話題のギーク
――ぼくは、アルミン・アルレルト。ごく普通のハイスクールの学生だ。……いや、〝ごく普通〟は少し嘘をついたかもしれない。……ぼくはいわゆる『オタク』というやつで、学校でも『おいギーク』とよく絡まれる。ヤバイ絡まれ方をするときは大体、わかりやすく法律と刑事罰の話をしてあげると青ざめて帰っていくので、今までそこまでひどい被害を受けたことはないのだけど。
昼休みに入るチャイムが鳴った直後、学校の廊下は開放感から大変にやかましかった。ぼくはその中を突っ切って、自分の割り当てられたロッカーへ向かう。
これから食堂に行って昼食を食べるため、荷物をそこに片づけるのが目的だ。今日はミカサとエレンと同じ授業がなかったのでまだお昼の約束はできていないけども、おそらく二人も食堂にいるだろうから、そこで合流しようと呑気に考えていた。
廊下にずらりと並ぶロッカー。ぼくはその中からぼくに割り当てられているところへ到着して鍵を開けた。ガチャガチャと安っぽい金属音が鳴る。流れるようにそれの扉を開けて、自分のリュックサックの中に入っていた教科書をそこに移していった。
――そのときだ。
ぼくは視界の端に映った黒い影にハッと意識を奪われる。
思わず目を向けてしまったが最後、ぼくはその場で心臓を止めてしまう。……あ、いや、単なる表現なんだけれど、それくらい……胸が苦しくなるくらいに息ができなくなって、そこに視線を釘づけにされてしまった。
ロッカーの並びの端っこ、そこで目に留まったのは、よく見る真っ黒のギターケースを担いだ〝彼女〟の姿だった。
〝彼女〟の名前は、アニ・レオンハート。ぼくより一つ学年が上だけど、彼女がよく持ち運んでいるギターケースは大変に目立つので目に留まるようになった。……ギターケースはロッカーには入らないから、いつも持ち運んでいるのだと思っている。
……ぼくにはこの上なく大好きな漫画があり、その漫画が舞台化した際に、まったくもって好きでもなかったキャラクターを演じたとある役者に入れ込んでしまったことがある。……アニ・レオンハートは、その〝入れ込んでしまった役者〟に、驚くほど似ていた。
だから初めて彼女を認識したとき、ぼくは驚きのあまり、一瞬だけその役者が好きすぎて夢を見ているのではないかと錯覚したほどだった。ミカサやエレンにもその役者のブロマイドを見せながら尋ねたら『確かに似ている』とお墨つきをもらった。……それくらい似ていたのだ。
だからぼくは学校で彼女を見かける度に、『今日はラッキーな日だ』と機嫌がよくなった。……アニ・レオンハートは、ぼくにとって〝2.5次元舞台の延長線上〟でしかなかったのだ……始めは。
それが変化し始めるのにそう時間はかからなかったように思う。
ぼくはある日、彼女を見かけたときに抱く不思議な感覚に、唐突に気づいたのだ。その日、彼女を見かけて見惚れていたら、派手に教科書を落としてしまった。それがあまりにも派手だったせいで彼女はぼくを見て、一瞬だけ彼女と目が合った。
――そのときだ、どくっと心臓が跳ね上がり、ぼくは息ができなくなった。まるで身体が浮き上がるような浮遊感に晒され、身体が芯から熱くなる経験をした。……もちろん、そんな感覚、生まれて初めて経験したものだった。彼女はすぐに立ち去ってしまったけど、ぼくはしばらくその場から動けなくなってしまったほどのものだった。
それ以降、学校で彼女を見かけると『今日はラッキーだ』なんて思う間もなく、ただ頭が真っ白になって身体が硬直するようになった。そういうとき、決まって胸の高鳴りが自分の耳元でうるさく聞こえて、ざわざわと泣きたくなるような動揺に視界が簡単に奪われる。もう、彼女しか見えなくなるのだ。周りのすべてがただの色を持たない背景と化して、彼女だけがぼくの視界に残る。
……ぼくは、〝2.5次元舞台の延長線上〟にいたはずのアニ・レオンハートに――……現実の恋をしてしまったらしかった。
彼女の持つ瞳は空のような澄んだ色で、その無愛想の下に隠した彼女の思考、趣向、すべてが知りたい。なぜいつも一人でいるのか、なぜギターケースを担いでいるときがあるのか、なぜ、なぜ。ぼくの頭は彼女でいっぱいになった。
あるときこの学校の軽音楽部にアニが所属しているのではと思い、調べてみたことがある。すると彼女はそうではないのだとわかり、気になり放課後の様子を見ていたときに、学校の近くのライブハウスに入っていくのを目撃した。
それ以上はさすがに〝憧れ〟の域を越えてしまうと自分を戒め、ぐっと堪えてそっとしておくことにした。
それからときを重ねて彼女を見かけて硬直することにもかなり慣れたが、しばらく続く異常な脈拍数には未だに慣れなかった。
今もだ。ロッカーの並びの反対側で自身の荷物の出し入れを行なっているアニを、ドキドキとうるさすぎるほどの鼓動を聞きながら、ずっと目を離せずに見てしまっている。
ちらり、とアニの視線がぼくを捉えたのはそのときだった。
ドキ、と一際強く心臓が波打ったことで我に戻り、ぼくは大急ぎで視線を放してロッカーの扉を閉じた。
「い゛っっ!?」
突然指先に走った激痛に思わず声を上げてしまう。
ガタンっと派手な音を上げながら、そのロッカーと扉に指を挟んでしまっていたのだ。めちゃくちゃに痛くて情けない声を上げただけに留まらず、ぼくは思いきり飛び上がってしまい、そのせいで今度は情けなさや苛立ちが浮かんできてしまう。
よりにもよってアニが側にいるときにこの失態。普段から彼女に見惚れすぎている自覚があっただけに、どうしようもなくてちらりとアニを盗み見てしまった。
すると彼女は――くすりと笑ったのだ。笑って、でもすぐにばつが悪そうに顔を顰め直し、さっさと自分のロッカーの鍵を閉めてどこかへ行ってしまった。
……アニが、ぼくを見て、笑った……?
抱いていた感情がすべて一掃され、その疑問だけが頭に残る。
アニが笑うところなんて、初めて見た。ただただそれが衝撃的だった。しかも、それが、ぼくに対して……?
もう犯してしまった醜態など眼中になく、ぼくは胸の高鳴りのままに興奮していた。
アニが笑うところを初めて見てしまった!
そればかりが脳内を埋め尽くし、なんていじらしくて可愛いんだと、もう救いようのない脳内になっていた。ぼくは彼女が好きだ、好きなんだ。何度も頭の中に止めどなく浮かび、また身体が熱くなる。
そのあとも彼女の立ち去る姿から目が放せなくて見ていると、彼女はふり返った。しかもその視線は一直線にぼくを見て、そしてまた慌てるように前を向いた。
……それを見て、今度はこれまでの興奮がサアッと音を立てて引いていく。
……ぜったいこんな話したこともないような、しかも根暗なギークに見られているのは気持ち悪いに決まっている……。そう頭に過ってから、血の気はさらに引いていく。……ああ、またアニを怖がらせてしまったかもしれない。――こうやってたまに目が合ってしまうから……たぶん、ぼくの気持ちはアニにばれているのだと思っている。その度に、アニを見たときとは正反対な自己嫌悪を抱く。……アニを想うにしろ、どうしてもっとひっそりできないのかと己を呪う。アニだってこんなやつに見られても迷惑だろうにと、改めてロッカーに視線を落とした。
今度こそ指を挟まないようにゆっくりと扉を閉じて、そして鍵をかける。……いけない、また急転直下で気分が沈む。……これも恋煩いの症状の一つなのか、無駄に興奮してしまったあと、だいたい無駄に落ち込んで顔すら上げられなくなる。
ともあれ、ぼくは昼食を摂るために食堂に向かう。
食堂につくと案の定でミカサもエレンもいて、ぼくの分の席も取っておいてくれた。誘われるがままにぼくも購買で買ったパンを持ってそこに落ち着く。席に座り顔を上げると……なんとぼくの向かいに座るミカサの後ろの席に、アニが座っていることに気づいてしまった。
何度見てもぼくの心臓は飽きることを知らず、何度でもどきりと跳ね上がる。幸いなことにアニはこちらに背中を向けて座っているので、ぼくがここにいることはわかっていないだろう。……ただ、ぼくのほうがずっとそわそわとしてしまって、ミカサやエレンの話を半分くらいしか聞けていなかった。
アニはギターケースがあるので、いつも机の端っこに座る。自分の脇にケースを置いてやはり一人で何か昼食を摂っているようだった。
その後ろ姿ですら可憐でかわいい……などと目が放せないでいると、すっと横から、少し図体のいい男が現れて、
「……よう、アニ」
アニに声をかけた。
そいつは学園内で度々悪目立ちしている学生で、ぼくにも見覚えがあった。……というか、アニが軽音楽部かどうかを調べたときに見た、軽音楽部の現部長だ。……けれども、ぼくは彼とアニが話しているのを見たのは初めてで、思わずその様子を見守ってしまった。
――というか、『アニ』って。なんて馴れ馴れしいのだろう。ぼくだって頭の中ではそう呼んでいるけど、さすがに本人にいきなりなんて……ぼくが知らないだけでよほど仲がいいのだろうかと勘ぐった。
「……なに」
ちらりとそちらを一瞥したアニが、めんどくさそうにまた顔を下ろしたのが見える。
「なあアニ? お前ギターやってんだからさあ、なんで軽音部入んねえんだよ」
ああ、そういうことだったのかとぼくはすぐに悟る。確かにぼくもなんでアニは学校の軽音楽部に入部せずに、近くのライブハウスに通っているのかは疑問だったけれど……もしかして、とその原因が目の前にいるように思った。
「……さあ、なんでだろうね」
アニも曖昧な返事だ。よほど関わりたくないのだろう。
人様の会話を勝手に盗み聞きしているのはわかっていながら、腹の底がはらはらと落ち着かない。
「なあ、文化祭さ、俺とデュオ組もうぜ! 俺やりたかった曲があってさあ、アニなら面もいいし絵になると思うんだよな! きっと盛り上がるぜ!? な、どうだよ!?」
なんとなくその言い方が鼻につく。確かにアニはとてもかわいいしそれだけでなく、少し気だるげな雰囲気は色気もあって……――じゃなくて、確かにかわいいけれども、それにしたって、そんな言い方はなんとなく品がない。
「……興味ないね」
アニの様子から見ても、あまりその言い方は歓迎されているようではない。
「はあ?」
唐突に男が少し強めにアニの前に手を突いた。バンッと音が鳴るくらいには激しくて、このとき喋っていたミカサも言葉を止めたほどだった。
「興味ないって、お前それじゃあなんのためにギターやってんだよ!? せっかくなんだから一緒に文化祭出ようぜ!」
「……しつこいね。興味ないって言ってるだろ」
声色からしても、アニが相当に嫌がっているのがわかる。それにあれはさすがに勧誘にしては強引すぎるだろう。はらはらとした落ち着かない気持ちが、徐々にうずうずとした苛立ちに変わっていく。
「おい!? この軽音部部長の俺が自ら誘ってやってんだぜ!? ちったあ考えろよ!」
あんなに顔をアニに近づけて、ガンを飛ばすようにその男は圧力をかけ続けている。
けれどさすがアニというか、伊達に一人でいるわけでもないらしく、その男の言葉は完全に、もう綺麗さっぱりと無視していた。
……もちろん男には逆効果ではあったのだけど。
「おい、無視すんな!」
「……だって興味ないって言ってるだろ。これ以上は何言っても無駄だから黙ってんじゃないのさ」
「お前っ! 俺が直々に誘ってやってんのに……!」
「悪いね、ほか当たってくれ」
堂々巡りの押し問答が続いているのに、男は諦める気配がない。いつの間にか食堂の中は静まり返っていて、ほとんどがこそこそとアニとその男の会話を聞いていた。……それもそうだ、耳にして気分のいい会話ではない。ぼくだって早くどこかへ行ってくれないだろうかと念じまくっている。
「……そうか。お前、実はギターへたくそなんだろ。だから部長の俺とデュオするのにビビってんだな」
わざとらしくハッと鼻で笑ってみせるも、アニはまたしても完全にスルーだ。お願いだからもう諦めてくれと、ぼくもずっと目が離せない。
「なあ、心配するこたあねえって。俺がしっかり手取り足取り教えてやるから。どんな下手くそでも構わねえぜ」
「……はあ、」
アニが大きなため息を吐いた。
せっかくの休憩時間の、せっかくの昼食……その間にこんな絡まれ方をしたら、それはため息だって吐いてしまうだろう。
それを考えただけで、ぼくが先ほど抱いたうずうずとした苛立ちは膨れていく一方だった。ぎゅっと拳を握る。……アニを、助けに入るべきか。……ぼくが? 殴り合いにでもなってしまったら、完全にぼくに勝ち目はない……けれど、アニが困っている。
「おい、返事しろよ。それとも何か? そのギターケースはファッションか? 軽音なめてんのか?」
男の声がどんどん荒げられていく。
ぼくに勝ち目があるかどうかなんてもうどうでもいいような気がした。アニはきっと困っている。いや、絶対に不愉快だろう、こんなの。……それに、ほかの学生だって、ずっと委縮して様子を窺っている。誰かが助け舟を出さなきゃ。……そして、その誰かは、
「いい加減にしろよ!? 無視すんのやめろ!」
今度はダンッと強く机が叩かれる音が食堂に響いた。
「……あの、」
ぼくはもう居ても立ってもいられなくて、その場で立ち上がっていた。エレンとミカサが驚いた顔でぼくを見ているのもわかっていたけど、ぼくももう頭に血が昇っていて、それどころではなくて、
「……あ? なんだお前」
何を考えていたのか、ずげずげとその男の前に歩み出ていた。
「そ、そろそろ……やめて、もらえませんかね」
いざその男を目の前にすると、ぼくより頭一つくらいは背も高いし、情けないことに足が竦んだ。
「……お前に何の関係があんだよ」
……でも、ここまできたからには、もうぼくは身を引くことはできない。それに、アニが困っているのに、放ってなんかおけるはずないではないか。
「しょ、食事中にそんな話をされるの、ア……レオンハートさんも、不快だと思うし……言い方も、不愉快……かと」
「あ?」
強そうな相手だと上手く顔を見ることもできず、どもどもと要領を得ない言い方をしてしまうのは、ぼくの悪い癖だ。それが今こんなところで出てしまっている。
ぼくはそれを猛省して、
「つまり、」
しっかりとその男の目を見てやった。ぼくより頭一つ分くらい背の高いその男を、しっかりと見上げてやった。
「それ以上続けたら、あなたの行動がエスカレートしてしまいそうだし……そうなると場合によっては強要罪や暴行罪、侮辱罪とか……おそらく、あなたが思っている以上に幅広い種類の罪状に引っかかることだってあり得ます。だから、やめておいたほうが、いいですよ」
これは身をもって経験したことだけども、その行動がどれほど本人にとって不利かを説いてやるのは意外と効果的だ。
ぼくが何を言い出したのか瞬時には理解ができなかったのか、その男はぱちくりと瞬きをして見せた。ぼくが言ったことを考え、処理している最中なのだとわかり、ぼくはあと一押しだと、グッと足を踏みしめた。
「例え刑罰に該当しなくとも、今では精神的苦痛などに対してでも割と簡単に控訴されるのは当たり前の時代ですし……今ここで聞いている証人の数もかなり多いので……、」
ぼくはそう言って、この食堂の中を見回してやった。
ぼくの言った通り、食堂の中は静まり返ったままで、ほとんどの学生の意識がこちらへ向けられている。つまり、ぼくの言った状況はまったくハッタリでもなんでもなかった。……控訴する云々は別として。
「……えっと……?」
男は一歩だけ後ろに下がり、ぼくがやったように食堂を見渡した。ようやく自身がどれほど注目を集めていたのか理解したらしく、ぼくに向き直ったときも、先ほどまでの覇気がかなり削がれているのがわかった。
「……つまり、お前はよくお勉強してるおぼっちゃんなのはよくわかった。……だがすっこんでろよ、ギーク野郎。お前には関係ねえだろ」
言葉に合わせて、ドンと軽く肩を押された。ぼく一人なら『傷害罪になりますけど』と言ったところだけど、今は何やら少しかっこ悪い気がして、
「確かに、直接の関係はないですけど……!」
そのまま気丈に振舞った。今はぼくのことではない、アニを守るのが目的だ。
「……じゃあ何か?」
男はニヤリ、と意地の悪い笑みを浮かべた。何を言われるのだろうと思っていたら、
「お前もしかして、アニに気でもあんのかあ?」
意地の悪い笑み通り、くくくと笑いを含めながら言った。
図星を当てらえたせいか、ぼくはそこからみるみる内に脈が激しさを増し、異常なまでにどんどん体温が上昇していく。いや、こうやってアニのために立ち上がった時点で、おそらくそんなこと、気づく人は気づいている……いや、あまつさえ、アニは確定的にわかっているだろう。
「えっ、あ、……ぼくは……その……、」
……どうする? 言うか? ぼくがアニのために立ち上がった理由を知りたいというのなら、別に隠す必要はない。……きっと既にアニにはばれていることではあるのだし。
「あ? 聞こえませんけど? これだからどもり野郎のギークは気持ちが悪い。言いたいことがあるならはっきり言えっての!」
わははとわざとらしく笑って、周りに一緒に笑うように促していた。それほど多くではないけども、断り切れない何人かの学生たちはそれに合わせて、はははと声を揃えた。
……ええい、どうせアニに知られているのなら、笑われるだけ損だ。
「ぼ、ぼくは!」
ふつり、と何かが吹っ切れた途端、ぼくは顔を上げることができていた。
「ぼくは確かに彼女に気があります! というか好きです! だっ、だから! 彼女に迷惑をかけるのをやめてください!」
怖すぎてアニの顔なんて見られない。今までずっと顔を下げていたアニがぼくのほうを見たのは気づいたけども、見られるわけがない。ぼくは羞恥のあまり、ぎっとその男を睨みつけたまま硬直してしまった。
言ってしまった。……というか、叫んでしまった。
どうだ、こんなめんどくさいやつがアニの味方をしているんだぞ。早く諦めろ。ぐつぐつとそう念じながらその男に穴が空きそうなほど睨み続けた。
「……はあ? うわ、なに? まじで?」
先に根負けしたのは男のほうだ。ぼくから一歩と遠ざかり、視線も外してめんどくさそうに手をひらひらさせてぼくのことを笑う。
「お前妄想のしすぎだろ。いくらお前がでしゃばったって、お前みたいな頼れねえ王子様なんか、アニだってお呼びじゃねえぜ。でしゃばんなよ、かっこわりい」
またしてもほかの学生たちを誘導して、わははと声を上げて笑った。……それはもちろん、殴り合いになんてなったら敵わないのはわかっている。
「……確かにぼくは、腕っ節じゃあ弱いけど……」
「じゃあすっこんでろ!」
またガク、と肩を押された。……けど、ぼくの気持ちはもう既にがっちりと芯を固めていて、
「ぼくにだって譲れないものはある!」
そう言ってさらに睨み返してやった。
早く諦めてどこかへ行ってくれ、とその視線に込めてじっと見ていた。
「……なんだこいつ? あーあ、なんか白けちまった」
男はまた態度を変えて、今度は煩わしげに自身の頭をかいていた。もう一度周りを見回して、改めて自分に注目が集まっていることを確認すると、
「もういいわ、めんどくせ」
くるりと踵を返して食堂の出口のほうへ歩き始めた。
やっとか。やっと諦めてくれたのか。
ぼくが密かに気を抜いていたときに、そいつはまたくるりと身体を返して、
「……ああ、そうだ、お幸せにな、お二人さん。ぐふ、あはは」
最後にからかったつもりなのか、笑いながら食堂を出て行った。
……その男の姿が見えなくなり、辺りがまた一層静まり返る。そしてそれと同時に、唐突にぼくは我に戻った。
……〝我に〟戻ったのだ。
――……ぼくは今、いったい何をした?
サアっと、また頭のてっぺんから血の気が引いて、悪寒が背中を走る。
「……あんたさ」
「わあ、ごめん!」
ぼくを見ていたアニから声がかかり、条件反射のように謝っていた。しかも情けないことに自分の顔を隠しながら。……いやいやいや、あのあとでアニの顔を直視できるはずもない。
そもそも……ぼくは興奮に任せて絶対言わなくていいことを言ってしまった。たくさん言ってしまった。
「ぼく、絶対余計なことしたよね……!? 人前であんな、ああ、何やってんだぼくは……本当にごめん……! でも、見ていられなくなっちゃって……!」
本当にごめん、と何度も呟いている間にアニに腕を引かれて、向かいに座るように促された。ぼくは顔を隠したまま、それでも自分がやってしまったことを嘆いていた。
だって、こんなギークに『好きだ』と公言されたって、それこそ迷惑というものだろう。ぼくの考えなし。
「……いいんじゃない、人前とか気にしなくて。……まあ、びっくりはしたけど」
けれど、向かいから聞こえた声は、思っていたよりも落ち着いていた。
恐る恐る腕を下ろすと、アニお得意のポーカーフェイスなのか、それとも本当に何も感じていないのか、よくわからないような無表情でぼくを見ていた。
「あ、うん。そうだよね……」
……そうか、ライブハウスに出入りしているようなアニにとって『人前で』というのは日常に近い状態なのかもしれない。よくわからないけど、自分を納得させるためにそう考えた。
……それにしたって、だ。
こんな公衆の面前で告白なんてしなくてもよかったはずだ。『お願いだから今日のことは忘れてくれ』と宣うために口を開いたら、
「あんた、根性あんじゃん」
アニに先を越されてしまった。
「私はそういうやつ、嫌いじゃないよ」
ずず、とストローからジュースを吸い上げ、アニはどこかを眺めながらそう言った。
ぼくはというと……『嫌いじゃないよ』その言葉が頭の中で反響して、あっという間にそれ以外の思考がどこかへ飛ばされてなくなってしまった。……いや、だって、あ、あの……憧れのアニに、『嫌いじゃないよ』って……え!?
「……えっ、あ、そ、そんなっ、と、とんでもないっえっ、」
「いや、どもりすぎ」
「でも、そんな、びっくりしちゃって……ッ」
まさか眺めるだけで息が詰まっていたあのアニに、『嫌いじゃないよ』なんて言われる日が来るなんて、誰が思っただろう。少なくともぼくは思っていなかった。ずっとアニは、高嶺の花だと……影に日向に慈しむだけにしようと、思っていたのに……。
そうだ、ぼくなんかがアニのことを好きだなんて、そんな気持ちを秘めていること自体が迷惑なことなのだ。……『気持ち悪いギークに思いを寄せられている』なんて、そんなの格好のからかいのネタになってしまう。
「でも……これできっと君は、ぼくのせいでからかわれちゃうよね……本当に考えなしだった……ごめん、」
また謝っていた。だって本当に、そんなことにでもなったら申し訳なかったのだ。アニに迷惑をかけるような人間にはなりたくなかったのだから。
「……アルミン」
ドキリ、心臓が高鳴った。……アニが、ぼくの名前を知っていたことに驚いた。知っていただけではない……お、覚えていてくれた。直接話したのも、これが初めてなのに。
「う、うん?」
動揺しながらも返事をしてやると、くいくい、と指先で顔を近づけろと言うような仕草をされた。されるがままに顔を……というよりは耳を近づけると、
「からかってくるようなやつがいれば、目の前でキスでもしてやればいいさ」
小声でそう言った。
「えぇえ!?!? まっ、なっ、え!?」
「それこそ、皆が見てようが関係ない」
今ぼくは何を言われたのか、脳内処理が追いつかずに完全に頭の中はショートしてしまった。寸前ではない、ショートしてしまった。……アニが!? キスしてやればいいって!? だ、だ、誰と!?
いやそんなまさか、ぼくとキスをしてやればいいと言ったのかと期待してしまい、身体中どころかぼくを取り巻く大気まで沸騰しそうなほどに感情が高ぶってしまった。
「いや、本当に待ってアニ……!? ぼく状況が読めてないんだけど……っ」
それは一体どういう意図で言ったのか、様々な可能性を考えてしまって頭がくらくらしてきてしまう。
「安心しな。本気じゃないよ」
彼女はきっちりとそう前置きした上で、
「……ただ、言っただろ? 私はあんたみたいに根性あるやつは、嫌いじゃないって」
そうしてちらりとぼくのことを一瞥した。
ぼくがアニのことを『好きだ』と公言した上で、ぼくのことを『嫌いじゃない』と何度も言ってくれるアニ。……ぼくは少なくとも、拒絶はされていないと……それくらいは思っていいのだろうか。
「……えと、あの……それって、」
お伺いを立てるように控えめに尋ねようとしたら、アニは自分が食べていた昼食のゴミをまとめて、
「アルミン。放課後、ちょっと会って話そうか」
立ち上がってギターケースを担ぎ上げた。いつも見る彼女のスタイルそのままだけども、こんな間近で、しかもこんな正面から拝むのは初めてで、
「え、あ、はいっ、ぜ、ぜひよろしくお願いしますっっ!!」
驚きと興奮のあまり、ぼくもつられて立ち上がって、しかもピンと背筋を伸ばして直立してしまった。
アニはそんなぼくを見ておかしく思ったのか、少しだけ頬を緩めて、
「なんだい。急に敬語なんて変なやつだね」
まとめたゴミを拾い上げて、ゴミ箱のほうへ歩き始めた。
そのあとを追っていいのか、それとも放課後まで大人しく待つべきなのか、どうしたらいいのかいまいちよくわかっていなかったぼくは、とりあえずアニのその尊い後姿をただ見つめてしまった。
そうしたらゴミを捨て終えて食堂から出る直前のアニはぼくにふり返り、ジェスチャーで『ここ』と示してきた。……それはおそらく、放課後の待ち合わせ場所のことだろう。
ぼくは胸の高鳴りに合わせて首を縦に振っていて、ついに彼女の姿が見えなくなっても、一人でほわほわと夢の世界に飛んでいきそうな心地になっていた。
……もしかして、こんな始まり方もあるのだろうか。こんなぼくがそんな高望みをしてはいけないなんてわかっているのに、そう期待せずにはいられなかった。
おしまい