前科を持っていたぼくは、少し肌から離してそれを耳元に構えた。そうしてようやく、ぼくは見飽きるほどに見慣れたネオンの町並みに顔を上げた。
「――おう、遅えじゃねえか」
「……え?」
受話器から聞こえたにしては、やけに鮮明に溢れた感情の渦に動揺した。まるで近くで囁かれたような、直接的な空気の揺れの中に、ぼくはそのシルエットを捉える。初めは笑えるくらいに理解ができていなかったのだけど、
「……え? ぷ、プロイセンくん?」
その形のよいシルエットはまるで虹色の光に縁取りされて、面倒臭そうに立ち上がってぼくを見やった。
まったく理解ができない。だけど、理解なんて必要なかった。
「……プロイセンくんッ!」
何を考えるよりも先に端末を鞄の中に投げ込んで、そのままぼくはそのシルエット目がけて全力疾走をしていた。こんな嬉しいことってない。次はいつ彼と会えるだろうと思っていたのは、つい昨日のことだ。……いや、今日だって思っていた。そんな彼が、まるでぼくを驚かせてくれるように悪い顔で笑って、ぼくが飛び込んだのを抱き止めてくれたのだ。
「あ~~ッ!」
「おわっ、おま、ちょっ落ち着けよッ! でっかい犬か!」
そうやってケセセと笑うから、ぼくが力いっぱいに抱きしめることに対して彼も満更ではない。そんな実感すらも嬉しくて、ぼくはついつい何度も抱き直しては声を上げてしまう。
「やだやだ、なんでッ! わかってたら花束でも準備して待ってたのに!」
「はあ? 花束なんていらねえって毎回言ってんだろ!」
ぼくが人前で抱きしめても嫌がらない彼は、目を細めるようにして笑ってみせた。宥めるために触れる手は柔らかく、優しくて……そして、少し冷えていた。マフラーをするほど寒くなる季節ではない、息だって白くはならないこの季節だというのに、彼の指先は少しだけ冷えていた。……それだけでもない、こんなところで大はしゃぎをしていたら、まず真っ先にがみがみと鉄槌を下す彼が、嫌がらずにぼくに笑いかけてくれている。……これが何を意味するのか、実はぼくはなんとなくだけどわかっていた。
「えへへ、今日はどうしたの、急に。お休みが取れそうなんて一言も聞いてなかったけど」
わかっていながら、ぼくはそれがわからないふりをする。
きっと手を繋いでも今日は拒まれないだろうけど、いつもはひと目がなくなるまではと気にする彼だから、あえて手は繋がずに肩を並べた。そうしてぼくたちはゆっくりと家路を探す。頭上ばかりを照らしているネオンのせいで、足元を見ると少し不思議な浮遊感を覚えさせた。
「いや、別に。なんか時間空きそうだったから来てみただけ」
彼が空を見上げる。見ているのはギラギラした電装ではない、その隙間を縫うようにして輝いている星空のほうだった。……この辺りではまだあまりよくは見えないけど、ぼくの家の近くになると、もう少し彼らは楽しそうに瞬いてくれる。
「……それに、」
ふわり、と彼のいたずらな笑顔がぼくを捉えた。
「そろそろお前もこの俺様に会いたくなってる頃合いかと思ってな、ケセセ」
きれいに並んだ歯を見せて、きれいな色の瞳はくしゃりと潰れて、そんな彼らしい笑顔がぼくの心臓をぎゅっと掴む。一気に息苦しくなったことはなるべくばれないようにして、ぼくはぷっくりと頬を膨らませて見せた。
「もう、何を言ってるの? 『そろそろ』なんて。ぼくは『前回お別れした瞬間から』君に会いたかったんだからね!」
……これは二人の間の〝言わないお約束〟だっただろうか。反省しかけたところで、彼も誤魔化すように「それは流石に早すぎ!」と声を張って笑った。むしろ、彼が今日の今日まで会いたくならなかったなんて、そんなの信じられるわけがない。毎日内容のないブログを更新して、そうしてぼくに合図を送っている彼が、実は毎日ぼくという存在を感じてくれていることを、ぼくが一番よく知っている。……そう、ぼくだけが、知っている。
そういえば、今日のブログの更新時刻から考えて、彼はここモスクワで記事を書いたことになる。飛行機に数時間揺られて、それで、ぼくが帰るまでどこかで時間を潰していたとしたら、かなり疲れているはずだ。ぼくのお腹の虫もいい具合に自己主張をしていることだし、
「そうだ、」
「おう」
ぼくは必死で人の目を引こうとしているネオンの中に、それらしいものがないかと見回してみることにした。
「今日はもう疲れてるでしょ? 何かご飯買って帰ろうよ」
もちろんお互いの負担を考えての提案だったのだけど、
「あ、ええと、」
隣から何やら注目せねばならない雰囲気の声が聞こえた。
「実は昼過ぎに着いててさ、もう仕込み終わらせといた」
「……えっ」
合鍵を渡していたことはもちろん覚えているし、まめな彼のこと、夕飯の支度を終わらせてくれていたと聞けば、もちろんそんなに愕然とするほどの事実ではない。ないのだけど、それよりも彼が本当に照れくさそうに、耳まで真っ赤にしてそんなことをぼくに自己申告してくれるものだから、ぼくは思わず声を上げてしまった。
俺様はすごいから、夕飯の支度なんてとっくに終わらせてやったぜ! とか、この俺様がとっておきの夕飯を作っといてやったぜ! とか。……普段の彼なら、威張ってそういう風に伝えるはずなのに、今日の彼はそれをしない。……出会い頭にぼくが感じたように、今回の彼は〝いつもの〟彼と違うことは明らかだった。きっと、今回突発的に会いにきた理由も、いつもはもっと上手に奥のほうに隠してあるものだ。
……けれど、彼はぼくにそれを悟られたことを知りたくはないはずだ。余計な気を使われることも彼は嫌う。だからぼくはいつものように自分の気持ちに正直に、思ったままを伝えるため、
「やった! 今日はプロイセンくんの手料理が食べられるの!」
またプロイセンくんに力の限りに抱きついて踊った。
「はあ~! 一日がんばった甲斐があったよお!」
「わあ、お前、またっ」
少しネオンの減った道なり、周りを歩く人影も減っていた。彼がぼくをあやす指先の優しさは変わっていなかったけど、
「……ケセセ、お前なあ、こんなことではしゃぎすぎだろ」
その笑顔はようやく、ぼくが一番良く知っているいつもの笑顔に戻ってくれた。
彼の言っていた通り、自宅に戻ってからすぐに夕飯はぼくの目の前に並べられて、ぽかぽかと心の底からあたたまるそれらをいただいた。久しぶりに顔を突き合わせて食事をしているぼくらの間で会話は止まらなくて……主に、プロイセンくんがずっとぼくの仕事の話を聞いてくれて、適当にブラックジョークなんかを挟みながら、相槌を打ってくれていた。……別に無理をしていたわけではないけれど、どうしても溢れてくる言葉が止まらなくて、久しぶりにこんなにたくさんおしゃべりをした。……ような気がする。
「それでね、せっかく最後の書類だと思っていたのに、そのあと忘れてましたって、五十枚! 五十枚だよ! もう流石に勘弁してよおってぼく、情けない声出しちゃってね、」
「……おら、」
「ん?」
ぼくが大きく一口ブリヌイを頬張ったところで、プロイセンくんがぼくに紙ナプキンを突き出してきたから、思わず首を傾げてしまった。
「ああもう、お前な、しゃべるのはいいが落ち着けよ。またこぼしてんぞ、ほらって、」
改めて手を突き出され、ああそういうことかと目下に視線をやる。確かにテーブルクロスの上に、ブリヌイに乗せていたはずのイクラと歯型のついた塩漬けニシンの一切れが転がっていて、「えへへ」といたずらを隠すようにそれらを拾って彼を一瞥した。
「それで、その情けない声を出したせいで、また上司に小言でも言われたか?」
敢えて咎めることをせず、プロイセンくんも本人のブリヌイを上手く丸めてフォークで口に運び込む。
「……そ、そうなの! 『そんなことでロシアが務まるのか~』なんてね、そんな風に言うんだ」
それを見てぼく自身も食事を再開させる。今度こそイクラが〝脱走〟しないように念入りにフォークでさばいた。
「ケセセ、務まるも何も、お前以外にロシアになれるやつなんていねえのにな」
「まったくだよ! 代わってくれるなら、ぼくの全財産を差し出してでも代わってほしいくらいなのにね!」
「全財産って大見栄きって言うほどもねえだろ、ケセセ」
「えへへ、そうなんだけど」
また呼吸の合間を縫って口に食事を運んで、
「古いものならたくさんあるよ」
もぐもぐとお行儀悪く咀嚼しながら、単なる軽口を続けた。
簡単に示して見せたのはぼくの古い食器棚で、その中には食器に限らず今は名を馳せている職人たちが作ったいくつもの習作や、いつの間にかぼくの元に集まっていた骨董品なんかが、いろんなものに紛れて雑多に並んでいた。
プロイセンくんはそれをちら、と盗み見るだけで、それまでと同じ調子で、
「そんなの、今となっちゃ変人どもしか喜ばねえだろ、」
冗談めかした言い方だったけども、
「――俺様たちみたいな、な」
少しだけ寂しそうにそう付け加えた。
そう、あれら一つ一つにも、〝ぼくたち〟には思い出されるものがあって……思い出される笑顔があって、汗があって、涙があって。……けれども、現代にその真価を見出すには、それらはもう役に立たない『余計な感傷』でしかなくなってしまった。
「さて、」
かちゃり、と陶器のお皿が重なる音が響いてぼくは我に戻った。
いつの間にかプロイセンくんが二人分の食器を重ね始めていて、そしてぼくに見向きもせずに言うんだ。
「食い終わったことだし、俺様が片づけしとくから、お前はシャワーでも入ってきたらどうだ」
「……あ、うん……」
そそくさと背中を向けてしまった理由は、やっぱりなんとなくだけどわかってしまう。
「そうするよ。ありがとう」
だからぼくも彼に触れたい気持ちを、本当は胸が張り裂けそうなくらいに彼をぎゅって抱きしめたい気持ちを、ぼくも背中を向けることで押さえ込んで、彼の提案してくれた通りに浴室に向かった。
ぼくがシャワーを済ませている間に、きっと手際のいい彼はお皿洗いから、ぼくのスーツにアイロンをかけるところまで、思いつくすべてのことをこなしてくれるんだろうと思う。
バスタブに入り、シャワーカーテンを引いてから、予め温度を調整しておいたお湯を頭から一気に浴びた。ざあ、と鼓膜に流れ込む雑音は考えごとをするにはちょうどよかった。
彼が今回、何も言わずにぼくに会いに来たのは、本当に突発的――いや、『発作的』と言ったほうが意味としては合っている気もするのだけど――だったんだと確信を得ていた。唐突に耐えられなくなったんだ、きっと。何にって、それはもちろん、寂しさにだ。隠すつもりもない。……ぼくが彼に対して抱いているような寂しさと不安が綯い交ぜになったような、そんな寂寞は、静かにぼくらの心を蝕んでいくから。……だから、強がって見栄を張る彼は、自分に素直になって〝ぼくのために〟ぼくに会いに来てくれる。こんなに嬉しくて幸せなことはないはずなんだ。
ぼくはこういうときは、世話好きな彼のために『甘えん坊』に徹してあげるし、彼が思う存分ぼくの世話を焼けるように、少し長めにシャワーにも入っている。……でもこれは決して〝彼のため〟なんかではなくて、これは、〝ぼくたち二人のため〟だ。
……だって、彼に思う存分甘えたいぼくと、ぼくに思う存分甘えられたい彼だもの。それが互いの寂しさを埋めるなら、ぼくに後ろめたく思うことは何一つなく、ただただ、素直に彼とともにいたいという気持ちを伝えていくだけ。重荷になるとわかっていたって、ぼくはこの気持ちを伝えることを躊躇わない。むしろこの気持ちが、彼にとって重荷としての力を遺憾なく発揮してくれればいいとさえ思う。彼も心のどこかではそう願っているはずだと、ぼくは自分に言い聞かせてここまでやってきたんだ。
――シャワーから上がったぼくは、まず居間や台所の電気が消灯されていることに気が留まった。少し長めに入っていたとは言え、本当に流石プロイセンくんだ。ぼくはある程度身体を拭いたあと、タオルを腰に巻きつけた状態で寝室に向かった。思っていた通り、彼はそこでぼくを迎えてくれて、そのまま楽しそうにぼくの髪の毛をくしゃくしゃと乾かしてくれた。
その間、今度はプロイセンくんがたくさんを話した。ぼくの言葉はドライヤーを使う彼には聞き取りづらかったというのもあるけれど、ぼくはやっと彼が少しずつ解れてきたんだと思って嬉しくなった。……ぼくの髪の毛を乾かしながら、愛犬たちの毛並みの話題が多かったことは解せないところだけども、彼が楽しそうだったからよしとする。
それが終わると、ぼくはもう本来寝る前にやってしまうことのすべてが終わっていた。プロイセンくんは「明日も仕事だろ? 準備しとけよ」と残して、今度は本人がシャワーに向かったのだけど、準備するはずだったすべてを彼に奪われていたぼくは、ひどく手持ち無沙汰になった。とりあえず思いついたので歯磨きだけは終わらせておいたが、家の中を思い浮かべてみても、他に何かできることも浮かばない。
思っていた通り、自分では絶対に使わない、彼のためにおいてあると言っても過言ではないアイロンを使って、彼はスーツからネクタイ、靴下まできれいに皺を伸ばしてくれていたし、ぼくの仕事鞄から勝手に取り出して洗ってくれた弁当箱は、すでに食器洗い乾燥機の中に入っていた。それどころか、普段ぼくがやらないような翌朝のご飯の支度まで終わらせている始末で、結局ぼくは寝室のベッドの上、惰性で契約を続けている新聞を広げるくらいしか、することが残されていなかった。
ぼくのところに来て片づけや掃除に没頭できるのは、きっと彼にとっても楽しいことなのだと思う。も、もちろんぼくもわざと汚しているわけではないけれど、彼にとってここへ来ることは、ぼくにも会えるし、やることも尽きないという、そう、それはもう、きっと桃源郷にでも来るような心持ちに違いない……と、自分で思い浮かべて少し反省した。もう少し自分でもちゃんといろいろとやっていったほうがいいような気はしている。
その内、大して文字を追うこともなかった新聞紙の向こう側に、さっぱりと様子を変えたプロイセンくんが戻ってきた。彼はぼくと違ってすでに寝巻き代わりのスウェットを着用していて、それでもまだ乾いていない短い髪の毛をわしわしと拭っていた。
「……ぼくが乾かしてあげようか?」
新聞を畳みながら呼びかけると、プロイセンくんはふふ、と気が抜けたように頬を綻ばせて「別にいい」とだけ答えた。……そう、プロイセンくんはぼくには思う存分世話を焼くくせに、ぼくには一切世話を焼かせてはくれないのだ。……まあ、彼の髪の毛なら『乾かしてあげる』ほどもないのはわかっているけども。
だから、彼がそういう風にぼくを甘やかす代わりに、ぼくにできることはと言えば、半ば駄々をこねるようにたっぷりの大好きを伝えることだけ。
「……おい、息もままならないんですけど、」
家の中のすべての電気を消灯したあと、ぼくはベッドの中で思い切り彼を抱きしめて瞼を下ろした。
……いやいや、何かの冗談とかではなくて、本当にこの状態で就寝するつもりだったのだけど、プロイセンくんからの苦言で仕方なく腕の力を少し緩めてやった。ふう、なんてわざとらしい息を吐いて、確かにぼくにちらりと一瞥を送っていた。……うう、残念だ。やっぱり彼を甘やかしたいという気持ちと同じくらいに、ぼくは彼とくっついていたいから、自分勝手に抱擁を続けたいとも思ってしまう。だけど、ここは我慢我慢。
暗闇の中でぼくたちは薄い掛け布団に包まり、互いの体温や匂いを静かに感じて、分け合っていく。シャワーに入ったからこその肌触りや、シャワーに入っても簡単には落ちない彼の自宅の匂い……そのすべてが、彼の存在感をぼくに実感させてくれるから、思わずまたぎゅっと抱え込んでしまった。……一緒にいるこのときでさえ『片時も離れたくない』という気持ちは変わらないと思うと、心臓が少しギリ、と軋む。
強く抱き込んだことに関しては、彼からお咎めはなかった。
「……ねえ、どうして突然会いに来たの?」
どうしてだろう、ぼくはまた彼に尋ねていた。……正直なところ、自分でもなんで今尋ねてしまったのか、よくわからなかった。
「だから、休みが取れそうだったからなんとなくだって」
少しくぐもった声が返ってくる。
その言葉を聞いて、ぼくはどうして尋ねずにはいられなかったのか、自分でやっと気がついた。きっと、ぼくと彼が同じような気持ちだということを確認したかったんだと思う。
「……ぼくね、君に会えなくて寂しかったよ。だけど、今日会えたから……」
だからぼくは、
「――大好き、」
本当は確かめたかった気持ちを、彼のシャンプーの香りの上に口づけた。香りと一緒にぬくもりも身体の中に充満するようで、どうしてだろう、呼吸が楽になったような気がした。
……背中に回った彼の腕が、ぎゅっと身体を引き寄せる。ぼくは知っている、彼は心が追いつかないときほど、こうやって仕草でお返事をしてくれること。これが彼の精一杯の告白で、ぼくの言葉に対しての返答なんだ。言葉がなくてもそのまま彼の気持ちが伝わるから、ぼくも別に敢えて〝言葉でほしい〟なんて思わない。ちゃんとぼくに伝わっているんだもの。しっかりと触れ合った身体がぬくもりを分け合って、それでも足りないようにぼくを放すことはない。
……とてもかわいくて、もっともっと抱きしめて、もっともっと、ぼくの「好き」を重ねたくなる。いつか、いつでもいいから、何万年先でもいいから、このぼくたちの気持ちが、一つの大きな陽だまりになればいいなと……現を手放しながら、願っていた。
翌朝、ぼくは珍しくプロイセンくんよりも先に目を覚ました。優秀な遮光率を誇るカーテンからはほとんど朝日は漏れていなかったけど、惜しいことに一筋だけ、まばゆい閃光を取り逃がしていた。その隙間を適当に片手で広げて、少し痛いくらいの陽の光を部屋の中に取り込む。懐の中には、まだ心地の良い温もりがすっぽりと収まったままだった。なんて満たされる朝だろう。
採光を良くしたときにはそんな意図はまったくなかったのだけど、ぼくは、ぼくの隣で寝息を立てている大好きな人の寝顔がよく見えることに気づいた。柔らかく照らされたプロイセンくんの寝顔に目を奪われる。透き通った肌と表現するのは些か気が引けるが、どうしてこう『透明』という言葉しか浮かばないのだろう。滑るような肌に、少し硬めの髪の毛がかかって、丸みを帯びた瞼の上に陰を作っていた。こんな状況になっても、彼は穏やかな寝息を聞かせるばかりで、目を覚まさない。
彼が計画を立てて泊まりに来るときはこんなことは滅多になくて、朝日に照らされた彼の安心しきった表情を見ていたら、もしかしてここ数日はちゃんと眠れていなかったのかもしれないなと思った。彼はそういうことを言ってはくれないから、ぼくで勝手に察することしかできないけど。……こうやって発作的に会いに来てくれたのも、本人が自分の限界に対して予感があったからかもしれない。
それにしても、ぼくの大好きな人は本当に美しかった。
美しいって言葉は、大袈裟なような気がするだろうけど、実はこれっぽっちも大袈裟ではないのだ。さながら芸術家の彫刻と言われても頷けるような曲線を描いて、ぼくの目の前で静かに眠りについている。『美人は三日で飽きる』なんて言う人もいるけども、この先三万年生きたって、ぼくは彼に対する興味を失うことはないのだろう。……これはかなり本気でそう思う。
――ちら、と彼の瞼が開いた。本当に一瞬だったけど、確かにぼくの瞳を捉えてまた閉じた。あ、起きちゃったの、残念。と、視線が交わったときに素直にそう思ったぼくに彼は、
「視線熱すぎ、あんまじろじろ見んなよ」
わざとらしく身じろぎしながら、そう忠告してきた。どうやらぼくの熱烈な視線のせいで目が覚めてしまったことにしたいらしい。……でも本当にそうなら、それはそれで嬉しい気もするから、ぼくはどこかおかしいのかもしれない。ぼくがどれだけ彼が大好きなのか、もっともっと伝わればいいと思う。
ぼくは何も言わないまま、彼のそんな人外的な美しさに目を向け続けた。その内に耐えられなくなったのは彼のほうで、寝起きの不機嫌そうな眼差しでぼくを見返し始めた。……そこにあるのはぼくの大好きな虹色の瞳だ、さらにそれを眺め続ける。眩い光に引き立てられたその輝きを、片時も見逃したくなかった。
「……だから、あんま見んなって」
もぞ、と彼は瞳を隠そうとした。起きたばかりでも、やっぱり真正面から見つめられるのは少し恥ずかしいらしい。そんな彼もかわいいのだけど……ぼくはそれ以上の輝きを、これ以上の『大好き』を、彼のその瞳の中に見つけてしまったから。
「……しー。……ぼくとさ、睨めっこしようよ」
そう提案してやると、あからさまに眉間に皺を寄せられた。
「……はあ?」
「ほら、ぼくの眼を見てて」
一度はその手で顔を隠そうとしていたのを押さえて、ぼくはまた言葉を禁じて彼の瞳をじっと覗いた。
初めて見たときは、血のような、まるで美の象徴のような真っ赤だった彼の瞳は、今や長い長い年月を経て、虹色のような輝きを内包するようになっていた。激情のような赤も、幼気な琥珀も、緊張感を持った青も、蠱惑的な紫も……すべてが精巧に作り込まれたガラス細工のような、そんな瞳を彼は持っている。見つめれば見つめるほど、ぼくの奥のほうまで見られているようで、底知れぬ恐怖や不安が背筋を上ってくるようだった。……だけど、それらはおそらく共通の感覚だったのだろう、ぼくに見透かされることを恐れているかのように、二つの瞳は不安げに揺れて、なおさらぼくの視線を捉えて放せなくした。
もうすでに覚醒しているというのに、布団の中で二人は、ただ静かに視線を交わし合う。どれくらいの時間そうしていたのか、ぼくは夢中になっていたからわからない。ただただ、今にもその宝石の向こう側から溢れてきそうな〝なにか〟を見落とさないように、彼を見守っていた――
「……めろッ!」
ぐっと、彼から押しのけられたかと思った瞬間、「え、」と声が出た。確かにぽろぽろ、大粒の雫が落ちていったのが見えた。
動揺しているのか、震えた声が度々漏れて、ぼくも驚いてしまう。確かにその瞳の向こう側にあるなにかが溢れてきそうだとは思ったけども、本当に涙が溢れ出してこようとは予想もしていなかったから、どうしてだろうか、ぼくまでつん、と目頭を痛くしてしまう。
「ごめん、どうして、」
何も考えずに唇に唇を重ねて、それから昨晩やったよりも力強く彼の肩を抱いた。彼は一度も嫌がる素振りは見せなかった。ぼくが追い詰めてしまったのだろうか。……そう自責することもできた。けれどプロイセンくんは、揺れた声でも力強く言った。
「……なんもねえよ」
ならば、ぼくも……そうだ。
「――ぼくは、何も見てないよ」
彼の宝物のような瞳を見ていたら、とてもきれいな心が少し、溢れ出してしまっただけ。ただ、それだけのことなんだ。彼は弱音を吐いたわけでも、弱みを見せたわけでもない。大丈夫、ぼくは何も気づいていない。
ぎゅっと、背中の辺りの服が引っ張られる感覚があって、ぼくは不意を突かれた。さらに驚いたのは、それから彼がぐりぐりと本人の頭をぼくの肩に擦りつけてきたことだ。そんな仕草をされたのは初めてだった。……本当はこんな風に思ったらだめなのかもしれないけど、それがどうして、とても愛おしく思えて、彼の背中をゆっくりと撫で擦った。
彼の瞳を覗いているとき、底知れぬ恐怖や不安が湧き上がった。……ぼくだってどうしてそんな心境になったのかわからない。他でもない、一番大好きな彼といるのに。けれど、きっと、彼が溢れさせた感情も――、
「……これはね、プロイセンくん。ぼくの話なんだけど、」
彼も同じだといいなとは思う。けれど、彼にそれを言わせるのは、少し酷にも思えたから。
「ぼくは、たまに、理由もないのに不安になるよ。……うん、きっと理由なんかない。明日になれば、もう君が溶かしてくれてるから……この畏れに、理由なんてないんだ」
そしてまた、重ねるようにぎゅっと抱きしめる。今のぼくに、これ以上できることが思いつけなかった。彼とともに過ごせる時間がこんなに幸福なのに。……こんなにも幸福だから、不安になってしまう。こんなにも大好きだから、胸が苦しくなってしまう。どうしてこれらの感情は表裏一体なのだろう。大好きなのに、大好きなのに、プロイセンくんが……こんなに大好きなんだ。
……ちゅ、と音とともに、柔らかく触れる感触があった。頬に触れたぬくもりは、すぐにぼくの視界に入ってきて、
「ほら、仕事遅れるぞ」
いつの間にか、いつもの彼の笑顔に戻っていた。昨日の夜見たそれよりも、よほど彼らしいいたずらな笑顔だった。溜め込んでいた心が流れて少しすっきりしたような、そんな清々しい顔をぼくの視界いっぱいに見せてくれた。ぼくまで勝手に顔が緩んでしまう。
「……えへへ、おはよう、プロイセンくん」
「おう、おはよう、しろくまちゃん」
もう起きてだいぶ経つというのに、いまさらそんな挨拶を交わして、プロイセンくんは元気よくベッドを飛び降りて笑った。
「朝飯作ってくるから、お前は着替えとか済ませて来いよ」
「うん、わかった」
踵を返したプロイセンくんは、寝巻き代わりのスウェットを着たままだった。そんな彼のだらしない後ろ姿を知っているのは世界中でぼくだけなんだと思ったら、また愛おしさが心臓を掴んで、泣きたい気持ちにさせた。ベッドの上に座ったまま、廊下の電気が点灯したのを眺めて、それから台所のほうのカーテンが開かれた音に耳を傾ける。……今日も一日が始まったんだと実感したのはこのときだった。そして今日は、プロイセンくんがいてくれる、飛び切り素敵な一日だ。
ぼくもプロイセンくんがやったようにベッドから飛び上がって、彼が昨晩準備しておいてくれたスーツを取り出す。必要もないのに丁寧に靴下にまでアイロンをかけてくれているのを改めて見て、彼はいったいどんな気持ちでそうしてくれたのだろうと、不意に心に過った。
暖かな気配が、そこらじゅうからぼくを包むようだった。
――なんで涙が出るんだろう。……君がぼくのためにそこにいてくれるから、ぼくも君のためにここにいたいと、いつだってそう思えるんだ。
おしまい