1 ✝ 北国からの伏兵 ✝
晴天が果てまで渡る、清々しいまでの朝だ。ギルベルトは自宅の玄関の前に立ち、本日の天気と気温を体感で確かめる。深く息を吸って、今日の始まりを実感させる。フィンガーレスのスタッズグローブを握り込み、ぎちちとなんとも言えぬ握り心地に満足した。
毎日の日課であるそれらを済ませると、ようやくギルベルトは軽快に歩き出した。
「おう、あれか」
すぐに大きなトラックが視界に入り、独り言を零した。まっすぐに伸びる広い道路の傍ら、業務用の大きなトラックが停まっている。
家を出る直前に、共に暮らす叔父が言っていた。長く空き家だった隣家に、引越しの業者が来ていると。……そう、何年かぶりに、バイルシュミット家の隣に住人が現れたというわけだ。
どんな一家だろうか。もしかして闇の借金取りから逃げてきた夜逃げ一家なのでは? いやいや、犯罪を働いたのちに身を隠すために越してきた前科者というのは? 思いを馳せたのも束の間、すぐに思考は通常運転に戻される。
登校の時間だというのに閑散としたこの道筋。ブレザーの代わりに羽織った真っ黒のパーカーはチャックは閉じず、中に着たワイシャツも身につけたシルバーアクセサリーが覗くようにわざと乱したまま歩く。
今日も今日とて。このギルベルト・バイルシュミット様に畏れをなして、全てのものが身を隠してしまったようだ。閑散とした通学路はそういうことなのだ。高笑いが漏れそうなほど、ギルベルトはご満悦で登校する。
「おう、エリザ」
教室に到着するや否や、自身の荷物を机に放り投げ、すぐ近くの席に座るローデリヒと雑談していたエリザベータに声をかけた。会話がキャッチボールとするなら、横からそのボールを奪われたことで、二人して何事かとギルベルトを見やる。エリザベータは対象を確認するや否やあからさまに眉をひそめ、口角を引き下げた。
「げぇ、ギルに話しかけられちゃった……全くなんなのよもう」
その整っているはずの面にこれだけの嫌悪感を打ち出しながらも、エリザベータはギルベルトと向かい合う。ローデリヒはきょとんとしたまま、目の前で威張り上がった同級生を見上げていた。
「実はな、昨日いいものを入手してな! 秘蔵だ秘蔵! だが、特別にお前に見せてやろうと思って」
「はぁ? なんであたしなのよ! 何か知らないけどそんなことで邪魔しないでほしいわ」
ひょいひょいと軽く手の甲で存在を払いのけようとするも、ギルベルトは高圧的な嘲笑を浮かべるに留まった。
「おお、いいのか? 以前お前が俺様と組んでたときに愛用していたモデルガンの復刻版だぜ?」
エリザベータの表情が瞬時にして強張り、
「ちょっ、だまらっしゃいこの中二野郎っ!」
羞じらいからか真っ赤に蒸気しながら、ギルベルトの胸倉を掴むように飛びついた。
「エリザベータ、お下品ですよ」
静かな制止が入ると、ローデリヒの方を見やりしゅんと肩をすぼめる。
「あ、あはは、ごめんなさい。私ったらこいつを前にすると……ったく何年前のことを言ってるのかしら、えへへ」
握っていたパーカーの胸倉を押しのけるように手放して、それでも世話焼きの性分から、面倒くさそうに「と、とにかくあんたも早くそういうの卒業しなさいよ?」と助言した。当のギルベルトは言い放ったその横顔を見ていたが、いまいち理解ができなかったらしく、ただ首を傾げた。
「卒業も何も、これが俺様の本質だからよ。俺様は自分に素直なのだ」
断言されたエリザベータはいよいよため息を吐き、「あーはいはい。じゃぁもう勝手になさい」と、改めてしっしっと手で払いのける動作をしてみせた。
そんなこんなで、一般の学生にとっては退屈な授業が始まる。ギルベルトはというと、学校の授業も嫌いではなかった。目の前の教壇で教鞭を執る教師を、その分野の第一人者や、世界屈指の人材であると設定付けて、自分は優秀なエージェントになるための養成課程を受けているのだと思えば、真面目に授業も受けられる。
例えば、一限目のこの少し小太りでメガネをかけている数学科教師は、こうして教壇に立つ以外の時間はほぼ睡眠を取らず、日夜研究に明け暮れているのだ。しかしその分、不規則になってしまった生活のせいで、体がより栄養を蓄えやすいものになってしまった。ただそれだけのことだ。
最近はそのメガネに隠された秘密機能について考えるのも楽しい。
続く二限目の社会科教師は、つい昨年まで当局の情報班を束ねる長であり、その持ち得る幅広い全ての知識を用いて、作戦の立案から情報の操作まで、多岐にわたる責任を請け負っていた逸材である。歳を感じて引退し、今はそれらに活用していた地理や世界情勢の知識を、こうして若者に引き継いでいる。そしてその傍ら、たまに当局へ出向き後輩らに熱い引導も渡している。
三限目の体育教師、彼は特別だ。
彼は当局でも最高峰の元エージェントで、大変な功績を残したが、子供の病気をきっかけに引退したことになっている。だが、本当のところは明かされてはいない。この養成機関を設立するにあたり、強い要請を受けて、今は指導者という立場にいる。得意武術は、東洋で最も重視されている柔道だ。
ちなみにギルベルトは合気道を幼い頃からやっているので、いつか手合わせ願いたいと思っている。
……こんな調子でギルベルトは、日夜退屈な学校生活を乗り越えているのだ。ちなみにこのギルベルトのオリジナル設定は、接触するほぼ全ての人物に用意されている。
放課後になり、帰宅の準備も万端に済ませたギルベルトは、ちょうど席を立とうとしていた。どこかから名前が呼ばれた気がして振り返ると、
「ねえ、トーニョとゲーセンいくけど、ギルは、」
少し離れた席から投げかけていたフランシスの言葉が止まる。そして何かを閃いたように「あ、」と声を改めた。
「そういや今日は訓練の日だっけ?」
半分からかうように問うと、ギルベルトも楽しそうに「そうだぜ! 付き合うか?」と笑って返した。フランシスは「いやいい、頑張って」と素敵すぎる笑顔とサムズアップを見せて、教室から飛び出していった。
他には何もないかと辺りを見回し、みんながそれぞれのことに集中しているのを確認する。それからようやく、ギルベルトは誰にも気づかれないように教室を出て行った。……残念ながら、ささっと抜けだした黒すぎる影に、ほとんどが気づいていたのが事実の側面である。
そんなこととはつゆ知らず、ギルベルトは軽快な足取りで自宅へ急いだ。先ほどフランシスが言っていた『訓練』というのは、自主的に取り組んでいる筋トレのことだ。通常この年齢の男子がおしゃれやゲームなどに費やすであろう小遣いも、ギルベルトは武器や資料、そして訓練グッズなどに充てているからに、自宅でもできる筋トレのバリエーションは豊富だ。今日はどんなメニューで行こうかと、足取りが軽くなっていたのだ。
自宅の手前の曲がり角に差し掛かる。ここを曲がると出くわすだだっ広いまっすぐな道を、しばらくその通りに進む。ギルベルトの家はその並びにあるのだ。それまでと同じような足取りで、道のりを消化する。
――「やぁ、こんにちは」
ギルベルトが自宅前に到着し、ちょうど門扉に手を伸ばしたところだった。
どこから降ったのやら、初めて聞く声色にその手を止める。少し見回すと、「こっちだよ」と背の高い男が隣家の門の中から出てきた。長い経験からそこには誰も住んでいないと決めつけていたので、大変な違和感を抱いた……だが、そうか、今朝引っ越してきたんだったか。
その男はまだ真冬でもないのに厚手のコートを来て、背丈にそぐわぬ幼気な笑顔を掲げていた。首に巻くマフラーも、ここらではあまり見かけない生地である。……寒いところから来たのだろうか。
ギルベルトは一つだけわかっていることを明言した。
「おう、お前か、隣に越してきたっつーのは」
「あ、もう聞いてたんだ?」
笑顔のままその男は歩みを止めなかったので、ギルベルトもそちらに身体を向けた。
「うん、そうだよ。庭の片付けをしてたら、ちょうどお隣の家に入ろうとしている君が目に入ってさ。つい声をかけちゃった。イヴァン・ブラギンスキです。父さんと二人で父子家庭なんだ。よろしくね」
ニコニコと機嫌も良さそうに右手を差し出される。
だがあいにくその意図を知らないかのように、ギルベルトが握り返すことはなく、そのまま「ブラギンスキ? ロシア系か」と首をひねって顔を覗き込んだ。
仕方なく右手を引っ込めたイヴァンは、それでもイラつく様子もなく、不思議そうに応えた。
「うん? そうだよ? 君は? いくつ?」
また微妙な間を設け、ギルベルトは十分吟味するようにイヴァンを観察した。彼の身なりから察するに、経済力にそう大差はなさそうだ。……一般人か。しかし結論を出す前に過ぎったのは、『一般人のふりかも知れねえ』という警鐘だ。ギルベルトは警戒することにした。
革製のフィンガーレススタッズグローブを見せるように、手のひらで自らとイヴァンとを隔ててみせる。
「名前は色んな事情があって名乗れねえし、年齢も言えねえ。ただ俺様のことはギルと呼んでくれ」
対して、微妙な間を置いてしまったのはイヴァンも同じで、「……あ、ああ、そう?」と少し反応に困った様子だった。だがそれでもめげずに笑顔を作り直し、気も取り直した。
「えと、じゃ、ギルくんね。十六歳くらいかなあ。とにかくお隣に歳の近い子がいて嬉しいな。ぜひ仲良くして、」
「いいぜ、そんな誤魔化さなくて」
「ん?」
言葉を阻まれて、イヴァンはまたちょこんと首を傾げた。流れが止まったのをいいことに、ギルベルトがまるで自慢するかのように高らかに宣言した。
「当ててやろうじゃねぇか。お前、俺様を監視するために来たロシアのスパイだろ」
笑顔に苦味が増し、さらに首を傾げるイヴァンだ。初対面のギルベルトにそのように言われて、平静でいるというのもおかしな話である。
「……ん?? んー……? や、やだなぁ、何言ってるの? ぼくまだ君と同じくらいの子どもだよ?」
「そんで、一緒に越してきた親父は実は親父じゃなくて、そうだな……直属の上司だ!」
ついに反論を諦め、イヴァンは言葉を止めた。そこへ喜々として、ギルベルトが滔々と言葉を紡ぎ始める。
「お前自身は三歳から既に諜報員としての特別訓練を受け始め、初めての任務は六歳。そのあまりの人を欺く演技力を買われ、トントン拍子に出世して、組織の要人へと上り詰めていく。得意武器は二丁拳銃ってところか」
特殊設定を静かに聞いていたイヴァンだが、それが一段落したのだと気づく。ギルベルトの言葉の間、どう反応を示そうかと少し考えもした。だが常識を持って解くのは逆効果という気もしたため、イヴァンは方向性を定め、またにこやかに笑ってみせる。
「……あはは。君、面白いね。でも、その設定ならぼくは、得意武器はナイフがいいなぁ」
「そうか。じゃナイフな。両足のくるぶしのところと、腰、そんで、右利きなら左の胸のところ、全部で四本、特注品のナイフを隠し持っている」
もはやイヴァンの冷えきった瞳が、返答もなくギルベルトを見下ろしていた。
それに少しだけ違和感を覚えたギルベルトだが、特に重視せずに己の話を進める。
「ちなみに俺様はドイツの優秀なエージェントだ。期待の新人ってやつ。お前がスパイなんじゃないかと疑ってる」
「……じゃ、君とぼくは敵同士ってことになるね」
イヴァンが確認するように教えた。
「ああ、そういうこった! 確固たる証拠が揃ったらお前を当局に突き出してやるから覚悟しとけよ!」
「……君にそれができるかな? ぼくは手強いよ」
やけにやる気に満ちた表情でもって、イヴァンは笑っていた。それに対抗するようにギルベルトも嫌味な笑顔を浮かべて、宣戦布告をしてやった。
「俺様は期待の新人だぜ? 舐めてもらっちゃぁ困る」
「ふふ、じゃ楽しみにしてるね」
イヴァンは笑い、改めて門扉に手をかけたギルベルトを見送る。
ギルベルトが中に入り、門扉を丁寧に閉めてもなお、ずっと背中も見せずにその様子を見守っている。またもや得体の知れない違和感を感じる。釣られて玄関まで背中を見せずに、後退りのように動いてしまった。
……不思議なやつ。
玄関の扉を閉じ、靴を脱ぐために荷物を置いた。イヴァンと分かれて初めて浮かんだ思考が、不思議なやつ、だった。
今までギルベルトが特殊設定の話をすると、エリザベータのような呆れた目で見られることのほうが多かったし、酷いときは異物を見るような目を向けられることだってあった。だからと言ってこれを止めようとは思わないし、そもそも毎日を充実させるために必要なことで、やめるやめないの話ではないのだが、あんな風に話に乗られることは今までなかった。
まして度々強襲したあの違和感はなんだろうか。今までにない不思議な感覚としか形容できず、結果、『不思議なやつ』なのである。ニコニコと上機嫌のようで、どこか不気味な笑顔を思い出すと、今更睨みつけられているように錯覚し、ドキドキと心臓がより強く脈打つ。実感しながら、二階の自室に上がった。
閉めっぱなしだったカーテンを開けて、とりあえず椅子に腰を下ろした。違和感のせいで少し乱れている脈を落ち着かせるよう、そのまま机に突っ伏す。この脈の乱れはなんだろうか……まるで高揚しているかのようだ。
そう、まるで……
「そうか! 好敵手を見つけたようなこの高揚!」
半ば叫びながらギルベルトは顔を上げた。
「イヴァンは俺様の好敵手になり得る人材だ!」
喜びに任せて飛び上がった。
ふと、先ほどカーテンを開け放った大きめの窓が目に留まる。その奥に、イヴァンが越してきた家がある。そしてあろうことか、そこにイヴァンの顔が見えてしまう。
ギルベルトは驚いて椅子に座りなおした。
「も、もしかしなくてもお向かいかよ……」
大きな独り言をごちる。
よくよく見れば、座っているイヴァンの側にもう一人、たぶんこれが親父さんだが、そこに立っていた。ギルベルトからは死角になっているが、窓の横に置いてあるらしいテレビかパソコンか何かとお互いを見比べ、何やら談笑をしている。
……仲の良い親子なのだろう。ギルベルト自身も、現在共に暮らす叔父とはそこそこ良好な関係を築いている。不思議なことではない。
気づけばいつまでも眺めていたらしく、二枚の窓越しにイヴァンと目が合った。イヴァンはニコリと笑って見せ、ゆっくりと手を振ってきた。親父さんも身体をギルベルトの方へ向け、申し訳程度に頭を下げた。窓に反射している光のせいで、顔はあまり良く見えなかった。
急なことに驚いて動作が取れなかったギルベルトだったが、その間にイヴァンは部屋から出て行く親父さんとまた、一言二言交わしたようだった。そうして親父さんを見送るために立ち上がったかと思うと、その足でベランダ付きの雨戸にふらふらと立ち寄る。どうやら鍵を開けているらしく、ギルベルトも急いで窓を開けた。
「ねぇギルくん」
手を伸ばさずとも相手の胸ぐらさえ掴めそうなほどの近距離である。
「なんだ。俺様に窓越しに接触してくるとはいい度胸だ」
「あはは。君と早く仲良くなりたくってさ。ギルくんのお部屋行ってみたいなぁ」
「お? 直接探りを入れる気だな?」
「まぁそんなところ。ね、いい?」
「いいぜ。俺様はボロはださねぇからな」
「わあい。じゃ、今から行くね!」
言葉通りイヴァンは嬉しそうに窓の戸締まりを済ませると、可愛らしい笑顔で手を振り、上着も持たずに自室を後にした。邪魔そうにまだダンボールがいくつか積まれている部屋に、人気がなくなる。
イヴァンが来る前に少しでも片付けを、と思ったギルベルトだったが、実際自室を見回しても特に散らかってはいなかった。することねえなと思ったところで、早くも玄関のチャイムが鳴り、『お隣さん』との距離感を改めて知らしめられることとなった。
「お前コーヒーは好きか」
玄関からイヴァンを招き入れ、廊下を渡りながらギルベルトはそう問うた。
「うーん、飲めるけど、ロシアは基本的には紅茶派なんだ」
当のイヴァンは物珍しそうに周りをキョロキョロしながら、後について歩く。
振り返ることもなく「そうか。今日は買い置きがないからコーヒー飲めよ」と指示を出したのち、急に立ち止まってようやく振り返る。
「おっと安心しろ、いくら敵と言っても毒は盛らねえ」
思っていたよりも距離が近かったことに一瞬怯んだのはギルベルトだが、それでも構わずに詰め寄った。まるで近視の老人さながら顔を近づけて宣言されるものだから、イヴァンは思わず一歩後ずさりかけた。
だが、そこは何とか保ち、
「うん、敵であるぼくから何の情報も引き出してないのに、そんなことするほど無能だとは思ってないよ。大丈夫」
丁重にギルベルトを押し返し、再び歩き出させた。
「ねえ、あれ、君のパソコン?」
ギルベルトに問う。二階がギルベルトの自室だと思っていたのだが、その自室ではなく居間に二台のパソコンを見つけて不審に思った。
「ああ、俺様の部屋には精密機器はおけねえから。ちょっとの間なら大丈夫だろうけど」
「ふうん……なんで?」
当然の疑問だったが、ギルベルトは「機密事項なので言えない」とその質問を切り捨てる。階段を登り始め、イヴァンも引き続き追う。
「さあ、心して入れよ。ここが俺様の自室だ」
アナウンスと共に開かれたドア。イヴァンがギルベルトよりも先に一歩踏み入ると、何の変哲もない、むしろ殺風景にすら見える男子の部屋が現れた。
「……思ってたより閑散としているね。君のことだからもっと武器(のおもちゃ)や資料(と見せかけた学校のプリント)で散らかってるのかと思ってたよ」
そう感想を述べると、ギルベルトは豪快に腕を組み仁王立ちして、「ケーッセセセ!」と独特の笑い声を上げた。
「驚いたか! 俺様は優秀なエージェントだからな。そういうのはしっかり管理してるぜ!」
聞きながらイヴァンは、目の前にあった学習机に歩み寄った。
小さい頃から愛用しているであろう学習机は年季は入っていたが、とても大事に使われていたことはすぐにわかった。それに備え付けの本棚にギッチリと収納されている本。それらの背表紙を端から追う。
「へえ……でも武器図鑑とかは充実してるね、さすがだなあ。見てもいい?」
「おっとそいつはやめとけ」
内の一つに手を伸ばすと、ギルベルトは横から慌てて手を伸ばした。イヴァンはギルベルトの意図を確認しようと顔を覗く。
「え? なんで?」
「それは、まあ、機密事項なので言えない」
「ふーん」
視線を本棚に戻して、構わずにその本を手に取った。
中身を見てはいけないとは言われたが、表紙ぐらいはいいだろうと高を括る。しかし、自分の手の中にあって、さらに『見てはダメだ』と宣言されているこの状況では、イヴァンの衝動がどう働くかは一目瞭然で、
「いや、それは、その、ほんと、表紙と中身は必ずしも一致しな……って、あ! こら、見るなって!」
ギルベルトが大慌てで取り返そうとしたその本の中身は、まさしく。
「……えぇ……エロ本……?」
てっきり表紙よりも過激な武器類が登場しているのかと思いきや、現れた女性の裸体についしっかりと確認してしまったイヴァンである。だが、頭で理解するや否やそれを閉じ、「もうっ、こんなややこしい隠し方しないでよねっ」と文句を垂れた。
「だ、だから見るなっつったろ!?」
「……呆れた」
イヴァンが受けていた印象よりも、実はちゃんと年齢相応の男子なのかも知れない。
少しだけ安堵する気持ちに気付いたが、同時に少し残念にも思ってしまった。好奇心さながら「他のも全部そうなの?」と問うと「んなわけねえだろ、そいつがたまたまそうなの!」と念入りに証明された。
「で、君の話を聞かせてよ。ドイツのエージェントになるまではどんな子だったの」
部屋の真ん中に腰を下ろしながら問いが飛ぶ。
「おお! 聞くか!」
「うん、聞く聞く! 聞きたいな」
嬉しそうにギルベルトはイヴァンの向かいに腰を下ろし、楽しそうな笑顔で待機しているイヴァンに「俺様はな!」と語り始めた。
「今でこそ当局に腕を買われたが、それまでもすんげー優秀な人材だったんだぜ。校内行事は何をやらせても一番、昔からやっている合気道なんかは大きな大会にもよく出たもんだ」
キラキラと瞳を輝かせて拳を握り、完全に熱血武闘家の顔をしていた。
「今はもうしてないの?」
「ああ、これからは素手よりも武器を持つことが増えるからな。次の段階へフェーズしたということだ」
いわゆるドヤ顔と言った表情でそう言い放たれたが、その言葉のちぐはぐさを見落とさなかったイヴァンだ。えーっと、と前置きをしてから「……『次のフェーズへ移行した』?」と修正してやれば、「そうそれ」としれっと肯定する。
「で、君の家族は?」
流れが途切れぬよう、イヴァンが次なる話題を仕掛けたが、今度は意図に反してギルベルトは口を瞑った。デフォルトである少し気の強い笑みを浮かべ、「イヴァンよぉ」と絡みつくような口調で呼びかけた。
「情報ってのは交換が常套だぜ? 俺様ばかり提供してやる義理はねえよ」
言われたことを噛み砕いて飲み込んで、と一つ間を開けたイヴァンも、なるべくすぐに答えを返した。
「ああ、そうか。ぼくのこと知りたいの?」
「敵のことを知ることは勝利への第一歩だ」
「そうだねえ……」
呟いてから、少しだけ考えの中を泳いだ。それから閃いたように息を吸い、「じゃあ、ぼくのとっておきの話をしてあげるね」と、同じように喜々として話を始めた。
「ちょうど十歳のときの話なんだけどね」
「おう」
「ロシアの偉い人が一家で外国の公務に出たとき、念のためってことで影武者が選出されたんだ。それで、その一家の末っ子の影武者役にぼくが抜擢されたの」
「ほ、ほう……」
何かを吟味するように顎を撫でながら、ギルベルトは話に聞き入った。
「そしたらさ、一日だけ本物の一家がお忍びで出かけてたとき、びっくりするくらい間抜けなテロリストたちが、ぼくを本物の末っ子だと思って誘拐しちゃったんだ」
「ええええ、まじかよ!」
ギルベルトの反応が面白いのか、イヴァンは小さく「ふふ」と挟み、
「でもぼくも既にロシアの優秀なエージェントだったからね。やつらの隙をついて組織全部の制圧に成功しちゃって。……いやあ、あのときは自分でも自分が怖かったよぉ、まさかあんなに簡単にことが運ぶなんて。組織の構成員は五十人近くいたみたいだし、のちのちもっと大きな計画を実行する予定だったみたいで、ぼくはそれを未然に阻止したってことで二階級昇進。たぶん一生忘れない思い出だなぁ〜」
満足気に言い切ったころには、ギルベルトの目は点になっていた。
まさかこんな設定を流暢に語れる人物が自分以外にいようとは、考えてもみなかったからである。しかしエキサイティングなその内容に、まんまと心躍らされたギルベルトと、
「……えっへへ、楽しんでくれた?」
「あ、おお……お前にしちゃぁ、なかなか上出来な話だった」
「うふふ、光栄だよ」
素直に喜んでもらえたことに、同じく心が踊り出しそうな心地になっていたイヴァンである。
まるで初対面とは思えないその波長の一致に、ギルベルトは元より、イヴァンすらも時間を惜しんだほどだった。二人は客観視することも忘れ、しばしその不思議な心地のする空気を楽しんだ。
先に我に戻ったのはギルベルトの方で、「……あ、わり、コーヒー入れてくるわ」と立ち上がった。イヴァンもそれを目で追いながら「あ、うん、よろしくね。うんと甘くしたいからお砂糖とミルクもお願い」とリクエストを加える。ギルベルトがぶっきらぼうに「おう」と返答し、イヴァンはその部屋に一人残されることとなる。
――イヴァンは階段を下る足音に、聞き耳を立てた。
音が聞こえなくなると無言のまま、自身の腕時計を覗く。……否、それは腕時計に類似はしていたが、全く別物の精密機器である。
「……やっぱり何か磁場がおかしいな」
ボソリと呟くと、まっすぐにギルベルトの学習机の下に潜り、何かを探すように見回した。しかし見つからなかったようで、今度は机と本棚の裏を探す。それでも見当たらないらしく、今度は無遠慮に引き出しを引き開けた。
どこから取り出したやら、超小型のライトと鏡で、引き出しの天板を確認していく。
「あった」
声も出さずに呟いた。
そこには小さな黒い機器が取り付けられていた。空いている方の手でポケットからまた別の小型の機器を取り出し、発見した黒い機器に近づけてカチ、と軽い音を響かせる。
すぐさまそこから手を引き抜き、また引き出しも閉じた。
改めて初めの腕時計のようなものを覗き込む。
「……あれ、まだおかしい」
呟き、今度はギルベルトのベッドの下へ視点を変える。だがそこには目当てのものはない。
一つが引き出しの天板に設置されていたのだから、位置関係から怪しいのは……ギルベルトの自室を見回す。例の引き出しの、ちょうど対角線上にあるのは、イヴァンの部屋の向かいにあたる出窓だった。そこへ近づき、カーテンやカーテンレーンを中心に探しものをする。
「Хорошо.(ハラショー) あった」
先ほど使った機器をまたそれに近づけ、改めてカチ、と音を鳴らした。すぐさま腕時計の成りをした機器をまた覗き込む。そこに表示されていた結果に、思わず頬を緩めてしまった。
ギルベルトが戻る足音はまだ聞こえて来ない。余裕を持って元の位置へまた腰を落ち着けた。
どこで調べたのかわからないが、ギルベルトが自らの部屋に設置していたのは、強力な電磁波を放つ機器だった。おそらくスパイやエージェントと言った類の話が好きなギルベルトは、優秀な自身の部屋にカメラや盗聴器が設置されるかもしれないと思い至たり、これらの電波に、やいかかってこい! と言いたげに、妨害機器を設置したのだろう。
自身のパソコンを所有しているのに、それらが自室ではなく居間にあったことに引っかかっていたが、これが理由のはずだ。
ギルベルトの足音がようやく下階から響いてきた。イヴァンは天井の角を見上げ、小さな穴を確認する。それからクローゼットの上部近くの壁にも、小さな穴を見つける。ふむふむと頷き、自身の携帯電話を取り出した。
「悪い、待たせた。湯が沸いてなくてな」
「あ、うん、いいよ〜」
さも今まで携帯電話をいじって時間を潰していたかのように振る舞った。
ギルベルトは勉強机の上にトレイを置き、イヴァンを手招きする。
「砂糖とミルク、自分で入れろよ」
「ああ、そうだね」
立ち上がり、素知らぬ顔でギルベルトの隣に並ぶ。
とてもシックで落ち着いたマグに、角砂糖を四つほど落とし入れ、さらにミルクを入れられるすりきりまで入れてやった。それを見たギルベルトは耐えかね、
「お前それ混ぜたらこぼれるじゃねえか」
腹を抱えて笑った。
それでも割りと大真面目に「大丈夫だもん」とイヴァンは優しくそれをかき混ぜようと挑戦する。その光景にさらに笑ってしまうギルベルトだった。
「お前、敵のくせに面白いやつだな!」
思い切り肩を叩いて同意を求めてやれば、イヴァンは真剣な顔で「ちょっと押さないで! こぼれるでしょ!」と抗議した。
「ケーッセセ! おらおらおら!」
「あ、もう、君ってば乱暴者だね!」
そうやってコーヒー一つで二人はわいわいとはしゃいだ。
しかしコーヒーを飲み終わり、それらが一段落すると、そろそろ楽しい時間も終わりに近づいていることに気づく。ギルベルトが傾いた陽を確認したのと、イヴァンが携帯電話の画面を覗き込んだのはほぼ同時だった。
「あ、ごめん、なんか父さんが助けてほしいみたいだから、もう帰るね。片付けのことすっかり忘れちゃってた。コーヒーご馳走様」
「おう」
立ち上がったイヴァンをギルベルトも追う。
玄関へ向かいながら、まるで旧知の友人かのように打ち解け合った二人は、「また遊びに来ていい?」「おう! まだお前のしっぽを掴む気でいるからな! いつでも来やがれ!」という、もはや必要もなさそうな会話をしていた。
イヴァンが隣の家の門扉の中へ入るのを見送り、二人して門の上から「じゃあまたね」「次はぜってーしっぽ掴む!」「はいはい」と笑いながら分かれた。
ギルベルトは初めて分かり合える友ができたようで、喜びに任せて玄関まで走り、家に入ってからもこのまま身体を動かしたくて仕方がない心地だった。今なら自身の最高記録を色々と更新できそうなほど、興奮している自覚があった。そうだ、今日の訓練を始めよう。高く張ったままのテンションで、ギルベルトは筋トレを始めることにした。
さて。一方のイヴァンは、最後に分かれた際の笑顔を保ち、冷静を心がけながら玄関へ入る。まだ開梱されていないダンボールは山積みになっているが、それでも必要なものは全て設置が終わっていた。
窮屈な階段を上り、まっすぐに自室へ入る。部屋の中は暗く、カーテンが閉められており、外出中に父親が閉めたのだろうと見当をつける。ギルベルトの部屋の向かいに当たる雨戸の、その隣に設置されたモニターの電源を入れる。……そこに映し出された映像に、思わずまた頬を緩ませてしまった。
「イヴァン、お帰りなさい」
ノックもせずに部屋に入ってきた『父親』にも、変わらずの笑顔を向けた。
「パパ、ただいま」
「どうだね、ギルベルトくんの様子は」
いきなりの本題に、少しくすぐったくなる。イヴァンもギルベルトへの興味で、胸がいっぱいだった。
「うん、なかなか面白い子だよパパ」
「そうか、楽しめそうか。よかった。お前は少々冷淡なところがあるから」
「ふふ」
誤魔化したつもりはないが、笑って間を繋ぐと、「それはそうと」と父親が続ける。
「例の件の原因は追求できたのか」
意味深な物言いだったが、イヴァンは待ってましたと言いたげに、椅子に腰を下ろした。
「うん。予想通りだったよ。磁場を乱す機器がいくつか部屋の中に設置されてたみたい」
「そうか。私としたことが見落としてたんだな。普通の学生だと油断した」
「うん、でももう大丈夫だよ。ほら、」
言ってイヴァンが椅子を回転させ身体を向けたのは、先ほど電源を入れたモニターの方だった。
ちょうどギルベルトの部屋からは死角になるように設置されたそれ。映し出されたのは、さきほどまでイヴァンがお邪魔していたギルベルトの部屋だった。二分割された画面に、それぞれの角度から部屋の中が見渡せた。
楽しそうに跳ねる銀髪は、現在は暑苦しくもスクワットをしているようだった。イヴァンと二人で盛り上がったコーヒーのトレイは、学習机の上にまだ置かれている。
そのモニターの隣に設置されたつまみを回すと、そこに置いてあるスピーカーから、雑音が流れ始める。それは微かではあるが、ギルベルトの筋トレの息遣いを混ぜていた。
「ね、問題ない」
ニコニコと上機嫌な笑顔で、イヴァンは言い放った。父親もご満悦と言った風に微笑み、「よくやった」と頭を撫でる。
「じゃ、今日からギルベルト・バイルシュミットはお前が責任を持つように」
「うん。パパも。叔父さんの方、頑張ってね」
歩き出した父親の背中にそう飛ばすと、静かに踵が返された。
「誰にものを言っている? 夕飯は各自でいいね」
「はい、パパ」
何がそんなに楽しいのか、未だにニコニコと笑顔を続けているイヴァン。父親は呆れを含めたため息を吐いてみせた。
「……お前ね、『パパ』『パパ』って楽しんでるだろう? 困った子だね」
「ええ、だめかな? 上司をパパって呼ぶと反応が面白くて好きなんだ」
改めて肩の力を抜くように息を吐き、
「まあいい。異変があればすぐに報せるように」
「はあい」
父親……もとい、上司はイヴァンの自室から立ち去った。
ギルベルト風に言うならば、ロシアの優秀なエージェントである上司は、元々足音はほぼ立てない。それでもその気配が完全になくなるのを待ち、イヴァンは掲げていた笑顔を一気に取り外した。
上司がしたように、小さく息を吐く。今日は少し大変な一日だった。……肉体的な疲労が大きかったと言いたいだけである。任務の始まりとしてはすこぶる順調……いや。
自分の与えられた監視対象であるギルベルトが思い出される。挑発的な笑顔や、素直に輝かせる瞳。
……今後の展開に楽しみな気持ちさえ抱いてしまう。
イヴァンは座っていた椅子から立ち上がり、未だに楽しそうに筋トレを続けているギルベルトを画面で確認する。ギルベルトが余りにも本日接した通りのギルベルトだったので、思わず笑ってしまった。
そのまま更にその横に置いてある、自身の小型のパソコンの電源ボタンを押してやる。それは専用のオーエスを立ち上げ、起動画面には毎度のことながら、こう表示されるのだ。
『 EC(エージェントコード):242 』
正しくパソコンが起動を始めたことを確認すると、イヴァンは屈み、両足のくるぶしの内側に忍ばせた小型のナイフを取り外し、机の上に並べた。続いて腰に手を当て、もう少ししっかりしたそれを、そして最後に左胸へ手を入れ、もっとも敬愛するそれを、几帳面に机上に並べる。全て特注の愛用品だ。
それからカーテンを開き、椅子に座る。モニターで確認できるのと同じ挙動を肉眼でも確認しながら、静かにスピーカーから聞こえるギルベルトの息遣いを耳に入れる。なんとなくモニターを眺めながら、イヴァンは長い夜を迎えようとしていた。
つづく
(次ページにあとがきのようなもの)
あとがき ----------------
あれ? これ書いてて大丈夫なやつですかね??
すっごい軽い気持ちで書き始めたはいいものの……
後半に向かうに連れて少し罪悪感のようなものが><
中二病を患ってる子が大好きで、中二設定も大好きなので、
本当に単なる私得なんですけど……(^^)
毎度特殊設定すみません;;
王道なキラキラしたろぷが書けない(致命的)