4 ✝ Spion aus Russland 〜ロシアから来たスパイ〜 ✝
――ギルベルトは今、最強に頭が真っ白だった。
目の前には無機質なほどに無表情なイヴァン。ここに座る少年を見下している。
四肢は動かない。見事なまでの手際で、イヴァンの部屋の椅子に縛られてしまった。だが動けたところで何ができただろう。ギルベルトは眼前の光景全てが現実なのか夢なのか、むしろ夢でなくて何なのか、夢ならば早く覚めろ、とどんどん実際から遠ざかっていく。
がなったイヴァンの声の余韻で、喉が強張って声が出ない。為す術がまるでない。何故だ。いつから。いつから自分の見えている世界と、目の前の世界に齟齬が生じていた? まじまじと見つめるイヴァンの顔には、その答えは載っていなかった。
……イヴァンの表情がふわっと緩む。
それにより束の間に緊張がほぐれたギルベルトは思い出した。――そうだ。これは『設定』だ、と。
「い、イヴァン……ちょっと待ってよ、落ち着こう。俺様でもわかるぜ……これは、本当にやりすぎ……」
その場を盛り立てようと、笑いを含めながら訴えた。
だがその笑いがイヴァンに伝染することはなく、冷たく見下すそのままの視線で腰を下ろし、顔を近づけた。
「違うよ。これが現実だよ」
淡々。それ以外には表現しようもない顔つきで、イヴァンは教える。
「ごめんね。君のマーマを連れて行ったのも、ぼくのいる機関なんだ」
「え?」
目線を合わせていたイヴァンはまた立ち上がり、
「……君が対象で本当に楽しい任務だった。正直名残惜しいくらいなんだけど。楽しい一つの任務だったと思うことにするよ」
嘲笑の表情が浮かぶ。
「……じゃ、始めるね」
――ああ、本当に。どうしてこんなことになっちまったんだ。
ギルベルトの自室が映し出されたモニターをバックに、手袋の装着具合を確かめ、黒いリボンのような布を取り出す。その無表情に戦々恐々としてしまったギルベルトは、これまでのことを振り返った。
結局先週、包帯の下に隠しているものをイヴァンが教えてくれないから、とギルベルトは不貞腐れ、それ以上をイヴァンに許さなかった。イヴァンもそこで無理強いすることはなく、あっけなく身を引いて、そして自室へ帰っていった。
それからだ、イヴァンが突然、ギルベルトから身を隠すようになった。
初めはどこかへ出かけているのだろうと思った。学校へ出る際も家にいる気配はないように感じたし、学校から帰ってもその様子は変わっていなかった。寝る前も電気は点かず、丸一日居なかったことになる。……だがギルベルトは疑問に思った。消灯したあとに気づけたことだが、イヴァンの部屋のモニターが光っていたのだ。……つまり電源が入っている。そしてその前に、イヴァンの影が見えるような気がした。――イヴァンは、そこにいる。何故だか確証を得た。
逆を言えば、そこにイヴァンがいるというのなら、何故一言も声をかけてくれない? 留守のような真似までして。……その前日に触れ合いを拒否したことで、愛想を尽かされてしまったのだろうかと、ギルベルトは柄にもなく焦りを抱いてしまった。
もう真っ暗になっている自室で、掛け布団を巻き込んで背中を向ける。……いや、でも、あそこまで迫っておいて、隠し事をしているなんて納得がいかない。自分の気持ちを再確認して、自分こそ頑なな態度を崩してはいけないと持ち直す。
イヴァンが顔を合わせないまま丸二日が過ぎた。
変化が起こったのは、さらにその次の朝だった。ギルベルトは電話の呼び出し音で起床した。誰だこんな早朝に、と思ったが、時計は七時を回っていたので、力いっぱい二度見した。電話に出ている場合じゃないと無視をして、大慌てで学校の準備を始めた。こんなとき、捻挫した足が邪魔で仕方がない。
ちらりと自室の窓の外を覗いてみたが、昨晩のまま、イヴァンの部屋のカーテンは閉めきられ、うんともすんとも言わなかった。
電話は何度も何度もしつこく鳴り続けた。痺れを切らしたギルベルトは、着替えが終わった時点で半ば苛立ちに押されて電話に出た。
『――――』
受話器を落とすほどの衝撃を味わった。
……その電話は叔父の会社からで、恐る恐ると言った風に名前を確認され、そうだ、と答えたら、その電話口の人物は大層偉そうな役職を名乗った。そしてこう続けたのだ――出張先で叔父が失踪した、と。
詳しく聞けば三日ほど前からおかしな挙動が見られ、昨日の朝には出張先のホテルの部屋にも、荷物の一切がなかったと言った。……近くで身元不明の遺体が発見されたことから、何かに巻き込まれた可能性があるので、ギルベルトには警察の事情聴取がうんたらかんたらと、流れ出る言葉は止まらなかった。
……淡々と与えられた情報に、受話器を手放していた。そして次に脳裏に浮かんだのは『学校、遅刻する』だった。後から思えば、それを聞かなかったことにしようとしたほど、動揺していたように思う。……だが、それもそうだ。叔父はわかっている唯一の身寄りなのだから。これからどう生きていけばいいのかと、漠然とした不安が込み上げて胃を圧迫した。
無意識に視線が動いた先は、イヴァンの部屋のカーテンだった。イヴァンにこの先の人生の保証を求めたのではなく、一時でもいいから、誰かがそばにいる実感が欲しかった。――母親の唯一にして最後の記憶がフラッシュバックする。
「……っ」
ギルベルトは出窓まで足を引きずり、乱暴に窓を開けた。
「おい! イヴァン! 起きてんだろ! 顔見せろ!」
声量の調節などできるはずもなく、ただ声を張る。
だが目の前の雨戸の先、そこにあるカーテンはぱたりとも靡かず、もちろんそこからあの温和な笑顔が覗くこともなかった。……いつもどこに行くのか、よく使う店や、学校やアルバイト先など、普段は何をしているのか。イヴァンは今、どこで何を……?
――イヴァンのことは何も知らないことを思い知った。言われてみれば、教えてもらったことは全て、『設定』以外の何ものでもなかったのだ。
唇を噛みしめる。このやり場のない不安感をどうしたらいいのかわからない。心もとないというのはまさに今の心境のことで、ギルベルトはしばらくその場から動けなかった。
結局想いを寄せていたのは自分だけだったのかと悔いたような、いや、惨めな気持ちになる。……何度もイヴァンは想っているような素振りを見せたが、キスを止めただけで会ってももらえないのだとすれば、それはいずれも本心ではなかったのかもしれない。何よりこんなときこそ側にいてほしいのに、そうしてくれないのが最たる証拠だ。居留守をつかっているにせよ、いないにせよ、おそらく想いを返してくれているというのは、ギルベルトの都合のいい勘違いだったのだ。
思考が行き交う中で、だんだんと湧き上がる実感に途方に暮れる。誰もいない。こんなにも拠り所のない状況というのは、不安で不安定なのかと痛烈に感じる。心細い。
返事の帰ってこない雨戸への呼びかけを諦め、ギルベルトはそっと窓を閉めた。
――落ち着こう、冷静になろう。大丈夫、動揺しているだけで、本当にイヴァンはただでかけているのかもしれない。思えば叔父だって、まだその発見された遺体が本人だと断定されたわけではないし、まだひょっこりと帰ってくる可能性も残されている。……そう願わずにはいられない。このギルベルト・バイルシュミット様の家族に手を出して、敵に回そうと思うやつはいないはずである。
ふらふらとした足取りで、椅子にしがみつくように座った。『失踪した』ことのリアルをわかっていない。その事実が具体的にギルベルトに対してどう作用するのか、まだ実感は何もしていていないことを自覚する。強がりの狭間にある『もう帰って来ないのかもしれない』という漠然とした不安が、少し腹の底から茹だるだけだ。……だが、漠然としているからこそ、掴みどころがなく途方もなく感じる。
――結局その日、ギルベルトは学校には行かずに、ずっとイヴァンの気配を察知するまで自室のベッドに横になっていた。学校に行く気力は到底なかったのもあるが、もし本当にイヴァンがでかけているだけなのであれば、帰り次第すぐに話を聞いてもらえるようにしたかったからだ。……それが敵わない時間が増えれば増えるほど、心細さが増していく。
だが残念なことに叔父同様、イヴァンもまた、帰宅したような素振りは見せなかった。
日が暮れきって腹がぐーぐー鳴っていたが、重く気力が滞っている身体を持ち上げられなかった。何を摂取するのも面倒に思える。――イヴァンに会いたい。もう包帯の下がどうとか、そんな駄々こねないから。しっかり、はっきり、『好きだ』と言って安心させてほしい。側に居て欲しい。もうほかに、ギルベルトをギルベルトとして無条件に認識してくれていた人がいなくなった今。イヴァンのこれまでの思わせぶりな態度を、問い質して確かな感触を得たかった。
一日中ベッドの上に居たのだから、日が暮れても電気は点いていなかった。むしろ、イヴァンが帰宅すればすぐに気づけるよう、そうしなかったところもある。意地になっていた。だが、電気を点けていなかったからこそ、向かいの部屋から今日も漏れる、何かしらのモニターの発光を確認できる。そしてあろうことか、カーテンの繊維の隙間から、その光が照らす何かが部屋の中で動いているように思えて仕方がない。
いつ叔父が生きていたと連絡が入ってもいいように握っていた受話器を投げ出し、半日ぶりに重い身体をベッドの上に起こした。結局この電話が鳴ったのは、ぶち切ってしまった学校からの連絡の一度きりだった。起き上がった動作に、待ってましたと言わんばかりに、空腹がまた豪快に主張してくる。両足をベッドから下ろし、椅子を支えに立ち上がった。
空っぽの胃には悪いが、見据えるのはイヴァンの部屋のカーテンから漏れる、モニターの明かりである。一直線に窓へ向かった。
午前中よりは余程冷静な手つきで窓を開け、「おい。おい、イヴァン」と呼びかけた。
――しかし反応がないのは変わらなかった。先ほどまでモニターの明かりに照らされて人影が見えると思ったが、それは途端に無機物に思えた。……やはりイヴァンはそこにはいないのだろうか。それでも、諦めが着かなかった。
「おい! モニターついてるから知ってんだぜ! お前そこにいるんだろ!?」
無視されていることに腹が立ち、強めに主張する。実際そこに居ないのであればこれを聞くことはないので、そこにいて聞いていることを前提に言葉を選ぶ。
「お、お前、俺様に畏れをなしたのか! 弱虫だな! それでも優秀なスパイなのか! おい、聞こえてんだろ! 悔しかったら顔出せバーカ!」
モニターの光が見える以外は、やはり何もわからなかった。真っ暗な部屋の中、真っ暗な部屋を睨みつける。イヴァンだと思っていた人影は、もしかするとただ椅子が照らされているだけなのかもしれない。……叔父と同じように、イヴァンも姿を消してしまうのか。
じわりと視界が滲む気がする。
周りで次々に人がいなくなることへの恐怖と不安と心配と、そうして残る心細さにさらに涙を絞られる。
「なあ、俺様が何したってんだよ……! イヴァン……!」
震える声が漏れて、寂しい寂しいと胸が締め付けられる。それでもその晩、イヴァンが顔を出すことはなかった。
そうして寂しくても悲しくても空く腹に食料を詰め込み、ギルベルトはまた力なくベッドの上で夜を明かした。……ギルベルトがイヴァンと最後に会ってから、五日目の朝だった。
鈍い衝撃音のようなものが耳に入り、寝ぼけ眼でその音の方へ顔を向けた。昨日の一日を、エネルギーを消費せずに横になっていたギルベルトがすぐに寝付けるわけもなく、よって五時ごろ就寝していた。だからか、非常に重くなった瞼を何度かしばしばと瞬きさせ、その衝撃音が窓をノックする音だと気づいた。おまけにそこに、イヴァンの笑顔が待ち構えていることを、満を持してようやく理解する。
起きたばかりの目を丸めて、慌ててベッドに起き上がる。……あまりの寂しさにカーテンを開けっ放しで寝ていたらしい。
まだ寝ぐせも整えていないというのに、急いで窓の方へ駆けより、鍵を開けた。……イヴァンが窓を開け、何かを見せつけるように、眼前へ突き出した。
「ギルくん、おはよう。お土産」
その突き出されたものに焦点を当てると、ストラップの先にロシアの国章をあしらったマスコットがぶら下がっている。それを受け取りながら、改めてイヴァンの笑顔を眺め入った。
「……は?」
「え? やだなぁ。ロシアに里帰りしていたんだ。そのお土産だよ。ぼくが居ない間、寂しくて泣いたりしなかった?」
ニコニコと機嫌よく笑っている。それが妙に腹立たしかった。
「……お前、居留守だったろ」
如何にもその笑顔が胡散臭かったのでそう問い詰める。
その笑顔はくすむことなく、何の悪気の一つもなく、「何でそう思うの?」と問いで返された。
……しらばっくれるとはいい度胸じゃねえか。もらったストラップを握り締め、ギルベルトはここ五日ほどの苦しみを思い出して苛立った。
「俺様はどこに行くとか聞いてねえし。夜、モニターついてたろ」
「そうそう。ぼくも帰ってびっくりしたんだけど、消し忘れたんだよ」
何とも軽々しくイヴァンはそう正解を出した。
「それに、ぼくには君に旅行のスケジュール教えないといけない決まりなんかあったんだ」
「……っ」
からかうように笑われたのが悔しくて、人の気も知らないでと反論したかった。だが、思い出した苛立ちと一緒に、必死に一人で堪えた心細さも逆流して来て、思わず顔を伏せた。
さすがのイヴァンもそれで察したのか、
「ギルくん? ……何かあったの?」
声色が一転して、嗚咽を誘発しそうなほどに優しくなる。
目の前で気配が動き、ギルベルトの出窓へ乗り、一歩後ずさると目の前に降り立った。
待ち侘びたイヴァンがようやくそこに立っている。寂しかった。心配した。不安だった。……会いたかった。
「ギルくん?」
眼の奥に持ってしまった熱のせい、顔を上げられず、必死にこらえていた。だがイヴァンはその俯いた顔を覗き込もうと、身を屈める。せめて事情を知らないイヴァンにそれくらいは教えてやらねばと、必死に言葉を寄せ集める。
「叔父が……出張先で失踪したって……。わかってる唯一の家族なんだよ……!」
失踪したと自ら口にした言葉に、両親のことが過る。まるでギルベルトから家族を奪っていくかのように続く失踪劇、思わず「くそ……っ ンでだよ……」と愚痴を漏らしてしまった。
屈んでいたイヴァンの気配がまた動き、
「ギル……」
両方の頬をその大きな手のひらで包まれ、顔を上げられた。甘すぎるその声で名前を呼ばれても、ヒリヒリと痛みを伴う目元では、瞳までは上げられなかった。……何より、こんな顔を見られるのは不覚である。
「ギル、泣かないで」
「ンで呼び捨てなんだよ。その手を使うのは卑怯だぜ」
「あ、ごめん……嫌だった?」
――嫌じゃなかった。だから手も宙ぶらりんのままで、抵抗なんて考えもしない。実は遠いのではと思っていた距離を、それでも近いように錯覚できて心地いい。
ちら、とイヴァンの瞳を盗み見るように見上げた。見事なまでに待ち伏せされていた視線とぶつかり、そのまま釘付けにされる。そんな場合ではないのはわかっているのに、その視線にまた胸がざわざわと騒ぎ出し、脈が早くなった。
ああ、やっぱりそうだ。俺様はイヴァンが好きだ、そうギルベルトは身に染みて知る。……だが、一体イヴァンはどうなのだろう。
「……ギル」
甘い声とともに、イヴァンの瞼がゆっくりと降りた。
――キスをされる。
そう察知した途端、つぅっと息苦しくなった。
その両手によって持ち上げられる頬。思わずイヴァンの顔に自分の手を被せ、それを止めていた。指の間から覗くイヴァンの瞳は、不安心に揺れていた。
「イヴァン、」
注目を求める。
「『好き』って言えよ。まだ一度も聞いてない」
静かに懇願した。
もう、包帯の下がどうとか、普段は何をやっているのかとか、そういうこと、一切知らなくてもいいから、それだけ教えてほしいと、そう願う。今はそれだけでいいから。
立ち尽くすイヴァンは目を伏せ、頬から手が放された。包んでいた温もりが去り、ギルベルトはそれを惜しむ。
「イヴァン……?」
まだ一言も返答していないイヴァンは不安げな声色に反応してか、ぎゅっとギルベルトの肩を抱き込んだ。
「……ごめん、言えない……」
「……は?」
「君を騙してるみたいで、言いたくないんだ」
悟る。イヴァンは表情を隠そうとして、ギルベルトを抱きしめたのだ。
しかし何故言えない。キスをしようとして、それで『君を騙しているみたい』だ? 苛立つのは当然のことで、嫌味を存分に込めて、「そうかよ。意味わかんねえよ」と語気を荒げた。
「ごめん、わかって。ぼくはロシアのエージェントだから」
その言葉に頭がぼぅっと燃え上がる。
――この期に及んで! この期に及んで……ッ! 声を大にして、それはもう心の底から叫びたかった。
しかしそれはできず、イヴァンの胸板を押しのけ、
「……くそ! くそっ! あ゛ーッ! くそぉっ……!」
代わりに壁に向かって唸るような怒号が上がった。わしゃわしゃと髪の毛を搔き乱していた。
もしも『それはもういい』なんて言おうものなら、今まで頑なに守っていた自意識を打ち崩してしまうことになる。……何より、ギルベルトよりもひたすらにこの『設定』を守っているイヴァンから、見限られてしまうかもしれない。ただ好きかどうかを知りたいだけなのに、そんなこともこの『設定』に邪魔される結果とは、どんなに可笑しいだろうか。
どうしていいかわからず、「あ゛あ゛ッ!」と喉を潰してもう一度叫んだ。身体全部に力がこもり、握りしめる拳はいっそう震えた。
「ギル、」
控えめに呼ばれる。「ンだよ」と乱暴に振り返れば、
「ぼくの部屋においでよ」
手を後ろに組み、いつもとどこか違う眼差しでイヴァンが笑っていた。その笑顔の意味するイヴァンの感情は一体なんなのだろう。湧いていた苛立ちを忘れ、しばし見とれた。
だが、言われた言葉を反芻すると、
「……えっ」
一気に鳥肌が立った。
「えぇぇええーっ!?」
部屋に来い、とはつまり……!?
いらぬ裏を読んだギルベルトが慌てだしたのを見て、イヴァンは誤解を悟る。繕うように両手を見せて、
「ああ、別に変な意味じゃないんだ……その、いいものを見せてあげるよ。君なら喜んでくれると思って」
とまた、今度は困ったような笑みを浮かべた。
イヴァンに言われるがまま、玄関からブラギンスキ家を尋ねたギルベルト。一度だけ入ったことのある玄関だが、その先は初めてであり、ましてや意中の相手の自宅である。単なる『お隣さんの家』とはわけが違い、バクバクと緊張していた。
突然自宅へ招待されたことについてギルベルトは、てっきりイヴァンの罪滅ぼしなのかと思っていた。……変な意味はないらしいが、『好きと言えない』と言われ、ショックを受けたことに対して、納得のいく弁解や補足があるかもしれないと、そう期待した。それと同時に、叔父の失踪で意気消沈していることに対して、気を紛らわせようとしているのだろうと。
しかしまず玄関から一歩踏み込んだギルベルトは違和感に気づいた。
磨かれたフローリングの廊下を這う、剥き出しになった真っ黒の太い配線の数々。それらを随所随所でまとめる結束バンドが、無造作にあちこちに散乱して、生活するための家というよりは、作業をするための事務所といった印象を受けた。スリッパや花瓶などは元より、カーペットやマットレス、壁にかかっていることの多いカレンダーなど、一切そう言ったものは見当たらず、殴り書きされたメモなとが其処彼処に伺える。そういう部分でも事務的な印象を受ける。もちろん家具も最小限のようで、ダイニングテーブルもなければ、リビング用のソファやテレビと言った団欒のための家具もない。
「どうぞ」
玄関から入ってすぐの場所で、えらく閑散としていた視界を見渡し足が止まったギルベルトに、イヴァンは手を差し出した。「お、おう」と了承して、その手を握り返すわけではなく、ただ背後に密着して進む。
「ここにあるの、何かわかる?」
階段を登る前に、電話台の上に置いてあった、どこからどう見ても単なる電話の親機にしか見えない機器を示して、イヴァンはギルベルトに問いかけた。
「……電話機だろ?」
そう問われるからには答えは違うのだろうとわかったが、あえて見たままを投げ返す。イヴァンは身体をギルベルトの方へ向け、「そうだね」と説明を始めた。
「似せて作ってはいるけど、実は違うんだ。うちの機関と直通の連絡ができる、インターネット経由、赤外線経由、電話線経由などなど、色んな手段で通信できる通信機器だよ。ここのボタンを押すと周辺のレーダーにもなる。この受話器の向こうには専用の人員が待機していて、調べて欲しいことをすぐに調べてくれる。……まあ、メールでも同じようなことができるから、これを使ってるのは上司だけだけどね」
手のひらをひらっと舞わせ、イヴァンはさらに後に続くように指示を出す。動き出したイヴァンのその背中を見上げながら、「上司とは父親のことか」とぼんやりと整理した。
「あっちが上司の部屋」
階段を上りきったところでまた示された方へ視線をやり、そこにあった扉を覗く。
「うわ、なんだあれ」
「ふふ、驚いたでしょ。あれは監視カメラ用のモニターラックだよ」
そこには縦横合わせて九台のモニターが並ぶラックがあり、その前に一脚だけ簡素なオフィスチェアが置かれていた。
「上司はぼくより優秀な人だから、同時に九台のモニターの監視をするのも朝飯前なんだ。……もっとも、今回の任務ではその能力は必要なかったみたいだけどね」
そっとその扉を閉じられ、ギルベルトは視線をイヴァンの笑顔に移した。寄越される『設定』の多さに、段々と疑問符を増やしていくが、きっとこの話には何か繋がるところがあるのだろう、とあくまで「すげぇ」などの感嘆に留めた。
「で、あっちがぼくの部屋だよ」
ドキリと胸を突かれる。
さらに手の示す先を追うと、そこには閉ざされたこじんまりとした扉があった。その先に、イヴァンが見せたかったものがある。……ものなのか、ことなのか。待ち受ける未知に、心を弾ませる。
先導してイヴァンが自室の扉を開け、先に部屋に入り、扉を押さえてギルベルトの入室を待った。
恐る恐る踏み込む。
いつも反対側から見ていた世界が、目前に広がっている。カーテンは開かれ、電気が点灯しておらずとも明るく室内が照らされる。
簡素なパイプベッドに、公共施設にあるような長机。大型のモニター――ギルベルトが自室から見えていた何かしらの画面やモニターと思っていたもの――が長机の端に置かれ、隣にタブレットと見間違うような小型のパソコン。それを見下すように積み重なった書類ラック。どこをとっても、なんとなくギルベルトの知るイヴァンとは食い違う物の陳列に、不快な違和感を覚えた。
己の知らないイヴァンの一面を知れることは幸せなことのはずなのに、何故かこの家に踏み込んでから、おかしな胸騒ぎがする。――そう、胸騒ぎというやつである。ようやくギルベルトはそれに気づくことができた。
だがそれよりも今は、初めて許してもらえたイヴァンの自室というパーソナルスペースに、もっとテンションを張っていきたい。あえて胸騒ぎをないがしろにして、楽しむ気持ちを引っ張りだす。
「うをぉ、いいモニター持ってるよなぁって思ってたぜ! 光しか見えなかったけどな! これで映画とか見んの?」
真っ先に向かったのは、言葉通りにモニターだった。それはイヴァンの言う『上司』の部屋にあったモニターよりも大きく、画質も良さそうだった。
「つけてみる?」
他愛のない声色で、イヴァンが背後から尋ねた。
「おう、なんか見ようぜ」
軽く答え、さらに背後へ振り返る。イヴァンは目を合わせることなく、まっすぐにモニターの元へ歩いて行き、
「……そうだね。ここで見られるのって、一つしかないんだけど」
迷いもなく、その電源ボタンを軽くたん、と叩いた。
最新式のそれは起動に時間は必要なく、すぐにパッと明度を上げた。画面の中に切り貼りされる光景も知らずに、ギルベルトは興味津々でそれを覗き込んでいた。
「……え」
現れた画面に、零すように声が転がった。
瞬時には理解できない映像……というよりは、活動するものの居ないそこは、ほぼ静止画に等しいが、ギルベルトの見慣れた家具が見慣れた配置で映しだされていた。
混乱が深まり、思わずイヴァンに助けを求めるように一瞥してやったが、まっさらな笑顔でギルベルトを見守っているだけである。
何か自分だけ違うものが見えているのでは、と、驚きに任せて今一度画面を確認したが、やはりそこに映しだされていたのは、
「は、え……は? 俺、様の……?」
「……驚いた?」
踊る声色が注目を引いた。
「だって、まさしく」
――君の部屋だもん。
声に出ていなかったが、その目が反応を楽しむように見下していた。
「つまり……これは……どういう……」
茫然自失となり足元をふらつかせ、数歩画面から遠のいた。
つまりどういうことだ。頭をトンカチで殴られたほどの衝撃に、脳みそが振盪してぐわんぐわんと揺れる。……つまり、イヴァンにずっと監視されていた――? だが、電波妨害の機器を設置していたはず。あれは……作用していなかったのか。……いや、待て。そもそもなんでイヴァンがそんなことを……? いつから……?
覚束ない足取りでは立っていることもままならず、ついには腰を床に落としてしまった。
「あれ、腰抜けちゃった? 大丈夫?」
白々しく腕を掴み、イヴァンはギルベルトの身体を支えようとする。すぐに「ここに座って」と肘置きのついた年季の入った木製の椅子が引き寄せられ、その肘置きを掴みギルベルトはすがるようにそこに座り込んだ。……イヴァンの思う壺とも知らずに。
「お、お前、説明しろよ、これって」
画面に釘付けになりながらも、何とか喉を鳴らす。そして画面に向かって指を差そうとしたとき、手首が動かないことに気づいた。慌てて視線を落とせば手首に鉄製の枷が、椅子の肘置きに固定されるように付けられていた。
――え? ん? は? え?
イヴァンの動きを目で追えば、カシャ、と軽い音を鳴らして、足枷が取り付けられるところだった。
「お前!? 何やっ、なに!? なになになに!? 何で俺様捕まってんの!?」
「ごめんね、ギルベルトくん。ギルベルト・バイルシュミットくん。君の知っての通り、ぼくは君を監視するために越してきたロシアのスパイだから」
そう言ってイヴァンは優しげに、少し眉尻を下げて笑った。その表情を凝視して、意図を、真意を読み取ろうとする。これは本心なのか、それとも悪ふざけなのか? 悪ふざけならば、これは度が過ぎている。抗議しなくては、抗議しなくては。そう頭ではわかっているが、声が出なかった。
「君が初めに言い当てたんでしょ」
後ろの引き出しへ歩み寄ったイヴァンが、背中を向けたまま続ける。
「ぼくはエージェントコードニ四ニ。イヴァン・ブラギンスキは今回の任務用の仮名だよ。特別訓練は三歳から。初めての任務は六歳のとき。無邪気な子供を演じて公園に潜伏していたテロリストの注意を引き、捕獲しやすくするというもの。ちなみに、」
目当てのものを見つけたのか、振り返ってまた笑う。手に持っていたのは、こげ茶色の革製の手袋だった。
「捕獲を一人でやってしまったので、そのときに初めて昇進の勲章をもらったよ」
身体こそギルベルトの方へ向いているが、その手袋をはめ始めたので、視線は手元に落ちている。
「一緒に越してきた父親はエージェントコード一ニ四。ぼくの直属の上司に当たる人。ぼくの得意武器はナイフ。隠し場所も種類も君は知ってるね」
何とも事務的に言い終えたその説明文のあと、手袋をはめ終わったイヴァンは、何とも無邪気な笑顔を浮かべ直し、それをギルベルトへ向けた。
その柔らかな目元にぎゅっと心臓が握りつぶされるようだった。ここへ来てまだそんな心地になっている自分に「くそ」と心底から呆れを抱く。
目の前で容赦なく笑っているイヴァンに意識が戻り、その笑顔を見据える。
実際ナイフを常備していたことも思い出して行き着くのは、イヴァンは『設定』にリアリティを求めているのだろうかということだ。こういう『プレイ』というやつが好きなのか? ――未だに言われた言葉が現実だとは信じることができず、ギルベルトはこの状況の解釈の仕方を探る。
ゆっくりとギルベルトに歩み寄るイヴァンは、
「お陰で君には嘘をつかずに済んで、ほんとに楽しい任務だったよ。ありがとう」
そう言ってそっと頬を撫でる。ぞわぞわと背筋に痺れが走り、それでもその様子から視線を外せない。
「でもごめんね、とうとう最期の指令が出ちゃったから。ぼくは優秀なエージェントだから。なるべく抵抗しないでほしい。痛くしたくないから。わかってくれるよね?」
『最後の指令』――やはりこれは、イヴァンの『設定』なのか? 言っていることが本当だと信じるよりは、その可能性を汲む方がよほど気が楽であるような気はした。だからこそ、それに合わせてやろうと思い、必死に己から緊張感を追いだそうとする。
落ち着け、得意なはずだ。俺様はドイツの優秀なエージェント。こんなことで動揺するなど、笑止千万だぜ。己にそう言い聞かせるように、意識してゆっくりと瞼を閉じた。
「ちょっと待つんだイヴァン」
しっかりと芯の通った声を発することができたギルベルトは、よし、と満足し、イヴァンは無表情に先を聞く。
「俺様は確かに期待の新人だ。だが、新人の俺様は当局の情報は何も持っていない。諦めろ」
威圧的に伝える。完璧だ。
だが安堵したのも束の間、イヴァンの眉間に皺が走り、ビリリと空気が凍った。思い切り息を吸い込んだ音が空気を割るようだった。
「もうやめてっ! もう、いい加減にして! これは遊びじゃないんだよ!? ちゃんと『ぼくは何も知らない一般の学生です』って自覚持ってよ!」
苦しそうにそう叫びきったイヴァンに、今度こそ思考が真っ白になる。
――違ったのか? ギルベルトの応対は間違っていたということか。正解だと思いたかった『設定』が間違っていたというのなら、この先どう身動きを取ればいい。
目の前には無機質なほどに無表情なイヴァン。ここに座る少年を見下している。眼前の光景全てが現実なのか夢なのか、むしろ夢でなくて何なのか、夢ならば早く覚めろ、とどんどん実際から遠ざかっていく。
がなったイヴァンの声の余韻で、喉が強張って声が出ない。為す術がまるでない。何故だ。いつから。いつから自分の見えている世界と、目の前の世界に齟齬が生じていた? まじまじと見つめるイヴァンの顔には、その答えは載っていなかった。
……イヴァンの表情がふわっと緩む。
それにより束の間に緊張がほぐれたギルベルトは思い出した。――そうだ。やはりこれは『設定』だ、と。
「い、イヴァン……ちょっと待ってよ、落ち着こう。俺様でもわかるぜ……これは、本当にやりすぎ……」
その場を白けさせないよう、笑いを含めながら訴えた。
だがその笑いがイヴァンに伝染することはなく、冷たく見下すそのままの視線で腰を下ろし、顔を近づけた。
「違うよ。これが現実だよ」
淡々。それ以外には表現しようもない顔つきで、イヴァンは教える。
「ごめんね。君のマーマを連れ去ったのも、ぼくのいる機関なんだ」
「え?」
目線を合わせていたイヴァンはまた立ち上がり、
「……君が対象で本当に楽しい任務だった。正直名残惜しいくらいなんだけど。楽しい一つの任務だったと思うことにするよ」
嘲笑の表情が浮かぶ。
「……じゃ、始めるね」
手袋のはまり具合を確認したあと、ひらりと手を上げ、取り出したのは真っ黒の細いリボンのような布。それの用途を何通りか想像して、思わず背筋が凍る。抵抗もできないギルベルトに、イヴァンはそっとそれを瞳にかぶせ、後頭部で結んだ。
奪われた視界、捉えられた四肢。実感して絶望する。認めるしかないのか。……イヴァンが本当のことを言っていたのだと。今まで全て作り物の『設定』だと思っていたことは、現実なのだと。
と、いうことは先程の『最後の指令』とは……?
ようやくイヴァンの意図を受け入れたギルベルトは、先程までより余程冷静になっていた。
「なんだ、じゃぁ本当に、」
視界を奪われたのだから、もう気配に頼るしかなくなる。
「本当に人を欺く演技力とやらだったのか」
今までの全て。湖に落ちたときに助けてくれたことも、この瞳が綺麗でほしくなると言ったことも。ギルベルトの両親について、バカにせず親身になって聞いてくれたことも。……同じように特殊設定を語ったことも、笑顔も、先日から何度も何度も変な気持ちにさせた、あののぼせるほどの視線も。今までの全てが、そうなのか。
「……そうだよ」
そう言ったイヴァンは、一体どんな表情をしているのだろう。隠された視界ではイヴァンの心境を測ることすらも許されない。
だが、本当に本心からそう言っているのだとしたら、なんと悲しいことだろう。なんと悔しいことだろう。初めから言い当てていたというのに、自分がそれを信用していなかったのかと思うと、どれほど滑稽なことだろうか。……初めからイヴァンは、ギルベルトを騙すつもりで……。思えば思うほどぎりぎりと奥歯に力が入り、
「……ちくしょ……気づいてたのに……」
どうしようもなく口元が歪む。
「この先はぼくの質問にだけ答えてね」
目線を合わせたような高さから、イヴァンの声が聞こえた。膝を着いているのだろうか。声の方へ顔だけ傾ける。
「違うことや関係のないことをしゃべったら、痛い目見るからね。……そうだね、爪から行くのがいいかな。それとも指の骨を行こうか。得意の拳が握れなくなるかもね」
冷淡な声色で言い切ったかと思うと、右手にそっとイヴァンの手が触れた。
「……これは『設定』じゃないから、そう肝に銘じて」
警告するような声色とは似ても似つかないほど、その手は優しくギルベルトの手を支え、慈しむように少しだけ指先を撫でられた。……イヴァンの手が冷たい。何度か触れたイヴァンは、ここまで冷たかっただろうか。もしイヴァンもこの状況に抵抗を感じているとしたら……。たったそれだけの情報だというのに、にわかな期待が芽生える。
だが、言っていることは本当だと思ったほうがいい。もしイヴァンが自負するように『優秀なエージェント』なのだとして、こうすることが本当の『任務』ならば、本当に拷問に近いことをされるのかもしれない。
それでも、イヴァンがそんなことをするなどとは未だに信じ難く、況してや暴力に頼った脅しに屈服することへの屈辱で、まともな返答はできなかった。
「まず、お母さんのこと覚えてるよね?」
非情にもイヴァンとの質疑応答が始まる。
「ああ」
諦めたように声を落として様子を伺う。
「ぼくにはまだ話してないことで、失踪する前に何かもらったり、聞いたりしなかった? よく考えてね」
素直に答えた方がいいのではと思えば思うほど、反抗心が煮えたぎる。もしイヴァンが本当に『優秀なエージェント』なのだとしたら、ギルベルトもそうあるべきではないのか。いや、この際、それで貫いてやろうじゃないか。小さな報復心が芽生える。
うっすらと口元を釣り上げた。目隠しをされているというのに、その不敵に笑う姿はイヴァンにはどう見えているだろう。すぅっと空気を肺に取り込んだ。
「俺様は」
確固たる自信を持って返答する。
「俺様は優秀なエージェントだ。なんの情報も渡さねぇよ」
はっきりと断言できたことに爽快さを覚えたギルベルトに、突然筋を断ち切られるような激痛が襲った。
「んあぁっ!?」
乾いた小枝が折れるような破裂音が聞こえたが、痛みに全ての意識を奪われる。
右手の小指からの刺さるような鋭利な激痛のあと、定期的に石で殴られ続けているような鈍痛がじわじわと血液のように広がり、手首までじんじんと痛みを伝える。
「関係のないことをしゃべらないで」
自分でやったはずだというのに、労るように柔らかく「かわいそうなギルくんの小指……」と続いた。正気の沙汰ではないとギルベルトは呼吸がつっかえる。……それでもこの鈍痛は、確かに抵抗している証なのである。甘んじて受け入れてやる、そう強がりはするが、痛みによる冷や汗は抑えることはできなかった。何が悲しいのか、良しとしていないのに、眼の奥も熱くなっている気がする。
「もう一回聞くね。失踪する前、お母さんから何かもらったり、聞いたりしなかった?」
「っつ……お、俺様当時何歳だと思ってンだ。覚えてるわけねぇだろ」
「優秀なギルくんなら覚えてるかもしれないでしょ」
「あいにくエージェントになったのは最近だからよ、覚えてねぇよ……っ」
痛みに耐えながら何とか会話を続ける。右手を支えるイヴァンの手のひらからも、まるで痛みが伝染しているように響いている。
目前から深い溜息が聞こえた。
「まだ続けるの?」
イヴァンの気配が動く。
立ち上がり、数歩歩いているようだ。支えがなくなると、なおさら手指が痛んだ。
「でもまぁ、今のはぎりぎり回答になってたから見逃してあげる」
まだ迷っているのだろうか。到底落ち着いているとは言えないイヴァンの行動に、いっそう悲しくなる。……もし、先も思った通り、これはイヴァンの本心ではなく『機関』の押し付けた『指令』なのだとしたら――
――『君を騙してるみたいで、言いたくないんだ』
なぜ今なんだと取り乱す。脳裏に蘇ったイヴァンの言葉に、耐えられなくなる。
あんなに好きで側にいてほしくて……きっとイヴァンもそう思ってくれている。そこまで確信があったというのに、ロシアのスパイという立場のせいで、イヴァンも不自由なのだとしたら、こんなに悔しいことはない。
苛立つ。こんなところで、しかもイヴァンに、拷問された挙句に殺されてしまうのか?
眼の奥の熱が増して、瞼を覆っているその布製の目隠しに、じわりと水分が滲んでいくのがわかる。手の痛みにも胸の痛みにも耐えるように噛み締めた奥歯が、なおぎりぎりと軋む。
「そんな顔してもぼくは痛くもかゆくもないからね」
いつもと少し違い、不満が滲み出ているのが言葉の節々でよくわかる。そんなに惨めな顔をしているのだろうか。悔しさは増す一方である。
気配が戻り、また右手を支えた。動かしたことで激痛が走り、「つっ」と舌を打ったような音を出してしまう。
「で、お母さんに他に身寄りは?」
もういっそ、早く終わってしまえ。
ギルベルトは血涙を絞るように、喉を鳴らした。
「くっ……興味ねぇよ。くたばれ……ッ」
先ほどと同じように、イヴァンに掌握されている右手から激痛が走るのかと思った。むしろそれを覚悟とも願うともした上での挑発である。
しかし思いの外襲った感触は右手ではなく、
「!?」
弱く柔らかい感触が、ちゅ、と唇に触れた。
初めは何が起こったのかわからなかった。次第にそれを理解して、比例して身体が火照っていく。
ずっと。お互い触れそうで触れなかった部分。それがこんなにもあっけなく触れてしまったことや、この状況が醸し出す狂気じみた愛着に、思わず震撼してしまう。
「……イヴァン……?」
それ以降何も言わず、何も行動を起こさないイヴァンに、現状を確認をした。今、何を思って、どうしているのか……名残惜しくて手を伸ばそうとしても、それは枷に絡められて敵わない。
ようやく気配が動いた。
「君は何も情報を持ってない。退屈で惨めな学生でした」
机に置いていた何かを乱雑に掴む音。アルミ製の何かである音が響き、シュカシュカと小さなスプレー缶を振るとき独特の音が、近づいてくる。
「おい、イヴァン!?」
またぞっとする。明らかに何かしらの行動に出たイヴァンに一体何をされるのかと、そして一体どんな表情をしているのかと、恐ろしくて考えが回らなかった。
ぐいっと乱暴に後頭部を掴まれ、鼻口を覆うベンチュリーマスクのようなものが押し当てられる。その縁が顔面に深く食い込み、今しがたイヴァンが振っていたスプレー缶に抑え込まれた何かしらの気体を、強制的に吸引させられるのだと悟る。酷く焦る。ここで終わりか。最期にイヴァンとキスできたことは、幸せだったのだろうか。むしろ慈悲のキスだとしたら、惨めで泣きそうだ。頭の中がぐちゃぐちゃと混乱を極め、感覚や音がもう正しく認識できていないような状態だ。
「さよならギルくん」
その中を切り裂いて、まるで一筋の雷のように声が通った。
「イヴァン、待てっ!? ……っ!」
頭を振ったところで知れた抵抗しかできない。イヴァンにこんなにも敵わないのかと思い知らされるだけだった。
既にシューっと言い始めた目前のスプレー缶。ひやっとした冷気がマスクで覆われた肌を撫で始める。少しでもとしばらく息を止めていたが、こんな興奮状態ではせいぜい『こんな最期、最もらしいじゃねえか』と自分を説得するくらいの時間しか設けられなかった。
強く息を吸う。身体が勝手に酸素を求めて、流し込まれる何かの気体を、横隔膜で力いっぱい肺に含む。肺胞の隅々から取り込まれたその気体は、すぐに血液に乗って酸素の代わりに身体を巡る。すぐだった、思考が保てないと自覚したのはすぐだった。ギルベルトの意識は、不快な蟠りを残したまま、深い深い真っ黒の中に落ちていった。
――まず気づいたのは、目を開いたことだった。薄っすらと視界に光が差し込む。続いて耳に響き込む、定期的かつ継続的で周波数の低い、がこがこという衝撃音。身体が小刻みに揺れていることに気づいた。
はっきりと目を見開く。視界に入った包帯を巻かれたこの手が、自分のものだと認知できたのは、さらにそれからだった。少し焦点を遠くへ飛ばす。自分のサポーターの付いた足に並ぶように絡まる、もう一対の大きな脚。それを辿るように顔を上げると、ようやく全てを理解した。
「……逃げたのか?」
向かい合わせのボックス席、電車の中、イヴァンは楽しそうに窓から景色を眺めていた。
「あ、起きた? おはよ」
まるで今までのことが全てギルベルトの夢の中の出来事だったように、イヴァンは穏やかに笑った。
……だが、死を覚悟したのは、紛れもない現実だったはずだ。何より、不器用に処置された右手の小指が、それの確固たる証拠である。
「……おい」
言及してやり、イヴァンは突いていた頬杖を外して、前のめりに体勢を倒した。
「ごめんね。もうあの街にいられなくなっちゃった」
「……逃げたんだな?」
執拗に確認するギルベルトのせいか、イヴァンの笑顔は参ったな、と言いたげなものに変わった。
あくまでそこに対する返事は伏せ、
「……ギル、ごめんね。叔父さんのこと。あと、友達といられなくなっちゃったこと。でも、君が生きてることが知れたら、また狙われるだろうから」
今まで触れられたどんな手つきよりも繊細で愛おしげに、髪の毛をすっと通ったイヴァンの指先。
……つまり、『優秀なエージェント』であるはずのイヴァンが、一介の任務対象に厄介な情を抱き、背信行為に至ってしまったと。……そういう話でいいのだろうか、ギルベルトはじろじろとイヴァンの顔つきを観察する。気づいているイヴァンはいっそう笑みを深めた。
思わず視線を外の風景に移す。……一体ここはどこを走っているのだろうか。というか、ここまで担いで来たのだろうか? さぞかし目立っただろう。見せないようにしていた口元が緩む。
「……おい、誰だよ。お前のこと優秀なエージェントって言ったやつ。そんなほいほい裏切ってたら、全然優秀なエージェントとは言えねぇな」
責めるような眼差しを向けてやる。
「……君がぼくを変えたんだよ」
イヴァンが淡白な声色で教えた。
「でも、ごめんね、ギルくん」
視線を戻せば、今度はイヴァンがそれを自身の手元に落としていた。他にも何か懺悔があるらしい。
「任務の期限ギリギリまで君に会わないようにしたのは、自分の精神を落ち着けるためだったの。……でも、できなかった」
孤独に押しつぶされそうだった、叔父が失踪してからの数日を思い出した。……やはりイヴァンはあの部屋にずっといたのだ。詳しくはまだ理解していないが、こんな状況に追い込まれていたらしいイヴァンは、その薄暗い部屋の中でどれほどの葛藤を抱いていたのだろう。
見ていたイヴァンの口元が、悔悟を噛みしめるようにぎゅっと力が入った。
「ぼくにもっと勇気と信念があって、あそこで本当に君を殺せていたら、君はもっと楽だったかもしれない」
嘆くようなその懺悔は、容易く目を見張らせた。
「きっとこの先を生き抜くより、君はよほど幸せだったと思う」
すっと戻った視線が強くギルベルトを捉えた。
「……でも、ごめん。ぼくと逃げて。どこまで逃げられるかわかんないけど」
余りにも真剣なその眼差しに、一瞬だけドキッと胸が高鳴った。
――いつも温和に笑っているイヴァンに、こんな表情をさせたのは俺様だ。
優越感に浸る。そう、そんなこと言ったところで、イヴァンこそギルベルトのために人生を棒に振ったということなのだ。
――最高じゃねえか。見る目あるぜ。
途端にもりもりと気力が湧き上がったギルベルトは、もうこの先に対するわくわくとした希望しか抱くことができなかった。
「……んだよ! ふっつーにエージェントやっててもつまんねえだろ! 逃亡者の方がよっぽどかっけー!!」
両方の拳を握って、興奮に震わせる。
一度死を覚悟したはずのギルベルトは、何もそれを無神経に笑っているわけではない。それでも、これからイヴァンと迎えるであろう波乱万丈の日々に、胸が踊らずにはいられないのだ。
気づけばイヴァンは目を丸めていた。予想外の反応だったのだろう。
「……き、君が楽しそうでよかった。うふふ」
釣られて笑うイヴァンに、
「で、これからどこいくんだよ?」
これから遊びに行くのが待ちきれない子どものように、イヴァンに燦々と輝く瞳を向けた。
「とりあえず君のお母さんが残したメモの場所かなあ」
今にも立ち上がって走り出しそうなギルベルトの手を掴んで落ち着けるよう、イヴァンは穏やかな声色で持って諭す。
だがその内容により、思ったほどの効果は得られなかったようで、「おお! いいなあ! ケセセ!」とまた楽しそうに笑った。
「これからよろしくなイヴァ……あ、本名じゃないんだっけ?」
伺うように覗き込まれ、イヴァンははた、と思い出した。……そういえばそうだった。
「ううん、ごめん。本当は他に名前を持ってないんだ。任務以外では名無しだから『ロシア』か、エージェント・コードの二四二って呼ばれてた。だから、イヴァンでいいよ。君が呼んでくれるならなんでも……」
「おう、そうか! じゃあ、改めて! よろしく、イヴァン!」
握手を求めて、左手を差し出す。その宙に浮いた手のひらを一回り観察して、イヴァンは徐ろにそれを引っ張った。あまりにも力強く引かれたため、前のめりに体勢を崩したギルベルトは、一直線にイヴァンに唇を奪われる。
予期せず、またイヴァンにキスをされてしまい、
「……うえぇっ!?」
照れのあまり、色気の欠片もない声を上げてしまった。
押し付けられた感触に、記憶が呼び起こされる。そういえばイヴァンとキスをしたのは、これで二回目だ。
赤面を隠すことはできず、悔しいやら嬉しいやら、心中が落ち着かないギルベルトを他所に、イヴァンは満足気に微笑んだ。
「ぼくと逃げるんだから、スタートはここだよ」
「ば、ばーか……」
端正なその笑みに、とうとう耐えられずに顔を押さえて俯いた。正面でイヴァンが笑っているのがわかり、尚更頭が茹で上がる。
ロシアからやってきたスパイに人生を狂わされたギルベルトだったが、こんな狂い方ならむしろ望むところだと、目的地に到着してからのギルベルトは思うのである。
おしまい
(次ページにあとがき)
あとがき
い、いいかがでしたでしょうか。。
いつもは最後までしっかりネタを練り上げてから始めるのですが、
今回はほんともう、勢いで始めてしまったのが反省点でした……。
至らぬところも多かったかもしれませんが、少しでもお楽しみいただけていたら嬉しいです。
最後までどちらも『好き』とは言いませんでしたね……笑
十六歳の美少年と駆け落ちさながらに逃げる二十一歳の青年……ああ、ロマンですね。
その後のイヴァギルちゃんの妄想も捗ります。
きっと二人で全然違う生い立ちや関係性を考えて設定づけて、
誰も知らない街を転々と渡って暮らしていくんですよ……。
途中から「中二病どこいった?」ってなってたんですが、大丈夫ですか?
ちゃんとずっとそこにありました?笑
私が中二病だからわからん……笑
ではでは、ちょっと今後はペース落ちるかもしれませんが、
まだまだイヴァギルちゃん書かせていただきたいと思っておりますので、
どうぞ次作でもよろしくお願いします。
ご読了ありがとうございました!