第二話
その機会はついにやってきた。
俺はアルレルト邸の玄関の前に突っ立って、未だにちゃんと顔を上げて話さない同級生が出てくるのを待っていた。少し固めのチャイムのボタンは汚れていて、もう何年も掃除をしていないらしい玄関前のバルコニーを見回す。角には電灯がついていたが、周りには細く量の多い蜘蛛の巣が絡みついており、窓のサッシにも汚れがたくさん積もっていた。
軽く引いてしまったそれらに見なかったふりをして、目の前の玄関だけに集中する。
――ジジジジジ
チャイムを鳴らして腕時計を覗き込む。時刻は約束の時間より数分だけ早かった。
……初めてアルミンに勉強を教えてもらってからというもの、俺はアルミンと距離を縮めることに尽力した。毎日放課後一緒に宿題や課題をして、校門まで一緒に歩いた。……そうしてようやく転機が訪れたのだ。――学期に何回かだけ訪れる、試験週間が目前に迫っていた。
俺はこれを口実に使わない手はないと確信を得て、休日である土曜日にも勉強の約束を取り付けた。……そう、俺が今まさに玄関前に立っている、このアルレルト邸で。
アルミンの秘密をなにか掴むには必須とも言える自宅捜索が、いよいよ叶うときがきたのだ。
「はーい……」
のっそりと玄関の扉が開いたかと思いきや、続け様に顔色の悪いアルミンがそこから顔を出した。
「……お、おう……だ、大丈夫か?」
「……う、うん……大丈夫だよ……」
俺の顔を確認して諦めたように玄関を全開にすると、ぼそぼそと張りのない声でそうこぼしながら俺に扉の主導権を譲った。本人はさっさと廊下の奥に入っていってしまい、俺は置いていかれないように慌てて玄関の鍵を締めてその影を追う。
……家の中の第一印象は、とにかく『暗!』だった。……というのも、どこからも採光できない廊下は電気が灯っておらず、各部屋から漏れ込む自然光があるだけだったからだ。電気くらいつければいいのにと思いながら、アルミンが曲がって入った部屋に俺自身も飛び込む。てっきりアルミンの自室かと期待したが、そこはただのリビングルームだった。大きなスライド式のガラス戸のおかげで刺さるような日差しが部屋に照り込む。その余りの眩さは、日当たりの良好さを物語っていた。
だが、そこにあるテーブルの前に腰を下ろすアルミンは未だにどんよりとしていて、すこぶる体調が悪そうだった。
そのテーブルの向かいに入り込み、
「……お前、本当に大丈夫か?」
ローテーブルに合わせて低めに設計されているソファに俺も腰を下ろした。アルミンが座ったものと対になっている。
「あ、うん……ちょっとね、昨日寝るの遅くなっちゃって……」
「……まさか、勉強?」
尋ねるとアルミンは頭が回っていないのか、変な間を空けてから本当に眠たそうな面持ちで頷いた。……それなら気をつかって帰ってやることもないかと綺麗さっぱり割り切って、俺はさっさとそのテーブルの上に勉強道具を広げる。
「大変だな。選択科目でなんかやべえのでもあんの?」
「…………まあね」
アルミンも既にテーブルの上に置いてあったテキスト類を引き寄せて、俺には目も向けずに応える。早速とぱらぱら教科書のページを捲り始めたまさにそのとき、伏せた瞳に横から日が差し込んだ。混ざりけのない金髪のまつ毛もきらきらと輝きを集めているようで、そんな光景を初めて見た俺はなかなか目が離せなくなっていた。――……それが寝不足によってやつれたアルミンではなく、小さくてもいいからおっぱいのある女子だったらどれほどよかったか……と思ったところで、簡単に視線は言うことを聞いたのだが。
――アルミンに近づくという目的の副産物として、俺は今、明らかに人生で一番勉強をしている自覚がある。そのお陰か、出される課題の理解度は半端なくよくなったし、テスト勉強も、正味な話、単なる確認作業と化していた。今日も機械的にテキストの重要事項を書き出して確認作業をしている俺に付き合って、アルミンも真面目にノートにボールペンを走らせている。
頭のいいこいつなら、そろそろ俺が〝誰かに勉強を見てもらう〟必要はなさそうだと気づいてもいいころだろうに、疑いも文句もなく、こうやって俺が隣で勉強をすることを受け入れてくれている。
「……そういえばさ」
「ん……、」
一度集中を始めたアルミンに話しかけてもろくに会話ができないのはわかっていたが、思考の流れで思わず切り出していた。
「この間、エレンに突っかかられたんだけど、」
俺は完全にペンを投げ出して話し始めていた。この話題にはさすがのアルミンも興味を示さないわけにもいかなかったらしく、「え、」となんとも気の抜けた声を発しながら手を止めた。
少しだけ顔がこちらに傾き、メガネのレンズに光が滑って、先ほど見入っていた瞳とどこか雰囲気を変えられてしまったようだ。
「それがさ、アルミンにあんまり馴れ馴れしくすんなってさ」
「……エレンが?」
「ああ」
できる限り顔を上げたくないのか、それは控えめにしつつ俺のほうを見るので、教室で女子が好意のある男子にするような上目遣いを見せられた気分になった。……なんだ、このもわもわは。そう自問せずにはいられないような、何やら変な心地に胸をいっぱいにされる。
だがそんなことは気にしていられない。本当に男にあるまじきやつだなと心持ちをすり替えて、予定通りの会話を続けた。
「あいつなんなの? お前の保護者かなんか?」
「え……幼馴染だけど……」
「んなマジレスはいいんだよ」
とにかく話している間にむかつくあの面を思い出して、そのときに感じた苛立ちが再び沸き起こるのを認識した。ミカサだけでは飽き足らず、今度は俺がアルミンに近づこうとしたらアルミン相手にまで牽制してきやがって……。つくづくいけ好かないやつだ。
「あいつなんであんなに威張ってんの?」
鼻息を荒立てたままアルミンに尋ねてやったら、今度はアルミンが握っていたボールペンを持て余すように宙に浮かせた。言葉を選ぶように考え込みながら、
「……うーん……エレンは良くも悪くも意志の強い人だから……よく威張ってるとか、自己中心的って誤解されちゃうんだ」
アルミンにとってはフォローする価値のある相手なのはわかる、よくつるんでいるのはわかっている。だがそんな言葉遊びのような解説を受けたところで……納得がいくはずもない。
「……誤解……ねえ……」
「信じる信じないはジャンの自由だけど」
「ミカサもなんであんな野郎がいいんだか」
「ミカサ?」
浮かせていたペンを再び紙面に下して、アルミンは俺の真意を確かめるように顔を覗き込んできた。
唐突に現れた円らで女ったらしい瞳にぎくりと身体が驚き、咄嗟に後ろに仰け反ってしまう。ぱちくり、とアルミンの目玉が瞬くと同時に我に戻り、慌てて「あ、いや、なんでもねえよ」と視線と併せて話をもそらそうと考える。
「なあ、なんで勉強すんの、お前の部屋じゃねえの?」
いろんなものを誤魔化すためには話題は何でもよかったのだが、深く考えなかったが故にずっと抱いていた疑問が拾われた。
それに対するアルミンの反応は思っていたよりも訝し気で、すっと姿勢を正しながら唇を尖らせる。
「…………ぼくの部屋である必要が?」
どうしてそんな反応を見せたのか、いまいち俺の中での辻褄は合わなかったものの、
「……いや、まあ、ねえけど。お前学校でも有名なオタクだからさ……な、なんか面白えもんでも見れねえかなと思って……」
これくらいなら怪しまれないはず、と不自然のない程度に言い訳を並べておいた。反対にこれくらい伝えていたほうが怪しまれずに済むかもしれない。……実際、こいつは学校では有名なアニメオタクで、だからこそ俺みたいなやつにからかれちまったりする。……むしろこれまで『面白いものが見たい』と言わなかったほうが変だったかもしれない。
自分がファインプレーをしたという確信を得ていたにも関わらず、アルミンはさらに不愉快そうに眉間の皺を深くして、ボールペンを握り直した。
「……ジャンは、勉強しにきてるんでしょ?」
「そうだけどよ」
既にノートに視線すらも落とされて、俺のことをその言葉だけで強く咎める。まるで釘を刺されたような気まずさを覚え、観念して投げ出したボールペンを探した。
「……それに、」
それを拾い上げたところで再びアルミンが言葉を紡ぐ。
注視してやっても本人の態度は先ほどまでと変わらず、姿勢を正しつつ、つんけんとしたままだった。
「ぼくはオタクと言ってもアニメとかじゃないんだ。どちらかというと機械の組み立てとかが好きなオタクなんだよ」
「……へえ」
俺にとっては何オタクだろうとすべて丸っと一括りにオタクなのだが、なぜかアルミンはそこまで言い及んでおきたかったらしい。……なるほど、オタクには種類があるのか、などと生まれて初めて思い至った俺に何か効果があるとは思えないが、ひとまず噂とは違うことだけは理解できた。噂は所詮噂ということだ。
どうやら少し機嫌を損ねてしまったらしい。それは肌で感じており、今後のことを考えて一言謝罪でも入れるべきだろうかと悩んでいる内に、アルミンは颯爽とテキストに視線を走らせ始めてしまった。……こうなったら改めて注意を引くのも煩わしいだろうかと思考し、俺も自分のテキストを拾い上げて会話は終了した。……というか、なんで俺がこんなにアルミンに気を使わないといけないのかと右から囁かれた気がして、それは俺がこいつの弱みを握る必要があるからだと左から答えが聞こえた。
仕方なくまたテスト勉強に没頭しようとテキストの紙面に目を走らせる。
次にアルミンが口を開いたのは、それから二分も経たない内だった。
視界の隅でボールペンがころころと転がるのを捉えて、
「集中力切れちゃったし、そろそろお昼ごはんにでもしようか」
顔をそちらに向けるとアルミンが笑っているのを見つける。……どうやら不機嫌だった自分を早くも払拭していたらしく、先ほどまでの語気が嘘かのような機嫌のよさに拍子抜けした。
……最終的に俺が悪かったのかどうかはわからないままだが、それ故に切り替えが早いのは助かる。
ほら見てみろよと言わんばかりに壁掛けの時計を示されて、既に正午過ぎになっていたことに気がついた。……気になるほど腹が減っていたわけではないが、だからアルミンもピリピリしていたのだろうかと見当がつく。
「……ああ、そうだな。もうこんな時間か」
俺もアルミンに倣いボールペンを置いて、それを挟んだままテキストを閉じた。
そういえば昼飯のことは何も考えていなかったが、はてさてどうしたものかと立ち上がるアルミンを目で追いながら考えていると、アルミンは何の迷いも見せずに一直線に歩んでいく。そこにあるカウンターの向こうはキッチンになっていたのだと知り、さらにアルミンは冷蔵庫に向かっていたのだと分かった。
「お昼、冷凍のピザくらいしかないけどいいかな?」
がらら、と冷凍室の引き出しを開く音も聞こえた。
「食っていいの?」
「うん。ぼくだけ食うわけにはいかないだろ」
続いてガサガサとビニールが乱暴に扱われる音が届く。振り返ったアルミンの手には、スーパーでよく見るお徳用の冷凍ピザが二枚。どうやら一枚ずつ温めてくれるらしい。
座ったまま様子を眺めていれば、アルミンはそれの封を切ると背中を向けて二段構えになっているオーブンレンジの一段ずつにそれぞれを突っ込み、ぴぴぴ、と簡単に操作をしてまた振り返った。――作戦の一部とは言え、こうやって〝あの〟アルミンの家で一緒に昼飯を食べるというのは、俺の中ではなんとも不思議な体験のように思えた。
「――あれ、アルミン、」
「ん?」
何の気なしに見ていた光景に引っ掛かりを覚えて、不意に声をかけていた。
視界の中でアルミンは、棚から出したピルケースからいくつかの種類の錠剤を取り出し、えらく慣れた手付きでそれをコップ一杯の水とともに流し込んでいたからだ。
ごくり、と嚥下したあとに俺のほうへ改めて顔を向けるので、
「……それは? 風邪でも引いたのか?」
抱いた疑問をそのまま伝えてやった。
するとアルミンは空になったコップを洗い場の中で簡単に濯ぎ始め、流れる水音に紛れ込むような声量で「ううん。持病の薬」と静かに教えてくれた。
理解した言葉をくり返しそうになったが、それには二の足を踏む。……確かに弱みを握ってこいとは言われたが、〝そういう部分〟に果たして踏み込んでいいのかどうか、俺のなけなしの良心が立ちはだかったからだ。……ただ、よほどわかりやすい顔をしてしまっていたらしい。蛇口を捻って水を止めたアルミンは、今度はピザ用の大皿を出しながら続けた。
「……説明するの面倒だし、普段は人に見られないように飲むんだけど、最近ジャンとはよく一緒にいるしさ、もういいかなって」
ちくり、と胸が痛む。そんな風に言われるとまるで信頼されているようで戸惑ってしまった。……いや、信頼されるつもりでこうやってここまで来たわけだが……少し、思っていたものと違っていたので驚いてしまったのだと思う。
「……へ、へえ……そんなに、飲むのか」
「うん、飲むよ〜もう慣れたから別にいいんだけど」
幸いにして一連の会話中は背中を向けられていたので、例え不自然な反応をしてしまっていても見られてはいない。……だが反対に、見る見る内に俺の中に罪悪感のようなものが芽生え、その罪悪感のようなものは、アルミンが俺のためにピザを皿に乗せている様子を見ていれば見ているほど、大きく膨れていくような気がした。なけなしと思っていた良心は、どうやらもう少しだけ割合を持っていたらしい。
ピザできたよ、と両手に皿を持ったアルミンが振り返り、のこのこと俺のほうへ向かってくる。どんな顔をしながらそれを俺に教えたのか気になって、その表情に釘づけになってしまった。
……目前にほくほくのピザが置かれる。具材なんてサラミが三枚にあとはほとんどチーズしか乗っていないような、やはり明らかに徳用の安いピザだった。それをさあどうぞ、と振舞ってくれたが、俺の中で何かが停止したままで、じっとそれを眺めていた。
本当はアルミンが言っていた『持病』について、もっと詳しく知りたいという衝動があった。だが、これ以上は俺に知る資格も権利もないことは明らかだ。……むしろ、どうかそれ以上は話さないでくれと願うような気持ちになってさえいた。……どうかこれ以上、俺を信頼しないでくれ。喉の底までそんな言葉がせり上がっている。どうしてだろう、もっと信頼してもらわないと困るのは俺のほうなのに。
「……食べないの?」
自分の分のピザを切り分けながら、アルミンは俺の手元と目元を交互に見比べた。それを見て、俺は立ち所に冷静になる。……こんなに動揺していたら怪しまれてしまう。『持病』とは言われたものの、そんな大したものではないのかもしれない。……例えば『花粉症』だって持病だ。
なんと言っても、こいつはほかの生徒たちと同じように学校に通い、あまつさえ首席に身を置き続けている。
「あ、いや、食う食う。いただきまあす」
あからさまにがっついて見せ、あちぃっ! とお約束の行動をとってしまった。慌てて手放したピザが呆れてこちらを見ているようだ。隣ではアルミンが「大丈夫?」なんて笑っている。何故だか未だに、少しむずむずと居心地が悪かった。
……と、そこへ、ガチャリ、と玄関のほうから金属の噛み合う音が聞こえる。続けて重たい扉の開閉音も響き、
「――ただいまぁ」
親にしてはかなり老け込んだ声が廊下を通って、ここリビングに届いた。すっと姿勢を正して身体の半分を廊下のほうへ振り返らせたアルミンは、ごくごく真面目な顔で俺のほうをちらと見てから、
「じいちゃんだ。おかえりー」
少し大きめな声で廊下へ向けて言葉を飛ばした。
「……じいちゃん?」
「うん」
道理で声が老け込んでいると思えたわけだ。てっきり親だと思っていたが、どうやらアルミンはじいちゃんとも一緒に暮らしているらしい。
ど、ど、ど、と重たそうな足音が存在感を連れて廊下を歩いてくる。
「土曜は仕事が早いんだ」
アルミンが一言添えてくれた直後に、そのいかにも温和な笑顔がリビングを覗いた。
「アルミン、友だちかの?」
「うん。今日友だちが勉強しにくるって言ったよ」
「おお、おお、覚えとるぞ」
それから三言くらい挨拶を交わすと、アルミンのじいちゃんは「ごゆっくり」と残して、のそのそと自室に向かったようだ。
声の通り、見た目もかなり老け込んではいたのだが、先ほどアルミンが小耳に挟ませてくれた『土曜は仕事が早い』から察するに、あんなご高齢でも何らかの仕事をしているらしい。確かに元気そうは元気そうではあったが、年相応というのか、それは俺の母ちゃんや父ちゃんの世代とは比べ物にならないくらいの〝元気さ〟だ。
「――じいちゃん、何の仕事してんの?」
単なる興味本位で尋ねてみると、アルミンは「図書館の司書だよ」と言葉に似合わずピザを頬張りながら教えてくれた。それを聞いた途端に、図書館の受付カウンターの中に座るアルミンが鮮明にイメージできた。……確かに、こいつによく似合う……あ、いや、今はじいちゃんの話だが、じいちゃんに似合うということは、アルミンもよく似合うに違いない。
だが、『将来、何になりたい?』という質問は、直接アルミン本人に向けることができなかった。つい先ほど聞いた『持病』という言葉が、俺の中で今になっても消化できていないことを痛感する。きっと大袈裟なのだろうが、なんとなくこいつの口から「将来の夢なんて」と聞く勇気が湧かず、そこで怯んでしまっていた。
その後俺たちは夕方ごろまで黙々と……いや、時には談笑も挟みつつ、何とか穏やかにテスト勉強を進めることができた。最後のほうはお互いにテキストから勝手に問題を作り上げ、クイズ形式で出題し合ったり、それなりに楽しみながら自習学習できたと思う。
帰る前にばっちりと「明日も来ていいか?」と尋ねた俺は、「え、」と一時微妙な顔はされたものの、またここに訪れる約束を取り付けることに成功した。一刻の時間も惜しい、しっかりと抜け目なくことを進めていかねばならない。
そして今日この日は、初めてアルミンの〝隠し事〟を一つ共有された日でもあった。内容としては少し的外れではあったし、申し訳なさがどうしても払拭できないが、それでも〝隠し事〟は〝隠し事〟だ。アルミンとの距離が一つ近づいたことには変わりない。このままことが進めば、本来の目的である、もっとからかい甲斐のある秘密にたどり着けるはずだ。俺はその先を深く考えることなく、半ば強引に自分を納得させることで満足感に浸りながらアルレルト邸を後にした。
そうして翌日の日曜日だ。
また同じようにアルレルト邸の玄関前に立っていた俺は、相も変わらず手入れされていない玄関先をなんとなく眺めながらアルミンが顔を出すのを待っていた。出迎えてくれたアルミンは昨日よりは少しばかり顔色をよくしていて、昨晩はよく眠れたのかと勝手に解釈して意味もなく笑ってしまった。アルミンに『何ニヤニヤしているの』と指摘されて初めて自分でも自覚したが、どうしてそうしてしまったかにはほとほと見当も付けられない。
……そんなことはさておき。
飽きもせずに午前中から押しかけていた俺は、昼飯の時間になると昨日のお返しにと、母ちゃんが作ってくれたサンドウィッチをアルミンに振舞ってやった。……半分は、無理やり俺の行き先や昼飯の入手方法を聞き出した母ちゃんが、朝強引に持たせたものではあるのだが……アルミンも美味しい美味しいと頬張ってくれたので、なんだか俺が褒められているような気になって、少しむず痒くなった。
「――そういえば、ジャンの家にも行ってみたいな」
サンドウィッチも残り二切ずつくらいになったころだったか。アルミンがサンドウィッチの感想を一通り述べ終わったあとにそう提案した。……確かに俺がアルミンの家に遊びに来ているのだから、アルミンが俺の家に興味を持つのは『仲良くなる』過程では何らおかしなことではないはずだ。
ただ、残念なことに俺のほうは『仲良くなる』ために近づいているという心持ちが乏しかったせいか、内心少しだけ動揺してしまった。いくら近づくためだと言っても、あんな恥さらしな母ちゃんに会わせるなんてご免だからだ。
なんとか平静を装うことでその場を凌ごうと会話を繋ぐ。
「俺の家? あーうん。いいけど……母ちゃんいねえときなら」
「ええ、お母さんに会っちゃだめなの?」
また一口、母ちゃんが詰めたサンドウィッチをハムスターのように頬張りながら、アルミンは俺の眼を覗き込む。昨日確信したばかりのことだが、身長差のせいか、アルミンは俺に何かを尋ねるとき、いつもこの仕草をする。男にあるまじきと銘打ったその上目遣いのような仕草は、これまで何度も俺の前で見せられていたものだ。その度に俺はなんとなく変に照れ臭くなって目を逸らしていた。今回もそうだ、特に興味もないのに、本棚の中に収められているえらく年季の入ったトロフィーを見つめながら答えてしまった。
「ああだめだね。何を言い出すかわかんねえお節介ババアだ」
ようやくまたアルミンの元に戻った視界が捉えたのは、
「ええ、逆に会ってみたいよ」
唇をわかるかわからないかくらいだけ尖らせて、文句を言うように惜しむアルミンの姿だった。今までより若干だけ乱暴気味に手に持っていた残りのサンドウィッチを口の中に押し込む。
俺も残っていたサンドウィッチを手に取り、やや乱暴な手つきでそれを口に運んだ。そんな幼稚な態度を見せてまで駄々を捏ねることでもないだろうと、不満が伝染していることは認める。
「ってか、そもそもお前の母ちゃんにだって会わせてもらってねえしな?」
思いついたことを深く考えずにポン、とそこに置いただけだった。後からだんだんこみ上げてきた苛立ちのせいか、それまでこのサンドウィッチに抱いていた『美味しい』という感情が、既にどこかへ逃げ出していた。せっかく美味いサンドウィッチだったというのに。
「…………ぼくのは、『会わせない』んじゃなくて『会えない』んだよ」
「……は?」
それなのに、これまでの調子とまるで違う声色で零すものだから、不意に注目を奪われる。
アルミンはそこにちょこんと座り込んで、まるでどんどん身体が小さくなっていくようにさえ見えた。どうしてこんなに世界から浮いて見えるのだろう。疑問が浮かぶばかりで、答えにたどり着くことはない。
――『「会わせない」んじゃなくて「会えない」んだ』
その言葉だけでは事情はわからないはずだ。……もしかしたら両親ともに海外に赴任しているだけなのかもしれない。……だが、アルミンのこの零したときの様子から、ただのぼんやりとした勘だけでそうではないような気がした。
「え、お前、もしかして、」
「言ってなかったけど、実はもう両方ともいないんだ」
顔を上げてそう告げた途端、世界の中で浮いていたように見えたアルミンが、すっと留まるようにまた光景の中に溶け込む。結局なぜそんな風に見えたのかわからないまま、ただただ静かな安堵を味わった。
「そう……なのか」
「うん。だから、じいちゃんにとってもぼくは唯一の身寄りで、だから、大切な家族なんだ」
思い切って打ち明けるようにアルミンは言い、俺はそれ以上見ていられなくて視線を手元に落としてしまった。相槌だって、どう打てばいいかわからない。
「……ふうん。そっか……」
何の配慮も味気もなくそう呟くしかなかった俺は、自分の手の中には母ちゃんが作ってくれたサンドウィッチが握られたままだったことに気がつく。
俺の母ちゃんは鬱陶しいほどに元気だ。父ちゃんはそれこそ単身海外に赴任しているので滅多に会わないが、別に話そうと思えばインターネット経由でいつでも話せる。じいちゃんばあちゃんも、今時珍しいくらいに持病知らずで毎日を満喫していた。……そう考えたときに、この手の中に握られたサンドウィッチを見て、どうしても居たたまれなくなってしまっていた。
――そこでふ、と、リビングの中から音がなくなっていたことに気が留まる。
居たたまれなくはなったが、ここで沈黙してしまうのも気まずさを冗長させるだけだ。何でもいいから声を出さねばと気を改めて、思い切って顔を上げた。
「……あれ、なんか、悪りい」
それに倣い、アルミンも何事もなかったかのように顔を上げた。最後の一切れをもぐもぐと頬張りながら、
「あ、ううん、別にいいよ」
そう軽く言った。ただそのあと間もなくして、
「物のついでだから聞いてくれるかい」
空になったランチボックスを眺めた。
少し身構えたが断るわけにもいかず、「お、おう」と俺にしては情けない声で答えてしまう。だがそんなことを気にしたのは俺だけだったようで、アルミンは一度俺を打ち見してからすぐさままたテーブルの上に視線を置いた。
「じいちゃんは実は今、闘病しているんだよ。本人は元気に振る舞っているけど、もう先は長くないって医者は言うんだ」
……ほら、やはりまたそんな内容だ。
それは俺が欲しかった類の〝秘密〟ではない。アルミンが気を許してくれればくれるだけ、仲間たちが望んだ、もっとライトな、例えば『ダサいギーク』としてのそれらを手に入れられると思っていた。だが実際は、そんなものは出てこないのかもしれない。……聞けば聞くほど、俺が一人でどんどん息苦しくなっていくような、そんな〝秘密〟ばかりだ。……これ以上は、関わらないほうがいいのではないか。頭の片隅でそう警告が鳴り響く中、それでももう反対側の隅では、抑えられない衝動が働きかけている。
「……そ、そうなったら、お前は」
問わずにはいられなかった。そんな俺を見て、アルミンは重そうに視線を上げ、本当に聞くの、と問いかけるようにしばし口を瞑っていた。……その表情に引き込まれるように釘づけになっていた俺は、それをまじまじと見返すだけだ。
きっとまた俺自身の首を絞めるだけの回答が返ってくることが予想できているのに、それでも気になって仕方がなかったのだ。両親が『もういない』こいつは、もしじいちゃんまで亡くしてしまったら……。
「そうだねえ、もうこの歳だし、両親とじいちゃんが遺してくれたお金でひとり暮らしかな。今更どこかの施設に入ることはないと思う」
一見いつも通りの調子のように聞こえたが、俺を捉えた先ほどの眼差しのままだったことで、それが〝いつも通り〟でないことは感じ取っていた。この声の抑揚から、それが言いたいことの本分でないことも。
それもあり、ただ静かにアルミンが言いたいことを聞いてやっていたら、一度呼吸を置き、気を改めるようにして続けた。
「幸い、ぼくも先は長くないしね」
そのときに浮かべた複雑な笑顔に気を取られて、一時、何を言ったのか理解していなかったようだ。たった今アルミンが紡いだ言葉が耳の奥で反響し、それが治まるころにようやく、俺は肩を使って思い切りよく息を吸い込んでいた。
「……はあ!?」
アルミンは言ったのだ、『ぼくも先は長くない』。それはつまり、
「え、あ、も、もしかして、いつも飲んでるっていう、あの薬……」
昨日知りたかった話の先だった。――……ただ、こんな状況では知りたくなかった。……ならばどんな状況ならよかったのか。今はそんなことを考えている余裕はなく、ただ思い出していた昨日の光景から最悪の想像をしてしまっていた。
なのにアルミンときたら、一度窄めた難しそうな笑顔をまた貼り付け直して、
「えへへ、ついに言っちゃったなあ」
などと、呑気に笑っている。……いや、難しそうなので、笑おうとしていると表現したほうが正しい。
言葉を失っている間にも、アルミンは人差し指を本人の唇の前に立てる所作を取り、
「これ、本当に少ない人数の人しか知らないんだ」
抜かりなく俺に口止めを施した。それを眺めながら、俺の心臓はバグったように早鐘を打っていて、到底すぐには治りそうにない。初めて見るアルミンの一連の表情や行動にも、うまく情緒が反応しない。
ただ、そこで勢い余って前のめりになっていたことには気づき、おずおずとその場に座り直しはした。
待て待て、会話をするにはまず自分の頭の中から整理しなければならない。示したい反応は数多くあれど、その中でも最も優先される行動は、俺の中に蔓延る山のような疑問たちを解決してやることだった。その中でも最たるを引っ張り出してくる。
「……どこが、悪いんだ」
ここまで聞かされたのだから、今更話したくないということはないだろう。俺も、もうこの衝動を抑える意味を見出せなかった。
「内臓をちょっとね」
顔を上げている気力が保てないのか、度々視線は落下しては戻ってとくり返していた。
「――改善する薬はまだ開発されてなくて、症状を抑える薬しかないんだ。でも、その薬は肝臓に負担をかけちゃうから、ぼくは延命と引き換えに肝臓を捨てている。どちらをとっても長生きはできないから……より長く生きられる選択肢を取ってる形かな」
……全く持って無知な俺は、そんなこともあるのかと驚きを抱いていた。……より長く生きていられるほうを選ぶなんて生き方、考えたこともなかった。そんな限られた時間の中でアルミンは日々を送っていて、そんな限られた日々の中で、学校生活を大事にしているのだ。つまり、学年首席を保ち続けているのも、そういう執念のようなものの現れなのだろう。
返すべき言葉が見当たらず、俺は目の前のこの〝ダサいギーク〟を見ていることしかできなかった。
「……君がそんな顔をすることはないんじゃないかい」
なんとも落ち着いた物腰でアルミンが諭す。
「そ、そうだな…………そうだけど……、」
ぐるぐるとして落ち着かない頭の中で、最も存在感を放っていた次の疑問を掴み取った。
「何歳くらいまで、その、生きられんの……?」
恐る恐るその問いを投げかけると、今度ははらはらと瞳の光を揺らしながら、
「うーん、医者が言うには、三十過ぎくらいが限度だって」
俺の視界をしっかりと掴んだまま教えた。
――三十過ぎというと、おそらくちょうど母ちゃんが俺を産んだくらいの年齢のはずだ。今の俺たちの年齢から考えると、アルミンの寿命はもうほぼ半分は使い切ってしまっていることになる。百年生きるとしたら、もう五十年は使ってしまっているということだ。
……あと十五年?
言葉を置換して改めて考えると、たちまち身体から力が抜けた。
……あと十五年しかない人生を、アルミンは謳歌しようともがいている。
うまく自分の中で感情を処理できず、得も言われぬ気持ちの渦が胃を押し上げてくるようだった。
実は昨日体調が悪そうだったのも、その持病と関係があったのだろうか。俺はそんなこととは知らなかったとはいえ、きつそうなのに気も使わずに居座ってしまい……なんと情けのないやつだと自分に対する嫌悪感を覚えた。
「……じゃ、ジャン? 大丈夫?」
向かいでアルミンが俺に気遣い、様子を伺っている。今日はかなり顔色がよくなっているが、昨日無理をさせてしまったかもしれないという思いから、俺は居ても立ってもいられなくなってしまった。
「ああ、悪い。俺最近調子乗ってたよな。今日はもう帰るわ」
てきぱきとランチボックスに続き勉強道具をカバンの中に詰めていく。
「……え? 帰る、の?」
確かに俺がこんなことを言い出すなんてアルミンからしたら驚きだろうが、俺は構わずに現在遂行している行動を続けた。あっという間にきれいさっぱり俺のものがなくなったテーブルの周りを見回して最終確認をし、すぐさま立ち上がる。アルミンも慌てて後を追うように立ち上がった。
「……ごめん、そんなに気にするとは思わなかったよ。気を遣わせたな」
「お前が謝る必要はねえだろ。俺に配慮が欠けてただけだ」
どうしたことか予想以上に肩を落とすものだから、俺は見ていられなくなり、それらをぽんぽんと叩いてから廊下に向けて足を一歩踏み出した。
「まあ、テスト勉もほどほどにして夜ちゃんと寝ろよ。いつも付き合わせて悪かったな。また明日学校で」
「あ、うん。サンドウィッチご馳走様。お母さんに美味しかったって伝えといて」
「おう、わかった」
そうやって交わした挨拶を最後に、アルミンが玄関を閉じるのを見守った。おまけにガチャリと鍵を閉める音までをしっかりと聞き届けてから踵を返す。扉を閉める直前の、少し寂しそうに見えたアルミンが瞼の裏に焼きついていた。
アルミンは限られた人生の中で学校生活を楽しもうとしていて、そんなアルミンの人生にただ『弱みを握ってやろう』としている俺が踏み込むのはあまりにも図々しく思えて嫌になった。……だが、裏を返せば、本当の動機を知らないアルミンは、それでもその限られた時間の中で、俺の勉強に付き合ってくれるという選択を自らしたのだ。それは少し……居たたまれないというよりも、もう少し、こそばゆい感情のようにも思える。
は、と我に戻った俺は、しかしこのまま身を引いたとして、よもや仲間たちにアルミンの病気や両親のことを報告するわけにもいかないことに気づいた。かと言って、何も報告するものがなければ、間違いなく俺はあのグループの中でしばらくは『敗者』でいなければならなくなる。そのまま冷静になり、アルミンのこんな事情を知らなければ軽々と『弱みを握ってやろう』としていた自分が、今更良い奴ぶっていたことにもぼんやりと意識が向いた。……そう、俺は自分可愛さに平気で〝ダサいギーク〟なら貶めてもいいと思っていたすこぶる悪い不良だったのだ。
肩にかけていたカバンのストラップをかけ直し、顔を上げる。
アルミンの病気や両親のことを仲間に黙っていてやる代わりに、俺の身を守るためのもっとライトな秘密を拝借することは必要不可欠ではあった。
意を決して俺がとった行動とは、アルレルト邸の裏庭に回るということだ。
アルミンの時間を煩わせなければこれくらい許してもらいたいところだ。……またしても俺はその先を深く考えずに、なるべく壁伝いにアルレルト邸をぐるりと回る。……アルミンのと思しき部屋を探して。
そうしてある一室を見つけた。
間取りと重ね合わせて考えると、おそらく廊下の奥のほうにあった部屋だと思われる。グレーのカーテンが引かれていたが、折り重なった部分には小さな隙間ができていた。そこから中を覗くと、一端しか見えなかった部屋の壁にはアニメのポスターが所狭しと貼りつけられていて、向かいの棚にはフィギュアがずらりと並んでいる。
――『オタクと言ってもアニメとかじゃないんだ。どちらかというと機械の組み立てとかが好きなオタクなんだよ』
つい昨日アルミンが俺に釘を刺したことを思い出す。
なんだよばっちりアニメオタクではないのかとまじまじと部屋の中を見回してしまい、自分が嘘を吐かれていたことを知ってもやもやとした蟠りが身体の中に生まれる。
とそこへ、片手にジュースを持ったアルミンが部屋に入ってきた。俺は慌てて壁に貼りついて身を隠し、アルミン自身が窓際に寄っている気配がないことを確認して、いそいそとアルレルト邸の裏庭をあとにする。
帰りの道中で、俺の心中は穏やかなわけがなかった。
この二日間でいろんなことを知りすぎたことが原因だ。ゆっくりと思考を回して頭の中を整理する。
アルミンには、両親がいないこと。じいさんと二人暮らしなこと。そしてそのじいさんともども、アルミンは余命が短いこと……。ほかには、俺には機械が好きなオタクと宣っておきながら、しっかりとしたアニメオタクだったこと。
……本人的にはどうしたってそういうところは知られて恥ずかしいのだろうか。だとするなら、やはり〝ライトな秘密〟を探すとするなら、あのアニメオタクの部屋からが妥当だろう。これ以上の居たたまれなさに耐える自信もなかった俺は、早いところ自分の目的を果たしてアルミンから距離を置くべきだろうと答えを出すに至っていた。
*
それから試験当日までの数日間、俺はなるべくアルミンとの接触を控えた。テスト期間中くらい好きに勉強をさせてやろうと思ったわけだが、俺自身はここ最近アルミンの側に居すぎたせいか、落ち着いて勉強はできなかった。……思っていたほど、それらが必要だとも思えなかったのもあるが。ずっとそわそわして、頭に浮かぶのはアルミンのことばかりだ。
気になってアルミンの病気について調べてみたが、病名を聞いてなかったこともあり、いくつかに候補は絞れたがそれまでだった。勉強なんかより、それらのほうが没頭していたかもしれない。
何度か携帯電話を覗き込んでもアルミンからの連絡はなく、やはり俺が連絡を控えていたほうが本人は好きな勉強に集中できるのだろうと自分に思い知らせた。元々勉強を教えろと約束を取り付けたのも半ば強引なものだったのだから、当たり前の話だ。アルミンは俺が連絡をしないことにきっと安堵しているに違いない。
そうやってぐだぐだと数日を過ごし、俺は何の面白みもない試験当日を迎えた。……いつもと違ったことと言えば、少し意外なくらいに問題がすらすらと解けたことだ。……やはり授業に出ることと、そしてしっかり復習をすることは大事なんだなと身に染みたわけだ。
試験一日目の放課後、俺は久々に不良仲間がいつも屯(たむろ)している校舎裏に向かっていた。……直接現状の報告をするのと、万が一にでも顔を忘れられないためだ。
現在まだ活用できそうな情報はつかめていないが、アルミンと距離を近づけることについてはかなり順調に進んでいるという報告をしたのだが、「お前はアルミンを狙うと思ってたぜ」と言いながら、互いに金銭のやり取りを始めた。……どうやら俺がどのカースト下位のやつをターゲットにするかで賭けていたらしい。
「お前あいつのこと大好きだもんな」
「全くだぜ、いい加減にしろよなこのゲイ野郎」
「いつも突っかかってくもんな」
そう口々にからかわれて、愛想笑いで「んなことねえよ」と抗議した。
……だが、なんだろうか……違和感……とも少し違う、閉塞感というのだろうか。これまで気づかなかったが、こいつらの輪の中にいる俺は、変な力を肩に入れていることに気がつく。そう考えると、アルミンの側にいるときは随分と平穏だったなと思い浮かんだ。……とは言ったものの、アルミンはダサいセーターにきのこ刈りの頭だ、スタイリッシュさが違うので、張る気も違うに決まっている。
たった今やりとりした金銭でファストフードでも食べに行こうぜと盛り上がっていた一行が歩き始めたので、俺も特に思慮せずに後についた。
品だけでなく心もない会話が飛び交い、すれ違う人には唾を吐きかけるやつもいる。それを見て怒り狂う通行人に手を叩いて笑うやつもいて、それらに一通り飽きたら今度は両親に対する不平不満を垂れ流す。死んじまえ、消えちまえ、と笑いながら交わされていく会話はどれもやけに耳に残った。
「――なあ、ジャン? お前もそう思うだろ」
「あ? ……あ、悪ぃ、聞いてなかった」
唐突に投げられた質問のお陰で、俺はいつの間にか意識だけをどこかに飛ばしていたことを知る。慌てて会話に戻ろうとしても、仲間たちは呆れ顔で目配せするだけだった。
すぐに「もうすぐ店に着くけどお前何食べる?」とまた新らたに会話が始まり、それにはしっかり食らいついていようと意識を保って耳を傾けた。
「ああ? なあ、キモオタくんよお。ちょっとそのリュック貸してよお」
「ちょ……っ、や、やめろよ……っ!」
わいわいと進んでいる内にどこからともなく荒々しい声が聞こえ、合図があったわけでもないのに俺たちは全員で同じ方向へ顔を向けた。不良には多少の縄張り意識があり、また、不良には不良の声遣いがだいたいわかるからだ。
「――ん?」
だがそんなことより、俺にとってそのもう一方の声には聞き覚えがあったことが、この顔を向けてしまった原因なのだが。……そう、一人の不良にからかわれてリュックサックを取り上げられていたのは、あのダサいセーターにきのこ刈りのチビ……、
「あれ、あいつ、ジャンの愛しのアルミンじゃね?」
「他校のやつに絡まれてんじゃん、笑う。あいつモテモテだな」
――アルミンだった。
「……ッ」
面白がって笑っていた仲間たちをそっちのけで、何に駆り立てられたのか、俺は身体が反応するままに駆け出していた。この時の俺にはもちろん『恩を着せてやろう』なんて考えはこれっぽっちもなくて、ただなぜかそうしなければと身体が動いただけの話だ。
「おお、わり、ありがとうよ」
「は?」
リュックサックを宙に持ち上げていた不良の後ろから、それを颯爽と取り上げてやる。楽しいおもちゃを横取りされて怒り心頭のそいつは俺のほうへ振り返り、威嚇するために目を凄ませた。
生憎と俺自身がしばらく不良をやっているので、そんなことで今更怯むはずもなく、わざと苛立たせるように口角を上げて見下してやった。
「こいつは俺の獲物なんでね。ほか当たってくれ。……なあ、アルミン?」
「……ジャ、ジャン……っ!」
俺たちが互いに名前を認識している仲だと認めたこの他校のモブは、「チッ。お前の獲物なら名前でも書いとけ!」と吐き捨てて、どこかへ去っていった。……何とも悲し気な背中だ、相手とタイミングが悪かったなとそのまま見送った。
「ぎゃーははは! ジャン、かっこいい!」
「王子様じゃねえか! がはは!」
近くで見ていた仲間たちが腹を抱えて笑い始めて、とっさに「作戦の邪魔だ」とジェスチャーで伝えた。あいつらは面白いモン見たぜと大変喜びながら当初目指していたファーストフード店へ向かったようだった。俺に対して「後で来いよ」と声を残していく。
「…………ほらよ」
あいつらもいなくなったことを確認してから、俺は手に持っていたアルミンのリュックサックを静かに返してやった。
「……」
だがそれに対してアルミンは無言を通し、不機嫌面で地面を眺めているだけだ。……助けられた相手にも、助けられた言葉にも、いずれにしても納得のいかないといったところだろうか。どうやら悔しかったらしいのはそれとなくわかったが、俺が助けなれば今ごろこいつが必死に取り返そうとしていたこのリュックサックは持ち去られていたことだろう。
「……いらねえのかよ」
さらに声をかけてやるも、うつむく顔をさらに下へ向けるだけだった。
助けてやったのにどうしたものかとアルミンの背後を見ると、どうやらアルミンはこの建物から出てきたらしいことがわかった。その階層表示板には、アニメグッズ専門店の名前が入っているのがわかったからだ。
――そうか、俺にアニメグッズの販売店から出てきたところを見られて、それも合わせてばつが悪くなってしまったのだ。理解した俺は、これはよもやチャンスではと閃く。
「……こんな店があったんだな、お前水臭えな」
するとアルミンは少し乱暴な手つきでリュックサックを取り返しながら、
「興味ないこと話されてもつまんないし、き、気持ち悪いだろ。その、君たちみたいな不良からしたらさ」
ファスナーを開けて中身を確認している。……よほど大事な何かが入っていたらしい。取り返してよかったと俺が気を抜いたところで、アルミンもふう、と短めの吐息を落とした。
不機嫌な風に見せて、実は自分の感情を守っていたのかと合点がいく。尤も、アルミンの言う通り、俺たち不良はアルミンのようなギークを〝気持ち悪い変態〟としてからかうのであって、確かにこいつの自己防衛は間違っていない。俺に『アニメではなく機械オタク』と刷り込みたかったのもそういう理由だろう。
だがもう俺は、かつての『アルミンのことを知らない不良』ではない。アルミンが限られた時間の中で必死に首席を守り続けていることや、教科書に書き込みをするくらい熱心なやつだと知っている。
……それに、このチャンスを活かさないわけにもいかない。
「あんなに頭がよくて博識のお前が好きだっつうアニメとか、俺は正直気になるけどな」
少しわざとらしかったか、と懸念したが、アルミンは俺の言葉を聞くなり慌てたように顔を上げ、
「……ほんと?」
何とも気の抜けた声で俺に『例のあの仕草』を見せた。
どく、と心臓が跳ね上がったのがわかり、慌てて視界を別のところに変える。……まずい、ごくごく一瞬ではあったが、その一瞬だけ何かを勘違いしかけた気がする。
「あ、ああ、本当だ」
俺を見つめ続けるその曇りなき眼に押されて、つい後ずさりながら答えてしまったが、
「じゃあさ、今からぼくの家に来て鑑賞会しない⁉」
「……か、鑑賞会⁉」
アルミンはさらに足を踏み込んで重心を寄せてくる。唐突にバグった距離感に、俺の脈拍もバグったように打ち狂い始めた。眼鏡の向こう側から覗いている瞳に、きらきらとした細かい星が散りばめられているように錯覚して、どんどん目が離せなくなっていく。
「うん、おすすめのアニメ、いっぱいあるんだ! ジャンは頭がいいから、ぼくが好きな考察できる系の日本のアニメとかどうかなってずっと思ってた! とっても面白いんだよ! その中でも特にっ、」
「いやいや待て待て!」
やっと静止の声を発することができた俺は、その声とともにアルミンの肩を掴み、重心を元の位置に戻させる。どうして俺が急に大声を出したのか微塵も理解できていないらしいアルミンが目の前で言葉を待っていた。
「……まだテスト期間中だろ。せめて終わってからにしようぜ」
教えてやると、何かに気づいたようにハッと見開き、それから自分の顔を隠すように俯きながら後ろに下がった。……ようやくアルミンが正常な距離感に戻ったかと思うと、今度はぶわりと変な汗が滲み出て俺の背中を濡らした。
「あ……そっか……ごめん……。ぼくったら、ついはしゃいじゃった、ごめん」
「いや、別にいいけどよ」
「あ、」
また何かを思い出したように顔を少しだけ持ち上げる。
「ん?」
「じゃあさ、そのときマルコも誘おうよ」
「……は? マルコ?」
今ここに出てくるまできれいさっぱりと忘れていた名前が、本人の優しい笑顔とともに脳裏に転がり込んでくる。……確かにマルコは俺とも仲がいいし、アルミンとも仲がいい。なので何も裏事情を知らないアルミンがそう提案するのもわかるが……俺にとって、今のこの瞬間だけは若干都合の悪い相手だった。……何せ俺がアルミンに近づくことをよく思っていない。
「うん! マルコとも今度鑑賞会しようって話してたんだ! そうだ! ちょうどいいな! ぼくから声をかけとくよ!」
つい今しがた『はしゃいでごめん』と謝罪していたはずのアルミンは、またしてもはしゃぎながら走り出してしまった。そちらの方向は本人の自宅に間違いはないが……、
「あ、ああ……わかった……」
俺は残る余韻に観念して、そう呟くほかなかった。
第三話へ続く