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    3 ✝ Heart Beat 〜穿つ音〜 ✝

     イヴァンとギルベルトが近所の湖に落ちてしまってから、一週間も過ぎていなかった。
     軽い捻挫だと思っていたが、ギルベルトが観念して病院に行った結果、部分的に靭帯を切っており、全治三週間から一ヶ月との指導を受けたようだった。その期間、ギルベルトは大変に大人しく過ごしていた。
     お向かいということもあり、お互いの窓を開けっ放しにして窓越しにおしゃべりをしたりという場面もあったが、いよいよ寒さが本格的になり、それもできなくなっていた。
     イヴァンは今日も、任務遂行のためにどうやってギルベルトとの距離を縮めようかと考えていた。回収しなければならない情報は、ギルベルトの母親の故郷がどこかというものや、母親が後生大事に守っていた本やノートがどこかにないかということだった。……だが、現在叔父と暮らしているギルベルトに真っ向から母親の話題を振るのは如何にも厚かましい。なので、まずは二人の距離を縮めることに専念したいと言うわけだ。……イヴァンとしては、対象の方に「聞いて欲しい話がある」と言わせるのが目標である。
     ……というわけで、ギルベルトとの距離を縮める話題を考える。
     もう何度も反芻した監視対象の生い立ちを記した資料。それを片手にぼんやりと、モニターの中からヒントを探す。ギルベルトにとっては放課後である。今日は雨が降っており、珍しく暗さの目立つ日だった。
     背もたれに重心を置き、椅子に深く座り込んでそれとなく観察を続けいてるが、ギルベルトはしばらく机に張り付いて離れない。ガリガリと何かを書いているのでてっきりそれは宿題などの類と思ったが、よくよく見れば反対側に武器図鑑の内の一つが開かれていた。……武器のスケッチでもしているのだろうか。
     ――よし、次は武器の話題で行こう。
     先日見させてもらった武器図鑑の背表紙を思い描く。銃火器が好きなんだなと思ったことを思い出したが、刃物の図鑑もそれなりにはあった。
     銃火器や刃物くらいであれば、今さら何かを調べたりして準備してやる必要もないか、とスピーカーとモニターの電源を落とす。座っていたモニターの前から立ち上がり、真っ直ぐに窓辺に向かう。
     ゆっくりカーテンを開けてやる。モニターで確認して分かっていたことだが、ギルベルトの部屋もカーテンが引かれていたので、少し雨に濡れているベランダに出て、トントンと優しく窓をノックしてやった。ガタガタと家具のぶつかり合う音が聞こえ、慌てたような顔つきでギルベルトがシャッとカーテンを開く。
     嬉しそうにニヤリと笑うので、思わずイヴァンも頬を緩めてしまう。
     いそいそと窓を開け、
    「よぉ、イヴァン。なんか用か」
    と出窓を支えに身を乗り出した。
    「うん、読んでた本が終わったからさ、暇になっちゃって。ごめんね、勉強してた?」
    わざと気を使うように確認してやると、またギルベルトは嬉しそうに、だが今度はそんな表情は誤魔化すように、悪い顔をして見せた。
    「ははーん。さては、本とか言いながら俺様に関する資料だったんだろ。そんで直接探りを入れに来たんだな」
    「……はは、君には敵わないや」
    喜びそうな反応を示してやる。
     狙い通りご満悦になったギルベルトは、「いいぜ、来いよ」と偉そうに招いた。……だが、イヴァンがまた窓枠に手をかけたのを見るや否や、「って、おい!?」と慌てて制止を入れられた。
    「さすがに今日は玄関から来いよ! 滑って危ねぇぞ!」
    「平気平気、」
    イヴァンはひらりを身体を持ち上げ、ひょいとギルベルトの自室に降り立った。少しだけ雨がかかったがそう問題にするほどでもない。
     ギルベルトは「あーあ、セーター濡れちまったぞ」と水滴を軽く払い、「ん?」と首を傾げた。
    「なぁ、お前えらく着込んでんな? 普通室内でマフラーもしねえだろ。お前の部屋、そんなに寒いのか?」
    「え?」
    素朴な疑問だったのはわかるが、イヴァンはギョッとした。……確かに。これは不自然だ。イヴァンが厚めのセーターやジャケットを室内でも着用しているのは、もちろん装備しているナイフなどを隠すためである。だが、それを言ってしまっていいものか、考えを巡らせる。
     心配そうに「暖房ねえの?」と問うギルベルトを見下ろし、いや待てよ、と思慮を改める。逆にこの好奇心旺盛で、自分がエージェントである妄想を楽しんでいるギルベルトは、「実は武器を隠し持っている」と言ってしまっても、それはそれで喜ぶのではないか。むしろ少し気を引くにはちょうどいい話題かもしれない。
     考えて何も言わなかったイヴァンに対し、ギルベルトは勝手に「まぁ、色々あるよな。いつでも来ていいからな」と結論を出した。まさかのその結論にイヴァンは苦笑を漏らし、早速ギルベルトの気を引くために自然な流れを構築しようと口を開く。
    「……違うよ。やだなぁ。人並みには生活できてるよ。そうじゃないんだ」
    わざとらしくギルベルトのベッドに腰を下ろす。何度かそうしていたが、やはり少し硬めマットレスだった。ベッドカバーに皺が寄る。足首に包帯を巻き、机を支え代わりにしていたギルベルトが、不安定に隣に腰を下ろした。
    「じゃあ、何なんだよ」
    やはり思わせぶりな言葉づきに興味津々だ。イヴァンは確かな手応えを覚える。「ふふ」と笑みを零し、少し焦らしてやり、さらにギルベルトの期待を煽る。なんだなんだと顔を寄せるギルベルトが、「あ、」と閃きを放った。
    「もしかしてあれか!?」
    何を思ったか、無遠慮にイヴァンの腰を目掛けて手を伸ばした。そのままがっしりと、そこに隠していたはずの厚いナイフをセーター越しに掴んだ。
     これには改めて驚いたイヴァンである。……いつバレた。先日のことを思い出す。湖に落ちて足をひねったギルベルトを、立腹しながら担いで帰ったときのことだ。侮れないと焦りも抱いたが、あくまで余裕を保つように心がけ、「あれ、いつ気づいたんだろう」と前開きのセーターのボタンを外し、それを取り出して見せた。
     余裕と信頼を見せつけるため、何の迷いもなくそれをギルベルトの手の中に押し付ける。
     反射的にそれを握ったギルベルトは、まじまじと見やり、
    「い、イヴァン?」
    助けを求めるようにイヴァンの瞳へ視線を移した。まさか本物が出てくるとは思っていなかったのか、それを持て余しているようで、素直に動揺している姿はイヴァンの心の片隅をくすぐる。そのくすぐられたものが優越感だとは気づかないまま、気を良くしたイヴァンは「うん?」とギルベルトの疑問符をさらに煽った。
     そこに握らせたのは、ハンティングナイフだ。ホルダーに入っているとは言え、隠れていないナックルガード部分が鈍く光っている。武器にそこそこ詳しいギルベルトは無論のこと、ホルダーの上からでもその刃の独特の形状もわかるようだった。
    「あれ、それのことじゃなかった? 前にも話してたよね。ぼくの得意武器はナイフで、四本隠し持ってる。君も言ってたじゃない」
    さあ、ギルベルトはどう反応するだろうか。……好奇心が勝り、さらにイヴァンに興味を抱くのか、流石にこれはと腰を引くのか。あくまで観察を続ける。
    「でもこれ、ほんもの……」
    落とされた驚きに満ちた呟きを聞き、それを拾い上げる。ギルベルトに発破をかけるよう笑顔を作り、
    「何言ってるの、当たり前じゃない」
    と言い放った。
     どう当たり前なのかと、握らされたナイフに視線を落としていた。ホルダーの外し方を指で示し、ギルベルトは示されるがままにそれを外す。よく手入れされたナイフの刃が露になり、ギルベルトはそれを電気に翳した。光の線が淵に沿い、美しい線を強調していた。
    「くるぶしにあるのはスペツナズナイフ。撹乱とか、もろもろ。君が触ってるそれは、敵の息の根を止めるための。……きれいでしょ」
    「おお……すげぇ」
    満足したようにそれをまたホルダーに戻し、好奇心に変っていた瞳のまま、イヴァンの視線を捉えた。ドキリと心臓が驚く。その煌びやかさには、まるで見透かされているように錯覚する。
    「……じゃ、それは」
    そのスラリとした指先が指し示したのは、イヴァンの心臓の方向であり、なおさら激しくイヴァンのそれを揺さぶる。
    「そこにもあるんだろ」
    念を押され、イヴァンは反応することを思い出し、
    「……ああ、この左胸の?」
    そこにまた自身の手を忍ばせた。
    「……これだけはまだ使ったことがないんだ」
    そうして開いていたセーターから取り出したのは、シースナイフ。クリップポイントの、いわゆる小型のナイフである。その革製の鞘にはギルベルトの見たことがない焼印が入っており、そのナイフの形状もよく見るものとはどこか少し違う逸品であるとすぐにわかった。
     既にその手にはゴツゴツとしたハンティングナイフを持っていたため、それを膝に置いてから、差し出された小型のナイフを受け取る。先ほどホルダーから出すことを許されていたこともあり、今回は確認もせずに鞘から抜く。
     一見、何の代わり映えのないクリップポイントのナイフだというのに、何故かその形状には不思議な魅力を覚え、目が離せなくなった。おかしな気持ちにさせる何かを、それから感じ取る。
     一緒になってしばらく眺めていたイヴァンだが、余りにもそれに見惚れるので、気を引こうと身体の重心を後ろへ引いた。
    「……それは、どんなときに使うと思う?」 
    「え?」
    本物のナイフに見入っていたギルベルトは、何とも間の抜けた声を出した。唐突な問いかけに怯むことはわかっていて、あえて投げかけた質問。イヴァンにとってその質問はギルベルトの気を引くためだけのものではない。未だにドクドクと力強く脈打つ心臓、その奥のほうで、こんな生き方を認めてもいいものか、誰かの見解を知らずに欲していた。
    「これはね、自分用だよ」
    迷いもなく、嘘偽りも一切まとわず、イヴァンは笑ってみせた。
     ギルベルトの眉根が微かに寄る。
    「情報を渡すくらいなら、この心臓は自分で後始末するんだよ。君だってこの間言ってたじゃない。『情報は渡さねぇ、死んでもだ』みたいな」
    「後……始末……」
    反感を隠すこともなく、ギルベルトは零した。
     言ってしまえば、単なる妄想の中でしかないギルベルトの『守られた世界』と、現実にそこで生き抜いてきたイヴァンの『死と隣り合わせの世界』とでは、認識に齟齬が存在することは必至である。
     その齟齬を掲示して、イヴァンがギルベルトに訴えたかったこと。……その真意に気づいていないのは、イヴァンも同じである。
     なるべくどんな感情も悟らせぬよう、イヴァンは見せた笑顔を持続させ、言葉を加えた。
    「……生きてるだけで、その体からもたくさんの情報が取れるからね」
    不服そうな表情を同様に持続させていたギルベルトも、拭えぬ歯がゆさに声のトーンが落ちていた。
    「そうだけどよ……こんなもん常備するのはさすがの俺様もちょっと……」
    語尾を濁した。
     さあ、一体ギルベルトはどうイヴァンを位置づけるのか。ドキドキと打ち付ける緊張感は見て見ぬふりで、イヴァンはギルベルトの観察を続けた。……この様子だと、興ざめしたようにも取れる。ギルベルトの性格をしっかりと把握していたイヴァンは、どうすればいいのかもわかっており、先手を打つことにした。
    「こわい?」
    本気で心配しているような素振りで、イヴァン自身にしかわからぬよう、挑発してやる。……こうすることで、十中八九ギルベルトは、対抗心を燃やすのだ。
     すぅっと大きく息が吸われた。
    「ばっ、バーカ! 感心してんだよ! やっぱりロシアとドイツとは言え、エージェントとしては先輩だからなお前は! すげえよ!」
    頬が緩むのを容易く抑える。こういうときの仮面はよく訓練されている。
     まるでイヴァンの手のひらの上で転がされていることにも気づかずに、ギルベルトは大口を開けて笑った。イヴァンが無理矢理に受け入れさせたそれは、『イヴァンの方が俺様より深くてかっけえ』というよくわからない憧れだ。一方イヴァン自身にもこの出来事は大きかった。今回の話題をギルベルトが受け入れたことで、この先どんな真実を話しても、『ディープなだけ』と思い込ませられるという自信にもなった。……嘘をつかなくていい任務とは、一体どれだけ気が楽だろうか。
     これでギルベルトは意のままとまでは思っていないが、幾分かイヴァンに対する興味関心度を上げられたという自負にもなる。
     ギルベルトが思いつかないほどのたくさんの思惑を抱えているとは知らず、ただ「えへへ」と可愛らしく笑うイヴァンは、しばらくギルベルトの好きな武器についての話で盛り上がってみせた。

     その日の話の延長線上だった。
     任務遂行が最優先のため、『明日から叔父が出張するからその準備に追われており、夕食は一人で食べるんだ』と話したギルベルトに、イヴァンも『奇遇だね、うちもだよ』と伝えて、一緒に夕飯を食べることになった。……と言っても、単なるレトルトのカレーである。相変わらず窓の外は雨の音でいっぱいだった。
     ギルベルトの部屋にカレーの匂いが充満する。黙々とではなく、雑談を交えながら食事をした。その中から何かしらの情報をと、色んな話題で試行錯誤しているイヴァンである。
     食べ終わり、「まだ小腹空いてんな」とごちるギルベルトは、並んで座っていたベッドに身体を投げ出していた。
    「ギルくんはさ、その、どうしてエージェントに?」
    そこで降らせた問いは、どちらかと言えば単なる疑問だった。何かを探ろうとか、そういうことではない。……ただ、話している内に、どうしてギルベルトはここまでエージェントに、この妄想の世界に拘るのか、少しだけ気になった。
     身体を投げ出して、天井を見つめたまま、ギルベルトはボソリと呟いた。
    「……敵討ち、かな」
    「かたきうち?」
    「おう」
    上から顔を覗き込めば、ギルベルトの注目もイヴァンに向く。
    「……どんな?」
    先程まであんなにおしゃべりだったギルベルトは、何故かその先を言おうとはしなかった。いつもその妄想は饒舌に語られるというのに、何故かそうはならないのだ。そんな態度に、イヴァンはなおさら好奇心をかき立てられる。……どんな答えでもいい。例えそれがより深い妄想の中から湧くものでも、それを聞くまでは引きたくないという気持ちを自覚した。
     そのぼんやりとした眼差しでイヴァンを見据えるギルベルトは、何を吟味しているのだろうか。意志を持たないその瞳と、しばらく睨み合う。日も暮れたというのに全く雨が止む気配はなく、明るさの足りなくなった部屋の中では、全てが意味深に思えた。
     ギルベルトはようやく口を開いた。
    「お前だから言うけどよ、俺様、小さいころ、家にスパイが来たことがあってよ」
    「うん?」
    「そんときに、両親が連れてかれたんだ」
    それを聞き、イヴァンは報告書の文面を思い出した。じわじわと迫る焦り。……ギルベルトは、己の両親の身に何が起こったのか、覚えている……?
    「……それは、何歳のとき?」
    「覚えてねぇ。まだかなり小さかったんだと思う。けど、はっきり覚えてる。最後の最後に、母親の何とも言えねえ目と目が合ったから」
    残像として残る、絶望の眼差しだろうか。それとも助けを求めるようなそれだろうか。……いや、最愛の息子は無事で済むかもしれないという安堵だったろうか。イヴァンは図らずして、ギルベルトの母親の心象を勘ぐってしまった。途端にぎゅっと胸が締め付けられる。
     まして、それを記憶の片隅に植え付けられる、まだ幼かったギルベルトは、どれだけ己の非力さに敗北を舐めただろうか……。
     それ以上その力を持たない瞳を見ていたくなく、ギルベルトに被せていた影をそこから退けた。……いつもあんなにも意気揚々とし、あまつさえ生気の塊のように楽しそうな空気を放っているギルベルト。それの、ここまで空っぽの思考を覗き込むのは恐怖に近く、受け入れ難いものだった。そっと優しく「……そうなんだ」と呟いて、それで終いにした。
     あえて雨に向けて逸らしていた思考と視線だったが、
    「……お前いいやつだな」
    つんつんと、イヴァンのセーターの袖口が引っ張られた。
     寝転がったままイヴァンを見上げるギルベルトは、薄っすらと笑う。
    「この話しても誰も信じてくんねぇからよ。しばらく話したことなかったんだぜ」
    その初めて見るギルベルトの様子に、イヴァンの心臓がまた脈を強く早くする。ドクドクと、こんなにも早く波打っているというのに、それでもイヴァンはそれには気づかないふりをする。――監視対象に思い入れなど、もっての他だ。そんなことはあってはならないのではなく、『あり得ない』。
    「そうなんだ?」
    あくまで平静を装う。むしろ果敢に挑むように、ギルベルトの額を撫でて、その透き通る前髪を後ろに押し付けてやる。
    「でもそれ今更じゃない?」
    そこから手を放し、得意のにこやかな笑顔を作ってやる。
    「ぼくはロシアからのスパイで、君はドイツの敵討ちに燃える期待の新人エージェントなんでしょ?」
    言うと、ギルベルトはとても嬉しそうに笑った。
    「まぁ、そういうこった。ケセセ」
    あまりにもその笑顔が愛おしく、イヴァンは無意識に微笑んでいた。ギルベルトもそれに応える。……それからふ、と。我に返るくらいの、本当にふとした拍子だった。互いに自覚した衝動に、視界がぐらぐらと震蘯する。ドクドクと、今度こそイヴァンも自覚せざるを得ないほどの動悸がする。
     二人の抱いた強烈な衝動が、部屋の中の雑音を消していく。視覚以外の他の五感が全てわからなくなる。思考が浮かぶ隙もなく、ただ釘付けになり――
    「おーい、」
    ガシャリとギルベルトの部屋のドアが開いた。
    「ギルー! て、ん?」
    二人は驚きに任せて、ほぼ同時に息を吸った。
    「あ、お、叔父さん。えと、なんだ」
    「え、あ、いや、その……なんだったかな」
    あまりのギルベルトの狼狽え具合と、ただならぬ空気を察した叔父は、そのまま部屋の扉を閉めて出て行く。
     残していった余韻を確認し、ギルベルトとイヴァンは見合わせた。……今、お互いの中で何が起こったんだ。イヴァンは焦った。今、もし、もしもだ。もしギルベルトの叔父が部屋に入って来なかったら。そう思うと、鳥肌が立った。
    「ごめんね、ギルくん」
    何ともよそよそしく、イヴァンはギルベルトのベッドから立ち上がった。窓辺に向かいながら、ぎこちなくも笑ってやる。
    「ぼくそろそろ帰るよ。君も明日学校だろうし」
    「あ、おう。そうだな」
    後を追い、ギルベルトも起き上がった。そのまま机に手を突き、なるべく捻挫の足首に負担をかけぬよう、片方に重心を置いて歩いた。出窓に登ろうと膝を上げたイヴァンを後ろから見やり、
    「……また来いよ」
    飛び切り寂しそうな声でそれを呟いた。
     思わず振り返ってしまったイヴァンは、また激しい脈を自覚し、衝動をかき消そうと慌てて自身のベランダに移った。
    「うん。また来るね、ギルくん。おやすみ」
    極力ギルベルトを見ないよう、急いで挨拶を済ませ、イヴァン本人の部屋に入る。ギルベルトの寄越す挨拶にも少しだけ反応をしてやり、笑顔で手を振りながら、雨戸とカーテンを閉めてやった。
     ――焦った。
     イヴァンは無意識の流れ作業で、部屋の電気をつけるよりも先に、モニターの電源を入れた。スピーカーのつまみを開き雑音を確認すると、そこでようやく部屋の電気をつけるのだ。パソコンの電源はさらにここからだが、今はそこには至らなかった。
     頭を抱えるようにベッドに腰を下ろす。信じられなかった己の衝動を、どう払拭すべきか思案する。
     違う。先ほど感じた、強くギルベルトに引かれる衝動は、違う。そういうのじゃない。そう、ギルベルトがあからさまにイヴァンに好奇心を抱いていたので、それに応えようと思っただけである。ドクドクと打ち付ける動悸を鮮明に思い出す。思い出すまでもない。未だに打ち付けているのだ。勘違いでなければ、ギルベルトは並々ならぬ感情をイヴァンに置き始めているようだった。任務を遂行する上で、それはこの上なく喜ばしいことである。そう、これでいい。男であろうと、情報を引き出さねばならぬ対象から好意を寄せられるのは、それだけイヴァンが優秀な証である。そう、これでいい。このままでいい。ようやく脳みその中だけが、少し落ち着いた。
     カシャカシャと陶器のぶつかるような音が雑音に紛れて耳に入り、顔を上げる。
     ギルベルトがモニターに映っていることに気付き、強張っていた心の一部が、ふわっとほぐれるような心地を味わった。先ほどの笑顔を思い出してしまう。……ちがう、そう言い聞かせて掻き消し、意識的にモニターに集中する。
     ギルベルトは二人分の食べっぱなしのカレーの容器を片付けていた。――しまった。余裕をなくして失念していた。足を痛めているギルベルトの代わりに、食器を片付けようと思っていたはずだった。反省とともに、また微かな焦りを自覚する。
     イヴァンは目を瞑る。
     舞い上がるようにまたざわつき始めた体を抑えようと、深呼吸をする。氷や雪のような冷めたものをイメージして、冷静さを取り戻そうとする。
     自分はギルベルトのことを何とも思っていない。ただの監視対象だ。
     再確認して、もう一度モニターを見やる。
    「――し。大丈夫」
    あたかも感情の上書きが完了したかのように、もうギルベルトを見ても動揺はしない。己の心臓も、なんとも静かなものだ。そう、静か。この脈はいつものこと。そこに好意があったとしても、それはギルベルトの一方的なもの。そう、そういうこと。
     ようやくイヴァンはパソコンへ向かい、報告書を入力するまでに気力を回復したようだった。

     明くる次の日。雨は止んでいなかった。
     雨だと松葉杖が汚くなるから、と昨日は叔父がギルベルトを学校へ送ったものだが、その叔父は今朝早くに出張に出かけてしまった。……叔父の監視を担当していたイヴァンの父親役の上司も、言うまでもなく、ギルベルトの叔父とともに『出張』に出て行った。
     ギルベルトは応援を頼んだらしく、いつもの登校時間よりも早い時間に、近所に住むエリザベータとローデリヒという幼馴染二人が迎えに来ていた。エリザベータは文句を言いながらも、なんだかんだと楽しそうに肩を貸し、三人でやんややんやと登校して行った。……ギルベルトの姿が見えなくなるまで、イヴァンはずっとそれを見ていたので知っている。
     松葉杖がないと行動できないギルベルトは、自宅以外で監視する必要はないように思えた。なのでイヴァンは自宅に残り、自身が仮眠を取っていた間の監視カメラの映像と音声の確認作業を消化していた。……見事なまでに寝息しか収録されていなかった。
     そうこう日が暮れ、雨は結局止まないまま、夕方が訪れた。朝よりも激しくなっている雨音は、何故だかイヴァンを懐かしいような、新鮮であるような、そんな不思議な気持ちにさせた。
     だが、時計を見て、未だにギルベルトが帰宅していないことには訝しむ。というより、いつもの帰宅時間の四時を過ぎたころから、少しずつ気になってはいた。……もしかしてこの雨の中、誰もサポートできる人がおらず、一人で四苦八苦しているのではないだろうか。今日くらい、ちゃんとついて行けばよかっただろうか。イヴァンはそう思い始めていた。
     叔父の留守中にイヴァンが受け持つことになった、バイルシュミット家の自宅の細部に渡る監視。それを遂行するためにイヴァンの部屋には、数々のスピーカーが集められていた。今まで上司が一人で請け負っていた、ギルベルトの自室以外の音声が、今だけはここに集結していたのだ。その内の一つ、玄関から廊下にかけての音声を拾うスピーカーが、反応を示した。
     ガタガタと乱暴に玄関に転がり込むような音。話し声も混じっているが、雑音に掻き消されて聞き取れない。スピーカーのつまみで音質や音圧の調整をしてやり、雑音が落ち着いたことも手伝ったようで、ようやく話し声がはっきりと通った。
    『おっじゃましまぁーす! うわぁ、ギルん家ひっさしぶりだよなー!』
    『確かにな! ケセセ、罠は増えてねぇから安心していいぜ! 技術班見習いフランシス!』
    『あっはは、それはもう心から安心できるよ』
    どうやら、帰り道でギルベルトのサポートをしたのは、仲のいいフランシスという友人のようだった。玄関からギルベルトの部屋に移動しながら二人は会話し、イヴァンも数個のスピーカーのつまみを順々に調整しながら、その会話の内容を確認する。どうやら、放課後に二人でゲームセンターに行ったらしい。ギルベルトはゲームが強いから楽しかっただの、トーニョが来れなくて残念だっただの、思い思いに盛り上がった。
     ギルベルトの自室の電気が点灯する。イヴァンは必要ないことを理解しつつ、少しだけスピーカーの音量を下げた。ちら、と窓の方を見れば、二重に繊維を突き抜けた人工的な明かりが、イヴァンの部屋にまで差し込んでいる。イヴァンの部屋の電気が点灯していないことに気づいたが、別にいいかと深く考えずにそのままにした。
     またモニターに向き直る。お互いが少し濡れた上着や鞄を乱雑に投げやったり、それを丁寧に拾ってかけるように叱ったり、一通り落ち着くまでに少し時間を要した。
    『それでさ、フラン。聞きたいんだが』
    それらがひと段落してからだった。
     ギルベルトが安定している椅子に座り、フランシスがベッドの淵に座った。
    『ん? あぁ、言ってた相談事ね』
    背もたれを抱きかかえるように座ったギルベルトよりも、少しだけ目線が下になっているフランシス。二人は真面目を装って見合わせた。
    『で、どったの? ギルがゲーセン付き合うから相談聞けって。珍しいこともあるね?』
    イヴァンは少しだけ身を引く。相談と聞いて、なんとなく聞いていては駄目だと構えた。ギルベルトのプライバシー云々ではない。ただ、なんとなく嫌な予感がしたのだ。
    『実はな』
    『うん』
    モニターに映る二人は、どう見てもお互いの瞳を交わし合い、お互いの腹を探っているように見えた。
     そのままの強い視線で、ギルベルトは重く言葉を始めた。
    『実は……俺様な……その、胸が、胸がドクドクするときがあんだ』
    とてつもなく重苦しく打ち明けたギルベルトに対し、イヴァンはモニター越しに目を丸め、フランシスは真面目な顔のまま『病気?』と問い返す。……二人の真面目ながらもふざけたやり取りを、イヴァンは気を取り直して注意深く観察する。
     ギルベルトが、やめだ、と言いたげに軽く手のひらを振り、力を抜くように息を吐いた。それから気を取り直して、
    『俺様な、特定のやつに目を見据えられると、どうしようもなく心臓が飛び出しそうになる』
    『ふーん?』
    『あと、そいつのこと考えてる時も、ドクドク言って、なんていうかさ、軽くジョギングしたみてぇにぽかぽかしちまう』
    モニターを見つめるイヴァンの胸中は、まさに今、その状態だった。いきなりではなく、じわじわと血の巡りがよくなっていく感覚に襲われている。しかし、なぜこんなにもこの胸が緊張しているのかは『わからない』『わからない』と答えを拒絶し続ける。
     モニター越しの二人は、イヴァンが見ているなどとは露ほども思うはずもなく、
    『えっと……ちょっとその人のこと考えてみて?』
    『は?』
    好きなように会話を続ける。
    『いいからいいから、実際やってみてよ』
    『実際にいるのがお前なのにできるかよ』
    『大丈夫大丈夫。ギルの妄想力あればできる。ほぉら、あなたはだんだんこの美しいフランシス兄さんがその人に見えて来ぅ〜る』
    ギルベルトなりに努力しているのか、フランシスの可愛さを意識して繕ったのであろう表情に、自分の顔を近づけて『うーん……』と唸った。それもそうだろう。おそらくギルベルトの思い浮かべている人物と、そこに座るフランシスとでは、似ても似つかないのだろうから。
     だがフランシスはそんな真面目なギルベルトに追い打ちをかけた。
    『ほら。「ギルくぅ〜ん」』
    ふざけているようにしか聞こえない裏声で、誰かの声真似をしてやる。するとギルベルトは『ちょっとちげぇけど……』と静かに不満を漏らした。
     それでもその真面目さで、イヴァンからしたらふざけるなと殴りたくなりそうなその顔面を、しばらくの間、沈黙とともに眺めてやった。モニター越しのイヴァンには、音のない時間は緊張感を増長させる。
     ギルベルトの顔をよく見るためか、少しだけ重心を動かしたフランシスのせいで、それまで見えていたギルベルトの顔が影に隠れてしまった。二方向からのカメラでは、人物がたくさんいるときはやはり限界があるなぁとぼんやりと思い、つまらなさを意識してモニターを眺める。
     スピーカーからフランシスの息継ぎが聴こえた。
    『はい! それは恋で〜す! ギルベルトくんおめでとうございま〜す!!』
    突然の興奮した声に驚き、イヴァンは身を乗り出して覗き込んだ。
     フランシスが腕を上げて祝福し、それにより身を動かしたので、ようやくイヴァンにもギルベルトの正面が見えた。はにかみを抑えるよう静かに『や、やっぱそうだよなぁ……』と視線を落とすところだった。……フランシスが『それは恋』だと断言したとき、一体ギルベルトはどんな顔をしたのだろう。イヴァンにはちょうど見えなかったので、少しだけ残念に思ってしまった。
    『……えっと? どの雑誌の子?』
    探りが入る。回りくどい。声に出さず茶々を入れる。
    『ちげぇよ。知り合いだ』
    『え!? ギルが!? 生身の人間に恋したの!?』
    さらにわざとらしく声を上げたが、ギルベルトはそれに対しては返答はしなかった。一人恋話で興奮していたフランシスは、その並々ならぬ感情の起伏に大人しくならざるを得ず、意識的にため息をこぼした。
    『学校……の生徒ではなさそうだし、誰だいそのラッキーな彼女はー? どこで知り合ったのー?』
    『そ、それがな……』
    言い淀む。何故かイヴァンの胸中には期待が広がていた。ギルベルトが学校以外ではほぼ付き合いなどないことを知っているからだった。……しかし例にもれず、イヴァンの抱いたこの期待の、その根源の感情が一体なんなのか、それには気づこうとはしない。
     ――イヴァンは無意識にスピーカーのつまみを開く。待っていたかのように、モニターの中のギルベルトは声を上げた。
    『実はな! 隣に俺様を監視するために越してきたロシア人のスパイがいる!』
    注意深くその口の動きを追う。
    『そいつだ!』
    ギルベルトは断言した。
     昨日なかったことにしたはずの胸の動悸が蘇る。ドッ、ドッ、ドッ、と一発一発を丁寧に確実にイヴァンの身体に打ち込んでくる。
     隣に越してきたロシア人のスパイ……確定した。歓喜した。それに該当するのはイヴァンしかいない。任務の対象者をまんまと惚れさせることに成功したのだと、己の歓喜を塗り替える。これで幾分か情報が引き出しやすくなった。踊る胸を手で押さえ、また落ち着くように心がける。
     モニター越しの会話は続き、
    『ヒュー! ロシア人! さぞ美人な子なんだろうなぁ。お兄さんにも紹介して。その子お姉さんとかお兄さんとかいないの?』
    冷静に見ていたイヴァンは違和感を覚えた。余りにも自然に受け入れられるこの話題に、ギルベルトは勇気があるなぁと感心すると同時に、同性愛はこの界隈では変わり映えのないものなのだろうかと勘ぐってしまった。
     だがイヴァンの考えていたことに答えは出ないまま、ギルベルトが『真面目に聞けよ』とお叱りを挟む。フランシスも軽く『あ、うん、ごめんごめん』と返し、すぐに『ギルちゃん初恋?』と話題を切り替えた。
    『童貞なんだっけ? エスコートの仕方わかるの?』
    ここでようやくイヴァンは理解する。フランシスはやはり、ギルベルトが想いを寄せている相手を男性だとは思っていないようだ。だから、あんなにすんなりとギルベルトの告白を受け入れたのだろう。
     少し下がり気味のギルベルトの視界に入るよう、フランシスは下から覗き込んだ。どこか不貞腐れているような声色で、控えめにギルベルトは教えた。
    『エスコートとか、そういうの、無縁だから……てか、向こうのほうが慣れてそうな感じはある』
    『おっと、小慣れたお姉様系なの? やだギルと好みかぶっちゃった……』
    いつ誤解を解くのだろう、と画面越しに観察を続けるイヴァン。
    『でもそういう子は手強いよ〜その子の好みは? 趣味とか? 打ち解けるには共通点があったほうがいい。そうだな、ギルはその、なんていうか、特殊な考え方もなるべく控えるべきだ。お兄さんは面白いから好きだけど、女の子にはウケが悪い』
    『でも、話は合うぞ。向こうも小さい時からロシアのエージェントしてるって言ってるし。本当に武器とか常時装備してるし、俺様よりもディープだ』
    『え? そうなの? め、珍しい……ギル、それは運命かもしれないよ。その子いくつ?』
    『あ、そういえば知らねぇや……』
    そうか、教えていなかったか、と脳裏を過る。
    『ええ、それはまずいんじゃない? 女性ならもしかしたら相当年上かも』
    『それはたぶんない。俺様を見て、年が近そうでよかったって言ってた』
    何の前触れもなくまた、スピーカーから人間の声が消える。気まずそうに目配せを送り合う二人である。おそらくギルベルトはイヴァンの年齢をこれまで確認しなかったことを、少しだけ後悔しているのだろう。フランシスはそんなギルベルトを見守っているようだ。
     イヴァンは二人の……主にギルベルトの挙動を一つでも見落とさぬよう、注意深い観察を続けた。
    『フラン……俺様どうしたらいいと思う?』
    改めて問いかける。それに応えるべく、フランシスも『うーん』と足を組み、考えるように自らの顎を指の腹で撫でる。
    『聞いてる感じこのまま行けば脈ありっぽいけどな』
    聞き取るや否や、ギルベルトはガタッと音が上がるほど派手に反応して、『そうか!?』と強めに確認をとっていた。それに対し、フランシスは自信満々に『うん』と大きく頷いてみせる。
     ……脈あり?
     イヴァンはあえてその言葉を拾って首を傾げる。イヴァンに限ってそんなこと、あるわけがない。……あるわけがない。
     だが、そうだ。これでいい。ギルベルトの想いをイヴァンに寄せれば寄せるほど、情報はもらいやすくなる。フランシスの決めつけた『脈あり』というのも、それの手助けにしかなり得ないのだから、感謝すればいい。
    『……よし、お兄さんがとっておきを伝授してあげよう!』
    『おお』
    『まず、ないと思うけどその子はギルより背は高くないよね?』
    『あ、わり、そいつ男だ』
    あ、言った。
     唐突に訪れた曲解の訂正に、思わず反応したイヴァンだが、イヴァンよりもフランシスの方が大げさに飛び上がった。何のことやら、ギルベルトの両肩をガッチリと掴み、『ぎ、ギル!? 今……!?』と迫真の形相で問い質す。
    『お、おう、お前に相談したのはそういうことだ、言うのが遅くなった、悪い』
    そして釣り合わぬあっけなさで応えるギルベルト。噛み合わない勢いに、またもやフランシスが身を引き、ギルベルトの肩を放した。
    『ええ、いや、別にいいけど……まさかギルちゃんから男性の攻略方法聞かれるとは思わなかったよ』
    『攻略……別に攻略とか考えてなかったけど、なんかそれいい響きだな』
    攻略されるのか? モニターの中でニヤついたギルベルト同様、それを見ていたイヴァンも無意識に少しニヤつく。
    『あれ、なんか変なスイッチ入れちゃったかな。でも、そうか。そういうことね。じゃ、この殿方はギルより背は高いの?』
    『ああ、俺様よりいい体格してやがるぜ』
    『それも珍しい……』
    感心したようにぼやいた直後、フランシスは楽しそうに人差し指を立てた。
    『じゃ、まずはギルがそいつの守備範囲に入ってるか確認しないとねぇ。少なくとも両刀じゃないとギルは眼中にも入れないから、そのときは引きずらずにさっぱり諦めるのが大事だよ』
    あえて明るく指導したのだろうが、それに対しては難色を見せるギルベルトである。
    『先にダメなイメトレさせるな。俺様はまず成功をイメージすんだよ』
    『はいはい。お好きにどうぞ』
    フランシスもその反応に納得は行っていなかったようだが、
    『まぁ……そうだねえ……』
    ギルベルトの顎を引き、その正面をフランシス本人の方へ向けた。色々と角度を変えながら、まじまじとギルベルトを四方から吟味する。
     そうして本人なりの結論が出たのか、『……うん!』と元気よく手放した。
    『ん?』
    『ギルちゃん黙ってれば男前だし、向こうと話しも合うみたいだから、もし守備範囲内って言われたら努力は必要ないと思う! いつものギルの感じで』
    そしてきらきらとして爽やかな瞳を持って、美しいサムズアップをして見せた。
    『やけに適当なサムズアップだな』
    それすらも不服そうにギルベルトは切り捨てる。拍子抜けしたようにフランシスは『はれ?』と適当な発音でぼやき、
    『不服なの? この恋愛のスペシャリストのお兄さんに太鼓判捺されたら、文句なんかでないはずだよ?』
    先ほどまでギルベルトがもたれ掛かっていた椅子の背もたれに、図々しくも両方の頬杖を突いた。目を閉じ、唇を突き出したそのポーズで、『ん』とギルベルトの判断を促す。
     それを目の当たりにし、これでもかと言うほどに眉間に皺を作った。
     ちょうどそこで、イヴァンの携帯端末の効果音が鳴る。……上司からのメールだと通知の画面でわかり、緊急のことならば電話が来るだろうと、ベッドの上に端末を放り投げた。今はそれどころではない。
     改めて画面へ向けて身を乗り出した。
    『……ンだよ?』
    ドスの効いた低い声でギルベルトは糺していた。
    『何って? 童貞のギルにちゅーの練習してあげようと思って。ほら、問い。向こうからこうしてきたらギルはどうするべきでしょーか』
    フランシスはそのスタンスを突き通す。
     未だに口を突き出して固まっているフランシスと、それをこの上ない汚物を見るような表情で見やるギルベルト。どうやら素直に従おうとしているらしいが、気持ちが固まらないらしく、ドギマギしているようだ。
     モニター越しのイヴァンはその様子に甚だ冷め切った視線を向ける。
     だが次にイヴァンの視界で動いたのはギルベルトの頭ではなく手のひらで、スピーカーからはパシンッと軽快に響く乾いた打撃音が鳴った。
    『ふっ! ふっざけんな!』
    何が起こったのかと目を見張る。
     次にギルベルトが叫んだのは、
    『俺様が好きなのはイヴァンなんだよ!!』
    強烈な一撃を、イヴァンのその心臓に叩き込む。
    『いったーい! はたくことないじゃない!』
    半泣きになりながら頬を押さえ、フランシスは抗議した。
    『お兄さん一度でいいからギルとちゅーしてみたかっ……』
    言葉が止まる。
    『ってギル?』
    騒ぐフランシスに気を取られ、そちらの表情を見ていたイヴァンだったが、フランシスの呼びかけで急いでギルベルトを見やった。
     ちょうどそのとき、ギルベルトは真っ赤に茹で上がった頬をこさえ、それを隠すように項垂れた。
    『う、うるっせぇ……お前のせいだ……!』
    『……あ、あー……? ……もしかして。名前呼んで自分で照れちゃったの?』
    また下から覗き込もうとするが、その気配を察知して、さらに顔の位置を傾けたギルベルトである。
    『……重症だなこりゃ』
    『……だまれ薄らひげ……』
    切実なるギルベルトの呟きも、しっかりと設置した盗聴器は拾い、それをイヴァンに届けた。
     室内に沈黙がまた広がり、イヴァンも、その照れ上がるギルベルトに何故かきまりが悪いような、少し落ち着かない心持ちになる。否、追い立てるような動悸はまだ続いているのである。況してやこの先、どう会話が展開するのか、内心ハラハラしながらモニターに釘付けになっていた。
    『……「イヴァン」』
    ふふ、と笑いを含ませて、フランシスが囁きかけた。
    『くっそ殴り飛ばすぞ!!!!』
    フランシスの胸ぐらを掴んで威嚇した。その顔は依然としてりんごのようで、
    『あはは〜! ギル最高! おもしろーい!』
    弁明をしようもないほどに、ギルベルトは遊ばれていた。
    『あーもー! やっぱお前に相談したの間違いだったわ!!』
    掴んだ胸ぐらを乱暴に揺さぶって、不貞腐れたようにフランシスに背中を向けた。
     イヴァンの目の前にある視野違いのモニターからはギルベルトは正面になり、頬を膨らませているのがよく見えた。また意味もわからないまま、イヴァンまで照れてしまい、そわそわとした心地になる。
    『あーはいはい。じゃお兄さんはもう帰るね。一応応援してるから、進展あったら教えてね』
    『教えねえよ!』
    めんどくさそうに帰り支度を始めたフランシスに、振り返ってさらに怒りのままにぶつける。……いや、怒りというよりは、照れのまま、の方が正しいだろう。
    『うわ、ひどっ。てかお見送りもなし!?』
    『しねぇ! 勝手に帰れ! クソ髭!』
    『酷い! この恩知らず!』
    そうしてフランシスはギルベルトの自室から出ていき、ドスドスと踏み荒らしていた足音は、階段を下ったところでおとなしくなった。いくつかあるスピーカーのつまみをまた開いたり閉じたりしながら、フランシスが無事に玄関から出て行ったことを確認する。
     それからギルベルトの部屋以外からの音声を最小限に設定し、イヴァンは改めて椅子に座った。
     一人残されたギルベルトは背もたれに腕を組み、そこに頭をもたげ込む。一人で色んな感情と戦っているのは、顔が見えなくてもよくわかった。
     ……イヴァンの中では、何かギルベルトに会いに行く口実はないものかとの考えが巡る。理由もないただの衝動が、ギルベルトに会いたいと訴えかけてくる。触れて、もっともっと、近くで。……だが、結局は『ギルベルトがどれほどイヴァンに惚れていて、どれほどそれを任務に活かせるか、それを確かめたいだけだ』と、自分の中で決定づける。
     ふ、と。唐突に。先ほどメールを受信したことを思い出した。
     立ち上がらずにただ体勢を崩すだけで、なんとかベッドに放り投げた携帯端末を手に取った。開けばそれは、案の定、現在出張中の上司からである。
     それどころではない心境だったが、反対にここぞとそのメールの本文を開いた。
    『お疲れさま。報告書を読んだぞ。もし情報が出なくて困ってるなら、母親の形見を見せてと聞いて見てはどうか』
    その文面に、不本意ながら目を爛々とさせてしまうイヴァン。……よし、これからこれを口実に、ギルベルトに会いに行こう。強くエネルギーを孕んだ衝動に口実が加わり、イヴァンはすぐさま立ち上がった。



     フランシスの帰宅後、ギルベルトはしばらくじっとしていた。何故かわからないが、身体が重くて動かないのだ。
     ……ここ最近の、イヴァンを前にしたときの自分の気持ちの変化を考えるに、おそらくイヴァンに恋をしてしまっているのではと思っていたギルベルトである。それが、フランシスに相談してわかった。もう手遅れなほどにどっぷりと、イヴァンに惚れ込んでしまってる。先ほど「イヴァン」と名前を呼んだだけで、まるで導火線に火を付けたかのように身体が燃え熱を上げたのには、自分でも大層驚いたのだ。
     それと同時に、この身体を重くしている原因である、落胆を味わう。なぜそのような心持ちになってしまったのだろう、と自分を問い質したい気持ちでいっぱいだった。友達として一緒にいられるだけであんなにも楽しかったというのに、それ以上の気持ちを秘めて、今までどおり接していくことはできるのだろうか。
     フランシスに守備範囲や攻略など乗せられて話はしたが、初めから別にイヴァンを攻略したいなどとは思っていなかった。……むしろ、この気持ちが『好き』かどうかを確かめたかっただけで、その先にある『攻略』――そうか、正しく言えば『好きになってもらう』『恋人になる』ということは、これっぽっちも脳裏に過ぎらなかったのだ。……項垂れている間に浮かんだ『恋人』という単語も、未だにピンと来ない。
     ザアザアと振り込める雨の音が心地よかった。さっきよりもどんどん強くなっていっている気はするが、ギルベルトの身を叩きつけている太鼓のような動悸の音を掻き消してくれる。
     ――イヴァンはもう寝ただろうか。そういえば、今日はずっと電気が点いていなかった。どこかへでかけているのだろうか。……いや、そもそも、今は何時だ。
     やっとの思いで身を起こしたギルベルトは、イヴァンの部屋の電気が点灯していることに気づいた。そちらに視線を向けてみると、透ける影がベランダの近くまで歩いてきているのがわかった。
     雨の音にかき消されることなく、イヴァンの部屋の雨戸が開閉するカラララという音が聞こえる。その影はどんどんギルベルトの窓に近づき、影の手がギルベルトの部屋の窓に伸びた。
     トントントン、と鈍くノックする音が聞こえる。慌てて立ち上がろうとして、走った痛みに足を捻挫していることを思い出した。
     だが、ベランダにいるイヴァンが雨に濡れてしまう。――いや、ちがう。早く会いたい。
     何とか足を引きずって窓際に移動し、慌ててカーテンを開いた。待ち受けていたイヴァンの笑顔にドックンと心臓が歓喜して、それに気づかれぬように窓を開けた。
    「ちょ、お前濡れるぞ!? 下がれよ!」
    「あっは、大丈夫だよこれくらい」
    言葉通りに緩やかに笑って、イヴァンは何の了承も得る前に、ギルベルトの窓枠に手をかけた。……この期に及んで窓を経由して自室に入り込んでくるイヴァンだったが、激しく打ち付ける好きという気持ちでいっぱいいっぱいで、ただそれを見守るしかできなかった。
     ――そういえば、イヴァンは何歳なのだろう。
     フランシスとの会話で思い出した疑問が浮かぶ。当然だが、平常心を意識して、
    「ちょうどよかった。お前に聞きたいことあってよぉ」
    と、出窓を支えにイヴァンの背後に立ったまま投げかける。
     部屋に降り立ち、自分で雨粒を払っていたイヴァンは、一瞬ギョッと身構えるように振り返った。その反応に首をひねりたい気持ちを抑えながら、「お前いくつなんだよ」と差して重要なことではないように、軽く問いかける。少し拍子抜けしたように瞳が柔らかくなり、身体をギルベルトの方へ向けた。
    「あら、それ聞いちゃうの。面白くないじゃない」
    「俺様の年はバレてるっぽいし、そういうの不公平だろ」
    イヴァンも出窓にもたれかかる。
    「ぼくが君の年齢を知ってるかどうかは差して問題じゃないよ。それに言わないって先に言ったのはギルくんだしね」
    意地悪く笑って、この状況を楽しんでいる。ギルベルトはそれが悔しくもあったが、イヴァンのことを知りたい欲の方が強く、あっけなく「わかった、言う……言うから教えろ」と懇願した。ギルベルトよりも背の高いイヴァンには、必然的に見上げるような視界になってしまう。
    「えと、改まっていうことじゃねえんだけど」
    照れくさそうに視線を外したギルベルトは、
    「お、俺様は十六歳だぜ! ケッセセ! さあイヴァン! てめえは何歳なんだよ!」
    思い切って視線を戻して初めて、イヴァンが自分に見入っていたことに気がついた。
     年齢を教え合っているだけだというのに、イヴァンは思いつめたように見詰め、何かを考え込んでいるようだった。返らなかった反応を促してやるため「……イヴァン?」とおなじみのセーターの裾を引っ張ってやる。そうしてようやく、すぅっと息を吸ったイヴァンが、口を開いた。
    「あ、うん、ぼくはね、二十い……っさ、」
    慌てたように語尾を止める。何を惜しんだかわからないが、聴き取ることができたギルベルトは、その年齢に素直に驚いた。
    「はあ!? 二十一!? 俺様よりよっぽど年上じゃねえか! しまった! 騙されてた!」
    「え、あ、ちがっ」
    「ん? 違うの?」
    「いや、いやっ、違わない……んだけどっ。ひ、人聞き悪いなあ! 別に誰も騙してはないよっ!」
    らしくもなく狼狽えるイヴァン。どことなく顔が赤くなっているような気がしたが、電気の当たり具合でそう見えるような気もした。
     とにかく、それ以上の詮索を許さず、イヴァンは空間を区切るように、大きく息を吐いてみせた。自分自身を落ち着かせているようにも見えたが、それが終わると、改めて笑い直した。
    「ギルくんのご両親の写真とかないの?」
    何とも藪から棒に振られた話題に、一瞬怯んだ。深くは考えずにギルベルトも「もちろんあるぜ?」と答える。クローゼットの方をすらりとした人差し指で示し、
    「もう年季入ってっからしまってあんだよ」
    と言いながら片足跳びでそちらまで移動する。
    「でも俺様の親の写真なんか見てどうすんだよ」
    そう笑いながらも、警戒心ゼロでクローゼットを漁るギルベルトである。イヴァンも同じように笑い、「昨日の話を聞いてから気になってたんだ」とギルベルトの隣に並ぶ。
     そこにギルベルトが取り出したのは、古びて色あせ、くたびれた一枚の写真だった。それをイヴァンに差し出す。
     丁寧な手つきでイヴァンは受け取った。その写真には複数人の男女が写っており、内の一組が、ギルベルトの面影を持つキリリとした表情の赤ん坊を抱いていた。
    「おお、これがもしかしてあの有名なギルくんのママ?」
    「……有名なのか?」
    同じ写真を覗き込み、思ったよりも近い距離にいた二人。ギルベルトがイヴァンの瞳を覗き込んで初めて、お互いの距離に気づいていた。
    「……有名だよ」
    気づかないふりで持って話を続ける。
    「だって、元ロシアのスパイでしょ。ぼくの大先輩だもん」
    ――ん? ギルベルトはイヴァンの言葉に違和感を覚える。母親がロシアの元エージェントだという話は一度もしたことがなかったからだ。だがすぐに『そうか、イヴァンの中ではそういう設定なのか』と自分を納得させた。
    「あ、おう、そ、そうだぜ」
    急いで話題を合わせる。気を抜いていた自分を恥じたほどだ。
    「それが寝返って、今は俺様が跡を継いでドイツのエージェントをやってるってわけだ」
    少し強めの態度で挑発的に笑ってやる。
     イヴァンは写真を持っていた腕を下ろし、ギルベルトの真正面に身体を置き直した。なぜそうなのか見当もつかないが、やけに機嫌が良さそうに微笑んでいる。何かを言いたいのはすぐにわかったので、まっすぐにイヴァンの視線を見返した。
    「ほんと君って不用心だよね」
    「は?」
    言葉とは不釣り合いに、まだそのにこやかな表情を崩さないイヴァン。
    「だって、君はドイツのエージェントでぼくはロシアのスパイだよ。ロミオとジュリエットも驚きの逆境だよ。ぼくが君を利用しようとしてるとか思わないの?」
    何をそんなに苛ついているのか、表情は笑顔だというのに、ちっとも笑っていない目元に疑問を抱く。これはあくまで『設定』だろ? ギルベルトは自分に確認を取る。自分のやっていることはそれ以外の何でもないことは、気づきたくもないほどわかっている。だが、今ここでそれを持ち出すのはちがう。そう思ったギルベルトに言えるのは、これだけだった。
    「俺様は誰にも負けねぇからな。利用されるような弱みも見せねぇし。お前なんか怖くねぇぜ!」
    自信たっぷりな様を見せつけてやるべく、腕を組んで見下すように笑ってやる。どうだ、強そうだろ。その気持ちを絶やさない。
     それまで笑っていないと感じていたイヴァンの目元は、ゆっくりと瞬きをして、ようやく緊張感から解放されたようだった。だが、ギルベルトを捉えるその視線は、やはり今までとは少し違う。
     やけに鋭く感じるこの眼差しはなんだろうか。まるで狙われた獲物のように、息が詰まりそうだった。思わず唾を丸呑みしてしまった。
    「……君って本当に不思議な人だね」
    だが、負けてらんねえ、ギルベルトはそれだけを動力に、「お、敵のくせに惚れちまったか?」と勝気な態度で返した。
     イヴァンの眼差しが、少し動揺の色を混ぜた。久々に近くで見たバイオレットのその瞳は、いつか夜明け前のようで素敵だなと思ったことを思い出す。じっとギルベルトを見詰め、『惚れちまったか?』の返答を渋っている。
    「……は!?」
    思わず声を上げたギルベルトだ。返答を渋っているということは、イヴァンはギルベルトに後ろめたい気持ちがあるということで、それはつまり、イヴァンもギルベルトのことが好きなのではないかと、そう安直に期待してしまったからである。頬が緩む前に驚きが勝り、
    「やっぱりだめかな、こういうの」
    と側の壁にギルベルトを囲い込むイヴァンの熱っぽい視線に、成す術なく抑え込まれる。
     これはどういうことか。ギルベルトが好きだと自覚したイヴァンが、実は同じ風に自分を見ていてくれたということなのか。
     ボンッと腹の底で何かが点火されたように、全身を巡る血液が熱湯さながら温度を上げる。それは無論、脳みそ周りも同じことで、こと頬に関しては、突沸現象のように煮え上がった。
    「……っ」
    耐えられずに顔を逸らしてしまう。抵抗したいとも思わないが、身体が動かないので、これが精一杯の防衛だった。これ以上イヴァンの熱い視線を直に受けていたら、このまま蒸発してしまいそうだと思った。
    「拒否しないのはずるいよ」
    苦しそうなイヴァンの声が落ちる。
     改めて見上げれば、困ったように笑うイヴァンがいた。……容易く見入る。その綺麗な瞳で寄越す憂いの色は、目を逸らすにはもったいなく、釘付けになった。轟々と燃える体内が、外のやかましい雨の音を掻き消していく。
     不意にイヴァンの瞳が隠され、その顔がギルベルトに戸惑いがちに寄った。全てを受け入れるよう視線を伏せることで、ようやくそれを外すことができたギルベルトは、そのまま初めてあるものを捉えた。
    「お前……これ……」
    イヴァンのマフラーに手をかける。……その下、首に巻かれた包帯。イヴァンは動きを止め、ギルベルトがそれに気を取られたことを察した。寄せた顔を放し、何事もなかったかのように、いつもの笑顔を作った。
    「あぁ、うん。マフラー邪魔なら外してもいいけど、これについては教えてあげないよ」
    そう話すイヴァンの口元から、また首の包帯に視線を戻す。マフラーを掴んだままだったので、その包帯はよく見えた。そこに一体何を秘めているのだろう。イヴァンについて知りたい。そう思ったギルベルトだったが、次にイヴァンと目が合った瞬間に、先程までの情を煽るような眼差しを思い出した。
     ――ッ! ……なんてタイミングで流れを止めたんだ俺様……!?
     激しい後悔に苛まれた。あれはあのまま行けば、間違いなく口づけをする流れだった。突然のことで動揺はしたが、正直なところ、イヴァンとの唇の寄せ合いには今更憧れすら抱く。だがとき既に遅く、イヴァンはもう知らん顔で笑っているのだ。
     歩き出したイヴァンのマフラーを手放すと、机の方へ向かい、楽しそうに振り返った。
    「あ、ねぇ、もっと君のマーマのこと聞かせてよ」
    「お、おぉおう、いいぜ」
    このまま、先ほどの状況はなかったことにしてしまうつもりだろうか……? 半ば上の空で思いを置いた。
    「じゃこの写真以外にもまだ何か残ってるの? 何かもらったものとかあったりする?」
    ギルベルトはまた振り返ってクローゼットの中の引き出しを物色し始めた。
    「まぁ、母親のものならたいがい叔父が持ってるとは思うが、一つだけ宝物にしてるものならあるぜ」
    「見せて見せて」
    少し離れたところからギルベルトの手元を覗き込むように、イヴァンは体を傾けた。そうして「あぁ、これこれ」と直径十センチ強ほどの薄黒いものを取り出し、「これだ、超かっこいいだろ」とイヴァンに差し出した。
     それを受け取る前にまじまじと観察して、それが木製の置物なのだと確信する。受け取りながら「小鳥の木像?」と尋ねると、ギルベルトは「おう、母親が自分で彫ったらしいぜ」と嬉しそうに教えた。
    「へぇ。ちょっと見せて」
    既にイヴァンの手の中にあるというのに、不自然にそう改めて確認される。疑問に思いながら「おう?」と返答している間にも、両手を使って変な力の加え方を始めた。
    「……って、は!? お前なにやっ……!?」
    それはパカッと真っ二つに割れる。ギルベルトは「はぁあ!?」とイヴァンに迫った。
     騒ぐギルベルトに構うことなく、イヴァンは真っ二つになったその木像の断面を注意深く観察する。
    「……なんだろこのでこぼこ……ギルくん、紙と鉛筆貸して」
    顔を上げてまっすぐに要求された。
    「ま、マジかよ……お、俺様の宝物……」
    「ごめんごめん。でも、ほら、何か書いてるっぽいから。紙と鉛筆」
    「……お、おう……」
    強い要求に余程のことなのだろうと、ギルベルトは内心涙を流しながら諦め、己の机から所望のものを取り出した。
     イヴァンは椅子に座り、机の上にその真っ二つになった木像を置いた。その片方の凹凸に紙を被せ、その上から鉛筆をさささと何往復もさせる。……そこに文字が浮かび上がる。ギルベルトも覗き込んでいたが、どうやらそれは住所のようで、ギルベルトには見慣れない文字で書かれていた。
    「なんだこりゃ? ロシア語?」
    「そうだね。キリル文字だよ」
    そう言ってしばしばそれを眺めていた。
     いくら覗き込んでもギルベルトにはそれは読解できないが、かと言ってイヴァンもそれを読み上げる気配はない。読み上げてくれと頼もうとも思ったが、先にその紙を折りたたみ始めた。
    「ちょっとこれについて調べさせてもらってもいいかな? ぼくも見覚えのない場所だ」
    「……え? あ、いい……けど……」
    並々ならぬ意志を感じ取ったギルベルトは、少し気圧され気味に了承した。



     じゃあそろそろ遅くなるから、とイヴァンがギルベルトの部屋を後にして、自室に戻ったあとだ。
     パソコンの前に座ってそれの起動を待っている間、ぼんやりと強奪したメモを眺めてから、机に肘を突いて頭を抱える。ギルベルトのことで頭を抱えるのは何度目だろう。
     この雨の中、ギルベルトの部屋に降り立ってからの記憶が、イヴァンを追い詰めるように蘇っていた。
     まだまともにギルベルトの顔も見ない内から「聞きたいことがある」と言われ、『守備範囲かどうか』という問いをいきなりされるのかと瞬時に身構えてしまった。だが実際寄越された問いは年齢を問うもので、気を抜いたのが悪かった。ギルベルトの正面に立ったときからなぜか頭が上手く回らなくなり、ハニカムように視線を外す仕草をされると、ついにそれは真っ白になってしまった。そのとき脳裏を過ぎったのは『これはもう駄目かもしれない』という開き直るような思考だった。
     改めてギルベルトに呼び戻され、年齢を聞かれていたのだと追想して、平静を装って答えた。――実年齢を。こともあろうか、実年齢を答えてしまった。……任務で与えられた『イヴァン・ブラギンスキ』の設定では、年齢は十九歳ということになっていた。イヴァンの実年齢の二十一歳では、十六歳のギルベルトとは五歳も歳の差が開いてしまい、親近感を持たれにくいのではとの懸念があったからである。案の定、ギルベルトに『近くねえ!』と突っ込まれる始末である。
     その流れ全てに焦ったあと、これではいけないと気持ちを切り替えたが、それは少し自棄を含んでしまった。流れなどの一切を無視して、早急に予定していた会話に持ち込んだ。……というのも、頭の中がぐちゃぐちゃになっており、回りくどいことの一切を考えられなかったからである。
     そんな不甲斐なさもあり、今度こそ持ち直したつもりでいたイヴァンだった。だが今度は、思ったよりも近かったギルベルトの笑顔に胸が騒いだ。そして自分に『ギルベルトは監視対象だ』と言い聞かせている内に、無防備にイヴァンを信用するギルベルトに対して居たたまれなくなってしまった。……それがあり、警告めいたことを言ってしまったし、そのあと何を言っているんだぼくは、とみっともなさに慚愧した。
     なんとか誤魔化そうと進めた会話で、ギルベルトが『惚れたか?』と問うた。――ああ。その問いに覚えた感情を押しのけるように、イヴァンは必死に心算を重ねた。
     ……そうだ、惚れたことにしてしまえば、ギルベルトはもっと気を許すのではないか。
     そう結論を出し、思わせぶりな態度を取ろうと思った。果たしてそれは誰の目を欺く行為だったのだろうか。イヴァンが四方を塞いでやったギルベルトは、ぼうっと赤くなり、無意識にそれに見入ってしまった。ギルベルトの熱に溶けそうな顔を目の当たりにして、フランシスが『それは恋です』と断言したときのことを思い出した。きっとこれが、そのときに見せていた表情なのだろうとハッとする。……そしてそう思ったら、とても可愛く愛おしく思え、目の前にあった無防備な唇に吸い寄せられるように錯覚した。
     ギルベルトが首の包帯に気を取られなければ、間違いなくキスを交わしていた。――もしかすると、それだけでは止まれなかったかもしれない。
     つい昨日、ギルベルトの叔父に邪魔をされて寸止めできた衝動は、今日はギルベルトに寄って阻止してもらったのだ。……それがなかったら……。初めてイヴァンは自分の身を置いている場所を恨んだ。何度違うと搔き消しても、戻って湧く衝動は誤魔化すのも限界を感じている。こんなことはもちろん初めてである。監視対象は元より、関係者の一人たりとも感情移入などしたことはなかったというのに。どういうことだ。どうしてだ。どうしようもなく頭が重い。たくさんの感情が詰まって、処理できる自信は持てない。――惚れてはいけない。思えば思うほど、イヴァンは既にそうなっている現実を叩きつけられた。
     はっ、と視界に明かりが差し込んでいることに気付き、そういえばパソコンを起動させていたんだと思い出す。その画面に出た文字列を見やり、実感を抱く――『エージェント・コード』――イヴァンはギルベルトの監視を任務付けられた、ロシアの優秀なエージェントである。
     そう、思い出せ。
     その文字列をしっかりと脳みそに書き込む。ギルベルトは一介の対象に過ぎず、今回の任務がどのような終わりを迎えるにしても、それはイヴァンの人生のほんの一瞬の出来事でしかないのだ。もしも、そんな相手に惚れたなどとなり、機関を裏切ることにでもなったら――
     イヴァンは左胸に装備してある、大切な凶器を握り締めた。
     あり得ない。そんなことは、あり得ない。
     言い聞かせながら、凛とした心持ちでパソコンの画面にパスワードを入力する。……そうだ、報告書を送ろう。今日得た、ギルベルトの母親の残した情報を、上司にしっかり報告しよう。本来の業務を思い出した。すると芋ずる式に、モニターの電源を入れ忘れていたことに気づく。……どれほど動揺していたんだと自分を叱る。
     いつもの、モニターにスピーカー、そしてパソコンが揃うと、イヴァンはようやく報告書の画面を開いた。今日あったことの一部始終を書き込んでいく。……無論、実年齢を伝えてしまった失態も含めてだ。そうして終盤に差し掛かり、ちら、と強奪したメモを見遣った。……本当は、この住所はどこなのか知っていた。だが、それをギルベルトに……というよりは、盗聴器に聞かれたくなく、なんとなく読み上げを躊躇った。……そうだ。もう少し様子を見てもいいのでは。そう思ったイヴァンは、報告書に嘘の住所を記した。生か死かの賭け事をするかのように、バクバクと緊張する手で入力した。上司が監視カメラを確認している可能性を考え、このメモを回収したことは知れていると思った方がいい。なので、本物はロシアの住所が浮かび上がっていたが、報告書にはドイツの少し離れた町の住所を記した。イヴァンが以前の任務で関わった植物園の住所だ。
     報告書に『以上』と締め、少しばかりの罪悪感を抱きながら、それを送信した。
     それからイヴァンはギルベルトの観察を続け、寝静まってから仮眠を取ることにした。重たい身体を持ち上げ、さっとシャワーで一日の疲れを落とす。洗面など済ませ、モニターの前の椅子に座り、それから首を項垂れて目を閉じた。仮眠できる時間は限られているというのに、瞼の裏に映しだされた本日の様々な場面のせい、寝付いたのはしばらくあとだった。

     イヴァンが次に目覚めたのは、午前六時前だった。昨晩あれほどまでに降り込んでいた雨は上がっているらしく、久しぶりの静かな夜明けである。捻挫で療養中のギルベルトは日課のジョギングには行けず、ここ最近は毎日六時過ぎに起床していた。ギルベルトがまだ寝ている少しの間、腹ごしらえをしてメールのチェックをする。携帯端末の方ではなく、パソコンの方に上司からメールが届いていた。何かの指示が含まれている可能性があるため、慌ててそれを開くと、案の定、そのメールには報告書を読んだ上での指示が記されていた。
     『私は今、ギルベルトの叔父についているので動けない。イヴァン、今日にでもその住所の周辺を偵察して、報告をするように』
     内容を理解して、イヴァンの中に更なる罪悪感が芽生える。……ギルベルトの監視をひとまず中断してまで、そちらの偵察を優先すべきということである。……それほど重要なことだというのに、昨晩の自分は何を考えていたのか、虚偽の報告をしたのである。並々ならぬ緊迫感を覚え、それを払うように深い息を吐いた。
     メールには続きがあった。
     『ところで、さすがイヴァン、色も中々のものだ。まさか男相手でも手玉に取るとは』
     その一文でギョッとする。この部分が褒めているのは、言ってしまえば『色仕掛け』で信頼を得ていたことに対してである。
     ……だが、昨晩の報告書には、ギルベルトとそう言った会話をした旨は書いていない。書く必要はないと思った。……それを上司が知っているということはやはり、遠隔地からも、ギルベルトの部屋の監視カメラを確認しているということだ。それの確信を得ると同時に、ギルベルトの部屋で例の住所を読み上げなくてよかったとホッとしてしまった。
     ……ギルベルトをかばいたかったのか? 自問する。その時の心境はよく覚えていない。深く考えていなかったように思う。ただ、これが上司に知れるのは避けたいと、単純にそう思っただけだった。
     さらに続くメールを読む。
     『そういえば、そちらにはまだ指示書は来ていないと思うが、ギルベルトの叔父に対して保護義務を除く決定が下されたよ。この意味がわかるね、イヴァン』
     ――保護義務、というのは、対象を傷つけずに任務を遂行する義務のことである。それがギルベルトの叔父から除外されたということは……これからは手段を選ばずに情報を引き出せと、そう本部が要求しているということである。……本部は何かに焦っているのだろうか。上司のメールの一文にある『この意味がわかるね』というのは、近々ギルベルトもそうなるであろうという、上司からの戒めだ。……くれぐれも、ギルベルトに変な気を起こさぬように、と。
     メールの最後に『今晩の報告も期待しているよ』との文章があり、それを読むと同時にメールの画面を閉じた。
     とりあえず今のメールの目的を整理する。――そう、今日はギルベルトの監視は中止して、昨日報告書に書いた嘘の住所に偵察に行け、とのことだ。それが本日の最優先事項である。
     スピーカーから、聞こえていたギルベルトの寝息に変化があった。起床である。椅子をモニターの前へ引き、スピーカーのつまみを開く。朝日差し込むギルベルトの部屋で、大きなあくびの声と、背伸びをするその姿を目に留める。……あぁ。また名前を付けてはならぬ想いを自覚する。自覚した側から、それをまた使命感でぐるぐる巻きにして、どこかへ仕舞い込んだ。それからギルベルトが何事もなく登校するまで待機し、久々の遠出に赴いたイヴァンであった。

     その晩。イヴァンは久々の遠出から帰宅し、真っ先に自室のベッドに倒れ込んだ。例の如く電気は点けなかったが、パソコンとモニターはかろうじて起動させていた。
     一日ギルベルトから離れ、縁もゆかりも興味もない街を散策したイヴァン。頭から切り離したつもりでも、何度も舞い戻ってくる想いに、うんざりしたのが本音である。心身ともにくたびれてしまった。常にイヴァンの脳内に住み着いていたギルベルトは、今日は問題なく帰宅しているだろうか。……ギルベルトの叔父は、もう戻っただろうか。
     ――『ギルベルトの叔父に対して保護義務を除く決定が下された』
     上司からのメールを思い出した。……ギルベルトの叔父は、もしかするともう戻らないかもしれない。そうぼんやりと浮かんだ。
    「イヴァン」
    思わず寝落ちてしまいそうだったイヴァンの聴覚が刺激された。
     驚いて突っ伏していた身体を上げると、逆光により影をくっきりと見せるギルベルトが窓際に立っていた。モニターの微かな明かりでイヴァンの帰宅を悟ったのだろうか。とりあえずイヴァンは急いでモニターの電源を落とし、雨戸の方へ寄り、カーテンを開いた。……そこにいたギルベルトの顔はやはり逆光で隠れてはいたが、笑顔なのはよくわかった。イヴァンは性懲りもなくくすぐったさを覚える。
     雨戸を開け、「呼んだ?」と尋ねると「ちょっと来いよ」と手振りを付けて誘われる。イヴァンは首を傾げながら、ギルベルトの窓に近づく。未だにコートを着たままだというのに、構わずに窓枠に手をかけた。
    「足がこんなだからよ、手伝えよ。お前も今日は夕飯一人なんだろ?」
    ひらりとギルベルトの部屋の出窓に乗ったイヴァンに、呼びつけた理由を教えた。どうやら夕食に招待されているらしい。出窓から床に身体を降ろす際、いつもより重たいそれに今日の疲れを思い出すが、対象がそう言うので断る道理もない。
     言われるがままに肩を貸し、二人でキッチンへ向かった。イヴァンとしても、もう使い慣れた場所である。二人分のインスタントの夕食を準備して、それをまたギルベルトの自室に持ち込み、二人でベッドに座り肩を並べて平らげた。軽く談笑はしていたが、昨日・一昨日のことは、どちらからも触れられなかった。それでも、漠然とした会話のぎこちなさは、おそらくどちらも感じてはいたのだろう。
     十六歳の少年であるギルベルトならまだしも、イヴァンに至っても実体験としての惚れた腫れたは初めてで、二人揃ってなにやらそわそわしてしまう。今までのようにこれは演技だといくらイヴァンが自分に言い聞かせても、初めて経験しているふわふわする心地に、あまつさえ動揺までしていた。上手く目線が合わさらないように逸し合ったり、不安定なベッドの上で触れ合う足にいちいち照れてしまったりと、落ち着かない夕食だった。
     そんな調子で食事中もずっとお互いのことを気にしていたので、二人揃って何やら気疲れしてしまった。平らげたあとの食器を、ギルベルトの勉強机の上に置かれたお盆に全てまとめ、ふぅ、と一息吐く。
    「う、美味かったな!」
    「そうだね」
    「……インスタントだったけどな」
    「……そうだね」
    露骨にどうでもいい会話をしてしまったときも、そんなことに照れてしまう。
     食べることが終わり、他にすることがなくなってしまった二人は手持ち無沙汰になった。同時に意識が互いのことに釘付けになり、唐突に会話が消える。もしこれが昨晩だったなら雨音に攻め入られそうな沈黙も、今日は何とも静かである。
     ちら、とイヴァンはギルベルトを盗み見た。
     変に意識しないようにと意識しているのか、机に頬杖を突き、そっぽを向いている。まだ何もしていないというのに既に真っ赤に紅潮しており、頬の色が限りなく瞳の色に近づいていた。……その少し不貞腐れたような表情は照れに寄るものだと察することができ、色んなことを期待しているのだとすぐにわかる。その愛らしい表情はイヴァンの胸をも高鳴らせ、だが、こうしていることはあくまで演技であることを叩き込む。
    「ねえ」
    少し艶やかに耳元で呼びかけてやると、ギルベルトの肩は大きく跳ねた。
    「なっ! なんだよ!?」
    真っ赤なままの照れた顔が、イヴァンの方へ向く。自分で近づけておきながら、イヴァンの脈もさらに跳ねた。近くにあった真っ赤な頬もそうだが、唇の鮮烈な赤に目が留まり、以降また釘付けになる。
    「っ……!」
    不意にギルベルトは顔を逸らした。……イヴァンの視線に耐えられなかったようである。
    「やだ、なんで逸らすの」
    あえて追い打ちをかけるように責めてみる。ギルベルトが何を期待しているのかわからないが、わかる範囲でそれを与えたいと思った。……そう、任務遂行のため。任務遂行のため。視界にギルベルトしか入らなくなっていたが、必死にそう言い聞かせ、無防備だったその手指に自分のを絡めた。……ほら、これから触れ合うよ、と予告するように。
     一方のギルベルトは、どうしていいのかわからないようで、しばらく何も言わずそのままそっぽを向き続けた。絡めた指から伝わる互いの熱が、なんとも強烈である。ヒリヒリと実際にやけどしているかのように、それは何とも痛快だった。
    「……ギルくん」
    緊張で固まってしまっているギルベルトに優しく呼びかけると、ゆっくりとその表情をイヴァンの方へ戻した。気づけばその唇は終始尖っていたらしく、
    「イヴァンの全部……知りたい……っ。教えてくれるまで、俺様も応えてやんない」
    絞りだすように喉を震わせた。
     何のことやらと思っていると、イヴァンと絡めていない方の手が、おずおずとそのマフラーに伸びた。マフラーを掻い潜り、包帯の巻かれた首に縋り付くように手が留まる。どうやら昨日『教えないよ』と牽制した包帯のことを言っているようだとわかった。また互いの呼吸すらもよく聞こえる距離になっていた。
     本心では、そんなことを嘆願するギルベルトに果てしない愛おしさを実感していたイヴァンだ。が、しかし、それでも見せつけなければならない余裕のため、「困った子だね」とからかってやる。その扱いに腹が立ったギルベルトは眉間の皺を深め、それを見たイヴァンは小さく笑いを零した。
    「……十歳の時の影武者の任務の話、覚えてる?」
    まるで愛を語るように囁きかけた。
     素直に「おう」と返答されてから、「そのときのだよ」と教えてやる。
     ギルベルトを纏う空気が、少々不穏な雰囲気に変わった。それはギルベルトの望んでいた答えのはずなのに、イヴァンの首に留まっていた手は力なく放された。絡めていた方の手指も同様に放された。反論するようにギルベルトは睨みつける。
    「……本当のことを教えろよ」
    それは一体どういう意味だろうか、とイヴァンはまた忖度する。考えられる可能性は一つだった。――ギルベルトが『設定』を越えようとしている。
    「変なこと言うね?」
    改めてギルベルトの手首を掴み、近くへ引き寄せた。
     ――そんなことをされては、イヴァンが立ちゆかなくなるのは火を見るよりも明らかである。
    「本当のことだよ」
    まっすぐにその瞳を覗き込む。
     ――故にイヴァンは、その設定を貼り戻すように、ギルベルトに無理やり刷り込もうとした。
    「ぼくは優秀なロシアのエージェントだから。ね? ドイツの期待の新人くん」
    納得の行かなかったギルベルトは、喉の深いところを「くっ」と鳴らし、それを否み続けた。ギルベルトにとっては初めてかも知れない、この『特殊設定』を煩わしく思ってしまった。
     触れ合いを拒みたくない気持ちと、寄越された答えは受け入れたくない脳みそが、ギルベルトの中で葛藤を呼ぶ。そしてその葛藤を逐一見守っていたイヴァンは、焦れったくてしようがなかった。早く触れてしまいたいと、衝動が今にもイヴァンに火を付けそうで、ふつふつと追い詰めるような欲情を、これまで培ってきた理性でなんとか押し留めているような状況だった。
     無言で交わす熱烈な視線とともに、段々ととろけるように緩むギルベルトの表情が、たまらなく扇情的である。イヴァンはいつまでもそれを眺めていたいと、口惜しくも思ってしまった。

     ――さて、ちょうどそのころ。とあるメールが一通、イヴァンのパソコンに届いていた。機関の本部からである。
    『指令書。エージェント・コード二四二。現在の情報収集対象であるギルベルト・バイルシュミットの保護義務の解除、及び対象からの情報の強奪、並びに五日以内の対象の処分を命ずる。以上』――




    つづく
    (次ページにあとがき)



    あとがき


    お待たせいたしました!
    いかがでしたでしょうか!

    今回は触れそうなのに、一度足りとも唇の触れない、もどかしい回でした。
    でも完全にお互い落ちましたね……!
    イヴァンちゃんの態度が定まらないのは、無意識に本音と立場に板挟みにされているからです。

    ちなみに私の他の作品を見てくださってる方はご存知と思いますが、
    恋を自覚→フラン兄ちゃんに相談
    この流れ、大好きすぎるので何百回でもやっていく所存です。
    しかもだいたいの場合が(フラ→ギル)です、てへぺろ。

    触れそうで触れないえろさを描きたかった……(例に漏れず撃沈)
    次のお話で完結します。
    このろぷちゃんはこのもどかしい感じで続いていってもいいのではと思っています。笑。

    ともあれ、もうしばらく完結までお付き合いいただけると幸いです。
    今回もご読了ありがとうございました!

    飴広 Link Message Mute
    2023/07/07 23:01:31

    3 ✝ Heart Beat 〜穿つ音〜 ✝

    【イヴァギル】

    こちらは以前連載しておりましたイヴァギルの現パロ小説「Spion aus Russland」の第三話です。

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    • マイ・オンリー・ユー【web再録】【ジャンミカ】【R15】

      2023.06.24に完売いたしました拙作の小説本「ふたりの歯車」より、
      書き下ろし部分のweb再録になります。
      お求めいただきました方々はありがとうございました!

      ※34巻未読の方はご注意ください
      飴広
    • こんなに近くにいた君は【ホロリゼ】

      酒の過ちでワンナイトしちゃう二人のお話です。

      こちらはムフフな部分をカットした全年齢向けバージョンです。
      あと、もう一話だけ続きます。

      最終話のふんばりヶ丘集合の晩ということで。
      リゼルグの倫理観ちょっとズレてるのでご注意。
      (セフレ発言とかある)
      (あと過去のこととして葉くんに片想いしていたことを連想させる内容あり)

      スーパースター未読なので何か矛盾あったらすみません。
      飴広
    • 何も知らないボクと君【ホロリゼホロ】

      ホロリゼの日おめでとうございます!!
      こちらはホロホロくんとリゼルグくんのお話です。(左右は決めておりませんので、お好きなほうでご覧くださいませ〜✨)

      お誘いいただいたアンソロさんに寄稿させていただくべく執筆いたしましたが、文字数やテーマがあんまりアンソロ向きではないと判断しましたので、ことらで掲載させていただきましたー!

      ホロリゼの日の賑やかしに少しでもなりますように(*'▽'*)
      飴広
    • ブライダルベール【葉←リゼ】

      初めてのマンキン小説です。
      お手柔らかに……。
      飴広
    • 3. 水面を追う③【アルアニ】

      こちらは連載していたアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 3. 水面を追う②【アルアニ】

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 最高な男【ルロヒチ】

      『現パロ付き合ってるルロヒチちゃん』です。
      仲良くしてくださる相互さんのお誕生日のお祝いで書かせていただきました♡

      よろしくお願いします!
      飴広
    • 3. 水面を追う①【アルアニ】 

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 星の瞬き【アルアニ】

      トロスト区奪還作戦直後のアルアニちゃんです。
      友だち以上恋人未満な自覚があるふたり。

      お楽しみいただけますと幸いです。
      飴広
    • すくい【兵伝】

      転生パロです。

      ■割と最初から最後まで、伝七が大好きな兵太夫と、兵太夫が大好きな伝七のお話です。笑。にょた転生パロの誘惑に打ち勝ち、ボーイズラブにしました。ふふ。
      ■【成長(高校二年)転生パロ】なので、二人とも性格も成長してます、たぶん。あと現代に順応してたり。
      ■【ねつ造、妄想、モブ(人間・場所)】等々がふんだんに盛り込まれていますのでご了承ください。そして過去話として【死ネタ】含みますのでご注意ください。
      ■あとにょた喜三太がチラリと出てきます。(本当にチラリです、喋りもしません/今後の予告?も含めて……笑)
      ■ページ最上部のタイトルのところにある名前は視点を表しています。

      Pixivへの掲載:2013年7月31日 11:59
      飴広
    • 恩返し【土井+きり】


      ★成長きり丸が、土井先生の幼少期に迷い込むお話です。成長パロ注意。
      ★土井先生ときり丸の過去とか色んなものを捏造しています!
      ★全編通してきり丸視点です。
      ★このお話は『腐』ではありません。あくまで『家族愛』として書いてます!笑
      ★あと、戦闘シーンというか、要は取っ組み合いの暴力シーンとも言えるものが含まれています。ご注意ください。
      ★モブ満載
      ★きりちゃんってこれくらい口調が荒かった気がしてるんですが、富松先輩みたいになっちゃたよ……何故……
      ★戦闘シーンを書くのが楽しすぎて長くなってしまいました……すみません……!

      Pixivへの掲載:2013年11月28日 22:12
      飴広
    • 落乱読切集【落乱/兵伝/土井+きり】飴広
    • 狐の合戦場【成長忍務パロ/一年は組】飴広
    • ぶつかる草原【成長忍務パロ/一年ろ組】飴広
    • 今彦一座【成長忍務パロ/一年い組】飴広
    • 一年生成長忍務パロ【落乱】

      2015年に発行した同人誌のweb再録のもくじです。
      飴広
    • 火垂るの吐息【露普】

      ろぷの日をお祝いして、今年はこちらを再録します♪

      こちらは2017年に発行されたヘタリア露普アンソロ「Smoke Shading The Light」に寄稿させていただきました小説の再録です。
      素敵なアンソロ企画をありがとうございました!

      お楽しみいただけますと幸いです(*´▽`*)

      Pixivへの掲載:2022年12月2日 21:08
      飴広
    • スイッチ【イヴァギル】

      ※学生パラレルです

      ろぷちゃんが少女漫画バリのキラキラした青春を送っている短編です。笑。
      お花畑極めてますので、苦手な方はご注意ください。

      Pixivへの掲載:2016年6月20日 22:01
      飴広
    • 退紅のなかの春【露普】

      ※発行本『白い末路と夢の家』 ※R-18 の単発番外編
      ※通販こちら→https://www.b2-online.jp/folio/15033100001/001/
       ※ R-18作品の表示設定しないと表示されません。
       ※通販休止中の場合は繋がりません。

      Pixivへの掲載:2019年1月22日 22:26
      飴広
    • 白銀のなかの春【蘇東】

      ※『赤い髑髏と夢の家』[https://galleria.emotionflow.com/134318/676206.html] ※R-18 の単発番外編(本編未読でもお読みいただけますが、すっきりしないエンドですのでご注意ください)

      Pixivへの掲載:2018年1月24日 23:06
      飴広
    • うれしいひと【露普】

      みなさんこんにちは。
      そして、ぷろいせんくんお誕生日おめでとうーー!!!!

      ……ということで、先日の俺誕で無料配布したものにはなりますが、
      この日のために書きました小説をアップいたします。
      二人とも末永くお幸せに♡

      Pixivへの掲載:2017年1月18日 00:01
      飴広
    • 物騒サンタ【露普】

      メリークリスマスみなさま。
      今年は本当に今日のためになにかしようとは思っていなかったのですが、
      某ワンドロさんがコルケセちゃんをぶち込んでくださったので、
      (ありがとうございます/五体投地)
      便乗しようと思って、結局考えてしまったお話です。

      だけど、12/24の22時に書き始めたのに完成したのが翌3時だったので、
      関係ないことにしてしまおう……という魂胆です、すみません。

      当然ながら腐向けですが、ぷろいせんくんほぼ登場しません。
      ブログにあげようと思って書いたので人名ですが、国設定です。

      それではよい露普のクリスマスを〜。
      私の代わりにろぷちゃんがリア充してくれるからハッピー!!笑

      Pixivへの掲載:2016年12月25日 11:10
      飴広
    • 赤い一人と一羽【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズの続編です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのプロイセン視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのロシア視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / リトアニア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのリトアニア視点です。
      飴広
    • 「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズ もくじ【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのもくじです。
      飴広
    • 最終話 ココロ・ツフェーダン【全年齢】【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の最終話【全年齢版】です。
      飴広
    • 第七話 オモイ・フィーラー【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第七話です。
      飴広
    • 第六話 テンカイ・サブズィエ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第六話です。
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