第四話
三人で鑑賞会をして、帰路でマルコに俺の行いについて忠告されたのが土曜で、その翌日たる日曜の今日、俺は朝からずっと頭を悩ませていた。試験期間が終わった直後なのでいくらベッドの上でだらだらごろごろとしていても母ちゃんは特に口を出してくることはない。
俺が朝から頭を悩ませていたこととは、つい昨日、マルコに言われたことだった。……『君が痛い目を見るよ』――そうマルコが忠告したが、それを俺は未だにきちんと呑み込めていない。ずっとムカムカと気分悪く、胃の周りに纏わりついている。
このところ、俺は本来の目的を忘れてしまうくらいにはアルミンと打ち解けられたのだと思っている。なので、それがどう転んで『痛い目』になるのかがいまいち理解できない。マルコはいったい何を言わんとしていたのだろう。
……アルミンと二人で天体観測をした夜は、とても楽しかった。今でも鮮明に思い出せるロケットが飛んで行ったあの瞬間の眩さや、直後のアルミンのはしゃぐ声。どれもが心地よくて、このまま時間が止まればいいのにと思ってしまったほど。……そして、なかったことにはできない、あいつの部屋に勝手に入って物色していたときのこと。それを進めるに連れ自己嫌悪に陥り、最終的には臆して引き返すほかなかった。……――痛い目というなら、俺の中で結局アルミンへの同情が勝って、仲間に何の秘密も持ち帰れなくなることかもしれない。実際にマルコは『あんなに仲良さそうに笑う』とかなんとか言っていた。はたから見ても、もう俺たちは親しい友人に見えているということだ。
……親しい友人。親しい友人。……何度か口の中でもごもごと反芻する。
その響きは……思っていたほどそう悪くはなかった。ギークはダサいので自分自身は決して身を置きたくはないが、ああいう人種がいても、それは別にいいのかもしれない。
……だから俺は、とどのつまり、アルミンをどうしたいのだろう。
自問したところで何度でも過るのは、はしゃいでいたときのあの煌々と輝く瞳ばかりだ。そして弾けていた笑顔が光景いっぱいに広がり……自然と俺の気持ちまでもを解していく。
……このまま仲間たちの言いなりになって何かあいつの『弱み』を持ち帰ったとして……その先、アルミンはいったいどうなるだろうか。――これまであえて考えないようにしていた疑問が、ついに俺の意志とは関係なく氾濫を起こしたように吹き出してきた。
――ヴヴヴヴヴヴ
ところがそこで、携帯端末が振動だけで新着メールを知らせた。机上ではなく、ベッドの上、自分の枕元にその端末は置いてあったので、すぐさまそれを拾い上げて画面を確認した。ついでに意識を向けた時刻は既に夕飯どきに近づいていて、そのままメールボックスを開いて差出人をこの目で捉える。そこにあった文字列は『アルミン』を表していて、今度は謎に緊張してしまっていた。
『ジャン、相談したいことがあるから、今から家に来てくれないか』
思い切って開いてみればこれだ。俺はその文面に急き立てられるように脈を速くさせる。ドックン、ドックン、と強めに響くそれは、とても心地が悪い。
……相談とは、いったいなんだろうか。〝ギーク〟のあいつは〝ギーク〟なりにプライドもあるのはわかるので、そんなやつが〝俺〟なんかに相談したいなんて、よほどのことだろう。また他校のやつに絡まれたとか。……否、他校である必要もない。校内の不良に絡まれたとかも大いにあり得る。……もしくは、昨日こっそり部屋に入ったことがばれてしまっただろうか。
速くなった脈のせいなのだろう。冴えた頭はくるくると高速回転を始め、思い当たる節を片っ端から洗い出していく。
『わかった、待ってろ』
回転させたままの頭でそう返事を送り、慌てて服がしまわれているクローゼットに駆け寄る。
ただの文面からのイメージであり、何の根拠もないのはわかっていながら、俺はアルミンが切羽詰まった状態でそのメールを寄越したのだと思えてならなかった。一昨日の夜よりもよほど雑に準備を終わらせるには十分な動機で、姿見もまともに覗かないままに自宅の玄関から飛び出していく。焦ることはないと自分に言い聞かせても、逸る気持ちを抑えられない。一刻も早くアルミンに会いたかった。
ここしばらくですっかり通い慣れたアルレルト邸に到着し、玄関のチャイムを鳴らすと、アルミンは俺の予想に反してのったりとした動作で顔を出した。
「おう」
「やあ、」
……だが、すぐに様子がいつもと違うことがわかる。にこやかには笑って出迎えてくれたものの、目を合わせようとしない。……これには出会ったころよりももっと警戒されているような気にさせられる。反射的にアルミンの目を追ってしまったほどだ。
「……悪い、待たせたか」
「あ、ううん。入ってよ」
そこで一度パチリと目が合ったが、そそくさとどこかへ視線を逸らされる。……なんだなんだ、と気づかれないように勘ぐっていた。……やはりアルミンは何かが変だった。そわそわしているというのだろうか。何かを悩んでいるというよりは、もっとこう……身構えているような雰囲気を感じ取る。その仕草を前に俺が抱いていたのは焦燥感で、もしや俺のことを止めたいがために、マルコが本当のことをアルミンに告げてしまったのか、などと、断罪の可能性が頭にちらついた。……もしそうなったとしても、すべて俺の自業自得には変わりない。
玄関の奥へと入っていったアルミンを見て、腹を括ってアルレルト邸へ踏み入れる。
もう使い慣れたリビングに通され、…………ただ、いつもと違い、アルミンは俺が腰を下ろすソファの特等席の、向かいではなく隣に腰を下ろした。詰められた距離感に驚き、徐々にまたドックン、ドックンと脈拍が上がっていく。……近い、アルミンが触れられるほど近くにいる。理屈ではなく、ただただ身体が反応するままに気を張ってしまった。
俺の隣で憂いに伏せられた瞳が、少ない光源でもしっかりと光を揺らしている。細く柔らかそうな金糸の前髪と睫毛が交わり、瞬きする度に光の模様を変えていた。
「……あ、アルミン? どうした、相談って、」
二人して沈黙していたことに気づき、アルミンの顔を下から覗き込んだ。
……よほど思い詰めているらしいことは、その様相でよくわかる。……本当の目的が知られてしまったのだろうかと動揺する気持ちが未だに俺の中の大半を占めていて、それならもったいぶらずに早く止めを刺してくれという情けない胸中だった。
「――…ジャン、」
「……な、なんだ」
ようやくその重たかった口が開かれるときがきた。意を決したようにアルミンは顔を上げて、まっすぐに俺の瞳を見据えた。ぎらぎらと滾る何かがそこには蠢いていて、ゾクリと背筋に不可解な痺れが走る。
呆気にとれている間にその影は俺に覆いかぶさり、そのままソファの肘置きに背中が倒されていた。動揺して目を見張っている間にもアルミンの顔が俺の頭上……顔面の真上にきていて、はらはらと語りかけるように俺の両方の目をよくよく見ている。見透かされているように感じて居心地が悪いのに、再び背筋を通った痺れには不快感は抱かなかった。
「――ぼくはもう、自分の気持ちがわからなくなっちゃったんだ」
ぽつりと落ちるアルミンの言葉。……俺にとってそれらの意味はとても難解に思えた。
「……アルミン?」
「ねえ、ジャン。……キスしていい?」
……アルミンに、尋ねられる。ドクドクと脈打つ心臓の音が、これまでで最高潮に達している。すぐさまその言葉の意味は理解してはいたが、思考は完全に停止して、既にアルミンを止める術など考えていなかった。
「……は、え!? ん゛ッ」
柔らかさが触れた途端に、身体が震えて力が入らなくなる。初めてこんなに間近でアルミンの匂いを認識して、突き放すべき手はその腕を掴んでいた。逃げられないように囲い込まれているのが、自分でも理解できないほどに安堵に繋がる。眠気にも似たまどろみが全身をくまなく襲い…………ああ、そうか。俺は――、
「……嫌じゃないの?」
は、と我に戻る。
ぼんやりと溶けるような意識の中、見上げれば、アルミンの瞳は相変わらず何かに迷っているように揺れていた。……本来なら突き放すべき手は未だに触れたままの袖を握っていて、拒否することで反対に拒否されることを危惧していたように思う。呼吸が上手くできず、なかなか整わない。
「……ジャン?」
重ねるように促され、
「……お、俺は…………わかんねえ」
観念して今の胸中をそのまま吐露するに至っていた。
なんでもっとわかりやすく『嫌』と言えないのだろう。『こんなのは望んでいない』とはっきり告げられないのだろう。
答えを導き出す暇もなく、またアルミンは様子を窺うように俺の唇に食みつこうとしたのがわかった。互いに見つめ合っていた視線が瞼を下ろされたことで途切れ、今度こそ、俺は受け止めるつもりでここでそれを待っていた。そしてそれを自覚したことで受けた衝撃は、あっという間に別の何かに成り代わる。
柔らかさと柔らかさが触れ合い、背筋を痺れさせたあの感覚がまた熱とともに身体を駆け巡った。その痺れの正体が安堵や心地よさや快さ、動揺や歓喜など、説明し尽せないほどの大きな感情の渦巻きだとここで悟る。
「……ん、ふ、」
自分でも抑止が効かず、この腕はアルミンの背中に回っていく。瞼を閉じていたので、目前に置かれているであろうアルミンの表情は想像でしかなかったが、考えただけで身体はより浮ついた。
だが、浮ついていたのは俺だけではない。アルミンも吐息がかかるほどの距離だけ離れて、
「ッ……ジャン、ぼくの名前を呼んで」
とんでもなく浮ついた声で俺に語りかけた。びりびりと身体を巡る痺れが感度を増す。
「……アル、ミン……ッ」
「ふふ……――」
朦朧とした意識の中、うわ言のように名前を呼んだ――
「――ジャン、君って最低な人間だね」
「……は?」
不意に声色が変わっていたことで目が開く。
覆いかぶさったままのアルミンが、不愉快を一つも隠すことなく、俺のことを見下していた。
「いや、最高の役者だと言い換えてもいいかもしれない」
「アルミン? は? 何?」
俺はというと、今の今で、頭の中が激しい混乱状態に陥っていた。最低な人間? 最高の役者? いったいアルミンは何を言っているのだと解説を待ってみても、ここにいるのはただの虫けらだとでも言いたげな不快な視線を、ひたすらに俺に降らせるだけだった。
「ど、どういう意味だよ……⁉」
やばいやばいやばい、これは、まずい。これまでに経験したことがないほど激しい警報が脳内に鳴り響き、アルミンを無理やりどかせるように身体を起こした。……今のは何だったんだ。これは、どういう状況か。
「――よく〝罰ゲーム〟でここまでできるね。心底軽蔑するよ」
その言葉が、最も避けて通りたかった分岐へ進んでいた現実を、この俺の顔面に叩きつけた。アルミンはさらに大きく息を吸って、
「君は頭がいいと思っていたけど、ぼくの勘違いだったのかもしれない。君はむしろ愚鈍だった」
そうやって俺への罵倒を言い切る。その表情、態度が今この状況がどうなっているのかを、余すことなく俺に伝えてくれた。
目の当たりにした俺の頭にもカッと血が上る。今この瞬間まで身体の中にためていた熱が、一気に沸騰したような激情が湧く。だいたい卑怯ではないのか。いったいいつから俺が〝罰ゲーム〟でここにいたと知っていたのか。
「愚鈍だあ⁉ お、お前ッなんだよそれ⁉︎ 知ってたっつうのか!?」
「うん、知ってたよ。最初からね。ぼくはいい友だちを持っているから」
そう煽られて浮かぶ顔は一人しかいない。
「……マルコか?」
「うん、君には気をつけたほうがいいかもってさ。すぐに意味はわかったよ」
ということは、俺が一番初めにマルコに相談をしてひと悶着あったそのときから、マルコはこの事態を察してアルミンに助言をしていたと……。つまり、初めから騙されていたのは……俺のほうだったと。
これまでアルミンと過ごした日々が――いつの間にか積み重なっていたたくさんの日々が蘇り、それがすべてアルミンの策略の内だったのだと重ねた途端、こみ上げるものに喉を押された。
「……そ、そんなの! お、お前だって悪趣味じゃねえか! 初めからこれが嘘だって知ってて、俺と仲良くなっていたふりをしてたっつうことなんだろ!?」
「悪趣味なんて! ぼくだって初めはちょっとからかってやるくらいのつもりだったんだ! それくらいしてもいいだろ!? 君たちのやっていることをわからせてやろうと思ったんだよ!」
初めて勉強を見てくれたときに『君って頭がいいんだね』と言ってくれたことも、交わした他愛ない雑談も、あの……天体観測も、ペットボトルロケットも。すべてがアルミンの策略の中だったというのだ。頭に上っていた血が静かに下っていくのがわかった。代わりに目眩のようなふつふつとした、得体の知れない感情が湧き上がり、だがそれが怒りとすり替わっていたことには気づかずに俺はアルミンを睨み続けた。
「わっ、わからせるって……俺たちよりよほど質悪りいじゃねえか!」
「君にはなんの説得力もないんだよ! 怒鳴るのをやめてくれないか!」
食いつくように互いに顔が近づいていたせいか、ふわりとアルミンの匂いを認識する。それに煽られて、先ほどソファに沈められたことを唐突に思い出し、
「お前が先にやめればいいだろ……ッ!」
唐突に言葉に詰まった。
……触れた唇の柔らかさをも思い出して、急いで合わせていた目を逸す。
「……って、ちょっと待て」
「な、何?」
「……お前、今、俺に何をした?」
「え?」
アルミンの声色はまだ少し乱暴だった。それを聞くにつけて、本人も自分のしたことをとっさには思い出せないらしいと悟る。俺は自戒を含めて、ダメ押しをしてやった。
「お前、今、俺を押し倒したのか?」
……だって、そうだろ。なんでなんだよ。
「……そ、そうだよ。君を試そうと思って」
「俺が『罰ゲームでここにいる』ってわかってて、押し倒したのか?」
そのとき俺は、アルミンを突き放すこともできたはずだ。むしろ俺のほうが体格もいいし、体力テストで万年上位の俺が、こんなやつに敵わないはずがない。……それなのに……?
「だから、そうだって。君がどこまで耐えられるか、見ようと思ったんだよ」
「……正気か?」
「きっ、君に言われたくない。君だって……か、可愛い声、出してたじゃないか」
……そうだ。俺は、アルミンに『名前を呼んでくれ』と言われたとき、気持ちが高ぶって言われたままにそうした。……気持ちが高ぶった? アルミンにキスをされて、囲い込まれて、心地いいなんて……思ってしまっ……――
「……君がぼくの名前を呼んだのも、全部録音してあるからね! ぼくのこと、仲間に話したらこれをネットにアップするから……っ」
俺はもう自分の感情をどう処理したらいいのかわからなくなり、できる限りの力で頭を抱えた。だって、こんなことってあるかよ。あんなにも〝ダサい〟と見下したギークに対して、この俺が……⁉
「……なんなんだよお……ッ正気かよ……!?」
「だから、君に言われる筋合い、」
「〝俺が〟だよ!」
「……え、」
もうこれ以上は誤魔化せないと思った。
「だって、そうだろ……!?」
好きでもなんでもないやつに押し倒されてキスされて、それで抵抗しないわけがない。……それなのに俺は……正気か? アルミンは同性で、しかも、俺には片想いをしていたはずの女子までいるのに。……ここまで拒否する理由が揃っているのに、俺はそれどころか受け入れて、あまつさえそれを……。
またしても先ほど唇が重なったときに身体に溢れた感情が蘇り、だが今回はそれに痛みが伴って俺に襲いかかった。もう自分自身が何にこんなに動揺しているのかもよくわからない。この混乱状態の中ではっきりとした認識に足りたのは、引きちぎれそうな胸の痛みだけだった。
「意味わかんねえよ……苦しいし、痛えし……! なんなんだよこれぇ……ッ!」
騙していると思っていたアルミンに、反対に騙されていたこと。騙していると思っていたアルミンに……情が、移っていたこと。……しかも、それは、もしかすると『単なる情』ではないかもしれない。――そこまで、俺はしっかりと自覚してしまった。
「え、ジャン……君、もしかして、」
はっ、と俺は息を呑んだ。アルミンがそこで続けようとした言葉をいち早く察して、慌てて声を上げる。
「んだよ、違えよ! んなわけあってたまるかってんだ! ってか察しが良すぎてこええ!」
先ほどまでの怒気は既にアルミンにはなく、俺が頭を抱えている手首に触れた優しさに狼狽えた。ふわ、と柔らかく握られるものだから、そこを強烈に意識してしまい、なんとも言えない視線を寄越すアルミンと目がかち合う。
……なんで今さらそんな……ッ
襲いかかる現実に耐えられなくなった俺は、この事態にどう収拾をつければいいのかわからず、アルミンを振り払って廊下に走り出していた。
「あ、ま、待ってよジャン!」
「待つわけがねえ!」
「まだ話は終わってないよ!」
「俺のほうは終わってんだよ!」
「でもっ」
俺は既に玄関にいて、アルミンはまだリビングルームから顔を覗かせているだけだった。……全力で走れば、余裕で俺のほうが早い。俺は玄関のノブを縋るように握りしめ、
「うるっせえ! 今まで悪かったな! もう金輪際お前には関わらねえから安心しろ!」
そう捨て台詞を吐いて、アルレルト邸を背後に置いた。
「えっ、そうじゃなくてっ、ジャン……!」
玄関の扉が閉まる前にアルミンを引き止めようとする声が聞こえたが、そんなものに俺を止められるわけがなかった。
だって、そうだろ。俺は飛んだ大馬鹿者だ。……そりゃ、マルコも心配するわけだ。自分が騙しているつもりで、まんまと騙されていたなんて、仲間にはいい笑いの種にはなるだろう。――……ああ、そうか。『君が痛い目を見るよ』と言っていたのは、このことだったのか。
急に足が重くなり、走れなくなる。
……ここ最近の俺は、不良仲間での罰ゲームなんて忘れてしまうほど、アルミンと過ごす時間を楽しんでいた自覚を持っていた。こんなしようのない目的を持った俺がアルミンと関わることにも、胸は痛んでいた。……それなのに、それをアルミンが内心であざ笑っていたのかと思うと、先ほどこみ上げかけた感情が再び熱を帯びてせり上がってくる。目頭が熱くなって……次第に視界も歪み……。
「……ッ」
信じられなかった。あのロケットが飛んでいった瞬間のアルミンの爛々とした声が嘘だったと到底思えるわけもなく、次々に自分が気に入っていたアルミンとの時間が脳裏を駆け巡った。今更あれらの時間が俺にとって意味のあるものだったのだと知った。……もうあの日々には戻れないのだと、必然のように噛み締める。……今ならはっきりわかる。俺はそんなこと、望んでいなかった。……だが、それが〝今〟わかったところで、確かに遅過ぎはしたのだ。
……ああ、だから、これも自業自得だ。自分のために人を貶めてやろうと、一度でも思った愚かな俺への報いがこんな形になってぶつかってきたのだ。
ぐにゃぐにゃと歪む視界では、通い慣れているはずの道もまるで見知らぬ町並みに見える。それをとぼとぼと辿り、家に着くころには既に気力をすべて失っていた。
こんな時間にどこに行ってたの、なんて母ちゃんが口うるさく声を張り上げていたが、俺の顔色を見て最終的には「大丈夫?」と言葉が変わっていた。……いいや、母ちゃん、史上最悪に気分が悪い。ほぼすべて自己嫌悪のせいだが。
――こんなことになってまで、他のカースト下位のやつを見つけて、弱みを握ってやろうなんて気を取り直せるはずもなかった。つまり俺は仲間たちにとって恰好の笑いのネタになることがその時点で決定していて、それを傍から見た他の生徒たちも俺のことを見て可哀想になんて思うのだろう。これから俺を待っている惨めな日常を想像しては、仲間たちに会うのも……そして何より……またアルミンと顔を合わせるのも、もうすべてが億劫になってしまった。こんなことをしでかしておいて、世界に顔を晒す気にはなれない。
無気力のままベッドに横になり、俺は明日の学校はサボっちまおう、などと軽率に考える。どうせこんな不良の一人や二人、学校にいなくたって気にするやつはいない。こんなことをしたところで色んなことから逃げ切れるかわからないが、今はまだ、正面からそれらと向き合うには圧倒的に気力が足りなかった。
*
よほどサボりたいと思っていた願いが天に通じたのか、翌朝目が覚めると本当に熱が上がっていた。久々に経験する身体の不調は、嘘だろという威力で俺をベッドに縛りつけた。あまりのだるさに携帯端末でSNSすら開けない始末だ。……なんにせよ、俺は登校しなくていい正当な理由を手にしたのだから、身体を休めることに専念した。
明くる次の日も熱は下がらない。解熱剤を服用している間はかなり楽だが、切れるとすぐに熱が上がり床に伏した。どうやら『天にましわす我らの父』は、今日も俺にゆっくり休んでいいぞと許可をくれたらしい。
だが残念なことに、その晩には解熱剤を服用しなくとも熱が上がらなくなった。……要は単なる風邪だったのだと思われる。病院には行っていないのでわからないが、二日で熱が下がるなら大したことではなかったのだろう。
日中ほとんどカロリーを消費しなかったことが災いしたのか、明日はどうしようかと思い悩みながら夜が明けた。決して迎えたくなかった『欠席の理由のない』朝だ。――一晩かけてじっくりと自分と話し合った結果……やはり俺にはまだ登校に足るほどの気力は戻っていないと結論がでる。……数日前から考えていたのと同じだ……仲間たちに今回の失敗を報告し笑い者にされるのも、それによりあいつらの『負け犬』と晒し者にされるのも……そして何より、アルミンと顔を合わせてしまうかもしれないことも。何についても、俺はまだ心の準備ができていなかった。
様子を見に来た母ちゃんには、昨日よりはかなりましだが、まだ登校できる状態ではないと嘘をついた。……身体的に見れば嘘ではあるが、俺のメンタルも含めるならば嘘だとも言い切れない。
前日同様にベッドの上で目的もなく過ごしていた俺は、次第に手持無沙汰だと数日前の〝例の日〟のことを思い出して気が狂いそうになることに気づき、もう何回も読みつくした雑誌を引っ張り出して片っ端から読んでいった。
――だが、どれも面白くないのだ。当たり前だ、目新しい情報はそこにはなく、既に過去のものと化した古い流行が嬉々として紹介されているだけなのだから。そんなものに集中できるはずもなく、思考はやはりアルミンの元に戻っていく。――触れたことに気づいた瞬間に知ったアルミンの匂いとか、楽しいときには惜しみなく弾けさせる笑顔……それから、不快そうに見下ろす寒々しい眼差しまで、そのときの感情を伴いながらぶり返してくる。
熱が引いているときはずっとこの思考をぐるぐると辿っていて、もう俺は俺でいることに耐えられなかった。アルミンを騙そうとしたのは俺自身のくせに、反対に騙されたことに傷ついている自分も嫌いだ。今更、アルミンと過ごした時間が特別だったと気づいて、どうしたらあのままでいられただろうと検討してしまう自分も白々しくて許せない。
なんで俺はあんな馬鹿な真似をしてしまったのだろう。あれからずっと拭われることはない自嘲の思考がまたしても痛みをつれて襲ってくる。
まず初めに仲間内でやったウノ大会で負けていなければ……いや、そもそも参加すらしていなければ、こんな人生最大とも言える過ちは犯さないまま、今ものびのびとミカサのことだけを考えて、へらへら笑って……適当に〝かっこよく〟生きていたはずだった。……『後悔してもしきれない』、その言葉通り、どれほど遡っても、山ほどと後悔があることに気づき、再び気持ちがどん底に落ちていく。
「――ジャン」
ふと、思考の隙間にノックの音と母ちゃんの声が紛れ込んだ。それとなく時間を確認すれば夕方すぎごろで、飯でも持ってきてくれたのだろうかと気は抜けたままだった。
「んだよ」
「マルコくんがお見舞いに来てくれたよ」
さらりと告げられた情報に、俺は思わずびくりと大きく身体を震わせる。今まで自責の念でいっぱいで、まるで考えていなかった出来事に狼狽えた。
「……は⁉ マルコが⁉」
それが丸わかりなほどに声を上ずらせて答えてしまい、
「ジャン、開けるよー」
唐突に聞き慣れた親友の声に代わったことに慌てた。
別に隠さないといけないようなやましいものは何もないのに、思わずそこら中に散乱させてしまった古い雑誌を見渡してしまった。
「ジャン?」
「お、おう。いいぜ」
紳士的な振る舞いを心得ているマルコはしっかりと俺が了承するまで待ってくれて、それから静かに扉を開いた。ひょっこりと見慣れたそばかす顔が覗き、
「……なんだ、意外と元気そうじゃん……って、うわ、どうしたの」
床に散らばっている雑誌をちまちまとよけながら俺のベッドの脇まで歩み寄った。
マルコが学校鞄とは別に何かをぶら下げていることを素早く察知して、一心不乱にその存在感を放っている手提げ袋に照準を合わせる。それを見たマルコもあはは、と安心したような笑みを見せて、
「ジャン、こんにちは。お見舞いを持ってきたよ」
「うおお、ポテトチップス!」
お気に入りのフレーバーの色をしたお菓子の袋を見せてくれた。
それを受け取ってから、すっかり勝手知ったる我が家のように俺の椅子を引き寄せているマルコを見守った。
「……風邪?」
唐突に核心を突かれる。
不意にまた熱がこみ上げて、拭い去りたい自分も溢れそうになった。……どんな醜態だったとしても、この親友にだけは嘘を吐きたくなかった俺は、ポテトチップスを入れていた手提げ袋を強く握った。
「……昨日までは風邪。今日は、サボり」
今回の騒動の渦中……むしろ中心であるアルミンですらないのに、ずっと側で忠告してくれていたマルコでさえ目をちゃんと見て話せなかった。こいつに限って『だから言ったろ』なんてまくし立てるわけがないとわかっていながら、それでも、自衛に徹してしまった。
マルコの視線をしばし俺の頬に受け続けた。それから、すっと小さく息を吸った音が聞こえて、
「……ジャン、やっぱりアルミンと何かあったね」
またしても容赦なく現実を突きつけてくる。
――『やっぱり』ということは、ここへ来る前からおそらく何かしらの要素から見当をつけていたのだろう。アルミンから俺と何があったのか報告を受けた可能性もあるが……そうならば『やっぱり何かあったね』とは言わないように思えるので、おそらく『何かあった』の内容は、本当に知らされていないはずだ。
ただ、確かにマルコに嘘を吐きたくないとは思ったが、〝例の日〟に起こったことは俺だけの出来事ではないので、勝手に話すことについては逡巡した。マルコに限ってないとは思うが、俺がやってしまったことのせいで、こいつのアルミンに対する心証を貶めたくはない。
だから俺はひとまず持っていたポテトチップスを脇に置きながらごちった。
「……まあなんつうか……『痛い目』ってやつか…………自業自得だ」
未だに目線は交わらないが、それを聞くなりマルコも視線を手元に落としたようだった。否定も肯定もなくただ静かに「そっか」と呟き、何かを深く考えるように口を瞑った。
せっかく忠告してくれたのにちゃんと耳を貸さなかったからこんなことになってしまったのだ。それだけで立つ瀬がないというのに……さらにこんな俺のために頭を悩ませてしまっていることが、さらに申し訳なくなってこの身が縮んでいきそうだ。
「……ぼく、余計なことをしたのかな」
そっとした声遣いで口を開く。
「いいや、俺が悪い。お前が気にする必要ねえだろ」
「……うん、そうは思っているけど……」
そこまで言うとマルコは一つ間を置き、俺の様子を窺っているようだった。……それでもきっと『言おう』と決めていた言葉が元からあったかのように、すぐにまた言葉を再開させた。それも先ほどまでと変わらない、そっとした声色だった。
「ぼくにとって両方が大事な友だちだし、どちらの味方でもないから何も言えないけど」
「おう」
「……アルミンもこのところ調子悪そうでさ、ジャンと何かあったのって聞いても『何もない』としか言わないし……」
言い迷ったのは察した。だが俺が反射的に視線を向けてしまったことで、マルコも決意が固まったのか先を続けた。
「でも、ぼくが先週言った気持ちは変わらないよ」
「……先週言った気持ち?」
忠告された以外に思い当たる節がなく、締まりのない調子で尋ねていた。まるで予想していたように静かに頬を綻ばせたマルコは、これに関してははっきりとした口調で教えてくれた。
「ジャンが、あの悪い奴らじゃなくて、アルミンと仲良くしてくれたほうが嬉しいってやつ」
屈託なく願う眼差しに居たたまれなくなり、逃げるようにまた視線を隠してしまった。
マルコがそう望んでくれていることは嬉しい……し、今となっては、俺だってそうすればよかったなんて都合よく後悔もできる。……だが、それはどうしたって、もう実現させられる術も気力もなくなってしまった。……あんなことがあった後では、もうどうすればいいのかわからない。
「……そんなん、もう、あり得ねえよ」
だから俺がそう告げたのは、自分に対する非難でもあり、戒めでもあった。ただ間に挟まれて巻き添えを食らっただけのマルコにも、俺にそう接するようにと罰を願ったのかもしれない。
なのにマルコは、予想外のところから軽く飛んでいってしまいそうな質問を俺に投げかけた。
「――そうかな?」
「は?」
「そんなこと、決めつける必要はないと思うけど」
悪気も迷いもなく、マルコの瞳の中でその願いは瞬いてる。俺は刹那的に呆気にとられたが、それでもすぐに現実の元にまた舞い戻っていた。……そう、マルコは俺とアルミンの間に何があったか知らないから、そんな風に真っすぐに希望を持てているだけのことだった。
俺だってこれまでの愚かな行為も思考も……あのときの言動さえも……なかったことにできるならそうしたい。だが、自分でさえ、まさにあのときに気づいてしまった己の感情を、上手く隠せるはずもなかったのだ。……俺はそのときに初めて、アルミンに対して特別な感情を抱いていることを知った。そして頭のいいアルミンのことだ……その場ですぐに察せられていた。……その証拠として、それをすぐに尋ねようとしたくらいだ。
反対に俺の弱みを握ってやろうとボイスレコーダーまで稼働させていたアルミンが、今更俺と顔を合わせて仲良くしたいわけがない。確かに本人に確認したわけではないが……そんなこと、誰ができるという。
だからマルコは、まさかアルミンがボイスレコーダーを設置して、俺を罠にはめるために迫ったなんて知る由もないから、そんな風に願える。
「……思うんだけどさ」
黙り込んでしまった俺に見兼ねたのか、再び優しく落ち着いた声が語り始めた。引かれるようにそれを見やれば、また強い希望をそこに含み、その眼差しを俺に与えていた。
「時には逃げることも必要だけど、その逃げが自分にとって本当に『楽になるため』の逃げなのかどうかは、しっかり考えないとね」
言われたままに受け止めて、立ち所に言葉を失う。
――いや、まったくその通りだと目が開いたような心地になったからだ。
俺がここで学校をサボろうと、それは問題を先送りにしているだけで何の解決にも近づいていない。このまま退学する覚悟があるならまだしも、それすらないのに、これまでしてきた行いの然るべき報いを、後へ後へと追いやっているだけだった。……これではいつまで経っても『楽になる』どころか、じわじわと自己嫌悪で自分の首を絞めているようなものだ。
閃いた考えに圧倒されて、さらにしばらくの間、口を開くことが敵わない。……俺は本当になんて馬鹿だったんだとくり返し頭が冴えるような感覚を抱く。
その横でマルコはすくりと立ち上がり、
「まあ、大したことは言えないけどさ、話を聞くくらいならできるから……何かあったら連絡してよ」
学校鞄を本人の肩にかけながら、椅子を元の位置に戻し始めた。もう帰るつもりらしいとわかり、俺は慌てて顔を上げる。
「マルコ、ありがとう」
「うん。じゃ、また学校で」
最後に爽やかな笑みを残して、俺の部屋を後にした。玄関までの間に母ちゃんに捕まって「夕飯食べて行けばいいのに」なんて絡まれていたが、慣れた返しで回避していた。
俺はというと、今しがたマルコに諭された言葉をくり返し考えていた。
結果はどうなるかはわからないが……それでも俺自身が『楽になるため』に、思考を前に進めなくてはならない。仲間たちへの報告をどうするのか……さらには今後どのように接していくのか。……そして、学校でアルミンと顔を合わせてしまったときに動揺してしまわないように、しっかりと自分の中の気持ちを整理しておく必要がある。
マルコが訪ねてくる前よりも、よほど気持ちの面ではすっきりとしていた。今日ここへきて、話をしてくれたことを心からありがたく思う。……ただ間に挟まれて迷惑を被っただけのマルコに、これ以上心配をかけないように、俺はしっかりと時間をかけて自分と向き合うことにした。
第五話へ続く