ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア
ぼくはしばらく公務で缶詰になっていた。もう全部嫌になって、どうしても仕事を忘れたくなって……すると、突然脳裏に浮かんだ、疎ましそうなあの顔を見たくなった。ぼくの気持ちなんて、これっぽっちも拾う気のないあの、疎ましそうな顔。
……でも嫌いじゃなかった。
どうであれ、ぼくに対して畏怖の対象だと知らしめる表情をしないのは、彼が唯一だった。それは多くの場合、嫌悪ではあったけども、そうでないときも確かにあったんだ。
……疲れると、彼の顔が見たくなる。もちろん疎ましげな顔よりも、極たまに見せる、すべてを許してしまうような優しい表情の方が好きだけど。それでも、疲労や畏怖の表情じゃない、彼の顔が見たくなったのだ。
――そういえば、最後に彼の顔を見たのはいつだろうか。今日も元気に騒がしくやってるだろうか。よく会いたい、見たいとは思うものの、実際に行動に移すことは今までなかった。そろそろ十分我慢したのではないだろうか? 久しぶりに会っても、許されるんじゃないだろうか。そう思ったらもう居ても立ってもいられなくなってしまう。
彼は今、どこにいるのだろう。……今から飛行機に乗ったら、今晩には会うことも可能なはずだ。
彼のブログを開いてみたけれど、今日はまだ一つも更新はされていなかった。……それに、『これからの』行き先を記載することはないのだと思い出した。
ぼくは『公務の内容に現地視察が必要なものがあるから』と嘘をついて、カリーニングラードに行くように段取りをした。とりあえずロシア本土から出て、『監視』を手薄にさえすれば、そのあとはいくらでもドイツに飛べると思った。なので申し出のあった部下の付き添いを断り、早速直近でこの地を発つ飛行機に乗った。到着までの数時間、ぼくは記憶もないほどに眠り耽った。……数日の缶詰はよほど身体に負担をかけていたらしい。
ともあれ、カリーニングラードに到着するや否や、もう何度も訪れている街を歩く。夕食の時間もとうに過ぎていた。
だけど、一刻も早く会いたいと思ったぼくは、別荘に着いてまず、ドイツくんに電話をかけた。もちろん、彼の居場所を聞くためだった。初めは言い渋っていたけど、どうしても、と食い下がると教えてもらえた。
『残念だが、兄さんは今ベルリンにはいない』
電話越しで淡白な声がそう教えたけども、落胆する前に「じゃあどこにいるの?」と問うと、またしばらく言うか迷い、末に『実はカリーニングラードだ』と落とされた。
ドキドキと静かに脈が波打っていたけれど、それを押さえつけて、あくまで冷静に続けた。……冷静に続けた『つもり』。
「え? そうなの? ぼくも今いるんだ」
『そうか、すまない。ロシアの耳には入れないようにと言われていたんだ』
「いいよ、確かにそれは彼らしいよね。ところでさ、彼、行きつけのお店とかあるの?」
『店? 飲み屋か』
「うん」
『あるにはあるが……新規開拓が好きな人だからな』
「いいよ。君が教えてくれたところにいなくても、全勢力を持って攻め込んだりしないから」
冗談で言ったつもりだったけど、生真面目なドイツくんはクスリとも漏らさず、『それはわかっている』と淡々と寄越した。そのあといくつか店名を教えてもらい、ここから少し距離があるなあとぼんやり思いながら、その電話を切った。彼がお忍びでこの地に来ていたことは初耳だったが、この地を大事にしてくれているようで、少し喜びを抱いた。……言い換えれば、確かにここは彼にとって、大事にせざるを得ない地ではある。
ついと、静まり返った別荘にいることを思い出した。さらにたった今、ぼくはこの地で一人だということも。
もしドイツくんが懸念しているように彼に会えなかったら、ぼくは遠土遥々独りぼっちになりに来てしまったということだ。そんなことには耐えられない。
終話と共に脇に置いた携帯電話を改めて拾い上げ、今度は迷いなくリトアニアに電話をつなげた。ポーランドは頼りになるとは到底思えないし、だとするとここから近いという理由では、リトアニアが適任だった。出鼻からぼくの様子を伺うような口ぶりに少しだけ苛立ってしまったけれども、それでも独りになる可能性を考えたら許せた。至急カリーニングラードのどこどこの飲み屋街に来て、と無理を言った自覚はあったけども、リトアニアも逆らうつもりも気概も毛頭なく、素直に支度しますとしょぼくれた。
そうしてようやくぼくは、彼に近づいている実感とともに、もう冷え込みが激しくなった夜のカリーニングラードの飲み屋街を徘徊した。本土にあるような、良さそうなロシアンバーも見つけた。きっといいウォトカがたくさんあるに違いない。
リトアニアから待ち合わせ場所に着いたとの連絡を受け、その場所へ向かう。合流するとリトアニアは驚いた顔をして、「お一人ですか?」と焦った様子だった。
「そう。今日は今のところ一人だよ。ラトビアには声はかけてないし、エストニアには雑務を任せて来てるから」
おそらくリトアニアと仲良しの二人のことを気にしているのだろうと思い、ぼくはそう教えた。
本当のことを言うと、エストニアには特に仕事は振ってきてないが、それではリトアニアが納得しないかなと思って嘘を吐いた。
するとリトアニアは尚更青ざめて、ぼくは首を傾げた。
「えと……その……つまり、俺と二人で……飲み屋街って……」
ああ、なるほど。ぼくはようやく意図を理解した。
「あはは、安心してよ。ぼくもリトアニアと二人きりで飲んでみたいけど、今日は違うんだ」
思った通り、目の前の表情は和らいだ。
……傷つくなあと脳みその奥の方でごちったけど、すぐに自制が割って入り、言葉が続く。
「今日はね、この辺にプロイセンくんがいるかもって。彼を一緒に探してほしくて」
「ぷ、プロイセン……ですか」
「うん、そうだよ」
その表情は一層の嫌悪を混ぜた。傍から見ていてもわかる、この二人も仲良くはない。でも、そんなことぼくには関係はない。
事情をある程度説明し終えたので、早速ぼくは一軒目に向けて、リトアニアに店名を書いたメモを託した。リトアニアが小型の端末を使いこなし、住所などを調べながら歩く。
初めに目指すはドイツくんが『最近のお気に入りだ』と言っていたビールバー。地図と実際の町並みを見比べ、スマートにぼくをエスコートしてくれる。きっと何度も訪れる機会はあっただろう。
お腹空いたな、そういえば夕飯は移動中に食べた果物だけだったなと、浮いているようなふんわりとした思考で更に少し歩いた。先導していたリトアニアが「ここですね」と立ち止まり、建物を示される。その店は二階が入り口になっているので、ぼくはなるべく威圧しないようににこやかに笑って、先に階段を上がるように指示をする。リトアニアも素直にそれに従い、ぼくたちはその店の入口の前に立った。
もう一度リトアニアがぼくの方へ振り返るので、何を躊躇うことがあるのだろうと思いながら、頷いて背中を押してやる。
押し開ける扉にリトアニアが手を添えた。ぼくはその腕にあった時計が目に入る。もうぼくがカリーニングラードに到着した翌日に日付は進んでいた。
こんなところで一人で飲んでる彼は、突然現れたぼくを見て、一体どんな表情をするだろう。やはり迷惑がるだろうか。……でも、それも最後には許してくれるだろうか。
早く彼の顔が見たいなあ。
リトアニアが扉を重そうに開け、一歩踏み込んだ。周りを一望して、再び歩き出したその足取りはとても軽かったので、ぼくはこの店ははずれなのかと少し残念に思った。
……けど、それもおよそ三歩。また急に足を止めたリトアニアが、一拍置いてからぼくの顔を確認した。
――い、いるんだね!
ぼくは思わず、まだ姿も確認していないのに舞い上がってしまった。
リトアニアが視線の流れを止めたところを見ると、本当に彼はそこにいた。まだこちらには気づいていないけど、ほぼ色を持たない銀髪は間違いなく彼のものだ。ノートパソコンを覗くために下方へ向かう真っ赤な瞳が、懐かしくて嬉しくなる。
改めて歩き始めたリトアニアの後に付いて進む。狭い店内の床は、よく磨かれたタイル調になっており、ぼくらの足音を軽やかに飛ばしていく。それでようやく気付いたのか、彼の頭がふわりと持ち上げられた。
……あ、あからさまに動揺している。二往復ほどリトアニアとぼくを見比べて、
「あれ、お前……こ、これは一体どういう……」
とリトアニアに問うた。
……プロイセンくんとしても、きっとリトアニアが嫌いだという以上に、ぼくと言葉を交わすのが嫌なのだろう。そんなことは知っている。ぼく自身に対しての嫌悪だとしても、打算的に隠そうとはしないから。
少しまた悲しくなったけれど、それでもその顔が見れてとても嬉しかった。ぼくは軽く挨拶をしているリトアニアの肩を叩き、
「うん、もういいよ。リトアニアはあっちで待ってて。何か飲んでていいよ」
と指示を出した。リトアニアにとっても、ぼくや彼と飲むよりは、一人で飲んだ方が美味しいに決まっている。
素直に「はい」と踵を返したリトアニアを追い、プロイセンくんは「は?」と不満気な声を出していた。まるで厄介事を押し付けるなよと責めているようだ。
……だけど、別にいいんだ。そんなことで落ち込むくらい、予想はしていた。それでも彼の顔が見たいと思ったから、ぼくはこうして遥々やってきたのだから。
ぼくはプロイセンくんの向かいに腰を下ろした。
「お、おい、」
視界でプロイセンくんの手のひらがひらひらとちらつく。
「そんなところに座っても俺様構ってやんねえぞ。今一人タイムだかんな」
その反応も予想していた。だけどめげずに笑顔を作る。
『今』一人タイムなら、後でなら構ってくれるってことだよね。
「いいよ。待ってる」
こちらに敵意がないこと……むしろ会えて本当に嬉しいことを伝えるつもりで、また綻んだ頬をそのままに彼を見ていた。気まずそうにノートパソコンに視線を落としていたけれど、数分もすればそんなことも忘れたかのように、いつもの騒がしい表情に戻っていく。
ぼくは適当にウォトカを注文して、また彼に視線を戻した。
どんなに眺めても、彼に飽きることはない。ノートパソコンに対して、一人で一喜一憂して十面相しているから。そう、この顔が見たかった。本当に嬉しくなった。
注文のウォトカが来ても、しばらくひたすらに黙ったまま彼を眺めながら飲んだ。こうして待っていれば、彼のことだ、きっと耐えられなくなって言葉を発してしまう。それが例えば独り言でもいい、ぼくがそれを拾って会話にすればいいだけのことだから。
ぼくはまだかな、まだかなというわくわくした心持ちで、彼のことを見守る。そうしたら、続いていたノートパソコンのキーを叩く音が、ふと止まった。ぼくの期待はさらに膨らむ。カチカチと数回クリックを鳴らし、何かを読むようにまじまじと画面を覗き込んだ。面白いネタでも拾ったのだろうか。
ふ、とその表情が弾け、プロイセンくんは顔を上げた。
「へへ! 見ろよ!」
ぼくは嬉しくなる。気持ちだけ傾けられたノートパソコンを覗き込むなんてもったいないことはできなかった。
「俺様の前にお前が現れたってブログに書いたら、次々と俺様への労わりのコメントが、」
突然何かに止められたように言葉を失い、驚きに「はっ」と声を漏らした。
ただそのコロコロと騒がしい表情を見ているだけで、ぼくは嬉しくてたまらなくて、緩んだ頬を引き締めなおすことができなかったから、彼に気づかせてしまったみたいだ。彼が今ぼくと会話をしていて、ぼくはそれがとても嬉しいこと。
「な、なんでもねぇよ!」
それでも嬉しさは収まらず、「いいよ、続けて」と笑うと「続けねぇっ!! 全く!」と大きめに息を吹き出した。
薄い色素の肌を持っている彼は紅く染まりやすく、それを実感させられるほどの憤怒を見せていたけれど、それすらもぼくからすれば『見せてくれて嬉しい』表情の一つなのだ。
とにかく気を取り直してまたパソコンに向き直ったプロイセンくんは、初めの仏頂面に戻っていた。だけど、それがまた同じ工程を通って緩むのかと思うと、尚更視線を外せなくなる。
ちらり。彼の視線がぼくのとぶつかった。
「……なんであいつ連れて来たんだ」
今回は早かったなあと思ったら、またさっきの嬉しさを思い出してしまって、頬が綻んだ。
やっぱり君から耐えられなくなるね。騒がしい性格だけど、人の表情をたくさん見れるぼくじゃないから、どれも飽きなくて好きだなと実感する。
「だ、だからなんだよ!」
ぼくの思考とは裏腹に、プロイセンくんはなぜか声を荒げた。
……今の状態が『一人で浮かれている』ということに、ここでようやく気づいた。
「なんであいつ連れてきておきながら俺様のことばっか見てんだよ! あいつと来た意味ないだろ! 他の二国はどうした!」
その疎ましげな表情が唐突に懐かしく思えて、少し切なさが入り込んでくる。さっきまでの嬉しさもまだ確かにここにあるのに。……どんなに他で見ることのできない表情でも、やはり疎ましく思われることに、ぼくは傷ついているのだろうか。
とにかく胸中を悟られぬように、得意のにこやかを絶やさないように答えた。
「ラトビアは面白いけど今の気分じゃないし、エストニアには雑務任せてるから」
確か、リトアニアにはそう嘘を吐いたはずだ。
「な、なんでそいつなんだよ」
その瞳を見て、何故かぼくの心臓はドキリと高鳴った。……その瞳の色に、ぼくは覚えがなかった。そんな視線を、向けられたことがない。
ぼくはとっさに、何故か、本当にぼくとしては珍しく、深く考えずに口が回った。
「こう見えてぼく、リトアニアのこと気に入ってるんだ」
こんなの嘘だ。リトアニアは他の国と変わらない。強いて言えば、かつて支配していた国だから、他の国より思い通りにしやすいと思うだけのこと。それ以外の意図は何もないのに、ぼくがとっさにそう嘘を吐いた理由は……
「それに、ここまで来といて君がいなかったら寂しいでしょう。ぼく、君ほど一人でいることが楽しいとは思えないんだ。慣れてはいるけどね」
その視線がヤキモチだったらいいのになあという、単なる希望だったのだが、思ったよりも腹立たしげに視線をまた画面に落としたプロイセンくん。それを見て、慌てて繕うように付け加えた。思った以上に動揺したように見え――
――あれ、おかしい。彼の表情から感情が上手く読み取れない。表情を読むのはうまい方だと自負はしていたのだけど……そんな表情は見たことがなかった。どうしたら目の前に座るプロイセンくんの本音がわかるのだろうか。
――彼は今、何を考えている。
「……本当は、」
ぼくはそれを探るべく、彼に一石を投じることにした。
「君も一人が楽しいって言って、一人になってしまう自分を守ってるんでしょう。君の口から一人が好きとは聞いたことないから」
ぼくとしては一石を投じたに過ぎなかった。
本当のところ、この件について彼がどう思っているのかはどうでもよくて、そんなことよりも、彼の今の本音を引き出したいだけだった。
目前に座るプロイセンくんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔から、だんだん眉間の皺が深くなっていく。あのころのような反抗的な目になるのかと思いきや、そうはならず、小さく息を吐いてから強かに声を抑えた。
「いや、ホントもう……お前にどう思われてるか興味ないし、帰ってくんねえかな。俺様のパーソナルスペース……」
そんな顔もできるのか。ぼくは釘付けになった。もうあのころとは、君も変わってるんだね。
だけど、いくら帰ってと懇願されても、ぼくだってここまで来たら、もっとその落ち着かない表情を見ていたい。
「いぃやぁだ。今日はぼく、君とすごくおしゃべりしたくなっちゃってさ」
言いながら、この店で彼に会えたときの喜びを意図的に思い出した。敵意はない、にこやかに、そばにいたいだけ。そう伝われと意識する。
だけど、彼の感情は見る見るどこかへ逃げ込んでいき、わざとらしく見下すように体勢を変えた。
「全くいいご身分だよなぁ。他国を私物化して振りまして。昔はあんなに弱虫だったくせに」
安い挑発だ。ぼくの気分を悪くしたいのだろうか。
そうわかってはいたけども、自分のことは好きになれなくて、でもそれよりも昔の自分はもっと嫌いで。あのときの自分への嫌悪感で、むっと口の端に力が入る。それを利用するように、よく訓練されたぼくの表情筋は笑顔を作った。
「あれ? プロイセンくんはあの頃が懐かしいのかな? 猛威をふるった強国だったもんね。現役が恋しいよねぇ。今の生活には不満があるんじゃない」
年甲斐もなく、挑発で返してしまった。全開の笑顔のままで。
「何言ってんだ。俺様はもう全部をヴェストに託して引退するんだよ」
対して、プロイセンくんは昔みたいに食いついて来なかった。……ぼくは表情筋による笑顔が虚しく感じてしまう。
もう彼の視線はそっぽを向いてしまい、笑顔を作っている甲斐が全くない。自分でもこんな笑顔を作るのは心地が悪いし、体力も気力も遣う。でも、ここでこの笑顔を崩したらいけないんだ。例え彼が見ていなくても。ぼくは自分を保つようにそれを続けた。
プロイセンくんは視線を強く一箇所に打ち付けていたが、それによってぼくは悟ってしまう。彼はとても動揺していた。
……ぼくに……『畏怖』している?
……こ、これは、良くない。
どうしたらこの空気から打破できる? どうしたらまた、持ち直せる。彼の気持ちを探って、自分の思考を巡って。
「ねぇプロイセンくん」
ぼくは手元にグラスがあることに気づき、大きな一口、酒を喉に流し込んだ。
よくウォトカは喉が焼けるようだというけれど、これがその感覚なのだとしたら、ぼくはとても好きだなと思ってしまう。遅れてぽおっと身体が暖かくなるこの感覚も、とても好きだった。
少しだけ頭が軽くなったぼくは、
「やっぱりぼくの家においでよ」
と放っていた。
そうか、そうだね。あのころはよかった。たまにしか会えないなら『嫌悪』や『疎ましい』という表情の割合が多くなってしまうのは当然だ。ずっと一緒にいれば『他』の表情だって、いっぱい見れるんだ。……見れていたんだ。
「まだ言ってんのか。そんなの断るに決まってんだろが」
軽くそう応えたプロイセンくんは起き上がり、対抗するように、ジョッキに残っていたビールを飲み干した。またそれをテーブルに置いたあと、乱暴に息を吸う。
「けっ、つまんねぇ夜につまんねぇやつとつまんねぇ話で、俺様まつ毛が全部抜けて胃に穴が開きそうだ」
その報告にぼくは「開けてあげようか? 穴」と冗談で返した。
百歩譲ってぼくと話すことがつまらないにしても、胃に穴が開くなんてひどい言われようだ。冗談だということを伝えるために掲げたままの笑顔に向かい、「そ、それも断る」と生真面目に返事をしたかと思うと、今度は唐突にリトアニアの方へ視線を移した。
「おいお前。お前も黙ってねぇでこいつ連れてどっか違う店行けよ。俺様の大事な一人の時間がだな」
二つ隣の席に、軽々しく身振りを付けて口を尖らせる。
けど、プロイセンくんがぼくの家に来るのを拒否するのと同じように、リトアニアもまた、その申し出は受けないだろう。……リトアニアは賢いから。
「知らないよ。よかったじゃない。ロシアさんとのおしゃべり楽しんで」 「け」
思った通り、つまらなそうにリトアニアは返し、それを見てさらに苛立ちを増したプロイセンくんも、身体の向きを修正した。
また無理やりぼくを見ないように、どこか違うところへ視界を追いやっている。ぼくと話すのはそんなにも『つまらない』のだろうか。ぼくは嬉しいのにと思ったところで、一方通行であることはすでに認知していたことを思い出した。
――『けっ、つまんねぇ夜につまんねぇやつとつまんねぇ話で、』
つい先程、彼が吐き捨てた言葉が、それはもうとても鮮明に、彼の声で再生される。
「……ねぇ、」
ぼくは彼にそばに居てほしいことを伝えたかった。彼を脅したりこき使いたいわけじゃなくて……せめて『友達』になりたいと。――なんだ、そんなこと、いつも言っているよなぁ。
ぼくが声をかけたので、プロイセンくんは耳だけを傾けてくれた。それで十分だ。
「一人はつまんないよね」
彼が見ていたその先に注目する。何を見ているのだろう。何を考えてるのだろう。
「ぼくもつまんないんだぁ。プロイセンくんがいないと」
「断る」 「やだなぁ。まだ何も言ってな、」
「断る」
「そう」
でも彼は頑なに、この気持ちを聞いてくれようとはしない。……ずっとそうだったから、動揺はなかったけれど。
けど今日は、もう一歩だけ踏み込んでみようかと思った。
「……なんで?」
その目を覗き込む。このときだけは、笑顔は忘れていた。ぼくは本当に知りたかった。
「は?」
釣られてぼくの方に顔を向ける。
今しかない。今聞かなくては。今、言わなくては。
「なんでそんなに拒むのかなぁ」
ぼくに思い当たる原因は、あのころの関わりしかなくて、
「あのときぼくはやれることはやったつもりなんだけど。……ぼくだってもらった国は大事だったし」
情けなくも弁明していた。でも、本当だ。ぼくだって彼が弱っていくのを、指を咥えて見ていたわけじゃないんだ。
少なくとも自分としては、それで彼を守れると思った。……結局は上手くいかなかったけど。
「教えてたまるか。その足りねぇ頭で考えろ」
あしらうようにそっけなく吐き捨てると、彼は先ほど空にしたジョッキを傾け、やはり中身がないのを確認し、高く突き上げてマスターに目配せをした。
――その頭で考えろ。
彼はぼくにその判断を託した。もしソビエトのころが原因ではないとしたら……一体何があるのだろうか。もっと前のことだろうか。それとも、根本的に視点が間違っているのだろうか。
ぼくを拒否する意図を考えても、他にはぼくの存在が嫌なのだろうかと悲しいことしか思い浮かばない。いっそ、当てずっぽうで答えて、正答を聞き出した方が早い気すらしている。
ふ、と、彼の薄すぎる色素の手指が目に留まった。なんと弱々しいのだろうか。あの頃よりもそれを強く感じた。
――あ、もしかして……
「……わかったぁ」
少しわざとらしくなったかなと懸念もしたけど、ぼくは声を張ってそう主張した。
「は?」
「だから、君がぼくを嫌がる理由だよ。あ、でもこれが正解なら、君は自分でもわかってないかもねぇ」
焦らすようにぼくは教えた。
ぼくが考えた理由がもしも正解ならば、彼はきっと自分では認められないだろう。
でもまるで図星を知らせるよう、プロイセンくんは素直に少しだけフリーズした。……そうだ、おそらく本当に彼は、自分でわかっていないんだ。ただ、感覚で嫌悪しているだけなんだ。
「どう? 君、ちゃんと自分でわかってる?」
得意気に追い打ちをかければ、呆れたと言いたげな表情を作られた。
「……あのな、んなことはどうだっていいだろ。お前のことなんか興味ねえ。嫌なもんは嫌なんだよ。……まぁ聞いてやらんこともないが」
「え?」
余りにも自信満々に否定するものだから、つい最後の一文を聞き逃すところだった。
別に惜しむことではないし、とは思ったけども、よく考えればこの場にはリトアニアもいる。ぼくの考えた理由は、例え本当じゃなくても、プロイセンくんのプライドを傷つけてしまうかもしれない。それを考慮すると、やはりここでは言うのは躊躇われる。
「……教えてあげないよ。プロイセンくん恥ずかしくて泣いちゃうし。あ、でもそれもまた一興かぁ」
笑ってみせる。主導権を手放さないように、威圧的に付け加えた。
もしぼくの考えた理由が本当だったら、どんなに嬉しいことだろう。本当にそうだったら、ぼくはもう少し自分のことが好きになれるかなあ。そう考えたら、ようやく自然と笑えた。
「は? こんなにかっこいい俺様が泣くわけないだろ」
自信たっぷりにそう宣言しちゃうプロイセンくん。ぼくは自分で正否を確認したいのもあり、お言葉に甘えて言ってしまおうかなと揺れる。
店員がプロイセンくんのビールを持ってきた。ぼくはここがタイミングかと思い、リトアニアを一瞥してみた。ぼくたちの話を聞いているのだろうか、そう疑問に思ったからだけど、ものの見事に目があった。……まあ、この距離なら聞こえていないほうがおかしいよね。
「……言っていいの?」
「当たってねぇからいいぜ」
一応最終確認で尋ねたけど、全くもって深く考えるつもりもなく、軽く答えられる。彼の望みならば言うしかないね。ぼくは用意していた言葉を、どう伝えようかと口の中で転がす。
……けど、変に工夫する必要もないか。
「君、ぼくに憧れてるでしょう」
ぼくの考えた答えを投下した。
どう? 合ってる?
プロイセンくんの表情の変化を見逃さぬよう、ぼくはしっかりとそれを見ていた。
しばらくの間、彼との時間が止まった。ようやく筋肉が反応する気配がしたかと思ったら、彼は勢い良く飛び上がり、ダンッとテーブルを叩いた。騒音と共に起こった突然の行動に、さすがのぼくも驚いてしまった。
「……はぁ!?!? ないッ! ないないッ!」
彼の動きが止まったのがわかり、その焦りようが面白くなってしまった。「ふふ」と口の端から声が漏れ、「そんな力いっぱい否定しなくても」と指摘が漏れたほどだ。
「でも無理ないよねぇ。ぼく、君くらいならどうにでもなるくらいの大国だし、ぼくのこと羨ましいんでしょ? 本当は」
彼の感情が余りにも暴れるものだから楽しくなり、調子に乗って続けた。プロイセンくんは勢いを殺ぐことはなく、「ち、ちがうってんだろ!」とまた怒声を張った。
「お、お前といると危なっかしくて!」
ふと、勢いを止めた。
「……な! なんでもねぇよッ!」
――『お前といると危なっかしくて』?
乱暴にそこに座り直した彼は、一体何と続けようとしたのだろう?
顔をその手で隠してしまって、もう意図を読むどころではなくなってしまった。
だけど、少しだけ期待がよぎった。背筋を撫でられたように、悦にも似た感情が伝う。
……その隠してしまった頭の中で、ぼくに見られないように一体何を守っているの? だらしなくまたほころんでしまった。
端正な指が少しずれ、そこから彼の瞳が覗いた。ぴったりとぼくの視線に乗っかる。
「お、俺様のこと、今でも大事にしてくれてるのはヴェストのとこの国民だし。……お前は俺様に興味なんかないんだろ。わかってるんだぜ」
さっきまでの声の張りはどこへやら、ぼそぼそと自信もなげに言葉を放った。なぜそんな大事なことを勝手に決めつけてしまうのだろうか。ぼくが彼を大事に思っていなかったと、どうしてそんな。
――否定してほしい? は、とひらめいた。
「なんでそういうこと勝手に決めちゃうのかなぁ」
確信が持てなかったので「はい」とも「いいえ」とも明言を避け、困った子だなあと、下げた眉のまま笑ってやった。
今までは彼のそういう言動に対する自分の感情の動きを呆れと見なしていたけれど、どこか本心では、彼に対して愛おしさを抱いているのではないかと心中が蝕まれていた。
――……でも、そうか。ぼくがプロイセンくんのことが大好きなのは、今に始まったことじゃない。ふとしたときに彼に会いたくなるのは、そういうことでしょう。
ぼくはここでようやく、妙に納得した。今までも、彼のことが特別愛おしかったのだ。
自問自答している間に、目の前に座っていた彼はまた勢い良く飛び上がった。ぼくもつられて顔を上げる。
「な! なんか暑くなって来たなあ!? ビール飲み過ぎたかもな!?」
目が半分も笑っていなかったプロイセンくんは、さっきよりもよほど顔が赤くなっていた。……か、かなり酔ってる……? ……でも目はしっかりしている……。
様子を伺っていたぼくに、その小綺麗な指先がぴ、と向けられる。射止められるようにドキッと心臓が跳ねた。
「と、とにかくもう帰れッ! 俺様にはお前と話すことなんかねぇからよッ!」
これまであくまで平然を装ってはいたぼくだ。けれど、くり返される彼の言葉に、そろそろ潮時だろうかと過る。見た感じでは、彼はさほど酔っ払ってはいない。ぼくの伝えたいこともおおまかには伝わっているのだろう。それでいて、『帰れ』と言っている。もう勘弁してくれ、と視線を逸らしたその瞳は雄弁に語っている。
「お客様、」
マスターがカウンターの中から制止をかける声で、二人して時間の流れに気がついた。力なくプロイセンくんはまた腰を落とす。
ひと目彼の顔を見たいと思ったぼくの願望は叶った。ならば、もう満足して帰るべきなのだろうか、引き際も大事なのは知っている。だけど、掴みどころのない悲しみがじわじわと侵食してくる。
……ぼくはこんなに、彼と会えて嬉しいのに。こんなに側にいたいのに。
「どうしたら君はちゃんとぼくを見てくれるんだろうね」
拗ねた子どもみたいな口ぶりになっていたのはわかっていたけど、これから潔く身を引こうと思っているぼくの最後の嘆きだ。これくらいいいでしょう。
思考を伴わず、ただ処理することを目的として、ぼくはウォトカのグラスを掴み上げ、一気にそれを口の中に流し込んだ。焼けるようなあのヒリヒリとした感覚が、思ったよりも長く続く。こんなにたくさんを一気に飲んだのは久しぶりかもしれない。
確か先ほど徘徊したとき、あの角を曲がったところに良さそうなバーがあったなあ。そこで飲み直そうか。……そういえばリトアニアもいたんだった。彼はもう帰そう、一緒に飲む気分にはなれない。
ぼんやりと脳内でぼくが話しかけてくる。
そのグラスに用がなくなるとぼくは、惜しむ気持ちもあるわけがなく、軽く立ち上がった。……強いていうなら、プロイセンくんとはもっと一緒にいたかったけど。もう、いいんだ。
「……なんだか悲しくなってきたからもう出るね。リトアニアも可哀想だし」
そうして一歩踏み出そうと身を傾けると、視界の端に釘付けになった。それを視界の中心に戻す。
ドクドクとまた脈が押し広げられる激しい感覚が襲う。一気に取り込んだウォトカのせいだろうか。それとも、今目の前でぼくを引き止めようとしている、一対の綺麗な瞳のせいだろうか。
ぼくを追い立てといて、なんて顔をするんだ。名残惜しそうにこちらを見ている瞳、これはぼくの勘違いではない、と、思う。
「今になってそんな顔するの。ひどいよ」
その初めましての表情が嬉しかったけど、それでも『帰れ』とぼくをせっついたのは彼自身で。一体彼はぼくに何を望んでいるの? 帰って欲しいの? いてほしいの?
もう飲み直す気で立ち上がっていたぼくは、後に引く気はなかった。いてほしい、一緒にいたいなんて彼が思ってくれるとは思わないけど。もしその視線が本当にそういうことなら。
ぼくは勢い良く彼の胸ぐらを掴んで、引き上げた。その耳に一直線に唇を当てる。彼の髪の毛が香りとともに、ふわりと鼻を撫でた。
――「二四六通りを左に曲がったところにあるロシアンバーで、一人でこれから飲むよ」
来てくれると嬉しいな。それは伝えなかったけども。
鼻や頬に当たる毛先がくすぐったくて、早々にこの手を放した。
「じゃぁね」
あえてその後の表情を見ないように、急いで視線をリトアニアに飛ばす。
「待たせてごめんねリトアニア。出よう」
慌てたリトアニアが騒がしくぼくの脇に控えた。
自分でしたことなのに、身体を打ち付ける脈が定期的にぼくの五感を支配する。プロイセンくんの重さや匂い、久しぶりに実感した。頭がくらくらして、まるでのぼせちゃったみたいだ。
「あ、勘定」
「適当に済ませといて、ぼく外で冷たい空気に当たってくるよ。のぼせちゃった」
今また彼を視界に入れたら、本当に我を忘れてしまいそうだ。余裕を保つために、早々に店を出ようとリトアニアに全部を投げて、よく冷えた夜空の下に出た。次のお店までには、少し頭を冷やそう。
――彼、来てくれるかな。
ぼくが帰ると宣言したときの、あの綺麗な二つの瞳がまた過る。
――来て、くれるよね。
抑えたいのに、期待に胸が膨らんでもういっぱいいっぱいだった。
おかしいな。店を出ると決めたときはあんなに悲しかったのに。……楽しみだなあ。
あとがき --------------
ろしちゃん視点でした!
いかがでしたでしょうか!
可愛くて、モノローグだけなら乙女なろしちゃん大好きです。
かわいすぎかよ。
かわいすぎだよ。
もっともっとわがままな思考にしたかったんですが、なんか丸くなってしまった。
あ、自分勝手&わがままはわざとです笑
あと、このろしちゃん視点の話は、
ろしちゃんにプロイセンくんのことを『彼』と呼ばせたかっただけな気もしている。
意中の相手の「彼」呼びが大好きです。
本人はただの三人称のつもりで使ってるんだけど、それに含まった意味合いを深読みしてニヨニヨしたい。
最後はプーちゃん視点です!