2 ✝ Lake Drop 〜堕ちる鏡面〜
イヴァンはギルベルトの行動パターンを把握するため、数日間、ほぼ不眠不休で画面とスピーカーに張り付いた。
長くロシアのエージェントとして活躍しているイヴァンの今回の任務は、ギルベルト・バイルシュミットという少年を監視し、必要な情報を探し出すことだった。そもそもなぜ、この何の変哲もないギルベルトという少年の監視が必要かと言うと、理由はこうだ。
ギルベルトの母親に当たる人物が、ギルベルト本人の出生よりも前に、イヴァンと同じくロシアでエージェントをしていたことに始まる。ある時その母親は任務中だった案件の情報を抱えたまま忽然と姿を消し、以降しばらく消息が知れなかった。そうしてギルベルトが二歳になったほどのころ、彼らはようやくその母親の居場所を突き止め、結婚していた夫と共に連れ戻すことに成功した。……この場合の『連れ戻す』について、深くは言及しない。
ただ、当時まだ二歳だったギルベルトはというと、何の情報も持っていないだろうとそこに残され、おそらく今共に暮らす叔父に引き取られたということだ。
母親の確保により一件落着と思われた本件だったが、それから時が過ぎ、今になって母親から回収できなかった情報があると発表があった。そのため、息子であるギルベルトとその保護者となった叔父を調査することとなった。対象に接触しての情報の引き出しも含まれたため、それに配慮された人選が行われた。そういった経緯があり、イヴァンは年の近さも含めて適任と判断され、ギルベルトの監視を任命されたという運びだ。今回のように情報の引き出しを含める案件はそう珍しくはなく、相手の情につけ込んで任務を遂行することも多々あった。今回の任務もその内の一つと捉え、今回はどうギルベルトという対象を攻略しようかと、内心楽しみで仕方がなかった。
数日間しっかりとギルベルトを監視してわかったことは、彼は毎朝六時に起床し、すぐにジョギングに出かけるということだった。それから支度をして学校へ向かい、三時から四時の間に終業する。さらに、そのあとは友人と遊びに出ることもあれば、まっすぐ帰宅する日もあり、はたまた一人で買い物をしている日もあった。もちろん、まめにイヴァンにも声がかかり、そうなればイヴァンもギルベルトの『エージェントごっこ』に付き合ってやる。基本的に活発にいつも何かを楽しんでいるという印象だった。特に仲のいい友人は二人いるらしく、その人物についてもイヴァンは報告書をまとめた。
こうしてだいたいの行動パターンの把握が完了する。
ギルベルトと出会って、つまりイヴァンの任務が始まって、ちょうど二週間目の朝だった。まだ七時過ぎだというのに、ブラギンスキ家の玄関チャイムが鳴る。それが一体誰なのか、イヴァンはすぐにわかった。たった今、モニターで確認していたギルベルトが、登校するために家を出たところだったからだ。
しかしそうとは知らないイヴァンの父に扮した上司が、玄関へ出た。
呼ばれる前に顔を出すのも不自然なので、呼ばれるのを待っていると、案の定階下から名前を呼ぶ『父親』の声が聞こえる。
「あれ、ギルくん? おはよう」
階段を下り始めたところですでに目が合ったので、白々しくも挨拶をすると、『父親』はまた自分の用に戻っていった。
「よぉイヴァン。なんだ、起きてやがったのか」
「そりゃね、もう七時だし」
挨拶をしている間に、とっくに向かい合わせになっていた。
「お前学校行かねぇの?」
唐突な質問だった。
おそらくギルベルトは年齢が近いはずだと思っている。だからか、この近所の学校に編入しないのか、と疑問に思ったらしかった。イヴァンは任務内容で取り決められていた『イヴァン・ブラギンスキ』の設定を瞬時に思い出す。
「ううん、行かないよ。ぼくロシアの地方出身だから、全部通信課程で終わらせちゃったんだよね」
「そうか。お前が学校に来たら見張りやすいと思ったんだけどよ、残念だぜ」
「あはは、おあいにく様」
そう会話は終結して、じゃいってらっしゃい、とイヴァンは手を振ってギルベルトを見送った。立て続けに、ギルベルトの叔父の尾行をすると上司も家を出て行き、それも見送る。
ギルベルトの叔父に対しては二十四時間での監視が指示されていたが、ギルベルトは自宅周辺だけの監視で十分と指示書には記されていた。当時二歳のギルベルトよりも、その保護者となった叔父の方が、より多くのものを引き取っている可能性が高いためだった。
それでもイヴァンは本来ならばギルベルトの後を尾け、本当に学校まで行ったのか、学校で何をしているのかと監視をするところである。しかし本日に至っては違った。昨晩遅くに本部からの追加の資料が送られていたため、尾けることを取りやめて家で資料に目を通すことにした。
送られてきた資料は、ギルベルトの母親が担当していた案件を歴々と記した、大まかな報告書だった。なかなか優秀なエージェントだったようで、その息子であるギルベルトにさらに興味が深まる。
集中して読み進めていたとき。一時前ごろだった。軽い響きで玄関チャイムが鳴り、イヴァンは資料を置いて外へ出た。だが、誰もいない。訝しく思い、歩道へ出て周りを見回した。だが、やはり気配はなかった。
仕方がなく家へ戻ろうと踵を返すと、ポストに何やら挟まっているのが目に留まる。住所や切手などはないが、『イヴァン』と殴り書きされていた。これは宛名なのだろう。ただのメモ書きのように二つ折りになっているだけのそれを、誰かが突っ込んでいったらしい。……いや、誰かなどとは、内容を見なくても見当はつけられた。
特に何の疑問も抱かずに、それを躊躇いなく開いた。内容はこうだ。
『時は2による7回目の2のとき。2の鏡面の待つ12の前に来られたし。G,SAD』
暗号文のつもりだろう。イヴァンにこんなものを寄越すのはほぼ間違いなく、監視対象であるあの個体しかおらず……ということは最後の署名はおそらく。
『Gil, spoin aus Deutschland』ーードイツのスパイ、ギル
本人のドヤ顔が視界に紛れ込んだイヴァンである。呆れてつい笑ってしまった。
改めてそのメモ書きに意識を戻す。
二による七回目の二とは、おそらくはお昼の十四時のことを指しており、二の鏡面とは、この近所にある街で二つ目に大きな湖のことだろう。十二の前というのは単純に時計のことだ。
「こんな暗号文、暗号にもなってないよ新人くん」
もうギルベルトの気配はないが、わざと声に出して呟いた。
一体何の遊びなのか、めんどくさいことを思いつくなぁと思ったが、その実、先ほど緩んだ頬はそのままだった。期待の新人を自称しているギルベルトは、一体どんな楽しいことを準備してくれているのだろうか。望むのならこの遊び、付き合ってやろうではないか。
メモ書きをくしゃりと拳に握り込み、家の中に戻る。階段を上りながら、すでに癖になっていたが、このイレギュラーな行動を分析する。
二時に来いとのことだが、本来ならばその時間は、ギルベルトはまだ授業中のはずである。何らかの事情があって出席はしないのだろう。なるほど、そういう行動パターンもあるのか。自室に戻り、たった今のできごとをレポート用紙に書き記し、寄越されたメモ書きも念のため控えを取る。
それから二時までに指定の場所に行くためには、とだいたいのルートを調べ、準備を開始した。
そうして、思ったよりも近くにあった湖のある公園にイヴァンは赴いた。いつもの厚手のコートに、お気に入りのマフラーだ。それらが内包するのは、イヴァンだけでなく、もちろん愛用のナイフも四本。
その湖はギルベルトがメモ書きで記した『鏡面』と違わず、周りを囲った自然を全て反射して光っていた。すっかり寒さの深まったこの季節に、それでも凍っていない湖面はイヴァンには珍しく、公園の入り口から一直線に、湖面のほとりの木製のガードレールに駆け寄ってしまった。そこから見下ろせば、湖面までは二メートルはあるだろうか。見るからに深そうな湖だった。
それから景色を見渡す。なるほど、この湖のほとりを散歩したら気持ちがいいだろうなぁと呑気に深呼吸をする。
そうして、さあ、と気を取り直して目的の人物を探すことにした。この湖の周辺に、きっとわかりやすく時計が立っているはずである。
そう思い、イヴァンが右手側を見たときだった。
何やらこの湖のほとりで、見るからに頭の悪そうな集団がやんややんやと揉めていた。巻き込まれるのは面倒だなと脳裏を過ぎったイヴァンだったが、よくよく見てみると、そこにちょうど三メートル弱くらいの高さの時計が立っている。
ということは、ギルベルトはこの周辺にいるのかもしれない。嫌な予感がしたが、ハラハラというよりはウンザリと例えた方が正しい心持ちになる。
改めてその揉めている集団を見やると、その数人の男たちの隙間から、美しく靭やかに動く腕が一瞬視界に入った。その瞬間には、一人の男が地面に叩きつけられて肩を痛がっていた。
「やりやがったなぁ!」
イヴァンのところまで響いた怒声を気にする暇などなく、あたふたしている一人の男の影で、別の男が地面に落とされていた。まるで鞭がしなる音が聞こえそうなほど、柔軟な身体の動きが見える。次々と倒されていく大の男たち。
しかし最後の最後まで、イヴァンの視界を邪魔していた男は残っており、その他全てを払い倒した人物の姿を見せなかった。それがついに崩壊する。残っていた男が無計画に襲いかかったらしく、それまでと何ら変わらない美しく流れに沿った動きで地面へ直送されていた。痛みに呻く声が充満し、遠目からの野次馬も目ん玉を落としそうな顔をしている。
あまりの無駄のない動きに、イヴァンは唾液を丸々と呑み込んだ。
最後の男が倒れ、そこに姿を見せたのは、真っ黒なパーカーを羽織る制服姿のギルベルトだった。風になびく銀髪が、光のせいか透き通って揺れる。
イヴァンはその集団の中にギルベルトがいるのではと予想はしていたが、よもや息を呑むほど美しい動きを見せていたのが、その本人だったとは思いも寄らなかった。改めて一瞬の内に起こったできごとに息だけの感嘆を零す。ここまで洗練された身のこなしを見たことがなかったからだ。
痛みに悶え、地面にうずくまる他の男たちを見下し、ギルベルトはため息を吐いたようだった。それを見てイヴァンは「ギルくん」と声をかけようと一歩踏み出した。だが目前のギルベルトはイヴァンに気づく様子もなく「ふん」と鼻で笑ったあと、何を思ったか勢いをつけて木製のガードレールに飛び乗った。時計を掲げている柱を手すり代わりにそこに立ち、楽しそうに声を上げた。
「ケーッセッセッセッセッ! 俺様が握る情報が欲しいか!? だが渡さねぇ! 死んでもだ!」
響く高笑いにイヴァンは感激も冷め、我に返った。
ああ、やはりよく知るただのギルベルトである。
だがイヴァンは視界の端の異変に気づいてしまった。高笑いに続いてギルベルトがゲホゲホと咳込み始めたとき、
「え、ちょっと……ッ!?」
その隙をついてうずくまっていた一人の男が、ガードレールから引きずり下ろそうとしたのか、ギルベルトの足に掴みかかった。それでバランスを崩したギルベルトは、足がほつれ、重心が後ろに落ちる。
「は、ちょ、うそ……!?」
崩れたバランスでは頭部の重みに抗えなかったらしく、ギルベルトはそのまま数メートル先の湖面に真っ逆さまに落ちていってしまった。イヴァンは慌ててその姿の後を目で追う。囲っていた男たちはざわざわと情けなく嘆き合っていた。終いには逃げ出していく。
だがいくら不意にだったとは言え、制服くらいの軽い装備なら濡れても泳いでどこかに上がれるだろう。見れば湖のほぼ反対側には、貸出用ボートのポートがあった。そこまで泳げば上がれるはず。
だが忙しなくバシャバシャと鳴る水音は一向に収まらなかった。なんだなんだと野次馬がほとりに集まり始める。イヴァンも改めてギルベルトの方を見やると、何かを喚いていた。落ち着きのない水音に紛れたギルベルトの声を聞き取ろうと集中して、ついにはギョッとした。
「足! ひねった! 泳げねえ!」
――ああ、もう、バカ!
イヴァンは飛び込むか否か、一瞬だけ迷った。だがこの寒空の下、いつまでも湖の中で暴れ回り体力を奪われれば、確実に助からない。愛用のナイフに思いを馳せたが、背に腹は代えられなかった。
そのまま大きな身体を湖に投げ込んだ。
「は!? イヴァン!?」
突然飛び込んだその大きな身体がイヴァンだと気付き、ほっとしたのかギルベルトは無我夢中で手を伸ばしていた。
「いってえ!」
「ちょっと落ち着いて! もう! 世話焼かせるんだから!」
「わりい! でも足!」
「わかってる!」
イヴァンはギルベルトに掴まるように指示を出し、引っ張るように上がれそうな場所へ向かう。泳いでいくに連れ、ギルベルトは大人しくしおらしくなっていったが、同時にイヴァンは異変に気づいた。既に水温を暖かく感じ始めていたのだ。体温が奪われている。助けを求めようとしている貸出用ボートのポートの位置を確認する。こんな状態が数時間続けば死も覚悟が必要だが、とりあえずそれより先には上がれそうだ。
「もう! ほんと君ってバカなの!? なんであんな危ないところに立つの! 頭に来るんだけど!」
「ごめんって。ほんと……まさかこんなことになるとは……」
湖から引き上げられ、濡れた服に冷気が入り込む。ガクガクと顎を震わせながら、ギルベルトは寒さに耐えるように縮こまった。一方のイヴァンは寒さにも増して、水を吸ったコートやら何やらに、装備の総重量を増やされたが、そのまますっと立ち上がった。
「しっかり反省してよね!」
いつも冷静な自身がどれだけ腹を立たせているか、イヴァンは気づいていない。こんな事態が初めてだが、こんなに怒りを感じることも珍しかった。早く帰ってナイフの手入れをしなくては。身につけてきた精密機器は、防水のもの以外は全部発注し直しか。様々なことが脳裏を過ぎって、怒りが収まらない。
イヴァンは怒りに任せてギルベルトを担ぎ上げた。この寒い中、びしょ濡れになった二人だ。放っておけば、軽くても風邪くらいは引いてしまうかもしれない。
「おい、何すんだよ!」
「黙ってて! どうせ歩けないんでしょ!」
それから本当に一言も交わさずに、イヴァンはギルベルトを自宅まで運んだ。ぐちょ、ぐちょ、と水分を含んだイヴァンの靴音が耳に届く度、何とも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ギルベルトからすれば気まずいことこの上ないのだが、それでも歩けないのでどうしたって肩くらいは借りなくてはならない。ならば少々乱暴ではあるが、甘んじてイヴァンに従うことにした。自業自得であるし、この体勢の方がまだ顔を見なくて済む。
ギルベルトの自宅に到着すると、イヴァンは荒々しく「鍵!」と指示を出し、渡された鍵で玄関を開けたかと思うと、それだけだは飽きたらずに濡れたままの身体で上がり込んだ。まだギルベルトは担がれたままでいる。
それから「風呂! どこ!」と案内をさせ、到着したバスタブにギルベルトを乱雑に放り込む。無論まだ服は着たままだったが、まずは蛇口を捻り、お湯を解放させた。続いて呆気に取られていたギルベルトの上着をひっつかむ。
さすがのギルベルトも、それには抵抗した。
「お前いってぇんだよ! それに服くらい自分で脱ぐ!!」
ようやく正気を取り戻したらしいイヴァンは手を放し、それでも無言でギルベルトを見下ろした。お互い寒さゆえか、唇が紫になっていた。それを踏まえて何ともおぞましいその表情に、ギルベルトは背筋を凍らせる思いだ。無理もないがそうとうに怒っている。
「……いいね? もうこの際足は二の次。まずは身体をしっかり温めるんだよ」
「……は、はい……」
それを最後に、イヴァンは浴室を後にした。
そのあとも何度も口の中で悪態を吐いてしまったイヴァンである。今度は自宅に戻り、自分も浴室に一直線に向かう。服を脱ぎながらも、ギルベルトが取った行動に納得がいかないと、思考がぐるぐると巡る。外面として冷静を保たせるので精一杯だ。身につけていたナイフの水分をまずタオルで丁寧に拭き取り、拭き残しがないように、注意深く観察する。
流石に寒気が酷くなってきたので、一旦また別の乾布に並べ、自身も浴室に入った。身体の芯から寒気が抜けるまで、風呂に浸かる。サウナでもあれば最高だったのだが、間に合わせの一戸建てでは無理な相談である。
――せっかく美しい身のこなしに感動していたというのに。
またイヴァンは脳内でごちる。思い出したワンシーンが衝撃的だった分、苛立ちが湧く。これをどう処理しよう。バシャバシャと暖かいお風呂で顔を濡らす。そもそもここまで腹の底からざわつくことは今までなかったのだから、よほど落胆が大きかったのだろうと、イヴァンは自らを分析した。
だが、しかし。一瞬の怒りの隙間でまた感動がやってくる。……あの身のこなしは、ぜひまた見てみたいなぁ。そう思ったのも確かだった。
体をしっかりと温め、イヴァンは風呂から上がることにした。
もうすっかり気持ちも落ち着き、脱衣所で適当に体を拭く。風呂で冷静になる中で、負傷したギルベルトに対して少し乱暴に扱いすぎたかと反省する気持ちも浮かんでいた。だが頭に来た自分を肯定したい気持ちも拭えない。
必要な情報を引き出す前にギルベルトに勝手に死なれては、自分のキャリアとしても傷がついてしまう。それを後になって思い至り、やはり助けてよかったと実感する。それに、あの手の人間が乱暴だったかどうかなど、そんなことを気にしているとは思えない。……まぁ、足の手当てくらいはしてやろう。確かにいいものは見せてもらった。
部屋に戻ると、綺麗さっぱりに着替えなどを済ませたギルベルトが、窓辺で待っていた。さらさらと細い髪の毛も、本人の動きに合わせて軽くなびく。
一方でまだ乾かしていない髪の毛にタオルをかけたままのイヴァンである。
それをちょいちょいと手招きしながら、ギルベルトは窓を開けている。仕方なくイヴァンも自身の雨戸を開けて応対する。冷ややかな空気が部屋に入り込むが、風呂で火照った体には心地がよかった。
目前のギルベルトは反省しているのか、言いづらそうに口を尖らせ、
「さっきは世話かけて悪かったな……くそ、敵に借りを作っちまったぜ」
悔しそうに視線を外した。
それを見て、改めて肩の力を抜いたイヴァンである。
「まぁぼくも乱暴にしすぎたよ、ごめんね。君はぼくの監視対象だから。勝手に死なれたらぼくの評価に関わるんだよ」
助けた理由をあえて述べる。実際そのときはこんなことは微塵も脳裏になかったことは、イヴァンすら既に忘れていた。
ギルベルトはイヴァンの機嫌を伺ったのか、その表情を盗み見て、何かに気づいたように体を向けた。
「……って、おい、ちょっとこっち寄れ」
「え?」
「いいから」
言われるがままにイヴァンは、ギルベルトの部屋の出窓の側に寄るため、初めて自身の部屋のベランダに出た。いつもよりも薄着のため、先ほど心地いいと思った冷気が、さらにひやりと体を包む。一滴、髪の毛から滴った水分が、足の甲を冷やした。
不意にギルベルトの手のひらが窓から伸び、イヴァンの頭にかかったタオルごと、その頭に触れた。ふわりと、せっけんのいい香りが鼻を撫でる。
「お前こんなに濡らしてっと風邪引くぞ」
そのままわしゃわしゃと、楽しそうにイヴァンの頭を拭う。
「本当にロシアから来たのかよ、緊張感ねぇな」
なんでもないことのように行われたそれは、イヴァンには大きな衝撃だった。なぜここまで衝撃だったかは、イヴァンにもわからなかったが、それはもうタオルで顔が隠れていてよかったと思うほどに動揺した。こんなことをイヴァンに対して行う人も初めてだったが、イヴァンが軽率にこれを許してしまった人も、やはりまた初めてだった。
ーーギルベルトに気を許しすぎているのではないか。
そこでようやく、この異常事態に気がついた。
「おらよ。あとはちゃんとドライヤーで乾かせよ! ケセセセ!」
だが、その手を払いのけることはできないまま、ギルベルトが満足してタオルを差し返した。
瞬時にその自信たっぷりの笑顔を拒まなければという思考も浮かんだが、何もできないまま間抜けにもタオルを受け取ってしまう。いや、ここで拒めばこれまで築き上げた関係性を崩してしまう。そうすれば任務に支障をきたす。……そう、これでよかったのだ。
「んだよ。変な顔してんじゃねぇよ、お前ほんと幼いな顔」
いつもの笑顔とは違う、少し控えめな微笑みを見せた。
「とにかく、これで借りは返したからな」
さらっとギルベルトは垂れた。予想外の会話の展開に、唐突に現実世界に戻った気分である。
「え? 待って。それぜんっぜん釣り合い取れてないけど!?」
抗議してやれば、ギルベルトも反論しようと息を吸う。
「いいんだよ! 風邪引いて死ぬのも湖に落ちて死ぬのも一緒だろ!」
「いや、それは暴論だよ! かなり違う!」
さすがにそれでは納得されないことをわかっていたのか、そこでギルベルトは引き下がった。
「なんだよ。……じ、じゃぁ、また俺様の家で紅茶でもご馳走してやるよ」
照れ隠しなのかボソボソと呟いたかと思えば、「ジャムも、準備したし」と付け加えて笑う。
先日まではロシアでは紅茶が主流だということすら知らなかったギルベルトの言葉だ。そう思うと、少しくすぐったい気持ちになった。
「……調べたんだ?」
「……て、敵の趣向を把握することも大事だからな!」
「ふふ、ありがとう」
なぜかそれが嬉しくて、笑みがこぼれてしまう。そう、少し思考回路があれだが、それでも根は優しくていいやつなのだ。……気を許しているのも、お互い様のはずである。情報を引き出すためなら、このままでいい。
「あ、ちゃんと足のケアした?」
唐突に思い出したのでイヴァンは投げかけた。
立っている位置から覗き込もうと体を乗り出してみたが、出窓の陰に隠れて見えない。
「え、あぁ、今からだ」
「ダメだよ、ちゃんとしなきゃ。エージェントは体が資本なんだから」
面倒くさそうに返したギルベルトを深読みしてしまった。きっとギルベルトは手当てを適当に済ませるんだろうと睨んだイヴァンは、のそのそとギルベルトの部屋の窓枠に手をかけた。
「ちょ、おま、何やってんだよ、危ねぇよ」
重心を持ち上げて、大きめのその体をギルベルトの部屋の出窓に乗せる。
「なんか、もういいかなって」
「うわ、ガサツだな」
そのまま部屋の中に降り立った。
「はい、足、見せて」
強引にベッドに座らせ、イヴァン自身はその前に片膝を突いてふくらはぎを持ち上げた。特に前置きを置くわけでもなく、とりあえず足を掴み、足首を軸にぐいっと捻ってやった。
「いっ、ってぇよ! 加減しろ!」
「痛かった? ごめんね」
言いながら今度は反対側にひねる。
「いってぇって!!?」
「あら、これも痛い? 結構しっかりひねってるね。包帯とかある?」
「ねぇ」
「もう、基本だよ。ちょっと待ってて」
また先ほどのように出窓に登り、今度は自身の部屋のベランダに降り立って、部屋に飛び込んだ。常備している小さめの救急箱をしっかりと手に持ち、そのままギルベルトの部屋に戻る。もちろん今回も玄関は経由しない。
その救急箱を用いて、イヴァンはギルベルトに応急処置を施した。あまりこう言ったことが得意ではないイヴァンを見かね、途中からギルベルトが自分で包帯を巻いた。イヴァンが施すよりもよほどきっちりと巻かれた包帯を眺め、「はい、これで大丈夫」とイヴァンは我がもの顔で放ってやると、ギルベルトは「やったの俺様だ」と笑って抗議する。「まぁ、ぼくなら病院に行くけどね」と素知らぬ顔で付け加え、それに対しては「いいよ、めんどくせぇ」と軽く返される。「そう」と呟きながら、ようやくイヴァンはギルベルトの隣に腰を移した。
「まぁ、勝手に死ななければぼくも別に強要はしないよ。ぼくの知らないところで危ない目に遭うのはやめてね」
それまでの調子よろしく、軽くイヴァンは告げたが、ギルベルトは大層な間を設け「は?」と問い返した。
「それどういう意味だよ」
「え?」
今度はイヴァンが問い返す。一体ギルベルトは何を深読みしたのだろうか。疑問に思いながら、「あ、あぁ、君はぼくの監視対象って言ってるでしょ」と答えはしたが、『ロシアから来たスパイ』という設定が定着しているはずなのに、と困惑を深める。ギルベルトは図らずしてイヴァンの機密を全て言い当てているので、どこか本当ではないのだろうという心持ちがあると見える。
何故かお互いの腹を探り合うような時間が過ぎった。沈黙の内に視線は交わされ、読めないお互いの思考が本来の付き合いの浅さを教える。しかしイヴァンとしては気づかれるわけにはいかないその浅さだ。
別の話題を見つけて、空気を入れ替える。
「あ、でも、君って本当に合気道強いんだね」
言ってやると、ギルベルトはあからさまにその夜明けのような瞳を輝かせた。言葉の後に「なんか純粋な合気道ではなかった気はするけど」と付け加えると、それはまた嬉しそうに「おお、わかったか!」と身を乗り出され、「俺様流だぜ!」と飛びつく勢いで力説される。
「うん、すごかったよ。君、武器いらないと思う」
素直な感想としてそう述べたイヴァンは、離れてくすんだ美しい瞳に、少し残念な心持ちになる。ギルベルトは落ち着くように隣に座り直した。
「でもなぁ、素手じゃどうしようもねぇときあるだろ」
「……武器に頼るよりぼくはずっと好きだけどね。ねぇ、それ自前?」
突拍子もなく問いかけ、ギルベルトの瞳をイヴァンは覗き込む。それで何を問われたのかを知り、ギルベルトは「ああ、そうだ」とさらに瞳を寄せた。
「こいつとこの頭のせいでよく絡まれる」
「さっきのも? 君のことだからてっきりカラコンなのかと思ってた。自前なんだね。きれいな色。もっとよく見せて」
鼻が当たりそうなほどの距離に二人はいたが、ギルベルトもイヴァンの街明かりに照らされる夜更けのような瞳に見入り、そんなことには気づきもしない。初めは忙しなく左右を見比べているイヴァンの瞳を追っていたが、それが落ち着くとギルベルトもじっくりと虹彩と角膜のコントラストを見ていた。その内に吸い込まれるよう、瞳孔に視線が寄る。目が合ったような気になり、ドキリと心臓を鳴らしていたなど、イヴァンは知りもしなかった。
「ぼく本物のアルビノって初めて見たなぁ」
惜しげもなく距離を戻す。
ギルベルトが息も止まりそうになっていたなどとはやはり知るよしもなく、同時にギルベルトは目が合ったのは錯覚だったと自覚した。
「け、ケセセーっ!! か、かっこいいだろ!!」
「うん、かっこいい。うーん、きれい、かな。ほしくなっちゃうな」
それは本心だったので、素直に笑顔を作ってみせた。続けて、なぜギルベルトは虚を突かれたような顔をしているのかと首を傾げる。
また言葉が消え、イヴァンは新しい話題を見つける。
「……あ、そういえば」
「ん? なんだ」
「ぼくのポストに入れてたあれ、なあに?」
そう、イヴァンが見つけた話題というのは、ギルベルトが寄越した謎の暗号文のことだ。
いろんなことがあったためすっかり忘れていたが、あれはあれでその先を期待していたので、イヴァンはまた話題を引っ張りだした。
「あ! そうだぜ! すっかり忘れるところだった! やいイヴァン!」
「なに? 雑だなぁ」
わざと呆れたように笑ってやる。
ギルベルトは久しぶりに見るような悪い笑顔を浮かべて、何故かイヴァンの胸ぐらを掴んだ。薄着のイヴァンに違和感を抱きつつも、「ここにいるってこたぁ、俺様の招集状を受け取ったんだな!」と声を張った。対するイヴァンは冷静に「そりゃぼくん家のポストにぼくの名前書いて入れてたら、ぼくが受け取るよね」と笑う。
「くっ! 今日は俺様とお前の共同戦線を張ろうと思っていたのだ!」
「……ロシアとドイツなのに?」
「そうだ! お前の協力が必要だったからだ!」
掴まれていた胸ぐらが手放される。
「……だった?」
「おう、今日はもういい。忘れろ」
声のトーンが下がる。
きっと飛びきりの何かを用意していたのだろうが、流石にもう実行する元気はないらしい。しかしここまで下準備をしていたのかと思うと、イヴァンも容易には引き下がりたくはなかった。
「ふーん、なんだろ。気になるな。ぼくをあんな風に呼び出すくらいだからなぁ」
「……ま、まぁ、また機会があったらな」
控えめにギルベルトは笑う。機会があればまたこのイベントを発動してくれるらしいので、とりあえず深追いはしないことにした。どこかギルベルトがそわそわしているような気がするが、「あ、せっかくだから紅茶出してやるよ!」と威張りしくさったので、なんだ、いつものギルベルトか、と素直にもてなしを受けることにした。
つづく