第三話
無事に試験期間も終わり、アルレルト邸でおすすめアニメの鑑賞会を行う日が、ついに明日に迫っていた。
アルミンから届いた鑑賞会の日程を知らせるメールはまるで学校の行事予定を知らせるそれで、鼻息荒く張り切っているのがその文面からも読み取れた。オタクって本当に面白い生き物だなと笑ってしまったが、俺の中で見下しているような感情はもう、そんなに残っていなかったと思う。どうやら文面から読み取るに、マルコともしっかり予定が合わせられたようで、俺はついにマルコの前でアルミンと〝仲良くしている〟様を晒すときがきてしまったようだ。……どんな顔をされるだろうか。
もう一方で、あのとき一瞬だけ目にしたポスターだらけの部屋に通されたりするだろうかと、少し楽しみな気持ちも否めない。ここらへんで何か使えそうなライトな隠し事でも見つけられるといいのだが……――自分の目的を再確認する度に、俺はアルミンに関わろうとしていることに対して、少しの後ろめたさを感じてしまう。今回の鑑賞会に限ってはマルコも含めた鑑賞会なので、〝俺のためだけに〟割かれる時間ではない。……そこまで思い至ってようやく自分を許せそうな気はするが……マルコが一緒ということに関してはなんとなく落ち着かない側面もあり……。
ベッドの上で横たわりつつ、明日のことを考えていた俺は、思考を変えるように寝返りを打った。
……そう、なんとも複雑な胸中だ。複雑、その言葉に尽きる。なんとなく身体がそわそわとして落ち着かない。こんな心持ちになるのは初めてだったので、対処法もわからず、投げやりな気持ちにまで発展していく。
「……ん?」
机の上に置きっぱなしにしていた携帯がメールの受信を知らせたような気がして、俺はいそいそと起き上がった。画面を覗き込めば大当たりで、実際に届いていたらしい新着メールをタップして開く。
送り主はアルミンだったので、明日の予定に変更でもあったのだろうかと軽い気持ちで本文へ読み進めた。
『今日はよく晴れてて星が見える。今から見に来ないか?』
「……はあ? 星ぃ?」
思わず声に出して反応してしまった。
てっきり明日の鑑賞会についてだと思い込んでいたところに、なんだろう、この拍子抜けするような内容は。どうして突然星を見に行くよう誘われたのか謎が大き過ぎて、考えを巡らす前のその一瞬だけ、何かをためらうような気持ちになった。
『なんで急に星?』
返信用画面にそう打ち込んでから、送信ボタンをタップしようと親指が位置を変える。……だが、それはそこで止まり、送信するには至らなかった。
このメールはマルコにも送られているのだろうか。きっと仲のいい二人なら『なんで?』なんてやり取りもなく、『行く』の二つ返事なのだろう。そう思ったときに、聞き返すのは〝友達〟として野暮だろうかと思い至った。……なんとなく、俺を差し置いて二人で先に会われることも懸念していたような気がする。
すでに入力されていた返信文にカーソルを合わせて、それを全選択の後に削除した。改めて親指が画面上で走り回る。
『今から? わかった、行く』
今度は一つも迷わずにそれを送信して、すでに寝るために着ていた部屋着を脱ぎ捨てた。母ちゃんがしっかりと洗濯をしてくれているお気に入りの服をクローゼットの中から選んで取り出し、それをまとってすぐさま玄関から飛び出していく。直前に母ちゃんに見つかったが、「どこ行くの?」に対して「野暮用」とだけ応えて誤魔化した。
思えば風呂にも入ったあとで、髪の毛のセットも忘れていた。しまった、こんなキマっていない格好で出てきてしまったと思ったものの、そこで引き返そうとはならない。なぜこんなに気が急いているのか自分でもよくわかっていないのだが、俺はなんとなく急ぎ足でアルレルト邸を目指した。今更だが、携帯の画面で時刻を確認すれば、もう夜の九時を回っていた。
……両親が健在の家だったなら、こんな時間から友達を家に呼ぶことは渋られていただろう。だが幸か不幸か、アルミンの家ではそれを咎める人はいないのだとそれの実感を得る。こういう側面だけ見ると両親がいないというのは自由でいいものだと思ってしまうが、実のところは、俺の計り知れない苦悩はあるのだろう。
計り知れないとわかっているのに、なんとか計ろうとして、道中はそんなことをずっと考えていた。……見上げてみれば、確かに澄んだ夜空に星がいくつも瞬いている。これからこれをアルミンと一緒に見るのかと思い出し、俺はそこで見上げるのをやめた。
「――いらっしゃい、急に誘って悪かったね」
アルレルト邸に到着して玄関が開くのを待っていると、やけに機嫌のいいアルミンが俺を出迎えてくれる。
じいちゃんがもう寝てるから着いたらメールで知らせて、と予め伝えられていたので、アルミンが小声で話していることは気にならない。むしろ俺も小声で「おう、待たせたか?」と返し、玄関に入った。
そのままアルミンが俺を引き連れて入ったのは、先日まで案内されていたのと同じリビングルームだ。自室じゃないのかと気に留めながらも、定位置のソファに腰をかけて、俺とアルミン以外の人の気配を探して見回していた。……どうやらまだマルコは来ていないらしい。
「マルコはまだなのか?」
冷蔵庫から二本のペットボトルコーラを取り出したアルミンに向かって、深く考えずに尋ねた。
「……マルコ? ……誘ってないけど?」
訝しみで溢れたように首を傾げて、アルミンは俺の向かいに座った。差し出されたコーラを受け取りながらそれを聞いていた俺は、思わず「え?」と口から零していた。
「……誘ってねえの?」
プシ、と炭酸が抜ける音をさせながら蓋を開け、アルミンがそのコーラを豪快に口につけた。しゅわしゅわと泡が暴れまわっているのか一瞬だけ顔を顰め、それを大きく嚥下したのがわかる。
「――うん。今日は君しか誘ってない」
「……なんで?」
なんともあっけらかんとした態度で返されるものだから、今度は俺が首を傾げてしまった。てっきり俺は、アルミンは俺なんかよりマルコのほうを親しい友人だと思っているのだと認識していた。だからこそ、俺は今回アルミンの急な誘いを断らなかったし、何故か急ぎ足でここまで出向いていた。――これ以上マルコに遅れを取りたくなかったから……?
自分自身の思考にも疑問を抱いてしまった。
「『なんで』?」
アルミンは俺の言葉をくり返し、またループするように首を傾げ直した。
「ええ……なんとなくだよ。マルコも誘ったほうがよかった?」
普段どおりの表情なのに、声がどこか冷めているような気がしたのは気のせいだろうか。アルミンはペットボトルをテーブルの上に置き、自身のジャージのポケットを探し始めた。その仕草で何をしようとしたのかはすぐにわかって、
「あ、いや、」
慌てて静止に入っていた。
ここにマルコがいないなら、それはそれで好都合なのでそのままでいい。
「別にわざわざ呼び出さなくていいけどよ。……その、お前らの仲だったら、てっきり誘ってるものだと……」
「ぼくらの仲?」
浮上した疑問が口をついて出てしまい、それによりアルミンは質問を投げ返すように俺を見返した。一度口に出してしまったものは取り返せないことはわかっていたので、そのままアルミンがどう返答するのか待ってみる。
手元に視線を落としたアルミンは、肩から力を抜くように息を吐き、
「……うん、まあ、それは、丸一日一緒にいることもあるけど……、」
そっとした口調で零しながら、更に深く本人の思考の中に踏み入っていくようだった。まるで自分自身の思考整理をしているように言葉が消え、その様子を俺も黙ったまま見つめる。
「――……確かに、なんで君だけ誘ったんだろうね。……変なの」
くるんと戻ってきた目元は言葉に違わず笑っていて、またはは、と零しながらコーラを一口飲んでいる。
……どうやら深い意味はないらしい。本人もよくわからないくらいに〝なんとなく〟俺だけを誘いたい気分だったのだろう。……腹の底で俺を擽っているような感覚がして、不意に口元を緩めそうになってしまった。……単なる〝なんとなく〟だったとしても、きっとアルミン本人にも届かない深層では理由があったはずだ。それに思い至った途端、俺の意思とは関係なく笑えと迫られてるように照れくさくなった。
その口元を隠すため、もらっていたコーラを急ぎ開封してそれを豪快に飲み込んでいく。先ほどアルミンが顔を顰めていたが、新鮮な炭酸の気泡は確かに乱暴に弾け回っていた。強烈だったので蒸せかけたが、それはなんとか耐えてペットボトルを口から放す。
ぷは、と息を吸い込んだあと、
「まあ、いいかなんでも。んで、その星はどこで見んだよ」
俺は改めて言い出しっぺのアルミンに確認をした。アルミンもそうだった、なんてとぼけながら立ち上がり、人差し指と中指の間にペットボトルの先端を挟んで廊下へ出る。もちろん俺もすぐさまその後を追った。
「二階のベランダから屋根に上がれるんだ」
廊下に出たアルミンはまた何でもないことのように教えてくれる。だが俺は屋根に上るなんてことを発想したこともなく、
「……屋根? に、上がんの?」
「うん。そこからの眺めが本当に圧巻なんだ」
自慢気に宣うアルミンをまじまじと凝視してしまった。
俺すらも屋根に上がったことがないというのに、何故か敗北感を味わう。……いや、〝バットボーイ〟として、一度くらいは屋根に上ることを発想しておくべきだった。こいつに先を越されたことが異様に悔やしかった。
……だが、それも屋根に上るまで。……実際にそこに上がって見上げてみたら、先ほどよりも随分星空が近くに見えて驚いた。街灯の明かりも自分の頭上ではなく目下になるため、夜空の輝き方も違って見えているのだと気づく。……街灯は無理でも、周りの家々が消灯されれば、おそらくもっと鮮明に星の瞬きが見えるだろう。
「ほら、こっちこっち」
上っただけでは飽き足らず、アルミンは屋根を這い回りながら俺をどこかへ誘う。その先にはカバーをかけられた何かがあり、興味を引かれるままにそこへ向かった。
「なんだ、これ?」
「まあ見てなよ」
わざわざ屋根の上に設置していたらしい、簡易テーブルの上にコーラのペットボトルを置いて、その何かに手をかけた。
だが、明かりのない黒い屋根の上で、黒いカバーを外すのはさすがに肉眼では難しく、アルミンが携帯のライトを灯して俺に照らしておくようにと指示をした。言われるがままに手元を照らしていてやると、固定していた紐はするりと解けて、あっという間にカバーに守られていたものが姿を表す。
アルミンはその姿を現した物の前でなんとも鼻を高々と掲げ、俺にそれをよく見ろと無言で伝えた。
「……これは?」
ただ〝それ〟を見せつけるだけで何もコメントされないので、しびれを切らしてこちらから尋ねてしまった。望遠鏡のようなものの大きいやつ……という言葉しか浮かばなかった俺に対して、
「え? 天体望遠鏡だよ。知らないの?」
あざ笑うわけでもなく、大真面目に尋ねた。何やらセッティングを始めたらしいアルミンの手元に、既に食い入るように見入っていた俺は、
「知らねえよ。こんなもん初めて見るっつうの」
「そうなんだ」
案外素直にそう答えることができていた。今回は焦りも敗北感もない。ただただ目の前に現れた新しく見るものに胸が踊っていた。
「じいちゃんがね、つけてくれたんだ」
「……あのじいさんが?」
もうかなり高齢のはずのアルミンのじいさんを思い浮かべて、俺は食いついていた。……それは、さぞかし危うい光景だったろう、思い浮かべるだけでもこちらが震えてしまいそうだ。
「そうなんだよ。危ないだろ。……でもたぶん、ぼくに気を使ってくれたんだと思う。両親が死んですぐのことだったから」
「……そうか」
高さや角度を調整したり、覗き口を覗いたり、忙しなくアルミンは動いて回る。
――アルミンとは反対に、俺の両親は健在だ。だが、幼いころから父ちゃんは単身赴任をしていて……確かにこういう男手が必要そうなものは一切触れてこなかったことを振り返る。その点、アルミンはきっと、そういう意味では恵まれていたのだろう。……考えている内に、『恵まれるってなんだろうな』と思考が絡まって、俺はそこで考えるのをやめた。
「……アルミン、これは?」
「え?」
いそいそとセッティングしている横に、ほかにも取り付けられているものを見つけて声をかけた。単なる予想だが、これはこの天体望遠鏡とは無縁な気がする。そう見当をつけ、それを暗闇の中で観察した。少ない明かりではよくわからないが、どうやら簡易的な台の上に、ホースのジョイントのような形をした何かが設置されている。
「ああ、それ」
手を止めて、何か勿体ぶるように笑って見せられた。
「え、なんだよ」
「えへへ、いいよ、後で見せてあげる」
「……はあ?」
「後でね」
よくわからない言葉を残し、本人はまた天体望遠鏡のセッティングに戻っていった。
そうして二人でわいわいと屋根の上でしばらくはしゃいでいた。
初めて天体望遠鏡から見る星空は、圧巻というよりはもっとこう……存在感に満ちていて、本当にそこに星が一つずつ瞬いて存在していることに驚きを与えられていた。……もちろんそんなことは知ってたのだが、星々の距離感や細かい状態まで見れてしまうと……これまで感じていたものとは違う、もっと現実味のある存在感を目撃したように胸が高鳴った。
圧巻という言葉は、どちらかというと肉眼で眺めた星空にこそ似合うような気がした。密度の高い星空が、本当に今にも落ちてきそうなほど鮮明に頭上で輝いている。
そんな星空と真っ黒な屋根に挟まれた場所で、何をそんなに話していたのだろうか。いつの間にか周囲の家々は消灯されていて、恐る恐る時計を見てみると、屋根に上ってから二時間は経っていた。時間を確認したとき、アルミンと二人で絶句したほどだ。
けれど、どちらからもそろそろお開きにするかという提案は出なかった。
何やらとても不思議な感じがする。夜の光に当てられたのか、この時間を終わらせたくないような……悲しくなるほどに今この瞬間に執着しているのが、自分でもなんとなくわかった。……こんなに居心地がいいと感じる場所を、俺はこれまで知らずにいたような気がする。
アルミンがどう思っていたかはわからないが、俺がそんな風に終わりを懸念していたとき、ふ、と何かを思い出したように俺の顔が覗き込まれた。
「そういえば、あれ、見せるって言ったよね」
そのまま視線を誘導された先は、やはり天体望遠鏡とは何の関係もなかった、あのホースのジョイントのような形をした器具だった。
「ああ、あれ?」
「うん。見せてあげようか」
「……おう、見てみてえ」
伝えると、何故かアルミンは飲み終わった空のペットボトルを握りしめ、いそいそと屋根を下り始める。
「ジャンもそれ、持ってきて」
「は? これ?」
また言われるがままに後をついていく。
アルミンは踊るような軽い足取りで一階のキッチンに向かい、俺の分のペットボトルも合わせていそいそと濯ぎ始めた。……あの器具の使い道を見たいと伝えただけなのに、いったいこれから何をするつもりだ、と視線はその手元に釘づけだ。
そのペットボトルの水を切るため、逆立ちをさせて放置したかと思うと、今度は徐に干していたらしい牛乳パックの開きを持ち出した。あちらこちらへと忙しなく走り回り、俺の目の前にあったカウンターの上には、ガムテープやカッターなどが次々と並んだ。
――これから大工作大会でも開催するつもりか。
先ほど逆立ちさせていたペットボトルを再び持ち出したアルミンは、慣れた手つきでそのペットボトルにカッターを入れて解体し始めた。
「……おい、何してんだよ。いい加減教えろよ」
「いいから、いいから。できてからのお楽しみ」
だんだん組み上がっていくそれらの物体を見つめて、俺はただ黙って眺めているしかなかった。
なんとなく予想が着き始めたのは、牛乳パックから切り出したパーツを、そのペットボトルに貼りつけているときだった。……その先の尖った円筒状のものに取りつけられる、飛行機の翼のようなパーツ……そう、それはだんだんと、
「……ロケット?」
可愛らしいペットボトルロケットへと姿を変えていた。
「当たり! ぼくは基本的に機械をいじるのが好きだけど、こういうのも一通りやったんだ。君、やったことないだろ?」
どうやら完成したらしいそれを俺に見せびらかしながら、アルミンは楽しそうに笑って見せた。そしてアルミンの言う通り、こんな陳腐で可愛らしいロケットなど見るのも作るのも初めてで、それを飛ばせるのかと年甲斐もなく手を伸ばしていた。
今は自らの手の中にあるそのロケットを四方八方から舐め回すように眺め、
「おう、ねえな。これ、本当に飛ぶのか?」
完全に浮かれきった声が躍り出ていった。
「うーん……どうだろうね」
「はあ?」
これまでの自信はどこへやら、唐突にそれらを喪失したように聞こえたので、思わずこの目でアルミンを確認していた。そうしたら、その反応を待っていましたと言わんばかりに息を吸って、
「あはは、冗談だよ」
俺の手の中から再びそれを取り上げた。
そのペットボトルの口を蛇口に当て、少量の水を注ぎ込む様子を見守る。俺だけではなく、アルミン自身も楽しげな雰囲気がその表情から伝わり、俺は更に頬を緩めてしまった。
「この作り方で今まで見失わなかったロケットはないんだ」
「……おい、それってだめなんじゃね?」
あたかもかっこいいことのように紹介したアルミンに、あえて言及してやると、
「見方に寄ってはね」
「おいおい」
ペットボトルの周りの水気を簡単に拭いながら、それの締まり具合を確認していた。
「大丈夫だよ、明日君たちが帰ったあとにでもちゃんと探して捨てとくから」
「本当か?」
「ひどいな、本当だよ」
再び談笑を交わしながら屋根を目指して歩き始める。……アルミンのじいちゃんを起こさないように、廊下ではそっと歩き、二階に上がると待ちきれないとばかりに一直線でベランダに向かう。屋根に上る前に、ベランダの隅にあった自転車用の空気入れを俺に持ってくるように指示して、本人は颯爽と屋根に上がった。
逸る気持ちを抑えて、俺も急いでまた屋根に上る。
顔を出すと一人でまた天体望遠鏡のほうへ向かって進んでいて、そうか、俺が気になっていたあれは、発射台だったのだと閃いた。俺が空気入れを持ってそこに到着するころにはロケットの設置は完了していて、アルミンがその先端に空気入れの差込口を繋いだ。
「じゃ、ぼくが空気を入れるから、いいよって言ったらジャンが発射してね」
俺の肩を勝手に支えに使い、アルミンは屋根の上にゆっくりと立ち上がる。その反対の手にはしっかりと空気入れを握りしめていて、
「どうやって発射すんだよ」
俺がまじまじと発射台の構造を確認している横で、空気入れの押さえを踏んづけていた。……だが、発射台を暗闇の中で眺めているだけではさっぱりわからず、アルミンを見上げてみる。
すると今度は身を屈めながら指で各部を指し示し、
「そこを、そうそう、押したらね、空気の逆噴射で飛んでくから」
「ああ、なるほど」
俺も位置につき、スタンバイオッケーの目配せをやる。
そういえばこんな夜中にロケットなんて飛ばして、音とか大丈夫だろうかと懸念したのも束の間、アルミンは早々に空気入れでポンプし始めていた。シュ、シュ、と空気が送り込まれていく音を聞く度に、ドキ、ドキ、と胸が期待と緊張で脈を早くする。
「よおしジャン、いつでもいいよ!」
「おう、いくぞ――、」
指示された通りにすると、フシュウ、と、流し込んだ分の空気がまとまって吹き返す音が夜空に響き、同時にロケットはあっという間に闇夜に姿を消していった。発射台を向けていた方向もあり、目で追うことができた一瞬だけ、それはほぼ真上に飛び上がり、眩い星明かりの中に消えていったのだ。
あまりの速度にわあ、と声を上げる隙もなかったが、
「な! すごいだろ! ちゃんと飛ぶんだ!」
アルミンが目を輝かせて確認してくるので、なんだかそれが見られただけで得したような気持ちになった。こんなに子どもみたいにはしゃいで、こちらまでつられて気持ちが高ぶってしまう。
ただ、アルミンと同じように声を上げてはしゃぐことに、今更小さな羞恥を覚えて、わざとロケットが飛んでいったほうへ顔を向けた。……これなら顔が緩んでも見られることはないだろうと、安直な策を講じたまでだった。
「本当だな、あっという間に消えちまった……」
ぼやきながら俺は、自分の胸の内にある高揚に今更気づき、噛みしめるようにそれを自覚した。……こんなに気持ちが高ぶったのはいつ以来だろう。こんなに楽しい。……こんなに新鮮で、何かもわからないが、何もかもがこんなに輝いて思える。
「あそこまで届いたかなあ〜。届いたように見えるんだけどなあ〜」
「――アルミン、俺はさ、」
「うん?」
未だに一人ではしゃいでいたアルミンには目も向けず、俺はロケットが消えていった星空を眺めたまま、たまらずに声をかけた。
「別に根っからの不良ってわけじゃねえんだよな、たぶん」
思い浮かんだ言葉をただ紡ぐ。余計な思考や茶々なんて回避して、考えるより前に発声していく。その感覚はすっきりしていて、心地よかった。
当然、この〝キマっている俺〟が――普段と比べたら、今日はそこまでキマっているわけでもない、そんな俺が――、唐突にこんなことを言い始めて、アルミンも驚いているようではあった。
先ほどまでとは声色を変えて「……どうしたの、いきなり」と、言葉を降らせたので、俺は顔だけをそちらに傾けて、「まあ聞けよ」と注意を引っ張る。決してそちらには目を向けないが、アルミンが「うん」と呟きながらその場に腰を下ろしたことはわかった。
聞く体勢に入ってくれたことに少し気が緩み、重心を後ろに下げて再び広い星空を見上げる。
「……グレるにはもったいないくらい〝恵まれた〟家庭環境だし。ただかっこいいから不良やってるだけ」
「うん?」
「かっこつけたいだけだから、タバコ吸ってみても『まじい』の一言で投げ出すし、髪の毛をツンツンさせるための整髪料だって母ちゃんに買っといてって頼む。門限には帰るし、文句垂れながらも母ちゃんと一緒に飯を食う」
「……うん」
この思考に邪魔されない感覚は、きっと時間のせいだろう。うまく思考が回らないから、反対に理屈ではなくこんなに清々しい気持ちで言葉を選べるのだ。
思えばアルミンと接するようになって、何やら色んなものが見えるようになった気がする。今まで見えなかったものもそうだが、見ようとしなかったものも、そうだ。そうして自分の中に生まれていた居心地の悪さとしばらく一緒に生活をして――、
「なんかさ、正直言うと、少しずれてる感じがすんだよ」
――ここでこうしてはしゃいでいたほうが、よほど日々は楽しく感じる。……ここで、アルミンの近くで、真面目に勉強したり、ふざけて笑い合ったりしている自分のほうが、居心地がいいことに気づいてしまったのだ。
「……ずれてる?」
だが、アルミンから詳細を求められて目を合わせてしまった途端、どうしてだか水をかけられたように冷静になった。眼鏡の向こうには始めのころによく観察していた虹彩があり、それはまた新しい色をしている。夜空の下で見ることは初めてだったのでそう感じたのだと思う。
そしてふ、と。俺は自分の目的を思い出してしまったのだ。――何かしらの『弱み』を見つけて報告すること。
今このタイミングで思い出してしまったのは、まるで俺の深層がこれまでのツケをちゃんと払えと戒めているように感じた。……当たり前のことだが、それ以上はアルミンの目を真っ直ぐに見ていられなくなる。
「あ、いや、その……」
……危ないところだった、俺は今、完全にアルミンに絆されかけていたのだと気づく。違う違う、俺はこんな〝ダサいギーク〟ではなく、〝キマっているバッドボーイ〟だ。当然、こんなやつと趣味が合うはずもないし、ましてや『こいつといると素でいられる気がする』なんて、そんなのは大きな勘違いだ。初めて見聞きするものが続いて、その新鮮さに当てられただけの話だ。
「――まあ、君は元々こちら側の気質を持ってたってことだよ、きっと。君は一途に何かに打ち込むことに向いている」
そう続けられた言葉に、また顔を上げる。いつも聞く声色とどこか違っていて、優しげに思えて気を取られた。
だが、今の今で、それを簡単に肯定はできない。俺は絶対にこんな〝ダサいギーク〟と同じなわけがない。俺は……俺は、かっこよくありたい。
「……どうだろうな」
だからそうやって呟いたのに、アルミンはまるでそれが聞こえていなかったかのように閃きに任せて、
「つまりジャンは、ひょっとしたらぼくやマルコの仲間だったってことだね。今からでも遅くないんじゃない?」
ロケットが飛んでいったときと同じような、弾けた瞳で笑って見せた。そしてそのときと同じように簡単につられて頬が緩む。
「はあ? オタクはだせえよ、ないない」
そんなに期待されても、俺はきっとそれには応えられない。今度はからかうように笑って返してやると、アルミンは持ち上げていた眉尻を下げて、
「ええ、ひどいなあ。そんなにはっきり言わなくても」
唇を尖らせてそう抗議してきた。その顔を見ていたら、やっぱりなんだかんだ面白いやつだなと見解が落ち着く。
……そうだ。確かにオタクというものが、ただ〝ダサい〟だけではないことも、俺はちゃんと気づいてはいた。アルミンを見ていたらわかる。
「でもまあ、オタクは楽しい……かもな」
キマっているバッドボーイを演じている俺の日常には……そんな感情は、なかったような気がする。
アルミンはまた小さく笑みを漏らして、
「ええ、はは。何それ。どうしたのジャン、今日はなんかおかしくない?」
この俺が〝ダサいギーク〟を肯定したことに驚いていたようだった。眼鏡をかけ直して、アルミン自身は目線が泳いでいった先で天体望遠鏡を見ていた。
「そんなことねえよ。ちょっとテンション上がっちまっただけだよ」
自分の言ったことを今更否定も取り消しもしたくなかった俺は、この場にいるすべてに言い訳をした。なんて言ったって、この圧巻の星空の下だ、テンションくらい上がってしまっても不思議はないだろう。
「そっか」
アルミンも改めて夜空を見上げる。
「……なら、飛んでいったあのコーラのペットボトルも、きっと本望だね」
「だといいな」
打った相づちが自分の中で特別に聞こえて、俺はまたそこで冷静さを取り戻し……立ち所に羞恥に耐えられなくなり、顔が熱くなっていった。なんて恥ずかしいこと言ってんだ俺は、と自分に文句を呈してやったが、もう言った言葉も、過ごした時間も戻せない。
……いや、絶対に今日の俺はどこかがおかしいと決めつけて、その理由に、きっとアルミンはマルコと同じ属性で、雰囲気が似ているから、変に気を許してしまうのだろうとこじつけた。……そうするしか、自分を納得させられる理由を思いつけなかった。
「――わあ、もう二時だよジャン!」
何の前触れもなく、アルミンが驚いた声を上げて携帯の画面を俺の目の前に突きつけてくる。
「うわっまじかよ!」
それはまじだった。
こんな時間から家に帰っても、おそらく母ちゃんはもう寝ている。何より、確か明日の鑑賞会は朝九時から始める予定にしていたはずだ。一度帰ってまた来るのも、非っ常に、めんどくさいことこの上ない。
その気持ちを余すことなくすべてひっくるめて、「……どうすっかなあ……」と呟くと、
「……あ、あ明日、」
アルミンが少し吃りながら話しかけてきた。
「鑑賞会、九時からにしてただろ。今日はもう、泊まりなよ」
なんかよくわからないがそわそわとしているアルミンを見て、俺まで何やら落ち着きがなくなる。
確かに一度帰ってまた早朝にくるのはめんどくさいので、このまま泊めてもらうのが合理的だ。
「お、おう。じゃあ、そうすっかなあ」
涼しい顔で返答していたが、内心では伝染してきた落ち着きのなさでざわついていた。……ったく、なんだってんだよこの変な気分は、いったい。
男友達の家に泊まるなんて、そんなこと、よくあることだし……『無断外泊』なんて、〝いかにも〟だろう。……無断外泊先がこの〝ダサいギーク〟のアルミンの家でないなら完璧ではあったのだが、この際文句は言わないでおく。
「じゃあ、下りるか」
アルミンはそのまま俺とは目も合わせずに天体望遠鏡のカバーを付け直し始めた。きっと外したとき同様に手元が暗くて困るだろうと思い、俺は自分の携帯を取り出してその手元を照らしてやった。小さく「ありがとう」と聞こえ、俺も「おう」と負けずの小声で返した。
その後の俺と言ったら、それは終始落ち着きのないものだった。……いや、アルミンも同じように落ち着きを失っていたが。
――断固として自室に俺を入れたくなかったのか、二人でリビングのソファで寝ようと言い出し、向かい合わせになった低めのソファにそれぞれで横になった。それからは時間との戦いだ。何をそんなに緊張しているのか、あんまりにも寝つけなくて、俺は何度も狭いソファの上で寝返りを打っていた。……だが、それだけで寝られるわけがない。
観念したのは五時になる少し前だった。
さすがにもうアルミンは熟睡しているだろうと決め込み、俺はそわそわとして眠れないこの状況を、反対に好機だと捉えることにした。……アルミンが熟睡している今なら、こいつの自室に入って何か『弱み』になりうるものを見つけられるかもしれない。
思い立ったが吉日、俺は音をなるべく立てないようソファに起き上がり、靴を履いた。そのままできる限り足音を立てないように廊下に出て、目星をつけていた廊下の突き当りの部屋へ向かう。その扉にはご丁寧に『アルミン』との表示がぶら下げられており、俺は自分の嗅覚の鋭さに感動した。……ここがアルミンの自室で間違いはないはずだ。
もう一度だけリビングのほうへ振り返り、耳を澄ませてみる。どこからも生活音は聞こえて来ないので、アルミンは未だ夢の中だと確信を得て、そのドアノブを握った。
じわりと手汗がにじみ出る。……いよいよ、一番の目当てだった宝庫にたどり着いたのだ。どんなものが俺を待ち受けているのか、想像するより見るほうが早く、俺は思いきってそのドアノブを回した。ゆっくりと押し開くと、そこにはいつかカーテンの隙間から見えた、ポスターだらけの部屋が待っていた。ドアを開いたところから手を入れて壁を弄ってみると、部屋の電気のスイッチを探し当てることができた。それをまた音を立てないよう、細心の注意を払いながら点灯させる。
――カチ。その部屋は眩い光でいっぱいになり、俺は目前の光景に目を見張った。
惹かれるように部屋の中に立ち入り、壁という壁に貼り巡らされた数多のポスターに圧倒される。昨晩見た星空も圧巻だったが、これもなかなかに威圧的な光景だ。何のアニメかもわからないが、とにかく見慣れないイラストのキャラクターたちが、総じてかっこよくポーズをとりながら俺を見下ろしていた。部屋の端にはフィギュアの展示用の棚があり、そこにまたいくつかのフィギュアが大事そうに並べられ、そこでもポーズを取らされている。
俺は自分の目的も忘れて、それらに近づきまじまじと観察した。……すごい、よくできているのは素人目にもわかったことだ。確かに、自分が好きな映画のキャラクターだったらば、こういうものは欲しくなるのかもしれない。
それらを観察することに満足した俺は、今度はアルミンの机に目をやる。デスクトップパソコンの大きなモニターが置かれていて、勉強をするには少し窮屈そうだった。……だが、机の上に並んでいる本をよく見てみると、学校で使うテキスト類や、少し難しそうな工学系の本ばかりで、そこだけ見ると頭の良さは伝わってくる。
「……っ」
そこで俺は我に戻る。……そうだった、俺は何かアルミンの『弱み』になるものを探しにきたのだった。
目的をしっかりと持ち直した俺は、すまん、と心のなかで唱えながら、その机の引き出しを思い切って引いてみた。――だが、一番上の引き出しは鍵つきだったらしく、それは開かない。仕方なく次の段、次の段、と開いていったが、どこも成績のいいテストの答案用紙とか、大学の資料とか、雑誌の切り抜き……あとは得体のしれない工具とかが出てくるばかりだった。
せめてエロ本とか……あとは恥ずかしい下着とか? が出てきてくれたら、俺もこんなことは終わりにできるのだが……と落胆する。人の『弱み』に関して想像力に乏しい俺は、そんなことしか思いつかなかった。
とりあえず、一番可能性が高そうなのは、この鍵のかかった引き出しだと目星をつける。……自室の机の引き出しだというのに鍵までかけているということは、例えそれがじいさんだったとしても、見られたくない恥ずかしいものがそこにあるのだと憶測できる。
どこかにここの鍵はないかと、机の上を見回してみた。並べられている本も何冊か取り出して、鍵を隠せるような仕掛けがないだろうかと疑ってみる。……だが、それらしいものは見つけられない。諦めたくはないが、それを強いられていることを自覚し始めたとき、俺は机の上のペン立てに目が留まった。
ペンの長さからして、少し不自然に思えたそれを拾い上げ、ペン類を一気に掴んで取り出す。そしてその底面を見ると、
「……おお、あった」
確かにそこに小さな鍵が隠れるように入っていた。……こんなところに隠していたくらいだ。おそらくこれが俺が探していた鍵だろうと気分が高ぶり、俺はペン類を机の上に置いてからその鍵を取り出す。自分の見立てが正しいかどうかを早く確かめたくて、その引き出しの鍵穴を探った。
そこに鍵を差し込む前に一度だけ扉のほうを確認し、また耳を澄ませてみる。……先ほどと同じように、特になんの音も聞こえなかったので、俺はそのまま計画を続行した。
ゆっくりと鍵を回すと、それは無事に解錠し、同じようにゆっくりとした手つきで引き出しを引く。……さて、アルミンがじいさんからも隠したい秘密はなんだろうと、俺は胸を高鳴らせながらそこを覗き込んだ。
――そこで俺を待っていたのは、
「……!」
一枚の家族写真だった。
しっかりと管理されているのだろう、そんなに劣化は進んでいないが、写っている人間からそれが数年前のものだとすぐにわかった。今より少し幼いアルミンと……おそらくそのご両親、そして祖父母だ。そこにいたアルミンは今まで見たことのないような笑顔で、幸せそうに家族と笑い合っていた。
他にもまだ色々とものは入っていたが、俺はその写真の中で無邪気に笑っているアルミンに咎められているような気になり、一気にばつが悪くなった。自分でも名前のつけられない気持ち悪い渦が胃の辺りからせり上がり、何か強烈に熱いものがこみ上げて……――情けないことにそれ以上は何もできなくなり、引き出しをそっと閉じて鍵を締める。
――俺は、何をやっているんだ。
これまでにないほど、自分に対して落胆を抱いた。こんなことをするために、俺は〝かっこよくいたい〟と思ったわけではない。そんなことに今更気づいて、泣きたくなるほど自分のことを〝ダサく〟感じた。……こんなこと、馬鹿らしすぎる。……こんな、盗人みたいな真似……。
鍵もペン立ても、初めに見た通りに戻して、俺はその部屋を後にする。
リビングに戻るとアルミンはまだソファで寝ていて、先ほど目に焼きついた家族写真の中で笑うアルミンを思い出してしまった。……もうあんな風に笑ったりはしないのだろうか。
ゆっくりとまたソファに横たわり、目を瞑る。アルミンの自室を探しに行く前の落ち着きのなさとは全く異質の、はらはらとした焦燥感で身体が満たされていた。
……どうしてこんな気持ちになってしまったのだろう。泣きたくなるほどの何かに圧迫されて、俺は俺のことが大嫌いだと叫びだしたい衝動を必死に堪えていた。
結局のところ、俺が寝ついたのはおそらく朝の七時を回ったころで、起きたのは八時過ぎだった。……あんな最悪な気分でも、寝不足が限界に達すると人間は眠れるものなんだと知った。
俺が起きたときにはアルミンは既に起きていて、このリビングルームのテーブルの上に、既に山のようにDVDが積み上げられていた。……おそらく自室からすべて運び出してきたのだろう。俺が寝ている間にアルミンが何度が自室に出入りしていたのだと知ったとき、気づかれてはいけない冷や汗が滲み出てきた。……そういえば、部屋を出たあと、すべてを元通りにしたのかと最終確認をせずに戻ってきてしまった。何か違和感はなかっただろうかと勘ぐり、寝起きの挨拶を交わすアルミンを見ていたが、どうやらそれはなかったようだ。
もうすぐマルコが来るから、と目玉焼きトーストが出されて、俺はそれをただ黙って平らげた。
アルミンは昨日の延長線上にいるのか、まだ機嫌がよさそうな佇まいで、それには俺の緊張感をほぐしてもらったような気がする。……大丈夫だ、何もばれていないし、俺も勝手に『弱み』を盗み出したりはしていない。それこそ、昨晩眠りについたときと状況は少しも変わっていない。
爛々と話すアルミンによるとじいさんは既に仕事に出たらしいので、俺が先ほど平らげたトーストはアルミンが作ってくれたものだと知る。俺は甘えてこんなものでもまだほとんど作ったこともないのに、こいつにとっては文字通り、こんなことも朝飯前なのだ。自らとアルミンの差を勝手に突き付けられた気になり、なんとなく自己嫌悪を思い出した。別に変わりたいとも思っていないのに、そういうところばかり気になって焦る自分は馬鹿だなとも思う。
とりあえず洗面所を貸してもらい、そのついでに買い置きの歯ブラシを見つけたから使ってと、新品のそれを持たされた。これはありがたい、ととりあえず人に会える最低限の状態にはなる。……ただ、髪の毛をセットするためのものが何もないことには、カルチャーショックばりの驚きに打ち震えた。……本当に整髪料を使わない男子学生が存在していたとは驚きだ。……いや、薄々と勘づいてはいたが。
そうか、アルミンのあの滑るような金髪は、本当に何も手入れはしていないんだなと眼鏡にかかる真っすぐな前髪を思い浮かべる。すると途端に心臓の辺りがドキリ、と跳ね上がり、なんだ今のはと鏡の中の自分に尋ねてしまった。
――ジジジジジ
狼狽えているところへ、アルレルト邸のチャイムが鳴る。これは間違いなく玄関のチャイムで、この時間からしておそらくマルコが到着したのだろう。アルミンも「はいはーい」と声を上げながら出迎えに向かった。
開かれた玄関のほうから、おはよう、と口々に挨拶を交わす声が聞こえる。……そういえば、こんな〝キマっていない俺〟をマルコに見せるのも久しぶりかと振り返った。貸してもらった歯ブラシを適当に空いている歯ブラシ立てに入れ、俺も廊下に出てマルコと顔を合わせる。
「おはよう。もうジャンは来てたんだね」
「あ、ああ、」
ここへきて唐突に、昨晩ここに泊めてもらったと伝えることが恥ずかしくなり、曖昧な返事しかできなかった。それなのにアルミンときたら、
「昨日はジャンと天体観測したんだ。遅くなっちゃったから、そのまま泊まってもらったんだよ」
などと、何一つ包み隠さずにマルコに報告してしまった。
「……え? 泊ったの? 君が、ここに?」
思った通り、大変に勘ぐるように俺の表情をじっくりと観察しやがる。マルコは色んなことをしっかりと考えて理解するタイプの人間なので、隠し事をしているときほどマルコの前に出るのをためらうときはない。
「わ、悪いかよ」
「いや、悪くはないけど……。それはまた……随分と仲良くなったんだね」
「マルコ、ジャンは意外とわかるやつだったんだね。道理で君が仲がいいわけだよ」
嫌味なんて一抹も混ぜられていないことはわかっているのに、なぜか二人の会話がぐさぐさと俺の胸を刺していく。……い、居たたまれない……。マルコは俺の本当の目的を知っているし、アルミンは反対に何も知らないからこそ、この信頼が痛い。
「と、とにかく! 早いところ始めようぜ! 鑑賞会!」
これ以上俺のことで二人が何か話しているのに耐えられず、俺は無理やりに話題を変えてやった。こいつらの大好きなアニメに話題を移してしまえば、俺のことなんて綺麗さっぱりと忘れてしまうはずだ。
――と、思った俺の読みは見事に的中したのだが……。
「いや、だからね。ぼくはこっちのほうがジャンは面白いと思うんだ」
「アルミン、君の意見もわかる。でもそっちは長すぎて今日だけで見切れないだろ。だから、手始めに見るにはやっぱりこっちのほうが向いているとぼくは思う」
そう、かれこれ三十分はこの調子で、二人は俺にどのアニメから見せるのかで会議を開いていた。
「おーい、見るアニメ決まったのかオタクどもー」
何を話しているのかチンプンカンプンな俺は、蚊帳の外でその熱弁をずっと見比べていた。
……持っていたDVDのケースのイラストで見れば、マルコが握りしめている作品のほうが気にはなるが、アルミンがああまで言って譲らない作品にも興味は引かれる。そこで俺が出した結論を二人にお見舞いしてやることにした。こんな無益な争いを一瞬で収める、ありがたい助言だ。
「……決まらねえならさ、一話ずつ見て、気になったほうの続き見たらいいんじゃね?」
それにすぐさま賛同したのはマルコだけで、アルミンは「でもこの話は五話から面白くなってくるから」などとブツブツ呟いていた。……やはりマルコの言う通り、今日中に見切れる作品だとありがたいので、最終的にはマルコ推薦のアニメを見ることになった。
*
途中何度か休憩とは名ばかりの、考察タイムを挟みながら、俺たちは何とかマルコ推薦のそのアニメ作品を見終わった。時刻は既に夕方になっていて、ちょうどいい時間なので今日はこれで解散するかと意見がまとまった。
見せてもらったアニメはアルミンが言っていた『日本のアニメ』らしく、国によってこんなにも文化が違うものなのかと驚きの連続だった。強いて言うなら、国内のアニメのほとんどはあからさまに子ども向けだとわかる一方で、今回見せてもらった作品は、明らかに青年から成人にかけてをターゲットととして作られていた。……大人が楽しむために作られた高品質のそれに、満足しないわけがない。適度に頭も使ったし、感情も揺さぶられた。たった十二話で。その事実にも驚かされるが、……なるほど、これが〝ダサいギーク〟と称していたオタクたちを魅了するものなのだと知った。
「じゃ、ぼくはこの辺で引き返すね」
帰りの道中、アルミンもそこまで一緒に歩くよ、と三人でしばし歩いていた。本日見せてもらった作品を三人で振り返り、俺も我を忘れて抱いた感想を余すことなく伝えた。
そうしてアルミンの家から十分ほど歩いたくらいか、本人が一歩だけ下がって俺たちに手を振り始めた。俺たち二人も足を止めてアルミンを見送る体勢に入る。
「うん。アルミン、今日はありがとう」
「おう、色々ありがとうな」
「こちらこそ、楽しかったよ」
そう言ってアルミンが踵を返そうとしたとき、俺は昨晩した約束をちらと思い出して、
「アルミン、ロケット! ちゃんと回収しろよ!」
もう既に少しばかり距離ができていたアルミンに投げかけた。ああ、と驚いたように声を漏らしたのが聞こえ、
「わあ、そうだった! これから探さなきゃ!」
満面の笑みで振り返り、改めてその約束を上書きする。あれだけ忘れないと豪語していたくせに、やっぱりしっかり忘れてるではないかとおかしくなり、「忘れねえっつったじゃん!」と声を張って言及してやると、アルミンもまた振り返りながら、「あはは、うそうそ。覚えてたよ!」と手を振った。
嘘ばっかり、と口に出して呟いていたかは覚えていないが、最後にまたアルミンと別れを告げて、俺たちがこれから辿る道のほうへ身体を向けた。……足取りは軽く、楽しく終えることができた今日という一日に満足していた。
「――ねえジャン、」
……三歩めを踏みしめたくらいか。マルコが何の前触れもなく俺の腕を掴み、足を止めさせた。今までの楽しかった時間が嘘かのようにその声色は厳しく聞こえて、俺は慌ててマルコの顔を見返した。
「あの不良たちとはもう、つるむのやめたの――?」
ドン、と大きな衝撃が身体を打つ。
それをマルコに言われるまで、俺は完全に自分の本当の目的を忘れていた。俺はあろうことか、ただただアニメに盛り上がる〝ダサいギーク〟の一人に成り下がっていたことに気づかされた。
突然のその指摘に動揺して上手く頭が回らず、
「は……? あ、は、いや、お前何言ってんの。俺はそもそもアルミンの秘密を何か掴むためにこうやって、」
自分に再確認するようにそこまで吐いて……それから、今朝自分に対して嫌気が差したことにまで思考が到達する。加えて、目前のマルコも声に違わず、何とも厳しい目をしている。俺の焦りはどんどん追い詰めらえて、
「……おい、マルコ?」
その空気に耐えられずに、親友の顔を恐る恐る覗き込んだ。
「もしね、それが本当なら、もうアルミンに近づくのは止めたほうがいい気がする」
驚きに任せてまた焦る。ここで立ちはだかるマルコが心底不満げな顔をしていたものだから、
「……なんでだよ」
ついムキになって俺まで食いかかってしまった。どうしてそんなことをお前に言われなくちゃいけないんだと、姿だけは立派な反抗心が顔を出す。マルコもマルコで依然険しい顔をしていて、こんなに感情を露わにしているのは珍しいとわかっていながら、俺はその理由も考えずにそれに張り合ってしまった。
そんな俺を見て呆れたのだろうか。マルコは力を抜くために小さく嘆息を零した。
「……はあ、君が言っても聞かないから、自分で気づくまで様子を見ようと思っていたけどね。やっぱりもう見ていられないよ、君たち、とっても仲良さそうに笑うんだもん」
先ほどぶつけられたのよりも、何周も大きな衝撃が再び俺の意識を殴りつけた。マルコが言った言葉よりもその衝撃のほうに気を取られて、理解するのに時間がかかったほどだ。身体を巡る血液の脈が聞こえるくらい、その衝撃は俺の身体に纏わりつく。とても気分が悪く、またしても馴染みのない感情に追い立てられて、焦りばかりがマルコの言葉を跳ね返そうとした。
「ふ、ふりだっつうの」
今度こそまっすぐに俺を咎める視線に捉えられ、その真摯さに気圧されて視界がぐらぐらと揺れ始めた。
「……ぼくは、このまま君があの悪い連中じゃなくて、アルミンと友だちでいてくれたほうが嬉しいけどね」
「そ、そんなことあるわけねえだろ!」
何をこんなに焦っているのかもわからないまま、子どもの癇癪のように叫んでいた。
「あいつ、ダサいオタクだぞ⁉ ねえよ!」
「……ジャン、本気でそう思ってる?」
「お、思ってっけど?」
静かな声使いに勢いを削がれる。
俺がアルミンのことをどう思ってるかなんて、マルコになんかわかるはずがないのに。どうしてこんなに俺のことを知っているような口を聞くのだろう。あいつは学校でのカースト底辺の〝ダサいギーク〟で、それ以上でもそれ以下でもない。……確かに少しアルミンのことは踏み込んで知りはしたが、その事実は変えられるものではないはずだ。
「あのさ、ジャン」
マルコが身体を寄せて俺の両方の肩をしっかりと掴んだ。まるで目を覚ませと揺さぶられているように感じながら、
「〝君が〟痛い目をみるよ。今ぼくは確信した。アルミンから離れるんだ」
「…………い、意味わかんねえよ……」
それを振り払って歩き始めようとした。マルコが何を思っていようと、もう聞いていたくはなかったからだ。
俺に騙されているアルミンならともかく、騙している側の俺が痛い目を見るはずがない。そんなことわかりきっているはずなのに、どうしてマルコはこんなことを言うのか。今は考えている余裕などないほどに取り乱していた。
「わからない内が花だよ」
そう背後から聞こえて、ふ、とある事柄が浮かんだ。
「あいつの、病気のことか?」
このままアルミンに絆されて仲良くなったとして、アルミンがその寿命を迎えたときに、俺が悲しむということだろうか。それくらいしか俺の中で辻褄の合う筋書きはなかったので尋ねた。
なのにマルコは立ち止まったまま俺を見返し、「病気? 何?」と身を乗り出す。
――そういえば病気のことは少ない人数にしか知らせていないと言っていた。俺に教えたくらいだからてっきりマルコにも知らせていたのかと思っていたが、この反応から察するに、それは違っていたらしい。しまった、やらかしてしまったと、急いで顔を背けた。
「あ、やべ、忘れろ」
「ねえ、病気って何? アルミンどこか悪いの?」
数歩だけ離れていた俺にまた詰め寄り、マルコは血相を変えて食らいつく。明らかに初めて知らされたように問い続けるマルコを前に、本当にアルミンはこのマルコにも話していなかったのだろうかと浮かび……いや、本当はもっと別の……もしかして、アルミンは俺に嘘を吐いていたのではないかと、そんな疑いが浮かび、今度はその疑いを払拭するためにマルコと向き合った。
「ほら、あいついつも薬飲んでんだろ」
マルコの疑問に満ちた表情は変わらない。
「なんか副作用のせいで、あんまり長くないって……」
「へ、へえ、それは初耳だなあ。……薬なんて飲んでるの見たことないし……」
「は? いつも飲んでんだろ。昼飯の前とか」
じわり、と嫌な汗が滲む。考えたくはなかったが、やはりアルミンが俺に話したことは、全部嘘だったのだろうか……? これが、俺が見る〝痛い目〟なのか。
「アルミンとは丸一日一緒に過ごすこともあるけど、見たことないよ、ぼくは」
「……ど、どういうこったよそれ」
俺の動揺している思考に追い打ちをかけられる。……俺には話してマルコには話していないのは、やはりおかしいと過ぎる。マルコよりも俺を信頼するような馬鹿は、この世界にはいないはずだ。……だとするならば、アルミンが俺に嘘を……?
心が揺らいだ一方で、しかしそんな手の込んだ嘘を吐く必要はあるのだろうかと疑念は浮かぶ。実際に俺の前では欠かさずにピルケースから数種類の錠剤を取り出して飲み続けている。それに、普段は人に見られないように隠れて飲む、とも言っていた。……そういえば昨晩も、アルミンはなんとなく俺だけを誘ったと言ってくれた。――つまり、あるいは本当に、マルコよりも俺のことを信頼してくれているのかもしれない。
もう一つだけマルコの反応を確認したくなり、俺は静かに見守っていたマルコに向かって顔を上げた。……意を決してそれを声に乗せる。
「……マルコ、あいつの両親のこと知ってるか?」
尋ねると、間髪入れずにこの真面目くんは俺の真正面にド正論を浴びせた。
「ぼくは人のことを勝手に話すのはよくないと思ってるよ」
だが、それでは困るのだ。どうしてもこれだけは確認させてほしかった。縋るような心持ちで「これだけだから」とマルコに懇願して、
「アルミンの両親はもういないって……本当なのか?」
それを尋ねた。……否、あの引き出しに入っていた家族写真を見るからに、これは本当のはずだ……嘘であるはずがない。
実際マルコも俺の勢いに負けて口を開き、
「それは本当だと思うよ。ぼくもそう聞いてる」
落ち着いたトーンでそう後押ししてくれた。
その返答はどれだけ俺に安堵をもたらしただろう。
やはりアルミンは嘘を吐いてはいないはずだ。……都合のいい解釈かもしれないが、本人の持病については、きっと俺はマルコよりも信頼されているだけなのだ。……きっと。
自分を落ち着けるためにそうやって考えようとしても、それに対立するように、胸の中に生まれた正体不明の痛みがギリギリと俺を締めつける。
それはマルコと微妙な空気の中で分かれてからも、俺をしばらく苦しめ続けた。
第四話へ続く