いじわるハワイ*ロシア視点
「いいか、ロシア」
ギーンと耳に馴染んだ機械音と少々の圧迫感が、小さくカタカタと身体を揺らしていた。ぼくや隣に座るプロイセンくんにとっては少々と言わず、かなり狭いこの空間も、今はウキウキと踊る心で気にしてなんていられない。
「お前忙しすぎて勉強なんかしてねえだろうから、俺様が教えてやる」
もうここに座ってどれくらいだろう。そしてあとどれくらい座っているのだろう。予定のフライト時間から考えるに、あと二時間くらいで到着する。
現地時間で今は、午前五時ごろ。ぼくたちがもうすぐ到着するその地は――
「ハワイ語でこんにちはは『アロハ』だ」
「『アロハ』」
それくらい知ってるよ、なんて野暮ったいことは言わず、素直に復唱してやる。
ぼく以上に今回の旅行を楽しみにしていたのか、とても楽しそうにドヤ顔を見せるから、まだ始まったばかりのこの旅行も、来てよかったなあなんて思う。
「そうそう。そんで、腹減ったは『ポーロリ』」
「『ポーロリ』」
「ちぃっと発音危ういが、まあそんな感じだ」
ぴ、と人差し指を立てて、プロイセン先生は自慢気に説く。
実際に彼は今回のためにたくさんハワイ語を練習してきてくれたんだと思う。ぼくとしては、正直言ってハワイ語なんてどうでもいいんだけどね。なんてったってこの旅行中、彼から片時でも離れるつもりはないのだから。
ぼくはこの狭い座席の背もたれに体重を預け直して、息を吐いた。
「えへへ……楽しみだなあ」
仰いだところでそこには飛行機の喫煙禁止マークが点灯しているだけの景色しかないのだけど、彼に視線を戻してやれば、薄らと笑ってぼくを見ていた。
「ねえ、プロイセンくん。今回どんなところ回るの? ぼくビーチもいいけど、せっかく南国なんだから、たくさん自然とか見たいなあ」
出発の直前まで公務にあたっていたぼくは、今回の旅行の計画にはノータッチだ。
現実的に見てモスクワからホノルルまでは待ち時間を含めて移動に丸一日はかかるし、つまり、現地で一泊の旅行をするのに合計で三泊四日の休暇をもぎ取る必要があった。ぼくがその長期休暇をもぎ取るために必死になっている間、プロイセンくんは色々とスケジューリングをやってくれていたのだ。
ぼくと同じように重心を背もたれに移し、プロイセンくんも禁煙マークを仰いだ。
「ケセセ……それは行ってからのお楽しみだぜ」
パッと彼の視線がまたぼくに戻る。
「名づけて! 『ドキッ! 俺様による! 多忙で時間のねえロシアのための! とっておきミステリーツアー!』だぜ!!」
拳を握ってそう力説する姿はとても可愛くて、うんうん浮かれちゃうよねこれは、と誰にでもなく同意をしてしまった。あんまりにも楽しそうにするんだもん。この長旅にクタクタの身体も、時差による身体のだるさも、今はお互い気づかぬふりをして到着を心待ちにするのだ。
「ふふ」
「……んだよ」
「いや。ふふ。楽しみだなあ」
「……ケセセ、だよな」
静かに二人で笑い合って、肘置きに置かれたプロイセンくんの手を上から握る。少し照れたように、でも屈託なく笑う彼を見て、旅行最高、なんて不純な動機ながら思ってしまった。普段なら「触んじゃねえ」と手を引っ込めるところ、今日はそうしないのは、間違いなく浮かれているせい。
ぼくの羽織りものの袖から覗く飾り物がちら、と視界に入り、ついつい彼の反対の手を確認してしまった。彼の手首にもあるそれは、お揃いのミサンガ。一つおまけでチャームを編み込んでくれるって書いてあったから、そこにあったロシア国旗のチャームを入れてもらった。公務が終わったその足で向かった空港で、抑えられずに強請って買った代物だ。プロイセンくんは呆れたように笑って、でもぼくがお願いした紫色基調のものを、その手首にするっと巻いてくれた。……ちなみにぼくの手首にあるのは赤色基調のもの。こんなこと、ぼくらの知り合いが全くいない、ましてや自分たちの気持ちもどこか別次元にあるような、こういう非日常でないとできないことなので、めいっぱい楽しむつもりでいる。その第一歩となったのがこのミサンガだった。
――何か気の利いた願かけなんかしなかったけど、強いて言えば道中の安全と、飛び切り楽しいバカンスをと願うばかりだった。
――それから飛行機はようやくホノルル空港に到着した。到着口で大きなスーツケースを回収し、ぼくらは空港の玄関口に立つ。
もう必要がなくなった羽織ものをバッと豪快に脱ぎ捨て、スーツケースの持ち手に括りつける。お互いに見合わせて笑い合う。だって、気合を入れて揃えたアロハシャツが、何度見てもお互いに似合わなすぎて、面白いんだもの。まるで合成写真ように浮く目の前の映像に、笑うなという方が無理な注文である。
ともあれ、お互いの違和感から目を放して、改めて目前に広がる広大な期待と向き合った。照る日差しと撫でる熱気は、思い浮かべていた南国のそれよりも遥かに暑く、心の底までまっすぐに熱を差し込む。
「見てー!」
ぼくは子どもさながらに、真っ青と言ってしまうにはもったいないほどの、ソーダ色をした空を見上げた。眩しくて思わず手で瞳に影を作る。
「空気がオレンジだよ!」
モスクワで見るのと同じ大気のはずなのに、どこか太陽の光が混ざり込んだような色味に驚いてそう声を上げた。でも同じように見上げるプロイセンくんはただ笑って、
「空気? お前浮かれすぎっ 何言ってっか全然わかんねぇ!」
とからかった。
どこからどう見ても彼に『浮かれ過ぎ』と言われる筋合いはなく、ぼくは影を作っていた腕を降ろして、プロイセンくんに軽い侮蔑の視線をくれてやる。
「ぼくに浮かれてるなんて言えるの? そんな真っピンクのアロハなんか着ちゃってさ。チンピラみたいだよ」
真っピンクのアロハだけならまだしも、前のボタンを全開にして黒のタンクトップにサングラスなんかひっかけちゃって、一体いつの時代のチンピラ? と改めて笑ってやる。
彼はぼくの目前で容易く憤怒して、
「うっせえよ! 出発前の空港でお揃いのミサンガ買っちまうお前に言われたかねぇよ!」
と更に抗議してくる。
とどのつまりは、やはりお互いがとんでもなく浮かれていた。
「なんでえー!?」
気持ちに任せてまた声を張り、「待ちに待ったこの日に浮かれたらダメだって言うの!? だったらプロイセンくんもそのニヤけ顔どうにかして!」と咎めてやると、プロイセンくんも勢い余って「俺様のは元々だっつーの!」と申告してくる。
だけど、その言葉には同時に違和感を覚えたわけで、「そのニヤけ顔? 元々なの?」と笑いを含めて言及してやると、彼も耐え切れずに「ケセ」と漏らした。
「いや、間違えた……元々なのは険しい顔の方だった。……俺様そんなにニヤけてる?」
「うん……わりと酷い顔してる……」
「お互い様だな」
「ぼくはいーの。君と違っていつもにこにこしてるから」
「自分で言うなよ」
途中でお互い恥ずかしくなり、視線も合わせずにそんな押し問答を繰り広げていたけど、外界を眺めていると、いつの間にか心だけ既に空港を出発している気分だった。
この荷物の量なので最初の目的地はきっとホテルだろうなぁと思っていたぼくは、早速今回の旅行の添乗員さながらの準備をしてくれているプロイセンくんを横目で見やった。同じように彼の視線も返る。それがまたニヤッと笑い、
「じゃまずは、タクシー乗るぞ」
かっこよくキメ顔を作り、ぼくに教えた。
さあ、ぼくとプロイセンくんのハワイ一泊旅行が、ついにここからはじまる――!
「……と、その前に」
「ん?」
「悪りぃが先にトイレ済ませてくる」
「あ、そう? じゃぼくは荷物もあるし、ここで待ってるね」
深く考えずにぼくはプロイセンくんの方のスーツケースの持ち手を預かり、「よろしく頼む」と言って彼が外したウェストポーチも受け取った。そのウェストポーチは何をそんなに詰め込んでいるのやら、パンパンに膨らんでいて、どっしりとした重量感を持っていた。航空券やらをそこから出していたので、おそらくパスポートやらお財布やら、ともすれば、今日明日のツアーのガイド用資料などなどが入っているのだと思われる。それをスーツケースの上に乗せる。
改めていってらっしゃいと彼を見送って、空港の人混みに消えたのを確認すると、また故郷で見るのとは全く違う輝きを放っている、真っ白な雲を見上げた。
……暑い。暑さに当てられる。……けど――楽しみだなぁ――彼の顔が自然と浮かんだ。早く帰ってこないなぁ。
まだ彼がトイレに発って二分も経っていないというのに、ぼくは携帯電話の画面に浮かぶ時計を確認する。
時刻は午前七時過ぎ。
――これが今回の大惨事の始まりだったとは、ぼくは知る由もなかったのだけど。
「プロイセンくん遅いなぁ〜」
影に入ってるし、立ちっぱなしの公務なんて山程あるので、そんなに疲労したわけではない。
だけどどうしても目を瞑れない時差ボケによる身体のだるさとか、直前までの仕事の疲れとか、そういうものが積み重なって、ぼくは立って待つことに徐々に不満が浮かんでいた。元々人を待つのはそんなに得意じゃない。ましてや待つお供が単なるスーツケース二個ときたもんだ。ぼくは何度もトイレの方へ視線を向けては、携帯画面で時刻を確かめる。
――……遅い。
プロイセンくんがトイレに向かって、二十分は経過していた。
有名観光地の目玉都市唯一の空港のため、トイレも人混みが激しいのだろうか。ぼくはそう言い聞かせて、せっかくのウキウキをイライラに代えないようになんとか自分を保つ。彼に任されたスーツケースの取っ手を改めて握り直して、側にあった壁にもたれかかる。
遅いなぁ、遅いなぁ、そわそわと辺りに気を張っていたぼくの耳に、遠くの方から注意を引く音が聞こえ始めた。注目すれば、それはおそらくは救急車の音なんだろうとわかったけども、それはあっという間に空港の構内に入り、ぼくとは反対側の出入り口の前に横付けされた。黄色いバンのような車から降りてくるフル装備の人員とタンカを見て、ぼくはそれが救急車であったことを確信する。ざわざわとそちらの方へ向かう野次馬たちからなんとなく目を逸し、ぼくはそれでも携帯画面で時刻を確認する。
――そうか、電話してみればいいのか。
そう思って何の迷いもなく、暗記している番号をその機器に入力してやる。もちろん国際電話対応のこれは、すぐにでもぼくとプロイセンくんをつなげてくれる……はず。
……はずなんだけど。
『おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かないところにあります――』
そこまで無機質な声を聞いて、ぼくはそれを耳元から放す。流れで画面を見てみても、やはり入力した番号に間違いはない。
……なんで? なんで電源入ってないの?
焦りよりも何よりもぼくの脳内を占めたのは、純粋なまでの疑問だった。だって旅行に来ていて、連絡取り合うとか思わないの?
何やら胸騒ぎを感じる。ぼくは改めて時刻を確認してから、それを尻ポケットに押し込む。
時刻は午前七時半。
意識の端の方にあった救急車が発進したのを横目に、ぼくは決心する。――様子を見に行ってみよう。
大きなスーツケースを二つも引いて、ぼくはプロイセンくんが消えていった方へ歩みを始めた。行き交う人の多くが、一人で二つのスーツケースを引くぼくを珍しがって観察していたけど、逆にぼくもその人混みの中で目を凝らし、プロイセンくんを探した。
ぼくが待機していた場所から一番近かった男性用トイレに到着する。そこは思っていたほど混んではおらず、用をたすのに到底三十分かかるような状況ではなかった。
じゃあ? じゃあ、プロイセンくんは一体どこへ?
辺りを見回せば、もう少し先のほうで人だかりができており、そうか先ほど救急車が来た辺りなのかと自分で勝手に解釈する。彼に限ってそんなことはないだろうが、一応可能性を潰す意味で野次馬の誰かに聞いてみようと、その人混みの側に寄る。
残念ながら彼にハワイ語の習得を一任していたぼくは、間違いなく現地人とはお話できない。なので欧米圏のような外見で、快く話を聞いてくれそうな人を探す。そうして一人で様子を見ていた中年ほどの女性に狙いを定めて、歩幅を広げた。本当は見ず知らずの人に話しかけるのはそんなに好きではないんだけども、そんな場合でもないと腹を括って声をかける。
「すみません。今救急車で運ばれたのは、どんな人でした?」
特に練習もしていないので見よう見まねの拙い英語で話しかけると、そのご婦人は背の高いぼくを少し驚きながら見上げ、それでもやはり快く答えてくれた。
「……老婆でしたよ」
その第一声で、思いっきり胸を撫で下ろした。いや、初めから心配はしていなかったのだけど、ひとまず可能性を潰せたことに安堵する。
「かなり顔色が悪かったけど、大丈夫かしら」
そのご婦人は世間話をするように続けた。
この流れならば会話を続けても自然だと思い、「ところで」とぼくは話題を入れ替える。
「銀髪の若い白人男性を見ませんでしたか?」
問いかけに対してご婦人が、特に考えもせず「短髪の?」と返すものだから、ぼくは虚を突かれて「そう! ピンクのアロハの!」と投げつけてしまった。ご婦人は「ああ、彼ね」と言いながら、まっすぐに空港の出入り口の方を指し示す。
「その救急車に乗って行ったわよ」
――ん?
瞳をパチクリさせて我が耳を疑う。
え? プロイセンくんが? 体調悪そうな老婆の? 付き添い? かな? 救急車に??
また頭いっぱいにはてなマークを生産して、ぼくは首を傾げた。
「その老婆のご親族のようだったけど、あなた、知り合い?」
「……えっと……いえ……」
「あら、違うの?」
「あ、その老婆とは知り合いじゃないです。でも銀髪の彼とは知り合いです」
「そうなの。大事ないといいわね」
そう言うとそのご婦人は、じゃあ私はバスがあるから失礼、と小ぶりなスーツケースを引いて、ぼくの意識から外れていった。
いっそうわけがわからなくなった。銀髪の若い白人男性って、そうそう一所に集まるものじゃない。ましてやあのドギツイ真っピンクのアロハを着ている、銀髪の若い白人男性が、同じ日時にこのハワイのホノルル空港にいるとは考えにくいのだ。
……ということは、老婆の知り合いというのは勘違い? いや、待って。そこを紐解いてどうするのぼく? ていうか、プロイセンくんはぼくを待たせて、老婆と一緒に救急車に乗ったの? 待って、落ち着こう。混乱してきた……。
とりあえずもう一度携帯電話を取り出して、先ほどかけた電話にかける。
しかしそれは同じ反応をくり返すだけで、その先は何も変わらない。
――何やってんの。ぼくよりそんなおばあちゃんが大事なの。君らしいけど。連絡の一つくらい寄越してくれてもいいじゃない……!?
苛立ちが少しだけ指先に力を注ぎ、乱暴に終話ボタンを殴打してしまった。
その老婆に付き添って病院に行ったということは、その老婆の容体次第では何時間でも拘束される可能性があるということになる。
サーッと血の気が引くと同時に、また彼の理解不能な行動に苛立ってしまう。きっとぼくのことなんかきれいさっぱり忘れちゃって、おばあちゃんに同行したプロイセンくん。そんな彼の連絡なんか待っていられず、ぼくは慌てて周りの状況を確認した。
頭の中にあった追いかけるという唯一の選択肢を敢行するため、見つけたコインロッカーにスーツケースをぶち込む。プロイセンくんのウェストポーチは貴重品などありそうなので、仕方なく肩からぶら下げることにした。それから身軽になったぼくは、急いでインフォメーションカウンターへ向かう。
そこで先ほどの救急車はどの病院に向かったんですか、と簡潔に聞いてみたところ、確実にはわからないが、おそらくはここだろう、という病院の名前を教えてくれた。ぼくはそれを紙に書いてくれるように頼み込み、力いっぱいに握りしめて、空港の玄関口からロータリーへ駆け出す。
延々と連なっているのではないかと思わせるタクシー乗り場の列に並び、ぼくの番が来ると運転手にその紙を見せて行き先を指定する。この間、おおよそ十分ほどである。
そうして初めて見るハワイの景色を、タクシーの窓越しに眺めながら、病院に向かった。
逸る気持ちを何とか抑え込み、とりあえず合流したプロイセンくんに説教の一つでもかましてやろうと不満をかき集めるが、本当のところを言うと、これでちゃんと合流できなかったらどうしようという焦りも燻らせていた。
ふと今は何時だろうと、また携帯電話の画面を点灯させる。
まず目に留まったのは不在着信の表示だった。
……しかしそれはプロイセンくんからではなく、ぼくは思わず小首を傾けてしまう。何度見返しても見覚えのないその番号は、国際局番から見てハワイのもの。
どういうことだろうか。何故着いたばかりのハワイ州内から電話がかかるというのだ。わけがわからないので、とりあえず頭の中は思い当たる節を探しながら、そうか、検索してみようと携帯電話のインターネットを起動させる。かかってきた番号を履歴からコピー・アンド・ペーストしていってらっしゃいと捜索隊を送り出せば、すぐにページが切り替わって、探していた答えが登場する。
……と、ちょうどそこで、ぼくがお願いしていた目的の病院に到着したようだ。運転手のおじさんが提示した金額を、深く考えずに自分の財布から取り出して渡した。空港で飛行機に乗る前に、プロイセンくんが持っとけとドル札やセント硬貨を渡してくれていたから助かった。
タクシーを降りてすぐ、ぼくはひとまず歩道の脇に身を寄せる。それから初めにしたことは、改めて携帯電話の画面を確認することだった。先ほど検索した画面がそのまま残っていたので、注意深く覗き込む。
はっ、と息を吸い込むのにそう時間は必要なかった。
その電話番号はホノルル空港付近の、中規模の病院のものだった。明らかに今ぼくの立っているこの病院とは名前が違う。
……もしかして、プロイセンくんはこっちの病院に? でもなんで本人の携帯電話からかけて来ないのだろうか?
まだまだ拭えぬ疑問のままに、かかっていた電話番号に発信してみる。ガチャ、とすぐさま拾われた受話器。訛りが強い英語なのか、それとも実はハワイ語なのか、全く判別がつかないほどの言葉遣いに混じって、おそらくその病院名が発言された。
やはり間違いはない。そこはホノルルの病院だ。救急車に添乗していた彼について尋ねようと思ったのだけど、どう尋ねていいかもわからなかったので、結局ぼくはその電話を切ることにした。またタクシーを捕まえて、改めて、今度はその病院を目指す。行けばもっとわかりやすく状況を聞けるかと思ったからだ。
捕まえたタクシーの運転手に行き先を告げ、自分を落ち着けるように座席に座り直す。今回の運転手はやけに流暢な英語で話しかけて来て、移動の間、必死にぼくをエンターテインしようと励んでいた。この道を右に行くと、この道を左に行くと。まだ行ってもいない観光地の案内を懇切丁寧にしてくれる。
だけどぼくはというと、確実にそれどころではなくて、また流れる街並みをぼんやりと見ていた。運転手の話に寄れば、まだまだビーチまでは車で三十分ほどかかるというのに、既に水着姿で歩くカップルが目に止まる。
不必要だったロスタイムに思いを馳せて、どうしてこうなったと時計を覗く。
時刻はなんと八時二十分過ぎ。
彼と別れて実に一時間以上もが経過していたのだ。過ぎる時間が惜しい。それらがいたずらに浪費されていくのに納得がいかない。これを悲しいと言わずなんと言うのだろう。
景色が流れること十五分ほど。
ぼくは改めて初めて見る病院の玄関口に降ろされた。おそらくチップ込みの言われた金銭を支払うと、そのタクシーは颯爽と発進し、次の乗客を探しに出て行った。
惜しむ気持ちもなく、ぼくもその病院に駆け込む。目の前に設置された大きなカウンターに飛びつき、「一時間ほど前に運び込まれた老婆はどこですか」と尋ねた。しかし尋ね方が悪かったのか、家族ですか、そうなら何か証明できるものを、と言われ、結局ぼくは一から十までを説明する羽目となった。
ぼくが用事があるのは、その老婆に付き添っていたであろう男性で、その人とは知人です、と。二人で旅行に来ているので、老婆の家族だというのは何かの手違いで、至急その男性に会いたいから、彼の居場所を教えてくれ、と。
説明が終わった段階でも、カウンターの向こうの看護師は訝しげに眉間に皺を寄せていた。進まない状況を見かね、一緒に話を聞いていた別の看護師が、確認するから座って待っててという。どれもようやく聞き取れる程度の、訛りに訛った英語である。
ぼくは一仕事終えたようにどっと疲れ、案内されたソファに腰を下ろして、大きな大きなため息をこぼしてしまった。早くプロイセンくんと合流して、この大事な旅行を仕切り直したい。もうお説教なんてどうでもいいから、これ以上無駄な時間を生産しないように、早く、早く。ただその一心で、ぼくは病院の天井からぶら下げられた時計を睨んでいた。
……時刻は午前九時前。
何度も言うが、やはり待つのが得意ではないぼくを、きっかり十三分。十三分待たせて、その看護師はぼくの元へやってきた。
結果はあんまりなものだった。その老婆は軽い脱水症状だったらしく、点滴を現在もしているらしい。だけれども、同乗していた青年は――つまりプロイセンくんは――、すぐに親族ではないとの誤解を解き、病院を後にしたというものだった。
ぼくはもう、なんと言葉を口にしたらいいのかわからなくなり、無意識に口をすぼめていた。眉根も顰ませていたように思う。
とにかくそういうわけですから、と言った看護師に、スパシーバと労って頭を抱えた。
看護師を労ったのは業務以外のことを強いた自覚はあったからだが、正直十五分弱のロスタイム……言ってしまえば誤同乗の時点から二時間弱の結果がこれというのは、とてもではないがぼくには堪えた。頭を抱えたくもなる。
いっそもういいか、などとよくわからない思考が浮かび、自販機を目で探したが、いやいや落ち着け、と我を取り戻す。運ばれてきてすぐにここを発ったということは、八時前後の話だろうか。だとするならば、おそらく現在は空港でぼくのことを探しているはず。
そう思い携帯電話を取り出して、改めて彼の電話番号を入力した。
発信音が鳴り――それは鳴り続き、ああ、また応答はないのだな、と虚しくも悟る。
何故プロイセンくんが携帯電話に応答しないのか皆目見当もつかないのだけど、とりあえずぼくも空港に向かうことにした。
改めて空港に到着して時計を確認すれば、時刻は午前九時半より少し前。
空港の構内をざっと歩いて見てみたけれども、彼の姿はどこにもなく、仕方がないのでロビーで見つけた空席に腰掛けた。とりあえずここで見張っておこう。これ以上闇雲に動くのは、きっとよくない。
けれど、話し相手もおらず、一人でぼうっとしているには、あまりにもこの場所は賑やかすぎた。行き交う人々は誰しも期待や満足感に溢れている。
プロイセンくんと張り切っていた今朝の自分を思い出して、次第に悲しくなり、寂しくなり、心細くなってきてしまう。あんなに心待ちにしていた二人きりの旅行が、まさかこんなことになるなんて。
今一度電話をかけてみたが、ついに結果は変わらなかった。
一つ反省したのは、忙しさにかまけて、今回のプランニングの一切を彼一人に任せていたことだった。ミステリーツアーをすると張り切ってくれたから、ぼくも気負わずにお願いできたんだけども、今となってはホテルくらい共有していればよかったなぁと思う。
……そこまで考えて、ふと、彼のウェストポーチが目に映った。今回の旅行のために新調したのか、質のいい皮製のこれは、鈍い光沢を持っている。
もしかしてこの中に今日の行き先の手がかりがあるんじゃないだろうか。ためらいなくそのジッパーを開けると、そこから予想通り、山ほどのパンフレットが顔を出した。
……一応探してみたが、一日通してのスケジュールのメモなんかはない。仕方がないので、そこにあったパンフレットの中から、ホテルと思しきものだけを抽出する。パシフィック、ヒルトン、トランプ、ココナッツ……クイーンもあればプリンスもあり、果てはプリンセスなんてホテルもある。こんなにたくさんあっては、今夜泊まるのがどのホテルなのかは全くわからない。
まさか手がかりを元に俺様の元に辿りつけ! なんて、文字通りの『ミステリーツアー』なんてわけないよね。うんうん、そんなことあり得るわけはない。だって、二人一緒に居られない旅行に、意味などほとんどないのだから。
次にぼくの思考を過ぎったのは、いっそ一軒一軒電話をして『ギルベルト・バイルシュミットで予約がないか』と確認してしまえばいいのでは、という名案である。何にせよ他にすることもないのだし。思い立ったぼくはパンフレットをアトランダムに選び、順番に問い合わせをしていった。
――結果。
……どこもかしこも非該当という、これはもう惨劇と言うべき終結を迎える。
えぇ……もう……どういうことなの……?
一時でも期待を抱いてしまったことにより、余計に重く感じる現実に、ただ抵抗のしようもなく項垂れる。
他にプロイセンくんが使ってる名前なんてなかったよね……? どこなの……というか、今日泊まるホテルのパンフレット持たずにどうしようと思ってたの……?
泣きたいほどの落胆に、しばらく顔を上げられなかった。お願いだから今ここにプロイセンくんを連れてきて……誰でもいいから……!
うだうだと現実を受け入れられずにいると、ぼくは突然襲った異様な音に肩を跳ねさせた。その音は、びたんっ! という、何とも精神的なダメージの大きそうな音だった。飛び上がった肩が落ち着いてから、ゆっくりと音がした方へ顔を上げる。
そこには可愛いハイビスカス柄のワンピースを着た、少し小麦色の肌の女の子。七歳くらいだろうか。転んだようで、うつ伏せで倒れていた。その子はすぐに腕を立て、飛び出していった小さな麦わら帽子を拾いながら立ち上がる。泣くのを我慢したような表情でまっすぐにぼくの方へ目を向けた。
……と、思ったら、どうやらぼくの隣の空席を確認していたらしく、のろのろとこちらへ歩いてくる。
最後まで女の子はうんともすんとも文句や弱音を吐かず、ただギュッとワンピースの裾を握りしめて、隣に座った。じわじわと膝小僧から滲み出る血をちらっと確認して、またスカートの裾をそこにかぶせ直す。
この子の親御さんはどうしたのだろう。忙しなく行き交う人の中を見回しても、それと思われる姿はどこにもなかった。
そうしてぼくは思い至る。そういえばさっきパンフレットを出すために彼のウェストポーチをひっくり返したとき、絆創膏が出てきたなぁと。消毒液はないけれど、せめてそのかわいいワンピースに血がつかないように……と、そこまで考えてぼくは止める。
――ないな。ぼくは子どもが苦手である。プロイセンくんならともかく、ぼくはうまくコミュニケーションが取れる気がしないし、ましてやここがどこから人が来るのか全くわからないような、そんな大観光地である。ぼくにできることは何もない。待っていればきっと親御さんが現れる。
自分ではもう関わっていないつもりでいたのだけど、それでも意識は少しだけそちらに傾いていたように思う。プロイセンくんいないなあと見渡しながら、女の子が未だに一人で何かに耐えていることから意識が離れない。どう考えても泣き出しそうになっているその子の親御さんは、いつまで経とうが現れる気配がないのだ。
一刻も早くプロイセンくんと合流しなきゃ、とこれからのことに集中したいのに、その女の子の様子はぼくの注意を引き続けた。
――さてこの子は一体全体何語圏なんだろう。
吹っ切れた一面を持ったぼくはため息を漏らす。転んで血が出ているのに誰に助けを求める様子もなく、かと言ってこれだけ待っても親御さんが現れる気配もない。つまり。この子は迷子の可能性が高い。きっとこの見知らぬ土地で、誰に助けを求めていいのかわからないのだろう。
こういうことはプロイセンくんの本分であってぼくのではないのだけども、やっぱりぼくは持ち合わせている絆創膏くらいあげてもいいかな、と改まっていた。そこからの『何語圏だろう』である。
とりあえずハワイ語で『アロハ』と言ってみようか。
以前プロイセンくんから教えてもらった『子どもに怖がられない方法』を思い出して、この子よりもかなり高い座高でも、目線を合わせてやるように少し下から覗き込むシミュレーションをする。……何度かシミュレートした。そして満を持して、さあ、と思ったその瞬間、女の子の幼くて可愛らしい蒼い瞳から、剥がれ落ちるように大きな一粒の涙が溢れ出たのを見てしまった。
シミュレートしていた全てが立ち所に吹っ飛び、その代わりに「大丈夫?」なんて気の抜けた声色で尋ねてしまっていた。使い慣れたロシア語だ。その子はぼくの方へ顔は向けず、睨んでいた空港の玄関口に一点集中を続け、本人の涙を拭うだけだった。
「えっと、あ、そう。これ、あげるね」
ぼくはとっさに英語に切り替えて、ウェストポーチから取り出した絆創膏をこの子の視界に押し込んだ。それに伴い、さらに激しく涙を拭うと、無言で頷いてそれを受け取った。
そして呟いた言葉は「ダンケシェン」だった。
――ドイツ語圏。
ぼくは心臓を一刺しされたような錯覚に陥った。早く会いたい彼がここにいれば、この子をもっと安心させてあげられたかもしれない。けれども、ぼくだって拙いながらもドイツ語はできる。
早急に自分の中の言語スイッチをまた入れ替え、「貼ってあげようか?」とさらに問う。女の子は剥がしかけていた絆創膏の包装を止め、素直にそれをまたぼくに差し出した。反対側の手で、もう一度涙を拭うと、嗚咽を抑えるように激しく息を吸い込んでいる。
受け取ったぼくは女の子の向かいに腰を落とし、少しだけめくってくれたスカートの裾から覗く膝小僧と対面する。血が少し滴っていたので、慌ててティッシュを出して拭ってやるが、もうほとんど乾いてしまっていた。ぼくが早く声をかけていればよかった、なんて後悔しながら、その傷の上に丁寧に貼ってやる。
この子の心地を確認するために表情を盗み見れば、余計に嗚咽を漏らしながら泣いていた。
激しさを増している……!?
驚きに任せて「ごめん、痛かった? 大丈夫?」と隣に座り直すと、その子は嗚咽に混じって何かを言った。かろうじて聞き取った「ドイツ語」という言葉から想像を広げ、もしかしてこの子は自分の母国語を聞いて安心したのだろうかと思った。するとそこから怒涛の号泣が始まる。
ふえふえと泣き散らしながら何かを必死にぼくに伝えようとしているのだけど、両手で激しく顔の涙を拭っているし、ひっくひっくとしゃっくりが交じるし、ぼくには何を言っているのか、とてもではないがお手上げ状態だった。
落ち着いてよもう……!
余りの先行きの見えなさに少し苛立ってしまうけど、そんな中でようやく聞き取れた単語が一つ。
――「トランプ」?
待って。そんな名前のホテルがあったかな。
ぼくはその子の肩を持ち、「トランプってホテルのこと?」と確認してやれば、ぶんぶんと首を縦に振り、「ムッティ」「ファーティ」と連呼した。
そうか。トランプというホテルにこの子の両親はいるという意味だろうか。
どうして両親だけホテルに居てこの子がここにいるのか、事情などはどうでもよく、ぼくは携帯画面を覗き込む。存在しない着信履歴と、時刻表示は午前九時五十分過ぎ。
少しだけどうしようかと考えたが、とりあえずまた彼のウェストポーチからパンフレットを取り出してみる。
……やはり持っていた。『ホテルトランプ』のパンフレット。そして見てみれば、そこへは車で三十分。行って帰れば一時間はかかる。さすがにそんなに時間を浪費するわけにはいかない。けど、タクシー代くらいなら出してあげられる。
この子の親御さんが本当にそのトランプってホテルにいるのか確かめるべく、ぼくは先ほど一度電話した番号に再度電話をかけた。女の子のファミリーネームを聞き、それを電話口に伝えると、ちょうど近くに親御さん本人が居たらしく、電話を取り繋がれた。
お子さんを送ることはできないからタクシーでそちらに向かわせますと伝えると、どうやら子どもとはぐれて取り乱していたのはこちらも同じらしく、尋常じゃないほどの感謝の言葉を連ねられる。
念のために見た目や名前などで、本当に親御さんであるかどうかを確認して、それから女の子本人に電話を繋いだ。携帯電話の受話器に向かって、さらにわんわんと泣きながら話しかけているものだから、ぼくはきっと親御さんは聞き取れていないだろうなと確信する。
頃合いを見計らって携帯電話を回収する。再び握った受話器から、お礼がしたいし、一緒に食事しましょうとの提案を受けた。だけど、ぼくは一刻でも早くプロイセンくんと合流するつもりでいたので、それは丁重にお断りする。
電話を切るころには女の子は泣き止んでいて、また滲んだ声で「ダンケ」と言われた。
――まあ、これは悪い気はしない。
ぼくは早速、本日二回目になるタクシー乗り場に、今度は女の子を引き連れて向かうことにした。列に並んでいる間、これから両親と合流する安堵感や喜びを抑えられないのか、女の子は体を揺らしてはぼくに笑いかける。
こうなれば、子どもはようやく可愛く見える。
行動を見ていたぼくを信用しきっている風の女の子。手を繋ごうとしたのか、女の子はぼくの手を注意深く観察して、それからパッと見上げた。
「かわいいね!」
「ん?」
女の子が言ったのは、ぼくの手首に巻かれたミサンガのことだった。――プロイセンくんとお揃いの。
ぼくは何やら一気に落胆して、「……ああ……ありがとう……」とつい気のない返事をしてしまう。女の子は深く首を傾げたが、問われる前にぼくたちの順番が来たので、女の子をタクシーに乗せる。
空港周辺はそこまで治安が悪いとは聞かないし、おそらく大丈夫だとは思うけども、一応運転手のアイディーなどで本人を確認してから行き先を教えた。チップを含めて多すぎるくらいの金銭を渡し、ぼくは女の子に「じゃあ、ママたちによろしくね」と別れを告げる。女の子はタクシーが発進してもなお、嬉しそうに微笑んだままで、ずっとぼくに手を振ってくれていた。
見えなくなったタクシーの背面から視線を剥がし、ぼくは踵を返して改めて落胆する。これからご両親に会う女の子に罪はないが、ぼくもこの小さなハワイの小さなオアフ島でとても孤独に感じてしまい、こんなことならば来なければよかった、などと浮かんでしまった。
――そう思ってしまったことが、最高に倦怠感を増長させる。
とりあえずまたロビーのベンチに座ろうかと歩き出した。さっきまでと同じ建物なのに、なぜか閉塞感に襲われる。
携帯電話を取り出し、応答はないだろうけども念のため電話をしてみる。そして案の定、応答はない。もう珍しくもなんともないその機械音に、ぼくは何も感じないように努めて、ポケットに携帯電話を戻した。見飽きたはずの光景をもう一眺めして、またふぅっとため息を落とす。
なんとしてもプロイセンくんと合流したい気持ちと、せっかくの休暇なのだから、少し周りを見て回りながら待ってもいいんじゃないか、というざっくばらんな気持ちが、頭の中でないまぜになっていく。
だって、こんなに待っているのに通りすがりもしないなんて、やっぱりおかしい。プロイセンくんに限って信じられないけど、先に観光とか行っちゃったのかなぁ。
前後に体を揺らしながら、視界の広さを変えて構内をまた一望する。それでもやはり、目当ての銀髪に赤目の彼は、視界に入ることはないのだ。……全くもってなんでだよぅ、これには泣き言も出てしまう。
せっかくここまで来て待ちぼうけて終わるのはやはりもったいない気がして、この近くの商店街とかあれば見てみようかなぁと気持ちを切り替える。きっとこの人の流れが激しい中でじっと待っていても、合流は難しい。いざとなれば向こうからも電話がかかってくるだろうし。
そう自分を奮い立たせたぼくは、空港の玄関口の近くにあるインフォメーションカウンターへ再び足を向ける。
「この近くにショッピングセンターはありませんか」
カウンターの向こうにいる、よく訓練されたにこやかな男性スタッフ。さきほどぼくの対応をした人とは別人だ。
そのスタッフは今まで何百万回と案内してきたであろうその慣れっぷりで、空港構内図を取り出し、お荷物が少ないのであれば市バスが安くていいですよ、と教えてくれた。それから『この乗り場から出ているバスに乗ると、三十分くらいでワイキキ近くのショッピング街に行けます、次の発車時刻は何時何分で』と細かく教えてくれた。
難を言うならもう少しゆっくり話してほしかったなあと思ったけれども、「この近くにはないんですね?」と改めて聞くと、ありません、ときっぱりと返してくれた。それからふ、と、ぼくに案内してくれているスタッフの隣の女性が、一人でマイクに向かって話していることに気づく。
……ああ、そういえば、この手があったか。ぼくは呼び出してもらうという手段を思いついた。迷子の子どもがしてもらえるんだ、はぐれた大人だってしてもらえるはず。
「あの、すみません、」
ぼくの用件が終わったと思ったのか、隣から割り込んできた中年の男性が口を開くところだったので、ぼくも急いで声を張った。男性スタッフがぼくへ注目してくれたところで、
「――ん?」
ぼくは尻ポケットからの微かな揺れに気がついた。
――こ、これは! ついに待ちに待ったプロイセンくんからの着信か!?
慌てて携帯電話を取り出す。……けども、その着信画面にある番号を見て、またもやどっと力が抜ける。
それは再びハワイからの国際局番、しかもこれには見覚えがあった。さっきの女の子を向かわせた『トランプ』というホテルからである。二度も入力したのだから、おそらく間違いはない。
なんだろう? 女の子の親御さんからお礼の電話だろうか? 後でかけ直そう。
ぼくはそれをまたポケットに戻しながら、ずっとぼくのことを待っていたスタッフに視線を戻した。
「ええっと……あら?」
……待っていたと思っていたのだけども、すでにそこに男性スタッフはいなかった。
隣に入ってきた中年の男性の問い合わせについて、対応を始めてしまったようだ。ちょっぴりコルコルしたくなったけども、少し怒気を含んだ口調の男性だったため、関わり合いになるのも馬鹿らしく、諦めてその場を去ることにした。少しもんもんとしてしまったので、立ち去りながら「早くプロイセンくんに会いたい!」などと心の内で文句を垂れた。
――たった今、インフォメーションで教えてもらった、ショッピング街の行き方。本当はこの近くでプロイセンくんを待ちながら覗けるところを、というのが目的だったため、まだそちらに出るときではないなあと簡単に思い直す。
ぐぅーっとそこでお腹が鳴り、そういえば朝食すらまだだったことを思い出した。
携帯画面を覗き込めば、時刻は午前十時半より少し前。
さすがにプロイセンくんもどこかで何か齧ってるだろうと思ったぼくは、空港の構内にあるレストランに入ることにした。……空腹には勝てない。
簡単に見つけることのできたレストランの前に立ち、もう一回だけ彼の携帯電話にかけてみる。しかし、やはりそこに変化はなかった。
一連の動作で、先ほど『トランプ』というホテルから電話がかかっていたことを思い出し、同じ流れでそちらにも電話をかけたわけだが、結局こちらでも誰がぼくにかけてきたかは、わからないと言われてしまった。……まあ、と言っても、こちらについては十中八九、さっきの女の子のご両親だろうとは見当をつける。
どこかすっきりしないままの心持ちで、ぼくはレストランに入り、空いていた窓際の席に座った。店員さんがお水を持ってきてくれているのを横目に、ふむふむランチタイムが既に始まっているのか、とメニュー表に視線を走らせる。
「とりあえず、これで」
あんまり深く考えずにその場で注文を済ませ、メニュー表をテーブルの端に寄せた。
注文したのはどこにでもあるようなハンバーグランチ。ランチタイムメニューだったらすぐに出てくるだろうなあと思ったのと、ここはハワイとは言え、アメリカくん家の圏内なので、正直どれにも期待をしていないというのが理由だった。
一つ、深く息を吐く。
ここがどこだか忘れてしまいたいくらいの今の状況だけど、前向きに考えるとして、このあとどうしようか。
なぜ彼から一切連絡が来ないのかははっきり言って理解もできないのだけど、きっと何か深い事情があるに違いない。いや、ほんとに。例えばとかって、何も思いつかないんだけど。
――もしこのまま彼から連絡が来ないとして、帰りのフライトまでに合流できなかったらどうしよう。
頭を過ぎったものをぶんぶんと振り払って、いやいや大丈夫、そんなことになったらぼくはまず、ホテルの心配をしなくちゃいけないなどと浮かんで、なおさら自分のことをどん底へ蹴り落としてしまった。
「――はぁ……」
テーブルに突っ伏して、今回は列記としたため息をそこに転がした。
その視線の先には、ぼくを慰めるようにこちらを見ている小さな置物があった。木彫のようなそれは、熊が小鳥と遊んでいる様子を象ったもので、ぼくはすぐに目を奪われた。体を上げて手に取ると、周りに塗られたニスに喧嘩を売るように、油がベタベタと手について、この子の任期の長さを感じさせた。
それを優しく丁寧に元の場所に戻し、よし、写真を撮ってプロイセンくんに見せちゃおう、と軽い気持ちで携帯電話を取り出した。ポーズは変わらないのだけど、何パターンかそれを撮影させてもらい、ぼくは運ばれてきたハンバーグと対面する。
見た目も然ることながら、量も文句のつけようのないもので、ぼくは最後まで平らげられなかった。申し訳なかったけども、それを少しお皿に残したまま食事を終える。端にあったナプキンで口の周りを拭きながら、さてどうしようかと満腹により大きくなった心持ちで、改めて今後のことを考える。
プロイセンくんとなぜ合流できないのか、またそこに疑問は戻るが、合流できない以上、時間の浪費だけは避けたい。一度お手洗いに席を立った以外は、この窓からずっと空港構内を眺めていたのだけど、プロイセンくんと思われる人物は見つけられなかった。それはつまり、彼はもうここにはいないと言うことなのでは? と思ったのが正直なところだ。
結論として、ハワイの目玉観光スポットであるビーチとかに行ったほうが、彼に会えそうな気がしている。
ぼくは少しお腹も落ち着いたところで、携帯電話でまた時間を確認する。
時刻は午前十一時過ぎ。
ここを一旦出てからもう一回彼に電話をしてみて、それでも繋がらなければ、もういっそショッピング街へ出てしまおう。大きくなった心持ちでそういう考えに至り、ぼくは颯爽と会計を済ませ、レストランを後にした。
そのドアから一歩踏み出すと、さっきまで気にならなかった、気温の高さに気が留まった。さすが南国。別に湿度が高いわけではないのだろうけど、日が当たるところはやけに暑く感じる。
ぼくはまた壁際に寄り、本日何度目かの動作をくり返す。そして、本日何度目かの反応に嘆息する。
――もう! こうなったら、待ってる間も楽しんじゃうんだから!
気合を入れ直して、ぼくはプロイセンくんのウェストポーチを肩にかけたまま、さきほどインフォメーションセンターのスタッフに教えてもらったバス乗り場に向かう。幸運なことにすぐに到着したバスに乗り、それからしばらくバスに揺られる。空港からワイキキ市街地までは、おおよそ三十分。バスを降車する停留所の名前も教えてくれていたけども、メモなんかはしていないし、とりあえずショッピング街が見えてきたら適当なところで降りよう、と呑気に構えていた。
それから三十分というもの、窓から流れる景色を見ていたけれども、ぼくの胃の中にははらはらとした不安が募る一方だった。
……どう考えても都会に向かう様子はない。むしろ民家がちらほらと増え始め、畑なんかが間に挟まるようになり、最終的には「これは確実に郊外……!?」と心の中で唱えるような景色に変わった。三十分でこの変化は恐ろしい。誤ったバスに乗ってしまった可能性があまりにも濃厚になり、ぼくはとりあえず降りるべきか、と自問して、いやこのまま乗っていたらワイキキ市街地へ戻るかも、と自答した。
「もしもし、お兄さん」
ぼくの後ろに座っていた男性が、また訛ったような英語で誰かに話しかけた。
まさかぼくではないだろうと初めは無視をしていたのだけど、もう一度同じ言葉が聞こえ、今度はぼくの肩を叩かれた。
……ええ、ぼくなの。驚きよりもこれ以上厄介事に巻き込まないでくれという後ろ向きな気持ちで、半分顔を傾けて「ぼくですか?」と応答する。その男性は深い小麦色……むしろもう茶色に近い肌の色をしていて、明らかに地元民のようなラフな格好だった。
「お兄さん、そんな派手なアロハなんか着て。観光客? なら、こっちはビーチとは反対だよ」
え、何、教えてくれるの。親切……! と思うことができればよかったんだけども、ぼくの胸中にまず浮かんだのは、もっと早く教えてくれてもよかったのに……という色んなものを惜しむ気持ちだった。それでもその情報はぼくにとってとても必要なものだとわかったので、「やっぱりそうなんですか。どうしたらいいですか」と簡潔に問い返した。さすがこの地の人は観光客慣れしているのか、次のバス停で降りて、反対方向のバスに乗りなさい、と極々普通のことを教えてくれた。
……そうだよね。うん。
何の躊躇いもなく、ぼくはバスの降車ボタンを押す。
男性は反対向きのバスは色々なルートは通るけども、最終的にはビーチやショッピング街に到着するから、安心して乗ってて大丈夫だよ、と教えてくれた。
そうして反対方向に突き進んでいたバスを降り、炎天下に放り出されたぼく。太陽の日差しがあまりにも眩しくて、自分の手で影を作った。これは確かに麦わら帽子がほしいかもしれない。
ひとまず反対方向のバス停を探すよりも先にしたことは、現在の時間の確認。太陽光の反射で画面が全く見えず、自分のための影を諦めて、画面を手のひらで覆ってやる。
ようやく見えた携帯電話の画面にて、着信はなし、時刻は既に十二時前だった。
一分一秒でも惜しいぼくを迎えにバスが到着したのは、それから二十分もあとだった。
少し歩いて見つけた反対方向へ向かうバスの停留所。こちらからワイキキ市街地に向かうバスは、この時間は本数が減らされているらしく、こんなにも待たされることになった。
幸いにして停留所にはベンチがあったのだが、ぼくが座ったら壊れてしまうんじゃないかと思うほど年季の入ったものだった。ゆっくりおそるおそる座ってみれば、ミシミシと沈みはしたがなんとか耐え、ぼくはこの炎天下で体力の消耗を最小限に抑えることができた。
そんな経緯を経て、待ちに待って、待ちに待ったバスがやってきたのだ。
大して身軽でもない体を意気揚々とバスに乗せ、窓際の席にまた座った。さきほどのバスは空港から三十分ほど揺られてから降りたので、今回も三十分くらいはロスするのだろうなぁと覚悟した。
ブルブルと体を揺らされ、なんでプロイセンくんから電話がかかって来ないんだろうと、窓の外を眺めながら考えた。その窓には小さな傷や誰かの手垢の汚れが付いており、ちらちらとそれらにも焦点が合ったり離れたりしている。しばらく走行しただろうか。体感で二十分くらいだったと思われる。
徐々に水着を着た団体やカップルが目に留まるようになり、おぉ、と零している間にもビーチが現れた。
――おぉ!?
ついに、本場ハワイのビーチが見えたのだ。思わず身を乗り出して、景色を捉える。光を反射して輝くような砂浜や、それに乗る色とりどりのパラソル、ピクニックシート、果ては、羽目を外すための派手な水着。それらが軽快に流れていく様に、抑えられず視界が踊る。
……踊る。……踊る? お ど る――
――!?
ぼくは大きく息を吸った。
「プロイセンくん!?!?」
思わず呼びかけた名前。その名前の所有者が、ビーチの端を水着ではしゃぐ女の子と笑っていたのだ。
女の子と言っても、ぼくがお話しした七歳くらいの子なんかではなく、二十歳くらいだろうブロンドの髪の『女の子』とだ。あの特徴的な銀髪と、何より見間違うことのできない真っピンクのアロハ。言い逃れしようもなくそれはプロイセンくんで、一瞬でバスはすれ違ってしまったけれども、しばらく窓に張り付いてしまった。
……ていうか……何! ひどい!! 何!!!!!!!
心中に荒波が立つほどに驚いたぼくは、すぐに降車ボタンを殴りつけた。派手な音がバスに響いて、周りの乗客はぼくに釘付けになる。それも仕方のないことだけど、ぼくの視界が真っ赤になるのも、また仕方のないこと。
ああ、もう、早く! 早くぼくを降ろしてよ!
抑えられない激情から、バスを理不尽に踏みつけて身体を揺らす。
なんで! ぼくはこんなにもプロイセンくんのことを待っていたのに! なんで……!?
動揺しすぎて涙が出そうだ。
バスはそれから十分弱くらい走っただろうか。ようやく停留所に到着して、ぼくは急いで降り立った。すぐさま携帯に電話をしてやろうと思ってそれを取り出すと、見知らぬ番号からまた着信が入っている。国際局番が添えられたそれは……もしかして。
なぜそう思ったかはわからないけども、なぜかそれがプロイセンくんと一緒に歩いていた女の子のもののような気がした。プロイセンくんで頭がいっぱいのぼくは、冷静ではなかった。
間髪入れずに発信ボタンを押す。ツッ、と受話器が拾われた音がした瞬間、勢いと元気のいい声が『もしもし』と笑いながら応答した。それはやはり女の子の声で、ぼくは確信した。
「も、もしもし……」
『あ! イヴァンさんですよね? 今ギルベルトくんに代わりますね〜!』
何故か事情を知った風の女の子は、ぼくの話も聞かずにそう告げると、ぎゃはははと笑い声が上がる場所へと移動しているようだった。
わいわいガヤガヤの他にも、バーベキューのジュージューと香り立つような音が雑音と一緒くたになっている。その中でも、耳によくよく馴染む、雑音によく似たガサついた声で「だからベルリンに行ったらそこは絶対行くべきだぜぇ!」と、フランス語で話すプロイセンくんの声が聞こえた。
ぼくの怒りゲージはさらに上昇する。
向こう側で若い女性の「えー絶対行きますぅ!」という、少し甘ったれたような声がいっそう響いて聞こえ、「ギルくん、イヴァンさんだよ〜」と、先ほどぼくの応対をした声が上書きした。
……な、なんなの……!? 楽しそうにしちゃって……!
『お? やっとか! サンキュー! よぉイヴァン!』
立て続けにプロイセンくんの楽しそうな声も届くものだから、
「……もしもし」
ぼくのテンションはだだ下がり。
『おお? イヴァン! お前今どこだ!』
今の今までとても楽しんでいたのが手に取るようにわかるその声色。とてもじゃないけど納得行くはずもなくて、ぼくは仄暗い谷の底から這い上がるような、唸るような声で応えた。
「……君こそ何? なんで女の子とワーキャーしているの……?」
ぼくの気持ちなどこれっぽちも拾えていない声は続く。
『……は? お前、何突然キレてんだよ』
「そりゃ怒るでしょ。何で電話出ないの。ぼくがどれだけ君を探して奔走していたかわかる? ねえ、今何時? なのに君は女の子たちと楽しくバーベキューしてるんだね」
まくし立ててやる。言い訳なんかできないはずだ。ぼくは見たんだもん。今は彼の声すらも聞きたくなくなって、ぼくの親指が終話ボタンに伸びる。そしてそれをようやく察したプロイセンくんは、
『おい、ちょっと待て。落ち着けよイヴァン』
「いやだ。もういいよ。バカみたい。旅行楽しんで」
『は? おい! イヴァン!? お前今どこにいるんだよ!? 切んな! 切んなよ!?』
喚き散らす彼の声を惜しむはずもなく、ぼくはそのまま通話を断ち切った。
どこからか「切りやがったぁあ!」という声が聞こえた気がしたけども、こんな広いビーチで彼本人であるはずがなく、ぼくはぼくの中に潜む彼の存在を掻き消そうと、首を横に振った。
――もういい。もういいの。こんな気持ちでプロイセンくんに会いたくない。まずは自分の頭を冷やそう。
ぼくがビーチに背を向けたと同時だった。またぼくの携帯電話が震える。同じ番号からの着信。やっぱり今は彼と話したくない気持ちの方が大きくて、即通話拒否のボタンを押す。
そして時計を確認してから、深く考えずに電源までも落としてやる。
時刻は午後一時ごろ。
目前を見上げればそこには賑やかなショッピング街が見えている。到底ビーチに行く気分になれないぼくは、お土産でも見てみようかと、行き先をそちらに定める。一瞬ぼくも女の子を誘ってみようかなんて思ったけど、そんなの性に合わないし、余計苛立ってしまうだけかなと、正気を取り戻した。
まるで露天商が連なっているような出店の通りもあれば、ちゃんと屋根伝いに回れるショッピングセンターもある。
色とりどりのお土産や生活雑貨、遊泳道具などなど、窓はないけれど、歩きながらウィンドウショッピングを楽しんだ。……少なくとも楽しもうとした。プロイセンくんのことなんか、忘れて、楽しみたかった。
けれども、このオレンジ色の空気はやけに明るく感じるし、ジリジリと照りつける太陽光も、痛いばかりで一つも楽しくない。いたる所で見かけるエービーシーストアというスーパーみたいなところは、何故か見つけただけで意味もなくうんざりとした気持ちになってしまった。
気持ちを改めるために深い息を吐いてみて、もうなんでもいいやと思いながら、少し大きめのおみやげ屋さんに立ち入った。
そこはアロハシャツから、フラダンス用の衣装に始まる、ハワイの伝統工芸品がたくさん並んでいるお店だった。怪しげな木彫の置物もあれば、何かの植物で編んだような帽子やブレスレットもある。こういう木彫の質感はあんまりプロイセンくんは好きじゃなさそうだなあと、ぼんやりと陳列されている商品を眺めていく。
広い店内の割にお客の出入りが激しく、そんな中ぼくは他に宛もないし、ゆっくりじっくりと全てを見ていた。そんなぼくの様子が気になったのか、もうずいぶん年を取った男性が「それはね」と英語でぼくに話しかけてくる。エプロンをしているので、おそらくは店員なのだろう。
「その辺にあるのは、ラウハラという木の葉っぱを編んだ伝統工芸なんだよ」
ぼくが今まさに手にしていたティッシュケースを見ていた。それを元の位置に戻し、ぼくは続けてブレスレットを拾い上げた。
「その模様が入ってるのは、私の友人が作ったんだけどね。そっちの模様の入ってないものは私が作ったものでね。ずっと売るばっかりだったんだけど、最近始めてみたんだ。これが意外と大変で」
特にぼくから返事がなくても気にならないのか、男性は楽しそうにその編み方について教えてくれた。その男性の友人というのは、生涯通してこの伝統品を作っていて、かごや帽子はもちろんのこと、大概のものはこの工芸品で作れるとのことだった。こんなにも目や心に優しいものに包まれていたら、いつも穏やかだろうなあと、その男性の笑顔を見ながら思う。
「今日はどんな人へのお土産で?」
唐突にぼくの感覚は冴えた。
浮かんだプロイセンくんの顔を、意識から振り払う。
それまでぼんやりしていたんだなあと気づいて、改めてぼくはハワイに来ているのだと実感した。あまりにもイメージしていた甘い旅行と違ったので、どうやら忘れていたみたいだ。
「ん? 家族? 友達? それとも恋人かな?」
「まあ、その」
「なあに、言い難かったらいいんだよ。えとね、女性に人気なのは、」
それからその店員さんはそれぞれ詳細を一つ一つ、その伝統工芸品が誕生した経緯やら、作り手の思いやらを長々と話してくれた。
プロイセンくんと居れば「邪魔しないでよ」なんて思うところだけど、今はぼく一人だし、気分転換もしたかったから、色んなお話が聞けてとても楽しかった。
最終的にぼくが購入を決意してレジに持ち寄ったのは、ボーンフィッシュネックレスという、サーファーに人気のお土産だった。身に付けるものを選んでいるつもりのプロイセンくんだから、”こういうもの”は好きそうだなと目星をつけていた。
よく考えたら、一緒に来ているわけだからプロイセンくんにお土産なんて買わなくてもよかったんだろうけど、かと言って、せっかく一緒に来ているのに何も形として残るものがないのは寂しいなと思っていた。
姉さんやベラには今回のことは内緒にしているので、残念ながらお土産は買えない。
「これからビーチかい? まだまだ暑いよ。もう二時だけど」
カシャカシャと紙袋を整えながら、始終ぼくの話し相手をしてくれていた店員さんは言った。
もう二時なのか……と心に留めて、お土産を袋に詰め始めた店員さんに「いえ、ビーチにはなんとなく行きたくなくて」と愚痴をこぼす。
するとその人は心配するようにぼくの顔を覗き込んで、「ビーチに行かない? そうだね、」と袋にセロテープを貼り付けながら返した。
「もしビーチに行かないというんなら、水族館とかどうかな。ハワイでしか見られない生き物もいるから人気だよ。ああ、そうだ、ビーチじゃない人気の観光地といえばあそこだ、プウ・ウアラカア州立公園」
「……聞いたことないです」
「『百万ドルの夜景』だったらどうかな。実際は公園ではサンセットまでしか見れないから、夜景となるとバスツアーとかを使うのがいい。いいツアーコンサルタント紹介するよ。ちょっと待っててくれ」
店員さんはやっぱりぼくの返事なんかは待たずに、レジの後ろにある引き出しの中から、電話帳のようなのものを取り出した。どうやら色んなお店や会社の電話番号を控えている手帳らしく、ぼくの目の前まで戻ってきてから、その手帳をペラペラとめくり始めた。
「ああ、あったあった。ここ、ここがお勧めだよ。この時間ならまだバスツアーに空きがあるんじゃないかな。電話して聞いてみてあげよう」
「いえ、そこまでしなくていい、」
言っている最中にも、レジの横に設置されていた小さな受話器を拾っていた。
――『小さな親切、大きなお世話』
いつか誰かがぼやいた言葉が脳裏に過ぎったけども、店員さんは輝くほどの笑顔でぼくに『気にするな』と目配せをするので、まあいいか、とぼくは諦めた。
電話が終わると嬉しそうにぼくに向き返り、「二席分のキャンセルが出たところらしいぞ。一応押さえておくように言ったから、今から向かうといい」と言われた。また一瞬だけプロイセンくんが過ぎったけども、いやいや、まだぼくは許してないんだから、と心を鬼にする。かと言って買ったおみやげは大事に抱いたまま、ぼくは店員さんが教えてくれた徒歩五分くらいのツアーコンサルティングのお店に向かうことにした。
実際歩くと、そのお店には二十分ほどかかった。華やかな町並みに目を奪われながら歩いたというのもあるだろうけど。とりあえず到着して先ほどのお土産屋さんの名前を伝えると、「お待ちしておりました」なんて言われて、カウンターに案内される。
「伺っております。タンタラスの丘、夜景ツアーですね。現在空きが二名様分しかございませんが、二名様でよろしいでしょうか?」
いきなりの質問にダメージを受ける。不意打ちで頭を殴られたように真っ白にされ、ぼくは言葉を忘れた。
――夜景なんて、一人で見て面白いわけがないじゃない。
そんな風に思ったけども、一緒に行くならプロイセンくんしかいない。彼しかここにいないから、という意味ではなくて、彼じゃなきゃいやだという意味だ。だけど、さきほどぼくのことなんか忘れて、女の子たちと楽しんでいたプロイセンくんは許せない。一緒になんか行きたくない。
しかし状況を客観視していた自分も胸中にいたらしく、それがさらっと呟いた。
――遥々ハワイまで来て、プロイセンくんとの思い出はどうするの?
サアッと血の気が引いた。
このまま行ったら、ぼくとプロイセンくんの初めてのハワイ旅行で、二人の思い出がない。……ないじゃない!? 意地ばかりが先行して眼中になかったけども、ようやく気づいた事実に激しい落胆を覚える。そんなのいやだ……
「えと、二人で……」
色々と釈然としないまま、それでも、やっぱり二人の思い出がないほうが許せなくて、ぼくは思い切ってそう答えていた。
目の前のツアープランナーの男性は事務的に「二名様ですね」と笑って、「ではこちらにご記入を」と記名する用紙を差し出した。備え付けのペンを拾って、重い書き心地のボールペンを、その紙の上に走らせる。
『イヴァン・ブラギンスキ』
『ギルベルト・バイルシュミット』
書き連ねた名前に、今度は途端に寂しさを思い出して、何でぼくあんなに怒っちゃったんだろう、早く会いたい、なんて泣きそうになった。
男性はそんなことには気づくはずもなく、ぼくがペンを置くとカウンターの向かいに設置されていたパソコンに、その情報を入力していく。
「……あれ……?」
プランナーの男性が零した。
何か不具合でも? と気になり、その男性の表情を見ていると、
「えーっと。イヴァン・ブラギンスキさんと、ギルベルト・バイルシュミットさん? ですよね?」
「はい」
その男性の口の動きが、やけに鮮明に見えた。
――「すでにご予約がありますが」
訝しげだった男性の目の前で、ぼくは目を剥いた。
……すでに……予約……? え……?
「お申込者様がギルベルト・バイルシュミット様で、確かに、本日十九時発のタンタラスツアー、お申し込みがあります」
確認するように男性はくり返した。
そうか、そういうことか。上手くスケジュール通りに行けば、プロイセンくんは今日、ぼくを『百万ドルの夜景』に連れて行ってくれるつもりだったんだ。
またきゅぅっと胸が痛む。
連絡を取れなくなったのだって、何か事情があったのかもしれないし……ああ、ぼくは自分のことしか考えてなかった。嬉しいけど何やら色々と悲しくて、本当に本当に、もう本当に、早くプロイセンくんに会いたくなった。
「どうされますか? パスポートなど提示していただければ、もうチェックインしてチケットもお渡しできますが? ご乗車がスムーズにしていただけます」
「……じゃ、お願いします」
ぼくは自分のウェストポーチからパスポートを出して、その男性はそれを受け取って、ふむふむと情報を見比べていた。それから「やはりご本人様でお間違いないようですので、チケットをご準備をしますね」と、パソコンに向かってカタカタと入力を始める。
それほど時間はかからずに足元にあったらしいプリンターから印刷されたチケットを確認して、最後にぼくに署名を書かせてから、そのチケットを渡してくれた。
集合はこの店の前、出発時刻は十九時なので十分前にはおいでください、そう言って男性はぼくを見送り『お待ちしております』と手を振った。
いってらっしゃいと手を振られたところで、ぼくは未だ行く宛ははい。
今しがた渡された『百万ドルの夜景』へのチケットをぎゅっと握り、お守りさながらに願をかける。一刻も早く彼に会えますように。
握った拳から、ソーダ色よりは少し白んでいる青空に視線を上げた。
プロイセンくんと合流するには、と考える。ひとまずは意地を張るのを止めようと思い、携帯電話の電源を入れ直した。
時刻は午後二時五十分ごろ。
……もう三時……?
ふわっと目が眩んだ気がしたけども、何とか自分を強く持って現実と向き合う。
とりあえずは何を置いてもプロイセンくんに電話してみようと思い、携帯電話を操作しようと思ったところで通知が入る。電源を切っている間の不在着信である。またもやハワイの国際局番が付加された番号からだ。
もしかしてプロイセンくん? 一緒にいた女の子の携帯電話から着信が入っていたことから憶測する。
流れるようにそちらに再発信すると、すぐに電話が繋がったので、ぼくは「もしもし」と声をかけようとした。だがそれはよく聞けば自動音声に切り替わっており、おまけに雑音が酷くて聞き取ることができず、ハワイ語なのだろうと結論づけた。
きっと何か意味のある着信ではあるのだろうけど、言語の壁は大きく、ぼくはそれの謎解きを諦めた。……一体なんだったのだろう……。首を傾げながら通話を切り、今度こそプロイセンくんに発信しようと思ったところで、またもや携帯電話が震え始める。
時差があり、表示された単語といえば『フランスくん』という国名。
プロイセンくんと二人で遊びに来ているハワイで、とてもじゃないけどフランスくんの応対をする気にはなれず、ぼくはそっとバイブレーション機能を止める。おそらくぼくらの関係を知らないフランスくんが、これを期に察しでもしたら少しめんどくさいなあという、単純にそれだけの理由である。
しばらく鳴らしていたみたいだったけども、そのうち通話は切れて、画面も待ち受けに戻った。
このときのぼくがフランス現地での時間にまで考えが及んでいれば、この後も少し違っていたのだろうけど、そうは問屋が卸さない。一刻も早くプロイセンくんに電話をしたかったぼくは、フランスくんが諦めたことにだけ安堵して、ようやく目的の彼へ電話をかける。
しばらく呼び出し音が響く。嫌な予感が呼び起こされる。
『おかけになった電話は――』
――やはりそうだ。
プロイセンくんの電話は、未だに不通だったのだ。ぼくはひたすらに「なんで??」が止まらず、さてどうしたものかと考えた。ここまで電話が通じないなんて、彼の携帯電話に何かあったのかもしれない。
むしろここまで連絡が取れないとなると、これはアメリカくんの呪い……? と思ってしまう。……まあ、あいにく、アメリカくんにはイギリスくんのような機能は付いていないはずで、仕方なくつらい現実とまた向き合う。
これがアメリカくんの呪いなら、彼に一つ電話をかけてコルコルすれば解決したかも知れないんだけど……。
落ち着いて最初から考えてみよう。持ち物で何か、プロイセンくんが必ず行く場所のヒントはないだろうか? 空港のロッカーに入れた荷物には、一泊分の服やらなんやら、水着やら。そしてこのウェストポーチ。これにはプロイセンくんが行きたかったであろう観光各所のパンフレット。
ええっと、ハワイはビーチにも色々あったんだっけ……。
そこまで考えて、そうか、ビーチか、とぼくはまた携帯電話を取り出した。もう一度、先ほどの女の子に電話をしてみようと思い立ったのだ。
履歴を辿れば、その女の子から電話が来たのが午後一時過ぎだったので、あれから二時間も経ってる。そんなわけで、むしろプロイセンくんがあのまま女の子たちと一緒にエンジョイしているとは考えにくかったけど、万に一つと思って電話をかけてみることにした。もうどうでもいいから、早く彼に会いたい。
発信ボタンを押して、すぐさま自分の耳にそれを当てる。しばらく呼び出し音が鳴り、ついにそれは通話した音に代わり、雑音が流れ込んできた。
『もしもーし!』
そのフランス語の第一声を聞いて、そうか、彼女はプロイセンくんとフランス語で話していたなと思い出した。
ぼくとしては個人的理由により、イギリスよりもフランスのほうが気が進んだので、慣れたフランス語に切り替えて言葉を始めた。
「もしもし?」
『あ、イヴァンさんですよね? ギルくん、今戻ってきたところですよー!』
その言葉に歓喜した。「今戻ってきた」ということは、彼はやっぱりぼくを探して奔走してくれていたのだ。答え合わせはしていなかったけど、勝手に喜んで盛り上がる。そして早く彼の声が聞きたくて、「え? ほんと!? 代わってくれる!?」と、柄にもなく声を張ってしまった。
『あ、ごめんなさい! もう出ました』
「え、出たの!?」
嫌な汗が背中を伝う。
『はい、血相を変えて!』
最後の希望を絶たれた気持ちになってしまったぼくは、言葉を失くす。
女の子もそれを察したのか、『……まだ会えてないんですね……』と労るように呟いた。それはぼくの傷を抉るだけだったけども、紛うことなき現実である。とても億劫だったけども「うん……」と返事をして、「ねえ、彼は携帯をどうしたか言ってた?」とダメ元で聞いてみた。雑談の中で何か話していることがあるかも知れないと期待できたからだ。
『ああ、トイレに落としたらしいですよ』
女の子の笑いを含んだ言葉は、ぼくを殴りつけるようだった。
と……トイレに!? ってことは何!? もしかして、朝一番に分かれた、あの空港のトイレで!?!?
空いた口は塞がらず、何回かけても繋がらなかった自分の今日限りの過去を思い出す。
……ひどい……そんなことで……そんなことで……そんなことで今日一日、プロイセンくんと会えなかったって言うの!? どうして彼はこう肝心なときに、そういう力を働かせるの……?
呆れるというよりは、もう同情に近い感情だったかもしれない。ここに椅子があれば、間違いなく項垂れていた。
『……もしもし?』
「ああ、ごめん。どこに行くとか言ってた?」
『いえ、特に……くそう、とは言ってましたけど。たぶんまだこの辺にいますから、ビーチに来たら会えるんじゃないですか?』
一縷の希望を見出す。
「そうか……! ありがとう!」
『早く会えるといいですね!』
「うん! ありがとう!」
ぼくはなんとか気持ちを持ち直して、また早速出発しようと思った。携帯電話の画面を確認して、それをポケットにしまう。
時刻は午後三時半より少し前。
周りを見回して、さてここからどうやってビーチに行けばいいだろう、と様子を伺う。水着を着ている人もちらほらいるし、浮輪等の遊泳具を持っている人もいる。つまりここからビーチは、まだまだ徒歩圏内というわけだ。
少しお腹が空いたかな、と思ったけど、そんなのいくらでも後から満たすことができる。何はともあれ、プロイセンくんとの合流が先決。おそらくこの方向だよね、と半信半疑ながらもぼくは、人の流れがより多い方へ体を向ける。
「ねえねえ、お兄さん」
と、そこで、少し高めの男性の声とともに、肩をとんとんと叩かれた。振り返ればやけににこやかな三人組の、白人の男性が立っていた。
「もしかしてビーチに行きたくて迷ってる?」
英語だけども、フランクに話しかけられているのは理解できる。
その態度に少し不満を持ったけども、迷っている風のぼくを見て、親切心で声をかけてくれたのかもしれないと心を入れ替えた。人の流れを見ていたときよりもよほど半信半疑……むしろ八割訝しむ気持ちではあったが、一応「そうなんだ」と返事をする。
すると人のいい笑顔で青年たちは「俺たちもビーチに行くから、一緒に行こう」なんて言う。道もなんとなくしかわからないし、まあちょうどいいかと、特に思慮せずに適当に返事をした。その三人組はなんだか少し変な喜び方をして、「じゃあ行こう」とぼくを誘導して歩き出した。
抱えきれないほどの違和感が溢れる中、ぼくは彼らの笑顔を信じてもいいのか信じるべきではないのか、ずっと様子を伺っていた。人気のないところに入ろうものなら、一握りでプチッとしちゃおうと思ったけど、特に観光客の波から離れるような素振りはない。
道中で「なんでこんな観光地に一人でいるの?」と聞かれ、「友達とはぐれた」という話をしたら、それから根掘り葉掘りと今までの経緯を尋ねられた。ぼくは彼らの動向に気を配っていたので、会話の内容はさほど重要視しておらず、素直に質問に応えていった。
ぼくの話が尽きると、今度は青年たちは彼らの話を始めた。どういう繋がりで、今日はいつからどこに居て、と楽しそうに教えてくれる。違和感は拭えないままでも、悪い子たちではないのだろうな、と少し落ち着き始める。
それからどれくらい歩いただろうか。ビーチが見えて来て、この辺でいいんだけどと話をしたら、もう少し先だよと言われるので、そうなのかと連れ立って歩いた。水族館やリゾートホテルなどを追い越すようにビーチ沿いを十分くらい歩き、さすがにもういいだろうと判断したぼくだったけど、彼らは「ただいまー!」とはしゃいで走りだした。見ていれば目の前の大きめのパラソルの下にいる、もう二人の青年に呼びかけていた。そのパラソルの下の青年も「遅えぞー!」と返して、すぐさまぼくに気づいたようにこちらに視線を向ける。
「そっちの人は?」
「ああ、途中で見つけてきた!」
「まじで! 初めまして!」
とても人なつっこい笑顔で走り寄ってくる。
ぼくよりも頭一つ分ほど背が低く、髪の毛は濃い目の茶色だった。だけど彼らを一望しても、国籍までは見当は付けられない。全部で五人の男性グループらしいが、何やら雰囲気が他と違う気がする……と思ったが、辺りを見回して、さらなる違和感に気がついた。
えっと……ここってもしかして。……やたらと多い、距離感の近い同性の二人組。
「何も言わずに連れて来て悪かったよ! 今日はこいつの傷心旅行も兼ねてんだ!」
「そうそう! こいつに新しい恋人見つけてやりてえなって!」
「……うーん……んと……?」
とても気の抜けた声だったと思う。予想外の展開すぎて、ぼくは察した瞬間に全部がめんどくさくなった。
そうか、ここはおそらく同性愛者が多いビーチだ……なんか、以前ちらっと聞いたことあるぞ、といまさらながら思い出した。
「お兄ちゃんもそっちだろ? 雰囲気でわかったぜ」
「探してるってやつ、喧嘩してんだろ? この際こいつにしてみねえ?」
悪気はないんだろうけど、あんまりにも屈託なく笑うものだから、それをどこかの誰かと重ねてしまって苛立った。
なんでぼくは素直にこんなところまでついてきてしまったんだろう。傷心の彼には申し訳ないけども、とてもじゃないが付き合ってやれる時間も心もなく、ぼくは一気にやさぐれた。
ぼくは別に同性愛者ってわけじゃないし、どちらかというとプロイセンくん愛者っていうか、彼以外には考えたこともなく、この先考える気もない。ぼくが何百年彼を想っているかなんて知るわけもないので、彼らに罪はないのだけど、どうしても不本意による苛立ちには勝つことができなかった。
「ここまで案内してくれてありがとう。ぼくもう行くねえ?」
最大限の自制で持ってそう笑ってやると、その五人は見てはいけないものを見たように青ざめて、「あ、ああ……引き止めて悪かった……」と後ずさった。笑顔はなんとか保ったまま、ぼくは踵を返して元来た足あとを辿り始める。
……彼らの最後の表情を思い出し、「あんなに怯えるなんて、ぼくの最大限の忍耐をなんだと思ってるんだ」と少しプンスコした。それでも悪い子たちではないのは確かだったので、早くあの子の傷心が癒えるようにと願ってはおいた。
――正直、プロイセンくんとの合流に比べたら、興味の欠片もないのだけども。
ともあれ彼らと分かれたぼくは、早足で不安定なビーチの砂の上を横断しながら、ちらと携帯電話の画面を覗いた。
時刻は既に午後四時過ぎ。
なんてことだ……と改めて危機感を覚えつつも、早足は止めずに歩いて行く。
そういえば太陽の照る場所でも、もうそんなに肌がじりじりしないなあとぼんやり思った。だけど首周りに巻いたスカーフは汗で湿り放題で、早くホテルに帰ってシャワーを浴びたいとも過る。行けども行けどもリゾートを楽しむ人混みは絶えず、ぼくはそろそろうんざりし始めていた。
歩いていると、何やら後ろで女性の騒いでいる声が耳に留まる。リゾートだからって浮かれる気持ちもわかるけど、他人の迷惑を考えないのはだめだよねえと、内心だけで説教を垂れていると、それが段々近づいていることに気づく。
「イヴァンさんっ!!」
ぼくは引かれるように足を止めた。きゅ、と踏みしめられ、擦れ合った砂が鳴りそうだった。
――呼ぶ声にも、呼ばれた名前にも覚えがある。
「あ! やっぱりそうだ!」
声の方に振り返ると、その騒がしかった女の子たちがぼくに走り寄った。
ちりちりとした真っ黒の髪の毛と分厚い唇の黒人さん。だけど出る言葉はフランス語で、アフリカ系のフランス人だとわかった。
「……もしかして電話の?」
最初にプロイセンくんとしゃべっているのを見かけたのが白人さんだったし、てっきり電話の女の子がそうなのかと思っていたが、どうやらそれは違ったらしい。ぼくがプロイセンくんと笑い合っているのを見かけたのは、その後ろにいた別の子だ。ともあれ、電話だけではただのフランス人かと思っていたけども、少し意表を突かれた心持ちになる。
なんにせよ、つまりはこの子たちがプロイセンくんに何度か携帯電話を貸してくれていた、まあ、言ってしまえばプロイセンくんと楽しくバーベキューをしていた子たちだ。
「そうです! よかった! そのひまわりのアロハとミサンガを見て、もしかしてイヴァンさんじゃないかなって!」
「そうそう! 雰囲気もなんかギルくんとお似合いだし!」
――ん?
最後にちょっと気になる文句が聞こえた気がするのだけど、女の子らのマシンガントークは続いていったので、言及する隙もなかった。
とにかく騒がしいその女の子らは、なんでぼくだとわかったかと一通りバラバラに説明したあと、「なので、思わず追いかけちゃいました!」としめていた。どうやらギルくんはぼくの外見を教えていたらしいことがわかる。
「で、その様子だとまだギルくんに会えてないんでしょう! 私たち一緒に探します!」
「え……」
「もうこうなったら見届けないと落ち着かないです!」
「早く二人に再会してもらわないと!」
はしゃぐ女の子ら。ぼくはどうしようという焦った気持ちで頭はいっぱいだ。
いや、もちろんこの子たちからしても善意なんだろうけど、こんな人数の女の子を相手にする自信も余裕もない。何で今日に限ってこんなにたくさんの人と関わらないといけないのだろうと思ったけど、おそらくリゾート地ゆえにみんながゆるゆると浮かれているのだ。
勝手にあーだこーだと話を進めていく女の子らに、何と言おうか慌てて考えた。初めは善意を傷つけない言い方を、なんて模索していたけど、その内に時間とエネルギーの浪費が気になり始める。
「えっと! ごめんね! それはさすがに申し訳ないから、見かけたら捕まえてぼくに電話してくれたらそれでいいよ!」
いつもしないような声の張り方をした。女の子らは意外や意外という表情を作って、お互いを見合わせたあと「……いいんですか?」と代表で一人が確認を取る。
ぼくは「そのほうがぼくの気が楽だから」と付け加えると、その子たちも渋々納得したのか「じゃ、ビーチは任せてくださいね!」と残して、自分たちのパラソルの方へ進みだしていった。
これぞ『ありがた迷惑』だなと気づかれぬように嘆息して、ぼくは改めて進行していた方向へ向き直る。
プロイセンくんがぼくを探しそうなところって言ったらどこがあるだろう。ビーチ沿いにも動物園や水族館もあるし、少し歩けばショッピングモール。いまさらきりがないなぁと、改めて途方に暮れる。
そこでふと頭を過ぎったのは、フランスくんの顔だった。そういえば電話が入っていた。あのときはプロイセンくんの携帯電話が駄目になっているとは知らなかったので、気づかないふりをしたけども、今となってはプロイセンくんからの伝言だった可能性も考えられる。
そうか、そうか。
ぼくは慌てて携帯電話を取り出し、すぐさまそれの履歴から発信ボタンを押した。押してから、そういえば時差……なんて掠めたのだけど、寝ていたら出ないだろうし、起きていれば出てくれるだろう、と自分勝手を承知で呼び出し音を鳴らし続けた。
それは七度目くらいの呼び出し音だっただろうか。機械音が通話したことを知らせた。
『あぁ、ロシア?』
眠そうというよりは、少し酔っ払っているという声色だ。
めんどくさいときにかけちゃったかなと懸念するも、今は応答してくれただけでも感謝するべきなのはわかっている。
「フランスくん、電話くれてたよね」
『あぁ、そうそう。お兄さんもう寝ようかと思ってたから連絡取れてよかったよ〜』
文末にあくびが混じり、ぼくは感謝を含めて「そうだよね、ごめんね。そっちは朝方?」と労ってやった。
フランスくんは気だるそうに『そうそう、五時前よ』と諭したかと思えば、今度はパアッと明るくなり『全く君たちは手を焼かせるねえ』と楽しそうに言った。
――『君たち』ってことは、やっぱりプロイセンくんからぼくたちのことを聞いたんだ。確信したぼくはなりふり構う必要がないことがわかり、せっかちにも「……で、用件は?」と急がせた。
『ああ、うん。プロイセンから伝言』
「う、うん!」
『えーっと、なんだっけな。トランプ? そうそう、トランプ! トランプってホテルで待ってるって』
「……え? 『トランプ』?」
『そうそう』
ぼくはフランスくんへの返事よりも、既視感に首を傾げる。
――トランプ? なんだろう、この聞き覚えのあるホテルの名前……なんて思ったのは一瞬で、すぐに答えがわかった。今朝、迷子になっていた女の子を向かわせたホテルだ。まさか、ぼくたちのホテルがそこだったとは……! いや、でもぼくは一度電話をして『ギルベルト・バイルシュミットで予約がないか』というのは尋ねていた。そして答えはニェットだったはず……。
『それじゃ、伝えたからね』
フランスくんがぼくを思考の海から呼び戻した。
『素敵な愛の夜を』
なんて、彼特有の余韻を含ませた言い方で付け加えるものだから、その余計なお世話にぼくはなんだか心地が悪くなった。
「やだなあ、もう、フランスくんったら、何言ってるの、うふふ」
少し怒気を含めて返す。これは絶対からかっているとの見解に辿り着いたからである。
けれども彼はそれでは怯む様子もなく、また喜々として、
『なあに、いいってことよ。愛はどこから芽生えても美しいものさ』
わざとらしくしっとりとした言葉つきで言うものだから、さらに感謝する気持ちも失せてしまって「……切るよ」と低く零した。
からかうのに満足したらしいフランスくんは、それからまた見なくてもわかる大あくびをして『あい。おやすみ』と告げ、ゆっくりと終話した。
終話した携帯電話の画面を見下ろしながら、なんでフランスくんに伝言を頼んだの、と少しだけプロイセンくんに不満を抱いてしまった。こういう話、フランスくんは大好物だって知ってるはずなのに。
しかしともあれ。光は見えた。ぼくはフランスくんから繋いでもらった伝言通り、『トランプ』というホテルに向かうことにする。ようやくだ。ようやくプロイセンくんと再会できる……!
まずは空港に二人のスーツケースを取りに行って、それからタクシーで向かおう。頭の中で順序を立てながら歩き出して、ぼくは最寄りのバス停を探す。急いで空港に行かなくちゃ。
バス停を見つけたけども、その手前でタクシーに気づいて、そっちの方が早いかとタクシーに乗った。なるべく早く空港へと指示をして、トランプというホテルがどの辺りだったか改めて確認するために、プロイセンくんのウェストポーチを開いた。その一番手前に押し込まれていた、プリンター用紙に目が留まり、初めにそれを引っ張りだした。
「――あ、」
思わず声を零す。
そうだった。『百万ドルの夜景』――タンタラスの丘へのツアーに申し込みしていたんだった。集合時間は午後七時。今は何時だったかな、と携帯電話の画面を覗き込む。
時刻は午後五時半より少し前。
いつの間にこんなに時間が経ってしまったんだろうと二度見したけれども、このまま行けば午後六時ごろにはホテルに到着できると思いたい。そうすればそこで待っているらしいプロイセンくんと合流して――
――大丈夫。
百万ドルの夜景だけでも、一緒に見ることができる。ぼくはいよいよ迫るそのときに、不思議なまでに胸が踊った。
それからもうかなり日が傾いている町並みを横目に、ぼくは空港に到着する。すぐさまロッカーから二人分のスーツケースを回収して、待っててと伝えてあったタクシーの元へ戻る。『トランプ』と書かれたパンフレットを示して、ここへ行きたい、と伝えると、有名なホテルなのか運転手はすぐさま了承して発進した。これであとは到着を待つだけ。
唐突に緩んだ緊張感のせいか、どっと疲れが乗しかかったように感じた。そういえば、こちらの時刻で午前五時頃まで寝ていたとは言え、普段生活しているロシアとは半日の時差がある。慣れない暑さの中で一日動き回り……そりゃ疲れもするよなと思ったときには、少しうとうとと眠気が襲った。
「お客さん、到着しましたよ」
運転手に言われて、は、と気がつく。
重い身体を起こして、うたた寝していたのだと知った。窓から見上げれば、最上階など見えないほどに立派なホテル。……ちょっと年季は入ってる感じだけど、まぁ、すごい。泊まるの高そう。そんな夢のないことを思ってしまい、忘れるように運転手に料金とチップを支払って降りた。
とりあえず急いでロビーに駆け込む。
ボーイがすぐに寄ってきて、ぼくの引いていたスーツケース二つの持ち手を引き継いだ。そちらは任せるとして、ぼくの方は目的を持って見回してみたが、目当てのアロハも頭もどこにもない。
仕方なくボーイに誘導されるがままにフロントに向かい、「もう一人は来てるはずなんですけど」と伝えてプロイセンくんの名前を言うと、「ああ、確かにチェックインされてますよ。お荷物はそちらのみでしょうか。お預かりします」と、書類に何かをつらつらと書き連ねた。
「えと、もう一人は部屋にいますか?」
見回しても彼の姿が見当たらないものだから尋ねると、フロントのスタッフはマウスを握って少しパソコンを操作し、
「いえ、キーはこちらにありますので、まだお出かけになられているのかと」
と教えてくれた。
……え? いない……? どういうこと? ここで待っとけって、確かにフランスくんは言っていた。
また大量の疑問符を生産しながら、ぼくはこのロビー以外で人を待てるところはありませんか、と尋ねた。フロントのスタッフが丁寧に教えてくれる施設概要は話半分に、ぼくはひたすらにそわそわと周りを見回していた。
……とりあえずロビーのソファにでも座って待っていよう。ぼくが来るとわかっているのに、他階のラウンジやプールに行っている可能性はすこぶる低いのだから。
自分に言い聞かせてロビーのソファに腰掛ける。それから五分くらい待っただろうか。落ち着かないぼくの尻ポケットに入っていた携帯電話が、またふるふると震えて主張を始めた。
プロイセンくんからの連絡!? と焦ったぼくは、落ち着きのない手つきでそれを引っ張り出し、画面の数字の配列にはもはや大した気はおかなかった。
「もしもし!」
勢いよく呼びかけると、電話の相手はひどく落ち着いた話し方をした。
『もしもし、イヴァン・ブラギンスキさんですか』
一瞬で興奮が冷める。
違った、プロイセンくんではない。
相手の名乗りを聞いていると、それは本日七時からの『百万ドルの夜景』のバスツアーのコンサルティング会社からだった。……そうだった、またもや失念していた。
どうやら集合時間一時間前なので、できれば集合時間十分前には来てくださいとのことで、ぼくはどうしたものかと頭を抱える。
「えーっと」
『はい』
「実はまだもう一人と合流できてなくて……」
このままここでプロイセンくんを待ち続けていれば、確実に間に合わない。だけどぼくは『百万ドルの夜景』よりも、プロイセンくんと過ごせる時間の方を選ぶ。
「直前でごめんなさい。キャンセルします」
少し諦めたような心地で発した。
――うん、でも、ハワイは逃げないから。また次の機会に一緒に見ればいい。
『おかしいですね』
相手の男性の言葉に、ぼくは意識を奪われる。
『さきほど、ギルベルト・バイルシュミット様からお電話がありまして、「必ず行きますから」と承っておりましたのに』
「ええ!? それ本当?」
『はい……つい先ほどですね。ギルベルト様からもキャンセルのご連絡だったのですが、すでにイヴァン様がチェックインされてますとお伝えしたところ、そのようにおっしゃっておりましたので』
……ええ? どういうこと? 待ち合わせ場所変更ってことなのかな?
おそらく『つい先ほど』と言っていたので、フランスくんに伝言を伝えたあとだと思われる。……つまり、ぼくはここで待たずに、このツアーに向かえばいいの? それはそうか、ぼくがチケットを持っているのだから、ぼくが行かなきゃどの道どっちも乗れない。
「……わかりました」
『はい。どうされます?』
「行きます。キャンセルしません」
『かしこまりました。ではお待ちしておりますので、お気をつけてお越しください』
「ありがとうございます」
通話を切って、時計を覗き込む。
時刻は現在、午後六時過ぎ。
ここから、バスツアーの集合場所までは、おそらく徒歩二十分ほど。ぼくは携帯電話を強く握りしめ、集合時間に間に合うギリギリまでここで彼のことを待つことにした。
一刻も早く彼に会いたいぼくは、もうこれ以上闇雲に動くことを避ける。……と言っても、すでに午後の六時を過ぎているということは、彼とはぐれて十一時間も経っているということなんだけど。……この際どっちがどうなんてどうでもいいから、とにかく早く彼に会いたかった。
けれども身体とは正直なもので、携帯電話を握りしめたまま項垂れていると、なんとなくまたうとうとしてしまった。今度こそツアーに寝過ごすわけには行かないので、立ち上がってみたり座り直してみたり、それでも落ち着かずに、少しロビーの中を歩きまわったりしてみた。だけど、眠気が落ち着く兆しは見られず、ホテルのオープンテラスから、立ったまま落ちていく夕陽を眺めていた。とても美しかったから、『百万ドルの夜景』は一体どれほどのものだろう、と少し期待に胸が膨らんだ。
するとそこで、またもや手に持っていた携帯電話がふるふると主張を始めた。こういう旅行やお休みのときに限って電話とはよくかかってくるもので、今回その画面を覗き込むや否や、ぼくは無意識に身構えてしまった。
……上司からだった。
――こんなときに? え? なんで?
上司はぼくが休暇を取って旅行に出ているのは知っているはずだった。嫌な予感しかしなかったぼくは、おそるおそるその着信を通話させる。
「もしもし上司?」
『祖国、どうだね、バカンスを楽しんでいるかね?』
向こうでは早朝だと言うのに、上司は少し声を弾ませていた。ぼくは思っていた雰囲気と違い、少しだけ戸惑う。
「あ、えと……それが事故続きで……あんまり……」
『なんだね? 楽しめていないのか?』
仕事のときのような、少し責める口調。
声の張りは全然違ったのだけど、やはり反射的に緊張してしまって、
「……せっかく休暇にしてもらったのに、ごめんなさい」
たちどころに縮んだように思えて、情けなさから何故か謝罪していた。
電話の向こうの上司は少し考えた風に間を空けて、『そうか』と心もとなさげに呟いた。
『私に謝る必要はないがね。くれぐれも気をつけて。残りの時間を楽しみなさい』
「……うん、ありがとう」
終話したのちに、上司がぼくのことを気遣ってくれたことに少し嬉しくなって、そうだよね、これから取り戻すつもりで楽しまなきゃ、と気を持ち直した。
――そこでようやくぼくは携帯電話の画面に表示されている時刻を理解する。
時刻は、午後六時四十五分すぎ。
――は!? え!?
今度こそぼくはそれを二度見して、大慌てでホテルを駆け出した。
しまった……眠気を払うことに重点を置きすぎて、時間を気にすることを忘れていた。上司からの電話がなかったら、もしかして七時を過ぎても気づかなかったかもしれない。そう思うと悍ましくて、改めて上司に感謝した。……走りながら。
ビーチ沿いにあるホテルだったので、それを突っ切って、ようやくショッピング街に出る。もうほぼ暮れきっている街並みで、明るすぎるほどの街灯が灯火し始めていた。そこからぼくはもらっていた地図を取り出して、その集合場所への道順を確認する。歩いて二十分なら、走ればまだ間に合うはず。ぼくは人目も気にせずに道中を急いだ。信号で止められる度に時間をチェックする。
時刻は午後六時五十分を回っていた。
プランナーの男性からは『集合時間の十分前には』と言われていた。それが全うできず申し訳なかったが、何よりもすでにそこにいるかもしれないプロイセンくんが気になって、ぼくは纏わりつく熱気の中、速さを緩めることなく走り抜けた。じわりと汗が滲んで、それは背中も駆け下る。
少し先の道端に、小さめのリムジンバスが見えた。ちょうど集合場所のお店はあそこの辺りなので、おそらくあれがツアー用のバスなんだと察する。
また信号に止められて時計を覗く。
時刻は午後七時ちょうど。
目前に見えているのに、出発時刻になってしまった。それと同時に信号も変わり、ぼくはリムジンバスの側で、誰かを探すようにキョロキョロと周りを見ている人物を見つける。おそらくこのツアーの責任者だと目星をつけて、その人に目掛けて突き進む。
激しく肩を上下させながら、ぼくはそこに到着した。責任者だと思ったその人物は現地の人なのか、お店では見かけなかった人だけども、ぼくを見るなり笑顔になった。それから訛りの強い英語……? と確認したくなるような言語で何かを言う。
持っていた乗客名簿のようなリストにさっと書き込み、チケットを要求する手振りを見せたので、素直にそれを取り出して渡した。そのチケットを確認してもらっている間に、バスの周辺を見回した。だけど、プロイセンくんは待っていない。出発時刻を過ぎていたし、つまりはぼくで最後なのだろうと見当を付けて、言われるがままにバスに乗り込む。
ぼくの後からそのスタッフの男性も乗り込み、運転席に腰を落ち着けていた。見慣れた顔を探してぼくがバスの中を回視している間に、おそらく何かの注意事項を話していたのだろう。ぼくはそれどこじゃなく、頭の中が真っ白になっていた。
――いない……プロイセンくんは、このバスに乗っていない……!?
ぼくがまだ立っているからかその運転手は「シット、シット」と、一歩間違えれば暴言にしか聞こえない発音で、ぼくに座るように促す。でもここにまだプロイセンくんはいないのだから、出発されては困る。
それを抗議ようしようと思ったが、そのスタッフは時計を指差しながらまた何かをぼくに諭してきた。そして信号が青になると同時に、バスを発進させてしまった。
――え!? ええ!? いや! いくら時間を過ぎたからって……!? というか待って! プロイセンくんが乗ってないくらいなら、ぼくも降ろしてくれていいから……!
そう告げたくても、半分パニックになっていたぼくは咄嗟に英語が出てこなくて、周りの乗客に「危ないからとりあえず座って」と言われる始末だった。仕方なく動揺しながらも空席に腰を落として、無理やり思考を回そうとする。
これからどうしよう。……そうだ、次の信号では意地でも降りてやればいい。
強行手段を決意したところで、ぼくは窓の外、人混みに紛れている銀髪に気がついた。驚いて目を凝らせばそれは……――
もうバスが発進したことを知らないのだろう。おそらく集合場所に向かっているプロイセンくんだった。彼もぼくと同じように、全速力で歩道を走っていた。
バスが接近すると窓から見ていたぼくに気づき、ぼくらはようやく目が合った。それがぼくだったと理解するや否やプロイセンくんは急いで立ち止まり、今度は方向転換をして、走ってこのバスを追いかけていた。
いくらなんでもそれは無理でしょう。窓に張り付き、はらはらした気持ちで彼を見守る。しかしそう思ったのは彼も同じだったようで、ジェスチャーで「先に行ってろ」と喚いた。口の動きもそんな風だった。
――先に行ってろって? あとから追いつくつもりでいるの?
ぼくも目配せで返せば、彼はぼくがちゃんとメッセージを理解したことを確信したらしく、立ち止まってその場で何かを探すように見回した。
そうか、タクシーだ。手段はどうであれ、このバスにちゃんと追いつく気でいる。そうでなくても、このバスの行き先はもう明白である。
……ようやくだ。ようやく、これで彼と再会できる。
あとは『百万ドルの夜景』――タンタラスの丘――で、彼を待っていればいいんだね。そうだね。
改めて自分を落ち着けるように、ぼくは深呼吸をした。血相を変えて走っていた彼を思い出す。
……そうだよね、彼もぼくに会いたいと思ってくれてたんだ。
さきほど抱いたはらはらとした心地はしばらく収まらず、ドクドクと脈は激しく波打っていた。道中、やっと再会できる予感に涙も溢れそうになったけど、なんとか自分の気を鎮めて、ぼくはタンタラスの丘に到着する。すでに辺りは真っ暗だ。
……到着した場所は、ただの道端。そういえば、お土産屋さんの店員さんは言っていたっけな。夜は公園は閉まるから、と。
各々自由にリムジンバスを降り、夜景の見える道端で好きなように鑑賞を楽しみ始めている。
ぼくはというと、一刻も早くプロイセンくんに会いたくて、丘を勝手に少しずつ下っていく。治安が悪いからツアーから離れないでとは言われていたけど、少し離れるくらいなら大丈夫でしょう。プロイセンくんを乗せたタクシーを待ちわびて、ぼくはまだかな、まだかな、と、少しずつだけど、どんどん下っていく。今のぼくには『百万ドルの夜景』よりも、真っ暗なこの道路のほうが大切だった。
すると、遠くの方から車のヘッドライトが見えた。うねるように道路を辿り、それは丘を少しずつ登ってきているのだとわかる。ぼくの胸には期待が膨らむ。あれだ、あれこそがプロイセンくんを乗せた車に違いない。今度こそ、本当に確信があった。
どんどん近づく、ヘッドライト。その車は、ぼくの目の前で急停車した。タクシーではなく、一般の乗用車だったことには驚いたけど、後部座席のドアが勢い良く開き――
「ロぉぉーッ!」
謎の奇声を上げて、大好きな柔らかい銀髪が飛び付くように跳ね出してきた。
「プっ! ギルベルトくんっ!?」
「イヴァン! 待たせた……!」
プロイセンくんが今にも泣き出しそうな瞳で、ぼくをひたむきに見上げてくる。
ついに……! ついにこの腕の中に、彼が帰ってきたんだ……!
抱き止める拍子に二・三歩下がってしまったけど、そんなことはどうでもよく、彼の瞳をまっすぐに捉え返す。たったの十二時間のはずなのに、何ヶ月も会えなかったときと同じくらいに、再会の感動を味わった。
「酷いよ……ばか……何で初っ端のトイレで携帯おじゃんにしちゃうの……!?」
「わ、悪りぃって。でもお前だって俺様のこと信用してなさすぎだろ! んでこんなとこまで来て女遊びすると……はっ」
そこまで言って、プロイセンくんは慌てて息を吸い込んだ。釣られてぼくもハッと思い出す。
プロイセンくんが第一声で「ローッ!」と叫んだ、そもそもの理由。彼はおそらく「ロシア」と呼ぼうとして、いや、ここには一般人もいるからと、そんな謎の奇声になってしまったのだ。
つまり……
二人同時に、乗用車の運転席を見やった。そこに座っていた男性がギョッと肩を竦め、目を泳がせる。
いまさらもう、二人の関係はバレているのだろうけど、それはつまり一般人の目の前で痴話喧嘩を続ける理由にはならず、ぼくはプロイセンくんに目配せをした。同じことを考えていたらしい彼も頷いて、一度ぼくから離れた。
運転席に歩み寄って二言三言交わすと、その乗用車はリムジンバスが停まっている、丘のもっと上の方へ向けて発進していった。
車のライトがなくなったこの場所は、もう本当に夜景の光しかなくて、淡く照らすだけの中で、ぼくたちは改めて向かい合った。今日の長かった一日を振り返り、言いたいことは山程あった。だけど、そんなことより……何より。
「ああもう!」
ぼくは力任せに、彼に抱きついた。覆いかぶさるようなぼくに後ずさっていたけども、ちゃんと抱き止めてくれて、その腕をぼくの背中に回した。
「会いたかった……! 寂しかったし、疲れた……!」
「そんなの俺様もだっつーの。なんでちょろちょろ動き回んだよ」
「それはこっちのセリフでしょう」
「そうだけどっ」
背中のほうでぎゅうっと引っ張られる感覚がする。プロイセンくんが握り込んだであろうぼくのアロハシャツ。言い訳をしたくとも躊躇われるのだろう、彼は言葉をとめて、ぎゅうとぼくの背中に回した腕の力を強めた。
「だって……それは……」
ぼくは強く抱き返してから身体を放す。
「今はいいから。黙って」
ただ、彼に触れて、ちゃんと側にいることを確かめたかった。同じ気持ちだった彼はいつもみたいに喚くことなく、静かに瞼を閉じて、ぼくの行動を待った。
夜景の光に照らされる、その白すぎる肌はとてもきらびやかで、こんな一日だったけど、やっぱり彼が好きだなあって実感する。
彼が待ちくたびれてしまう前に、ぼくは唇を寄せた。
やっと触れ合えたことへの歓喜で、ただ唇を重ねているだけなのに、頭がおかしくなりそうなくらいのぼせた。嬉しかった、ひたすらに、彼と再会できたこと。ちゅ、ちゅ、と啄むような可愛いキスをくり返して、
「……あーもう。あーもう。今晩は放さないんだからね」
またぎゅうっと彼の背中を抱いた。
彼も落ち着けるように、ぼくの肩に頭を預けて、ゆっくりと呼吸をくり返す。
「……ケセセ」
「なに?」
「……俺様たち、色んな人巻き込み過ぎじゃねえ?」
お互いハグしたまま、彼は悪びれることもなく笑った。一体どんな一日を彼が過ごしたのか、まだ全く見当も着かないのだけど、
「ええ? 君もそんなにたくさんの人を巻き込んだの?」
ぼくのを振り返っただけでも、かなりの無関係な人を巻き込んだ旅行だった。
彼はまた「ケセセ」と笑い、
「やっぱてめえもだろ? 全然『二人だけの』旅行にならなかったな」
にへらっと笑う。反省なんかしていないかもしれない。
「だから! それは誰のせいだと思ってるの!」
肩を持って責めてやろうと思ったけど……にへらと笑ったその表情の奥で、ひどく反省したような、気落ちしている彼に気づいてしまった。……そうだよね、彼も好きでこんな一日を過ごしたわけじゃないよなと思い返した。だから勢いを改めて、ぼくは夜景の方へ身体を向ける。するとプロイセンくんもそれを追うように、ぼくと肩を並べた。
「もう……やだなあ……明日帰るなんて……」
この『百万ドルの夜景』に愚痴を聞かせた。
プロイセンくんは視線を足元に落とし、「……悪かったよ」とらしからぬ調子でぼやく。
やっぱりそうだった。彼のことだから、ぼくが頑張って取った休暇でのこの旅行を、台無しにしたんだと自責している。でも、言ってしまえばぼくもカッとなってしまったところがあるし、彼にだけそんな心地をさせるのは気の毒だった。何かいい気休めの言葉がないかと考えてみる。
そして名案を思いつく。
「ふふ、今晩満喫させてくれるなら、許してあげる」
からかうように手を捕まえて引き寄せる。勢いのまま腰を抱いてやると、プロイセンくんは大層狼狽えて、
「ば、お前、そういうことここで言うかあ?」
ぼくの胸板を押し返して離れようとする。
そういうところも可愛いんだけど。
「どうせ誰も聞いてないし、それにさっきあんなキスもしたのに、ここで気にするのはおかしいよ」
そう言って、今度は本気でまたキスをしてやろうと思った。
この際ここで彼の腰を砕いてやってもいいかなと思っていた。……思っていたのだけど。
ぼくの尻ポケットで、それはふるふると動いた。
「……あ、電話」
――ああ、もう。全くいいところだったのに。
悪態を吐きながら取り出したそれの画面には、ぼくに嫌な予感しかさせない名前を表示。プロイセンくんも覗いていた画面なので、わざわざ読み上げる必要もなかったのだけど、彼に助けを求めてしまった。
「……上司だ……」
「……出ろよ」
躊躇いなく促される。
ぼくの嫌な予感をこれっぽっちも感じていないらしく、ぼくは仕方なく落ち着けるように深く息を吸った。
「はあ……これ以上状況が悪化しませんように。……もしもし」
『祖国』
「うん、どうかしたの?」
その第一声からは全くもって用件を察することができなかったので、手っ取り早く尋ねる。するとどうだろう、電話口の上司はこう言った。
『祖国に朗報だ。もう一日休暇を伸ばせることになった。さきほど、思うように楽しめなかったと言ってたろう』
ぼくは神様からの贈り物かのような報せに、舞い上がるしかなかった。
様子を伺うように見上げるプロイセンくんの顔を盗み見て、「……え? もう一日いいの?」と上司に確認する。
『たまには羽根を伸ばして来なさい。ただし、あと一日だけだからね』
その声色がいつもよりも優しい気がして、柄にもなく飛び上がりたい気持ちになった。受話器を握る反対の腕はまだプロイセンくんの腰に回っていたので、気持ちだけに留めたのだけど。
「ほんと! わーい! ありがとう上司!」
一通りの終話の挨拶をして、携帯電話をまたポケットにしまう。
我慢できずに、またプロイセンくんを力いっぱい抱きしめて、彼の存在を自分に実感させた。
受話器から音声が漏れていたのか、「……そんな急に宿って取れんのか?」とプロイセンくんは心配そうに笑った。ぼくはもうなんだっていいや、と思えるくらいには舞い上がっていたので、「取れなきゃ野宿でもするよ」と強気で返してやる。
「……よかった。明日こそ楽しもうね、プロイセンくん」
「そうだな……よかったな」
とても穏やかに笑う。
メインディッシュとも言える夜景を横目にしか映さないという、なんとも贅沢をぼくらは今していた。向い合ってお互いの目に映ったそれを見ていたかもしれない。とても爛々と踊るそれは、いつも以上に彼の瞳を美しく輝かせていた。
その綺麗な輝きに心が抑えられなくなったのはぼくの方で、ごまかすように笑いかける。
「もう一日ゆっくりできるってことは、今晩少しくらい無茶しても大丈夫だね」
言った途端に彼の身体は強張り、眉間にも濃い濃い皺を寄せた。
「は!? 明日こそ観光すんだからな!? 無茶しねえからな!?」
「はいはい、うふふ」
話半分にしか聞いていなかったぼくは、そのまままた彼の唇を奪った。久々の触り心地は、夢みたいでなんだかとろとろと眠くなってくる。
その後、ちゃんとツアーのリムジンバスで帰ったぼくたちは、しっかりとディナーを済ませてホテルに戻った。
ここからぼくたちのハワイ旅行の本番が待っているのかと思ったら、今日一日も、なんだかんだと楽しかったな、なんて思える。
こんなことは二度とごめんだけど、強烈に印象に残る、ぼくとプロイセンくんの初ハワイだった。
おしまい
あとがき
ロシアちゃん視点、ご読了ありがとうございます……!
ほぼ半日分を描いたので書くことは然ることながら、読まれる方も大変だったかと思います……!
ありがとうございました!
色々とご都合主義だし、毎度のことながらやりたい放題でしたが、いかがだったでしょうか。
でもほら、某アーティストも言ってたでしょ?
『最初からハッピーエンドの映画なんて 三分あれば終わっちゃうだろう?』って。
……三分では終わらせません♡
さあて、この晩の二人がどんな夜を迎えたかは、あなたのハートで感じ取ってください♡
旅行って色々と燃え上がりますよね♡ うふ♡
そしてこちらのお話は、実はいにしえに三次元ジャンルにいたとき(サイト時代)に一度書いたネタなのです。
(内容全然覚えてないんですが、その時の自カプが旅行したのはオーストラリア)
ですが、最近某動画の影響で、これは絶対にろぷちゃんでやりたい!!と火がつき、
そーとーリメイクして書きました。
なので、あれ? なんか見たことある……と思った貴女と私は、運命の何色かの糸で繋がってます(雑)
それにしても行ったことのない国を舞台にするのは、やはりすごく気を使いますね。。
でもめっちゃ楽しかったです。
それではもう一度、ご読了ありがとうございました。
プロイセンくん視点をこれから読まれる方は、そちらもお楽しみいただけると幸いです!
ありがとうございました〜!